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詩人の危機 : アイヒェンドルフ文学における「情 熱」のモティーフ

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詩人の危機 : アイヒェンドルフ文学における「情 熱」のモティーフ

著者 吉田 国臣

雑誌名 星薬科大学一般教育論集

号 17

ページ 1‑19

発行年 1999

URL http://id.nii.ac.jp/1240/00000206/

(2)

人の

危 機

イヒェンドルフ文学における﹁情熱﹂のモティーフー

田 国臣

1 イヒェンドルフの散文による作家活動は一八〇八/九年頃に成立したといわれる﹃秋の惑わし﹄︵O︷①Np︒虞ぴo苫=日

寓o巳留︒︶をもって始まる︒友の許嫁に一目惚れし懊悩の余り狂気に陥るという筋書きの︑いわゆる﹁メールヒェン﹂と称

されるこの作品は︑一見ティークに倣った習作的な創作童話のような印象を与るが︑作家の深い根本課題を隠していたの

はないかと思われる︒そのためか作者は︑解放戦争を間に挟む約十年後には再び同じ﹁情熱﹂とそれが生み出す妄想の

題を取り上げ︑更にロマン主義的な要素を十全に盛り込み︑装いを全く新たにした形で﹃大理石像﹄⌒O①ωζ碧日o許ま︶

を発表している︒その間に作者は人生の辛酸を経験しただけではなく︑F・シュレーゲル夫妻の薫陶を経て文学活動の上

も︑ロマン主義の本質について検討を重ねつつ洞察を深めていった︒その経緯は︑﹃予感と現在﹄︵﹀ゴ巨巨σq§OO︒oqΦ⇒−

乞碧ごなどにも辿ることが出来るが︑今回はシンポジウムのテーマ﹁複合体的文学現象としてのドイッ・ロマン主義文学﹂

という側面から︑﹃大理石像﹄の持つロマン主義文学としての特徴を検討してみたい︒その際に︑まず﹃秋の惑わし﹄執筆

要 因を探り︑次いで﹃大理石像﹄との内面的なつながりと︑ゲーテの﹃若きヴェルテルの悩み﹄e合↑︒置窪△8言コoq︒づ

≦︒﹁日o﹃°︒︶との関連を述べて︑青春期特有の﹁情熱﹂と︑それが生み出す﹁妄想﹂の文学表現の︑精神医学との関連性を

(3)

2 討する︒なぜなら︑これらはアイヒェンドルフの文学観に深く関わっていると論者は思うからである︒最後に﹃大理石

像﹄の中心に位置する連詩﹁神々の黄昏﹂︵一・二︶︵Oo︑吟甘﹃念日日︒﹁§°q一\N︶を取り上げる︒その関連で前世代の古典主

直近の前期ロマン主義の作者なりの受容と深化︑言い換えれば作者の観点と他の作家のそれとのいわば複合的な状況

にも触れることになるであろう︒なおアイヒェンドルフの散文作品の全てに亘って詩が挿入されているだけでなく韻文調

体が随所に見られることからいって︑その意味でのジャンル間の︑また形式上の統合といった面もテーマ上重要であ

るが︑その都度触れるに止めたい︒

  さて﹁秋の惑わし﹂が成立したと思われる頃アイヒェンドルフは親しい文学仲間のレーベン伯爵に宛てた手紙で︑﹁私は

自分の感じたこと︑愛したこと︑考えたことを︑それ自体として直接表現しないで︑自分の自由な感興をある種のイデー

させ︑また︑そのイデーに従ってその感興を私自身にも他人にもわからないほど普遍化することに努める余り︑あ       ②らゆる根源的な自由から遠ざかってしまいました﹂と反省的なことを述べている︒これが具体的に何を意味するのかは

はっきりしない︑しかし前期ロマン主義の理論や綱領に翻弄される当時の作者の迷いを物語るとともに︑一方ではレーベ

響から脱したいと考えていた詩人の︑遠回しな批判が篭められていたこと︑そしてもっと自分の体験や率直な気持

ちを表現する作品の形式を求めて模索していたことなどが推測される︒いずれにせよ詩人が文学修行の過程で︑一つの転

機にあったことは確かである︒詩人の心に響勃たる思いはあっても︑それを具体化するには未だ曲折があったようだ︒そ

は一体詩人はどのような体験を持ち︑それを如何に表現しようとしていたのであろうか︒

この習作的な散文作品には﹁秋のメールヒェン﹂︵O①゜︒民︒各゜・骨−ζ餌宮oゴ①づ︶と名付けられた構想が存在する︒︵資料〒一︶

その先頭に記された﹁騎士の歌﹂︵巴︒△△oω力葺零ω︶なるものは︑F・ヴェシュタの報告によれば﹁メルヒェンのための秋

歌﹂︵=o書゜・法o●o汀昌N已∋呂位﹁oゴo旦︵資料︹ト︒︶であるが︑奇妙なことにこの詩は作品の中には採り入れられていない︒

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  秘密はどうやら詩の中の一節﹁あこがれの炎がどれほどのものか︑わたしには本当のことが︑どうしてもいえないの

だ﹂にあるよ嘉.同上の詩の︸削半には︑何も言口わずに自分の許を去.てしま.た恋人への憧れを表現する爾が先行し

フ ている︒一方構想において作者の手で一旦は削除された﹁彼は狂気に陥る﹂という部分が作品の重要なファクターとして

イ 改めて採用される︒これらの関連はどうなるのであろうか︒

脳   周知のことであるが︑この処女短編の成立の直前にアイヒェンドルフはハイデルベルクでその青春の日々を過ごしてい

る︒故郷ルボーヴィッツの周辺の情景を彷彿させるハイデルベルクや近郊のシュヴェツィンゲンの庭園などが︑その後の

品のモデルとして描かれていることは良く知られている・しかし上記の詩の舞ム︒に三ている濯L︵≦°量や﹁庭園﹂け ︵○碧冨旦のある﹁場所﹂︵︒力件︒一一⑦昌︶は一八〇七年八月二十三日付けの日記に始めての記載が見られるロールバッハ村にあった︑辺境伯夫人所有の小庭園であったかもしれない︒アイ・︑ンドル・の作口器舞口を詮索する・﹂とはその性格からいっ

戎  も余り意味がないのだが︑この地の出身のカタリーナ・バルバラ・フェルスターが身を寄せていたマンハイム近傍のパ

ド ン屋の親方J・J・フェルスタ!の家に︑アイヒェンドルフ兄弟が下宿していたことで︑それなりの意味を増してくる︒

日記にただKとだけ記されている過ぎないケートヒェンとの短く激しい恋は︑詩人の生涯に︑はかりしれない余韻を残し胃  る︒学生と下宿屋の手伝いをする娘︑貴族と市民︑カトリックとプロテスタントの違いなどの︑かずかつの障害が︑

就 を阻んだことは想像に難くない︒しかし多感で誠実な詩人の心の葛藤は︑あの名高い﹁壊れた指輪﹂︵﹈︶器No︹

機       ③危 宮o︒ゴ︒コΦ知日oq一︒亘の成立史をめぐる諸研究に詳細に辿られているので︑ここでは省略したい︒ただこの詩は﹃少年の魔

  法の角笛﹄の影響下に巧みな偽装がなされていたために長く真相が究明されなかったが︑恋の結末に寄せる詩人の悲痛な

叫びは同上の詩の最終節﹁死ぬのが一番だ︑そうすれば胸の痛みも鎮まるだろうに﹂︵一6口目O︒宮.①日=oひ゜・甘5暮雲ぴo白\O①

3

  乞腎.°︒①象︒日日巴︒・巳こや︑さらには同じく﹃予感と現在﹄で主人公フリードリヒが愛しながらも心の繋がらないローザの

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4 寝顔を見ながら歌う︑後に﹁嘆き﹂︵丙一①σqo︶と題された詩の最終詩節︑

あらゆるものがばらばらに散る   ⊂口臼①=o⑩障詳No房茸o已Φ丁

は美しく紅をさす       ψカ一〇﹂︒・吟︒・o°・oま昌已コロ﹃o戸

  それなのに私の心に喜びはない   冒古ゴpぴ.巳︒葺ρ≦①切日合守︒已9︑

  ああ︑いっそ死んだほうがましだ  ﹀合≦腎.8ゴ一活ひΦ二〇注

と符節が一致するだけではない︒o︒冨芭゜・o︒︒合O口已白口﹃o戸なる表現が一八〇八年三月二十七日付けの日記のO①目       ω

ω合口o一一日o︑σq匡o冨﹇目9兄o宮σ①o﹃:問o夢F°・︒ゴOロ゜と符合している︒このように︑アイヒェンドルフのケートヒェンに

寄せる思いが︑いかに深刻なものであったかについて︑間接的に窺わせる表現を︑その後の作品に辿ることも可能である︒

この持情詩は﹃予感と現在﹄の中で初めて公表されたわけだが︑それよりも更に早い段階で成立していた同じ心境を吐露

した前出の﹁メールヒェンのための秋の歌﹂は︑﹃秋の惑わし﹄に挿入するにしては︑余りにも生々しく切実な響きがあり︑

作 品の形態にそぐわなかったのではないだろうか︒また逆の観点からみれば︑﹁誰にも本当のことはどうしても言えないの

だ﹂と言っている作者としては︑自己の感情や葛藤を出来るだけ率直に盛り込みたいと願いつつも一方で自分をさらすこ

とに慎重な配慮がはたらき︑時代を中世の十字軍遠征時に取り︑メールヒェンのジャンルを利用するなどして少しでも自

己の個人的な体験をさらす要素を薄めようとしたのではとも推測される︒しかし作品の内実である胸を焦がす﹁情熱の炎﹂

をどのように表現するかは作家として避けて通ることはできない関門であった︒そこで︑自身の境遇とは異なるが︑越え

ることが極めて困難な障害として︑﹁ヴェルテル﹂以来︑今では新味のない友の許嫁という設定にし︑さらに行き場のない

公の心の煩悶をして︑狂気に至らしめるという結末を用意する︒その際作者は愛欲に起因する願望が描く錯覚と現実

との区別が付かない状態︑いわば病的な幻覚体験としてライムントが懊悩の末にベルタの裸身を幻視する状況を描いてい

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  ることは注目に値する︒

   その狂気に至る心理描写には︑新しく学問として発足した精神医学︑当時は精神療法︵勺o力司O=一〇唖OゴO﹈︐O﹃③O一〇︶の最新理論

      ⑤   との精密な一致が近年指摘されているが︑そうだとすれば当時としては斬新な異分野間の融合ということができよ

イ う︒実際ハイデルベルクに入学する以前の一八〇五年ハレ大学在学中に﹃精神治療法の促進﹄︵ロ︒一け品σq︒N巨切︒8ao﹃已⇒oq

 o日魯内巨日︒日oO︒①己冨町︒宮゜・合︒日乞ΦσQ⑦︶などの著作のあるJ.C.ライルの講義に出席していたばかりか︑頭骸学で

判のF・J・ガル教授の講演会で聴講に来ていたゲーテを初めて目にしたのも当時のことであった︒また当時の精神医

はシ・リングの影響が極めて強く・その世界観にもとずく﹁感情﹂︵・°﹄と﹁精神﹂︵・°亘の健康に対する

け ﹁霊﹂︵︒︒oo一〇︶の意義や︑その霊との﹁つながり﹂︵やo﹇后コoq︶が絶たれることによって精神の病が生じること︒霊から精神を引き離す・﹂とが妄想につながる︑という観点が間接的に作者に影響を及ぼしている・﹂とも蔓られるが今は深入りは避け

文 こ︑°

フ  ナいし

D

なお補足するとライムントの狂気に関わるのはタンホイザー的なヴィーナスの山を連想させる妖魔であって未だヴィー

ナス像そのものが生命を得るというトポスは明確には現れていない︒しかしすでに妖魔の支配圏を象徴する﹁魔法の指輪﹂

 ︵N①已ぴoヨづぴq︶や水鏡に映る自身の姿に見とれる性愛のナルシシズム的な要素は表現されている︒

   さて﹃大理石像﹄の前史ともいうべき﹃秋の惑わし﹄の成立をめぐって作者の個人的な体験との関連を探って来たが︑

年の歳月を経て新たな形で創作に向か・た詩人の新局面とは一体何だ三のだろうか・さきに触れたように・この間に

者は長編小説﹃予感と現在﹄を上梓し︑F・シュレーゲル夫妻の知遇も得ている︒また詩人は﹁秋の惑わし﹂のウバル ドの如く十字軍ならぬ解放戦争に出掛けた後に今では結婚もし官途を求めて奔走していた︒そして多忙な日常の合間に詩

5

人 は﹁過去へ︑文学の故郷への散策に出たいのです﹂と﹃女性年鑑﹄に作品掲載の労を取ってくれたF・ド・ラ・モット・

(7)

6 フケー宛てに述べ︑かつ﹁大きなフレスコ画を見るときにはその細部の荒いタッチを忘れるたあに︑適度な距離を置いて         ⑥ることが必要です﹂とも述べている︒従って青春時代の回顧的な展望が作品創作の意図であったと思われる︒なおフ

ケーは﹁わたしの思うところでは︑若い婦人たちの眼に触れるですから︑余りにどぎつい色合いの表現を二箇所ほど和ら      mげられたらどうでしょう﹂と微妙な注文を付けているが︑実際には何処を︑またどのように修正がなされたのか残念なが

ら今となっては判明しない︒また﹃大理石像﹄には他の作品とは異なり比較的多くの知o∋①巳ζきo⇒乙力09︒・已oゴ↑と題さ

た一連の構想断片が残されている︒そのことからもかなり入念な準備がなされた事情が窺われる︒ヴェシュタやK・      ⑧ポールハイムがノヴァーリスの﹁青い花﹂との関連を指摘するこれらの草稿はあくまでも構想に過ぎないが︑作品と内容

的にパラレルな関係にあるものと言える︒特にハイデルベルク時代の詩群︑特に︑﹁春の祈り﹂︵ウ巳ゴ一日oq︒・昌合6茸︶︑﹁マ

リア﹂︵ζ自︷①︶などを思わせ︑芸術とりわけポエジーにおいて恋人が︑春の景観と一体化した境地を明確に示している︒さ

らに生々しい体験が時を経て詩人のこころの中で発酵し︑詩神ムーゼの姿をとって甦る過程を明確に示唆し︑詩人の成熟         ⑨ を物語ってもいる︒郷里での﹁青い瞳の﹂ハーマン婦人に対する淡い思慕やケートヒェンに寄せる熱い情熱の炎が詩

人の心のなかに封印され変容し︑何時しか自然そのものの魅惑と一体化していく状況を暗示している︒また草稿に添えら

れ た﹁マリア憧憬﹂︵ζ知ユoう︒りoゴコ゜・已o宮︶という表題はキリスト教世界を暗示している訳で﹃大理石像﹄のヴィーナスとは

対立的なものを指向したものに思われるであろうが︑﹃大理石像﹄の読者はこの作品が︑これら二つの世界観にゆれる青年

理 を課題としたものであることを先刻ご承知と思う︒

ところで﹃大理石像﹄なる作品は散文と詩が見事にまで統合されたという点でも恐らくは中小合わせて十編ほどの作者

ノヴェレ作品全体の中でも白眉に数えられるものである︒物語は登場人物たちの歌う九編の歌によって進展していく︒

またハインゼの﹃アルディンゲーロ﹄︵>a日σqゴ竺o︶から︑b︒冨づ8這一〇茸P田oユoの名前や筋書きの一部を借りてはいるも

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の︑極めて単純化された20<o=o白−日曽90白の形式内で︑美学的かつ芸術論的な︑更には宗教的な省察を誘う契機を︑

それとなく忍ばせる点で︑ノヴァーリスの﹁青い花﹂に連なるものといえる︒まずもって同じく時代を特定化せず︑主人

フ 公のフロ!リオは漠とした憧れを抱いて旅をする詩人肌の青年という設定である︒またルッカという古典古代の文化とキ

イ リスト教文化の融合するイタリアの古都が舞台であるのは︑﹁アルディンゲーロ﹂の場合と同じである︒町の入口でふとし

既  偶然から行を共にしたフォルトナートという詩人の誘いで町の人々の夕べの饗宴に招かれ︑先刻見かけた可憐な名も知

らぬ乙女に捧げる乾杯の歌をもって恋愛物語としての枠が展開し︑続いてフォルトナートがギターを手にして歌う︑十詩

﹁ 節の二つの長詩がこの物語の本質である詩的想像力の産みだす世界内での﹁人生﹂︵09↑︒ぴ︒旦という大きな考察の対象

樹  を展開する頃には︑あたりは既に静寂と夕闇に包まれて自然の冷気と小川の音がいよいよ 口同まってあたかも星空に古典古

駒  代の神々の姿を映し出す舞台を設定するかのようである︒その晩にフローリオは乙女の夢を見︑夜半に目覚あた彼は夜の

放  外の散歩で池のほとりに立つヴィーナス像に行き遭う︒そのようにして物語はヴィーナスの︑乙女の︑フォルトナート

ド とフローリオの交互に歌う歌とともに織りなされるが︑今回はシンポジウムのテーマとの関連でOO口巽9日ヨo﹃⊂コoq−一を

 中心に扱うことを予めおことわりしておきたい︒

詩の内容に触れる前にアイヒェンドルフが習作﹃秋の惑わし﹄で試みた︑青年期の﹁情熱﹂のもたらす危機と︑その課 持つ意味を更めて検討したいと思う︒なぜならその延長線上に﹃大理石像﹄があるからだ︒そこで視点を明確にする

危 ために︑以下の三点を軸に検討する︒

両性の関係﹂︵O◎O×二①一﹇件餌吟︶の描写︑つぎに妻想L︵壽ゴコ・カ一5ロ︶と﹁情熱﹂︵↑・︷︒・︒⁝ずき︶について︑最後に﹁主

   観の横溢と詩人の危機﹂の関係である︒まず最初に性的な特質の問題をを考えてみると︑アイヒェンドルフの作品に共通

7   して言えることだが︑主人公の女性と男性の出会いの状況は暗示的ではあるが︑極めて類型的に描かれる︒﹃秋の惑わし﹄

(9)

8 おいてライムントはベルタを一目見たときに恋情に囚われる︒同じく﹃大理石像﹄の冒頭でもフローリオは羽根突きに じていた乙女らの一人ビアンカに出会ったときすでに心惹かれている︒そして暗く燃えるような眼差しを送る乙女の名 もまだ知らずにフローリオは︑たまたま招かれた夜会で再び乙女に出会い︑即興の歌を捧げると︑その赤くもえる唇に      ooくちづけする︒いわゆるコ目惚れLだがH・アイヒナーなどは純粋な﹁性的衝動﹂︵︵︸Oω6ゴ一〇〇ゴみの件﹃一〇ぴ︶と見倣している︒

ところで﹁予感と現在﹂でフリードリヒがローザの視線に出会ったときに︑彼は深い戦きが身体の中を走るのを感じ︑﹁そ

しが花咲く驚異の国と太古の記憶と未知の願望をふくんだ一つの新しい世界を自分の心の中に開いて見せてくれた      ooような気がした﹂と表現される︒この﹁太古の記憶﹂︵已邑冨国ユ弓o日旨σqo⇒︶なるものはユング的な意味での人類の原型

的な記憶かもしれないが︑まず第一にフロイト的な意味での︑幼時にまで遡る無意識の性的な興奮状態を暗示する表現と

して︑アイヒェンドルフの小説にはヴィーナスの誘惑の形で象徴化されて度々登場する︒﹃大理石像﹄においてもフローリ

オが生命をおびたヴィーナスに出遭ったのち︑すでにいつか︑少年のころに︑どこかで会ったように思いながら︑どうし

もはっきり思い出せないと思う︒そしてまたその婦人の館を訪れたとき︑その記憶について尋ねると︑婦人は︑﹁だれも

が︑私を一度は見たことがあると思い込むのです︒なぜって︑私の面影は︑たぶんすべての若者の夢の中に灰かに現れ︑

       カ      カ       ロ      ロ 開くのですから﹂と答える︒L・ピクリークは︑これらの表現に革命的な新しさを指摘した︒というのは︑彼によれば︑

十八世紀当時の考えでは︑エロスの力は外部からの訪れとして体験されるものだからだ︒つまり︑性の衝動はいわば感覚

事柄なのである︒一方︑アイヒェンドルフが性衝動を︑すでに幼時に心に具わっていたものが︑外的刺激に触発されて 中から発するものとしたことに︑現代の深層心理学的な意味での新しさがあると主張したわけである︒この点をアイ       ooヒナーはヴェルテルの描写と比較して強調している︒確かにヴェルテルがロッテと恋に落ちる過程では精神的な交流が優 していて性的衝動は直接関与していない︒少なくとも描写上は︒出会いの場面ではロッテが母親代わりに弟妹たちの面

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   倒 をみている︑その甲斐甲斐しさに心打たれる︒そしてヴェルテルはロッテの精神の現れである﹁言葉﹂に感動する︒﹁彼

何かを言早つ度に︑新しい魅力を発見kその表情か薪しい精神の輝きが送り出る三に驚嘆ξ︑たあのク︒プ

トックの詩に共感する場面を思えば二人が愛し合う過程そのものは︑精神的心情的に描写されていることは明確であ

イ る︒ヴェルテルは彼の精神が感嘆する対象を愛するのだ︒つまりヴェルテルでは︑高貴な男性は高貴な婦人と愛し合うと

聴  う︑当時の社会通念に沿っているという訳だ︒ヴェルテルが発表された時の世間への言わば革命的な反響はいかにも大

きかったにせよ︑十八世紀における両性の関係にとって︑ヤコービのボルデマールにおけるように︑精神の愛と感覚の愛        09﹁ は相容れない︑というのが︑当時の基本的な通念であったようだ︒

け  アイヒェンドルフはそれでは︑ケートヒェン体験をどのようなものと考えていたのだろうか︒身分違いの恋であったた に︑上記のような通念からすれば戸惑いがあ・たかもしれない︒しかし自己の心を︑虚心に振り返ると性の衝動と精神

放  的な愛との葛藤に違和感を感じて︑その違いが何処に根ざしているのかを究明したいと思っていたのではないだろうか︒

ド そこで﹃秋の惑わし﹄ではヴェルテルの枠組みを自己の抱える問題の所在を探るのに適した設定に置き換えて︑形は異な

 るが︑突然に愛する対象を失ったとき︑同じく﹁情熱﹂というものの生み出す﹁病﹂の秘密を解きあかしたいと願ったの

カ ある︒それはあくまで自己の問題設定に適した形ではあるが︒

   ﹁秋の惑わし﹂のベルタがウバルドの妻となって子供を腕に抱き︑もう一人の手をひいて︑去りゆく青春の散り際の花の  ような︑丈高く美しい姿を現したとき︑ライムントはひどく動揺した様子であった︑とのみ述べている︒母性の輝きを加

えたベルタの容色の変化︑或いは移りゆく自然の無情を強調しているかに田心えるが︑むしろウバルドの心を占めているの

春の盛りにあるベルタの姿のみであったことを明らかにするためと考える︒つまり現実ではなくおのれの心のなかに

9 として根を張る幻の像である︒精神が外的な刺激に触発され︑内面の性的衝動が誘発され︑対象の実態をを離れて自

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10 己増殖的に︑増幅されるときに︑対象の非人格化とともに︑性的な欲求は危険な妄想に発展してゆく過程をアイヒェンド

フは当時の精神医学の記述に沿うように詳述していく︒﹁大理石像﹂においても全く同様の過程の描写がある︒フローリ

るビアンカは何時しかセイレーンの姿に変容している︒やがて目覚めているときにも彼の内面の状況は夢見 地の状態に支配され︑彼の心はビアンカの姿を﹁いつしか不思議なことに︑かつて眼にしたことのないような︑はるか

に美しく︑素晴らしい姿につくりかえていました﹂と記述される︒少女ビアンカの記憶は性愛に刻印された憧憬の化身で

ある別の女性に変容しているのだ︒﹃秋の惑わし﹄において作者は騎士ライムントの妄想と狂気の発現に秋の妖魔を介在さ

た︒一方﹃大理石像﹄では直接狂気のモティーフは出てこないが︑妄想とメランコリーに至る描写がある︒そこにヴィー

ナス像が介在するのだが︑それに先立って過度に主観的な空想に浸る青年の嗜好の問題が提示される︒作者は自己をも含

同時代のロマン主義詩人の傾向にもこの主観の横溢を体験し︑文学的に造形化を試みたと思われる︒

さらに作者は前世代の作品﹃ヴェルテル﹄に︑その先駆的な表現を見いだしている︒︵資料自を参照︶その氾濫する激情      06

陥る絶望は︑まさにヴェルテルの言葉通りに﹁死に至る病﹂︵丙日昌江︒=N已日↓oO①︶と思われた︒この病の原因で

あり毒を含む病巣は︑﹁あの主観的な感情を野放図に助長すること﹂にあると述べている︒彼はさらに︑主人公の﹁破滅の

因ははロッテでも︑宿命的な社会状況でもなく︑思い上がった尊大な感情の専制が全てに行き詰まったことにある﹂と

している︒この関連でアイヒェンドルフは後年﹃ドイッ文学の歴史﹄のなかで﹁感傷主義﹂︵国∋U⇒昌q°︒①日オ9でo力o葺一・       ⑰日︒巳巴︷庄Cの当時の文学傾向の中心に︑ヴェルテルを位置づけたのだが︑同時にそこに︑自己陶酔のナルシシズムと破滅

的なディオニュゾス的要素の表裏一体化した状況をみている︒後者は後に﹁己の心に潜む獣に気を付けよ﹂と言う﹃デュ

ランデ城﹄の主題にも繋がる︒しかしここではアイヒェンドルフが﹃ヴェルテル﹄から引用して述べている﹁自分の心を

気の子供のように扱う﹂こと︑自己を甘やかすこと︑つまりはナルシシズムに注目したい︒アイヒェンドルフはさらに

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く内面に︑つまり無意識の幼時体験にまで遡及してゆく︒それはやがて人間心理の神話的な表現に行き着く︒フローリ

オが池のほとりの月光を浴びた大理石像を眼にしたときそのさまは︑女禦た.たいま波間から姿をみせたばかりとい

フ う風情で︑酔いしれた水面が︑池の底から静かに花ひらく星々の間にうつしだす︑おのが美しい面影に︑みずから胱惚と

      8イ して見とれているかのように﹂思えた︒その陶酔状態をアイヒェンドルフは次のように表現している︒﹁フローリオはじっ

既  と見つめたまま︑地に根が生えたように︑そこに立ち尽くした︒というのは︑その面影が︑彼のながいこと捜し求あてい

 た︑そしていまにして突然それとわかる恋人のように︑あるいは︑昔の少年時代の︑あの春のゆうべや夢見こごちの静寂

﹁ のなかから生いたつ魔法の花のようにふと思えたからである︒見ればみるほどに︑いっそう︑その情のこもった眼は︑ゆ

け るやかに開いて︑唇は彼をむかえるようにうごき︑そしてここちよい歌声にも似て︑その美しい体からは︑あたかも︑温 命が花開くかのようにおもわれるのだった︒幻惑と憂愁と︑そして悦惚とに身をゆだねて︑彼はながいあいだ眼を

む・たままでい㎞﹂とある・さてアイヒ・ンドルフは二かのようにおもわれるのであ・たLという表現を使用すること

ド で︑大理石像の生命化にはフローリオの内面の心理過程が関わっていることを示唆する︒また﹁幻惑と憂愁と︑そして胱

惚とに身をゆだねて︑彼はながいあいだ眼をつむったままでいた﹂ということは︑フローリオがいまだ主観的な幻想の世

詞  界に引きこもり︑現実の世界には盲いていることを示している︒ここにアイヒェンドルフは︑過剰な想像力に直面する詩

危 機を見ている︒そしてこの問題を作者は物語の中心に詩の形で嵌め込む︒

 それは吟遊詩人フォルトナートが︑酒席で歌う即興の歌である︒この歌はビアンカの面影に囚われていたフローリオの

に︑例の﹁太古の記憶﹂を呼び覚ますきっかけとなる︒と・﹂ろでフォルトナーがフローオにはじめて出会ったとき    に︑その 洋とした憧れを抱く心の状況を察知して︑彼に﹁若者を二度と生きては帰れぬ魔の山へ誘い込む︑不思議な笛

11 き男に用心なさい﹂と警告を与えている︒アイヒェンドルフは作品の構成上重要なファクターとして︑古い民間伝承を

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12 り込んでいるのだが︑さらにもう一つの要素として︑E・W・ハッペルの編集した十七世紀の説話集から︑幽霊話を採

用することで︑いわば小規模の﹁ファウスト﹂的な流れに沿う作品の成立を可能にしている︒つまり古い神々の力を復活

させる機縁を模索していたのである︒しかし作品のダイナミズムを支える一番重要な要素は︑何といっても︑フォルト

ナートのこの歌である︒この十詩節ずつ二つの詩の草稿には﹁人生・ひとつの幻影﹂︵O①切↑︒ぴ︒ロ﹄日︒≦︒日旦なる極めて

示唆的な表題が冠されている︒後年﹁神々の黄昏﹂︵Oo︐口︒己餌日∋Φ巨白σq一\旦と改めて表題を付けられたものである︒この

詩の中には︑アイヒェンドルフの個人的な内面の葛藤が神話的次元にまで一般化されているだけに止まらない︒先立つ時

代の傾向︑特に文学的な潮流に対する詩人なりの態度表明が折り込まれている︒レーベン伯爵との交流が密であったハイ

ク時代にはアイヒェンドルフも何方かと言えば汎神論に近いノヴァーリスに心酔して︑異教的な要素の影響が濃

厚なマリア讃歌を数多く書いていた︒したがってノヴァーリスの影響は当然であるが︑しかしOo︐口巽島日日⑦日ロ⑯︵一︶に

おいては︑古典古代の神々は︑作中の﹁仔情的な自我﹂︵94︒ピ司一一ω合o一合︶が︑こころの深層を過去にまで遡って描く幻影       伽

世界に登場する︒まず導入部では﹁わたしの身も心も震わせる/この明るい響きは何だろう﹂︵≦四⑩民一日σqけ日障ωoゴo﹂・

汀﹃\O巨oゴビ︒已ωoロ已づO°力日口∨︶と音響が自我の内部に浸み込んで︑その憧憬を呼び覚ます︒そしてロマン主義的な主観性

を帯びた詩的な自我は︑自己の自閉的かつ孤立的な状況を﹁高い山々の峰の上に/ひっそりと降ろされた心地して﹂︵司︷o

ξb︒o﹃oq︒ロゴ○合宮巳合\︒力Oo日゜・o日σqo︒・吟︒一一〇と表現しつつ︑その陶酔的な悦惚状態にあって︑まず主観的に言語化され

た非個別的な﹁世にある美しきもの﹂︵ぐく①乙りoり6ゴO口①已︷△O﹁ぐくO一一゜︶つまり美そのものに向かって﹁こころをこめて挨拶を送

る﹂︵ごロ●oq巳ゆoゴo﹃N日巳σq︶と呼びかると︑﹁ああバッカスよあなたが見える﹂︵︼pロ①△巨︒・90ゴ︒・︒プ.一︒プしと若者の姿を

した陶酔的﹁情熱﹂の神であるバッカスの姿が︑まさに﹁幻影﹂︵≦°り〜o昌︶として現れる︒しかし視界をよぎる表象たちは︑

その呼びかけに答える訳ではない︒つまり︑全二十詩節の前半は﹁詩的な自我﹂の主観的な意識の流れとして描写されの

(14)

ある︒そして第六節目に物語の枠との関連付けをする︑性愛の女神であるヴィーナスの形象のイメージが現れる︒こ

二﹂でも立日響と映像とは;に溶けA口ってバ︒カスの﹁陶酔﹂︵男①已切︒ず︶とヴィ︐ナスの憂L︵↑﹂︒け︒︶の感興を相乗的に一.同めフ る効果を発揮している︒文学的・美的な超越体験の表現媒体としての音楽の古くて新しい特質を意識した︑ジャンルを統

イ 合する詩人の巧妙な手法を窺わせる︒第九節で︑無時間的な神々の世界が過ぎ去るかのように︑はじめて人間の歴史へ幻

既  は移行する︒半ば異教的な要素を留めているキリスト教的な騎士の中世が描かれるが︑その世界は未だ近代の批判意識

とは無縁の素朴なロマン主義の歴史的なトポスを彷彿させる︒そこに突然の中断が︑ちょうど中間の十一節において﹁こ

こで・彼は・突然調子を甕て・さらに歌い続けた﹂と物語の地の文による切替えがなされる・時空の感覚を曖昧にし・

け 超越的なものを受け入れやすくする夜の野外において︑吟遊詩人の歌によって誘い出された︑異教的なイメージに浸ってる状況︑同時に︑その歌の世界の饗宴の最中に︑突然天の物静かな若者が訪れるのである︒死の印を帯びた・︑の若者

 がこの古典的な美の世界言い換えれば︑主観的な自我の夢幻的状況に︑意識の急激な覚醒を呼び起こす形で登場する︒こ

ド の若者の頭に付けた芥子の花は古典古代の眠りを︑そして百合を飾った冠はキリスト教の純潔を象徴している︒また手に

した松明を逆さにする死の形象はレッシングの﹃古代人は死をいかに造形したか﹄︵綱一〇合①≧甘白OΦ白↓oOoqoぴ一江oごの

タイトルを連想させ︑死と眠りの神タナトスであることを暗示し︑同時にノヴァーリスの﹃夜の讃歌﹄第五歌を連想させ る︒ノヴァーリスは散文体で﹁神々は夜のヴェールをわが上にかずいた︒夜は黙示をはらむ力つよい母体となった︒

      即

神々はそこへ帰還し︑新たな壮麗の姿となって︑一変した世へ出てゆくためにしばしの眠りに入ったのだ﹂と記述してい

る︒万アイヒ︑ンドル・に於いても︑死の登場とともに官能的喜びの饗宴は中断されて︑その響きを止め︑緑は薄れて 界は没落する︒そして持情的主観の描く文学的な視界の内で﹁情熱﹂の最後の飛躍の場が整えられる︒上昇の衝動

13文学による文学内での﹁超越的﹂︵障①諺N窪Oo葺①こな死の誘惑である︒文学的な幻影を招来し︑愛と陶酔のディオニュゾ

(15)

14 的神話に自己放下を試みた︑性愛の狂熱はここに至って生と死の最終的な閾に到達する︒作者は﹁死の訪れ﹂を﹁おお

者よ/なんと美しいのだろう﹂︵○言⇒oq一日oq︿o∋=喜目江\綱一︒亘一゜・古口已゜・o︒︒6ずO呈と甘美な誘惑を孕むものと

して描いているが︑一方で超越的憧憬は否応なく客観的な死を意識せざるを得ない︒なぜならノヴァーリスの場合のよう

に︑キリストの死による人類の新生が描かれるのとは異なり︑﹁故郷を望む者は︑何処にいるのか﹂︵﹀乞o︻留国日oス三岳oq⇔

o O︒日古色日笥腎宏く︒﹁一きoqるく︶というタナトスの問いかけは︑ここでは︑死すべき運命を逃れられない者の全てに︑

まりはキリスト自身にも向けられているかに思われる︒つまり︑ここでは徹底して古典古代の救いようのない死の世界 るのである︒天上の世界といえども神話的な星座のように︑冷たく輝いているに過ぎない︒アイヒェンドルフは

死﹂を﹁眠り﹂に例えて美化することを拒否する︒そこで前半部分において展開される︑古典的な神話世界をことさら美

しく明るく描くのに対して︑後半のタナトスの支配する死の世界は︑より一層不気味な様相を呈している︒

節には古典古代の神話とロマン主義的希求のドラマティックな融合が試みられる︒﹁さらになお何を望まん/遠

上 をめざして/大空は開かれている/父よわが身を受け入れたまえ﹂︵綱器急一=o#昌09ゴo㈱︒ロ恒\出ぎ①鼻③合

巨コ①昆\Oo﹁窪日∋o=°・︷o自⑦戸\Z一日日<巴05巨oゴ①昆︶の詩句には︑ゲーテの﹁ガニュメート﹂︵○昌ぺ∋oe︑更にノ

ヴァーリスの﹁夜の讃歌﹂を思い描きつつ︑アイヒェンドルフの嘆願的な叫びが重ねられている︒したがってこの詩はや

りアイヒェンドルフなりの解答と読むべきである︒なんとなればアイヒェンドルフは最後に再び持情的自我を登場さ

せ︑この文学的な省察の内に︑ロマン主義文学の超越的課題を反映させているからある︒物語中ではフローリオがヴィー

ナスの館から脱出する時に﹁咄嵯に口にする祈り﹂︵ψ力9駒oqoσ旦に一致している︒そしてその課題は︑﹁神々の黄昏﹂二に

て︑新しい止揚的要素の登場をまって一応解かれる可能性を提示する︒そこではフォルトナートの歌う歌は︑聖母マ

リアの腕に抱かれた幼子の誕生を明朗に︑しかも︑詩形の上でも﹁神々の黄昏﹂一におけるような︑洗練されてはいるが

(16)

調 とは明らかに異なる詩脚︵<︒﹁°・旨芭を︑﹃不思議の角笛﹄に倣った例のアイヒェンドルフ調に変化させることによっ

て︑後期ロマン主義文学に諄る客観性の;の型を示している︒同時に︑メ.フン︒リ︒クな内在性を特徴とする苦悩と

フ 意識的な﹁反省﹂︵カ︒コo×8旦から超越的な永生を希求する積極的なカトリック信仰の﹁啓示﹂︵○自8σ碧巨oq︶へ移行する

㍗  ことで主観の世界から客観の領域への変換を予告する︒吟遊詩人フォルトナートは神に信頼を寄せることによって︑病的聴  な主観の想像力が描きだす幻覚の世界に囚われることがない︒彼はそのような危険を超越している︑いわば理想的な詩人

 を体現している︒従って彼は古典古代の神々を呼び出す力も︑封じる力も備えているのである︒じつは﹁乾杯の歌﹂は古

﹁ 典古代の神々の力を甦らせる歌だったである︒明るい前半のヴィーナスとバッカスを歌う時︑アイヒェンドルフの作品の

鮒  中でもヴィーナスの枕言葉としては殆ど例外的に﹁明朗な﹂︵S﹃︒庁︒︶という形容詞が使われている︒これは中世ドイッ語の

 h﹁○≦011<﹃○乞oに通じるので騎士やミンネの世界をも暗示している︒後年の文学史の中でゴットフリート.シュトラースブルク︵・°琴匡く8°・↑邑亘已旦の﹃トリスタ・とイゾルデ﹄︵↓﹃誓:⁝°・°亘を﹁反キリスト教的な芸術言日

      ⑳ド 亘﹁︒巨一︒口︒民5ω¢と断じ︑古典古代的な要素の復活の兆しを見た作者に通じる︒古典古代の世界がどんなに美しいもので

あっても︑それを賛美して歌えば︑その裏面である暗く︑救いのない異教的な死の世界も同時に呼び出すことになるとい

うのがアイヒェンドルフの考えである︒ただしアイヒェンドルフは古典古代の文化を否定しているのではない﹁神々の

薯﹂二でヴ・よ・は古典古代の神格としてではなく春の訪れとともに自然や植物の化身として・復活するときに

 い己︒目8古Φコという言葉が使われているように︑キリスト教化されてイースターを含意している︒即ちそのままな形での

古 代の復活はあり得ない・﹂と︑歴史という客観性を抜きにしては考え・りれない・﹂とを暗示している︒そ・﹂で︵自分の丑日の   ネーム︑フローレンスを暗示する︶フローリオという詩人的気質の青年の試練を通してゲーテ・シラー的な︑またノ

ー5   ヴァーリス的な文学観の本質を提示し︑体験させる︒そしてフォルトナートをして︑ヴィーナスの魔界に囚われていたフ

(17)

16 ーリオを︑あの敬度な歌を歌うことで神との絆を確認させて救い出す︒すると迷妄から覚めたフローリオの眼にはあら

ためて本来のビアンカの可憐な姿が見えるのであった︒そこでフォルトナートは﹁私の言葉を信じなさい︒誠実な詩人は︑

多くのことをやってのけるのです︒というのは︑ほかでもありません︒おごりもたかぶりもしない芸術こそが︑深淵から      ⑭私たちを捉えようとする︑荒々しい地の霊たちを︑意のままに操り︑手なずけることができるのです﹂と言い︑芸術の意

義とロマン主義詩人の役割を語って聞かせる︒

ように︑﹃大理石像﹄において作者は︑ZO<︒一一〇口−日腎9Φコという伝統的なロマン主義文学の枠組みの中に︑持情

的自我の反省の為の文学空間を用意することで︑ロマン主義的な主観の持つ危険な要素を︑超越的な領域に導こうと意図

し︑それを一つの完成された表現にまで高あたと言える︒この試みはいわば文学の中での文学の反省であり︑混成・結合

的なロマン主義文学の要請の一つの実践でもある︒しかもそこに自己の個人的な体験を昇華した形で普遍化して折り込ん

けではなく︑他の作家の文学を受容し反省を加えかつ同時代の文学に対する洞察と︑それにもとずく批判をも篭めて した点で総合文学的なものと言える︒そこにはまた︑二つの世界観の醸しだす極あて情感に富んだ文学空間に読者を

誘い︑各自の省察に委ねる形で作者のいわゆる﹁超越的文学﹂︵弓日ロ゜・N窪臼︒葺巴勺oo︒・一〇︶の目指す新たな可能性を予感させ

る︒そこにはOO口2ロ位日日o﹁§oqにおいて示された如く︑宗教的な感性に対して持つ芸術や文学の︑媒介的な役割が提示

されている︒従ってアイヒェンドルフ文学においては○︒巨言ゴ︒㊥oo°・けというのは単に狭い意味での宗教詩を意味する

なく︑むしろ霊的な要請を満たすロマン主義文学の精髄そのものを指すのではないだろうか︒

(18)

資料

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   ﹀一一〇切ブOO口古①h庁 ﹇切Oω6ゴ﹃O﹂ひ已口σq︵μOQ力之く一コ酔O﹃or﹈ぐ⇔﹇OロO﹁勺﹁曽ゴ=ロσo③ロ亘﹃﹂Oゴ戸﹇oqO﹈民O目戸日↓﹇古目一③=OoーψIOoIO田qO吟σ①﹃<O門 国﹃oqO=↓ 巴苔量え︷︒・§︒︒︒・N§︒§・・三⁝︷・・;§§︹・g・︒・ぎ・R・暮§・︐︒富き⁝︒匡・︒三︒巨︵曇・・︶・

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(19)

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ω 本稿は日本独文学会一九九九年度春季研究発表会におけるシンポジウム報告の原稿に注を補足したものである︒

﹂°︿°里合︒ao良゜ロユ︒簡p言恕ミ§言§斗ミ鳴句きS㌻ミぎさ句§註e§eき§合ミS乏︒SS宍ミ§言﹄ボ路昌⑩⌒コ民﹀︶這臣よ

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  石丸静雄﹁アイヒェンドルフ﹁こわれた指輪﹂﹂﹃ドイッ持情詩の展開﹄︵同学社 一九八七年︶二一八頁以降を参照︒

口︒9ao義㌔8呂︒日o﹃︷③2﹁ユ︒ロζo目日ζ駕﹁⌒ご゜︒O°︒巳国民﹀=匿゜二8◎︒°c力゜Nト⊃O°

08﹃°q智村9具O③゜︒ζoけ云9°・乞③9c・︷目c・σ9ロ︒ず︒且o亘ーN已日く︒︸芸巳ω<8eg蚕9﹁已昆o留合o一︒σq苔9﹃ウo﹃切︒#ー ロロoq︷日吟呂9ロ一Φ゜冨宮コロロロo昼巳﹄迂目§9﹂㊤8°Q◎﹂ぺ1冨ふθ=×﹀這od全N=

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(20)

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U

   寓一︵︾°㏄口Oこoり゜心゜

02  =×﹀Ol一ロ巨﹂︒り\ピ以下﹃大理石像﹄の翻訳には平野嘉彦訳︵ドイッロマン派全集 第六巻﹃アイヒェンドルフ﹄国書刊行会

フ   一九八三年︶を参照した︒

 〇3g;°;°①b°︒°吟ρ

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