【講演記録】
東亜同文書院大学から愛知大学へ
愛知大学名誉教授、愛知大学東亜同文書院大学記念センターフェロー㻌 藤田 佳久
( 2016 年 8 月 27 日㻌 名古屋市博物館)
㻌
はじめに㻌
皆さん、こんにちは。ただ今ご紹介いただきました愛知大学の藤田と申します。東亜同 文書院記念センターには長く関わっておりまして、今回こういうかたちでこういう会が設 けたことを大変喜んでおります。暑い中、多くの方にご出席いただきまして心より御礼を 申し上げたいと思います。今日、私に与えられたタイトルは「東亜同文書院大学から愛知 大学へ」 。今ビデオをご覧になったと思います。あれも我々、一生懸命作りまして、特に前 半の歴史的な書院のデータに関しましては、当時の我々の全力投球で作った作品でありま す。今日は東亜同文書院から愛知大学へ、私もこういう会がありますとこのタイトルでお 話してまいりましたが、今日は若干変えさせていただいて、できれば学生諸君も少し目に 見えるようなかたちでお話ができないかということを考えました。尚、お手元にプリント がございますが、今日お話しする画像の、ほんとのエッセンスだけしかピックアップして 載せてありません。一番最後に終わりにということで少し長々しい文章で書いてあります。
この辺のところは時間があればご説明をして、うまくいかなかったら皆さん方でお読みい ただけたらありがたいと思っております。
㻝.荒尾精の日清貿易研究所㻌
いきなり出てきたのがこういう品物ですね。これは銅で作った清国の時代の製品です。
この図は言ってみれば商品見本みたいなものですけれども。誰がこういう見本を集めてき
て作ったかというと、先ほどもお話にありました一番最初の荒尾精。この人が幕末、尾張
藩出身で、名古屋の愛知大学車道校舎の近くで育った方です。幕末に尾張藩はなくなって
しまいますから、お父さんは失業してしまって東京で荒物屋をやりますけれど。その時に
荒尾精は警察署の署長に才能を見込まれ、書生に雇われました。当時の警察署は多くの人
たちが集まってきました。当時、最大の問題は隣の朝鮮と貿易ができないことでした。征
韓論を西郷隆盛がやり
出したりするわけです
けれども。その中で荒
尾は国際関係を初めて
知るのですね。朝鮮の
背後に清国がいる。そ
の清国とは一体どんな
ところだろうかという
関心を持ち、行きたく
なるのですね。当時は
学校制度もまだしっかりしていませんでしたから、軍の関係の学校へ入学し、陸軍大学校 ができた時にはそこへ入学するというかたちで勉強するわけです。しかしどうしても清国 へ行きたいというのですが、最初はなかなか行かせてもらえなかったのですけど、やっと 清国へ行って清国には色々こういう商品があると紹介したのです。その背景には何がある かというと清国と日本が協同して貿易をやれば列強に対抗できるだろう。清国まできてる 列強のパワーが日本に及ばないためにも日本と清国は協同で貿易事業をやったらいいん じゃないかという発想がこれなんです。先ほど書院が火事で焼けてしまった写真がありま したけれども。あの時も学生諸君が大旅行で全国から集めてきた商品 10 万点が焼けてし まった。もし、今あれば大変素晴らしい博物館ができていたと思うのです。その一番のも とには、こういうのがあるよと日本人に紹介した。その時に清国中のどういう場所を自分 の知識の対象にしたかというのを彼が後に書く『清国通商総覧』 。日本人が初めて清国の実 態を書いた。それまでは漢詩漢文でインテリの人たちが書いた素晴らしい清国のイメージ だったのですけれど、実態はそうではないということで、初めてのことでびっくりした日 本人にたくさん本が売れたのです。その中に描いている地名を私が地図化しましたけれど も、ほとんど清国中の情報が入っています。そこで彼は日本へ帰ってきてから、一番最初 に清国との貿易実務をこなせる人材養成をしたいということで 1890 年、日清貿易研究所と いうビジネス学校を設立します。しかし、お金がなくて大変苦労します。 150 人ぐらい入学 しますけれど、半分ぐらいしか卒業できなかったのです。この時どこから入ってきたか。
これはこれでまとめると、一つの論文になってしまうのですけど。幕末から明治にかけて は西南戦争もそうでしたけれども、官軍が東北日本を圧迫します。西南戦争で薩摩のほう の若者も敗れて前途を見失ってしまう。そういう若者たちが大陸へ渡った。そういう学生 も受け入れた学校にもなったわけです。ここで盛んに貿易実務を教えるわけです。これが 最初の入学生ですね。それを作ったのが荒尾精ですね。しかしこの後、日清戦争が起こっ てしまってこの学校をまだ続けることが難しくなると同時に、中国語ができるようになっ た卒業生が当時の軍隊の通訳充補にさせられてしまうのですね。貿易実務を一生懸命勉強 したのにですね。したがって、半分ぐらいは亡くなってしまう。荒尾精はその責任を感じ て脱軍籍し、京都へこもってしまうのですけれども。その時に荒尾精は『対清弁妄』など、
いくつかの作品を書きますが、ここでいってるのは勝ったといって清国から賠償金をとる なと。とったら日本と清国の関係が悪くなるし、お互いに繁栄できなくなる。ところが当 時の世論は勝ったからお金をとれ、賠償金をとれという。それに対して、一生懸命彼は何 故賠償金をとってはいけないのかということを主張するのですが、この意見は世論からは 認められない。そういうこともあって京都東山のほうに蟄居してしまう。今でもその家が 残ってます。他の方が住んでいますね。こうして卒業生の半分近くは日清戦争で亡くなっ たのです。しかし貿易実務をやったから生き残った方々が、例えば白岩龍平とか大活躍す るような企業家が出てきたりする。
㻞.ビジネススクールとしての東亜同文書院㻌
開設時の東亜同文書院の授業表です。遠くからご覧になって、分かると思うのですけれ
ども。表の一番右の上、これは中国語ですね。英語とか経済学、商業実務とか、いわゆる
貿易上の科目がずらっと並んでます。戦後になって、荒尾精はスパイだと言われて、大き
な誤解を作られてしまうわけです。貿易実務を中心にしてきちんとビジネス教育をやって
るわけであります。その一方で近衛篤麿、近衛家の人ですね。この方が幕末から明治の若 い時代に独学で勉強しました。彼は新政権の成立過程をみて、藩閥政治と軍人が大嫌いだっ たわけですね。したがって、明治政府の覚えは当然ですけど良くなかった。だから新しい 学校を作ろうとしますけれど明治政府がなかなかお金を出してくれない。中国の若い研究 者なんかはそんなことは無視して、東亜同文書院っていうのは日本の軍部が作った学校だ というかたちで発表します。びっくり仰天してしまいますけど、さっきの荒尾精について も最近の若い日本の研究者でさえ、軍から送りこまれて日清貿易研究所を作ったのだと書 いている。事実は全く違うのですね。本人が作ったのですね。事実をふまえないイデオロ ギー的な世界がまだ残ってる。戦後、書院卒業生はそういうものに反発して、しばらく書 院を語らなかったことがありました。書院を取り囲む環境に政治的な歴史的な背景があっ てまだまだイデオロギーをふりかざして介入する人が多いのですね。
近衛篤麿は 2 回ほどヨーロッパへ行ってその帰りに、 清国の両江総督と話し合いをして、
両江総督は日清戦争で日本軍が清国に勝ったのは、日本の急激な近代化があったと認め、
近衛はそのノウハウを清国の人に教え、日本と清国の両方の学生を集めて勉強させたい。
その学校を南京に作りたいと伝えるわけです。すると総督はオッケーと言うわけです。そ したらすぐに有能な若者を日本に送りたいと言ってきたのですけれど、学校はすぐにはで きない。そこで近衛篤麿は自宅へ戻ってそこに校舎を建てて留学生を受け入れた。それが 東京同文書院ですね。こういうかたちで開設展開していくわけです。
これは最初の学生の一部ですけれど、正確には誰がどこ行くかまだよく分かっていない ところがあります。南京同文書院生 17 名ほどはこういうかたちで留学したのだろうか。津 軽藩みたいに奥羽越列藩に参加しなかった藩、そういう背景の中で若者が集まったという ことが分かります。こうして南京には、南京同文書院ができたのですけれども、清国の学 生は東京同文書院を目指したため、日本人だけの学校として出発します。しかし、折しも 北京から義和団の乱という外国勢力を排斥する運動が広がって南京にもせまってくるから、
南京は危険だというわけで、租界のある上海へ移ることになったのです。その時に先ほど の荒尾精がさらにその後、新しい本格的なビジネススクールを作ろうというプランを提唱 し、それと合体して上海に東亜同文書院というかたちで学校が誕生していくわけです。そ の前に東亜同文書院の経営母体である東亜同文会が、アジア的な世界の中で積極的に教育 文化事業を展開したわけです。東亜同文会の会長は先ほどの近衛篤麿で、軍隊ではなくて 教育文化事業でもって交流すべきだということで、先ほどの東京同文書院ができています けれど、隣の朝鮮半島もなかなかうまくまとまらないのは教育が不十分だというわけで学 校を建て、また、清国福建省のほうにも色々な学校に助成金を出したりしております。第 2 次上海事変で 3 度目につくった徐家 滙 の校舎は焼失し、隣の上海交通大学を借用します。
そして大学へ昇格するさいに理工系を含む総合大学案をつくり、しかも北京進出まで検討 しますが、戦時下で資金確保が困難で実現しませんでした。しかし、既存の理工系や経済 の専門学校などを吸収し、総合大学化の基礎はつくっています。しかし、まもなく終戦に なってしまってそれをより発展させるところまではいかなかったのです。最後の学長で あった本間先生は愛知大学を作りますが、本間先生の頭の中には理系の学部も作りたいと いう考えがあったことが、こういうことから分かります。
これは一期生の入学生。どこから入ったかということですね。募集時期がちょっと遅れ
たので全国的には最初は知られていなかったのですけれど、各県から基本的には給費生が
二人枠。荒尾精はビジネススクールの構想とそこから先はさらにアジアでの貿易の展開を 考える。書院は根津一が任されて院長になったわけです。この人は 62 歳まで長いこと院長 役を務めて書院の神様みたいにいわれた人です。残念ながら愛知県からは最初の入学生は いませんでした。
次は二期生からです。こういうかたちで出発前に東京の華族会館に集まって招見式をや るのですね。これが近衛篤麿です。それからこれが根津ですね。この式のあと、東京の宮 城やその他の中心的施設、あるいは大阪、京都など、第一線の姿を見せて上海に行くわけ です。入学者の出身地は東北地方がやっぱり薄いですね。一方、特に九州地方や中国地方 からは多くの人が入ってきます。
これが一番最盛期の、先ほどもありました徐家 滙 の校舎ですね。一番書院が繁栄した時 の校舎です。 1937 年の第二次上海事変で焼けてしまうわけです。これが初代・第 3 代の院 長、根津一ですね。そして戦時中の総理大臣、近衛文麿ですね。大内暢三、この方は先ほ どの近衛篤麿のいってみれば秘書みたいなことをずっとやっていた方ですね。世界も色々 なところへ出かけた経験豊かな方です。次の矢田は文部官僚です。そして最後が愛知大学 を作ることになった本間喜一学長。最盛期の立派な校舎は、根津先生のお弟子さんが設計 して作った。隣がフランス租界ですから、フランス租界に負けないような建物を作ったの です。そのため、上海の絵葉書には必ずこの東亜同文書院のこの建物が出てきます。
学生たちは基本的には当時の中国語を一生懸命勉強する。当時は文法書がありませんで したから、頭の中に丸暗記をするというやり方で、そのテキストが『華語萃編』でこれは 初集でありますけれど、第 4 集まで編集されています。日常的なところから旅先で知事の 人たちに会う時の挨拶から手紙とか色々なことまで含めて学んだ。その中国語学習は、例 えば、この 4 人が愛知県出身で入ったとすると愛知県出身の 2 年生が 1 年生を責任持って 教えるという仕組みです。朝昼晩と毎日発音練習がつづきます。できないと 2 年生が先生 から叱られ、責任を取らされるので一生懸命、勉強し、こういうかたちでのトレーニング が実践的に役立ったのです。後に文法的なところが入りますけれど、最初のほうは丸暗記 して習得したと。
次は最初の頃の科目ですね。細かいからお話すると長くなってしまいますけれど、法律、
経済、商業学、英語、中国語と。とくに中国語が多いですね。中国語が週に 12 コマ。英語 が 6 コマ。希望があれば上海には国際人がいるから色々な国の言葉を勉強できた。これが 一番最初の科目一覧です。この後ずっと充実していきますけれども。戦後突然イデオロギー 的な人達からスパイ学校だなんて言われましたけれども、そんなことはないのですね。ビ ジネススクールで学校が設立されたことからもよく分かると思います。
㻟.東アジアを知る「大調査旅行」の展開㻌
そういう中で一つの大きなメインの行事は「大旅行」で、 3 か月から 5 か月ぐらいのフィー ルドワークというのをやった。これは中国の中の取引慣習の調査というのが最初ですね。
そのうち学生諸君も幅が広がって文化的な、あるいは歴史的な事柄も踏まえて関心と調査
の幅が広がっていくわけです。それが調査旅行の成果の一部として『省別全誌』のシリー
ズ本になって出版されるようになっていくわけです。 20 年後にもう一度企画があり、書院
生の大調査旅行記録が 2 回にわたって編集されます。このような地域調査による地域研究
は世界で最初の作品です。書院の学生たちは、 2 ~ 6 人ほどで班をつくり、自分達の設計で
コースと調査地を設定し、日記と調査報告書を作成しました。嘘を絶対書いてはいけない。
きちんと自分で確認したこと以外は書くなと書院の指導者から厳格に指導されています。
彼らは色々なコースを巡りますが、全部で 700 コースあります。東南アジアから、満洲も 対象になってるのです。各班にカメラが一台与えられます。そのカメラでもって当時の状 況を撮影してるのですね。僻地でソ連の国境線のところが満洲ですね。色々なところで珍 しい風物を撮影しています。調査旅行の調査は卒業論文ですね。それとしてまとめる。色々 貴重な写真が入っています。これも北満の風景ですね。後半になるとかなり満洲へ入って いった時期があります。写真で風景を見ていただいて。これは蒙古ですね。蒙古風な服装 を着た人達が映っています。こちらは山西省ですね。歩きが基本手段ですけれど、時々は 馬に乗ったりして旅を続けております。孫文が生まれた家なんていうのも写真に撮られて おります。こちらはべトナム。これは 2 人だけで行ったケース。だいたい 5 、 6 人が多いの ですね。これは南方のほう、特に植民地の時の支配者と住民に対する色々な思いを記して います。こうして出来上がった旅行記に関しましては有力な方が揮毫を寄せてくれている わけです。これは福島安正。シベリア横断旅行をした方ですね。これは大谷光瑞。大谷光 瑞は最初ロンドンから中央アジアに来て、さあ遺跡の調査だという時に、家が大変だとい うことでインドへ出て帰ってしまった。あと残された 2 人はこつこつと北京まで歩くので す。そういった縁もあって大谷光瑞が揮毫を寄せています。それから近衛文麿も。大内暢 三は先ほども言った大学昇格時の院長ですね。これは犬養毅の揮毫ですね。彼は五・一五 事件で暗殺されてしまいます。これは近衛展示会場にも大きな額が掲げられていますが黎 元洪の筆ですね。元々は清国側の大将だったのですけれど、革命軍に敗れた時、革命軍に 大将として出すほどの人物がいないからお前さんなれって言われて大将になり、のちに大 統領になっています。これは段祺瑞。華東のほうから華北のほうを中心に活躍した人であ ります。これは孫文ですね。孫文は今度の展示会のメインでもあります。こういう人たち の多くは日本に留学していたのですね。それで日本の書院学生を受け入れてくれた。そう いうわけで学生たちが大旅行を活発に行います。これは一部だけしか表示してありません が、それも 5 期から 23 期の書院生の大調査旅行ルートを示したものです。全部で 44 期(学 部生は 42 期)までやっていますから、東南アジアとか、満洲とか、ソビエトの南のほうま でも入っております。毎年 5 月から始まったのですよ。その最初のきっかけは、今日は話 を省きますけれど、シルクロードの調査をやって日英同盟のイギリス側の要求に対応した のです。日本政府は藩閥嫌いな近衛篤麿が好きではなかったものですから、イギリス側か らの現地情報を与えられなかったのです。それが 5 人の書院生による 2 年間の西域調査で 大成功して政府から謝礼として 3 万円もらったのですね。 3 万円は 3 年分の調査費分しかな いけれど、非常に優れた調査が行われたので、書院の当局は 5 期生から自主的な調査旅行 に対してお金を出すようになって、全部で 42 期生までですけれど、書院としての専門部学 校も独自に大調査旅行をしましたから、 44 期ぐらいまでで全部で 700 コースの大調査旅行 を行ったのです。そしてこういうレポートを書き、それをもとに前述の『省別全誌』にま とめ刊行されたわけです。その内容はまさに学生のレポートだけに依拠しています。
ところで、下の赤いところが東亜同文書院時代、次は大学へ昇格します。大学へ昇格す
ると伝統的な東亜同文書院が消えてしまうというわけで、その復活の専門部を作ったわけ
ですね。これは戦争が終わる頃の 3 年間ぐらいですね。九州、西日本の出身者が多いです
ね。それから東北地方は少ないですね。岩手県など県になかなかお金がなくて出せなかっ
たところもあります。ここは愛知県。ほとんど書院生としての卒業ですね。このように書 院入学生の県にはいくつかのパターンがあります。これは愛知県。時々入学生が居なかっ たりする程度。大学へ昇格してからは安定して入学しています。熊本は上海と一番密接な 関係を持っているので、ずっと多く入学生を出しています。東京は大学へ昇格してから入 学生が増えます。大阪もそうです。特徴は、例えば愛知県の場合、戦前の段階ですけど 1914 年の入学生と 1926 年の入学生ですね。出身学校が書いていないから分からないですね。 26 年までを整理するとこういうかたちになります。当時の中学校もそう多くはありませんで した。今の高校ですと、旭丘とか明和、瑞陵とか、岡崎、時習館などから、学生が集めら れた。授業料はほとんどタダですから、旧制の中卒のうち、もっと勉強したい人たちが書 院へ入学してきた。
彼らがどこに就職したかということですが、名前が出ていますから、さっと見ていただ けたらと思います。色々な所へ就職して、中には愛知県に帰ってきた人もいるのです。要 するに義務は何もなかった。自分で頑張ればいいということだったのですね。これ 19 期か ら 22 期までですね。地元からアジア全域で活躍された。 24 期から 25 期でも多くの人が非 常に活躍されたわけなんですね。書院の卒業生で判明しているところは大手の企業へ入っ て、金融機関も横浜正金、これは今の東京銀行の元ですね。台湾銀行とか朝鮮銀行、日本 銀行など、ずいぶん広く、たくさん活躍をされたことが分かります。棒グラフで示します とここが支部でそれが 150 人。海外にも展開していたことが分かります。今の棒グラフ以 外に大陸のほうでも個別に存在してる人たちがたくさんいます。それも拾い上げて図にし ました。これが日本です。先ほどの支部以外に、支部に入っていない人たちがこれだけ日 本の中でも帰ってきて個人会員として活躍しているわけですね。
これは今から 20 年ほど前に、 1,400 人ほどがご存命だったので、そういう人たちを中心 にアンケートしたのです。それによると、書院から得たものは多大にあったと。中国への 理解と国際感覚とか世界視野とか後世にいきる力、自信、書院精神とか誇りとかを回答し ています。これは先ほどの卒業生の 10 年後ですね。大陸ではこういうかたちで卒業生が各 分野に就職しています。昭和 12 年ですけど、満洲国へは 230 人も入った。中国語ができる から採用されたということですが、実力もあるから色々な分野で多くの人たちが活躍して ることがお分かりいただけると思います。戦後もちょっと見ていきますと貿易、生産、流 通、運輸など実業界を中心にして教育、ジャーナリズムなども含め、活躍をしていること が分かります。
㻠.愛知大学の誕生㻌
敗戦が刻々と迫ってくる中で、上海にあったがゆえに日本国内の情報とは違った国際情 報が入ってくるので、最後の学長であった本間先生がそういうものを集約判断しながら日 本に書院の拠点を作るという決断をするわけです。 そして 1944 年、 富山の呉羽紡績ですね。
戦時中、飛行機を作っていたのですね。そこへ校舎を作って、 1945 年度の入学生を受け入
れたのです。何故かというと最後の学年はもう安全に東シナ海を渡れませんでした。終戦
により上海の書院は閉校しますが、呉羽高校の佐伯分校長はこれまでの日中間の実績をふ
まえ、政府に存続願いを出します。すると時の外務大臣吉田茂は存続を認めたのです。こ
うして呉羽校舎は終戦直後再開したのです。しかし、 GHQ が新しく入ってくると、戦時中
の総理大臣近衛文麿が自殺したということがあって、経営母体の東亜同文会を閉鎖してし
まった。そこで本間学長はすぐ新しい学校を作ろうというわけで呉羽分校にいた愛知県出 身の神谷龍男という先生が豊橋に候補地を見つけた。元陸軍第 15 師団があったところです ね。その後、本校が上海にいる間、呉羽分校では書院が今後どうあるべきかという問題を 中心に検討をつづけ、その中である大学像を模索していきます。これが非常に重要だった わけですね。本校の人たちが帰ってきたときに新しい大学の設立に向けた議論が新大学設 立申請の内容をほぼカバーしていたのです。本間先生たちが帰ってきたのは敗戦の翌年の 昭和 21 年 5 月ぐらいだったと思います。 10 月には申請して 11 月には認可されたのですね。
そんな早く何故できたかというと呉羽分校の人たちが事前に努力をしていた。しかも豊橋 市が全面的な協力をし、さらに本間先生の指導もあったというようなことですね。これが 当時の面影の残った校舎を撮影しに行った時の呉羽分校のあった建物です。そして新しい 体制作りを豊橋市や市の財界の人たちとやったと。当時の豊橋市長は横田忍氏。俺は三河 人だから任せなさいというような大きな心の人だったのですね。これは学長になる 3 人の 先生と関係者が一同に揃った時の写真です。左から前述の神谷先生、河合元豊橋市長、小 岩井先生、林先生、本間先生、元豊橋商工会議所会頭の神野太郎氏、神野三郎氏、四方先 生、松坂先生、太田英一先生です。左から 4 人目の林毅陸先生が最初の愛知大学学長です。
書院最後の本間学長は、学徒出陣で学生を戦場へ送ってしまったことを反省し、そのまま 学長になるわけにいかない、というわけで、新しく慶應の前塾長を呼んできたのです。京 城帝大から赴任された松坂先生、のちに名古屋大学の総長になります。太田英一先生も呉 羽校舎時代に戦後の新しい大学構想を作り出して今の愛知大学の基を作られました。最終 的には、昭和 21 年( 1946 ) 11 月 15 日に旧制大学として認められるわけですね。初代学長 は林先生。続いて本間先生、続いて小岩井先生というかたちで展開していきます。このよ うに、愛知大学が終戦のあくる年にきわめて迅速に設立されたというのも、書院というバッ クがあったためですね。書院と愛知大学との繋がりというのはやっぱり連続しているとい うことが分かります。大学に移った人もおりましたけれどまだ大陸にはたくさんいる。そ ういう人たちが一斉に入学してきた。終戦後の 1 年間はまだ愛知大学は設立されていませ んでしたから、書院生の中には引揚げ後に他の大学へ入学した学生もいました。愛知大学 が設立されると、この愛知大学の中心は書院の人たちでありますが、色々な高等学校とか 専門学校など実に 80 余校の学校から入学してきたのです。愛知大学はそういう多様な学生 を受け入れながら成立したという極めて特異な経過の中で旧制大学として日本で第 49 番目 に誕生したのです。しかし、本体は書院で愛知大学を運営する人たちも書院の人たちが中 心にやられていたのです。
㻡.活躍する卒業生㻌
昭和 24 年には新制大学へ移行します。昭和 27 年はまだこれ旧制と新制が並行します。
当時の法経学部は全部で 3,192 人ですかね。ここには色々な方がいたのですね。最初は小
崎先生。今 94 歳でご存命ですけれど。愛大から外務省に入られて外交官で活躍された方で
すね。こういう方々が思い出を言葉で表している。書院精神の継承とか、勉強をもう一回
やり直そうとか。建国大学の人も入ってきた。呉羽分校の出身の井上方弘さんには時々講
演をしていただきましたが、この方も金融界で活躍されました。東亜同文書院から愛知大
学へ編入した北川文章さん。この前亡くなってしまいましたけど、山一証券の副社長を歴
任され、戦前の東亜同文会を引き継いだ霞山会の理事長もなされた方ですね。このように、
戦後の日本の高度経済成長を支えた方が多く輩出されています。愛知大学初期の卒業生も 全く同様で、県副知事になられたり、幅広く活躍されています。
このように愛知大学のもつ多様性みたいなものがお分かりいただけるかと思います。し かし、最初の愛知大学設立時には学生たちがあちこちから来ていますから、まとまりがな かったようです。それを前述した小崎さんがリードして市民と合同の運動会、大学祭、文 化祭みたいなことを催し、それにより学生達の意識もまとまり一体化したのです。最初入 学した女子学生は 4 人だったのですが、クラスが全部ばらばらになってしまって、女性が 入ってきたからと皆緊張し、初体験の学生生活であったと聞いています。
まとめ㻌 -書院から愛大へ-㻌
東亜同文書院は、荒尾、近衛、根津の国際的視野をもった若者の構想が実現し、世界に 例を見ない先駆的でグローバルなビジネススクールとして作られました。その書院教育の ベースは地域調査にあった。実証研究をベースにして大学で学ぶというのは他の学校とは また違いますね。しかも、学生は県費生の、後で私費生も入ってきますけれど、すぐれた 人材が集められた。閉学時には、学長だった本間喜一がベルリン留学時代の苦しい経験が あったがゆえに終戦直後の色々な対応を非常に苦労されながらうまくやった。しかも 2 、 3 歩先をいつも見た施策を重視したのですね。そして豊橋市やその地域が全面的に受け入れ てくれたことですね。設立趣意書の中には今でこそ各大学が国際人の養成を唱えたりしま すが、愛知大学は敗戦直後にそれを掲げ、あわせて地域文化への貢献も掲げたというパイ オニアです。引揚学生が多かったですから、元々国際的感覚があった。そんな海外体験者 が学生として入ってきたころとはその後の新制大学とは大きく違っています。そこに愛知 大学の特徴があります。愛知大学の中に書院の精神やシステムがどんなふうに流れてる かっていうのを自由という精神の尊重の中に見い出せます。独立した経営者を置かず、学 長が中心に理事長を兼ねるシステムであります。戦争終了直後から始まった中国との教育 文化交流ですね。華日辞典で最後にそれが発展させた中日大辞典の刊行はその代表例です。
日本最初の大学院中国研究科と現代中国学部の設置も継承の一つの成果ですね。ただ最後、
本間先生が薬師岳遭難の時に責任をとって辞任されましたので、それまで計画していた理 工科系の学部をいくつか作りたいという構想が実現できなくなってしまったのです。
時間となりましたので、以上で終わりにします。ご清聴ありがとうございました。
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東亜同文会経営諸学校の展開分布図
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「秀明E同文書続的 愛知大学八 」
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東亜同文書院に入学した愛知県出身者
【明治・太正英語の書院生】
① 入学者合計103名
② 14 -26期の出身校67名分
(1 ~ 13期lま出身校が学事言語草に記載されていない )
. 愛知一中 14名(現・県立Af!丘高校)
・明{命中 12名(現・県立明和高校}
・熱田中 10名 (現・県立熱田高校)
・津島中 7名(現・県立津島高校}
・ 岡崎中 6名(現・県立岡崎高校}
· ~議中 5名{現・県立時ii鎗高校)
・東海中 4名 (現・私立東海高校)
・ 半田中 2名 (現・県立半図書E校)
・ 名古屋中 1 名 (現・私立名古屋高校)
F孔 唖由
‘ 司t 知大~
.費量縄文書民主事
・ 仰の,a剛丈
. . . .
・高等卑F喧$投~
i 3 郡司窓 H ク』 遍I ~f t i I 寸 ゼで事験日?っ ~i 高11 i f , i , ! i 1 f ! i 百 ' -JI!! t j i 1
プ事 2 i l l i j i E 併 1 f f ~ H ~県三
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I 瀞j g 川! ; 1 -摂E
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7 . 開設時の受知大学9金書明からの転入学正忌れしなかちも. 弓拠 fc~:,jt:多数 の大学会事専の到織学生、そして内地の大学々高枕高専 1-,; 佳からの車入宅金也 加え、忠告から怜えはい国際的マ.放員もまた同席て/' t~r:,/to
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9 . 以上のよラ宅E経Ci!の中亡 すでK 学生ちあ快挙当E として鞍入学生ぞ受け入札て ス タートした繋知大挙はその後IC 1:(,て税生した全通め新相i大学川大きく冥,で お砂. そ之IC 愛知大学の特貨があヲた.
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