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複式簿記の考古学⑵

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第3章 アラビア数字の普及と複式簿記

第2章のはじめに例示した元入れに関する仕訳を もう一度考えてみる。×××で表示した金額表示を 仮に 100万円に置き換えると,

(借方)現金 1,000,000 (貸方)資本金 1,000,000 と仕訳されるが,この思考回路を分解すると, 100 万円を元入れして事業を開始した という日本語を 簿記語に翻訳することであり,我々が英語を日本語 に翻訳する際と同様必要なのは,現金あるいは資本 金といった 勘定科目 という単語と,それを左右 どちらに配置するかの 簿記のルール (貸借仕訳の 原則)である文法である。

単語である勘定科目,文法である 簿記のルール については,簿記の学習の必須条件であるが,簿記 では金額については既に与えられたもの,与件とし て特に問題とはしない。 勘定への数値の割当 とい うプロセスは,減価償却額のような二次的計算結果 を使用する場合など特殊なケースに学習範囲を限定 しているのである。

金額は円,ドル,マルクなど測定単位が当然前提 とされているが,仕訳では単なる数字(numbers)と して表示されている。測定単位は貨幣単位に限らず 物量単位も考えられるが,簿記では 貨幣的測定 が基本的前提とされているから仕訳はあくまでも金 額表示である。従って仕訳における当該数字は,貨 幣 単 位 と 数 字 が 結 合 し た 具 体 的 な 価 値 の 表 現

(numerals⎜ 数値)となっている。

会計学における会計測定論では,このような価値 の与え方,すなわち評価が主要な問題点となるが,

本章ではこのような領域には一切立ち入らず,簿記

同様,与件としての数字(numbers)の表示について の歴史的考察に範囲を限定していることをあらかじ めおことわりしておく。

1,数の表示の歴史

数 の表示の歴史については,いろいろな視点か ら数多くの著作が出版されており,ここで改めて詳 論する必要はないが,本章に関係する商業との関連 で若干の考察をしておく。

⑴ 指数

指による計算法(指数)が初めて考案されたのが どこで,いつであるかをはっきり述べることは,不 可能であるが,これらが商業の必要性から生じたこ と,即ち商人の言葉であったことは非常に確からし く思われる。

われわれは指による数の表示は,古代あるいは未 開社会に固有のものと考えがちであるが,ヨーロッ パの歴史においてもローマ人は一から一万までの数 を両手の指であらわす方法を持っていたし,中世期 には普通に使用されていたことを想起する必要があ る。その実態はこの表示法が一時的で記録に残らな いため,諺や文筆家の著作の中の挿話に垣間見るこ とができるだけであるが,全くその記録を欠くわけ ではない。

例えば,イギリスのベネディクト会修道士のベー タ・ヴェネラビリス(Baeda Venerabilis,尊者ビー ト,735年没)の 指を用いる計算と話 (De computo

  Kousuke HINO

(April2003)

The Archaeology of Double Entry Book-keeping⑵ 日 野 晃 輔

複式簿記の考古学⑵

本論は全体が5章よりなる 複式簿記の考古学 の第3章であり,第1章簿記書にみるエピステーメ,第2章資本勘定の誕生と資 本主義の精神は 環境システム学部論集3 (2003年3月)に掲載した。第4章活版印刷の普及と複式簿記,第5章公証人制度と 複式簿記は後日公表の予定である。

環境システム学部経営環境学科,簿記・会計学研究室

Department of Business Environment Studies,Book-keeping & Accounting,Rakuno Gakuen University,Ebetsu,Hokkaido, 069‑8501, Japan

 

C.J.スクリーバほか 歴史の中の数学 1987年平凡社

11頁

(2)

vel loquela digitorum)は,指による数え方の唯一 の完全な記録である。また2において詳細に触れ ることになるレオナルド・ピサーノ(ピサのレオナ ル ド,別 名 フィボ ナッチ)の 算 盤 の 書 (Liber Abaci,1202年)は,インド・アラビア数字の西洋へ 

の紹介の端緒となった書物であるが,その中の例え ば以下の記述は指数が重要な役割を担っていた当時 の状況を推定させる。

インド人のこれらの数字と,彼らの位取り表記法 を,不断の実践によって徹底的に習得するためには,

指による数え方を学ぶ計算術に熟達し,その専門家 になる必要がある。それは,古い方式を使う計算の 熟練者が,かって非常に貴重なものと知った指によ る数え方である。

……指を使う掛け算は,いつも練習している必要 がある。そうすることで,手と同様に心も,いろい ろな数の足し算と掛け算により一層精通することに なる。

現存する 1442年のピサの計算学校(bottegha)の シラバスの写本でも 生徒たちは最初に9,8,7,

6,5,4,3,2,1の数字の書き方を教えられ,

それから指での数字の表し方,すなわち左手で一桁 の数字,右手で 10の累乗を表す方法を学んだ こと がうかがわれる。

第1章でルカ・パチョリの スンマ (1494年)を テクストとして取り上げたが,その数学に関する部 分には図 1 に示すように指による数え方が図解さ れている。

現在のわれわれには理解しにくいことであるが,

指による数計算が当時一般的に行われ,したがって 学 校 に お い て も 重 要 な 学 習 対 象 で あった。P.F.

Grendler“Schooling in Renaissance Italy”で述 べているように,14世紀から 16世紀における写本 あるいは印刷本の算術テキストには上記パチョリの

スンマ 同様指による計算が含まれている。

算術書にはまた指による計算と表記法,すなわち

指を使っての長い割り算や掛け算への中間段階を跡 づけるやり方が図解されている。生徒たちは数を示 すためにさまざまなやり方で左手の指を伸ばした り,曲げたりすることを学んだ。そして右手で計算 結果を書いたのである。 として,1518年出版の Filippo Calandriの算術書の図を例示している。

指数の数表示の歴史における重要性は,その位取 りの数体系 ⎜ 四つの数の位,つまり一の位,十の 位,百の位,千の位が四つの違った指のグループに よって作られる ⎜ にあるのかもしれない。位取り の概念は,インド・アラビア数字体系がまだ発明さ れていない時代において,その形を整えていたので ある。

このような指による数表示は,後述するアラビア 数字と印刷術の普及によりしだいに姿を消したと思 われるが,指による計算は相当の期間現存したであ ろうこと,また現在も中東のアラブ商人やインド商 人によって使用されており,特に違った言葉を話す 人たちとの交易の際には極めて有効な方法であるこ とには留意すべきである。最近まで株式市場では指 のジェスチャーが用いられていたし,今でも各種市 場のせりの場ではそれなりの役割を果たしている。

それとともに指数を表すdigitが,デジタルという 形容詞とともに最先端の場で生き残っていることに 想いをいたすことも意味がある。

しかし指による表現は,前述したように記録とし て残らないというその制約のために,本章の主題に とっては脇役とならざるをえない。

⑵ 符木(しるしぎ)・結び目による数表示 指で形作った数は瞬間的に消えてしまう。商売人 はどのようにして出納帳簿をつけていたのだろう か。

数の記録を木片やワックス版に刻み目を入れるこ とで行う方法は,古今東西どこでも見られるもので ある。商業,かつヨーロッパに限ってその痕跡をさ ぐると, 符木を勘定書き,あるいは債務の記録とし て使用することは,初期のゲルマン部族たちの時代 までずっとさかのぼってみることができる。

ここでは二点にしぼって検討する。

一つは割り符木(割符)の役割についてである。

割符は主木と副木の両方に刻み目を入れることに

K.メニンガー 数の文化史 2001年八坂書房 15頁,原

著英訳K.Menninger: Number Words and Number Symbols,A Cultural History of Numbers,1969  ,The M.I.T.Press,201頁,邦訳は原著後半部分を訳出した  ものである,以下訳書による

3 同著 36頁, L.E.Sigler: Fibonacciʼs  LiberAbaci-A trnalation  into  Modern  English  of   Leonardo  Pisanoʼs Book of Calculation,2002年, Springer,  20

4 同著 39頁,Sigler 22頁

Frank  J.Swetz:Capitalism & Arithmetic, 1987, Open Court Publishing Company,21頁

K.メニンガー 数の文化史 16頁

P.F.Grendler:Schooling in Renaissance Italy,1989, The Johns Hopkins University Press,312頁 数の文化史 20頁

9 同著 45頁 10 同著 53頁

(3)

よって,例えば債権者にも債務者にも同一の記録を 残す優れた方法である。このような割符が広く用い られていたことは,ナポレオン時代の法令集である 1804年民法の次のような規定に示されている。

その符木(副木)が主木と符号するならば,個々 の受け渡し,または受け取りがなされたことを,こ の方法で認めることを習慣としている者たちの間で は,契約の効力をもつ。

ここで第1章3で取り上げたF.W.クロンヘルム “Double Entry By Single”(1818年)から割符

tallies)について述べた一節を引用する。

木片を二つに裂くやり方は,本当に独創的な考案 である。すなわちその半分を合体することによって共 通の証書であることの認知を受け,各々の部分は 証 拠力 を保有し,取引の記録にもなるのである。割符 は現代の会計からは粗雑だとはいえ,あらゆる新規 の取引でその一致が確かめられ,従って数値記録に 対するチェックの概念をはじめて具備している。

もう一点は,符木上に数字とその数字の意味を同 時に記録するやり方である。例えばロシアの徴税帳 簿として用いられた符木には,その家の識別記号,

家族数,支払うべき税金の額が刻み目の位置により 示されており,刻み目が数える対象と連動されてい る。この章のはじめに簿記の仕訳のことに触れたが,

仕訳も勘定と金額の両方を構成要素にしており,記 号的意味は上記符木と同じである。符木は簿記の最 も古い形式を示している。

符木を使う簿記法が,フランクフルトのような進 歩的な商業都市でさえ,どれほどひろく行われてい たかは,次の 14世紀初頭の織物職人に対する規則か らの引用でみることができる。

同様に,いかなる計算係の頭領も,他人の負債を のせた符木を貸しあたえてはならない。これはギル ド同業組合全体に対する規則である>

簿 記 は 英 語 で はbookkeepingで あ る が,こ の bookBuch(ブナ材)から名づけられたもので,

もとはブナ材で書記板が作られたのに由来する。

結び目を数字として表示する方法についても事情 は同じである。注目すべきは,ペルーの結び目付き の紐はキプ(ス)quipu(s)と呼ばれ,結び目が数の 位の順に結わえられ,一種の位取り数表記法になっ ているが,このような表示法は琉球諸島での労賃を 示す藁や葦の組み紐など数々の事例に見られること である。

結び目の使用に関し,一つだけメニンガーのあげ ている興味ある事例をあげておく。これは前述の数 とその内容を同時に示す仕訳と同じ意味を持ってい る。ドイツで 20世紀の初めまで製粉屋がパン屋との 商売に使っていた 製粉屋の結び目 についてであ る。

製粉屋は,配送する袋の中の品物の量と,小麦粉 やトウモロコシ粉の種類を何らかの方法で書きとめ ておく必要があった。その目的で袋の口の引き紐を 使った。量と計数を結び目で示した。トウモロコシ 粉や小麦粉 の 種 類 は,輪 あ る い は 塊 で あ ら わ し た。

最後に符木を会計と関連づけた論述として,序章 で触れたホスキン(K.Hoskin)とマックヴィ(R.

Macve)の興味ある研究がある。

ホ ス キ ン と マック ヴィは,ʻcontrolʼの 用 語 が ʻcounter-rollʼから生まれ,その意味がʻthe  rewrit- 図 1 指による数え方

イタリア人数学家ルカ・パチオーリの 算術大系 Summa de Arith- meticaより。これは印刷された数学書として最初の重要なもの。

1494年ベニスで出版。

11 数の文化史 59頁

12 F.W.Cronhelm: Double Entry  By  Single-A  New Method of Book-Keeping, 1978, ArnoPress, 頁

13 数の文化史 71頁 14 同著 53頁 15 同著 92頁 16 同著 97頁 字取 あり

字取りあり

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ing of writingʼであることを示した上で, 諸証拠 は,この用語(control)が取引の一次的記録として の木製の割符の使用に基づく 1200年頃までに確立 した国庫での会計的文脈から派生したことを伺わせ る。割符のやり方は,各々の取引は最初に符木に刻 んださまざまな大きさの刻み目により二重に記録さ れる。それから大きな部分とより小さな薄片に縦に 割られる。より正確性をきす場合は,取引に関する 詳細を符木の両方と国庫記録簿(Exchequer Roll に記入する。 とし,さらにその後の発展にふれて いる。

⑶ 算盤

算盤と商業の関わりについては,つい最近に至る までのわが国の実情を観察すれば,改めて論ずるま でもないであろう。ここでは,中世後期以降のヨー ロッパの複式簿記誕生期における算盤の果たした役 割について,商業教育と関連させながら若干の考察 を加えてみる。

ローマ時代には携帯用算盤が広く使用されていた ことは実物が現存しているほか,各種レリーフ等に その使用状況が示されているが,何故か一千年期の 終りまで算盤を使う計算については,明確な記録が 残っていない。ありうるとすれば,各地の修道院で 使用されていたことが推定されるだけである。

それでは本章の主題である中世後期では計算に何 を使っていたのだろうか。それは計算机と計算玉か らなる計算盤(板)である。これは次の木版画 でわ かるように,横線を引いた机の上に計算玉を並べて 計算を行うもので,いわば机そのものが大きな算盤 となっている。

算盤といっても,日本や中国のもののように針金 に通した玉を上下させて計算するものではない。そ れは,表面に縦横の刻み目を入れた木や大理石の板,

あるいはテーブルであった。その上に大理石やガラ スなどで作ったクワルティルオーリという小さな玉 を置いて計算するのである。ちょうどおはじきのよ うなものであろう。14世紀の商業帳簿にはしばしば 多量のクワルティルオーリの購入に関する記載が見 出される。小さな玉を計算盤の上に並べて計算する のははなはだ厄介なように思われるが,十二進法や

二十進法が入り混じっている当時の貨幣体系の下で は意外に合理的なものだったのかもしれない。また,

これがローマ数字の計算に適していることも確かで ある。位取りのないローマ数字を算盤の上に置きな おすことによって,数の大小が視覚的に鮮やかに示 されるからである。

どのように計算するかは,次の 3507+7249の足し 算の例をごらんくだされば,そのイメージだけはお わかりいただけるであろう。

真中に縦線を引いて二つの欄bankireに区分さ れ,横線の最も上にあるものは×の印をつけて示さ れた。格上げに示される縦線が貫く計算玉(φ)は,

○に格上げされることを示している。

これらの計算盤は,修道院,国の大蔵省,市役所 の事務所,商家の会計事務室などで使われていた。

しかし各種文献に当たると,その使用状況はヨー 図 2

17 K.Hoskin & R.Macve: Writing, examining, disci- plining:the genesis of accountingʼs modern power,

“Accounting as social and institutional practice”

1994, Cambridge University Press,第3章,76頁 18 数の文化史 第5章に詳しい

19 同著 243頁

20 清水広一郎 中世イタリア商人の世界 1982年平凡社 27頁

21 数の文化史 225頁 図 3

(5)

ロッパ各地で異なっていたようである。

本論の主舞台であるイタリアについてみると,14 世紀にはその使用はすでにすたれかけていた。例え ば独自の社会史的立場で知られるゴウルズウエイト

R.A.Goldthwaite)は,“Schools and Teachers of Commercial Arithmetic in Renaissance Floren- 

ce” において,

この単純な道具(計算盤のこと)は,Saporiが 14 世紀はじめにイタリア商人がその実際の計算におい て同様な方法をもちいていたことに言及していると はいえ,北ヨーロッパとは異なりイタリアでは中世 後期には実際には使われていなかった。としている し,同著脚注でもFederigo Melisが 14世紀までに はフローレンスでは算盤がすたれかけていることを 強調していることに言及している。その上で 商人 に対する数学教育がますます洗練されてきたことに より,15世紀までにはこの実務さえ続けられること はなかったようである。 としている。

イタリアの最古の印刷された算術書である後述す Treviso  Arithmeticの英訳本を通読してみて も ,算盤あるいは計算盤への言及はなく,筆算によ る計算法の解説である。

ヨーロッパでは印刷術の発展によって,1500年頃 から一般向けの算術教科書が世にあらわれはじめる が,イタリアを除くとそれらはこのような線上の計 算法を教えるもの,あるいはそれも含めて教えるも ので,通常 インド・アラビア数字による 新しい 筆記計算法の入門書であった。

当時算術書として最も広く普及したのはアダム・

リーゼ(Adam  Riese,1492−1559年)の諸著作で ある。

1518年 線上の計算法,シュタフェルシュタイン のアダム・リーゼ著,すべての算術学校で 通常教えられる基本原理から始める方法 について

1522年 線上と羽軸ペンを用いる計算法,あらゆ る目的のための数,尺度,重量,シュタ フェルシュタインのアダム・リーゼ エ ルフルトの算術師匠により演算され編集 されたもの

1550年 線上と羽軸ペンによる計算書,実用比例

算の利点と早さについて,また暗算の徹 底した教えについて詳細に述べる,アダ ム・リーゼ著

などすべて数版を重ねている。

これらの著作は題名から伺われるように,少なく ともその一部は計算盤の解説に当てられていたと思 われる。例えば 1550年の 線上と羽軸ペンによる計 算書 (Rechenung nach der lenge auff den Linihen vnd Feder)の 第1編“auff den Linihen”  は線計

算で数取り算盤を用いる計算法の説明である。 L.

L.Jackson“The Educational Significance of Sixteenth  Century  Arithmetic”  にも 1571年版の Adam  Riese “Rechnung  auff der  Linien  und Federn”から図示入りで計算盤の説明部分を引用し 

ている。

これらの算術書は, 当時ドイツ各地に数多くの 計算学校 ができ,計算教師が誕生し,所によって は,計算教師たちが同業組合(ギルド)を作って,

独占的な権利を擁護するものもあった。 という時 代背景を前提としており,アダム・リーゼ自身この ような計算教師の一人であった。

リーゼは 16世紀における最も偉大な計算教師で あるとの見方とも一致して,リーゼの本はこの世紀 の最も有名な教科書の一冊として特長づけられてい る。この時期のドイツにおける商業算術は,計算盤 とローマ数字を基礎とした古い算盤法から,ペンと インド=アラビア数字を用いた筆算への進歩にちょ うど関わっていたのである。

この時代筆記数字は次第にローマ数字からイン ド・アラビア数字に移行しつつあったとはいえ,イ タ リ ア を 除 く ヨーロッパ 各 地 で は 計 算 や 帳 簿 の チェックには計算盤を使用していたのである。図 2 を見ても明らかなように,当時の商人は会計帳簿の 傍らに常に計算盤を置いて,計算は計算盤で行い,

その結果を会計帳簿に記帳していたと思われる。あ るいは会計帳簿に記入された数字を,計算盤で二重 にチェックしていたのかもしれない。数の筆記が計 算から分離されていたのである。

そして後述するインド・アラビア数字の普及には,

このような計算盤上での位取りの習得と空位の欄と

22 R.A.Goldthwaite: Banks, Palaces and  Entrepre- neurs in Renaissance Florence,1995,Variorumの第 2章

23 F.J.Swetz: Capitalism  and Arithmetic,1989, Open

Courtの第2章が同著の英訳に当てられている。 

24 数の文化史 205頁

25 小倉金之助 数学教育史 1973年岩波書店 29頁 26 L.L.Jackson:The Educational Significance of Six-

teenth Century Arithmetic,1972,AMS PRESS,26頁 27 船山良三 身近な数学の歴史 1991年東洋書店 256頁 28 G.Poitras:The  Early  History  of Financial Eco-

nomics,From Commercial Arithmetic to Life Annu- ities and  Joint Stocks,1478‑1776,2000, Edward Elgar Publishing Limited, 127頁

(6)

結びついた零の概念とが,無意識のうちとはいえ何 らかの役割を果たしたのではあるまいか。

本章に直接関係しないが,第1章及び本章でも触 れたクロンヘルムの“Double Entry By Single” は,1816年から 1817年にかけてthe West Riding of Yorkshireにロシア軍の軍服調達契約のため派 

遣されてきた代表団が算盤(ロシアのシュチェット)

を持ってきていたことと,それが相当の速さと正確 性をもって通常の計算をこなしたことに言及してい る1節がある。アジアを除くと算盤が最近まで使用 されていた国はロシアである。ナポレオンのロシア 遠征の際捕虜になった射影幾何学の創設者ポンスレ が,ロシアの算盤を持ち帰りその普及に努力した 話 は有名である。

⑷ ローマ数字

16世 紀 に い た る ま で ヨーロッパ で は 圧 倒 的 に ローマ数字が用いられていた。ローマ数字はエジプ トの象形文字(ヒエログリフ)同様書く記号は一意 的にその意味を持っており,個々の数を表す記号は 必要に応じて繰り返して書かれたり,追加されたり するので,数学的には 繰り返し系(tallying  sys- tem)と呼ばれている。これに対しギリシャ数字はア ルファベットを数を表す記号とするので,繰り返し は存在せずコード系(code system)と呼ばれる。こ れらに対しインド・アラビア数字はコードを1から 9に限定し,置かれている位置によって新しい意味 を付与する位取り系(propositional system)であ る。ローマ数字がエジプト数字と異なるのは,10の べき(I,X,C,M)ばかりでなくそれらの5倍

(V,L,D)も集合単位として用いていることであ る。

ローマ数字は現在も時計の文字板や序数,年代表 示に一部用いられているので,あらためて説明する 必要もないであろうが,今帳簿への記帳の場を想定 すると,例えば 3789は

MMMDCCLXXXVIIII

と書くことになり,インド・アラビア数字に慣れた 我々には相当の困難が伴う。さらにこの数字での筆 算は想像を絶するものがある。もちろん実際に加法 と減法を前記 零の発見 に掲載の例示 でやってみ ると著者もいうようにインド記数法より簡単なケー スもある。

DCCLXXVII 777

CC  X  VI 216

DCCCCLXXXIII 993

DCCLXXVII 777

CC  X  VI 216

D   L   XI 561

吉田洋一も 商業簿記などにおいて 17世紀ごろま でローマ数字が一部で愛用されていたのはこのため であろうといわれている。 と記している。

⑸ アラビア数字

われわれがアラビア数字あるいは算用数字と呼ん でいる数字は,もともとはインドの数字がアラビア を経由してヨーロッパに導入されたものであり,正 式にはインド数字あるいはインド=アラビア数字と 呼ぶのが正しいのだが,本章での章題としてはアラ ビア数字という一般的呼称を用いている。このよう なインド数字およびその表記法を含め,インド=ア ラビア数体系とよばれている。

インド=アラビア数体系は,前述したように数学 的には位取り系と呼ばれているように,その特長は 位取り記数法にある。それぞれの数字はその書かれ た位置すなわち桁によって,その桁に特有の 数>

を表わしている。これは算盤での数表示と同じであ り,従って玉を動かさなかった桁を表わす記号,す なわち 0> の用意がいることになる。その代わり 1から9までの記号に加えてこの記号0さえ導入し ておくと,どんな大きい数でも自由に表わすことが できるし,更に後代には小数という考えを導入する ことによって,絶対値のどんなに小さい数でも表わ すことができるという利点がある。

近代の 位取りによる>記数法が考案されるまで,

歴史の初期から計算技術に進歩がほとんどみられな かったのはそのためである。つまり,数に視覚的で 空間的な性格が与えられ,聴覚・触覚の母体基盤(マ トリックス)から抽象されるまで,数は呪術的領域 から脱れることはできなかった。 のである。

1,2,3,4,5,6,7,8,9および0の 十個の数字を用いるだけで,あらゆる自然数を自由 に書きあらわしうることになる。

29 数の文化史 174頁,吉田洋一 零の発見 1956年岩 波新書2頁

30 零の発見 29頁

31 同著 29頁

32 村田全・茂木勇 数学の思想 1966年NHKブックス 74頁

33 Marshall McLuhan: the Gutenberg  galaxy,1962, Routledge & Kegan Paul,180頁

邦訳森常治訳 グーテンベルグの銀河系 1986年みす ず書房 273頁,なおトビアス・ダンチッヒ 数―科学の ことば からの引用

(7)

もちろん,中国や日本での表記(例えば六千三百 五十二といった)も本質的な相違はないが,残念な がら大きな数字について万,億,兆,……と無限に 記号を創出していかなければならない欠点がある。

インド数字の位取り記数法の特長とともに特に注 意すべきは,数としての0の発見である。 というの は位取り記数法を単に数の記録用として使うだけで なく,この記数法によって計算を行う場合には,わ れわれが日常やっているように,0をただの記号と は見ず,1+0=1,1×0=0などという計算の できる,新しい一つの 数> と認めなくてはならな いからである。

インド=アラビア数体系の長所は,二つの数の大 小が一目で判定できるほか,筆算におけるその便利 さは前述したローマ数字による乗法,除法と比べる と明らかである。吉田洋一のいうように インド記 数法こそ唯一の 計算数字 であり,また唯一のす ぐれた 記録数字 でもあるのである。

しかし 0> の概念は,1や2などと同じように 指の数や羊の数など数えられるべき対象と一対一対 応が可能ではないので,それが数か状態か理解する には観念上の飛躍が必要である。中世においてゼロ が 異端の象徴 として,しばらくの間敵意をもっ て迎えられたのもむべなるかなと思われる。

本論と直接結びつくものではないが,このような ゼロの性質を本論同様フーコーの考古学に倣い分析 したものとして,ブ ラ イ ア ン・ロ ト マ ン(Brian Rotman)の ゼロの記号論 ⎜ 無の意味するもの 

がある。視点の斬新さに触れていただく意味でその 一部を引用すると,

ルネサンスとして知られる不連続点の一部とし て西洋文化に起こった,数,視覚的描写,貨幣交換 の各コードにおけるいくつかの重大な変化 ⎜ 算術 の実践におけるゼロの導入,透視術における消点の 導入,経済交換における信用貨幣の導入 ⎜ が三つ の同形的開示に他ならないということ,同じ記号生 成性配置の,異なった,しかしある形式記号論的意 味においては同意義的なモデルに他ならないという こと。数記号にとってのゼロは,透視図法的図像に とっての消点,貨幣的記号にとっての信用貨幣に相 当する。これら三つのコードに導入された記号はい ずれも記号についての記号すなわちメタ記号であ り,その記号とともにもたらされる統語法を介し他

のいくつかの記号の不在を指し示す意がある。さら には,これらコード内に生じる ⎜ ローマ数字から インド数字へ,ゴシック美術の図像から透視図法的 絵画のそれへ,鋳造金貨から擬制銀行貨幣の使用へ という ⎜ 変動が記号論的崩壊の並行パターンを開 陳してみせるということも言ってみたいと思う。

また同著では,第1章で取り上げたシモン・ステ ヒン(Simon Stevin)がその著 十進法 で展開し たゼロを数の 原基>として,記号に対する モノ の先行性という信仰を覆してみせた先駆性に,相当 の紙面を割いて解説していることも間接的に本論と 関係している。

2,アラビア数字のヨーロッパへの導入

773年頃バクダッドの宮廷を訪れたインドの天文 学者が,インドで書かれた天文学の書を一緒に携え て来て,これを時のカリフにたてまつったと伝えら れているが,インドの記数法がアラビア人に紹介さ れたのもこの時ではなかったかと言われている。

7世紀から 13世紀にかけてアラビア人がインド からスペインに到るサラセン大帝国を建国し,その 後東西二つのサラセン帝国に分裂するが,インド数 字も西アラビアと東アラビアのインド数字に分裂 し,書体も相当に異なる。今日の西洋数字の直接の 祖先は西アラビア数字(グバール数字)の方である。

インド数字のヨーロッパへの導入には二つの異 なった流れがある。一つは学者,すなわち学識者用 の学術書を経由しての導入であり,もう一方は商業 という実務の世界を通じての導入である。

11世紀になってコルトヴァ,トレド,グラナダ等 にイスラム教の大学が発達するにおよんで,イギリ ス,イタリアその他のヨーロッパ各地から,ある時 はイスラム教徒に身をやつす苦痛さえ忍んで,これ らの町々に笈を負う学徒が少なくなかった。こいう 人たちが,他のさまざまのサラセンの文物とともに,

またここにも伝えられていたインド数字,ないしイ ンド記数法をヨーロッパに輸入するにあずかったこ とは容易に想像されるところであろう と 思 わ れ る。

12世紀の初頭にスペインで数学を学んだチェス ターのイギリス人ロバートによってアル=フワリズ ミーの算術書がラテン語に翻訳されたが,これがイ ンド数字を西洋に紹介したものとして知られるもの

34 数学の思想 77頁 35 零の発見 18頁

36 ゼロの記号論 西野嘉章訳 1991年岩波書店

37 同著3頁 38 零の発見 7頁 39 同著 28頁

(8)

の中で最も古いものである。

しかしこれらの知識は,基本的には修道院の僧房 にしまい込まれた。庶民にまで降りてくることは決 してなかった。

これらの学術書と発祥の地,内容において異なる が,数学史において重要な地位を占めるものに,前 述した商人で,数学者のイタリア人ピサのレオナル ド(Leonardo Pisano,別 名Fibonacci,1174?−

1250?年)の 算盤の書 (Liber abaci,1202年,

1228年第2版)がある。彼はイタリアの貿易商の子 として生まれ,イスラム教の学校をふりだしに,北 アフリカやヨーロッパの各地に学んで,多くの記数 法計算法を見聞したが,その後ピサに帰って当該書 を書いた。この他にも“Liber quadratorum ”(1225 年,平方の書),“Practica  geometriae”(1223),

“Flos and Epistola ad Magistrum  Theodorum ” (1225)などの数学書を書いている。Liber abaciは 誤解されやすい題名 ⎜ 算盤の書 ⎜ がついてい るが,その著作は算盤に関する本ではない。R.マ ンキュヴィチの邦訳本ではこの書の題名を 算術の 書 としている。 この本は代数的方法と問題に関す る完璧な論文であり, 新しい数字を用いる計算方 法の入門書であった。……この書によって,西洋で インド数字が広い範囲にわたって採用され,新しい 演算が行われることの基礎が固められた。

第1章で取り上げたパチョリの スンマ の序文 の中でもおよそ 300年前に書かれたレオナルドの

“Liber abaci”の業績に謝辞を表明しており,テイ ラー(R.E.Tailor)は“No   Royal   Road-Luca Pacioli and His Times” において, パチョリの著

作の主な源泉は,Leonardo da Pisaの著作である。

とまで言っている。

もし資本主義の始まった時を定めるよう求めら れるなら,フィボナッチの 計算板の書 が出版さ れた年(1202年)をあげるであろう,というゾンバ ルトの言葉にはたしかに一理ある。 との指摘もあ る。

また科学史家ジョージ・サートン(George  Sar-

ton)は本書の出版された 1202年を ヨーロッパ数 学の誕生の年 と呼んでいるし, ピーター・バーン スタイン(Peter Bernstein)も 西洋での数の物語 は 1202年から始まる。 として,フィボナッチの解 説に相当の紙面をさいている。

さてフィボ ナッチ のLiber Abaciは,つ い 最 近

(2002年)シングラー(L.E.Sigler)によりラテン語 の写本から英語に訳されており,われわれは待望の 原書を全文で読むことができるようになった。 こ こではLiber abaciはBook of Calculationと訳さ れ て い る。ま ず シ ン グ ラーに よ る そ のPart Introductionから上記タイトルの解釈及び同著の影 響について概説的説明を引用する。

次のことを明確にしなければならない。すなわ ち,abacus(算盤 ⎜ 筆者注)という語を語源にす るとはいえ,abaciという語は矛盾するようだが 13

世紀にはabucusを使わない計算をさしていた。し

たがってLiber abaciは 算盤の書 と訳されるべき ではない。Maestro dʼabbacoは,算盤を用いずに直 接インド数字(Hindu numerals)で計算する人をあ らわしており,abacoという語はそのような計算を 行う専門分野のことである。

科学者の間だけでなく商業においても,また一般 大衆の間でも,ローマ数字をインド数字に置き換え ようとするのがLeonardoの目的であった。彼は彼 が想像していた以上にその目的を達成したであろ う。イタリアの商人は地中海世界に行く時にはどこ にでもこの新しい数学と方法を持ち運んだ。……ほ ぼ3世紀にわたってLeonardoLiber abaciに基 づいたカリキュラムが,トスカーニ地方で通常商人 になることを目指す児童たちあるいは数学を学びた い他の人たちが入学したabacoの学校で教えられ た。他の教師たちや幾人かの非常に優れた数学者た ちも,学校で使うために同じようにabacoの本を書 いた。これらの本は,初歩的な規則の教則本から良 質 の 数 学 書 ま で さ ま ざ ま で あ る が,ど の 本 も Leonardo PisanoLiber abaciほど包括的で理論 的で素晴らしいものはなかった。

しかしレオナルドの生存中は,現在では数学の記 念碑的業績とみなされているが,当時はジョン・オ ブ・ハリファックス(サクロボスコの名の方が有名)

40 数の文化史 312頁

41 R.マンキェヴィチ 図説世界の数学の歴史 2002年東

洋書林 68頁

42 ボイヤー 数学の歴史2 195頁 43 数の文化史 334頁

44 R.E.Tailor: No Royal Road,1942, The University of North Carolina Press, 62頁

45 木原武一 ルイス・マンフォード 1984年鹿島出版会 168頁

46 ルイス・マンフォード 167頁

47 ピーター・バーンスタイン,青山譲訳 リスク・神々へ の反逆 1998年日本経済新聞社 42頁

48 L.E.Sigler:Fibonacciʼs Liber Abaci,2002年, Sprin- ger

49 Fibonacciʼs Liber Abaci,4頁

(9)

のもっと初歩的な 通俗計算法 ほど普及していな かった し,また 初めのうちは時代を超えすぎて いて,あまり広くは読まれなかった。もちろん当時 の大学で用いられるような本でもなく,レオナルド 自身,一生ピサ大学とも無縁のまま過ごしたという ことである。

シングラーのいう 算盤の書 の縮刷された自国 語版は,やっと 13世紀後半(現存する最古のものは 1290年頃)になってあらわれ,後述するようにこの 頃出現する商業学校(abbaco school)で使われるよ うになるのである。

この本は次の言葉で始まっている。

インドの九つの数字は9,8,7,6,5,4,

3,2,1である。これらの九つの数字と,アラビ アでは シフル と呼ばれている0とを用いると,

どんな数でも自由に表すことができるのである。

本書は次の 15章に分かれている。当時の商業数学 の概要をイメージしてもらう意味で,英訳による章 タイトルと, 数学セミナー の 1989年増刊号 100 人の数学者 フィボナッチの項から引用したその内 容を括弧で示そう。おわかりのように括弧で示した 内容は,あくまでも数学的観点に立った内容分類に なっている。

Here Begins the First Chapter(インド・アラ ビア数字の読み方と書き方)

On the Multiplication of Whole Numbers(整 数の掛け算)

On the Addition of Whole Numbers(整数の たし算)

On the Subtraction of Lesser Numbers from Greater Numbers(整数の引き算) 

On the Divisions of Integral Numbers(整数 の割り算)

On the Multiplication of Integral Numbers with Fractions(整数と分数との掛け算) 

On the Addition and Subtraction and Division Of Numbers with Fractions and the Reduc- 

tion of Several Parts to a Single Part(分数 と他の計算)

On Finding The Values of Merchandise by the Principal Method(比例) 

On the Barter of Merchandise and Similar Things(両替)  

10 On Companies and Their Members(合算算)

11 On the Alloying of Monies(混合問題)

12 Here Begins Chapter Twelve(問題の解法)

13 On the Method Elchataym  and How  with It Nearly All Problems of Mathematics Are  Solved(仮定法)  

14 On Finding Square and Cubic Roots, and on the Multiplication, Division, and Subtraction  of Them,and On the Treatment of Binomials  and Apotomes and their Roots  (平方根と立法

根)

15 On Pertinent Geometric Rules And on Prob- lems of Algebra and Almuchabala(幾何と代 数)

括弧の内容とタイトルとの関係について若干補足 すると,8(比例)とは,具体的には重量や通貨と 関連して商品価格を比例の方法を用いて算定するこ とであり,9(両替)とはバーター取引や異種通貨 の交換問題のことである。10(合算算)の具体的内 容はパートーナーシップに関する精算問題であり,

11(混合問題)は貨幣の鋳造問題を比例の方法で解 くことがその具体的内容である。13(仮定法)は現 代流に表現すると,Ax=Bを同じく比例を用いて解 くことを示している。

なお本論とは関係ないが,このフィボナッチこそ 生物学その他でわれわれにお馴染みの フィボナッ チ数列 の,あのフィボナッチであることを申し添 えておく。

トレドを中心とする古典の翻訳作業を中心とす るアラビアからの学問の移入とは別に,数学の歴史 から見ればそれよりはるかに大きなうねりが,アラ ビアからイタリアへと押し寄せてきた。それはまっ たく学問を背景とするようなものではなく,中世 ヨーロッパ経済・社会の新しい動きが引き寄せたと いってよいものであった。そこから内部に強い活力 を秘めたヨーロッパ数学とでもいうべきものが生ま れてきたという事実に,私たちは眼を見据えておく 必要がある。……ヴェネツィア,ジェノヴァ,ピサ,

フィレンツェなどのイタリア諸都市が国際貿易の拠 点となったことは,この中世経済の迎えたビッグ・

50 図説世界の数学の歴史 68頁 51 数学の思想 81頁

52 P.F.Grendler: Schooling   in  Renaissance  Italy- Literacy and Learning 1300‑1600,1989, The Johns Hopkins University Press, 308頁

53 Fibonacciʼs Liber Abaci,15頁

54 ドイツの子供向数学書のベストセラー 数の悪魔 (エ ンツェンスベルガー著 1998年晶文社)第6話がその楽 しい解説となっている。バーンスタインの前掲 リス ク にも解説がある(46頁以降)。

(10)

バンに対し,国際的な金融取引が行われるようにな り,それまでの商慣習を整備しなければならなく なったことを意味している。……このことが,まず イタリア商人の間に,能率のよい計算法や,記入し やすい数表示を求める機運を高めていった。ここに 以後 300年近くをかけて,それまで用いていたロー マ数字から,ヒンズー・アラビア数字とそれを用い る 10進法表記へと,ヨーロッパの数表記の画期的な 転換が行われる契機があった。同時にまた算盤から 筆算への移行の中に,演算の術 ⎜ アルゴリズムー への関心が高まっていったのである。

しかしこのような実務界へのアラビア数字の普及 は遅々たるものであった。ローマ数字とアラビア数 字の混成もなされていたらしい。例えば次のような 用法である。

X3…… 13 C 25…… 125 M.CCC.35…… 1335 M.CCCC.8. …… 1482

アラビア数字の普及が遅れた原因にはいくつかが 考えられる。

一つは,この新数字の形が一定していないために しばしば混乱や間違いが起こったことである。この ため法的な証拠力を欠くことにもなり,かつ不正を 防ぐことも難しかった(例えば数字表記の不安定の ほか,その表示欄の端に一つのゼロを書きたすこと によって,容易に大きな数に変更することができる など詐欺行為も少なからず発生したらしい )。

例えば簿記に関する古いベニスの書に次のように 説明されている。

……古い数字だけを使用すること。なぜなら,そ れらは新しい計算術のようには簡単に変造すること ができないからである。新方式では一つの数を別の ものにたやすく変えることができる。たとえば,ゼ ロは6や9にできるし,同じようにして,いくつも の数も変造することができる。

吉田洋一 零の発見 から当時のインド数字の形 の変遷の様子を引用するが,その不安定性が推察で きる。

1299年フィレンツェ市議会は,財務取り扱いに適

用する法令 計算法に関する法令 を発布し,会計 簿に金額を数字で記載し,またそれらの金額を記帳 文言から分け離すことは違法であるとし,20ソリ ディの罰金を課した。そして金額は従前通り文字で 記載し,記帳自体の中におくことを命じている。ア ルテ(ギルド)によってはインド数字の使用を禁じ ているところさえあった。

さらに志賀浩二が言及しているように 当時は ʻ算盤派ʼʻ算術派ʼ(ʻ筆算派ʼ)が対立していたよう に(マクルーハンは 文字人間対数字人間の戦い と表現している ),計算は多く算盤を用いて行わ れ,数字はただ計算の結果を書きしるす役目しか もっていなかった事情もインド数字がそれ程急速に 普及しなかった原因かもしれない。メニンガーはさ らにインド数字の伝播の障害として,安い値段で計 算用紙が入手できなかったこと,計算演算(特に割 算)が未開発であったこと,ほとんどの人がゼロの 概念について理解することがむずかしかったことを その理由にあげている。 記録によると,インド記数 法が通貨に用いられたのはスイスが最初で 1424年,

暦に使われたのが 1518年であるという。 (バーン スタインの本には,ノルマン人によって発行され 紀 元 1134年 と刻印されたシチリアの硬貨の記載があ る )

しかし新しい記数法が導入から普及まで 300年の 55 志賀浩二 数の大航海 1999年日本評論社 28頁

56 D.C.McMurtrie:The Book-The Story of Printing &

Bookmaking,1943, Oxford University Press,60頁 57 身近な数学の歴史 229頁

58 数の文化史 336頁,英訳本(426頁)にもこの簿記書 の引用先は明示されていない。

59 零の発見 10頁

60 数の大航海 33頁

61 the Gutenberg galaxy,180頁 62 数の文化史 337頁

63 数学の思想 81頁 64 リスク 59頁

図4

(11)

長きを要した原因を探るに際して,個別事象の考証 に深入りすることには注意を要する。S.Bochner 指摘するように 私の知る限り今まで試みられて きた合理化はすべて社会経済的なものである。我々 の現在の数学はその起源をロンバルディアとレヴァ ントの会計係の貨幣交換の必要に負っていることを 熟視することは,奇妙で,若干苦々しいかもしれな い。のであり,またA.Murrayの言うように 本来 の数学は,その歴史を商業と記録保存の歴史に負っ ている。……新しい記数法の採用のやり方は,決し て外国からの技術的衝撃ではなく,その国における 願望と圧力の反映なのである。

基本的には,新しい記数法は商業,特に貨幣経済 の発展に即応してその普及をみたと考えるのが妥当 である。

13世紀の間に,新法による計算,新数字を用いる 計算は,商社,貿易会社でなじみ深いものになって いった。ときには,請求書から会計簿への転記にさ え用いられた。とはいえ,簿記はむかしからの方式 で続けられた。

イタリアは北ヨーロッパよりはるかに進んでお り,北ヨーロッパの商人たちにとってヴェニスは 14 世紀以降教育の試験場であった。これらの若い商売 見習が故郷にもちかえるものの中で最も重要なもの は,インド式位取り記数法と,日常の問題を解く生 きた実地のインド数字の使用法であった。

14世紀になると北イタリアに商業資本主義が出 現し,数を扱うことが,教会で教育を受けたラテン 語漬けの聖職者たちから地域言語で教育を受けた商 人,工人科学者,建築家たちの手に渡り,算術は彼 らにとって交易や技芸の基礎必須科目となった。そ の結果,アラビア数学の導入,わけてもインド数字 のそれを長きにわたって提唱し続けてきた人々,た とえば,1202年に 算盤の書 を著したフィボナッ チらの文献が次第に影響力を持ち始めた。複式簿記

(差引ゼロ原理)の占める中心的役割や資本主義の打 算的要請は,ゼロという 異端の象徴 に対し燻り 続けていた抵抗を一掃し,17世紀初頭までに,イン ド数字が,数を記録したり,操作したりするさいの 支配的モードとして,ヨーロッパの中でローマ数字

へ完全にとって代わることを保証したというわけで ある。

スウェツ(Frank J.Swets)はその著“Capitalism

& Arithmetic”の第2章にヨーロッパ最初の算術テ キスト“the Treviso Arithmetic1478の英訳をの せているが,このテキストに関して

このTreviso Arithmeticの教授法と例示はいか にインド・アラビア数字が 15世紀末までにイタリー で進化し,成長したかの証しを示している。この時 までには,数字は現在受け入れられている一般的な 形に進化している。同様加算・減算の演算方法も標 準化され,現在の実務の形になっている。しかしな がら,乗法と除法のやり方はいまだ流動的であっ た。 と要約している。

インド・アラビア数字による記数法がヨーロッパ で一般化し始めるのは 16世紀に入ってからである。

それは 1450年,グーテンベルグが活字印刷を発明し て以来,インド・アラビア数字の字形が安定してき たことが幸いしたのである。振り返ってみると,ヨー ロッパの知識人がインド・アラビア数字による記数 法を知ってからそれが普及するまでには,ずいぶん 長い年数を要したわけである。それでも,最も速く 普及したのはイタリア,スペインで,次いでドイツ,

フランスが普及し,イギリスで普及したのは実に 17 世紀になってからであった。 イギリスの状況につ いては,バクスター(W.T.Baxter)が アラビア数 字は 17世紀までには一般に使われるようになり,す べての児童の扱える算術の基本的なルールになっ た。 と記している。

ただしイギリスにおいても一部知識層においてア ラビア数字が使用されていたであろうことは,1290 年の法律関係の写本に所有者が付した索引にSub- mersus (ʻdrowningʼ). xli (ʻ41ʼin Roman numerals), 3(ʻ3ʼin Arabic numerals),f.(the letterʻfʼ)という一 部アラビア数字の使用の記述が見られる ことから も推測される。

この時代を総括する意味でポイトラス(Geoffrey Poitras)から引用しよう。 

65 R.W.Hadden: On  the  Shoulders  of  Merchants, Exchange  and  the  Mathematical Conception  of Nature in  Early  Modern  Europe,  1994年, State University of New  York Press,  88頁

66 同著 87頁

67 数の文化史 337頁 68 同著 338‑339頁

69 ゼロの記号論 16頁

70 Capitalism & Arithmetic,290頁 71 身近な数学の歴史 229頁

72 R.H.Parker & B.S.Yamey ed.:Accounting History- Some British Contribution,1994, Clarendon Press, 221頁

73 M.T.Clanchy: From  Memory to Written Record, England1066‑1307,1979年, Edward Arnold, Plate XIX  

 

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