古来︑一般に東南アジアは︑虎の棲息・野生する地域として知ら
れ︑ベトナムもその例外ではなかった︒すでに杉本直治郎氏が指摘
されたように︑日本の仏教界では︑中国や天竺にはもちろん︑中国
より天竺に至る地域にも︑所々に虎が棲息しており︑そのため人畜
の害せられることが多い︑ということが漠然と信じられ︑代々語り
継がれてきた︒かの真如親王のいわゆる虎害遭難伝説も︑かかる東
南アジア観を前提にして創出されたものといわれる︒
近代以降の日本人の東南アジアに対する偏見は︑さまざまな理由
で形成されてきたが︑人びとに恐怖心を与える虎の存在もまた︑こ
の偏見を増幅させる一因であった︒虎の棲息する地域に住む人びと
が︑この野生動物といかにたたかってきたかに目を向けず︑そして
彼らが︑この過酷な自然条件のなかでどのような知恵を生み出し︑
これにかかわる思想や宗教を有するに至ったかを深く考え︑知ろう
とせず︑ひたすら﹁文明﹂を価値判断の尺度とした日本人は︑この
ベトナム前近代の虎患について︵片倉穣︶ はじめに ベトナム前近代の虎患について
ような東南アジア︑そしてベトナムを﹁遅れた﹂地域︑﹁未開﹂︑﹁非
文明﹂の世界として捉える意識傾向が強かった︒
本稿では︑東南アジアのなかで虎が数多く棲息し︑その害をしば
しば被ってきたベトナム前近代の虎患︑すなわち虎害と︑虎をめぐ
る若干の問題点を考察する︒この論稿において︑虎という野生動物
とたたかいながら︑それとの共生を図ってきたベトナム民族と諸王
朝の歴史を跡付け︑その過程で論議された諸問題に言及することに
なるが︑これが︑虎の棲息地域に居住する人びとの生きざまを歴史
的に回顧し︑当の民族の歴史と文化の一側面を理解するための一助
となれば幸いである︒
なお︑本稿では﹃大越史記全書﹄︵﹃校合本・大越史記全書﹄︶︑﹃欽
定越史通鑑綱目﹄︑﹃大南篁録﹄︑﹃欽定大南会典事例﹄の書名を便宜
上︑﹃全書﹄︑﹃綱目﹄︑﹃嘉録﹄︑﹃事例﹄と略記する︒
一ベトナム人と虎
ベトナム人にとって︑虎ゴグの名︑言目は悪い勢力の象徴であり︑
片倉
穰
一ハーニ
人びとに恐怖心を与え︑有害な存在であったが︑同時に勇力の象徴
であり︑かつ信仰の対象ともなる動物であった︒
虎がベトナム人にとってほとんど日常的にかかわる存在であった
ことは︑この動物に関する説話や諺の類の少なくないことがそれを
2
如実に示すが︑例えば︑﹃嶺南披怪列伝﹄巻一︑鴻彪伝に﹁国初衣食
未足︑以木皮為衣︑⁝:・架木為屋︑以避虎狼之患﹂とあり︑家屋を
造ることと虎狼の患を避けることとが深く関連していたという伝承
が語り継がれてきたことにも︑その一斑を窺い知ることができよう︒
虎の勇力と虎への恐怖心は歴代の王朝権力により政治的に利用さ
れたや虎の威を借りて威嚇を示すために︑軍隊とか将軍の呼称に虎
の名を付したり︑虎の形を模した戦艦を建造したりしたが︑﹃全書﹄
本紀︑巻一︑丁紀︑先皇帝︑戊辰元年︵九六八︶に
帝即位︑⁝⁝日大勝明皇帝︑帝欲以威制天下︑乃置大鼎於庭︑
養猛虎子鑑︑下令日︑有違者︑受烹噛之罪︑人皆畏服︑無有犯
者
③
とあるのは︑人びとの虎に対する恐怖心を︑王権が自らの政治支配
のために利用した典型的な事例であった︒
一方︑ベトナム及びその近隣地域では猛虎崇拝が行われていた︒
周知のごとく︑ベトナムには︑アニミズムとともに日月星辰・植物.
動物ならびに物体を霊物視する思想があり︑虎の恐るべき威力のな
かに︑人びとに災厄をもたらす精霊を防ぐ魔力を見出し︑虎を神と
して崇敬する信仰が存在した︒虎は恐るべき動物であると同時に超
絶的な力そのものであり︑精霊の功徳を有する動物と信ぜられ︑し
ばしば人に化身し︑悪鬼を捕え︑病魔を取り除いてくれる動物でも ベトナム前近代の虎患について︵片倉穣︶
二﹃国朝刑律﹄の虎に関する諸条文
虎がインドシナ全域にわたって棲息し︑好んで人に襲いかかって
きたことはつとに指摘されてきたが︑前節でも例示したごとく︑黎
代以前のベトナムにおいても︑虎の棲息を記した文献を探し出すの
はさほど困難ではない︒なぜか﹃安南志略﹄巻一五︑物産の条には
虎の名は見当たらないが︑﹃安南志原﹄巻一︑土産︑獣の条のほうに 六四
4
あった︒民衆のなかには虎のひげや爪を護符・医薬品として重宝が
5
る習俗さえみられた︒﹃伝奇漫録﹄巻三︑昌江妊怪録に︑虎が人に化
した話が︑﹃全書﹄本紀︑巻三︑李紀︑仁宗︑丙子会豊五年︵一○九
6
六︶春三月の条には︑黎文盛が奇術を学び虎形に変じた話がみえ︑
﹃安南志原﹄巻三︑雑志︑愛州の条には︑﹁其人能変為虎﹂とあり︑
﹃陳剛中詩集﹄巻二︑安南即事にも︑﹁人能幻虎躯﹂︑﹁則幻形為虎﹂
とあって︑人がよく虎に変じ︑化したことが述べられている︒虎の
神霊は人に乗り移り︑いわゆる葱き神になると信じられていたので
ある︒虎を祀った著名な祠廟としては広義省平山県の寄虎祠があり︑
7
この廟に祀られた虎は寄虎神と称されていた︒
虎への崇敬と信仰がいつ頃から始まったのか︑確かめる術はない
が︑往古よりベトナム人のなかに存在していたのではないか︑と推
⑧
測される︒人にとって有害な︑恐怖の野獣を︑それ故に神として祀
り上げる思想は︑諸他の民族のなかにも容易に見付けることができ
るが︑このような虎に対する異色の宗教心理は︑やはりベトナムの
民間信仰を特徴づける一要素と考えてよく︑またこの民族と虎の浅
からぬ因縁を物語っているよ︑フである︒
は象に次いで虎の名がたしかに掲げられていたし︑﹃越史略﹄巻三︑
玩紀︑恵宗︑癸未建嘉十三年︵一二二三︶に
己丑地震︑是冬︑虎入諸村邑
とあり︑﹃全書﹄本紀︑巻七︑陳紀︑憲宗︑甲午紹豊十四年︵一三五
四︶に
冬︑十一月︑有黒虎見於城内
とあり︑同書︑本紀︑巻十一︑黎紀︑仁宗︑丙子延寧三年︵一四五
六︶にも
9
十一月︑有虎入城中延砿寺︑遣御前各執刀捉殺之
とあって︑黎代以前においては村落のみならず︑都城内にまで虎が
侵入しており︑人家や居住地域が必ずしも安全な状態になかったこ
とを暗示するかのようであるが︑ただ前掲三事例のうち︑建嘉十三
年の事例は王権の禅譲︑盗賊蜂起の記事がこれに続き︑延寧三年の
場合もこの直後に政変が勃発したとい︑フように︑村落や都城への虎
の出現が王権の衰弱︑治安状況の悪化を象徴する出来事として受け
止められていたことも看過すべきではなかろう︒時代は下がるが︑
﹃歴朝榛紀﹄巻一︑煕宗︑甲子正和五年︵一六八四︶五月の条をみ
ると︑﹁時順化地方︑多産璽鼠︑食害田禾︑又虎豹成群︑牛畜疫死︑
及人民餓季︑満子街路﹂と記され︑飢饅や治安状況の悪化︑そして
悪政と虎の出現とは相関連するという理解︑これを端的にいえば︑
虎などの猛獣が人畜に害を及ぼすのは悪政の結果と見なす儒家的論
理が︑ベトナムの場合にもなかったとはいえなかろ︑フ︒
ところで︑黎代以前の諸王朝は︑虎の出現に備え︑その被害を防
ぐためにどのような対策を講じたのであろうか︒実は︑黎朝の基本
ベトナム前近代の虎患について︵片倉穣︶ 法典﹃国朝刑律﹄には虎にかかわる三条の律文が収録されている︒
まず︑田産章に
諸所管部内有虎狼野猪︑咬害人民︑損傷禾稼︑而不用心設計収
捕者︑以既論︑能捕獲者︑賞依軽重︵三七一条︶
という﹃国朝刑律﹄独自の規定がある︒これは︑虎・狼ならびに野
猪が人民の生命や身体に害を与え︑彼らの穀物を損傷した場合︑所
轄の官吏は計略を設けて当の加害動物の収捕に勤めなければならな
い︒だが︑これを怠ったときは艇︑すなわち爵の資数︵一資から五
資︶を下降させることとし︑よく捕獲した者には捕獲物の軽重に応
じて賞を賜与する︑という定めである︒王権が虎対策に腐心した様
子を窺知することができよう︒
本条文では次の三点が注目される︒第一は︑人民の生命と財産に
損傷を与えた虎などの野獣を捕捉する責任を所轄の官吏に負わせた
ことである︒このことは︑黎代当時の村落等で虎による人的・物的
被害がけっして珍しいことではなく︑これを防止するために王権あ
るいは官憲の公的な力量に頼らざるを得ない状況が存したことを示
す︒第二は︑﹁設計収捕﹂を怠った官吏への量刑が単に艇とのみ定め
られ︑被害者に対する賠償についてはなにも触れられなかった問題
である︒この条文は加害動物の捕捉を主眼とする規定であり︑加害
以前における所轄官吏の管理責任にまで遡及してその罪を問うもの
ではなかったから︑当該部分は額面通り受け止めればよいのであっ
て︑賠償の支払いを義務づける規定ではなかった︑と解釈する︒黎
代に関しては未詳だが︑後述するように︑玩代になると虎に雲われ
艶死した者への郎銭が国家から支給されるようになるが︑これは賠
六五
償とは性質の異なる銭である︒第三に注目されるのは︑捕獲者に対
し賞を賜与する条項を導入した点である︒すでに先学により論及さ
れたように︑中国では猛獣捕獲者への報賞規定が︑古くは漢律にあ
り︑唐・明律自体には見当たらなかったが︑唐令︵開元令︶には猛
0 0
獣一頭につき絹四疋と明記されていた︒この三七一条には﹁賞依軽
重﹂と簡潔に記されただけで︑賞の額とその種別が判然としないが︑
この法典の通例及び後述の玩朝の報賞制から判断して︑原則として
賞は賞銭の意と解してよかろう︒金額は不明だが︑捕獲物の軽重に
より賞銭の額に差等が設けられたに相違ない︒そして︑条文中に記
され︒た﹁設計﹂は︑虎その他を捕捉するための計略を設けることで
あるが︑この点については︑次の五五六条の規定が参考になるであ
う︵z︑﹁ノ︒
さて︑﹃国朝刑律﹄雑律章に
諸施機槍︑作坑穿者︑杖捌拾︑以故殺傷人者︑減闘殺傷壱等︑
若有標幟者︑又減弐等︑其深山迦沢︑及有猛獣犯暴之処︑而施
作者聴︑価立標幟︑不立者︑杖陸拾︑以故殺傷人者︑減闘殺傷
参等︵五五六条︶
という条文がある︒これは︑むやみに罠や落とし穴を仕掛けて他人
やその人畜に被害を与えるのを避けるための法だが︑その書式なら
びに内容ともに﹃唐律疏議﹄巻二六︑雑律︑施機槍作坑穿の条とほ
0 0
とんど同様の条文である︒ただし︑量刑の面で一等ないし二等の改
変が施されてあり︑深山でも迦沢︵遠く離れた沢地︶でもない場所
に罠などを仕掛けたときの量刑が︑唐律に比べ二等軽く︑深山・遡
沢及び﹁猛獣犯暴﹂の所に同じく仕掛けて目印の標幟︵標識︶を立 ベトナム前近代の虎患について︵片倉穣︶
てなかったときの量刑が︑唐律に比べ二等重くそれぞれ法定された
が︑この量刑の相違は︑黎代において虎その他の猛獣が頻出し︑そ
れに伴う被害を無視し得ず︑それ故︑こうした捕捉用の仕掛けを設
ける機会が中国の場合よりも多いという状況の法的反映ではない
か︑と推考する︒この条文から︑猛獣を捕えるために罠を仕掛けた
り︑落とし穴を掘ったりする方法がこのベトナムでも採用されてい
たことが知られる︒前掲三七一条に記された﹁設計﹂の﹁計﹂とは︑
このような仕掛けなどを指称する語であったのである︒黎代以前の
虎狩りその他の猛獣狩りの方法については︑具体的に言及し得る史
料をいまだに見出せないが︑あえていえば︑兵士など多勢の人数を
動員して追い詰める人海戦術方式や︑五五六条にみえるような罠と
か落とし穴を仕掛ける捕獲方式︑牛または水牛などの餌を用いて待
伽
ち伏せする方式などが単用あるいは併用された︑と考える︒
同じ雑律章には︑この法典が独自に考案したと目される次の条文
が収められている︒
諸王公勢家不得畜虎習榑︑違者聴所在官司捉奏︑一品罰銭参百
貫︑二品弐百貫︑所在官司知而不挙者︑答伍拾︑既壱資︵六四
一条︶
これは︑王公・勢家が虎を飼養し︑これを調教することを禁じた規
定である︒この禁令に違犯したときは︑所在の官司にそれを﹁捉奏﹂
させ︑違犯者からは彼が所持する品級に応じて三○○貫または二○
○貫の罰銭を徴する︒そして︑この違犯行為を知りながら告挙︵うっ
たえ︑申し出ること︶しなかった当該官司に対しては︑答五○と艇
一資を科す︑という︒本条文中に掲げられた勢家とは︑同法典︑巻 ︷ハーハ
四︑盗賊章に﹁諸王公勢家騨璋柵云々﹂︵四五五条︶と注記されたよ
うに︑二品以上の権勢家を指称し︑同じ条文中に記された﹁捉奏﹂
とは︑かかる罪を犯した者を捕え︑その旨を上奏する意である︒後
者の﹁捉奏﹂の﹁捉﹂は︑虎を捕える意ではあるまいか︒この﹁捉﹂
には①虎を捕える︑②王公・勢家を捕える︑③虎と王公・勢家を捕
0 3
える︑以上の三通りの解釈が可能であるが︑王公や勢家は︑いわゆ
る八議のなかの議親と議貴︵﹃国朝刑律﹄巻一︑名例章︑三条︶の範
檮に属する高貴・上位の身分であり︑この犯罪に対する量刑も比較
的軽い罰銭であることなどから勘案すると︑﹁捉﹂とは①虎を捕える
意と解するのがもっとも自然ではなかろうか︒﹃国朝刑律﹄において
も︑八議の者などの犯罪に対しては通常︑一般の者のそれと同等に
措置してはならないことになっており︑おそらく唐の獄官令︵開元
二五年令︶あるいは﹃皇越律例﹄︑﹃大明律﹄および﹃大清律例﹄の
ように︑その身柄を無条件には拘禁し得ない特権が彼らに付与され
側
ていたのである︑7︒
前掲六四一条によると︑黎代当時︑王公・勢家のなかに虎を飼養
する者がおり︑これらの身分の間でかかる風習の存在したことが分
かる︒実は︑ベトナム前近代では皇帝自らが虎圏と称される施設を
造って虎を飼養し︑兵士と虎︑あるいは象と虎をたたかわせ︑これ
を圏外から観賞する催し物が行われていた︒少なくとも文献の記載
によると︑こうした催し物の最早期の例として︑陳代の重與九年︵一
二九三︶に上皇が望楼階に虎圏を築き︑兵士と虎をたたかわせて観
賞した話が掲げられ︑黎代においても︑虎圏の明記はないが︑襄翼
90帝が光治殿に御し︑虎と象のたたかいを観賞した記事がみえ︑院代
ベトナム前近代の虎患について︵片倉穣︶ でも︑明命十一年︵一八三○︶︑同十七年︑同十八年に虎圏を造り︑ あるいは虎圏や郊外に行幸し︑虎と象のたたかいを親閲した事例が 記載され︑嗣徳二十一年︵一八六八︶には﹁演象打虎約束﹂︵象と虎
0 0
のたたかいに関する規定︶を申定したことさえあった︒玩代の文献
によると︑虎圏は四周に垣根をめぐらせて虎を飼養しておくもので
あり︑虎と象︑虎と人をたたかわせる場所であった︒虎圏のなかで
虎と罪人をたたかわせる場合もあった︒
この六四一条は︑黎代において皇帝以外の王公・勢家のなかに虎
を飼養・調教する者がいたことを示すが︑そのような行為は律で禁
止の対象とされたのであり︑虎に関する催し物は︑いわば皇帝主催
の公的行事として限定的に執り行われるというのがこの法典の意思
であった︒王公・勢家に対する虎の飼養禁止が人命への危険性を配
盧した法的措置であったことは否定できないし︑虎の飼養︑虎圏で
の観賞が皇帝の個人的嗜好に属する問題であったことも完全には無
視できないではあろうが︑皇帝にとって奇烏・珍獣を手元に置くこ
とが自らの支配力の存在を証明することでもあり︑虎その他の飼
養・管理が人民支配の体制づくりと強化の一環という役割を演じて
いたことも看過してはならないである︑フ︒
三阪朝の虎患対策
院代に入っても虎の出没及び虎患を記した史料は一向に減少せ
ず︑むしろ︑前代よりも虎患の拡大傾向さえ読み取れるほどであり︑
その内容もかなり具体性を帯びるよ︑フになった︒玩代の地誌﹃大南
一統志﹄をひもとくと︑各省の土産の項に虎を掲げた省が高平・広
六
七
平・広義・平定・富安・平順・嘉定・定祥・永隆・安江・河倦の諸
省に及び︑虎山・虎橋・虎州・寄虎祠など︑虎の語を付した地名・
山名・廟名を有する省として宣光・清化・又安・広義・安江の諸省
を数えあげることができ︑﹃宴録﹄等の諸文献のなかで虎害を被った
地域として広安・北寧・清化・広平・広治・平定・富安・慶和・平
⑰
和・平順や南垳を挙げることができる︒ここに列挙した省名などを
一見すると明らかなごとく︑虎の出没及び虎患は︑ベトナムの中部
︵中垳︶から南部︵南垳︶に片寄っていたことが分かるが︑この傾
向は︑ベトナム北部に虎が棲息しなくなったことを示すのではけっ
してなく︑院代に中部と南部の開発が進展し︑政治的支配領域がし
だいに南方に拡延しつつあった︑時代の趨勢を反映した現象である
︑︽ノ︒
一般に院朝は︑虎害を虎患と称し︑この虎患を防止するため︑官
吏や兵士に命じて虎刈り︵捕虎隊の編成など︶を指示したばかりで
なく︑虎を捕捉した者に対し報賞制︑すなわち捕虎賞格を制定し︑
虎に襲われて死亡した者に給岬︵給伽︶を実施するというように︑
側
かなりきめ細かい虎患対策を講じた︒兵または兵民を派遣して虎狩
りを企てた事例も多く︑この頃になると︑捕殺の方法として小銃.
⑬
大砲・火薬の類を用いるよミフになった︒
虎を捕えた者に対する賞銭を定めたのが捕虎賞格である︒捕虎賞
格は捕虎例とも称されたが︑院一代を通じてその賞銭の額に変動が
みられた︒
まず院朝は︑全国政権を樹立した直後の嘉隆三年︵一八○四︶に
捕虎賞格を制定した︒このときの賞格については︑﹃嘉録﹄正編︑第 ベトナム前近代の虎患について︵片倉穣︶
一紀︑巻二五︑世祖高︑甲子嘉隆三年八月の条に
定捕虎賞格︑帝以沿山居民多虎患︑乃諭令有能為機械︑設權隣︑
以捕虎者︑虎一頭︑賞銭三十絹
とあり︑捕虎者に賜与される賞銭は虎一頭につき三○絹であった︒
﹃事例﹄巻一七六︑兵部︑敗猟︑捕猟悪獣︑同年の条には﹁捕﹂が
﹁檎殺﹂とあるが︑この点については︑後述のごとく捕も殺も同じ
扱いであったと考える︒また︑一緒が一貫に当たり︑三○絹が三○
貫であったことは︑﹃綱目﹄正編︑巻六︑陳太宗︑甲寅元豊四年︵一
二五四︶六月の条に﹁綴絹也︑今所謂貫﹂と注記された通りである︒
ところで︑これよりさきの一七八九年︑院朝は鎮辺︵鎮守辺境︶
の新立村に虎患が発生した際︑虎を生け捕った者に一五絹を︑同じ
く莞殺した者に一○絹を各々賞として賜与することを定めたが︑こ
の制は永続せず︑﹃事例﹄巻六一︑戸部︑賞給︑敗猟︑嘉隆三年の条
に﹁永以為常﹂と明記された通り︑前記嘉隆三年の賞格が基本規定
となった︒賞銭三○絹は︑例えば嘉隆年間にあっては︑酒の密造者
を捕告した者及び窃盗者を捕獲した者に与えられる賞銭と同額であ
り︑明命年間においては︑匪徒一人を生け捕った者に与えられる賞
銭とも同額であった︒この嘉隆三年制定の捕虎賞格は︑捕虎例また
は単に例とも称され︑次の明命十五年︵一八三四︶の改定まで厳密
伽
に運用された︒
ところが︑当の嘉隆三年制定の賞格は明命十五年春三月に改定さ
れることになった︒﹃篁録﹄正編︑第二紀︑巻一二二︑聖祖仁︑同年
月の条に︑このことが
改定捕虎賞格揃棚干琉腸頭順職朧冊絹 六八
と︑きわめて簡明に掲げられている︒文中の﹁向例﹂の﹁例﹂が嘉
隆三年の賞格を指すことは論を俟たない︒このたびの改定では︑虎
一頭捕獲に対する賞銭を半額に減じ︑あわせて虎の尾を差し出すこ
とを不要とした︒こうした賞銭の半減措置は︑﹃会典﹄巻六一︑戸部︑
賞給︑敗猟︑同年の条の記載によると︑賞銭三○絹では﹁過厚に渉
る﹂ためであり︑虎の出没の減少を物語るものではなかった︒原注
に記された虎の尾は虎の捕獲を示す物的証拠であり︑従来︑賞銭を
給するための証拠物件と見なされていたのであろうが︑このたびの
改正でその納官が廃止されたのであった︒
だが︑明命十八年︵一八三七︶に移ると︑京師以北から広平省︑
南は同じく京師から南垳各省に至る沿道の諸姑と所在の民で山獣を
射殺・捕獲した者に対し︑山獣別の賞給額が定められたが︑そのな
かに﹁獲虎者納尾︑毎一尾賞十絹﹂とあり︑捕虎者に対する賞銭額
鋤がさらに一○絹に減ぜられ︑虎尾納官の条件がふたたび復活した︒
この賞銭一○絹の規定は︑﹃嘉録﹄正編︑第二紀︑巻一八九︑聖祖仁︑
戊戌明命十九年︵一八三八︶春二月の条には
平定多山獣為患︑帝聞之︑命通諭諸直省督撫布按︑如聞報有虎
患︑即親自帯兵︑或派員弁︑往会所在府県︑設法檎捕︑有能殺
虎者︑準照例賞給蹴一癖賞
とあって︑﹁例﹂として運用されている︒一○絹なる金額は︑ほぼ同
倒
時期の︑逃兵または匪賊を捕獲した者への賞銭と同額であった︒
しかし︑これも﹃嘉録﹄正編︑第二紀︑巻二○六︑聖祖仁︑己亥
明命二十年︵一八三九︶秋九月の条をみると︑
改定広平以南沿途各姑竝所在民人捕殺山獣賞格︵後略︶
ベトナム前近代の虎患について︵片倉穣︶ とあり︑その原注に﹁殺獲猛虎︑毎一頭賞銭十五絹﹂と明記された ように︑ふたたび明命十五年時の賞銭十五絹に改定されたことが知 られる︒ただ︑﹃事例﹄巻一七六︑兵部︑敗猟︑捕猟悪獣︑明命十九 年をみると︑これより早く︑沿山の諸社民で權奔を設けて虎を殺し た者に対し︑一頭につき銭一五貫を賞する規定を設けたとあり︑も し﹃事例﹄の本記事に誤りがなければ︑すでに明命十九年に沿山の 諸社民の捕虎者に対する賞銭一五絹の制が復活していたことになろ う︒これとは別に︑﹃皇録﹄正編︑第二紀︑巻二二︑明命二十一年
︵一八四○︶三月及び﹃事例﹄巻一七六︑兵部︑敗猟︑捕猟悪獣︑
同年をみると︑承天府管轄下の衛兵三○○名による虎退治において︑
一頭捕獲につき賞銭三○絹を給した事例があるが︑これには承天府
という特別の地域での捕虎に対する配慮が含まれているかも知れな
いが︑依然として嘉隆三年制定の捕虎賞格が運用されていることも
留意すべきである︑フ︒
その後の文献を調べると︑﹃宴録﹄正編︑第三紀︑巻四二︑憲祖章︑
甲辰紹治四年︵一八四四︶秋九月の条に
広治有虎患︑命管衛播玉良溌兵民捕之︑賞銭一百絹
とあり︑同書︑正編︑第四紀︑巻一四︑翼宗英︑丙辰嗣徳九年︵一
八五六︶二月の条に
春蒐熊明服躍釧賞捕虎弁兵及附近民夫鑓各有差版鮒辮
とあり︑さらに同書︑正編︑第六紀︑巻一○︑景宗純︑戊子同慶三
年︵一八八八︶六月の条に
順慶二轄虎患︑準厚加賞格蠣剛順粁手硝朧筋社民設法捕猟︑竝姑夫
投逓公文︑免其夜行
六九
とあって︑捕虎者への賞銭は︑状況や身分の相違によりその支給金
額に異同がみられた︒しかし︑前掲同慶三年の注記にあるように︑
この時期に至っても﹁原例﹂すなわち嘉隆三年の捕虎賞格が賞銭算
定の基準となっており︑前例として参照されていたことを知ること
ができる︒このように︑院朝一代を通じて捕虎者への賞銭は︑一頭
につき三○絹を﹁原例﹂としながら︑ついで一五絹に改定し︑また
虎患の多発地域では一○絹に減額するなど︑公定価額に変動がみら
れた︒賞銭三○絹と定めた﹁原例﹂が存するにもかかわらず︑これ
をもって不変・不動の額として固定化し得なかったところに︑玩代
の虎患と虎対策の深刻な︑容易ならざる一面をみる思いがする︒
一方︑この王朝は︑虎に襲われて莞死した者に対し給郎︑つまり
岬銭・白布を支給した︒これを示した早期の史料としては︑明命二
十一年に虎による犠牲者に対し岬例に準拠して銭を支給し︑さらに
これに二○絹を加増した事例がある︒当の郎例に定められたはずの
金額はここには明記されなかったが︑後述のごとくそれは三絹︵三
貫︶であった︒ついで嗣徳年間の記録では︑﹃皇録﹄正編︑第四紀︑
巻一二︑翼宗英︑乙卯嗣徳八年︵一八五五︶二月の条に
準定諸轄民被虎患︑兵夫給郎銭三繕︑壮民二絹︑余各一絹︑白
布各十尺
とあり︑虎患を被った︵実は莞死した︶兵夫︵兵士︶に三絹を︑壮
民︵籍民︶に二絹を︑その他の人には一絹の郎銭を給し︑かつ各々
に白布一○尺をあわせて給付する︑とい︑フ規定が設けられた︒この
規定は︑同書︑正編︑第四紀︑巻一六︑翼宗英︑丁巳嗣徳十年︵一
八五七︶三月の条にも ベトナム前近代の虎患について︵片倉穣︶
給広安虎患民献測鮒灘聰檎眠十鮎︑一献翔鏥確眠紺苑洛兵鈍鍍錨鋪奉錘洛紐唾嘩
余各給銭一絹︑ 白布各十尺勅設法捕殺︑以重民居
とあって︑現実に運用されていた︒その後︑﹃皇録﹄正編︑第六紀︑ 巻一○︑景宗純︑戊子同慶三年六月のところに
広平虎患甚繩朧頭壺提托紬灯臥民準紹疫莞例給郎︑由省臣厳筋設法捕
納︑早除民患
と記され︑このときは疫尭例︵疫病に罹り莞死した者に適用される
規定︶を準用して虎による犠牲者に給岬した︒これは一見︑前掲嗣
徳八年に準定された給螂例を適用せず︑これとは別個の疫莞例を準
用して賑棚した形式にみえるが︑﹃皇録﹄及び﹃事例﹄に散見される
疫蜷・疫死者への給岬例をみると︑国家が支給する師銭は一般に三
繕が基準額であり︑その後︵明命十九年以後か︶︑年齢などの条件を
付して金額に差等を設け︑内籍以外の者に二絹︑幼小の者に一絹と
鯛
いうよ︑フに減額措置が講ぜられたのであり︑それ故︑前掲同慶三年
の疫莞例に準拠した郎銭も三絹が標準であり︑同じく嗣徳八年準定
の給岬銭とも標準額は同等であった︑と考えてよかろう︒以上を要
するに︑虎に襲われて莞死した者に対する一種の国家的弔慰金︑つ
まり郎銭は︑疫尭例に準拠して支給されたのであり︑その金額は︑
当初は老小男女を問わず︑おしなべて三絹であったが︑やがて三絹
を基準としながら︑年齢などにより減額措置を講じる仕儀となった
のである︒
なお付け足しだが︑同慶三年の給岬においては疫尭例を準用した
が︑ここには虎患・虎害を災難・災厄と見なし︑虎による犠牲者と
疫病による蕊死者を同列に扱う意識が存したことに注目しておきた
い︒
七○
院朝は︑その刑法典﹃皇越律例﹄巻一四︑刑律︑人命のなかで猛
獣の捕捉に関する一条文︵窩弓殺傷人︶を収めていた︒
凡打捕戸於深山曠野猛獣往来去処︑穿作眈穿︑及安置窩弓︑不
立望竿及抹眉小索者睦赫傷答四十︑以致傷人者︑減闘殴傷二等︑
因而致死者︑杖一百︑徒三年︑追徴埋菫銀一十両鳩誹深伽號鏑撒繊鵜
本条文は︑明・清律と同文・同内容であり︑そこに格別に検討すべ
き新しい語句も見当たらないが︑玩代においても︑明・清代と同様
に打捕戸と称せられる猟師が深山や曠野の猛獣往来の所で院穿︵落
とし穴︶を掘り︑窩弓︵罠︶を仕掛けて虎などの猛獣を捕えるとき
は︑当該場所に望竿︵目印となる竿︶を立て︑抹眉小索︵人の眉の
高さほどの索︶を張っておき︑人びとの注意を促すことが義務づけ
られていた︒そして︑同法典には続いて細字の総註が掲載されてお
り︑この註には﹃大清律例﹄よりも猛獣を捕える方法などがかなり
詳細に述べられているので︑やや長文にわたるが︑次に掲げ︑参考
に供しておこ︑フ︒
打捕者猟戸之名也︑猟戸之取猛獣︑有防穿窩弓二法︑院穿者穿
地為穴︑上置浮草︑待其過而陥入以掩取之︑窩弓者箭敷毒薬︑
以機張弓︑待其触︑而箭発以射取之︑二者当防其傷人︑故必干
近防奔窩弓之処︑立望竿小索︑望而可見︑日望竿︑横設小索︑
高与眉斉︑日抹眉小索︑使行走之人見而知避也︑凡打捕猟戸既
子深山曠野猛獣往来去処︑設有眈葬窩弓︑而不立竿索者︑錐未
傷人︑亦答四十︑以其但図捕獣之利︑而不計傷人之害也︑若因
無竿索而行走者︑誤路其穿︑誤発其機︑以致傷人者︑照闘殴傷
人律︑減二等科之︑若減罪軽干答四十者︑価依本律︑因而致死
ベトナム前近代の虎患について︵片倉穣︶ 者︑杖一百︑徒三年︑追給埋菫銀一十両
この注記によると︑玩代において猛獣の打捕を専門とする猟戸︑す
なわち猟師・狩人の存在したことが知られ︑猟戸の猛獣捕りには院
穿と窩弓の二法があり︑院穿は︑地面に落とし穴を掘り︑その上に
浮草を敷き︑猛獣が通り過ぎようとして陥落したのを掩取する方法
であり︑窩弓の方は︑あらかじめ箭︵矢︶に毒薬を塗り︑機械︵ば
ね仕掛け︶で弓を張っておき︑それに触れると箭が飛び出し︑獲物
を射止める方法であった︒捕虎のときにもこのような方法が採用さ
れたのであろう︒﹃皇越律例﹄の総註が描いた猟戸の猛獣捕獲方法は︑
院代の兵士や人民を動員し︑鉄砲・火薬の類を用いた大規模な︑公
権力による虎狩りとは異なり︑おそらくベトナムの在地などで伝承
鯛され︑発展してきたものと見倣すことができょう︒
院代ではまた︑孝子・孝女ならびに列女などを旋賞︑つまり表彰
し︑その儒教的善行を賞賛すると同時に他の人びとにこれを奨励し︑
国家的身分秩序の維持を企図したが︑こうした国家的表彰のなかに
虎を媒介とした善行・義行を行った人びとが少なからずその対象に
含まれていた︒虎に襲われた父や母を救った子︑虎に殺された父の
仇を打った子︑父あるいは父母を亡くし︑虎の出没・脅威のなかで
三年間︑墓の傍らに盾を構えて親喪に服し終えた子︑彼らは孝子と
して表彰され︑また︑虎の害に遭った父を救った娘も孝女として表
鯛
彰され︑虎に襲われた父・母そして夫を︑虎と勇敢にたたかって救
出した娘や妻もまた列女・烈女と称され︑虎に咬まれた兄を助けた
卿
弟も表彰の対象とされた︒院朝は︑こうした虎をめぐる関係行為を
も身分的支配秩序の枠組みのなかに取り込み︑これを王朝支配のた
七
一
おわりに
改めて論ずるまでもなく︑前近代ベトナムにおいて︑虎は人びと
の生命と身体を脅かす猛獣であった︒この地域に生を享け︑生業を
営み︑文化を築き︑伝統を継承するかぎり︑ベトナム人にとってこ
の猛獣とのたたかいは回避し得ない厳しい現実であった︒
遥かに遠い昔から︑ベトナム人はこの猛獣のために計り知れない
ほどの多くの犠牲を余儀なくされてきたけれども︑一方では︑この
動物の生存を認め︑これとの共生を図る境地にも達してきた︒虎の
なかに霊力を見出し︑これを信仰の対象とする猛虎崇拝が生まれた
のは︑その現われである︒このよ﹄フな信仰心は︑過酷な地域に生き
続けなければならない人びとが案出した独自の精神であった︒
ベトナムの人びとがそ︑フしたよ︑フに︑ベトナム前近代諸王朝もそ
れぞれ虎対策に腐心した︒歴代諸王朝の虎対策は︑王権の基盤であ
る人民の生命と財産を守り︑治安を維持し︑社会の秩序を保つこと
を目的とし︑このため諸王朝は︑法または行政の面でさまざまな虎
患対策を講じてきた︒王朝と虎とのかかわりは︑支配領域の拡大と
ともにしだいに遠隔の地にまで拡延するよ︑フになったが︑これは自
然の成り行きであった︒王朝はまた︑虎を単なる対策上の動物と否
定的に捉えただけでなく︑これを王朝支配のために利用する強かさ
をも忘れなかった︒虎にかかわる孝子・義行への表彰制度はその一 めに活用する抜け目のない姿勢を崩さなかった・権力にとって虎は︑ 単なる恐怖の対象ではなく︑政治支配のために有効に利用し得る動 物として位置づけられたのである︒ ベトナム前近代の虎患について︵片倉穣︶
注 仙杉本直治郎﹃真如親王伝研究I高丘親王伝考﹄︵吉川弘文館︑一九六五︶五
七○〜五七七頁︒
②虎が関係する説話の類は︑諸文献に散見し︑枚挙にいとまがないが︑とりあ
えず次の邦語の書を参照されたい︒池田よしなえ編﹃ベトナム民話﹄︵三省堂︑
一九六八︶一五一〜ヱハ四頁︒〃垂孝︑.獅翫滑才込谷聯齢延・ベト・編訳﹃原語訳ベ
トナムの昔話﹄︵同朋舎︑一九八○︶七一︑一四七︑二四三︑二五二各頁︒
諺については因島弓虫弓弓興惠凰苫負ミ鴎⑮會言昌一客ききの負曼壽言鴎
畠圃包畠閉ミミ尋s鳥さいg盲目亘四ご己蔚刷ご・要.ロ.︶ごs︐勺風昌&旨
乞雪︺己﹄s参照︒
③﹃越史略﹄巻一︑丁紀︑先王にもやや簡略化された一文が収録済である︒
側猛虎崇拝に関しては宍8口①吾府﹃ご匿呂○邑ゞ啓麓誉員跨冒︑oさめの§ミ
ミさ蒔き量○三8曾々乞含も.謡.満鉄東亜経済調査局編﹃印度支那民族誌﹄
︵同調査局︑一九四三︶一五一頁︑杉本︑前掲書︑五七一〜五七二頁︑池田︑
前掲編書︑二○二頁参照︒
⑤の①○侭①の三四gの﹃○・偶ぎぎ︒ミミ︑弓.罠野房輿卑巨×①房の︾こぎ︾已誘.
⑥﹃譽甸幽霊集録﹄太尉忠恵公︑﹃大南一統志﹄︵パリ・アジア協会蔵本または
印度支那研究会刊本︶河内省︑人物︑穆慎の各条︒
佃寄虎祠については︑﹃大南一統志﹄広義省︑祠廟︑寄虎祠︑﹃大南輿地志約編﹄
巻二︑広義省︑平山県︑﹃野史輯編﹄付封域税額︑広義平山県の各条参照︒
⑧ベトナムの例ではないが︑雲南省石塞山出土の銅鼓に大蛇と虎の像を表わ 例である︑7︒
この研究では︑文献史料の制約から︑いきおい諸王朝の虎患対策
に紙幅を費やす結果となったが︑本文中で取り上げたベトナム前近
代の虎をめぐる諸問題につき︑ご叱正を賜ることができればありが
たいと思︑フ︒
七
二したのがあり︑すでに蛇や虎に対する崇敬の存したことが指摘されている︵松
本信広編集﹃インドシナ研究l東南アジア稲作民族文化総合調査報告㈲﹄︵有
隣堂︑一九六五︾一三四頁︶︒
側﹃綱目﹄正編︑巻一八︑黎仁宗︑同年月の条は﹁御前﹂を﹁武士﹂と書き改
めている︒なお︑﹃黎史墓要﹄巻二︑黎紀︑仁宗︑同年月の条にも簡略化され
た同趣旨の一文がみえる︒
側池田温﹁中国古代の猛獣対策法規﹂締馴誕錐荊熊士﹃律令制の諸問題﹄︵汲古
書院︑一九八四︾︶六一六︑六一九〜六二○頁その他︒
伽﹃唐律疏議﹄巻二六︑雑律上︑施機槍作坑穿の条﹁諸施機槍︑作坑穿者︑杖
一百︑以故殺傷人者︑減闘殺傷一等︑若有標幟者︑又減一等︵疏議略︶︑其深
山辿沢︑及有猛獣犯暴之処︑而施作者聴︑価立標幟︑不立者︑答四十︑以故殺
傷人者︑減闘殺傷罪三等﹂︒
⑰近代では︑水牛または牛のごとき餌を配し︑待伏せして虎を捕えるのが一般
的方法であったようである︒⑦g侭陽冨閉穏冒ゞ8.o言﹀9画雪I思い
側ロ色目異巴氏は︑仏訳の本文で罪人を捕えることと仏訳しつつ︑その注にお
いて虎とも考えられる︑と自ら疑問を呈していた夷.ロのざ易冨一︾P煙旨豊8
・画易F︾シ胃耐ロショロ四目﹀弓﹃且月鐵○口里○○日目g国笥①︒ロ○○号号の旧の
題壗両○︾室戸電鹿も.望︶︒当法典のベトナム語訳︵ぐロぐ習三習昏ミヨ識冨
起雪寄伊昌一︵起曹琴旧昌︾ご詠雲恩︶・の獣︲の言々乞詔︾巳認︾瞳号ご識震霞誉
︵溥電吏員門︒倉︵導斡目智声西平z9.乞臼も.顧望は︑この部分が暖昧な訳出
に終わっていたが︑最近刊のzm昌酔z空の困昌.目心くぎ目筥陣弓﹃蟹くぎ
F筋目︾国毒飼い︑︹ご昼興ト負ミミ目︾冨忌諏○苫ミミ評言負ミ︾ぐ巳.F○三○口己﹃閂凰ご
甲①のの︾ご雪も.圏更ぐ○一.国も.篭gでは︑﹁その動物を捕えて⁝⁝﹂と明快に訳
出するに至った︒筆者もこの解に従いたい︒
側﹃国朝刑律﹄巻一︑名例章﹁諸八議者︑犯死罪︑皆条所坐及応議之状︑先奏
請議︑議定奏裁臘潴關情臓櫛正鋤綻流罪以下︑減壱等︑其犯十悪者︑不用此律﹂︵四
条︶︒同書︑巻六︑断獄章﹁諸高官鯛鴫燗恥捌官誕繊吐出鍬犯罪︑案成而獄官不奏
請収禁︑以俟処断者︑罰銭弐拾貫︑獄橡杖捌拾︑即有疾病︑已請検験者勿論︑
ベトナム前近代の虎患について︵片倉穣︶ 若当請不請而檀自収禁者︑罪如之﹂︵六九二条︶︒唐の獄官令﹁諸職事官五品以 上︑散官二品以上︑犯罪合禁︑在京者皆先奏︑若犯死罪︑及在外者︑先禁後奏︑ 其職事官及散官参品以上有罪︑勅令禁推者︑所推之司︑皆覆奏︑然後禁推﹂︵仁 井田陞﹃唐令拾遺﹄︽東方文化学院︑一九三三︑東京大学出版会︑一九六四︑ 同上︑一九八三︶七八四頁︶︒その他﹃皇越律例﹄巻一︑名例律︑﹃大明律﹄巻 一︑名例律︑﹃大清律例﹄巻一︑名例律の応議者犯罪の各条参照︒
㈹﹃全書﹄本紀︑巻五︑陳紀︑仁宗︑癸巳重興九年︵一二九三︶︵三月以後︑
興隆元年︶﹁秋︑九月十三日︑⁝⁝上皇嘗築虎圏於望楼階︑令軍士榑虎︑御楼
観之︑太后与妃擴皆従侍︑楼卑︑圏準階亦卑︑虎忽脱筆楼楼上人皆散走︑上
皇与太后独与侍女四五人在︑太后度不免︑即以席遮上皇︑亦自覆︑虎登楼︑便
蒼黄号繍之声跳下︑無撃擢之患︑上皇又嘗御天安殿︑観闘象於龍堤︑象忽脱突
入将登殿︑左右皆驚散︑惟太后在焉﹂︒﹃全書﹄本紀︑巻一五︑黎紀︑襄翼帝︑
壬申洪順四年︵一五一二︶﹁是日︵二月二十八日︶︑帝御光治殿︑観象闘虎﹂︒
㈹玩代における虎圏の瑚築︑虎圏での象・虎のたたかいの親閲については︑﹃嘉
録﹄正編︑第二紀︑巻六四︑聖祖仁︑庚寅明命十一年︵一八三○︶春正月︑﹃国
史遣編﹄中集︑国朝大南紀︑同年︑﹃宴録﹄正編︑第二紀︑巻一六六︑聖祖仁︑
丙申明命十七年︵一八三六︶春二月︑同書︑正編︑第二紀︑巻一八四︑聖祖仁︑
丁酉明命十八年︵一八三七︶秋九月の各条参照︒
﹁演象打虎約束﹂については︑﹃篁録﹄正編︑第四紀︑巻三八︑翼宗英︑戊
辰嗣徳二十一年︵一八六八︶六月の条参照︒
㈹﹃宴録﹄のなかで虎患︑つまり虎害を記した主要な箇所は︑次の各条である︒
正編︑第一紀︑巻四︑世祖高︑己酉十年二七八九︶秋七月︑正編︑第一紀︑
巻二五︑世祖高︑甲子嘉隆三年︵一八○四︶八月︑正編︑第一紀︑巻三四︑世
祖高︑戊辰嘉隆七年︵一八○八︶春正月︑正編︑第二紀︑巻八四︑聖祖仁︑壬
辰明命十三年︵一八三二︶秋閏九月︑正編︑第二紀︑巻一八七︑聖祖仁︑丁酉
明命十八年︵一八三七︶冬十二月︑正編︑第二紀︑巻一八九︑聖祖仁︑戊戌明
命十九年︵一八三八︶春二月︑正編︑第二紀︑巻二○一︑聖祖仁︑己亥明命二
十年︵一八三九︶夏四月朔夏︑正編︑第二紀︑巻二○六︑聖祖仁︑同年秋九月︑
七
正編︑第二紀︑巻二一四︑聖祖仁︑庚子明命二十一年︵一八四○︶夏六月︑正
編︑第二紀︑巻二一六︑聖祖仁︑同年秋八月戊午︑正編︑第三紀︑巻六︑憲祖
章︑辛丑紹治元年︵一八四二春閏三月︑正編︑第三紀︑巻四二︑憲祖章︑甲
辰紹治四年︵一八四四︶秋九月︑正編︑第四紀︑巻一六︑翼宗英︑丁巳嗣徳十
年二八五七︶三月︑正編︑第四紀︑巻六八︑翼宗英︑壬午嗣徳三十五年︵一
八八二︶秋七月︑正編︑第六紀︑巻一○︑景宗純︑戊子同慶三年︵一八八八︶
六月︒その他︑﹃事例﹄巻一七六︑兵部︑敗猟︑捕猟悪獣︑﹃嘉定城通志﹄巻三︑
河倦鎮︑己丑五年︵一七六九︶春二月朔︑同書︑巻六︑城池志︑新境市も参照︒
側﹃篁録﹄正編︑第四紀︑巻一二︑翼宗英︑乙卯嗣徳八年︵一八五五︶六月の
条には︑虎患を除くため霊祠に祈祷した例がみえる︒
側前注伽掲︑嘉隆七年︑明命十三年︑同二十年︑同慶三年︑及び﹃事例﹄巻一
七六︑兵部︑敗猟︑捕猟悪獣︑明命十四年︑同十八年︑同十九年︑同二十年︑
同二十一年︑紹治五年の各条︒上記諸条中には鳥鎗︵小銃︶・薬弾・鎗職︵小
銃と大砲︶・火薬を用いた事例が散見する︒その他︑﹃篁録﹄正編︑第四紀︑巻
六五︑翼宗英︑辛巳嗣徳三十四年︵一八八二二月の条も参照︒
帥﹃篁録﹄正編︑第一紀︑巻二六︑世祖高︑乙丑嘉隆四年︵一八○五︶六月﹁復
申嘉定酒禁﹂︑同書︑正編︑第一紀︑巻四五︑世祖高︑壬申嘉隆十一年︵一八
一二︶十二月﹁定捕盗賞格﹂及び同書︑正編︑第二紀︑巻二○三︑聖祖仁︑己
亥明命二十年二八三九︶夏六月の各条︒
伽嘉隆三年の捕虎賞格が捕虎例または例とも称され︑少なくとも明命十五年
まで現実に運用され︑有効に機能していた証拠として︑﹃篁録﹄正編︑第二紀︑
巻六八︑聖祖仁︑庚寅明命十一年︵一八三○︶秋七月朔秋﹁定捕匪賞格﹂︑﹃明
命政要﹄巻一八︑法度一六︑明命十一年﹁帝謂工部日﹂︑﹃大南一統志﹄富安省︑
山川︑盤石江﹁明命五年﹂の各条参照︒
側﹃篁録﹄正編︑第二紀︑巻一八七︑聖祖仁︑丁酉明命十八年︵一八三七︶冬
十二月︑﹃事例﹄巻一七六︑兵部︑政猟︑捕猟悪獣︑明命十八年の各条︒
卿﹃墓録﹄正編︑第二紀︑巻一九○︑聖祖仁︑戊戌明命十九年︵一八三八︶春
三月甲戌の条・ ベトナム前近代の虎患について︵片倉穣︶
伽﹃篁録﹄正編︑第二紀︑巻二一四︑聖祖仁︑庚子明命二十一年︵一八四○︶
夏六月の条・
鯛疫病による死者に郎銭︵三絹〜一絹︶を給した事例として︑﹃宴録﹄正編︑
第二紀︑巻三︑聖祖仁︑庚辰明命元年︵一八二○︶六月︑同書︑正編︑第二紀︑
巻九五︑聖祖仁︑癸巳明命十四年︵一八三三︶六月朔︑同書︑正編︑第二紀︑
巻二三︑聖祖仁︑同年冬十二月︑同書︑正編︑第二紀︑巻一四一︑聖祖仁︑
甲午明命十五年︵一八三四︶冬十二月︑同書︑正編︑第二紀︑巻一九九︑聖祖仁︑
己亥明命二十年︵一八三九︶春二月︑同書︑正編︑第四紀︑巻二︑翼宗英︑戊
申嗣徳元年︵一八四八︶六月︑同書︑正編︑第四紀︑巻二○︑翼宗英︑己未嗣徳
十二年︵一八五九︶六月︑﹃事例﹄巻六三︑戸部二八︑鯛郎二︑給郎︑明命元
年︑同十九年︵一八三八︶︑紹治三年︵一八四三︶等々の各条参照︒
㈱玩代に鉄砲・火薬の類を用いず︑權峅や仕掛けを使って虎を捕殺した方式と
しては︑﹃篁録﹄正編︑第一紀︑巻二五︑世祖高︑甲子嘉隆三年︵一八○四︶
八月︑同書︑正編︑第四紀︑巻二︑翼宗英︑戊申嗣徳元年︵一八四八︶六月の
各条︑及び同書︑正編︑列伝初集︑巻二九︑行義伝︑玩文名︑﹃事例﹄巻一七
六︑兵部︑欧猟︑捕猟悪獣参照︒
伽﹃篁録﹄正編︑第二紀︑巻一八五︑聖祖仁︑丁酉明命十八年︵一八三七︶冬
十月朔冬︵玩春器の記事︶︑同書︑正編︑第四紀︑巻二︑翼宗英︑戊申嗣徳元
年︵一八四八︶六月︑同書︑正編︑第四紀︑巻二○︑翼宗英︑己未嗣徳十二年
︵一八五九︶三月︑同書︑正編︑第四紀︑巻一二︑翼宗英︑同年九月︑同書︑
正編︑第四紀︑巻四七︑翼宗英︑壬申嗣徳二十五年︵一八七二︶十一月︑同書︑
正編︑列伝初集︑巻二九︑行義伝︑枚仕糠︑玩春器︑玩文名の各伝︑同書︑正
編︑列伝二集︑巻四二︑行義伝︑萢文秋︑蘇世美︑黄日宰の各伝︑﹃事例﹄巻
一○一︑礼部︑風教︑旋表行義︑明命八年︵一八二七︶︑紹治三年︵一八四三︶︑
嗣徳元年︵一八四八︶︑﹃大南一統志﹄広平省︑人物︑孝子︑黄日宰︑同書︑又
安省︑人物︑孝子付︑玩春番︑同書︑清化省︑人物︑孝子︑枚士憾︑同書︑富
安省︑人物︑萢文秋及び黎文沢︑﹃大南輿地志約編﹄巻五︑北寧省︑玩文良等々︒
卿﹃篁録﹄正編︑第四紀︑巻四四︑翼宗英︑辛未嗣徳二十四年︵一八七一︶五 七四
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