ドが残っている。同郷人井上毅の引き立てにより1888年(明治21)ドイツのボン大学に留学す ることになった。ボン大学公文書館の資料によると、1888年11月17日に入学の登録を行い、89 年の8月2日に退学している。年齢29.専攻は法律学。父の職業欄にはサムライ、宗教はキリ スト教となっている。最初ベートーヴェン街34番地に住み、のちポッペルスドルファー・アレー 96番地に移った。1890年(明治23)3月同大学より法学博士の学位を授与された。帰国後、明 治26年文部大臣秘書官に任じられたが、のち一時法科大学講師を勤めたが、同年11月第三高等 中学校教授となり法学部主事を命じられた。だが教師は性に合わぬと感じたのか辞め、再び明 治31年外交官に戻った。そしてウィーンの日本公使館の第二書記官となった。最後は1908年 (明治41)6月特命全権公使に昇任しシャム(タイ)のバンコックに赴任した。明治44年6月に は勲三等瑞宝章を授与された。履歴書によると1914年(大正3)6月26日付で依願免本官とな り、外交官生活に終止符を打った。そしてその後は悠々自適の生活を送ったようだ。元来彼は 思索型の人間で、哲学や宗教に関する論文を雑誌にいろいろ発表しているほかに、『現代政治 の社会化及産業化』(大正15年)『他界に在るジャリアの音信』(昭和2年)などの訳書がある。
「独逸学の盛衰」(『紫溟新報』)
『九州日日新聞』(熊本)の前身の『紫漠新報』に1888年(明治21)5月29日から31日まで3 回にわたり「独逸学の盛衰」と題する社説が掲載された。著者は恐らく佐々友房であろう。佐々 は当時済々費の譽長で、国権派として知られていた。『紫倶新報』は佐々が明治14年に創設し た政治結社「紫漠会」を背景とする国権派の新聞(明治15年8月7日創刊)であった。
最初に著者は、欧米各国は概して文化隆盛の国だが、学術・技芸には精粗優劣の差があるこ とは否定できないとする。
「吾人が窃に聞く所を以てすれば米国の学芸は之を英仏に比するときは精微の点|こ於て歩を
ひそか譲る所あり英仏の学問は又之を独逸に望むときは其深遠高尚の点に於て其等を減ずる所あり然 らば即ち単に学問の一点をして観察を下し浅近よりして深遠に進み粗簡よりし精繊に進むと云 ふ智識進捗の定則に従ひ我邦学問が始めは専ら米国に採り漸く進んで英仏二学となり遂に進ん で独逸学となり特に一昨年に至りて独逸学大いに流行せんとしたるものは又た怪しむに足るこ
と無きなり」
だが、欧米各国の学芸には上記のように精粗優劣があると言っても、それはもとより一般論 であって詳細に検討すれば一長一短が見つかるに違いない。著者はこう前置きした後、我が国 では欧米各国の学芸を批評して、これを取捨する際に、学問の価値によらずその国の政治制度 によってする者があるが、これほど間違ったことはないとする。我々が米国を学ぶのは米国の 共和制を慕うからではなく、仏学をなすのは仏国の革命を学びたいからではない。また独逸学 を勉強するのは独逸風の政治を我が国に移したいからではない。
「左れぱ其邦の政治社会は如何なるものにせよ只其学問を取るものなれば学問さへ精綴深遠 なる所あれば英仏独米我に於て何か有らんや。且つ夫れ我邦Iこして彼の欧米各国の学問を採る
か-46-
には一国に偏するよりも寧ろ数国の長所を集めて以て我邦の-大美事をなすこそ現今の急務に
ひんせき おもへ
あらずや。然るに今や世の論者は或Iま独逸学を擴斥して独り英学を主張し以為らく独逸の哲学、
文学、科学は其理深遠ならざるにあらず精繊ならざるにはあらず、然れども其我邦に盛んなら しむ可らざるものは其政治の武断圧制に傾〈を以てなりと。抑も是れ何等の僻見なるぞ。独逸 の学問と政治との間には必ず雛る可らざるの関係にある者にあらず。而して今や論者は必ず此 問に雛る可らざる関係あるを主張し以て独逸学を擴斥せんとするか」
こう述べて深遠で精微な独逸学を、ドイツの政治に武断圧制的傾向があるからとの理由で排 斥することに反発している。
次に当時英学が盛んであることに言及する。それによると、英学が盛んなのは必ずしもそれ が深遠、精微、高尚であるからではない。一つには英語が最初に学んだ語学だからであり、二 つには英語が広く通じ、商業上、交際上最も利用されるからだろうという。官私学校で英語を 教えているのは、全くこうした理由からであろう。何故英語と並んで仏独両語も用いないのか と思う者もいるかも知れないが、それは無理な話だ。普通教育というものは専ら普通の知識を 授けるのを目的とするものであって、広く各国の語学を授けて徒に脳髄を消費する所ではない からだ。この観点から英学が隆盛なのは理由のあることだ。
だが、欧米では専門の学問を修める者は大抵数カ国語に通じ、その長所を集めて研究資料と するので、その学問は一層精微となり、規模も広大となっている。
従って我が国でも今後は独り英学のみを以て足れりとせずに、「筍も専門講学の士と称せらる、
ものなれば少なくとも英仏独三ケ国位の語学に通じ其の知識を拡め其の研究に供するの資料と せんことは吾人が深く希望する所なり」という。その理由は(1)欧米各国の学術・技芸にはそ れぞれ特徴があり(2)一国の学に偏すれば自ずから偏見が生じて、知識の発達を妨げることに なり(3)日本の学問の独立を図るなら各国の粋を抜き、長を採って日本独自のものを作り出す べきだからだ。そのためには三カ国語を兼修しなければ到底不可能だと考える。
だが、我々が最も恐れるのは、英仏独各国の語学を盛んにすることは学問のために喜ぶべき であるが、彼の英学者、仏学者、独学者が各々その学ぶところを尊崇する余り、その国の政体
か制度にまで心酔し、これを讃美し、模倣し、遂に我が国にもこれを実行しようと思っているこ とだ。このように述ぺ、その具体例を挙げて彼らのことを痛烈に批判している。
「試みに見よ、英学を学ぶものは英国の憲法議院を以て最上無比とし甚きに至りては其社会 日常の細事に至る迄之に倣はんと欲し、所謂テームス橋上繁華の光景、ウェストミニスター英
ふんとうつ
雄偉人の墳墓、マンチェスターの噴筒天を衝き、其貿易製造の有様は常Iこ祐佛として其の夢裡 に往来し遂に我邦を挙げて悉く英国たらしめんと欲す。而して仏学者が十九世紀の末期に於て 学問知識廻に前代に超絶し非常の進歩をなしたるにも係はらず猶ほモンテスキユ、ヴオルテノレ、
はるかルウソウ等が陳腐の以て金科玉条となし常に其革命を称賛して古今万国の-大美事となし独逸 学者が徒に独逸の哲学、文学、科学に心服するのみならずビスマーク侯が権謀術数を以て無上 の政略とし所謂国家社会主義及び官吏主義に傾向を生ずるが如き}よ是其偏癖の最も大なるもの
へんへきなりとせざるを得ず」
要するに著者が求めたのは、欧米各国の学問を摂取することと、その制度を取り入れること とは区別し、この二つを混同しないようにということであった。
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著者によると、独逸学が3,4年前から俄に盛んになったのは、当路者がドイツの政体制度 を採用し、これを模倣しようとした結果に他ならない。抑もこれまで英学や仏学、また独逸学 が民間で消長盛衰するのは大抵政府が上から及ぼした影響のせいであって、例えば政府が英国 の制度に倣うとして英学者を登用すれば、「英学忽ち勃然として色を生じ」、また政府が仏国の 法律を採り、仏学者を挙用すれば「仏学の景気が善くなる」というのは周知の話だ。独逸学の 流行もこれに他ならない。著者はこう指摘して、そうした傾向を批判している。
然るに森有礼が文部大臣に就任(明治18年12月)して以来、教育の方針が大きく変わり、従っ て学問の好尚にも変化が現れ、一時隆盛を極めた独逸学が次第に衰勢を顕し、これに引き換え 英学は非常な流行となり、「其の勢滴々として天下に敵なきが如し」だ。ところで森文部大臣 による教育方針の変更とは何かと言えば、具体的には明治19年2月に第一高等中学校において、
第一外国語は英語と定めた上で、明治24年7月の入学試験から外国語は英語の成績によって生 徒を取ることにしたことを指す。ただし明治20年、21年、22年、23年までは従来通り英仏独語 から一つを選んで受験してもよいとされた。もう一つは明治24年以後は医学に進む者、もしく はドイツまたはフランスの法律科に入る者には他の時間を省略し第二外国語の時間を増すこと としたのである。この方針が当時新聞雑誌で報道されるや、関係方面の反響が大きく第一高等 中学校生徒、医科大学生、また独逸学者たちから反対の声があがった。この『紫漠新報』の社 説もその一環と見てよい。そういうわけで結局この規則は実施されずに終わった。そして従来 通り第一高等中学校では入学試験では英仏独語の内一カ国語を選ぶことになった。そしてこの 規則はその後旧制高校をはじめとして新制大学でも踏襲ざれ今日に至っている。最近はこれら 三カ国語に中国語が加えられている。序でに言うと、今日でも使われる第一外国語、第二外国 語という用語も実にこの明治19年の第一高等中学校の規則にまで遡るのである。
さて、「独逸学の盛衰」の著者の主張は、英学にしろ、仏学にしろ、また独逸学にしるその 消長盛衰が政府の影響を受けたものであってはならないこと、そして、それぞれ学には特色が あるので長所を取り入れるようにすべきだというにあった。従って、
か ま