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高畑勲「眼差しを交わす喜び」の教材価値

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はじめに

アクティブ・ラーニングの起点

 平成 28 年公示「次期学習指導要領等に向けたこれまでの審議のまとめ」(以下,「審議のまとめ」と略す)に おける記述(1)をはじめとして,「アクティブ・ラーニング」の視点」及び「主体的・対話的で深い学び」に関 する学習観は,平成 30 年公表の「高等学校学習指導要領解説 国語編」(2)(以下,「新指導要領解説」と略す)

においても,「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善」(アクティブ・ラーニングの視点に立っ た授業改善)」を,「我が国の優れた教育実践に見られる普遍的な視点」であり,「学習指導要領に明確な形で規 定したものである」(3)とし,「指導計画作成上の配慮事項」の第一項目として,総則に明文化している(4)「主体 的・対話的で深い学び」は理想的な学習像であり,その「実現に向けた授業改善への推進」(5)が望まれるのはま ぎれもない.しかし,実際に授業を行う教師としてみれば,ひと口に「生徒の学びを深めたり主体性を引き出し たりといった工夫」(6)を求められても,その具現化に苦慮する場面がままあるのではないだろうか.新指導要領 解説においても,主体性の引き出し方についての明確な助言は見いだせない.

 翻るに,教師や,教科書教材作成の関係者,国語教育研究者といった,学習者を取り巻く指導者側に立つ我々 自身における主体性の発揮について改めて考えるとき,はたして我々は,いかなるときも「主体的・対話的で深 い学び」を自身に課し,学習者の鑑たりうると明言できるだろうか.もし,我々全員がそれを完遂しているなら ば,陳腐でおざなりな教材観による教材文の真価を失った教科書教材や,それをいたずらに踏襲した退屈な授業 はどの教育現場にも存在しないことになる.学習者,指導者の立場を問わず,今まで一度も主体的に行動したこ とがない人間は恐らくいないだろう.また,主体性さえ発揮できれば,対話的かつ深い学びへの発展はさほど困 難ではない.それにもかかわらず,「主体的・対話的で深い学び」の学習観が理想として繰り返し掲揚されるのは,

学習者の置かれた現状の反映であり,今,我々に求められるのは,学習者の主体性を引き出す以前の,我々自身 の授業改善に対する主体性への反省である.

ポジティヴな主体性への転換

 「審議のまとめ」や「新指導要領解説」が設定する学習者の主体性は,積極的に学習に勤しむ態度として捉え られる.それは確かに,学習者の「資質・能力」の向上に寄与し,「生涯にわたって探究を深める未来の創り 手」(7)を育みうる可能性を秘めている.ただし,学習者一個人としての総合的な主体性を鑑みるに,その部分だ けをもって主体性の発揮とみなすことはできまい.すなわち,学習内容に興味・関心を持ち,適切な態度で学習 に臨む姿が意味するのは,「指導者側の我々にとって望ましい」という冠付きの主体性であるともいえる.我々は,

その姿こそ学習者の理想であり,学習者自身に生涯の長きにわたり益をもたらすという信念のもとに,主体的に 学習する姿を祝福する.同じ観点により,我々は,「望ましい」主体性を発揮しない学習者を憂慮する.しかし,

学習者が積極的に学習に取り組まないとき,その要因は,はたして主体性そのものの欠如に由来するのだろうか.

むしろ,「内容がつまらない」「興味が持てない」「意義が感じられない」「体がだるい」「眠い」「面倒だ」「発言 して目立ちたくない」等々の個人的理由により,積極的な学習を拒否するための別種の主体性が働いていると捉 えるべきではないか.学習者が「望ましい」主体性を示さない場合,それを主体性の欠如ではなく,主体性を発 揮する対象が一時的にずれていると捉え,ネガティヴな要因を払拭するだけのアプローチが我々にあれば,学習

高畑勲「眼差しを交わす喜び」の教材価値

─読み手の身体が書き手のアクティブ・ラーニングを追いかける「読むこと」の学習─

仁野平 智明

The value of Isao Takahata’s “Manazashi wo Kawasu Yorokobi” as teaching material:

Learning of “reading” by which the reader’s body runs after writer’s active learning Tomoaki Ninohira

(Received by September 28, 2018)

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者の軌道修正は可能であると考えられる.

 それでは,学習者の「望ましい」主体性を引き出すために,我々はどのような方策を取ればよいのだろうか.

学習者が前述のようにネガティヴな主体性を発揮している場合,我々が彼らの主体性をポジティヴに転換する突 破口は,「おもしろい教材」の一点に尽きるだろう.そのためには,まず,教材文及び教材内容を厳選し,教材 価値を余すところなく表現する,教科書教材作成における「望ましい」主体性が求められ,学習者と直に接する 教師の教材研究にもまた,「望ましい」主体性は欠かせない.学習者に求める姿を生み出したのが我々である以上,

我々自身が最もそれに精通し,かつ体現できるはずなのである.

「主体性」について「主体的」に考える

 何かに関心を持つとき,人は対象をつぶさに捉えようとし,なるべく近づこうとする.主体性を能動性と言い 換えるなら,自身のアクションを対象へともたらそうとする意志の発現であり,対象との距離を縮めるための自 主的なアプローチである.その対象がコミュニケーションを可能とする存在,つまり他者である場合,アプロー チの先に対話が生まれる.他者との対話は,それまでの自己になかった発見をもたらし,自己はより充実し,学 びは深まる.「主体的・対話的で深い学び」の仕組みは,このように解説できる.自己と他者との距離を,いか にして縮めるか.生身の人間どうしの共時性が保障された発話の交換ではなく,先んじて書き記す者とのちに読 む者との,文章を通じた対話である場合,主体性を発揮できる筆者ならば,叙述の工夫をもって自覚的に読者へ の接近を試みる.その一端としての「学習者に語りかける書き下ろしの教科書教材」について,他者としての筆 者が自己の眼前に迫り,対話を求める仕組みを学習者自身が認識することによって,筆者が縮めようとした距離 を,学習者の方からも縮めようとする主体性を引き出すための提案(8)を昨年行った.学習者たちが,まるで今,

聴衆として目の前にいるかのように語りかける,野矢茂樹・高畑勲の両筆者(9)は,ともに,生身の書き手と読 み手には決して得られない共時性を,語りかけという「疑似共時性」の身振りを取ることで仮に設定し,その仕 掛けに読み手の主体性が発動すれば,書き手の語りかけに読むことを通じて応じる形で,のちに自らの「思念内 共時性」を構築し,読み手は書き手との対話を完成させる.「教科書教材化を執筆の契機とし,自身の書いた文 章が,ある学年に限定された学習者によって学びの対象となるという認識のもとで,あえて学習者に語りかける 態度をもって協働作業を試みる,読み手に肉薄する書き手の姿がそこにある.こうして学習者の眼前に迫る書き 手が,教科書教材を介して,他ならぬ自分自身の学びに関わろうと試みていることを学習者が認知するとき,す なわち,生身の人間どうしのパーソナルな関係が浮かび上がるとき,学習者の主体性は引き出され,「何が書か れているか」だけで済ませない,「誰が,どのように書こうとしたか」という書き手の顔と向き合う「読むこと」

の教材として,「学習者に語りかける書き下ろしの教科書教材」は,「主体的,対話的で深い学び」の実現に寄与 するものとなるだろう.(10)

 ただし,この論文執筆時点での小・中・高の現行教科書に含まれる書き下ろしの全非虚構文章教材のうち,有 効な語りかけのアプローチが行われていたのは上記の2点のみであり,国語科の教材文として一般的な例に数え ることは難しい.いわゆる「説明的文章」とされる書き下ろしの教科書教材の多くは,見せかけの語りかけはあっ ても,筆者が自説を縷々述べ続ける一方通行の関係性に堕している(11).そこで,本稿では,新たな側面よりア クティブ・ラーニングの実現を目指すため,「主体性」について「主体的」に考える」というテーマのもと,「主 体的・対話的で深い学び」を体現する筆者の姿を読み解くことで,アクティブ・ラーニングの具体的なモデルを 学習者に捉えさせ,筆者の主体性を端緒とした主体性そのものへの考察を通じて,自らの主体性のあり方を問い 直す授業改善について提案したい.対象とするのは,高畑勲「眼差しを交わす喜び」(12)〔資料〕)である.

1.アクティブ・ラーニングのモデルケースとしての「眼差しを交わす喜び」

対話への礼賛

 高畑勲「眼差しを交わす喜び」は,現行の高等学校国語科用教科書のうち,『現代文A』(三省堂)のみが取り 扱う文章である.過去には,同社発行の『明解国語Ⅱ』(13)『明解国語Ⅱ 改訂版』(14)においても採録されていた。

出典は,教材中の表記によれば,『映画を作りながら考えたこと』(15)であるが,初出は信濃毎日新聞の 1986 年6 月5日付の記事(16)であり,『一枚の絵から 海外編』(17)にも収録されている.

 筆者は,国立西洋美術館所蔵の絵画「海辺に立つブルターニュの少女たち」(ポール・ゴーガン,1889 年,油 彩・カンヴァス,92.5 × 73.6cm)(18)を見に行く.〈絵の前に立ち,少女たちと視線を交わす〉(19)筆者は,少女 たちとの間に〈私一人と個人的な関係〉を築き,同じく〈作中人物がこちらに目を向けている〉絵画としての〈「モ

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ナ・リザ」〉や〈多くの自画像〉の魅力が〈眼差しによる対話〉に由来すると考える.筆者の考察は,ブルターニュ の少女たちの持つ〈日本の子供たちがすでに失って久しい何ものか〉に及び,少女たちと同じく素足で大地を踏 む,「かぐわしき大地」(ポール・ゴーギャン,1892 年,油彩・画布,91.3 × 72.1cm)(20)の中の〈一糸まとわぬ〉

〈タヒチの女〉を,〈地球を破壊し尽くしかねない文明の絶頂にあって,私たちは〉〈後ろめたさもなく,見つめ かえすことができるのだろうか.〉という問いかけをもって文章を閉じる.

 「主体性」について「主体的」に考える」がこの文章を学ぶテーマであると告げられても,学習者はにわかに は理解しがたいかもしれない.〈カメラを向けるとVサインを突き出して,「ピース,ピース.」とおどけてみせ る現代っ子と,なんという違いだろう.〉という〈素朴な〉少女たちとの対比に始まり,〈日本の子供たちがすで に失って久しい何ものか〉から,2点の絵画に描き出された〈人間の営みが自然の中で本来もっていたたくまし さとけなげさ,そして,もろさ〉へ,続けて〈地球を破壊し尽くしかねない文明の絶頂〉という,〈日本の子供 たち〉から〈人間〉,最終的に〈地球〉規模にまで発展していく喪失感や,さりげなく転換された〈私〉から〈私 たち〉という主体のありかは,教科書教材としての「説明的文章」に含まれがちな,学習者が読み慣れた「社会 への問題提起」として,さらに「我がこととしても受け止めよ」というメッセージとしては読み取りやすいだろ う.しかし,この文章を,書き手が自身の専門性を振りかざしてむやみに深刻ぶり,最後は読み手まで問題の当 事者として巻き込んで暗澹とさせる,ネガティヴ一辺倒の「説明的文章」と同列に扱ってはならない.タイトル にあるとおり,これは「喜び」を綴った文章であり,筆者は,〈絵の中の人物と視線を交わす怖さや楽しみ〉の すべてを,「喜び」に還元している.前述の喪失感や〈後ろめたさ〉は,〈怖さ〉の一例ではあるが,その原点に は,常に〈眼差しを交わす喜び〉があふれているからである.「怖さ」がなぜ「喜び」なのか,と学習者は疑問 に思うかもしれない.そこには筆者の揺るぎない「対話への礼賛」がある.他者との対話が,例え「怖さ」を突 きつけられるものだとしても,「楽しみ」を感じるときと全く同じく,自己をいっそう豊かにするものであるこ とを筆者は知っている.対話を喜ぶ強い思いは,主体性の賜物にほかならない.客体である他者との対話は,自 己の主体性の発揮によって実現し,得られた知見は自己に還元され,深い学びとなる.「眼差しを交わす喜び」

が「主体的・対話的で深い学び」を具現化したモデルケースとなりうるのは,この点に由来している.筆者が主 題とするのは,あくまでも「眼差しを交わす喜び」であり,後半の文明批判に類する話題は,他者との対話がも たらした深い学びの一端にすぎないのである.

類い稀なる主体性のもたらすもの

 「主体性」の語義について,「対象との距離を縮めるための自主的なアプローチ」と解説したうえで,この文章 に見られる主体性の発揮に関する描写を学習者に問うた場合,〈あの絵だけは見て帰ろうと思う〉に続く,〈特別 展を見終わってどんなに疲れていても,この絵のおかげでつい常設展示のほうへ足が向いてしまう.〉の部分が,

まず初めに指摘されやすいだろう.とりわけ〈どんなに疲れていても〉という描写は,肉体的苦痛を具体的に叙 述する点で共感を得やすく,疲労をおしてまで絵を見ようとする筆者のアプローチに,主体性の強靭さを読み取 れる.

 ただし,「主体性」について考察するうえで学習者に気づかせたいのは,筆者が絵と向き合おうとする思いの みならず,筆者が絵を眼前にして築く少女たちとの特異な関係性である.〈あの絵だけは見て帰ろう〉と述べて いた筆者だが,第二段落で,〈絵の前に立〉つやいなや,筆者にとってそれは単なる絵画作品であることを超え,

少女たちとの対話が始まる.絵を絵として見る,という鑑賞者側からの一方的アプローチを超え,絵の中の少女 たちと〈視線を交わす〉と,筆者は〈自然に口元が緩〉み,「やあ」と声をかけたくなる〉.この段階までならば,

まだ,我々は類似する感覚を自身に見出すこともできるだろう.曰く,「まるで生きているかのような」,や,「目 が合うかのような」気がするという,絵画作品の放つ存在感への感嘆である.しかし,次の描写で,我々は,「か のような」という解釈と,筆者の鑑賞スタイルとの決定的な違いを思い知らされる.〈私が近づいたので,二人 はこのように身を寄せ合い,人見知りの目をこちらに向けたのだ.〉という,少女たちのポーズを自己の行動に 起因するものと断定する一文は,比喩的表現を明らかに凌駕している.一般的な絵画鑑賞において,それが 100 年以上前に,ある画家によって描かれた絵画作品であると知る以上,今,〈私が近づいたので〉,画面の中の少女 たちがポーズを取ったと明言するには至りがたいのではないだろうか.作品の形成過程において,自己の関与が 不能であることは明白だからである.ところが,筆者がこの絵について,ある画家によってかつて描かれた絵画 作品として認識していることもまた,〈こんな絵が,ただポーズをとらせて描けるはずはない.ゴーギャンはブ ルターニュで出会った少女たちの素朴な姿を,まるでカメラのような目で心に焼きつけたのにちがいない.〉の

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一文から読み取れる.いっぽうでは,ゴーギャンが出会った少女たちであり,ゴーギャンによって描かれたポー ズであると認識していながら,なぜ,筆者は,自己の存在が少女たちの緊張を生んだと捉え,「そんなに警戒し なくて大丈夫だよ.ほら,ぼくはきみたちをとって食いやしないよ.〉と,絵に向かって〈ますますニッコリ〉

するのだろうか.筆者の「海辺に立つブルターニュの少女たち」との,矛盾とさえみなされる向き合い方につい て顕在化し,疑問を抱くことこそが,「主体性」について「主体的」に考えるための手がかりとなる.

 筆者は,画家ゴーギャンと,その視線の先にかつて存在した二人の少女についての客観的視点を持ち,それを 文章中に示している.すなわち,現在を生きる自己の影響下にある,対話可能な存在として少女たちに接するの は,筆者の思い込みや妄想によるものではない.〈ゴーギャンの前で,このいかつい大男から目を離せなかった 二人が,その目で今,私を見つめている.そしてその彼女たちを私が見つめる.〉と,筆者は画家と,少女たちと,

自己との関係性について述べる.実在のゴーギャンが実在の少女たちに出会い,その姿を描きとどめた絵画を介 して,筆者もまた,少女たちが画家にかつて送ったのと同じ視線を向けられるという構造を,筆者は了解してい る.それでは,なぜ,〈私が目を離さないかぎり,森の中で出会った鹿のように,少女たちもまた私から目が離 せない.〉と筆者は言い切ることができるのか.それは決して,強調を意図した修辞ではなく,筆者の実感にほ かならない.なぜなら,〈視線を交わし合ったとたん,画面の人物は客観的な他人であることをやめ,たちまち 私一人と個人的な関係をもち始める〉からである.筆者の類い稀なる主体性は,ついに生身の少女たちを生み出 したのだ.筆者の眼前に存在するかつて〈いかつい大男〉を恐れた少女たちは,もはやゴーギャンが出会ったの と同じ少女たち(21)でもなく,この絵を見るであろう筆者以外のすべての人々が出会う少女たちでもない.それは,

筆者が主体性を発揮した結果としてこの世に誕生させた,〈個人的な〉〈私一人〉の,少女たちなのである.だ からこそ,〈私が近づいたので〉〈私が目を離さないかぎり〉,というシチュエーションが成立するのである.

 このように,筆者の主体性のゆくえを,その叙述から精緻に探究すれば,矛盾のように思われた筆者と少女た ちとの関係性には,類い稀なる主体性の持ち主ならではの整合性があることに気づく.筆者の主体性を追ううち に,おのずと学習者自身の読みが主体的に傾き,主体性がもたらす限りない可能性にまで思い至ることができれ ば,この文章の教材価値を玩味しえたといえるだろう.

 さらに主体的に考察を深めれば,絵画に対する学習者自身の鑑賞のあり方について捉え直すことも可能である.

筆者のように絵画作品から生身の人間を誕生させ,相互的に不可分な関係を構築するほどの鑑賞スタイルは,そ の特徴だけを取り上げれば,かなり突出したもののように感じられるかもしれない.翻るに,そもそも,絵画作 品とはいったい何なのか,という命題について改めて考えるとき,どのような答えが思い浮かぶだろうか.「海 辺に立つブルターニュの少女たち」を例に取れば,それは,物質的には「布に塗られた絵具の集積」以外の何も のでもない.我々は,それが絵画作品である以上,何らかの対象を描き表わしたものとして了解しようとする習 慣に基づき,「海辺に立つブルターニュの少女たち」という題名が示されれば,この色面は,「ブルターニュの海 辺」と「ブルターニュ在住の少女たち」を描いたものであると規定して,そこに海や,草原や,人間を見る.し かし,絵具の集積に対して像を結ぶことができるのは,そこに何らかのイメージを構築したいと望む我々自身の 主体性のなせる業にほかならない.筆者の築いた生身の少女たちのいる世界は,我々が無自覚に行なっている,

色面に風景や人物を見いだす術のほんの少し先にある.主体的な考察を避け,当たり前のこととして身の周りの 出来事を措定してしまえば,生きることの起伏は弱まり,驚きや発見を喜ぶ姿勢がなければ,世界は新鮮さを失 う.客体の可能性について先入観なしに問い,考察を経て受容する主体性を育むことが,学習者の生を豊かにす るアクティブ・ラーニングとなるのである.

2.言葉による見方・考え方を働かせる

語らなかった言葉から語り方を読む

 新指導要領解説は,「指導計画作成上の配慮事項」の「(1)単元など内容や時間のまとまりを見通して,その 中で育む資質・能力の育成に向けて,生徒の主体的・対話的で深い学びの実現を図るようにすること.その際,

言葉による見方・考え方を働かせ,国語科の学習の充実を図ること.」について,「言葉による見方・考え方を働 かせるとは,生徒が学習の中で,対象と言葉,言葉と言葉の関係を,言葉の意味,働き,使い方等に着目して捉 えたり問い直したりして,言葉への自覚を高めることである」とし,「言葉で表される話や文章を,意味や働き,

使い方などの言葉の様々な側面から総合的に思考・判断し,理解したり表現したりすること,また,その理解や 表現について,改めて言葉に着目して吟味することを示したものと言える.(22)としている.「眼差しを交わす喜 び」において言葉による見方・考え方を働かせ,主体的・対話的で深い学びの実現を図るためには,語った言葉

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に着目するだけでなく,語らない言葉との比較対照が有効である.

 具体的な授業展開としては,まず,「海辺に立つブルターニュの少女たち」に描かれた事物について,学習者 に発見を促す.少女が二人いることだけでなく,奥の方に見える海や,小島のようなもの,波頭,草原,石くれ,

地面,花,などが列挙されるだろう.次に,今,学習者たちが挙げた事物について,筆者はどのように語ってい るか,文章中の表現を探す.予め「・少女たち」「・海」というように,列挙された事物を項目立ててノートに 記述し,項目ごとに該当する筆者の言葉を学習者が各自で書き入れる.「・少女たち」の項目には,〈二人はこの ように身を寄せ合い,人見知りの目をこちらに向けたのだ.〈森の中で出会った鹿のように,少女たちもまた私 から目が離せない.〈右の子は片手をそっと左の大きな子の両手の中に滑り込ませ,大きな子は平気を装ってい るものの,とりすましたがっている彼女の表情を,足の親指が裏切っている.〈その目,その手つき,その大き な素足,その姿勢の全てから,ひそやかな内心の声があふれ出してくる.〈素朴な姿〉〈ゴーギャンの前で,こ のいかつい大男から目を離せなかった二人が,その目で今,私を見つめている.〈木靴も履かずに立っている.

〈大地を踏む大きくて黒い素足たちは,人間の営みが自然の中で本来もっていたたくましさとけなげさ,そして,

もろさを,永遠の相に固定して私たちを感動させてくれる.〉という描写の数々が書き込める.しかし,それと は対照的に,「・海」「・小島のようなもの」「・波頭」「・草原」「・石くれ」「・地面」「・花」のどの項目も,

かろうじて〈大地〉と言い換えられた「・地面」を除き,ひとしなみに〈厳しい海辺〉という言葉に集約され,

個別の様相についてまるで語られていないという,語った言葉と語らない言葉の対比について,学習者は自らの ノートの文字群の粗密を通じて視覚的に体感する.さらに,ノートにまとめた「少女たち」に関する描写を読み 比べ,語った言葉と語らない言葉を探す.すると,学習者は,〈木靴も履かずに〉という,素足の様子を強調す るための言葉以外に,少女たちの服装にまつわる言葉が見当たらないことに気づく.恐らくは民族衣装に由来す るであろう,特徴的な帽子や袖口,前掛けなどについての描写はなく,少女たちを語る筆者の文章表現は,「身」

「目」「片手」「両手」「表情」「足の親指」「素足」「姿勢」「声」という,身体に関する言葉で占められていること に,学習者は思い至る.そこで再び思い起こすべきは,絵の中から生身の少女たちを生み出した筆者の主体性で ある.

 筆者にとって,「海辺に立つブルターニュの少女たち」における最も重要なモティーフは,自身と〈視線を交 わす〉少女たちであり,筆者は,今,眼前に生れ出た身体による生き生きとした仕草の数々を,喜びを込めて語 り続ける.自らが尊ぶ対象について,その身体に主体的に関わることにより,ついに絵画作品から生身の少女た ちを誕生させるに至った経緯が,文章中で語った言葉だけでなく,語らない言葉との比較検討により,学習者に もありありと見えてくる.筆者の「言葉による見方・考え方を働かせる」様子に着目する営みの有効性が,学習 者に実感される場面である.

言葉が紡ぎだす身体性

 身体性に傾倒する筆者の語り方についての発見は,まだ続く.筆者が少女たちの身体に寄せる強い関心を認識 したうえで,文章中に他にも身体にまつわる言葉はないか探し,ノートにまとめる.少女たちに関する描写の検 討によって視点が磨かれた学習者は,まず一行目の〈足を運ぶ〉に始まり,〈足が向いてしまう〉〈目に浮かぶ〉〈顔 ぶれ〉〈視線を交わす〉〈口元が緩む〉〈声をかけたくなる〉〈目を離さない〉〈カメラのような目で心に焼きつけた〉

〈蠱惑的な目で私を見つめた〉〈流し目をくれ〉という表現の数々を見出すだろう.次に,それぞれの表現につい て,身体に関する言葉を用いずに,という条件付きでノートに別の表現で書き換える.〈足を運ぶ〉は「行く」〈足 が向いてしまう〉は「出向く」〈目に浮かぶ〉は「思い起こす」〈顔ぶれ〉は「人々」〈視線を交わす〉は「見 つめ合う」〈口元が緩む〉は「微笑む」〈声をかけたくなる〉は「話しかけたくなる」〈目を離さない〉は「見 つめ続ける,〈カメラのような目で心に焼きつけた〉は,「カメラのように正確に観察し,記憶にとどめた」〈蠱 惑的な目で私を見つめた〉は,「蠱惑的な様子で私を見つめた」などのような表現に書き換えられるだろう.た だし,〈流し目をくれ〉については,顔を向けずに瞳の動きで視線を送る動作そのものを指すため,身体に関す る言葉なしでの書き換えは困難である.このような書き換えを行ったのち,文章中で筆者が用いた表現と,自ら が書き換えた表現とを比較し,たとえ意味内容が通じたとしても,身体を失った表現が,具体的なイメージの喚 起に乏しく,色褪せ,味気ないものとなっていることを読み取る.筆者の駆使する身体性は,画家たちや,他の 絵画作品中の人物や,ブロマイドの中のスターに及び,生身の身体を生み出した少女たちとのコミュニケーショ ンに,筆者自身の身体をもって主体的に関わろうとする姿が,筆者の「言葉による見方・考え方」への着目で浮 き彫りとなる.この学習過程は,目を使って探し,声に出して発表し,手を使って一文字ずつ書き込み,また目

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を使って読み比べるという,学習者それぞれの身体活動に支えられている.繰り返される各自のノートへの書き 込みは,自分自身による発見を,自ら記述し,それらの比較検討を通じて考察を深める中で引き出される学習者 の主体性を,身体的活動の連続によってより鮮やかに自覚するための仕掛けである.このとき,すでに学習者は,

おのずと筆者と対話している.筆者の言葉を探し出そうとする取り組みの中で,学習者は,より精緻に文章を読 み取ろうとし,筆者の元へと身を乗り出す.筆者の声に耳を傾けようとする態度は,対話を形成する.「主体的・

対話的で深い学び」が自らに訪れる仕組みを,筆者との対話を通じて学習者は獲得するのである.

3.身体を活用するアクティブ・ラーニング

〈眼差しによる対話〉の構造への参画

 筆者の「言葉による見方・考え方」への着目により,身体性への視点を備えた学習者には,身体を活用するさ らなるアクティブ・ラーニングが待ち受けている.それは,学習者自身の身体による〈眼差しによる対話〉の構 造への参画である.第二段落で,少女たちと視線を交わす様子を実況中継のように現在形で描写した筆者は,第 三・第四段落で,この絵画作品と筆者との個別の関係に限らず,〈作中人物がこちらに目を向けているもの〉と それを見る者との間に始まる〈眼差しによる対話〉の仕組みを明らかにする.〈視線を交わし合ったとたん,画 面の人物は客観的な他人であることをやめ,たちまち私一人と個人的な関係をもち始める.〉という仕組みにつ いて,学習者は,筆者の言葉から得た情報を,身体を中心に構造化して捉え直す必要がある.そのためには,筆 者の文章を分解し,登場人物を時間や場所の異なるシーン別に整理することが有効である.

 〈ゴーギャンの前で,このいかつい大男から目を離せなかった二人が,その目で今,私を見つめている.そし てその彼女たちを私が見つめる.〉という二文を,シーンの発生状況によって区別すると,〈ゴーギャンの前で,

このいかつい大男から目を離せなかった二人〉〈二人が,その目で今,私を見つめている.そしてその彼女たち を私が見つめる.〉と分割される.ゴーギャンと少女たちが出会い,絵画作品成立の萌芽を迎える 1889 年前後 のフランスのブルターニュでのシーンと,絵画作品成立後,筆者と少女たちが対峙する 1989 年前後の日本の国 立西洋美術館でのシーンである.すなわち,筆者は作品成立以前と,作品鑑賞時という,絵画作品を中心とした 身体の関わりの最初と最後のシーンを描いているといえる.シーン①である作品成立以前には,生身の少女たち と,生身の画家の身体が存在した.その少女たちをモティーフに,画家が作品を創造するシーン②は,〈この絵 の描かれたのがその時であったかどうかはともかく〉というフレーズから設定できる.少女たちの身体はいった ん絵画に収められたが,生身の画家の身体はイーゼルの前に存在した.作品成立後,所蔵先となった美術館で絵 画作品を鑑賞するシーン③で,筆者は〈眼差しによる対話〉によって,再びシーン①の少女たちの身体を召喚し たのである.筆者のように主体的に対話を求める鑑賞ではなく,〈画面の人物は客観的な他人である〉ことを前 提とし,あくまでも絵画作品としての「海辺に立つブルターニュの少女たち」を総合的に鑑賞しようとするなら ば,鑑賞者の視線は少女たちにも,背景にも,表現技法にも俯瞰的に向けられるだろう.そのとき,鑑賞者は少 女たちの視線の先に画家を見ている.しかし,シーン③では,筆者の前には生身の少女たちが現われ,シーン① の想起により,生身の画家の身体も浮かび上がる.筆者の視線は少女たちと直接に交わされるだけでなく,画家 の身体と重なり,画家の視線を通過する.それぞれの存在が絵画作品を通じて身体として関わりあう構造の分析 により,学習者は,それらのシーンのすべてがひとつの文章の中に籠められ,読むことによって初めてそれらが 立ち上がるという読み手としての自身の立場を前提としつつ,読解の結果として獲得した〈眼差しによる対話〉は,

文章の中だけの現象ではなく,自らの身体によっても試行可能であることに気づく.

 筆者は,〈眼差しによる対話〉の例として,〈古今の絵の中で,作中人物がこちらに目を向けているもの〉や,〈多 くの自画像〉〈かぐわしき大地の上〉の〈タヒチの女〉などの絵画作品中の人物だけでなく,〈ブロマイド〉になっ た〈スター〉や〈写真の中の仲間や自分〉たちと視線を交わすことができると語る.そのように対象と一対一で 行う〈眼差しによる対話〉については,類似する経験を思い浮かべる学習者も多いだろう.しかし,ここで提案 するのは,学習者が文章中で示されたシンプルな構造による〈眼差しによる対話〉を横並びで実感するだけでな く,読むことを通じて浮かび上がった,文章の中に描かれた身体の重なりの最後に,自らの生身の身体を連ねる アクティブ・ラーニングである.そのとき学習者は,自らの身体によってシーン④を創造するのである.

実物の前に身体を置くこと

 「眼差しを交わす喜び」は,「海辺に立つブルターニュの少女たち」の絵画作品としての批評にとどまらず,実 物の絵画作品の前に自らの身体を置くことで起こる情景を描いている.〈上野の国立西洋美術館に足を運ぶたび

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に〉という冒頭のフレーズから,〈特別展を 見終わってどんなに疲れていても,この絵の おかげでつい常設展示のほうへ足が向いて しまう.〉を経て,〈絵の前に立ち〉までに含 まれる身体活動のすべてが,筆者と少女たち が出会うための要件となる.学習者が実物の 絵画作品の前に立つことができるなら,その 場所までの身体移動にともなう全行程につ いての認識が欠かせない.

 このうえなく幸いなことに,「海辺に立つ ブルターニュの少女たち」は日本にあり,特 別な事情がない限り,常設展示されている.

国立西洋美術館は,JR上野駅の公園口を出 れば,徒歩約3分,その他の私鉄・地下鉄の 上野駅出口からでも徒歩 10 分以内で到着す る.実際の学習活動として訪問する場合,授 業の一環として,または校外学習,遠足,修 学旅行などの機会が考えられるが,関東一円 の学校であれば,時間,費用ともに比較的軽 微な負担で済むため,現実的にも計画しやす いだろう.

 美術館に入館し,「海辺に立つブルター ニュの少女たち」の前に立つまでには,さら に身体の移動が必要となる.国立西洋美術館 のご協力のもとで取材を行った平成 30 年1 月時点では,本作品は新館1階の 11 番のエ リアに展示されていた.美術館の入口は本館 1階にあり,新館1階に向かうには,いった ん階段で2階に上がり,本館2階フロアを新 館2階フロアまで通り抜けてから,新館の階 段を下りる必要がある.11 番エリアは,階 段のすぐ脇の自動扉の先にある.最後の扉を 抜けても,4点目の本作品の前に立つまでに は約 15 歩ほど歩く.足元に簡便な柵が設け てあるため,そこから先には立ち入れない が,約1mほどの距離に身体を置くことがで きる.実物の絵画作品と対峙した学習者に とって,初めに生じるのは,作品と自身との マンツーマンの関係であろう.複製写真には 成しがたい,実物だけが与え得る世界が学習 者の前に展開する.

 右の少女の顔は,頬に差す赤みが肌の透明 感を引き立て,生き生きとした質感に満ちて いる.意思の籠った瞳が白さの際立つ白目に 守られ,眼差しを生み出す.彼女に比べると,

左の少女の顔の肌はやや沈んだ色味ではあ るものの,その視線は見る者を射抜くかのよ うな鋭さに満ちている.右の少女の左手の先 国立西洋美術館における「海辺に立つブルターニュの少女たち」の

展示風景(平成 30 年1月 撮影 仁野平智明)

 遠景-新館1階入口付近よりフロアを臨む(作品は左から4点め)

 中景-作品に近づく(作品は左から2点め)

 近景-作品の正面に立つ

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は,やや弱々しく,かつぎこちなく伸ばされ,左の少女は右の少女の左手を,自身の左手だけでなく,右手もそっ と添えて大切に握っている.右の少女が踏みしめ,左の少女が指を重ねる両足は,いずれも肉厚で,量感をもっ て迫ってくる.背景の草地は,草をなびかせる風をもはらみ,右下の草花は,尖った葉先や頭状花の形状により,

アザミとしての凛とした存在感を放つ.二人の少女が生きる空間は,景色も同じように生きている.

 絵画作品との対面を果たした学習者は,再び文章へと回帰する.改めて絵画作品を目の前にして,「眼差しを 交わす喜び」を読み返す.〈眼差しによる対話〉が,筆者が少女たちと築くのと等しく自らに訪れるとは限らな いだろう.無理に共感する必要はない.筆者の鑑賞を,筆者と同じ場に身体を置いて捉え直そうとする営みその ものが目的だからである.筆者がかつて立った「絵画作品の前」としての場は,画家が作品完成まで身体を置き 続けた場でもある.絵画作品は,画家の身体活動の所産にほかならない.ひと筆ずつ,画家は身体によって画面 へとイメージを伝え,完成の瞬間まで,繰り返し描き込む.シーン①で画家が出会った少女たちの身体は,シー ン②で画家の身体に取り込まれて絵画化し,シーン③では筆者によって眼差しを持つ者として呼び覚まされる.

今,実物の絵画作品を前にして,それらのシーンを包含し,すべての身体と自らの身体を時空を超えて重ねるシー ン④を学習者は創造する.何かを強く感じたとしても,何も感じられなかったとしても,その成果は問題ではな い.自分だけのシーン④が,読むことによって生まれ,身体によって実現したことを感得しさえすればよいので ある.

複製の前に身体を置くこと

 実物の絵画作品が,その存在意義ゆえに唯一無二の場を提供するからといって,その前に立てない学習者にな すすべがないわけではない.海外の美術館所蔵ではないといっても,地理的要因により多大な費用と時間を要す る学習者もいれば,往復に負担のない距離であっても,諸般の事情で実現しない場合もあるだろう.しかし,複 製画さえあれば,模擬体験はじゅうぶん可能である.その際の必須条件は,「空間の再現」に努めることである.

まず,「海辺に立つブルターニュの少女たち」の実際のサイズである縦 92.5 ㎝,横 73.6 ㎝のカラーの複製画を 作成する.それを,授業の行われる教室からなるべく遠くに位置する部屋の壁に掲示する.移動に階段の昇降が ともなえば,より望ましい.掲示の位置は,入口から最も遠い壁面を選び,西洋美術館の展示位置に倣い,立っ て鑑賞する学習者の顔に対し,少女たちの顔がほぼ正面か,それより少し上になるようにする.実物と同じサイ ズの複製画,実物の鑑賞に要する身体移動に類する活動,実物の鑑賞と同じ姿勢,の三要素を満たせば,複製画 を用いてのアクティブ・ラーニングは有効に機能する.

 学習者は,「実物を見に行くつもりで」との指示のもと,教室を出発する.実際の美術館での行動になぞらえ ることで,筆者の身体活動に思いを馳せるのに加え,移動に時間がかかるほど,学習者の期待感や集中力は増し,

絵画作品に対峙する心構えが整う.国語の授業で,教室を出て歩き回り,何かを見に行く活動はまれであり,た とえ通い慣れた学校の施設内であっても,学習者の胸中には新鮮さが満ちるだろう.室内に入り,遠くに作品が 見えても,自らの身体と間近で正対するまでには,まだ歩みは続く.ようやくたどり着いたときには,学習者の 興味は沸点に達し,自らの身体を運んでこの場に至ったという実感に至る.実物の絵画作品の前に立つように,

筆者の身体と同じ場に身体を置くことはできない.しかし,模擬体験は学習者の身体に確かに刻まれる.教科書 の視覚資料と比べて,実物大の複製画は,カラーコピーであっても,存分の迫力を有するだろう.いつもの教室 で,自分の席に座ったままめくって見る小さな複製画からは得られない,今,自らの身体を取り巻く,作品鑑賞 にともなう空間そのものの存在を認識できれば,筆者が語った身体性について,より主体的に捉えることができ るだろう.

 複製画による模擬体験がもたらす感興が去った後,学習者に,それが結局はカラーコピーにすぎないというわ びしさを覚えさせるところまで達すれば,このアクティブ・ラーニングは一応の完成を見たといえる.複製は,

決して実物ではない.その実感があればこそ,ぜひ実物を見たいというモティベーションが生まれ,なぜ自分は 実物が見られないのか,という疑問が生じる.いつか見てみたい,どうすれば見に行けるのか,という,自身の 身体を実物の前に置くことへの渇望は,すんなり実物を見に行ける恵まれた学習者には訪れない,ほろ苦くも,

可能性に満ちた主体性の発揮なのである.

4.視覚資料の陥穽

適切な選択と配置

 「眼差しを交わす喜び」のように,特定の絵画作品をモティーフとするテクストの場合,その複製画による視

(9)

覚資料の併載が教材化の要件となる.ただし,視覚資料の活用にあたっては,言語の読解によって生まれる学習 者固有の思念よりも速く,学習者に固定的な印象を植え付ける恐れのあるビジュアルイメージの危険性について の特段の配慮に基づく,適切な選択と配置が不可欠である.

 教科書教材「眼差しを交わす喜び」は,『現代文A』『明解国語Ⅱ 改訂版』『明解国語Ⅱ』のすべてにおいて,

絵画作品の複製画による視覚資料を併載している.【表1】(23)は,各教科書教材掲載の視覚資料の元となった絵 画作品について,それらの所蔵先と,各所蔵先ウェブサイトの公表による作品情報を列挙したものである.『明 解国語Ⅱ』では2点であった複製画の視覚資料は,『明解国語Ⅱ 改訂版』では3点,『現代文A』では5点と増 加傾向にある.すべての教材に共通する作品は,「海辺に立つブルターニュの少女たち」と「Self-Portrait」

である.

 国語科教科書教材の視覚資料としては,複製画の他にも図,表,グラフ,地図,挿画,写真等が想定できるが,

「PISA型「読解力」」における「非連続型テキスト」である「データを視覚的に表現した図・グラフ,表・マ トリクス,技術的な説明などの図,地図,書式など」(24)と,それら以外の絵画作品の複製画,挿画,資料写真,

芸術作品としての写真等との間には,決定的な性質の違いが存在するにもかかわらず,教材化に際しては両者の 混濁的使用がしばしば生じているのが現状である.「非連続型テキスト」は,データの一様相であり,必ず全面 的にデータに起因する.それらに作品としてのオリジナリティが無い以上,複製にもなり得ない.いっぽうで,

絵画作品には,作品情報や描かれた内容等に関するデータは含まれるが,それらは後天的発生によるものであり,

絵画作品はデータ解説を旨とするものではなく,データには起因しない.絵画作品は画家によるイメージの表象 であり,オリジナル以外はすべて複製となる.このような性質を持つ絵画作品の複製画を視覚資料化する目的は,

教材文の解説を意図したデータ提供にあり,複製画はこの時点で「非連続型テキスト」的取り扱いを受けること になる.ところが,複製画の元である絵画作品のほうでは,自らの取扱いを単なるデータ抽出の手段としてだけ では決して済ませない.「鑑賞の要求」という絵画作品の原理的作用を,見る者すべてに発生させるからである.

ヴァルター・ベンヤミンは,「複製技術のすすんだ時代のなかでほろびてゆくものは作品のもつアウラである」(25)

と嘆いたが,たとえアウラを喪失したとしても,いかなる複製画も,その出来が粗雑であれ,部分の切り取りで あってさえも,オリジナルの絵画作品が持つパワーの残滓を確かに含んでいる.だからこそ,その残滓なりとも 所有せんがために,人々はこぞって複製化を求めるのである.そのパワーの一端としての「鑑賞の要求」により,

複製画は教科書教材の資料としての副次的存在をやすやすと超克し,学習者に芸術作品としての個の尊厳を守る 取り扱いを迫る.すなわち,複製画による視覚資料が増えれば増えるほど,無用な鑑賞活動により学習者が翻弄 される度合が高まり,それが「読むこと」の学習を妨げるのである.

 「眼差しを交わす喜び」を例に取れば,視覚資料として適切な複製画が「海辺に立つブルターニュの少女たち」

1点のみであることは,その初出である新聞記事「美 私の一点」の企画性によって明白である.文章の成立に

「海辺に立つブルターニュの少女たち」が「美 私の一点」として関与し,テクストが同作品と不可分である以上,

その複製画の併載は必至であると同時に,他のいかなる複製画も不要であることを,初出の新聞記事,『映画を 作りながら考えたこと』及び『一枚の絵から 海外編』に共通する,「海辺に立つブルターニュの少女たち」の 複製画1点のみによる紙面構成が証明している.文章の叙述内容から鑑みるに,一例として挙げられたにすぎな い〈「モナ・リザ」〉に比べ,「かぐわしき大地」の果たす役割は重要であり,〈タヒチの女〉で締めくくる文章構 成も手伝って,「海辺に立つブルターニュの少女たち」と比肩する作品であるかのようにも思える.しかし,あ くまでも「かぐわしき大地」が「海辺に立つブルターニュの少女たち」からの,筆者の〈目に浮かぶ〉連想の中 にあり,テクストの原点ではない以上,複製画による視覚資料を必須としない.「かぐわしき大地」の複製画と 見比べずとも,筆者の言葉による描写をたどり,筆者の語る作品像を想像することは「読むこと」の有効な学習 となる.

 同様に,「モナ・リザ」〉の複製画の使用は元来不要であり,かつ,ひとたび視覚資料化された〈「モナ・リザ」 が個別の鑑賞を学習者に要求する点でも「読むこと」の学習にとってノイズとなる.仮に学習者が〈「モナ・リザ」 を知らないとしても,「かぐわしき大地」の場合と同じく,「モナ・リザ」の謎の微笑は,彼女が蠱惑的な目で 私を見つめた時の微笑であるがゆえに,永遠の謎たりえるのだ.〉という描写から,筆者がこの絵画作品を例に 挙げた意図はじゅうぶん推察できる.さらに,恐らくは文章中の「自画像」に関する参考資料として掲載された であろう「Portrait de l'artiste au Christ jaune」及び「Self-Portrait」に至っては,〈画家が鏡の中に 自己を探ろうとした,その真摯な眼差しによってこちらの内奥が探られ,眼差しによる対話を始めずにはいられ ない〉という条件を満たすすべての自画像が例として該当するのであり,学習者が自画像について概念的に理解

(10)

【表】教科教材「眼わす喜び」所複製資料のキ 作品名作者名制作年使用素材所蔵先作品サイズその他 現代文A

黄色いキリストのある自画像ゴーギャン1890-91年 モナ・リザレオナルド・ ダ・ビンチ1503年頃 戯画的自画像(光輪のある自画像)ゴーギャン1889年 海辺に立つブルターニュの二少女ゴーギャン1889年「眼差しを交わす喜び」48ページ かぐわしき大地ゴーギャン1892年「眼差しを交わす喜び」48ページ 明解国語Ⅱ 改訂版

海辺に立つブルターニュの二少女ゴーギャン国立西洋美術館 蔵 松方コレクションp.8眼差しを交わす喜び かぐわしき大地ゴーギャン大原美術館 蔵p.8眼差しを交わす喜び 戯画的自画像ゴーギャンワシントン ナショナル・ギャラリー 蔵 明解国語Ⅱ海辺に立つブルターニュの二少女ゴーギャン油彩国立西洋美術館 蔵 松方コレクション 戯画的自画像ゴーギャンワシントン ナショナル・ギャラリー 蔵

【表】教科教材「眼わす喜び」所複製資料配置 教材における作品名並置配置ページページの占有箇所色彩 現代文A

黄色いキリストのある自画像教材3ページめ部分(上半分中央)モノクロ モナ・リザ教材3ページめ部分(下半分左)モノクロ 戯画的自画像(光輪のある自画像)教材3ページめ部分(下半分右)モノクロ 海辺に立つブルターニュの二少女×裏表紙の見返し全体(上寄り)カラー かぐわしき大地×裏表紙の見返しから1ページめ全体(上寄り)カラー 明解国語Ⅱ 改訂版

海辺に立つブルターニュの二少女×表表紙の見返しから3ページめ全体(上寄り)カラー かぐわしき大地×表表紙の見返しから4ページめ全体(上寄り)カラー 戯画的自画像教材2ページめ部分(中央教材文左)モノクロ 明解国語Ⅱ海辺に立つブルターニュの二少女教材2ページめ全体(上寄り)カラー 戯画的自画像教材3ページめ全体(上寄り)カラー

【表1】教科教材「眼差わす喜び」所製画絵画情報 教材における作品名所蔵先所蔵先開示作品情報 作者名作品名制作年使用素材作品サイズ 現代文A

黄色いキリストのある自画像Musée d'OrsayPaul GauguinPortrait de l'artiste au Christ jauneentre 1890 et 1891huile sur toileH. 38,0 ; L. 46,0 avec cadre H. 53,7 ; L. 61,5 cm モナ・リザMusée du LouvreLeonardo di ser Piero DA VINCI, dit Léonard de Vinci Portrait de Lisa Gherardini, épouse de Francesco del Giocondo, dite Monna Lisa, la Gioconda ou la Joconde

Vers 1503 -1519Bois (peuplier)H. : 0,77 m. ; L. : 0,53 m. 戯画的自画像(光輪のある自画像)National Gallery of ArtPaul GauguinSelf-Portrait1889oil on woodoverall: 79.2×51.3 cm 海辺に立つブルターニュの二少女国立西洋美術館ポール・ゴーガン海辺に立つブルターニュの少女たち1889年油彩・カンヴァス92.5×73.6cm かぐわしき大地大原美術館ポール・ゴーギャンかぐわしき大地1892年油彩・画布91.3×72.1cm 明解国語Ⅱ 改訂版

海辺に立つブルターニュの二少女国立西洋美術館ポール・ゴーガン海辺に立つブルターニュの少女たち1889年油彩・カンヴァス92.5×73.6cm かぐわしき大地大原美術館ポール・ゴーギャンかぐわしき大地1892年油彩・画布91.3×72.1cm 戯画的自画像National Gallery of ArtPaul GauguinSelf-Portrait1889oil on woodoverall: 79.2×51.3 cm 明解国語Ⅱ海辺に立つブルターニュの二少女国立西洋美術館ポール・ゴーガン海辺に立つブルターニュの少女たち1889年油彩・カンヴァス92.5×73.6cm 戯画的自画像National Gallery of ArtPaul GauguinSelf-Portrait1889oil on woodoverall: 79.2×51.3 cm

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