130 目次
1. はじめに
2.「価値の専制」―シュミットによる価値論批判 3. 価値主観主義の論理 (以上、 前号)
4. 価値客観主義の論理 (本号)
5. 伝統的存在論からみた法的価値の認識 (以下、 次号)
6. 法と国家の根底にあるもの
7. 結びにかえて―法倫理学の構想
4.価値客観主義の論理
(1) 実質的価値説の基盤 オントロギーへの立脚
法の解釈は私たちの生活を致命的に規定する。この事実を踏まえて、法 解釈の前提になる法価値論を考えれば、価値と主観的な価値判断を同視す る価値主観主義の論理はきわめて危険だといわざるをえない。私たちは、
そのことを「価値の専制」に即して確認しながら、新カント主義的な価値 主観主義の対局にあるシェーラーの実質的価値説を挙げ、価値を客観的な
「所与」と捉えることが価値主観主義の論理を超える要点だと指摘した。本 章では、それを受けて、「価値の所与性」という問題を中心に、シェーラー の考え方をトレースし、実質的価値説の論理が有効なのかを検証しよう。
まず、シェーラーが「価値の所与性」というとき、その「所与性」とは、
あくまでも「現象学的な所与性」のことであるが、それは、フッサールの
法の解釈における価値と反価値 (2)
―リーガル・アキシオロギーの考察―
宗 岡 嗣 郎
129
いう「内在意識」に与えられた「内在的所与(immanente Gegebenheit)」 と同じことであろうか1。ここに最初の論点がある。周知のとおり、フッ サールは、認識批判の出発点にデカルトの方法的懐疑に似た考察をおこな い、その存在を疑えないような存在者を「この・それ(Dies-da)」として 明示しようとした。そしてフッサールは直観の中で「この・それ」として 与えられた経験を絶対的な所与と位置づけた。つまり、フッサールの場 合、絶対的所与は純粋直観に与えられる2。同じような表現はシェーラー にもみられる。現象学は「直観」を認識論の核心とする「立場」に対する 名称だから、シェーラーでも、価値は「直観」という作用の「体験」に「与 えられた」ものとして、直観によって「捉えられた」ものとして位置づけ られる。
このように、フッサールにとってもシェーラーにとっても、価値はあく までも内在的な所与として直観に与えられる。一見すれば同じことを言っ ているようにみえる。しかし、直観という作用(Akt)がはたらく「場」
について考えれば、両者にはかなりの相違がある。フッサールが想定する
「意識」は、彼が好んで使った「コギト(思惟)-コギタートゥム(思惟 の志向作用)」という用語(有名な「ノエシス-ノエマ」に対応する志向 性構造)からも示唆されるとおり、デカルトにおけるコギトのような理性 が「認識論的な反省(erkenntnistheoretische Reflexion)」として作用 する「場」のことを指している3。これに対して、シェーラーにとって、
1 フッサール『現象学の理念』(立松弘孝訳・以下『理念』と略記する)65頁 以下参照。
2 フッサール『理念』46頁以下。
3 フッサール『理念』12~27頁。なお、同じことは、『理念』を構成する5つ の講義において、繰り返し論じられているし、『イデーン』でも、「現象学的方 法は、徹頭徹尾、反省」において行われ、ここでの反省は「意識一般を認識す るための意識の方法を表す名称」だと明記されている。同『イデーンⅠ-2』
(渡辺二郎訳)46頁以下参照。もっとも、後の著作には、シェーラーやハイデ ガー的なオントロギーの側面も論じられるが、それでも、作用の核心に置かれ ているのは主としてデカルト的な「コギト」である。たとえば同『デカルト的 省察』(船橋弘訳・世界の名著版)238頁以下。なお、フッサールの「意識」に 関しては、1925年のマールブルク大学講義で、ハイデガーがわかりやすく解説
128 コギトのような「理性」は二次的なものであった。シェーラーは明言して いる。直観という「もっとも緊密にして生き生きした世界(事象)との体 験交渉」において、反省の光は、この「接触の内に『現に(da)』存在す るもの」に対してのみ照射される、と。つまり、シェーラーの現象学的認 識論は、デカルトに発する従来の合理論的な認識論とは異なり、概念的な 認識論的「反省」が働らく前段階で、コギトに先立つ世界との「体験」を 出発点とする。シェーラーは、この意味で、自説をラジカルな経験論だと 自称した4。
そこで、シェーラーのいう現象学的な「体験」の内容を、価値直観の経 験に限定して概観しよう。まず、シェーラーはいう、価値とは「明瞭に感 得されうる現象(klare fühlbare Phönomen)である」5、と。つまり、価 値が「現象」としての所与性をもつのは、「感得」という作用(機能)を端 緒とする。感得(Fühlen)は、「感情(Gefühl)」のような一定の内容を もった状態ではなく、ある感情の状態を把捉し受容する志向的な作用であ る。たとえば、色は目で捉えられ(目に「与え」られ)、音は耳で捉えら れる(耳に「与え」られる)。そして、把捉され受容された色や音(つま り「所与」の色や音)に対して、色彩学や音響学といった対象化された理 性的認識の体系が成立する。価値もそれと同じである。感得によって価値 が捉えられて内在的な所与となった後、所与の価値に対して、理性的な認 識としての価値論が成立する。つまり、感得は、反省のような理性的作用 ではなく、「見る」ことや「聞く」ことのように、理性に先行する精神の
しているので参照されたい。ハイデガー『時間概念の歴史への序説』(常俊宗 三郎、嶺秀樹、レオ・デュンぺルマン訳・ハイデッガー全集20巻)125頁以下。
4 シェーラー「現象学と認識論(1913-14年)」(小林靖昌訳・著作集15巻収)
292-97頁。マンフレート・フリングスも、シェーラーは、フッサールの「意 識」がデカルト的コギトに充たされていることに批判的であったと指摘してい る。フリングス『マックス・シェーラーの倫理思想』(深谷昭三、高見保則訳)
37頁以下参照。なお、フッサールでもそうだが、意識が自らを「振り返る」つ まり「反省する」とき、あきらかに、そこにはたらく作用はコギトでしかない だろう。
5 シェーラー『実質的価値(上)』54頁以下。
127
情緒的な受容作用である6。したがって、価値直観は、対象化された認識 や理性的な思考に先行し、より基底的なところで、人間の全精神生活の作 用として捉えられなければならない。価値直観は理性的作用に先行する情 緒的作用を基盤とする7。
対象化された理性的な価値認識が成り立つためには、その前提として、
価値の情緒的な把捉(感得)が必要である。情緒的な価値の感得は、私 たちの理性が諸価値の世界へと接近するための唯一の通路である、と。
私たちは、価値感得において、初めて、価値(愛するもの)を「先取
(Vorziehen)」し、反価値(憎むもの)を「後置(Nachsetzen)」する。
シェーラーは、「より高い」価値の認識を「先取」と呼び、「より低い」価 値の認識を「後置」と呼ぶ8。おそらく、「価値認識」という語は、理性的 認識という反省的なイメージが強いので、これを避け、理性に先立つ情緒 的な作用(Akt)であることを強調する趣旨であろう。この部分はシェー ラー倫理学および人間学の核心部であり、シェーラーは情緒的な領域に固 有の意義を認める。シェーラーによれば、人間は、思考し意欲する存在だ が、その前に、「愛する存在(ens amans)」である。行為すること、意図 すること、思考すること等々、およそ一切の作用に通底する核心は「愛」
であり、愛は、価値感得を含む一切の作用に先行する先駆者(Pionier)
であり、統率者(Führer)である9、と。
6 シェーラー『実質的価値(中)』158頁以下。シェーラーは、耳や聴力が色を 識別できないように、情緒的体験の受容に対して、理性が完全に無力であるこ とを強調する。
7 シェーラー『実質的価値(上)』133頁以下。ここでは、「対象化された認識 や思考(das gegenständliche Erkennen und Denken)」と書かれているが、
それが主客図式を前提としたデカルト以降の近代的理性(コギト)を指してい ることはあきらかである。
8 正確には、「先取」「後置」は価値認識の領域にあり、意思(意欲)の領域に ある「選択」とは異なる。また、「より高い価値」が「先取」され、「より低い 価値」が「後置」されるのでもない。つまり、価値の高低があって、「先取」
と「後置」があるのではなく、「ある価値の高さは、ただ先取においてのみ、『与 えられている』」のであり、「先取」された価値が「より高い」と認識された価 値である。シェーラー『実質的価値(上)』171頁以下。
9 シェーラー『実質的価値(上)』140頁、同『実質的価値(中)』170頁、同「愛
126 以上のことから明らかなように、シェーラーの場合、認識は自己所与的 に与えられた事実に関する「意識」の上に形成される10。ここには、明白 に、意識内在的なフッサールの論理が継承されている。しかし、その「意 識」の中で価値(フッサールとの比較を強調するのであれば「価値」を「本 質」と言い換えてもよい)を捉える作用に目を向ければ11、シェーラーは 理性的な思考作用を無力だと断言する。ここに両者の決定的な差異があ る。上の概観で示したとおり、シェーラーの内在的意識は、フッサールが 想定する「意識」よりもはるかに広く、究極的には、愛のはたらく「場」
を想定している。つまり、シェーラーの「意識」は、従来の用語でいえ ば、「意識」よりも「精神」に近く、シェーラー自身も「精神」という言 葉をよく使う。そして、精神の存在形態は、「最高の精神的諸力を集積さ せた全体的人間(der ganze Mensch)」であり、端的に、それは「人格」
のことを指すのである12。
認識の端緒は「全体的人間」「人格」に求められている。シェーラーは いう。「あるモノ」の認識は、「あるモノ」を「あるモノ」と「知って把持 すること(wissendes Haben)」であり、認識者が「あるモノ」の知識を
「把持すること(Haben)」である、と。つまり私たちは知識と「ある種の 存在関係(ein Seinsverhaltnis)」をもつ。ただ、認識者は「あるモノ」
の「相存在(Sosein)」を部分的に所有して関与するのであるが、私たち に「把持された」からといって、現存在する「あるモノ」に如何なる変化
の秩序」(平木幸二郎訳・著作集10巻収)238頁以下など参照。
10 シェーラー「現象学と認識論」319頁。
11 シェーラーは『実質的価値』の冒頭部分で「財はその本質からみれば価値物 である」と書く。つまり、「財(Gut)」は「価値をもったモノ(Wertding)」 だから、あるモノの「価値」を直観することはそのモノの「本質」を直観する ことと同じ構造をもつ。したがって価値(「よい」)は財(「よいモノ」)の本質 と捉えることができる。シェーラー『実質的価値(上)』49頁以下参照。
12 シェーラー「哲学の本質について(1917年)」(小倉貞秀訳・著作集6巻収)
125頁。シェーラーは、「精神」という言葉を「理性」よりも包括的な言葉とし
て使用し、その作用中心(Aktzentrum)を「人格」と呼ぶ。同『実質的価値
(下)』31頁以下、同「宇宙における人間の地位」(亀井裕、山本達訳・著作集 13巻収)47頁以下、52頁以下参照。
125
も生じるわけではないのだから、空間的・時間的・因果的な関係でなく、
認識は特殊な存在関係である。シェーラーは、認識者に内在し、この特殊 な存在関係を可能にする作用がはたらく場を「精神」と呼び13、それは「認 識者」と共に「ある」ことに注目していた。この「認識者」は時間的・空 間的存在者である。つまり、認識(知覚)は、認識者(知覚者)の内部で
「心像(Bild)」や「表象」としてあらわれるものではない14。フッサール にとって、意識は「実在的存在(das reale Sein)」すなわち「延長する モノ」とは無関係な「純粋存在(das reine Sein)」だが15、シェーラーに とって、認識は、単なる理性のはたらきではなく、時間的・空間的な存在 者としての「私たち人間」の情緒的な諸機能に基礎をもつ。
このことは、「あるモノ」にかかわる実在の認識について、シェーラー が「抵抗」という概念で説明するとき、より明瞭になる。ある対象の実在 性は、それが「意欲の性質をもった精神機能に抵抗するのを体験」した時 に、ただ意欲の中にのみ与えられる。価値を担う価値物の実在性も同じ であり、それは、意欲の中に、「抵抗(Widerstand)」として与えられる 現象である16。ある人の「美しさ」「優雅さ」「善良さ」、あるいは、ある モノの「使いやすさ」「快適さ」「精密さ」等々、かかる価値は「ある人」
や「あるモノ」という現存在から与えられる抵抗がなければ、個々の価値 として感得されず、そもそも、「より高い価値」として認識(先取)され ないし、反対に「より低い価値」として認識(後置)されることもない。
13 シェーラー「知識の諸形態と教養(1925年)」(亀井裕、安西和博訳・著作集
13巻収)247頁以下、同「認識と労働(1926年)」(弘睦夫訳・著作集12巻収)
27頁以下、146頁以下参照。なお晩年の論文「観念論-実在論」(亀井裕、山本
達訳・著作集13巻収)285頁以下をも参照。フリングス『前掲書』195頁以下参照。
14 シェーラー「生の哲学試論(1911~14年)」(大久保正健訳・著作集5巻収)
149頁以下。
15 ハイデガーもいう。フッサールが示す「絶対的存在」という「意識」の性格は
「理性の理論という地平において見られるかぎり」のことである(ハイデガー
『前掲書』128頁以下参照)、と。
16 シェーラー『人間における永遠なるもの(下)』(亀井裕訳・著作集7巻)
204頁、同『実質的価値(上)』245頁。フリングス『前掲書』192頁以下参照。
Vgl. Otto Friedrich Bollnow, Das Wesen der Stimmungen, 7 Aufl., 1980, S.112 ff.
124 シェーラーの場合、価値を捉える価値感得が、理性の機能ではなく、情緒 的な諸機能に支えられているということは、価値感得が有体的な「現」と いう性格をもつモノ(現存在するモノ-Daseienden)を前提にしている ことを指す17。ハイデガーがいうように、「現存在を現存在しているモノ として認識することは、知的諸機能(直観であれ思惟であれ)によるので はなく、様々な努力の作用や注目といった力動的要因の中で根源的に経験 される存在者からの抵抗にのみ依拠する」からである18。理性は、「ただ 精神の論理的な側面だけ」にかかわるが、精神には、「非論理的にしてア プリオリな側面」があり、「アプリオリな心情の秩序」がある。価値はこ のような存在論的な基盤に与えられる。
シェーラーは価値をオントロギーに基礎づけた。シェーラーの現象学は オントロギーである。私たちは、前稿で、シェーラーの実質的価値説が価 値主観主義を超克する支点だと評したが、オントローギッシュな価値論を 明確にしたことに、シェーラーの最大の功績がある。私たちは、この点、
シェーラーの実質的価値説を高く評価すべきである。実質的価値説は、価 値の所与性がオントローギッシュなものであると明示することによって、
価値主観主義の論理にともなう価値の「捏造(erdacht)」という致命的な ラヴェリングの危険性を克服できた19。価値は、人間によって創出された
17 これに対して、理性の働きは自由であり、感覚のように現存在に規定される ことはない。コギトは自由にはたらく。宗岡『犯罪論と法哲学』参照。なお、
補足しておけば、シェーラーでは、「Xは美しい」とか「Yは優雅である」
という場合、そこに示される価値(「美しさ」や「優雅さ」)は、XやYの相 存在(Sosein)なのだが、後述するとおり、その把捉はXやYという現存在
(Dasein)なくしてはありえない。
18 ハイデガーは、解釈学的現象学の観点から、この「抵抗」に拠る実在認識の 論理を批判している(ハイデガー『前掲書』277頁以下参照)。ただ、ここで詳 述しえないが、ハイデガーの批判点は、シェーラーのいう「抵抗」を自己の基 本概念である「配慮(Sorge)」の変種として位置づけるべきだとの指摘であ り、シェーラーの論理を否定しているのではない。むしろ、同じことを重視し ているのであり、その点、この批判はアンフェアーな色彩が強い。同『存在と 時間』(原佑訳・世界の名著版)354頁以下参照。
19 Vgl. Nicolai Hartmann, Ethik, SS. 121, 138 f., usw. もっとも、私は、フッ サールのいう「所与」に「存在論的な基礎がない」と言っているのではない。
ただ、シェーラーは、フッサールの現象学が「観念論的方向」にあるとみてい
123
り廃棄される反省的な「所造」ではなく、オントローギッシュな「所与」
とされた。ただ、前稿において、私は、シェーラーの実質的価値説が法価 値論として有効でないと示唆したことも想起してほしい。シェーラーがオ ントローギッシュな価値論を展開したことは高く評価されるが、そのオン トロギーには、無視しえない問題点がある。このことを価値序列の問題に 即して検討しておこう。
(2) 価値の序列と転倒
シェーラーによれば、人間が世界と向き合うとき、その最初の態度は、
表象としてあらわれる認知的な態度ではなく、情緒的に価値を把捉する態
た。たとえば、1922年、シェーラーの教授資格論文が再版されたとき、その
「序言」に、次のように記した。自己の哲学研究は、フッサールの『論理学研 究』から決定的な影響を受けたが、その内容は、「(今のフッサールにおけるが ごとく)意識内在的、観念論的な方向」ではなく、「存在論的、実在論的方向」
にある(鈴木文考訳・著作集14巻239頁)、と。同「自己認識の偶像(1911~ 14年)」(大久保正健訳・著作集5巻収)56頁以下のフッサール批判をも参照。
エディット・シュタインも同じところにフッサールとシェーラーの対立点をみ ていた。シュタイン『現象学からスコラ学へ』(中山善樹編訳)58頁以下参照。
もちろん、私には、シェーラーによるフッサールの評価が正しいかどうかを判 断できる能力はない。たとえば、シェーラーが上のように書いた直後、1923年 のマールブルク大学講義で、ハイデガーはシェーラーのフッサール理解が誤り だとし、フッサールの見解を自己のオントロギーにより近付けて理解できるこ とを指摘している。ハイデガー『現象学的研究への入門』(加藤清司、アルロ ス・ハルダー訳・ハイデッガー全集17巻)279頁以下参照。実際、フッサール の現象学をオントロギーとみるべきか否かついては、現代の現象学研究者の間 においても、意見は区々に分かれている。その大きな原因は、フッサール思想 の全貌が、“Husserliana”の刊行により、残された膨大なメモや講義ノート、
さらには、筆記された講義録などから徐々にあきらかにされ、しかも、その解 明作業が未だ現在進行形であることからも了解されよう。この点、この当時、
フライブルグ大学でフッサールの助手を勤めていたハイデガーは、フッサール の手になる未公刊の原稿・講義録・メモを読み込み、当時、誰も知ることので きなかったフッサール思想の1部を知り得たがゆえに、シェーラーと比べれ ば、フッサール思想をよりオントロギーに近いところに位置づけることができ たのかもしれない。ただし、シュタインも同じくフッサールの助手という立場 からハイデガーと反対の帰結(つまりシェーラーと同じ帰結)に至ったことを 思えば、結局、フッサール・シェーラー・ハイデガー間の存在論にかかわる関 係は専門的な現象学研究者のさらなる考察をまつ以外にないだろう。
122 度である。価値経験は悟性に対して完全に閉じられている20。価値はアプ リオリな心情の秩序に受容され21、しかも、シェーラーは、感得に与えら れた諸価値が永遠不変の「序列」あるいは「位階」をもっているという。
シェーラーによれば、人間の情緒的な能力が感得する感情状態に4つの状 態があり、各々の状態のコレラートとして、諸価値の様相に4つの位階が ある22。ここを、まず、簡単にみておこう。
第1に、もっとも低い位階として、たとえば快適性や有用性という態様 を伴ってあらわれ、感覚に対応する「感覚的価値」の系列がある。その上 に、第2の位階として、生命的な感得作用に対応した「生命的価値」の系 列があり、ここには、「高貴」と「卑俗」、「喜び」と「悲しみ」、「健康」
と「病気」といった態様であらわれる種々の内容の価値がみられる。そし て、第3の位階として、「美・醜」といった美的価値、「正・不正」といっ た法的価値など、私たちが明証的に生命的価値すら犠牲に「すべき」だと 捉える「精神的価値」の系列がある。第4に、最高の位階として、「聖な るものと聖ならざるもの」という「聖価値」の系列があり、ここには、「幸 福」や「絶望」といった感情に対応する「信・不信」や「畏敬」といった 諸価値があらわれる。そして、ここで付言しておけば、シェーラーの価値 論では、「善」と「悪」という価値は、他の諸価値と異なり、4つの位階 に組み込まれていない。「善という価値」は「より高い」価値の実現作用
(意思作用・行為)に「背負われて」あらわれる価値であり、「悪という価 値」は「より低い」価値の実現作用(意思作用・行為)に「背負われて」
20 シェーラー『実質的価値(中)』68頁以下、161頁。シェーラーはいう。「価 値は感性的に感得される存在者の現存在(Dasein)に依存するので、(純粋な)
理性的存在者や神にとって、いかなる『価値』もありえない」、と。シェーラー
『実質的価値(上)』73頁。
21 この部分は、本稿では詳述しえないが、アプリオリを「形式」に限定したカ ント批判の核心である。シェーラーは「実質」としての価値のアプリオリ性を 認めたのであった。「感得、先取・後置、愛・憎といった精神の(情緒的)作 用には、固有のアプリオリな内容がある」、と。シェーラー 『実質的価値(上)』 104頁以下、134頁以下、161頁以下等を参照。
22 シェーラー『実質的価値(上)』200~08頁。
121
あらわれる。つまり、「善」と「悪」は、「より高い価値の追求」と「より 低い価値の追求」という行為に関連して、他の諸価値が位階をもつという 前提で成り立つ特殊な価値である23。
さて、シェーラーは、この4つの価値系列が、この順序で、静的な永遠 不変の位階を形成しているという。もちろん、種々の価値判断の地域研究 や歴史研究を一瞥すればわかることだが、地域的(民族的)にも時代的
(歴史的)にも、およそ現実的な価値認識が相対的であることは歴然とし た事実である。そのことは私たちの日常生活でも経験されよう。かくて、
当然のようにシェーラーもいう、倫理的な価値把捉や価値序列の認識は、
歴史的に変異し、相対的である24、と。しかし、そのことは、価値や価値 位階の永遠不変性への反証にはならないのだろうか。このことを考えるた めに、価値認識に関する重要なファクターとして、シェーラーが重視した
「エートス」と「ルサンチマン」の関係について概観しておこう。
シェーラーは「一定の時代における特定の民族集団の間で支配的な価値 体験、価値先取規則、愛と憎しみの形態」の現実的な精神的体系を「エー トス(Ethos)」と呼ぶ25。大雑把にいえば、エートスとは、価値にかか わる時代精神のことだといえようが、シェーラーは、エートスの変異
(Variation)が価値認識・価値評価の変異をもたらすと指摘している。た とえば、マックス・ウェーバーに従って、資本主義の典型的なエートスの
23 シェーラー『実質的価値(上)』72~7頁。なお、さらに付言すれば、新カ ント主義とりわけ西南派を代表とする価値論とは異なり、シェーラーは「真 理」そのものを価値に数えない。真理そのものは、「命題形式をもった意義内 実が事態の構成事実と一致する」関係を示しているだけであり、実質がないか らである。ただし、「真なる認識」であれば、単なる関係ではなく、実質的内 容をもつので、それは価値である。シェーラー『実質的価値(中)』52~56頁。
24 価値が「より高い」ことは、その価値の本質に属することで、「絶対的に普遍 なもの」であり、それ故、「諸価値」の位階は絶対的に不変であるが、「先取の 諸規則(Vorzugsregeln)」は歴史において原理的に可変的である、と。シェー ラー『実質的価値(上)』172頁以下、同『実質的価値(下)』192頁以下。
25 アルフォンス・デーケン『人間性の価値を求めて-マックス・シェーラーの 倫理思想』(阿内正弘訳)81頁以下参照。シェーラー『実質的価値(中)』226 頁以下参照。
120 1つがカルヴィニズムに由来することを指摘しつつ、シェーラーは、「富 そのもの」を欲するのではなく「富を稼ぎだすこと」すなわち「営利のた めの労働」を欲するピューリタン的実業家のエートスの根源に、カルヴィ ン主義者の「ルサンチマン(Ressentiment)」があるという26。シェー ラーによれば、このルサンチマンこそ、価値認識・価値評価を変異させる
「価値の転倒」が生じる根源である。カルヴィンは、教会を通じて「聖価 値」を求めるキリスト者の伝統的な「信仰」解釈に対して、圧倒的な人間 のエネルギー量を「果てしない物質労働の内に噴出」させ、物質的・感覚 的な価値を信仰のレヴェルにまで高めたのであった27。
ルサンチマンは、一種の「精神的な自家中毒」であり、人間本性の根本 事実である情緒が抑圧されることにより、個人的もしくは集団的に発生す る心的態度である。これは、主として「復讐の感情と衝動」に由来し28、 そこから、本来の価値位階に対して欺瞞的な価値の「引き下げ」が生じ る。復讐は、単なる反撃とは異なり、既発の敵対衝動にまかせて反撃し ていないことが前提になっており、その根底には、反撃に出れば「負か される」という「無力さ」の感情がある。だから、たとえば中世社会のよ うに下位者は上位者に反撃できないことが当然であった身分社会よりも、
権利として平等を認めている近代市民社会の方が、ルサンチマンへの負荷
(Ladung)は格段に強い。市民社会では、各人は各人と対等な「権利」
をもちながら、たとえば「権力・財力・教養」などの事実上の大きな差異
26 シェーラー「ブルジョアと宗教の力」(小松光彦訳・著作集5巻収)254頁以 下。
27 シェーラー「道徳の構成におけるルサンチマン」(以下「ルサンチマン」と 略記、林田新二訳・著作集4巻収)49頁以下。ヨハネス・メスナーも、シェー ラーを引用しつつ、ブルジョア社会における経済的利得追求の強い作用によ り、物質的な価値が基準となる「価値の転倒(Umsturz)」に至っていると指 摘した。「有用価値(Nützlichkeitswert)」が特別に重視され、より重要な諸価 値を維持するために必要な平穏・静寂・余暇などが生活から見失われている、
と。Johannes Messner, Die soziale Frage, 6 Aufl., 1956, SS. 37 ff., 156 ff.
28 さらに、それ以外に、憎悪、悪意、嫉妬、猜忌、陰険にも由来するという。
シェーラー「ルサンチマン」55頁。
119
を前にすれば、弱者は強者と「対等に向き合えない」からである。この弱 者の抱く「無力さ」の意識に起因する嫉妬がルサンチマンと直結する。そ して、財産や身分・名声への嫉妬よりも、その者の美しさや高貴さへの嫉 妬(つまり「実存への嫉妬」)こそ、本来の積極的価値を偽って、それを
「無価値だと評価すること(Entwertung)」に繋がる。この欺瞞的な価値 の「引き下げ」がルサンチマンである29。
このように、ルサンチマンは、本質的に永遠不変である価値位階を転倒 させ、価値感得を転倒させる源泉である30。先にふれたカルヴィニズムと の関連でいえば、人間の力と労働により獲得したモノや行為だけが倫理的 価値にふさわしいとする労働価値説の発想は市民社会の道徳原理の1源 泉となっているが、これは労働によることなく財産を得た集団に対する 労働者階級の嫉妬の産物だと指摘しつつ31、シェーラーは、ここに、人間 の意識から独立している価値の存在性格が人間の意識に規定されて主観 化(Subjektivierung)した形態があるという。価値評価や価値認識の主 体である人間によって「欲求されるものが善に、嫌悪されるものが悪にな っている」、と。こうして、価値は欲求する(嫌悪する)意識に規定され たものとなり、その意識がなければ、現実は没価値的な存在になってしま う32、と。たとえば「口に甘い毒物」と「口に苦い良薬」をあげれば、「甘 い」とか「苦い」といった快・不快(感覚的価値の系列)よりも「毒」と か「薬」であることに関わる健康(生命的価値の系列)の方が優先的に選 択されるはずなのに、意識的なレヴェルでの「欲求」「嫌悪」に選択の基 29 シェーラー「ルサンチマン」60-70頁などを参照。ルサンチマンの核心は価 値を「おのれの事実上の欲求もしくは欲求可能な水準にまで引き下げること
(das Herabziehen)」にある(「ルサンチマン」74頁)。また、それは自己の「無 力への憎しみ」のあらわれである。シェーラー「愛の秩序」(平木幸二郎訳・
著作集10巻収)261頁以下。
30 だからルサンチマンは本来の価値位階の上に成り立つ真正な倫理を転倒させ る源泉である(「ルサンチマン」94頁以下)。
31 シェーラー「ルサンチマン」182頁以下。さらにシェーラーはいう。普遍的 原理として「平等」を要求することはルサンチマンの産物である(「ルサンチ マン」190頁以下)、と。
32 シェーラー「ルサンチマン」191頁以下。
118 準が求められることによって、ともすれば生命的価値よりも感覚的価値が 選択される33。そのため、価値は、人間の意識の中で、転倒し、誤って秩 序づけられ、その意味で「主観化」することになる。
近代市民社会のブルジョア的発想は、労働によって「稼ぐ」ための有 用性や功利性という感覚的価値を称揚し、それが生活を支配し、内心で の「祈り」といった聖価値や「高貴さ」といった生命的価値を感覚的価値 の下に「引き下げ」てしまった。ここでは、価値は、主観化し、本来の位 階から変異している。シェーラーはそういう。しかし、価値認識の領域に おいて、ルサンチマンという病的な現象が生じていることも事実であろう が、そのことを認めたとしても、私は、ルサンチマンに関するシェーラー の考察に、ある種の不自然さを禁じえない。シェーラーが説くように、も し価値序列が永遠不変であり、たとえば「高貴さ」が常に感覚的価値に優 先すべきだとすれば、その帰結はオントローギッシュな価値論と矛盾する ことになるからである。価値のオントロギーは、価値と実存の関連性を無 視しえないはずであり、そして、実存との関連性に視点を据えれば、種々 の状況のもとにある人間の「あり方」が問題とならざるをえない。しか し、もし価値位階が永遠不変だとすれば、価値の存在が実存(すなわち
「人間のあり方」)から独立していることを認めなければならない。これは 価値オントロギーと調和しない。私見では、反対に、実存の状況に応じた 価値評価の変異の中に、価値オントロギーの核心があるというべきであ る。実際、実存を基軸とすれば、シェーラーのいう精神的価値系列と生命 的価値系列が逆転することも少なくないだろう。
ここでは、独特の現象学に依拠して、シェーラーから実質的価値倫理学 の構想を継承しつつ、それを精密に体系化したニコライ・ハルトマンの指 摘に注目したい。ハルトマンも、シェーラーと同じく、価値序列の絶対性 と価値認識の可変性を認める34。ただし、シェーラーと異なり、具体的な 33 シェーラー「ルサンチマン」199頁以下、206頁以下、同「ブルジョア」(小
松光彦訳・著作集5巻収)208-13頁、221頁以下など。
34 Hartmann, ibid., SS. 157, 284.
117
価値認識において、価値の「高低」のみならず、その「強弱」をも重視す る。ハルトマンのいう「価値の強さ」は「価値の基底性(Elementare)」 を指している。ハルトマンは、より「高い」価値ほど、複雑な形象をも ち、基底性は「弱い」という。反対に、より「低い」価値ほど、単純な形 象をもち、基底性は「強い」35。また、同じく現象学の観点から、ハンス・
ライナーも、ほぼ同じことを指摘している36。ライナーは、ある人間の
「実存(生命)」が危殆化されているのであれば、生存という生命的価値が 美醜という精神的価値より低くても、生存の確保を優先すべきだと認め る。ハルトマンがいうように、生命の危殆化は「もっとも重大な危殆化」
であり、「より基底的な」危殆化といえるからである37。後に、倫理的行 為と価値応答の関係を考察するが、行為は常に具体的な状況の下で決断さ れるのだから、価値認識と選択の問題は、常に、具体的な行為状況の中で 決まるといえる。そして、そうであれば、行為状況とは無関係に、永遠不 変の価値位階があるというシェーラーの発想に、実践的な有効性があると は思えない。
実際、倫理的行為との関連で価値の認識を考えるとき、行為状況に応じ て、価値認識の基準は変化する。このことを、最後に、「ルサンチマン」
の事例に即して考えよう。シェーラーが「権利としての平等」をルサンチ マンによる誤った価値認識の例として考えていたことはすでに示した。し かし、一般論として、この帰結が成り立つかは疑わしく、私たちは、何 故、これがルサンチマンに至るのかを個別的に検証すべきであろう。たと えば、具体的状況において、ある人間があきらかに平等原則に反する差別 的な取扱を受けていたとしよう。その状況をみたとき、誰もが、これは不
35 Hartmann, ibid., SS. 272-77, 595 ff. 「基底性」は「土台」「根拠」の関係と 一体的に捉えられる。つまり「より低い価値」は「より高い価値」の土台とな り、その前提条件になっていることもありうる(Ibid., 252 f.)。
36 Hans Reiner, Pflicht und Neigung, Die Grundlegen der Sittlichkeit( 以 下、“Reiner, Pflicht und Neigung”と略記する), 1951, S. 168 ff.
37 Hartmann, ibid., S. 603 ff. Vgl. Reiner, Die philosophische Ethik, 1964, S.215.
116
正(Unrecht)だと感得するだろう。シェーラーの論理では、価値の感得
は価値の「先取」もしくは「後置」に基づくのだから、価値位階は、論 理的に導かれるのではなく、情緒的な先取明証によって決まる38。そうす ると、シェーラーの論理に従っても、少なくとも「この場合」には、「正
(Recht)」という精神的価値に応答して、平等原則を主張することになる
だろう。このとき、「権利としての平等」は正義という価値のコレラート であり39、その主張のどこにも、価値の欺瞞的な「引き下げ」はない。つ まり、シェーラーの論理からみても、上のような差別的な人間の取扱を目 前にして、平等原則を主張することはルサンチマンではない。
(3) 価値と本質のオントロギー
シェーラーは、本来の意味においてルサンチマンといえないものを、ル サンチマンだという。このことは、率直にいえば、シェーラー自身が情緒 的感得の意味を理解していない証明だろう。たとえば、シェーラーは、ル サンチマンが情緒的な価値感得のレヴェルで生じる倒錯であり、しかも、
それが「器官的虚偽(organische Verlogenheit)」に拠るものだと書く が、このことを前提にした上で40、シェーラーの帰結がこの存在論的な前 提と整合するか否かを再考すればよい。「器官的虚偽」という概念の正確な 内容は不明だが、「器官的」という以上、この「虚偽」は感覚にかかわる 虚偽だろう。ところが、ルサンチマンに関するシェーラーの指摘の1部に は、感覚にかかわる情緒的な価値感得のレヴェルつまり「器官的なレヴェ ル」では説明できない虚偽がある。その典型がブルジョアジーによる平等 原則の主張をルサンチマンだというシェーラーの帰結だが、これは、おそ らくマルクス主義や党勢を拡大しつつあったドイツ社民党の論理を想定し
38 シェーラー『実質的価値(上)』176頁。
39 正義は、どのような場合でも、公平な分配を意味するのだから、たとえば、
ユダヤ人であるとか、黒人であるとか、大地主の子息であるという理由で、人 間が不利益に取り扱われるとすれば、正義が侵害されたということになる。
Vgl. Robert Spaemann, Moralische Grundbegriffe, 8 Aufl., 2009, S.50 f.
40 シェーラー「ルサンチマン」100頁以下。
115
たものであり、あきらかにイデオローギッシュな帰結である。しかし、情 緒的感得は、それがコギトへと繋がるものであっても、コギトから繋がる ものではない。そうであれば、意志にコギトが混入した形態で成り立つ
「イデオロギー」のような結合的表象に対して、情緒的感得は無縁だとい うべきだろう。したがって、本当に、情緒のレヴェルで価値が捉えられる というのであれば、先にみたライナーの指摘にあるように、実存(生命)
の危機を目前にしたとき、精神的価値よりも、生命的価値が先取されるは ずである。情緒のレヴェルが存在のレヴェルであり、価値の情緒的感得が
「存在において価値を捉えること」である以上、人間は実存の維持を先取 するからである。
このことを確認した上で、歴史的な事実をみれば、多くの場合、平等原 則に反する人間の取扱は実存の危機と連接している。差別が致命的な人間 疎外に帰着することはあきらかである。そして、情緒が生命的価値の先取 へと規定されているのであれば、市民社会を切り拓いた新興ブルジョア ジーによる平等原則の主張には、その根底に、平等という普遍的価値の先 取があったというべきである。その後に続くプロレタリアートの場合も同 様である。シェーラーによれば、本質的に、すべての価値は位階秩序の中 に高低の関係をもっており、この関係は先取(もしくは後置)の中で捉え られるので、先取や後置が価値感得の基盤である41。オントローギッシュ な先取において、情緒的感得のオントローギッシュな意義がある。シェー ラーは、このように自らオントローギッシュな感得を語りながら、その意 義を忘れている。少なくとも、私は、平等原則の主張をルサンチマンとす る点において、価値感得と実存の保証が一連の存在論的連関をもつことを 見落していると思う。
私たちは、ここにおいて、改めて永遠不変という価値位階の存在性格そ れ自体を疑うべき段階に来ている。価値位階の永遠不変性はオントロギー
41 シェーラー『実質的価値(上)』175頁以下。そして、すでにみたように、先 取と後置の基礎に、愛と憎しみがある。
114 と調和するだろうか、と。この点、シェーラーとは異なり、ハルトマンの 論理には、実存にかかわる価値は精神的価値の土台だという発想から、実 存の危殆化を「もっとも重要な危殆化」だと位置づけて、生命的価値を優 先させる可能性が担保された。これは巧みな修正であったと思う。しか し、ハルトマンでも、先取(もしくは後置)といった価値認識の問題領域 ではなく、価値存在の問題領域では、シェーラーと同じく価値位階そのも のの可変性を認めようとしない。そうであれば、生命的価値を優先する
「土台の論理」が精神的価値を優先する「位階の論理」に先行するという 先にみたライナーの論理に対しても、それを全面的に受け容れることはな いだろう。
そこで、まずハルトマンから、何故、価値位階は永遠不変なのかを検 討しよう。ハルトマンはその根拠を価値の「自体存在」という存在性 格に求めた。しかも、価値の「自体存在」は、存在構造をもつけれど も、物的な存在構造をもつわけではなく、価値物(Dasein)の「本質
(Wesenheit)」に対応する存在構造をもっている。つまり、それは、「実
在的自体存在」ではなく、「理念的自体存在」だという42。ハルトマンは、
価値の自体存在につき、存在を捉える「主観」に対して相対的でないも の、つまり価値を捉える「主観」に対して、確固不動の独立したものと して対抗するもの、あるいは、「主観」に対して、独立した固有の法則性 と固有の力を対置させるもの、これらのものが「主観」に対して「自体 存在」の性質をもつという。つまり、自体存在とは、存在を捉える「主 観」に従属しないことを指す43。ハルトマンは、『倫理学』では、価値主 観主義への対抗を明確にするため、このように認識主観からの独立とい う点を強調したが、その約10年後に、実在的自体存在と理念的自体存在
42 Hartmann, ibid., SS. 150-53. なお、後述するとおり、ハルトマンが要約し た価値の存在性格がシェーラーの論理と完全に一致するかどうかは疑問であ る。ただし、価値認識における「価値転倒」こそ、価値が自体存在することの 証拠だというように(Ibid., S. 156 ff.)、ハルトマンは多くの部分でシェーラー の論理を継承していることは事実である。
43 Hartmann, ibid., SS. 148 ff., insbes., 149.
113
(das idealen Ansichsein der Werte)について、現存在(Dasein)と相 存在(Sosein)の関係とパラレルに詳述し、しかも、それを伝統的な「普 遍論争」との対応で自説を整理しているので44、この概観から「自体存在」
の考察を始めよう。
まず、現存在と相存在であるが、ある人が実在することは現存在であ り、その年齢や性格などは相存在である。つまり、あらゆる相存在は、現
存在者(Daseienden)に帰属して存在し、自己が付着する土台を前提に
する。これが一般的な理解であり、ここまでは、ハルトマンも指摘すると おり、現存在が性質や本質としての相存在の土台であり、性質や本質は現 存在の中にあるとするアリストテレスの「形相論」との相違もない。そし て、ハルトマンが極端な普遍実在論(実念論Universalienrealismus)に 対して否定的な態度を表明していることを考えれば45、実念論的なプラト ン主義とアリストテレス主義の調和を試みているようにもみえる。ところ が、「価値」と価値を担う価値物としての「財」の関係について、ハルト マンは、プラトンが示したイデアと感覚的世界にある諸事物の関係と同じ だと明言している46。プラトンのイデアは、アリストテレスの形相とは異 なり、現存在たる事物に帰属するものでも「事物の中にある(in re)」だ けでもなく、さらに、事物を事物たらしめる根拠としての性格があり、そ れ故、「事物の前にある(ante rem)」。つまり、事物がなくても「ある」
わけだから、イデアは、文字どおり「自体存在」しつつ、個物を超越した
44 Hartmann, Zur Grundlegung der Ontologie, 1934. 本書は翻訳(高橋敬視 訳『存在論の基礎附け』、以下、『存在論』と略記)があり、本稿の引用では、
その頁数を示す。なお、「本性」や「何性」といった普遍の存在性格をめぐる 哲学史的な概観については、山内志朗『普遍論争』を参照されたい。ハルトマ ンの時代とは異なり、1950年代から飛躍的に深化した中世哲学の膨大な史料 が、平易な文章で紹介し、解説されている。
45 ハルトマン『存在論』87、368頁以下。
46 ハルトマン『存在論』80頁以下、126頁以下参照。ハルトマンは、“Ethik”
においても、本質の把捉がイデアに対する内的な「看取(Schau)」によるこ とを多くの箇所で記している。ZB. Hartmann, ibid., S.121 usw. シェーラー も、プラトンにおけるイデアの内的な「看取(Schau)」を「現象学的直観」
の内容だと説明している。シェーラー『実質的価値(上)』108頁以下。
112 形態で、「個物の前にある」ことになる。この点、あきらかに、プラトニ ズムは実念論の構造をもつ。そして、このプラトン的な意味において、ハ ルトマンは価値を「自体存在」と捉えたのである。
アリストテレス的な意味では、現存在は相存在の土台だから、相存在は
「事物の中にある」。したがって、アリストテレスに即した存在論では、前 者は後者に優先すると考えられてきた。ここでは真の「自体存在」は現存 在する「実体」だけである。しかし、ハルトマンによれば、これはスコラ 的偏見である。きわめて微妙かつ複雑な表現だが、ハルトマンは、「相存 在が実在的現実における現存在をもつ」という言い方をする。ハルトマン によれば、諸性質が事物に「ある」と表現されるが、その正確な意味は、
諸性質が事物において「現実にある(wirklich vorhanden sein)」とい うことである。このことから、事物の現存在とは、相存在している事物
(so-seienden Ding)が現存在していることにほかならないという。この 意味で、相存在者(Soseiende)は実在するもの(Existierende)であり、
それ故、相存在は実在性(Existenz)をもつ。かくて、ハルトマンはいう、
現存在性をもたない相存在はなく、相存在こそ真の自体存在である47、 と。
ここで、ハルトマンのいう「スコラ的偏見」に関し、ハルトマンの論理 をスコラの論理と対比しておこう。スコラでは、たとえば「この花は白 い」というとき、それは、花の1つの性質(白さ)が実在することを「暗 に(つまり意味として“by implication”)」述べているだけである。「白 さ」は、「この花(という事物もしくは実体)」の1つの性質として、「事 物の中にある」ので、それは「自己の権利において自存」(ハルトマンの 言葉では「自体存在」)しているわけではない48。スコラ学はあくまでも 実体を基準とする。このアリストテレス主義の論理と対比すれば、「相存
47 ハルトマン『存在論』126-36頁。
48 Frederick Copleston, Aqinas-An Introduction to the Life and Work of the Great Medieval Thinker, 1955(以下“Aquinas”と略記する), p. 80 seq.
111
在している事物」こそが「現存在する」のだというハルトマンの論理は、
基本的に、現存在の前に相存在があるとするプラトン主義の論理だという ことがわかるだろう。この問題領域において、ハルトマンがプラトンの極 端な実念論を修正している部分は、イデアの存在性格を唯一の固有存在に まで高め、実在する事物の存在性格を仮象にまで引き下げたことに対する 部分的な修正でしかない49。結局、ハルトマンでは、価値を理念的自体存 在とするが、その根拠はプラトン主義的なイデア論である。価値は、イデ アがそうであるように、存在において現存在から独立し、認識において認 識主観から独立している。ハルトマンによれば、この独立性が自体存在と いう性格を示し、価値位階の永遠不変性を示すのである50。
ハルトマンの論理を概観したが、価値を理念的自体存在とする根拠とし て、ハルトマンはプラトン主義的なイデア論の枠組で価値の存在構造を説 明しただけである。哲学概論を読むようなもので、ハルトマンの実質的価 値説がプラトン主義に立脚していることは了解しえたが、それでは、何 故、イデア論が正しいといえるのか。この核心的な問に関する考察はほと んどみられなかった。他方、シェーラーは、多くの点でプラトニズムに親 近性を示すのであるが、「知識」とは何かを考える中で、現存在と相存在 に関して独特のユニークな論理を展開した。
先に述べたように、シェーラーによれば、「実在」は、理性に与えられ るのではなく、実在している対象の「抵抗」を経験することによって与え られるのだから51、現存在は「心の外(extra mentem)」にのみある。こ れに対して、相存在は「心の外」つまり「事物の中(in re)」にもあれば、
49 ハルトマン『存在論』369頁以下参照。なお、ハイデガー『形而上学入門』(岩 田靖夫、ハルトゥーム・ブッナー訳・ハイデッガー全集40巻) 202頁以下参照。
50 ハルトマン『存在論』410頁以下。
51 ここで注意すべきことは、この「抵抗」としての実在経験が知覚や思考とい った「すべての知的作用」の前提であり、反省の作用を生みだす意識に先立っ ていることである。すべての意識化は「世界の抵抗をわれわれが引き受けるこ との結果である」、と。シェーラー「認識と労働」(著作集12巻収)270頁以下、
同「宗教の諸問題」(著作集7巻収)203頁以下参照。