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Osaka University

Title

織田作之助『それでも私は行く』論 : 「京都日日新聞」

を手がかりに

Author(s)

斎藤, 理生

Citation

國語と國文學. 89(10) P.33-P.47

Issue Date

2012-10

Text Version publisher

URL

http://hdl.handle.net/11094/56972

DOI

(2)

織田作之助

モ~b. 長岡 111 ﹁京都日日新開﹂を手がかりに

i

i

昭 和 二 一 年 四 月 に を ﹁ 改 造 ﹂ に 、 円 世 相 ﹄ を ﹁ 人 間﹂にと大舞台に話題作を立て続けに発表して注目を集めた 織 田 作 之 助 は 、 そ の 年 の 内 に 一 一 一 篇 の 新 開 小 説 を 書 く 。 ﹁ 京 都 日日新聞﹂に四月二六日から七月一一五日まで連載された吋そ れでも私は行く﹄はその最初の作品である。のち大幅に手が 入 っ た 単 行 本 ︵ 大 阪 新 聞 社 、 昭 和 二 一 一 年 二 月 ︶ が 出 版 さ れ 、 内 定 本織田作之助金集第六巻﹄︵文泉堂出版、昭和友一年四月︶で は単行本の本文が使われている。しかし本論では、初出の形 で こ の 小 説 を 読 み 解 き た い と 思 う 。 一篇は九つの章から成る。それぞれの章題は﹁田線河原 町 ﹂ ﹁ 木 鹿 町 一 ニ 係 ﹂ ﹁ 寺 町 通 ﹂ ﹁ 下 鴨 ﹂ ﹁ 先 斗 町 ﹂ ﹁ 一 一 一 候 河 原 町 い 守山台寺﹂﹁京極﹂﹁それでも私は行く﹂である。後に述べる

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ように、途中で構造や筋の進行に大きな変化が起こるため、 梗概を記すのは容易ではない。が、さしあたり次のようにま とめられよう。先斗町のお茶屋の怠子で三高に、通う美貌の青 年・梶鶴雄は、サイコロの日が出るままに京都の町を間歩し ︵回線河原町︶、新丹成金の小郷虎吉の犠牲になった姉を救う ために摘摸をする相馬弓子と知り合う︵木屋町三燦︶。また、 京都の新間に﹁それでも私は行く﹂という小説を連載する予 定で、鶴雄をモデルにしたいという作家小田策之助にも会う ︵ 点 寸 町 通 ︶ 0 鶴雄は三高教授の山吹に、小郷家での家庭教師を 紹介される。そこで虎吉の妹の宮子に誘惑されるが、逃げる ︵ 下 総 ︶ 。 弓 子 は 新 聞 記 者 を 装 っ て 小 郷 に 会 い ︵ 先 斗 刈 ︶ 、 連 れ 出して、安の浮気現場を目撃させる。混乱した小郷は、金力 33

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にものをいわせて初対而の舞妓の鈴子の旦那になろうとする。 しかし護者の君勇が、総燥が鈴??に寄せる想いを知って身代 わ り に な る ︵ 一 一 一 線 河 阪 町 ︶ 。 翌 日 、 鶴 雄 は 宮 子 に 遭 遇 し 、 降 、 び 誘惑されて逃げた際に小田に会う。小田から胸った財布を返 し に 来 た 弓 子 に も 再 会 す る ︵ 古 川 ム ピ サ ︶ 0 小 郷 は 君 努 と 狭 一 間 館 に 行 っ た 先 で 何 者 か に 殺 さ れ る 。 犯 人 は 君 勇 の 一 冗 旦 那 の 一 一 一 好 で あった公開小板︶。事件は終息し、鶴雄は北海道へ旅立つ︵それ で も 私 は 行 く ︶ 。 織問はこの小説について、単行本の﹁あとがき﹂で、﹁京 都の人はこれまで自分たちの土地を舞台にした小説が、土地 の新開に執るといふやうな経験がなかったので、この小説は その意味で意外に多く読まれた。題名の﹁それでも私は行 く﹂といふ言葉は、京都の町々で流行した﹂とその人気ぶり を語っている。その﹁あとがき﹂の草稿︵大阪府立中之島閣議 館織問文防総︶でも、﹁毎日の新聞山が出るのを待ちかねて、販 売店まで貿ひに行った読者も随分あるといふ。自己宣伝のた めゃうぬぼれで言ふのではないが、﹁京都日日は小説で売れ てゐる﹂といふことであった﹂と書いている。 研究史では、青山光二がで﹂の新関連載小説は、京都に仮 説まいする作者が、現実の京都の阿を舞台にし、戦災をうけ なかったこの町の操り場の風物を背景にした、一種ルポル タージュ的効果を盛った小説を書いたという点に実験的な特 ︵ l ︶ 色がある﹂と指摘している。鈴木貞美は﹁﹁この小説を書く 小説﹂にして当役風俗小説、犯罪実話形式の探偵小説、そし て﹁実名小説﹂などの様、ざまな要素を編み上げた総合小説の ︵ 2 ︶ 体裁﹂を取っているとしている。西町長夫は﹁奇抜な務想と 構成をもった小説﹂として、﹁作者の日常生活や京都の日々 の出来事がそのまま同時的に小説に掛かれて読者の私小説的 な関心を引く一方では、それらの現実の人物たちがい燦構上の 人物や出来事とかかわって思いがけない展開をして読者のロ マネスクな関心を引くように工夫されており、地方紙の連載 ︵ 3 ︶ 小説という特色を十分に生かした野心作﹂だと述べている。 このように﹁それでも私は行く﹄は戦後の京都で高い人気 を誇った新聞小説であり、その後も実験的な試みを評価され てきた。ただ、地方紙に連載されたことで同時代の文壇では 評判にならなかったし、研究史でも詳細な考察がなされてき たとは苦いがたい。しかし織田の作品を、大販やデカダンと いった既成のイメージではなく、その方法から見直すうえで は無視できない小説だと考える。 以下、本論では初出紙に注目し、今では見えにくくなった

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た そ い i列 。ら か し て 吋それでも私は行く﹄と﹁京都日日新開﹂ ﹁ 京 都 日 日 新 開 ﹂ 第 一 ︵ 川 町 和 二 れでも私は行く﹄の予告が載っている。﹁京都を舞台に奏で る若人の新恋愛諮﹂という見出しで、﹁作者は女の都、文 化の都、京都の近代相を描かうとしてゐる。かつて学生生活 を京都に送って京都をよく知る作者が、特にこの小説創作の ため京都に居を移して傑作をものせんとの情熱に燃えてゐる。 作者が鋭い感覚と特異の筆致をもって文現に気を吐く売れツ 児である事は喋々するまでもない﹂などと記されている。織 田作之助は﹁作者の言葉﹂で次のように述べている。 昨日の古い都であった京都は今日では日本の一番新しい 部として多くの明日を持ってゐる。かつて京都の一二高に 学んだ私の第二の故郷としての京都の古い情緒を懐むと 同時に、今日の京都の新しい姿に娘を股ってゐる。私は この小説では十日く、そして新しく、更に﹁女の都﹂であ 年四月 六 日 ︶ に は 、 ﹁ そ り学生の都であり、映一闘の郊である京都をあますところ なく描写したい意欲に燃えてゐる。いはば京都の﹁昨 日・今日・明日﹂を描きたいのだ。これは至難だ然し私 は﹁それでも私は行く﹂の決心である﹁紅燃ゆる﹂紅顔 の美少年と共に、そして読者と共に、私はこの小説で京 都の町町を歩きたい。再び京都へ還って来た男の気持で、 京 都 の 町 々 を 歩 き た い 。 ここで日を引くのは、新聞社も作者もコぷ都﹂を強調して いることである。連載開始直前に出た予告でも﹁みやこ京都 を舞台に美しい若人たちが奏でる新恋愛諸

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御期待を乞 ふ﹂︵凶月二問日︶とあり、地元の読者を引きつけようという ね ら い が う か が え る 。 35 こうした新開社の意志は、第一号から表れていた。﹁京都 のみなさん﹂という呼びかけで始まる﹁創刊のことば﹂では、 ﹁社述を賭して京都の発展の為に紙面総動員の活動をつづけ ようと決心してゐます﹂と宣言されていた。加の記事には ﹁郷土夕刊紙として、待望に応へて発足した本紙﹂という一言 葉もある。地域管着は、経営基盤の不安定な新興地方新問と しては当然の戦略だったろう。この時期には表向き言論の自 由が認められただけでなく、紙の割当でも優遇措置があった

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︵ 4 ︶ ので、多くの新しい地方紙が誕生していた。とはいえ、当時 の ﹁ 京 都 日 日 新 聞 ﹂ は ペ ラ 一 枚 目 一 一 面 し か な か っ た 。 非 常 に 浪られたスペースである。そのなかで織田とその小説は自玉 として、破格の扱いを受けてゆく。 たとえば連載開始前日には、﹁にがみ走った男がスキ 説のモデル

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姐 さ ん の 紅 気 焔 ﹂ ︵ 問 月 二 五 日 ︶ と い う 、 モ デ ル 女 性 へ の イ ン タ ビ ュ ー が 載 る 。 そ こ で 挿 絵 画 家 の 一 一 一 谷 十 糸 子がモデルの女性に﹁祇闘や先斗町や木屋町や京都のいろ町 がとてもくわしく小説に出て来るらしいのよ﹂と告げている。 また、﹁織田氏麟然﹁それでも私は行く﹂あひにく雨の鴨川 踊初日﹂︵五月間日︶という記事では、﹁作家織田作之助氏が 小説の題名通り雨天にも拘らず﹁それでも私は行く﹂と鴨川 踊見物にでかけると、喫茶店べにやの主人が現れて本紙の小 説に自分の店の舞台になってゐるのを喜んで挨拶にくる織田 氏はまた踊風物を作品に取り込むつもりらしい﹂と報じられ ている。これらの記事で、身近な場所やイベントが使われそ うだと知ることで、少なからぬ読者が小説への期待と関心を 高 め た で あ ろ う 。 昭和二一年の﹁京都日日新聞﹂には、撤回が雑誌に発表し た小説や、別の小説の映湖北に関する記事もしばしば載る。 文鳥生﹁四月号綜合雑誌の創作﹂︵五月一二日︶には、﹁改造 所載、織田作之助の﹁競馬﹂は一寸読みごたへのある作品で あった︵中略︶著者最近の傑作である、氏の文章達者な筆致 は今後如何に大成して行くであらうか﹂とある。﹁織田氏の 小説映画化﹂︵六月一五日︶には、﹁本紙の連載小説でおなじ みの織間作之助氏の小説﹁昨日、今日、明日﹂が、こんど松 竹京都で﹁鶏鵡は何を覗いたか﹂といふ題名で映閥化され る﹂とある。当然ながら、すべての作家の快爾化や作品が記 事になるわけではない。こうした記事から、当時のコ口小都日 日新聞﹂の︿オダサク推し﹀の一端がうかがえる。 さらに﹁近頃の街の流行語﹂︵六月九日︶では、﹁本紙連載 小説﹁それでも私は行く﹂は各方面で好評を博しこの題名を まねた﹁しかも私は行く﹂などといふ一言葉がちかごろ流行語 のやうになってゐる﹂と報じられる。ここにも作品の人気と、 その人気に拍車を掛けようとする新聞社の意欲が表れていよ 、 内 ノ 。 こうした新聞社の支援に、作家も応えようと努めたようだ。 青山光ニは前掲論で﹁現実の町名﹂や﹁じっさいにあった﹂ 詰や﹁京都生えぬきのフランス文学者﹂たちが﹁名をかえて、 とび出してくる﹂ことに触れ、そうした方法が﹁著者がいつ

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も作中にばらまく金額等をあらわすおびただしい数字や E 商 品 名や商売の種類をあらわす名称とおなじように、戦後の京都 という具体性をてっとりばやくつよめるのに役立っている﹂ と指摘していた。その最もわかりやすい痕跡が章題であろう。 梗概の説明の際に記したように、円それでも私は行く﹄の章 題は、ほほ京都の地名で裂い尽くされている。それに対し、 同じく京都を舞台にした同年発表の新聞小説内土曜夫人﹂ 月六日︶の章題は﹁女の構図﹂ ﹁ 東 京 へ ﹂ ﹁ 身 上 柑 ﹁ 設 資 新 開 ﹂ 八 月 一 二 O 日 1 ﹁ 夜 光 時 計 ﹂ ﹁ 貴 族 ﹂ ﹁ 夜 の 花 ﹂ ﹁ 兄 ち ゃ 談 ﹂ ﹁ 鳩 ﹂ ﹁ キ ヤ ツ キ ヤ ツ 団 ﹂ ﹁ 暮 色 ﹂ ﹁ 登 場 人 物 ﹂ ﹁ 走 馬 燈 ﹂ であり、京都の地名は一つもない。中石孝は﹁﹁それでも私 は行く﹂が、京都の中心部の町名をただ単に並べているにす ぎないようなぶっきら様なのに比べ、﹁土曜夫人﹂は、こん なふうに書き出してみると、かなり考えられたものであるこ ︵ 5 ︶ とが一目瞭然である﹂と述べ、作家の雨作品への力の入れ具 合に差異の原因を見出している。が、円それでも私は行く﹂ の場合、同じ土地の空気を吸っている読者をひきつけるため に地名が章題にされたと考えるべきだろう。 また執筆当時、実際に遭遇した出来事を積極的に小説に取 りこんでいたことは有名である。伊吹武彦は﹁小説家が日常 の見聞を小説化するのは当然のことであり、あえて特筆する に催しないが、織旧作の場合は、そのク小説化。がはなはだ 敏捷であった。?でれでも私は行く h は、昭和二十一年の四 月下旬から三ヵ月間、﹃京都日日﹄という夕刊新聞に連載さ れ た の で あ る が 、 た と え ば 五 月 二 日 に あ っ た 出 来 事 が 、 翌 一 一 一 日、または四日の新開に出るというぐあいで、いってみれば ︵ 6 ︶ それはニュースみたいなものだった﹂と述べている。そして 笑傑に、連載時の京都では、こうした現実との対応が人気を ︵7 ︶ 博 し て い た ら し い 。 さらに見逃せないのは、織田が新関紙面との対応も目論ん でいた可能性があることだ。弓子の掬棋は作中で重要な役割 を来たしているが、掬摸の頻発は﹁京にひそむ。悪。スリが 祭 顕 一 一 一 月 間 に 七 百 件 ﹂ ︵ 五 月 ⋮ 一 一 日 ︶ 等 、 当 時 し ば し ば 紙 上 を賑わせていた。また、弓子の姉の千枚子が縮る、酌婦が体 を売らねばならない状況も、間月一七日の記事﹁公娼は廃止 されたか終戦後ふえる酌婦生きるために居残る荊の地﹂ で報じられていた。第四日間︵凶月二九日︶で鶴泌がスピード 銭で得た金を差しだそうとし、第一四回︵五月九日︶で弓子 が 引 き つ け ら れ る ﹁ 悲 願 ﹂ の 救 援 義 援 金 も 、 四 月 一 一 一

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日の記 ﹁冷たい。焼けぬ京都人。。焼けたのが悪い。戦災者の 37

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身にならう﹂で報じられている。第八四郎︵七月 五 日 ︶ で 鶴雄が﹁食綴難で、満足に技業は受けられない も、﹁食総事情急迫にかんがみ京大では講義を一まづ で切上げ一七日から夏期休暇に入ることになった﹂という六 ﹁京大講義より食糧 と 一 一 段 う こ と 五 日 月一問日の 一七日から夏期休 暇 ﹂ を 想 起 さ せ る 。 むろん、これらを織田が紙而と対応させようと一つ一つ 画的に織りこんだとは考えにくい。ただ織聞は当時、役相を ︵ 8 ︶ 報じる新聞記事に注目していたので、最新の京都の世態風俗 を積極的に取り入れることで、報道との接点が生まれたらと いう期待はあったのではないか。少なくとも紙而は、読者が 報道記事と創作欄とを見比べて、震なる話題に気がつけるも の に な っ て い た の だ 。 また、織田の小説は記事以外の紙而にも触手を延ばしてい る 。 第 五 四 ︵ 四 月 一 一 一 O 日︶には、﹁商産の芝居や、松竹肢のチ ャンプリンの咲凶や、接吻が出て来るといふ大映の映画の噂 ばかりして﹂いる﹁察者たち﹂を描いた場一仰がある。ここで 投目されるのが、連載限始直前の悶月一九日および一一二日の ﹁京都日日新聞﹂に、﹁チャップリンの黄金狂時代﹂と﹁彼と 彼女は行く﹂の広告が出ていることである。特に後者の広告 には、﹁あの夜の接吻は/イツハリだったのか 行を表す。以下同じ︶だの、﹁触れ合ふ容と唇/脱皮する日本 の/恋愛映画が発散/する新鮮なエロ/チシズム!﹂だのと あり、﹁接吻が出て来る﹂ことが強制されていた。これらの 広告が繊問の臼に触れ、小説に使われた可能性は高い。他に も、第一凶閣で弓子が見かける﹁南座﹂の﹁文楽﹂の広告も、 五月二・四・六日の創作欄の真一下に掲載されている。読者は 小説を、広告欄とも絡み合わせて読めたはずなのだ。 さらに興味深いのは、こうした部作と広告との関わりに、 広 告 主 も 反 応 す る こ と だ 。 作 中 に 出 て 来 る ︵ 五 月 一 一 一 一 1 一 九 日 、 六 月 二 1 四日︶﹁吸界文学﹂および怯界文学社は、連載中に二 度、創作欄の下に広告を出している︵五月二五日、六月一六 日 ︶ 0 その広告では﹁世界文学第二号﹂﹁アンドレ・ジイド著 伊吹武彦訳註/架空のインタヴュ

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﹂ ﹁ ア ン ド レ ・ シ

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グフ リード著伊吹武彦訳/アメリカとは何ぞや﹂など、作中に 登場する永田物や文学者たちの名前が出ている。また、その恢 界 文 学 社 に 鶴 雄 が 訪 ね て 行 く 第 一 八 回 ︵ 五 月 一 一 一 一 日 ︶ で 、 通 りぬ一ぎるだけなのに詳細に語られる牛肉店﹁三島亭﹂が五月 二六日に広告を出している。さらには、之、れでも私は行く /甘味の店/二十九日開店/四谷堂﹂︵五月二八日︶だの、 ﹁ / / ﹂ は 改

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﹁それでも私は行く/同じ行くなら此の店へ/吉着古滋兵御 不 用 品 一 切 ︵ 山 中 時 ︶ 鈴 木 商 店 ﹂ ︵ 七 月 一 三 日 ︶ だ の 、 作 品 内 容 とは無関係に、題名だけ用いた広告さえ登場する。 つまり﹁それでも私は行く﹄連載中の﹁京都日日新聞﹂に は、小説と報道と広告との相互交流があったのである。創作 欄は独立してあったのではなく、紙一郎の他の部分と連動して いた。織凶の新開小説が、このように媒体と密に関わり合っ ていた事実は、映画シナリオやラジオドラマ等、多彩な領域 で活躍した彼の創作活動を捉え直す手がかりになろう。 しかし作家と新開社との蜜月は、長くは続かなかった。

﹁小田策之助﹂禁場の背景と効果

作家と新開社との協力体制は、傍闘には大いに成功してい たように見える。しかし単行本が別の新聞社から出版された 事実が端的に示しているように、内幕では、両者の関係はほ どなくして険悪になっていたようだ。作家によれば、引き金 は誤植の多さと原稿紛失であった。織自は単行本の﹁あとが き﹂で、﹁新開問社はひどい誤植を以て私を悩ました。何回目 だったか、原稿の終りの一枚が次の間の最初の一枚とすれち がって、意味が判らなくなったり、つひにはある闘の原稿が 印刷工場で紛失したのも知らず、引州側引制凶リ引]洲叫州州 制判矧叫判制 M M りした。引制出川町和出制創出刻刻じ引っ刷出 策之助などといふ作者とおぼしき人物を議場させたりして、 筋を運ばざるを符なくなってしまった﹂と述べている。﹁あ とがき﹂の草稿ではよりくわしく、﹁まづおびただしい誤植 が小説欄の各行にあって私を悩ました。ある時は、原稿の終 りの一枚が、次の日にのるべき原稿の最初の一枚とすりかへ られて、作者にも仰のことか判らぬやうな一日分になってゐ る日もあった。訂正を申し込むと、次の日はまた最初の一枚 が首切られて載ってゐた。そして、つひに作者を呆然とさせ た こ と に は 、 司 例 叫 謝 料 利 引

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剖割、たとへば二十 五回の次の日に二十七回の原稿が絞るといふ乱暴さであった。 ︵山中略︶そのため構想が変り、作中に作者自身とおぼしき人 物を設場させるなどといふ無理な工夫をして、書きつ、づけ た ﹂ と 述 べ て い る 。 実 際 に ﹁ 京 都 日 日 新 聞 ﹂ を 確 認 す る と 、 第 八 閥 ︵ 五 月 一 一 百 ︶ の終擦が途中から不自然になっている。そのため翌日には、 第 九 聞 の 本 文 と 共 に ﹁ 一 一 一 日 附 本 紙 小 説 中 ﹁ 弓 子 は ズ ボ ン の 中 から百円紙幣を出すと餓雄の前に置いた﹂の次章﹁と、弓子 も総くなって﹂以下は本日の分の組み迷ひにつきここに訂正、 -39

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一円掲載致します﹂という﹁訂正﹂が掲載されている。しかし 実は、その第九闘の冒頭と、第八回でおかしくなる直前とも 上 手 く 接 続 し な い 。 ゆ え に 、 単 行 本 の ﹁ 木 屋 町 一 一 一 候 四 ﹂ で は 、 原稿用紙約一枚分の本文が間に補われている。 また、その前後には大きな誤械が頻繁に起こっている。第 三国が二回あり、第問団がない。﹁寺町通︵友こは二関ある。 第 一 一 一 八 闘 が 二 回 あ る 代 わ り に 、 第 三 九 闘 が な い 。 第 七 四 国 も 二回あり、第七五回がない︵ただしそれぞれ内容は切れ臼なく 進 ん で い る ︶ 0 本文における細かい誤字脱字は枚挙に逗がない。 国有名詞に限つでも﹁山吹教授﹂が﹁山教授﹂に、﹁小郷﹂ が﹁少郷﹂に、﹁が﹁ユリ子﹂になるなど大きなミス が 見 受 け ら れ る 。 ただ注意したいのは、原稿紛失を裏づける事態は第八

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九 閣のみであることだ。なるほど点線郊で一言われているように、 第八閣の終わりの一枚が別の原稿になったのも、訂正したは ずの第九回の冒頭がおかしくなっているのも事実である。が、 織田が二重線部で強調していた﹁一日分の原稿﹂全部が飛ん でしまった形跡は、どこにも見られないのである。 ゆえに織田の﹁あとがき﹂も全而的には信用できない。作 中作家を出さざるを得なくなった最大の理由である原稿紛失 事件には、誇張があるようなのだのならば、作中作家の登場 も、苦肉の策ではなく、当初から計画されていた可能性があ ろう。織田は当時、前年に発表した吋十五夜物語同︵﹁際業経 済 新 聞 ﹂ 昭 和 二 O 年 九 月 五 1 一九日︶について﹁新聞小説は美 男美女の甘い恋を良家の家庭が悶胞をひそめない程度の上品さ を以て描くべきものといふ新聞小説の常識を、打破るために ︵ 9 ︶ も、敢て非難を覚情して、この作品を書いた﹂と述べている。 ここでも、普通の恋愛小説を書く気などなかったとしても不 思 議 で は な い 。 誤椴や原稿紛失による読者への最大の不利益は、小説の筋 が混乱することであろう。そのため織田は﹁小田策之助﹂を 盛場させたという。すなわち、第ニ二回︵五月一八日︶で主 人公の鶴雄が、小田に間われてそこまでの行動を語る場面を 作ることで、要約を自然に挿入し、読者の使立をはかったわ 、 す ノ 、 よ ﹂ 0 1vJ しかし、要約そのものは前後の閤にもあり、作品と区別し て 書 か れ て い る 。 第 一 一 一 回 ︵ 五 月 七 日 ︶ の 冒 頭 に は ﹁ ︵ な ぜ 総 閥 抗 に な っ た か 、 総 雄 へ の 弓 子 の 告 白 は つ づ く : : : こ と い う 断 り 書 き が 付 い て い る 。 第 一 一 一 六 回 ︵ 六 月 一 日 ︶ で は ﹁ 今 ま で の あ ら まし﹂が二一一行に渡って説明されている。こうした解決が可

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能であった以上、読者への配慮のためだけなら、作中作家を 登場させなくてもよかったはずなのだ。 作中作家の出銭湯には、鋭利時の﹁予告﹂で織悶のプロ フィールを写真付きで知っている新聞読者の私小説的な興味 をかき立て、現実との結びつきを強化する効果もあっただろ う 。 挿 絵 一 間 家 の ⋮ 一 一 谷 十 糸 子 も そ れ を 意 識 し た ら し く 、 第 一 一 一 回︵五刃一七日︶の挿絵などは、﹁予告﹂に載った作者の近影 と酷似しており、読者が結びつけることを誘っている。 しかし最も大事なことは、小説の構造が変化することであ る 。 第 一 一

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関︵五月一五日︶で、小出が﹁こんど京都の新聞 に﹁それでも私は行く﹂といふ妙な題で、小説を書くので、 京都へ来てる﹂ことが明かされる。これは読者に、自の前の 小説が作中で舎かれようとしているかのような錯覚を与える 仕掛けだと言える。その錯覚は、作家と題名の類似はもちろ ん、第一二回での﹁こんどの小説ではね、想像力にあまり頼 らずに、一つ実際にあった事件を書かうと思ってるんだ。人 物も実在の人間を出すし事件の背崇も、京都の実在の場所を いろいろ使ってみようと思ふんだ﹂という小聞の発言と、織 田作之助による現実の京都の取りこみとが対応していること で 強 め ら れ る 。 こ の よ 、 つ に 〆〆\、 小 説 の 小 説 、、/’ になることによって、読者は小 説の筋だけでなく、 その作られ方を意識させられる。 その意 識は、作品を対象化して、小説内で何が語られるかだけでな く、小説という表現そのものによって何が語られているかを 考えさせるだろう。 織 聞 の 一 一 訪 問 業 を 使 え ば 、 ﹁ 小 説 の 中 に あ る へ読者を導いているという 思想﹂ではなく、﹁小説の思想﹂ ︵山川︶ ことだ。この小説が実験小説として評価される所以である。 が、こうした読みへの誘いは、鶴娩を軸にした恋愛小説とし て一篇を読むことを難しくさせるはずである。 梶鶴雄の後退 -41 吋それでも私は行く﹄は迷戦前の予告や序燥を読む限り、 梶鶴雄と彼が京都の町々で出会う女性たちとの関係を描いた 作品のように読める。しかし尾崎名津子が指摘しているよう に﹁次第に彼︵引用者校・鶴放︶は後景へと追いやられる。そ れは作家の小間策之助という作中人物が抑銭湯し、また、それ 以外の作中人物を描くことに築が割かれることになるからで ︵ 孔 ︶ あ る ﹂ o その原因は、鶴雄の女性関係に、物語を推進させる 力が欠けていることだ。鶴雄と鈴子は前思いで、話一労は自ら 二人の犠牲になり、弓子は身分の遠いを感じて引き下がり、

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ん明日子は誘惑に失敗する。織田の他作品と同様に、この小説で も嫉妬の役割は重要だが、鶴雄と鈴子の心は他の誌にも傾か ないので、二人の関に嫉妬は生まれない。 むしろ後半は、小郷虎吉の言動が物語の推進力となる。小 郷は弓子の策にはまって妥の浮気現場に出くわし、鈴子に手 を 出 し か け て 語 数 と 関 係 を 持 ち 、 一 一 一 好 に 嫉 妬 さ れ て 殺 さ れ る 。 この惑玉の破滅劇が、後半の筋の中心と一言うべきである。特 に、小郷が﹁クンパルシ!タ﹂の旋律が流れる中で安の不倫 を目撃する場而は、まさにメロ+ドラマで、通俗的な而白さ をもたらしている。ところが、この場面に総雄はまったく関 与しないのである。 鶴雄を中心とした筋は、小出策之助によっても後退させら れる。鶴雄は小出による作中作のモデルになるが、実態は情 報源に過ぎない。しかも情報源としての役割さえ、最後は刑 事︵単行本では司法、五任︶に取って代わられる。結局、一連の ︵ は ︶ 物語において、鶴械はこれといった活躍をしないのだ。 作品では、前半にスタンダ

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ル の T 亦と黒﹂が、後半にド ストエフスキ!の門罪と罰いが長々と紹介される。美青年・ 家庭教師・身売り・殺人といった接点を介して、﹁それでも 私は行くいは間作品と重ね合わせて読むことが期待されてい ると言える。鶴雄もそれら名作の主人公にあこがれる。が、 そこには大きなへだたりがある。次の引用は、第一一八開︵五 月二問日︶の、鶴雄が小郷山本で宮子に誘惑される場閣である。 ﹁ジユリアンになれたら本望だ﹂/つねにサイコロによ って自分の行動を左右しながら、運命の刃の上を渡るや うな激しいスリルを求めてやまない鶴雄は捲怠した生活 から脱け出す胤路を、下鴨の小郷の家に求めてやって来 たのである/ところが、和製のジユリアン・ソレルもい きなり出戻り娘に浴室へ侵入されるやうでは、随分相場 も下落したものである。高貴な精神もへったくれもあっ たものぢゃない。ただ、官能的な、はしたない場而が鶴 却を待ち受けてゐたに過ぎない。 鶴雄はジュリアンになぞらえられつつ、相対化されている。 また第五二関︵六月一九日︶では次のように拙かれる。 i 1 1 ラスコリニコフは老婆の顔をにらみつけながら、斧 を振り上げた。が、その時ふっと自分から力が抜けてし まったのを、ラスコリニコフは感じた::・。/そこまで 読んだ時、鈴雄はほっと溜息をついた。/﹁ラスコリニ コフには人が殺せなかったのだ。観念では殺人は出来な /さう舷いて、活字から限を離した時、鈴子の戸が し、

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聴 え て 来 た の だ : : : 。 ﹂こで鶴雄が共感しているのは、未だ殺人を犯していない ラスコリニコフでしかない。 なるほど鶴雄はこのあと夜通し を 読 み 枕 り 、 小郷を斧で殺す夢を見る。だがそれ も夢どまりで、実行には移さない。宮子とは関係を持たない し、愛する鈴子の危機を救うのは君勇で、 ト 芯 ・ を 川 町 h ι ヲ

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ま , r p 川 刻 刀 2 ︽ 3 4 a v 〆 し 1 M 好である。鶴雄はジユリアンにもラスコリニコフにもなれな い 。 小 説 が 進 む に 連 れ 、 ︵門川︶ ち て ゆ く の だ 。 ﹂の三高生は主人公の座から滑り落 鶴雄は、最終︵第八四︶間で、小田と次のように一言葉を交 わ す 。 ﹁ ど う し て っ て : ・ : ・ 。 君 勇 に も 弓 子 に も 鈴 子 に も 、 も う 会ひたくないんです﹂/﹁ふーん﹂/﹁それに、京都と いふ土地がつくづくいやになりました﹂/﹁ぢや、どこ へ行くの:::/﹁友人が北海道にゐるんです。そい つを頼って牧場で働きます﹂/﹁学校は:::?﹂/﹁よ します。どうせ、食糧難で、満足に授業は受けられない し、北海道の牧場で、独学する方が気が利いてゐます﹂ 鶴雄は女たちからも、京都からも離れようとする。しかし この小説はわずか五日間の物語であり、鶴雄の決意もここ数 日 の 内 に 生 ま れ て サ イ コ ロ で 決 め た も の に 過 ぎ 、 す 、 総弱さは 百 め な い 。 北海道での肉体労働生活に憧れる京都の学生とい う 設 定 は 、 間木田独歩の 吋 牛 肉 と 馬 鈴 薯 い ﹁ 小 天 地 ﹂ 明 治 三 間 年二月︶を想起させよう。 吋 牛 肉 と 馬 鈴 薯 ﹄ で は 、 同志社を 出 て 、 理 想 に 燃 え て 北 海 道 に 赴 き 問 阿 部 唯 一 事 業 に 取 り か か っ た も の の 五 ヶ 月 で 挫 折 し 、 現実主義者になった炭鉱会社の紳士 上村の過去が紹介される。苦労知らずで間関に﹁坊ン坊ン﹂ と 呼 ば れ て い る 鵠 雄 が 、 上村と同様の挫折する可能性は決し て 低 く な い は ず で あ る 。 間

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第 七

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関︵七月八日︶で、鶴雄に﹁こんどのあなたの小説 は通俗小説になるんですか﹂と聞かれた小田は ﹁ 残 念 だ が 、 通俗小説、だね。新聞小説は通俗小説でなくっちゃ読まれない し、だいいちかう偶然が多くっちゃね﹂と答えている。 酒 田 、 主 血 中/宇 J 吋 そ れ で も 私 は 行 く ﹂ 斗 ゴ 十 や ふ 品 、

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まさにこうした批評的な言及 があるゆえに、通俗小説から距離を取っている。第七六回 では、﹁新聞小説で受ける小説を書くのは、小 ︵ 七 月 一 五 日 ︶ 聞のやうに癖の多い純文学の小説を惑いてゐる作家にとって は、かなり苦痛であっ ﹁凝って書けば、受けないし、凝

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らなければかへって受けるかはり作家としての良心が許さな い﹂等と語られていた。つまり﹁それでも私は行く﹄は終盤 に、メタ通俗/新聞小説としての貌を鮮明にしてゆく。 二 点 本 で 山 引 用 し た よ う に 、 小 防 は 新 聞 小 説 に ﹁ 実 際 に あ っ た 事件﹂を書くつもりだと述べていた。その計画は、第六五閉 ︵ 七 月 一 一 一 日 ︶ で も ﹁ 小 田 は 、 こ ん ど の 新 作 の ﹁ そ れ で も 私 は 行 く﹂といふ新間小説では、本当にあったことを、そのまま、 ルポルタージュ式に、出来るだけ小出自身の想像を加へずに 書き、場所も人物も実在のまま使ふといふ奇妙な計闘を樹て てゐた﹂と強調される。事実のままに書きつつあったゆえに、 小郷殺しが起こったとき、小田は作中人物候補の中に犯人を 探す。しかし最終的には、それまで知らなかった三好という 人物が犯人だったとわかる。﹁本当にあったこと﹂を写して も、複雑な﹁現実﹂の諸相には対応しきれないことが判明す る の だ 。 だ か ら 第 八 二 部 ︵ 七 月 二 一 一 一 日 ︶ で ﹁ 現 実 を 甘 く 見 て ゐたこの小説家﹂は、﹁現実といふものは、それに挑み掛ら うとする作者に、どんな不意打ちのいたづらをするか、判っ たものぢゃない﹂と己の限界を泌感する。 しかし作中作の破粧は、織田の作品の破綻を意味しない。 もともと小関の小説の櫛惣や文学論は、口にされるたび鶴雄 に冷笑され、相対化されている。また、第七六闘には小田が 書きかけた作中作の官頭が引用されるが、その本文は読者が 第一回︵限月一一六日︶で読んだ現実の﹁それでも私は行くい の冒頭と、よく似てはいるが、文の切り方や細部の表現が異 なる。作中作の構想にはいなかった三好が実際の小説では捕 かれていることも含め、小田と織問、作中作とこの作品とは、 近づけられつつ、明確に線引きされているのだ。 第八二閲で小田は挫折するが、﹁開時に、小田の職業意識 は 強 い 好 奇 心 の 食 指 を 動 か せ た ﹂ ゆ え ﹁ 一 一 一 好 っ て ど ん な 男 で す か 。 な ぜ 小 郷 を 殺 し た ん で す か 。 な ぜ 、 一 一 一 好 だ と い ふ こ と が判ったんですか﹂と﹁畳み掛けるやうにきい﹂て、情報を 得ょうと努めるさまが拙かれている。そのため、小田がこの あと、まさに読者の目の前にある吋それでも私は行く﹂と同 じ 小 説 を 書 い た と 考 え る こ と は 可 能 で あ る 。 た だ し 、 一 一 一 好 を はじめ複数の登場人物の内閣に立ち入るその書き方は、彼の 当 初 の 計 一 則 と は ち が っ た も の だ と 言 わ ざ る を 得 な い 。 織田の小説は、実際にあったことを書くという小閣が考え た方法では表現できない﹁現実﹂があることを浮き彫りにす る。よく似た仕組みは石山祁﹂にも見られる。﹃位相﹂の ﹁ 私 ﹂ は 敗 戦 後 の 現 実 を 描 こ う と し て 紘 一 十 を 執 る が 、 気 が 付 け

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ば過去に得意とした小説のスタイルを反復してしまっている 自 分 に 一 戸 惑 う 。 彼 は ﹁ 今 日 の 世 抑 制 が 俺 の 昔 の 小 説 の 真 似 を し てゐるのだ﹂と繍くが、﹁だからといって背のスタイルがの このこはびこるのは自慢にもなるまい﹂。かといって﹁才能 の乏しさは世相を生かす新しいスタイルも生み出せなかっ た﹂。やはり作中作の失調を介して、敗戦後の混乱した世相 を逆説的に表そうとしているのである。 吋それでも私は行く﹄の特徴は、そうした同時代の世相を 写す困難が、新聞間小説で書かれたことである。この小説では、 新聞報道がしばしば作家に後れを取っている。小聞が新聞を 読んで疑問を感じ、警察署にかけつける第八

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回 ︵ 七 月 一 一 一 日︶はその典型だが、その後も作中の新聞は行き当たりばっ た り の 報 道 を す る 。 第 八 一 一 回 ︵ じ 月 一 一 二 日 ︶ で は 、 ﹁ 君 勇 の 勇 の字が男になり と誤植されてゐた﹂というミスまで したことになっている。作中の報道はいい加減で、作品は現 実を写すことの間維を訴えかける。これらの要素は、読者を してまさに﹁京都日日新開﹂紙面を素朴に受け取ることを妨 げ か ね な い 。 明らかに、織問は新開社との後月的協力から軌道修正した と言える。新開社への非協力的な姿勢は、終盤で小田に長々 ︵ M ︶ と京都批判をさせていることにもうかがえる。しかしより重 要なのは、原則として事実を報道する媒体である新関紙上で、 ﹁現実﹂を表象することの閤難を訴えている点である。ヌ ι れ でも私は行く h とは、新聞という媒体と強く速読しつつ、そ の特性を逆手に取った小説でもあったのだ。 敗戦直後の織田作之助は、斬新な新聞小説を企関していた。 その怠欲は吋十五夜物語同からもうかがえる。この小説は、 夢想判官という空想癖の強い男の活躍を筋の中心としている。 が、冒頭から書いている﹁私﹂が前景化し、途中では読者か ら鴎いたという質問や批判を取りあげることさえある。新聞 社にも実際の読者にも頗る不評であったようだが、織田は懲 りずに、?﹂のやうな新開小説の形式は何れ誰かがやってく れると思ってゐる。誰もやらなければ、作者はもう二度やっ て み た い 。

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由 は 一 古 川 さ れ た が 、 内 容 だ け で な く 、 形 式 の 自 由 -45

も あ っ て も い い の で は な い か ﹂ ︵ 前 拘 吋 狭 飛 佐 助 ﹄ ﹁ あ と が き ﹂ ︶ と書いていた。吋それでも私は行く h の 連 載 が 始 ま っ た の は 、 そ の 三 ヶ 月 後 で あ る 。 なるほど、この小説で斬新な﹁形式﹂が⋮編み出されたとま 一議の︿小説の小説﹀という﹁形式﹂は、織 で は 一 一 お え ま い 。

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聞が﹁可能性の文学﹂︵﹁改造﹂昭和二月︶で理解を示 しているジイドの﹁殴金つくりいの﹁ややこしい形式﹂に似 ている。作中にはジイドへの言及もあるし、一元的な現実解 釈を相対化する﹁劇中劇﹂や﹁作者﹂の導入に、内償金つく り﹂を意識した部分があるのは明らかである。ただ、そうし た方法は昭和一

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年代に太宰治や石川浮が、より先鋭的な形 ︵ 日 ︶ で試みていたと言える。しかし、一見すでに手垢の付いた方 法に映る︿小説の小説﹀も、戦後に、地方新開という媒体の 特性を活かした形で用いると、新鮮さと批評性を持つ。その 着眼はまぎれもなく織問のものだ。 fド 否 、 占 領 下 、 らぬ﹂という ニュースは厳絡に真実に符号しなければな 文から始まる レ ス ・ コ ー ド ﹂ ︵ 日 山 内 向 令 官 司 令 第 一 一 一 三 条 ﹁ 日 本 に 与 う る 新 聞 滋 刻 ﹂ 昭 和 二 O 年九月一九日︶の 下で、﹁現実﹂と積極的に絡みつつ、﹁現実﹂を書くことの関 難を考えさせる新聞小説を書いたこと。それは、織間作之助 の権威に対する批判が、文域内部にとどまらぬ射程を持った 可能性を示しているはずである。 ︹ 注 ︺ ︵ l ︶ ﹁ 作 品 解 題 ﹂ ︵ 吋 P X 本 総 凶 作 之 助 全 集 第 六 巻 い 文 泉 州 け し 山 川 町 帆 、 削 川 和 ⋮ 九 ︵2 ︶ ﹁ 二 O 佐紀の芸人 i i i 織 副 作 之 助 の 佼 置 ﹂ ︵ ﹁ 奈 川 ア i ガ三平 成 八 年 一 一 月 ︶ ︵3 ︶ ﹁ 織 凶 作 之 効 と 焼 跡 の ジ ュ リ ア ン ・ ソ レ ル た ち ﹂ 二 日 本 の 戦 後 小 説 い 円 わ 波 市 対 応 、 問 削 利 六 一 二 年 八 月 ︶ ︵4 ︶ ﹁ 京 都 日 日 新 聞 ﹂ は 夕 刊 紙 で 、 ﹃ 京 都 新 聞 凶 年 史 い ︵ 京 都 新 川 同 社 、 平 成 二 年 一 O 月 ︶ に よ る と 、 発 行 部 数 は 一 O 万 。 の ち 経 営 不 振 に 陥 り 、 昭 和 二 四 年 七 月 に ﹁ 京 都 新 開 ﹂ に 合 併 さ れ る 。 ︵ 5 ︶﹁務麗なる未完の大作 1 1 1 吋 土 限 夫 人 ピ ︵ 吋 織 川 制 作 之 助 稲 川 以 余 木 問 主 編 集 工 泌 ノ ア 、 平 成 一 O 年 六 月 ︶ ︵ 6 ︶ ﹁ 織 田 作 の 。 気 ィ っ か い し ︵ 吋 定 水 制 制 限 作 之 助 金 銭 第 一 巻 い 文 泉 然 出 版 、 昭 和 双 一 年 間 月 ︶ ︵7 ︶中村勝﹁治中先斗町・木殿町それでも私は行く織悶作之 助 山 絞 り 場 に う ご め く 男 女 計 像 ﹂ ︵ コ 爪 都 文 学 散 が い 次 郎 新 聞 出 版 セ ン ター、平成⋮八年二月︶には、コそれでも私は行くいは毎日、新 川 仰 を 待 っ て 読 ん だ 記 憶 が あ り ま す 。 、 河 原 町 三 条 の キ ャ バ レ ー 吋 歌 舞 伎 ﹂ や 、 し る こ 屋 の ﹃ べ に ゃ い な ん か が 出 て き ま す ね え 。 筋 は も う 党 え て い ま せ ん が 、 人 気 あ り ま し た よ ﹂ と 語 る ﹁ 昭 和 二 十 一 年に活水原町週間条上ルに喫茶店を開いた﹂女性の証言が記され て い る 。 ︵ 8 ︶ 織 閃 は ﹁ 間 相 と 文 学 ︵ 上 ︶ 1 1 1 時 代 に 怒 れ た 作 家 の リ ア リ ズ ム i i 1 ︵ ﹁ 夕 刊 新 大 阪 ﹂ 問 和 二 一 年 二 バ て 八 日 ︶ で 、 ﹁ 今 日 の 作 家 ﹂

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が﹁いたづらに過去の夢を追うて心すきにくい世相の方は新聞に任 せてゐる﹂ことを批判し、﹁今日の雑誌に発表される小説を読む よ り は 日 々 の 新 聞 を 弘 一 ん で ゐ る 方 が 、 興 味 深 ん べ た り と 感 ず る ﹂ と 述 べ て い た 。 ︵ 9 ︶ ﹁ あ と が き ﹂ 会 談 終 佐 助 ︺ 一 一 一 偽 札 H 一 一 、 的 利 一 一 ︵mw ︶ ﹁ 小 説 の 忠 惣 ﹂ ︵ ﹁ 大 阪 初 日 新 聞 ﹂ 附 利 一 五 年 六 月 二 二 ・ 一 四 日 ︶ ︵ 孔 ︶ ﹁ 小 説 に お け る ︿ 偶 然 ﹀

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織間作之助、昭和二十一年の実 践 i l i ︵ ﹁ 祭 文 研 究 ﹂ 一 平 成 二 O 年 六 月 ︶ ︵ロ︶物語に﹁偶然﹂をもたらすはずだったサイコロも、しだいに 役目を来たさなくなる。冒頭では、欠泌悶鶴子なるタイピストに 会いに行くのかと思いきやサイコロの指示によって会わず、その 後も凶鶴子は山山て米ない。新開小説の二回目で名前となれそめと 手紙まで出てきた女性が最後まで笠場しないことは、読者の怒表 を突くだろう。が、こうしたな外な展開がもたらされるのは議初 だけである。鶴郎は途中からあまりサイコロを振らなくなる。そ の 典 型 的 な 場 而 が 第 五 九 問 ︵ 六 日 月 一 一 六 互 に あ る 。 ﹁ 鶴 雄 は 何 だ か 気が准一まなかったが、しぶしぶついて行った。宮子と一緒に歩く のはいやだったが、しかし、弓子にはやはり会ひたかったのだ。 /だから、サイコロを振ってみもしなかった o ﹂ ︵日︶鶴雄の筋からの後退は、挿絵に掛かれる凶数の役移からもう かがえる。挿絵後場関数を服佼づけると、 一 佼 ・ 鶴 雄 ︵ 一 六 m m ︶ 、 二 佼 : 弓 子 士 山 岡 ︶ 、 三 位 ・ : 小 問 ︵ 一 O 隊︶と続く。ただし餓雄 が拙かれるのは第一− 了 一 一 一 ・ 九 ・ 二 ハ ・ 二 一 一 − 一 一 一 一 了 二 m m − 二 ム ハ −

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二 ・ 五 七 ・ 五 九 ・ ム ハ 一 ・ ム ハ 一 一 了 ム ハ ム ハ ・ 七 一 凶 で あ り 、 中 盤 以降は存在感を失ってゆくと一添える。対照的に、小田は第一九・ ・ ム ハ ム ハ ・ 六 八 ・ 七 一 ・ 七 六 ・ 七 七 ・ 八 二 回 の 帰 二 一 ・ ム ハ 一 一 − L ハ ⋮ 一 絵 に 登 場 し 、 終 盤 に 存 在 感 を 地 し て い る と 一 万 え る 。 ︵孔︶第七一間︵七月一一日︶参照。単行本では、この京都批判の 半 分 近 く が 削 削 除 さ れ る 。 ︵日︶たとえば、共に昭和一 O 年五月に発表された太挙治吋道化の 来 い ︵ ﹁ 日 本 淡 民 派 ﹂ ︶ と 石 川 涼 ﹁ 伎 人 い ︵ ﹁ 作 品 ﹂ ︶ を は じ め と す る 作 口 問 併 で は 、 書 き 手 の 市 泣 き つ つ あ る 文 ’ ネ へ の 批 評 的 な 滋 識 が 前 胤 に 山 川 て 米 て 、 市 一 日 く も の と 者 か れ る も の と が 反 射 し 合 っ て 小 説 が 紡 が -47-れてゆくさまに特徴があった。しかし吋それでも私は行くい で は 、 今まさに書き、脅かれていることは問題にならない。もし新開小 説執筆の苦悩が小羽ではなく誇り手のものとして古かれていたと すれば、太宰や石川の過去の作品に似ただろうが、そうはなって 、 a t 、 a O L ふ れ UL ︹付記︺本稿は、太宇治スタディ 1 ズの会・石川涼研究会共同研究 会 ︵ 平 成 一 一 一 一 一 年 九 月 二 五 日 、 於 ド H 山学院大げさでの口頭発表を必にし て い る 。

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い と う ・ ま さ お / 群 府 内 ふ 入 学 准 教 授

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