l ほ じ め に
今日財務諸表監査においてほ監査人は会社の公表する財務諸表の監査を終るに当り︑彼が実施し霊皿査によって
到達した結論を報告書の形で監査依頼人或はその会社の利害関係者である第三者の前に提出しなければならない︒
監査依頼人戎ほその会社の利害関係者は監査人によって提出された監査報告書によって会社の財政状態および経営
成績な表示する財務諸表の判断資料としての.信頼性或はその欠陥の程度を知ることが出来る︒それは通常監査依頼
人である経営者および会社の利害関係者である株主︑銀行︑債権者︑顧客︑労働者︑取引先︑政府等が会社に対し
て何等かの行動を起す場合︑例えば配当要求或は投資︑貸付︑信用の供与︑売買その他の取引︑賃金に対する要求︑
課税等の場合程度の差こそあれ︑彼等の行動の基礎となるのほ企業の公表した財務諸表であり︑従ってその財務諸
表の信頼性の程度について述べた監査報告書に利害関係者の行動の基礎がおかれることになるからである︒
このように現在の監査報告書はその背景に社会的に広範な利害関係者層を持つのでその機能は社会的に非常に重
要である︒そこに監査制度が社会的制度であるという所以がある︒社会的に公表される監査報告書にほ通常短文形
式のものが使用されるが︑それが社会的に重要な機能恕持ち︑且つ又非常に多数の者に公表される為に︑短文形式
の監査報告書の様式及び文言は非常に形式的且つ抽象的になっているが︑その監査報告書の様式及び文言の三雲
︵一七九︶ 四〟 米国における監査報告蛮の発展 H
米国における監査報告書の発展 ︵一︶
森 実
第三十三巻 欝二号
二八〇︶ 四二諸にほ甚だ重要な意味が含まれている︒このことほ米国の監査報告書の様式および文言の変遷の歴史によっても顕
著に示されている︒米国の会封監査ほ一瞬には約七・八十年の歴史を持つといわれているが︑その歴史ほ単に監査
方法の変化︑発展の鼻を示しているのではなく︑根本的な監査思想の発展を示し︑それほ同時に米国の株式会社を
中心とする社会経済の変化を微妙に反映するものである︒その諸変化が叫見非常に形式的且つ抽象的な監査報告酋
の様式及び文言の変化となって現われていることほその歴史的流れにおいて見ることが出来る︒
米国の会計監査制度について見れ唱久保翌日二郎博士ほ前世紀の会計監査は英国の監査制度︑技術︑思想の導
入に過ぎないものであり︑今陛紀に入ってから二〇年代頃までに二回程信用監査についての基準が出されるように
なったが︑まだ英国監査の根本的思考を脱しておらず︑一九三〇年代の有価証券法︵SecuritiesAct︶︑証券取引所
法︵SecuritiesE誓訂ng2Act︶等の一題の証券投資家保護立法が行なわれ︑これに基づく証券取引委員会︵SE
へ1︶ C︶の法定監査の開始により︑始めて米国牲有の財務諸表監査が現われたと言えるとされている︒従って監査告書
についても大体同様のことが手札るのであり︑米周で一九三〇年より前に用いられていた監査報告書の様式ほ英国
のそれに起源を持つものであり︑英国的色彩を脱した監査報告森羅二九三四年の﹁株式金社会計の監査︵AuditOf
てこ COrp︒rateAcc︒亡ntS︶﹂中に記載された標準形式のものであり︑これが一般に使用されるようになったといわれる︒
さて監査報告書とその背簸である膿式会社を中心とする社会経済の変化とを結びつけて発展を論じたものにコク
︵S︶
ランがあるが︑前述したように米国独自の監査報告書ほ一九三〇年代の法定監査開始以後に出たとする見解をと
り︑監査報告書の発展を跡づける場合にもSECによる法定監査の成立およびそれ以後の発展の過程に注がれ︑そ
れ以前のもの匿ついセほ.単に英国の魔響の濃いものとして説明されるに過ぎない︒我々ほ次稿でコクランの所説を
紹介する予定であるが︑我々はコクランがあまり重点を匿いていなかった部分︑即ちSECの法定監査成立以前の
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会計監査にも重要な関心を持つので︑本稿において督ECの法定監査成立以前の監査報告番の発展を論じること
にしたい︒
T︶ 久保田音二郎著﹁会計監査﹂五六頁︒﹁財務諸表監査﹂五四京︒
︵2︶ G・〇・May㌔inancia−AccOun−ing−慧少﹈ワム草 本村重義訳四入電 H・Stett−erJAuditingPrincip−es−望−
p.∽苫.
︵3︶ GeOrgeC邑rane㌔→FeAudi−OrV芸epO−−⁝−−sE邑u−iOnln−Fe亡・S・A㍉∵nSe亘edReadings−nAccOunting
and Auditing edited byM.E.Murpす﹀pp・芸〜夢
こ 英国会計士の渡米以前の会計監査
一般に米国の会計監査は十九世紀の後半過ぎに英国会計士により伝えられたものといわれている︒英国会計士の
渡米の経済的背景として久保田博士は英国資本家がその資本の投資先を国内より海外に転じ︑特に米国企業に投資
した英国資太家が自己の投資の安全をはかる為に英国会計士を派遣し︑米国の会社を監査させた事情を指摘され
︵1︶ た︒この具体的事例としては米国での最も初期の公共会計士といわれる1・Tアニオンの回想記中に示されるが︑
一八八〇年代に米国で収益力が高かった醸造会社等を買収しその有価証浄を英国内の証券市場で流通させる為に結
成した英国銀行業者の起債引受団ほ﹁イングリッレアレンデケーユとして知られているが︑それほ会朴の買収
︵2︶ に当ってその会社が果して買収の価値があるかどうかを調査する為に英国会計士を米国に派遣したのである︒
これほ米国で米国の会社について行なわれた会計監査ではあるが︑それほ米国の人々の自発的な依頼によるもの
ではなくて︑
︵一八一︶ 四三 米国紅おける監査報告沓の発展・H
二八二︶ 四四 第一一宇三巻 第二骨
︵3︶ う性格のものである︒このような事情により︑会計監査が英国より叫八八〇年代に伝えられたという仙般的見解を
聞く時は︑米国ではそれ以前会計監査は行なわれていなかったのか︑又会計監査の主体である公共会計士ほ⊥体ど
のような状態にあったのか疑問が生じるであろう︒
米国でそれ以前に会計監査が全然行なわれていなかったのでほなく︑又公共会封士の職業がなかったのでもな
い︒英国会計士が米国に派遣された時に米国では公典会討士が開業していた︒唯その米国会計士が英国会計士の仕
︵1︶ 事ぶりに驚いて自己の技術の未熟さを反省したといわれるように︑米国会封士は技術的に非常に劣っていたのであ
り︑それほ又当時の米国の経済的背景と照応して監査思想が程度の低いものに留っていたために公共会計士自身の
︵5︶ 一地位が低くしか評価されていなかったことを反映して小る︒
米国の公共会計︵P各−ic AccOunting︶ の歴史は相当古くまでさかのばることができるようである︒エドワード
︵6︶ によれば独立戦争︵一七七六〜一七七八︶以前に既に英国会計士が米国に渡った史実がある︒そこでそれらの英国
会計士の内の若干の者が英国に帰らずに米国に定住したことも考えられる︒更にその米国に定住した英国会計士が
米国で公共会計業務を行なったことも想像できる︒その場合かれらの実務中より会計監査が米国的な発展を遂げる
可能性も考えられるが︑その事実ほ必ずしも明瞭でほない︒何となれば英国でもその頃の公共会計士ほ会封監査巣
として専業化しておらず︑種々な職業人が単に副業としていたに過ぎず︑単に計算の専門家として知られていたも
︵7︶ のであったからである︒
米国で公共的に会計の仕事を行なった最初の記録は一七四八年のものであり︑それほ組合企業での組合員の持分
の譲渡に関する計算書の作成にか1わるものである︒しかしこの会計士が公共会討士として開業していたか否かは
明らかでない︒その後次第に公共会計士が現われたことほ米国各市の人名簿に公共会計士の広告が掲載されるよう
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紅なったことで知ることができる︒その最初のものはニューヨーク市の副七八六年の人名簿に掲載されたものであ
る︒叉その業務内容についてほ劇七九五年のこふージャージー州の或る雑誌に掲載された公共会討士の広告でほ主
として会討知識の充分でない人々に代って会計帳簿を正確に記したり︑或はそれらの人々に簿記の方法を教授した
りすることであった︒所がその後相当の時代を経過した山八五山年の広告になると会計士の仕事はより高度なもの
を含むようになり︑営業種自の内に帳簿組織の立案︑設定が加わることが多かったが︑未だ専ら帳簿係のような仕
︵8︶ 事に留っていたことが示されていた︒
その後次第に公共会討士が寄り合って結成する会計士事務所が開設され始めた︒即ち二八六六年には ぎrsey
andくer∽ey という会計士事務所がニューヨークで設立され︑一八八三年には BarrOW一Wade・Guthrie and
︵りこ COmpany がニューヨークで結成された︒それと同時に公共会計士の職能も劇八五〇年以前とほ大分壷占㌫違って
来たのである︒即ち山八五〇年代頃までほ公共会計士は会計帳簿の作成とか︑転記とか︑決算とかのような常規的
な仕事を専ら行なっていたが︑仙八七五年の広告でほ公共会計士の営業の内でほ会社の会計記録の監査および会社
︵10︶ が発表する諸会計報告書の作成の仕事の方に重点が移行したことが知られる︒
吏に米国でほ十九世紀末には資本主義経済の矛盾として周期的に訪れた恐慌によって多くの会社が破産した時代
があり︑それによって公共会計士が破産処理の為に利用される機会を得た︒又これらの破産を契故に強大な資本に
よって弱小資本の支配︑統合が行なわれ︑多数の会社合併が生じたが︑これら会社の合併︑買収の取り極めに当っ
へ‖︶ てもやはり公共会計士が利用された︒このような重要な事件に際して公共会封士が利用されるごとにより公共会計
士が社会的に認識される叱役立ったのである︒このような事情により公共会計士が職業として成立する基礎が与え
られ︑彼等の地位向上の努力ほ叫八九六年にニューヨーク州で公共会封士が法的承認をされるのを成功させたので
、
八三︶ 四五 米国における監査報告諾の発展 H
︵ほ︶ ある︒
かような経過をみるとス八〇年代の英国会計士の渡米によって会計監査が伝えられたのでほなくて︑それとほ 別に米国独自の会計監査が発展して来たのでほないかと考えられるかも知れない︒所が十九世紀の後半に米国の会
社の会計監査は大部分が英国会計士にょって行なわれたのである︒それは当時の米国の財界人は在来の米国会計士 ︵1き︶
をあまり信頼せず︑英国会計士に依頼する傾向があり米国会計士はその助手として利用されたに過ぎなかった︒こ のような状態で米国会計士が会計監査を行ない得たにしても技術的に英国に劣ること大であったので︑それ以後の 発展の去ロとなり得ないで全く英国会計士の実務の模悌を行なわざるを得なかったのごある︒ しかし尚何奴米国でほ独立戦争以前にも英国会計士の渡米があったにも拘らず︑一八八〇年代までに英国程会計 監査が発展しなかったかという疑問が残るであろう︒それほ結局英国と米国とは会計監査に対する社会経済の要求 の程度が興っていたためといわざるをえない︒米国では十九世紀中葉頃まで公共会計士の主敦な業務ほ会社の会計 記録を経営者或は従草貝に代って作成したり︑戎ほ経営者或は従業員の犯した不正或は誤謬を摘発戎ほ発見するこ
と等であった︒従ってス八〇年頃になっても︑彼等の職能が社会的聖同産な役割をも果すことが=般軋理解され
ず︑普﹂で叉利用されることが少なく︑程度の低い職能を果すものとして理解され︑二根にE登rtb00kkeeperu
︵14︶ detecti諾W旨kの専門家といわれていたのである︒
十九世紀後半に至るまで米国の企業は主として出資者個人によって経営される小規模のものか︑戎ほ少数の出資 者が集って設立した同族会社的色彩の濃いものであったので︑会計自体についてもそれが対外的に或は社会的に重 要な意味を持つものでほなかった︒会計の職能はより対内的なものであり︑企業の財産ほ企業経営者個人の財産で あると考えられ︑外部の者に企業の財政状態或は営業成績を報告するというよりも︑企業主の財産が適当に保全さ
第三十三巻 第二号 ︵一八四︶ 四六OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
れているかどうかに塾大な閑心が寄せられ︑その為に会計の職能が考えられる︒即ち会釘記録が従業員の不注意に
より誤謬を蒙り︑例えば売上代金め▲一部の記帳が漏れ顧客に請求されない場合ほ企業主の財産の損失となるであろ
うし︑叉従業員の不正による現金の私消も同様であり︑会計記録が正確であるか︑或ほ不正や誤謬が存在するかに
企業主ほ関心を持つのである︒
そこで当時の公共会計士はこのような企業主の要請の為に︑専ら会計知識に欠けた企業主或は従業員に代って帳
帝を正確に記帳したり︑或ほ従業員の記帳の中に誤謬が存在していないかどうか︑或ほ従業員の犯した不正が隠さ
れてほいないかを調べることを業務内容としていたのである︒つまりこのような会計士の職能は企業の内部的なも
へ■1︶ のであり︑企業経営者個人の管理職能の一部を会計士が代理するものであって︑彼等の働らきほ何等社会との直接
的関連を持たなかった︒従って公共会計士の価値ほ社会的に蘭識される機会が少なかったのである︒
所が英国では早くから株式会社の形態が採用されて︑巨大な資本の集中が可能となり︑従って又出資者と実際の
経営者との分離が生じ易い状態にあった︒しかし英国ほ株式会社について早くよりにがい経験を味わった︒という
のほ十八世紀の初期に株式投機による詐欺が非常に多く行なわれた︒その反動として会社の設立はその後約百年間
事実上は禁止されることになった︒しかし経済社会の発展に基づく資本集中の要請は如何ともなし難く︑十九世紀
に入ると株式会社の経済的機能が次第に理解されるようになり︑一八四四年の会社法により登記の規程に従って株
式会社組織を採ることができるようになった︒しかし初期の時代に多くの弊害が起ったことを考慮して発起人およ
︵川︶ び取締役の行為を厳重に規制すべく注意を払ったの︑である︒
このように英国でほ十九世紀の初期に既に株式会社の経済社会に対する大きな影響を認識していたのである︒そ
れほ株主が相当広範囲に亘って社会に分散しているので︑それら株主の保護の法的規制が社会的に必要となった
米国における監査報告書の発展 H ︵山八五︶ 四七
ためである︒この背後には経済の発展︑それに伴なう大規模会社の成立︑それに対する有価証券市場の整備等があ
り︑経営に直接参加する忠志を持たない出資者としての株主への株主の性格の変化︑或は発生を招いたのである︒
米国の掛合は二十世紀に入っても同族会社的或は地方的な性格の会社が多く︑有価証券市場の整備は山九二〇年代
に入ってからであった︒英国でほ十九世紀後半頃︑にほ証券市場が相当整備されていたことは︑山九八〇年代頃に英
国資本家が国内の会社の有価証券のみでは投資先として不足を感じ︑﹁イングリ㌦/シ1・レンデケート﹂を通じて
米国の会社を買収して︑その有価証券を英国内の証券市場で流通させたという史実によっても察せられるのであ
る︒
かくして十九世紀末に英国会計士が渡米する以前の米国の状態は公共会計士に会計監査を要求する程株式会社は
発展していなかったのであり︑又従って社会経済よりの要求もなく︑公共会計士もこのような職能を果しうるほど
充分な能力を備えていなかった︒その当時にはたゞ経営者の為に代って会計帳簿を正確に作成したり︑種々な会計
報告書を作成したり︑或は従業員の不正および誤謬の摘発に留っていたのである︒渡米した英国会計士の活動ほこ
のような米国会計士を反省させ︑技術的にほ英国の監査方法を模倣させ︑同時に社会的な公共会計士の職能を認識
させたのである︒このような状態にあってほ問題としている監査報告書ほ未だ定形らしきものも現われていない段
階であったといえる︒
︵1︶ 久保田音二郎著﹁会計監査﹂四〇寅参照
︵2︶ l●T・AnyOn︸RecO−−ectiOnOftFeEaユy Days Of AmericanAecOuntanCy−雷∽〜−笠∽.−¢N∽.pp.紹〜ぴ∽.
︵3︶ C・A・MOyer∴由aユy De諾−名mentS in American AuditingごーThe AccOu已ing Reまew Jan.−誤−︶ p.∽.
︵4︶ J●T●AnyOn.Op︐Cit●︸p●誤● 第三十三巻 第二骨 ︵一入六︶ 四八
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︵5︶ モイヤー埠前世紀末頃には米国の監査人が取扱う問題はあまり重要ではないものであったので︑このために監査人の社会
的地位は低く見られていたと指摘している︒C・A・MOyer−Op・Cit・も・P
︵6︶・J・D・Edwards\→Fe旨ergenceOfPub−icAccOun−ing inlFe已ni−edS−a富−差〜−00発言1be AccOunting
Reまew︸lan.−摂料﹀p.∽∽.
︵7︶ A.C.LittietOnAccOuntingE苫−utiOntO−讐○︐−諾∽■pルN∞N
︵8︶ J.Dl.Edwards−Op・Cit・︸pけ芦
︵9︶ Ibid.︸p.諜・
︵10︶ Ibid.︸p・∽滑
︵n︶ この事惜の詳細についてはへ拙稿﹁米国における生成期の監査報豊田賢いて﹂香川大学経璧芸讐要義軍事を参
照されたい︒
︵望 1.p Edwards\Pub芽AccOun−ingin−heUni−ed Sta−es−慧〜−淫㌫バTheAcc⁝ting ReヨeW Apri=誤∽u
pp.N会〜Nき●
︵ほ︶ アニオンは渡米した当時英国人であった為に好感を持たれてはいなかったが︑人々は重要な会計の仕事が必要になった時
は米国人よりも外国の経験のある公共会計士を選んだがこの事は米国の依頼人紅より外国人の仕事の正確性及び結論の誠
実性により大なる信強が置かれたからであることを述べている︒J・T・AnyOnもp・CitニpN−・
︵14︶ lbidてp一き.
︵持︶ 米国では一八六九年にH・Me−−en訂inにより﹁監査人の手引︵Au已−Or㌦Guide︶﹂ が出版されているが︑これは監査の
文献としては古いものであるがその程度は低いものであった︒この書の中には企業主が﹁容易で愉快な夏季のレクリエー
ジヨンとして﹂彼自身の現金出納簿を監査できるような手続を与えるという表現が用いられているが︑このことより考え
︵一八七︶ 四九 米国における監査報告讃の発展 H
三 英国会計監査の模條の時代
前述したように㌦八八〇年代に英国資本家によって派遣された英国会計士により会計監査が米国に導入された︒
従ってコクランが指摘したをつに当時の米国でほ英国会計士が使用したのと同じ監査手続が採用され︑又同じよう
へ1︶ な様式且つ文言の監査報告書が用いられた︒しかし英国では株式会社の会計監査について法的支持があったが︑当
時の米国では英国のような法的背景を持たず︑監査人の職務及び責任について法的規制ほ何等存在しなかった︒
米国では連邦法で株式会社を規制せず︑各州の立法に任せた︒所が各州法ほ∴ 二の例外を除いて会社に会計監
査を要求する規程を持たなかった︒その結果︑監査人が実際に会社の会計書類につき監査した場合でも監査人の芸
任ほ明確でなかった︒従って監査人の投出した報告苔の文句が同じであっても︑実際に行なった監査は︑盛借対照
表監査から椅細監査までの非常に巾の広いものであって︑必ずしも報告書の文句紅よって監査人の責任が明示され
︵2︶ ていないのであった︒監査報告書の提出先についても英国でほ株主総会であったが︑米国でほ取締役或ほ経営者に
よって契約され︑監査報告書も又彼等に向けて提出されたのである︒ ︵一八八︶ 五〇 筍三十三巻 第二賢
れはこのような酢皿査の職能は本来は企業主白身の職能に含まれているのであるが︑会計がより凌錯で大規模に庵ると当然
企業室の手に負えなくなり︑会計の専門家に代って監査させるよう貯なったと考えられ︑監査は元来管琴職能の劇部より
出発したことが看取できる︒
︵16︶ A・C.Litt−etOn−Op・Cit◆■p叫N0000・
尚英国の前世紀末の監査事情ほ拙稿﹁取回における監査役の独立性と限定監沓報告書〜前世紀より今世紀初頭にかけての
英国監査事情〜﹂を参照きれたい︒香川大学経済論叢 第一二十二巻第≒四︑五号所載︒
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コクラン沖二九〇〇年より第一次大戦後頃まで使用された監査報告書は次のようであったとしている︒
﹁我々はABC会社の一九山五年十二月三十一日終了年度の会計帳簿を監査した︒そして我々ほ我々の意見では
︵8︶ 貸借対照表が当該年度末の財政状態を正確に表示し︑且つ損益が正確であることを証明する﹂︒
英国でほ山八四四年の会社法以来株式会社の会計監査の規定が行なわれ︑一八五六年の会社法の附属定款雛形の
八四条にほ監査報告書に表明すべき事項が定められてい.た︒しかし報告書作成の実務では一八九C年当時にほ極め
て簡潔な︑短文のものが作成されることが一般的であった︒それは監査報告書というよりほむしろ証明書と呼ばれ
︵4︶ るような性格のものであり︑その為に監査証明書の呼称が通常であったのである︒︑
しかし英国会社の監査報告書の規程に従った監査報含蓄の雛形ほ⊥八五六年の同法の制定以来会計士の間で考え
られており︑それが英国勅許会計士協会によ.って統仙的見解として公表されたのは時代的にほ少し遅れたが一九〇
八年であった︒それほ次のようなものであった︒
﹁我々は某会社の某年某月の貸借対照表について監査を行なった︒我々は要求した全ての報告及び説明を得た︒
我々の意見にょれは︑我々に与えられた報告及び説明より判断して上記の貸借対照表ほ会社の帳簿によって示され
︵5︶ た通りに会社の財政状態の真実且つ適正な表示を行なうように作成されていると考える﹂
この監査報告書雛形はそれ以前に相当に会計士の間で使用されていたものであり︑たゞ会計士協会の統帥的見解
として出て来るのか遅くなったのであると思われる︒
こゝにあげた英米二つの監査報告書を比較すれば非常に多くの類似点を見ることができる︒先ず第側に両者共に
監査の目的が貸借対照表が会社の財政状態を正確︑真実に表示するように作成されているかどうかを確めることで
あるのが示されている︒次に﹁我々の意見では﹂の文句が用いられているが︑両者共﹁正確︵真実︶な表示﹂とい
︵一八九︶ 五一 米国における監査報告書の発展 H
︵山九〇︶ 五二
第三十三巻 第二号
う表現を使っている︒この表現は貸借対照表の絶対的正確性︑真実性を意味するように聞えるが︑今日の会計学で
は財務諸表の絶対的真実性︑正確性ほありえないものであって︑財務諸表ほ会計事実と慣習と個人的判断の綜合で
あることが理解されてい驚米国の当時の監査報告書がか1る﹁正確﹂という表現を用いたのは︑無反省に英国の
実務を模倣した結果である︒
更に米国の監査報告書が﹁会計帳鰭の監査をし空という文句を用いているのほ︑\英国の監査報告書が﹁上記貸
借対照表は会社の帳簿によって示された通りに・⁚⁝・:﹂という文句を使用した実務の模倣を示すものである︒当時
の英国の会計監査ほいわゆる精細監査といわれるものであり︑会計記録とその背後にある事実或は現物との照合と
いう手続に雷点が置かれるよりも︑それら手続を含むけれども︑記録を主たる監査対象として会計記録と会計記録
とを照合する手続に重点が賢かれるものである︒即ち精細監査では貸借対照表の信頼性を吟味するためにほまず第
一にこれを元帳の勘定と照合する︒次に元帳残高の正否の換討のためにそれを仕訳帳の記入と照合して転記の正否
を調べる帳簿突合の手続がとられる︒更に仕訳帳の記入の正否を調べるために証憑書叛との突合を行なう証憑突合
の手続がとられる︒又その間に帳帝或ほ証患等の合計の正否の検証の為に計算突合・の手続がとられる︒このように
英国の会計監査ほ記録と記録との突合の手続に重点を匿いでいる︒これほ貸借対照表の信頼性を会計帳簿及び証憑
蕃顆の検査により確めることを目的とするからである︒換言すれば会計帳簿の示すところから貸借対照表の信頼性
が判断されるのである︒このような根拠より英国の監査報告書でほ﹁貸借対照表ほ会社の帳簿の示す通りにニ⁝﹂
と述べ︑米国でもその模倣として﹁会社の帳簿を監査した﹂と述べて監査の主な対象が会計帳簿であることを示し
ているのである︒ このように英国会計士が渡米して会計監査を伝えた後の米国の監査報告書ほ英国のそれの模倣の色彩が濃いもの
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であったが︑この監査報告書の背景である経済社会がどのようであったかを問題にせねほならない︒即ち何故英国
会計士が渡米して会計監査を行なったか︑何故米国で︑は英国のように株式会社の監査に法的支持が与えられなかっ
たか︑当時米国の株式会社はどのような状態であったか等の疑問が解かれなければ︑何故英国の監査報告書が米国
でそのまゝ橡倣されていたかを知ることができない︒又その事を明らかにすることにより当時の監査報告書が形式
的なものであったか︑或ほ経済社会で実質的な機能を果していたかを知ることができる︒この事情についてほ一部
既に別稿の﹁米国における生成期の監査報告書について﹂で簡単にふれた所であるが必要なかぎり再説する︒
英国会計士が一八八〇年代頃に渡米した事情に甘いては屡々述べたように英国資本家により彼等が投資せんとす
る米国の会社の収益力及び財産価値を調査するため︑に英国会討士が派遣されたのである︒それは一方においては米
国ほ産業革命後の経済発展期に属していたために蒐大な資本常要があったが︑それに対する国内資本ほ相対的に少
なく︑とても需要を充し切れなかったが︑他方では英国は資本の投下先を国内より国外に拡張しようとしていた時
であり︑米国の会社が英国資本家により投資対象として選ばれたのである︒その場合に投資の安全を確保するため
に米国の会社の収益力と財産価値を調査することが必要となり︑英国会計士滑英国資本家の要請を受けてその任に
当ったのである︒
か1る事情により会計監査が米国に伝えられたが︑その場合英国の会計監査を支持する法律制度も又同時に米国
に移植されたのではない︒米国にほそのような法律制度は設けられなかった︒米国は新しい国であり︑古い国と異
なり因襲的なものを持たない︑活動の自由を尊ぷ糖神的気風を持つ︒更に新興国として経済発展は非常に望む所で
あり︑又英国のように株式会社についてのにがい経験を持たなかったので︑立法者は株式会社の設立及び運営を規
制する道を選ばず︑1むしろ起業熟を促進する傾向にあった︒又米国ほ連邦制をとっているので︑各州ほ競って白州
︵脚九こ 五三 米国における監査報告畜の発展 H
岬〔▼▼「…M叩Ⅵ「 〉 ̄…〉【Wr【 ̄ ̄Ⅵ−
∵
︵一九二︶ 五四 第三十三巻 第二号
での会社の設立を多くするために︑できるだけ会社に有利な立法を行なったので︑会社に対する規制はゆるやかに
なり一︑二州の例外を除いては会計監査を会社に要求する規程を設けなかったのである︒従って当時米国で会計監
査が公共会計士によって行なわれた場合は会社経営者の自発的意志によって公共会計士を契約して会計監査が依鵜
されたのである︒それ放公共会計士より提出された監査報告書をどのように利用しようとも経営者の自由であり︑
都合が悪ければ監査報告書を株主総会に提出しなくともよいのであり︑会計監査としてほ大きな限界をもつもので
あった︒それは株主保護のために会計監査が必要であるとする英国の監査思想ほ導入されたが法律制度により一般
︵6︶ 化されなかったためである︒このように株主保護のための会計監査が前世紀末頃は未だ稀であったのは当時の米国
にこのような監査思想が仙般化する基盤がなかったからである︒
椎主保護の決算監査は出資者から委託された会社財産を会社経営者が適正に保全し︑且つ運営していることを確
保するために第三者たる公共会計士が取締役の茸任である会計帳簿を監査し︑取締役が年度決算書として報告した
財務諸表が正しいものであるか否かを吟味するのである︒従ってそれほ会社の大規模化によって出資と経営とが分
離した状態を前提にしているといえる︒米国でほ南北戦争後に経済が急激な拡張期に入り︑多くの複雑な機械等の
発明によって能率的な生産規模ほ拡大され︑又市場で支配的な地相を占めるために企業ほ大規模化していった︒そ
のために一八八〇年代︑一八九〇年代にほ非常に多くの会社の合併が行なわれ︑その結果大会社を生じた︒これは
大会社資本による中小資本の吸収であり︑多くの個人的資本家企業が排除された︒このことほ叉一八七〇年代頃よ
り周期的に発生しっつあった恐慌によ?て生じた破産会社の処理によっても促進された︒か1る会社の合併或は買
収が行なわれる場合に銀行業者が中へ入り指導的な役割を果していた︒そして合併或は買収の取り極めが適正且つ
合理的であることを関係者に保証するため銀行業者ほ公共会計士を雇傭して当該会社の財産価値および収益力を調
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査させ報告書を作成させたのである︒この場合に出される監査報告書は買収或ほ︑合併の予定された会社の過去の年
度の利益額︑年平均利益額︑その増加或ほ減少の率︑使用資本額及びその他会社の買収及び資本化について参考と
なる諸事項について調査した結果の詳細な長文形式の報告書と尚一般投資家より出資を求也る場合に使用する目論
見書に添付すべき利益についての短文形式の証明苫が提出されるのである︒これらの監査は今自特別監査とせられ
るものであり︑叉証券発行の場合の目論見書につけるための監査報告書は英国の実務の模倣であって︑米国の経済
社会でほ是非共必要な職能ではなかった︒
というのは企業が大規模化するにつれて企巣の資本蕾安ほ巨額化し︑単に同族会社的に少数の出資者の共同によ
って︑或ほ地域的な資本の結集によって資本調速を行なうことが困塵になる︒従って直接に企業の経営に参加しな
いいわゆる遥有的な仙般株主からり蛮本をも広範闘に亘って集めねばならない段階に達する︒このような段階でほ
株主ほ経営に参加していないので︑経営者によって会社の運営が公正に行なわれて︑株主の利益が侵害されていな
いことを碓保する機会を持たない︒そこで株主を代表して監査役が経営者の会社運営を監督するために設けられた
のが英国の場合であった︒これに対して米国の場合︑血八八〇年代︑⁝八九〇年代に相当数の大会社が生じたほずで
あるのに何故に会計監査が英国の場合のように用いられなかったのであろうか︒それほ英国と同様に︑大資本を必要
とし︑.仙般大衆の資本まで動員することが必要であったけれども︑米国の場合ほ英国のように会社が証券市場で資
木を調達できる程凝券市場が整備されていなかったので︑投資銀行が企業の資本調達に介入していた︒会社が証券
発行智行なう時には先ず投資銀行が引受け︑銀行の名声︑信用によって投資家に分散されたのである︒∇二九二〇
年頃までほ資金調達ほ自己資本よりもむしろ銀行よりの借入金によって行なわれ︑相当長期のものまで銀行に依存
していたのである︒
米国にお.ける監査報告書の発展 H ︵〟九三︶ 五五
︵劇九四︶ 五六 第三十三巻 第二骨
このような状態であったので米国でほ証券売出しのために目論見書に監査報告書を添付することも︑株主保護の
ために決算監査をしてその監査報告書を株主総会に提出することも必要ではなかった︒従って当時作成されていた
監査報告書の機能は実質的なものでほなく形式的なものであったと見られる︒そこに英国式な監査報告書がそのま
1用いられていた理由があ︑るのである︒
又大会社の内に今世紀初頭より漸次監査報著書を株主総会に提出するものが現われ始めたが︑これほ大会社の経
営者の会社支配および市場支配の自信の現われであり︑且つ又大会社の影響及び活動の範囲が広く社会的なものに
なったことを反映t︑経営者が自己の責任を社会に表明しようと考えたものである︒例えば二九︿∪一年に設立され
たユー・エス・スチールほ翌年自発的に会計監査を採用し︑株主総会で監査人を選任している︒この時提出された
監査報告書は英国のものの影響の濃いものであっ︑たことほ別稿で︑明らかにしたが︑会封監査が寓発的なものであり
依るぺき規程を持たないので英国の監査報告書庵模倣し空﹂とは当然であった︒更に会社の性格が社会的に重要な
業種の会社が早くより会計監査を採用しているのも︑会社の運営の公正性とか会社の内容の安全性を社会に示すた
めに自発的に採用したのである︒例えば生命保険会社︑或は信託会社等であった︒
要するにこの時期にほ会社の買収戎ほ合併の際の特別監査の外にほ別段米国では会計監査を必要とする経済社会
︵−︶ 状態で推なかった︒唯英国で行なわれていたので粟国でも行なったというたけの模倣もあったのであり︑当時作成
されていた監査報告書ほ英国のそれの模條であった︒又経営者の自発的意志による決算監査が行なわれていたが︑
その効果ほそれだけに限界のあるものであった︒
︵1︶ GeOrge nOCFrane﹀Op.C芦﹀p.3㌧
︵2︶ Hbid.−p.ご.
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四 信用監査の時代
一九二〇年頃まで会社にとって株主へ会計報告を行なうことが必要であるとせられる程には株主が重要視されて
はいなかったし︑従って又会計監査を行なう必要もあまり認められていなかった︒それ故に監査報告書ほ形式的意
義しか持たないで︑英国の監査報告書がそのま1使用されたのである︒それではその当時米国で行なわれた会計宜
ほどういう目的があったのであるか︒﹁これには二つの目的があった︒すなわち内部的には経営管理のためであ
り︑外部的にほ主として銀行との間の信用関係む維持するためであった︒・⁚ふ削者に対しては統計的な詳しい計
︵1︶ 数を示す色々な計辞表が作成され︑後者に対してほ会計士の証明をうけた財務諸表が銀行から要求された﹂ノのであ
る︒
当時の企業会計がこのような目的をもっていたことほ当時の企業の資本調達方法を反映したのに他ならない︒即
ら当時の会社と銀行とは密接な関係をもち︑銀行ほ会社の設立の際の証券発行の引受けをなすことはいうまでもな
︵岬九五︶ 五七 米国紅おける監査報告蛮の発展 H ︵3︶ Hbid;p.ご・ ︵4︶ この点紅ついての詳細な記述は拙稿﹁米国における生成期の監査報告苔について﹂六八頁〜六九貢を参照されたい︒ ︵5︶ LR.Dicksee▼Auditing﹀−宍戸 p●∽N∽・ ︵6︶ Jr D.EdwardsV Op廿 Cit.﹀p・∽∽. ︵7︶ 岩田教授は英国の監査制度が米国に移植されなかったのに三ちの原因があるとされる︒第一は各州が独立の立法権を持っ
ていて統一的な法規の制定が囚雉であったことである︒讐一は監査を強制する必要のない同族会社が多かったことであ
り︑第三は法律家に会計上の技術問題を処理する能力がなかったことである︒岩田厳著﹁会計原則と監査基準﹂二五頁︒
︵岬九六︶ 五八 第三十三巻 第二号
く︑会社が規模を拡張するための資金を融通し︑更に運転資本さえ供給していたし︑更に会社の更生︑或は清算の
場合の全ての段階に立会い指導的な立場にあった︒このような状態であったので︑会社は資金の必要が生じた時は
証券市場へ行くよりも銀行でこれを求める傾向にあったのである︒この状態は一九二〇年代に入るまで続いてい
︵2︶ た︒従って銀行ほ会社にとり非常に密接な利害関係者とし.て現われるととになり︑そこでそのことほ会社の会斜に
反映して来るのほ当然である︒即ち会社が銀行より資金の供給を受ける場合会社の資産内容が健全であり︑充分債
務弁済能力の資力があることを会社の財務諸表により銀行に示す必要があるのである︒
特に短期金融を受けるときこのことほ一層切実な要求として現われる︒米国でほ今世紀初頭より短期金融方法と
して為替手形や商業手形等に代って単名手形が非常に多く用いられるようになったので︑手形作成者の資力を調べ
︵さ︶ て信用を授与すべきか否かを決めるために信用調査が生じてきた︒ここに信用調査に関連して会計監査が利用さ
れ︑信用監査という信用調査日的の会計監査が現われたのである︒ここに英国式の会計監査とほ異なったいわゆる
貸借対照表監査が信用監査の一つの形として現われて来た︒
英国式の会計監査はモイヤーによれば取締役の受託責任の会計報告である財務諸表の検査であり︑監査人の最も
重要な職務は不正の摘発であったが︑不正の摘発な行なうにほ会社の従巣員の記帳した会計帳簿について詳細な照
合を行なうことが必要である︒これがいわゆる精細監査と呼ばれるものであるが︑英国より伝えられた会計監査は
漸次精細監査より試査による監査へと変化して行った︒このような査監事統上の変化が生じたのは当時の米国では
英国におけるような会計監査に対する法的要求がなかったので︑会計監査を会社が採用するか否かは経営者の意志
にか1っていた︒そこで監査に要する費用と監査から得られる利益との比較が常に行なわれ︑できるだけ経費の安
︵5︶ い監査方法が求められた︒そこに試査が生じてきた一つの原因がある︒
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この精細監査より試査による監査への移行は単虹技術的な問題でほなくして︑監査の目的の変化を示す︒米国で
ほ株主のための決算監査が法律によって強制されず︑且つ又それを必要とする経済社会の状態ではなかったので︑
英国より伝えられた会計監査は米国の会社が必要とした目的と結びつき︑信用監査が塵じた︒この監査の観点の変
化により︑単に記帳の正確性を確かめるために或は不正を摘発するために内部証拠である記帳を求めるよりもむし
︵6︶ ろ︑外部証拠である事実を確かめて資産及び負債を吟味するようになった︒ここでは会社の会計記銀の全部の精査
ほ必要ではなく︑会計記録ほ試査に留めても監査の臼的を速成することができるのである︒
この信用監査が必要になったのほ単名手形等の短期金融方法等の流行によっノし会社の債務弁済能力を調査㌻る必
要が生じたからであることは前述した通りである︒銀行は短期金融を与えようとする会社の貸借対照表を債務弁済
能力を判定する資料としたのであるが︑その頃受信者が自己の貸借対周表の資産の過大評価及び負債の過小評価を
していたために銀行が鬼大な損失を蒙ったという事件も多く起ったので︑有力銀行筋ほ受信者側が公共会討士によ
る監査を受けてその監査証明書を添付するのが望ましいと主張した︒その結果山九〇八年米国銀行協会の総会で信
用情敵委員会ほ﹁各会員は手形仲買人より買入れる全ての手形紅公共会計士の監査した財務諸表を添付して提出さ
ハー︶ せるよう努力する﹂ことを主張し︑信用監査ほより広く行なわれることになった︒
この信用調査に使用される監査報告讃は当時監査証明書と呼ばれたものであるが︑銀行は簡潔且つ明確なもの︑
更にその棲準化を望んでいた︒それほこのような監査報告酋が米国経済社会にかなり広く流通し︑且つ実際的に機
能していたためである︒そこで監査報告書の二浩一語に重安な意味が含まれ︑監査人の責任に関するものであるか
ら監査報告書の様式化︑標準化が要求されるのである︒モソトゴメリーほ手形ブローカーが使用する貸借対照表に
添付する監査証明書として次の最も短文のものを示していた︒
米国における監査報告書の発展 H ︵山九七︶ 五九
︵岬九八︶ 六〇 第三十三巻 第二骨
﹁我々は一九一五年十一月三十日に終了する年度の某会社の諸計算書を監査した︒そして上記の貸借対照表及び
損益計算書が会計帳簿と一致し︑我々の意見においては一九仙五年十一月三十Hの会社の財政状態を正確に表示し
︵8︶ ていることを証明する﹂︒
この監査証明書は米国の経済社会の必要に結びつき︑且つ実際に機能していたものであるがそれほ英国の監査報
告書の影響の濃いものである︒例えば上にあげた監査証明書中の﹁上記貸借対照表及び損益計算書が会計帳簿と一
致し︵agreewitFtheb00ks︶﹂という表現ほ前述し′たように英国の会計監査が取締役の受託責任の監査として従
楽員の不正及び誤謬の摘発を目的として会計帳簿を主要な監査対象としてその精査を行ない︑貸借対照表の正確性
を記録と記録との照合によって確かめるものであったのでこのような報告宙の表現がとられたのである︒
しかし信用調査の手段である貸借対照表監査ほこのような﹁記録と記録との照合﹂よりもむしろ﹁記録と事実と
の照合﹂に重点が置かれねばならない︒即ら信用調査においてほ企業の資産︑負債の構成状態より債務弁済能力の
存否を判定するのであって︑貸借対照表監査ほこの資産︑負債の価額の正確性及び実在性に重点を置いて監査する
ものに他ならない︒そこで貸借対照表に記載された資産︑負債の各項目を実在する資産︑負債と突合せてその山致
の有無を吟味するのセある︒∵これは次のモソトゴメリーの貸借対照表監査の叫般原則に現われている︒
︵1︶貸借対照表に記載された所有財産が全て真実に所有されているかどうかを確かめること︒
︵2︶貸借対照表に記載されていない資産︑即ち秘密財産があるかどうかを確かめること︒
︵3︶貸借対照表に記載された負債が実在しているかどうか︑即ち負債の過大表示がないかとうか確かめること︒
︵4︶全ての負債が貸借対照表に記載されているか︑従って負債の過小表示になっていないかを確かめること︒
︵9︶ ︵5︶貸借対他表に記蔵された負債が正当な事由によって発生したものであるかどうかを確かめること︒
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このように貸借対照表上の資産︑負債の項目よ町出発して︑それが現実の資産︑負債と二致するかどうかを調べ るのであり︑現金︑手形等の実査︑棚卸資産の椰卸の立会︑倉膵業者へ保管を依厳してある原初科その他の財産の 雲︑債権債務蛮の相手先への確認等の記録と事実と晶合する手続にょっで外部証拠が求められる︒所がモン▼﹁ ゴメリー・が示し誓うな監査証明書の様式にほこのような現実に告ている監査手続の差異蓋しておらず︑英国
の監査報告讃の様式をそのま1引き継いでいる︒
又監査報告謂近依然として﹁証明する﹂という表現が用いられているが︑表際芸計士が財務諸表の正確性姦 明するのであれば会聾の蓬は過大になるであろうし︑又実際問管して財務諸表の正確性を証明することほ不 可能である︒同じょうに﹁正確年表示する﹂という表管用いられているが︑会計の絶対的正確性ほあり得ないの であり︑慣習に従った処理がなされる場合があり︑又経営者の判断誓って会計処理方法は選択されるのであるの で︑このような表現は誤解を招くものである︒これらほ皆英国の監査報告書の作成実務の惰性的模倣であると考え られる︒ しかし信用監査違全的な機能富つので監査報蓋昆標準化を辿ることとなり︑その最初の試みほ側九叫七年 に行なわれた︒信用監査は経済社会に重大な影響を及ぼすから会計士の監査につい三走の基準が設けられねほな
らない︒そこで貸借対照表監査の標準的手続として﹁貸借対照表監査についての覚書︵amemOran旨mOnba−ance
s訂温a蔓こ空九一七年に連邦商業警墨の要求に基ず是国会計士協会が作成した︒これを警芸が連邦準
備局に提出して﹁貸借対照表作成の公認方法吾prO邑met邑fOrthepreparatiOn︒f ba−ancesFeet state・
ments︶﹂の名称のパンフレットとして出版された︒この二つの名前が示すよう賢のパンフレットは会計士が貸
借対照表監査を行なう場合の標準的手続を示すと同時に︑銀行その他の金融業者が信用調査を行なう場合会社毎に
︵克九︶ 六一 米国における監査報告畜の発展H
︵二〇〇︶ 六二 第三十三巻′第二号
異なる方法で貸借対照表が作成されていれは不便であるので貸借対照表の作成方法の統一化を目的としたものであ
った︒
このパンフレットの内に記載された監査報告書の雛形が標準化の最初の試みである︒それほ次の通りであった︒
﹁私は其会引年度の其会社の諸計算書を監査した︒そして私は上記貸借対照表及び損益計算書が連邦準備局によ
って提案かつ勧告された計画に従って作成され︑かつ私の意見においては会社の財政状態および期間中の営業成績
︵10︶ を表示していることを証明する﹂︒
この監査報告書でほ未だ﹁証明する﹂という表現を使用している点で英国の実務の影響を残している︒しかし当
時の会計監査の目的が信用目的へと変化し︑その手続にも大きな差異を生じているにも拘わらず︑監査報告書の文
言の内にはどのような種類の監査をどの程度行なったのかを明確に示していない︒現代的にいえば監査報告書の範
囲区分が未形成かつ未完成の段階にあったということができる︒しかし意見区分でほ財務諸表に対する公共会討士
の意見の基準が従前のような漠然とした会計士自身のもつ会計理論に照して判定するというのでほなくて︑仙応社
会的に公表された﹁貸借対照表作成の公認方法﹂に照して判断されることが示され︑意見がより明確に表示される
ようになっている︒このようにこQ監査報告書の標準様式は単なる英国式のものの模倣を脱しょうとする傾向を見
せたものである︒しかしこの報告書の様式ほ実際には公共会計士にあまり受け入れられなかったのである︒多くの
監査人のうちあるものはより簡単な短文式の監査報告書を使用し︑叉他のものほ監査人が適用した全ての監査手続
を列挙した長文式のものを採用していた︒この後者の場合は行なわれた監査が果して充分なものであったか︑不充
︵11︶ 分なものであるかが︑読者自身によ㌧て判断されなければならないような不明確なものであった︒
何故にこの監査報告書の標準様式が一般化しなかったかその理由はあまり明確ではないが︑信用監査が特に重要
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であったのは今世紀初頃より﹁九州○年代までであり︑山九二〇年代にはもう他の監査目的の方が重要になりつつ
あったととに関連すると考えられる︒劇九二〇年代になると企巣の資金の調達には整備された証券市場を利用する
ことが可能になり︑銀行の短期信用に依存することが相対的に少なくなったので︑証券投資家保護の会計監査に重
点が置かれる社会経済の状態になって釆ていたのである︒そこで経営者の自由意志で会計監査が採用されるために
信用監査の標準監査報告書が普及するに時間を要している闇にその背景が変ってしまい︑監査の目的および手続が
変化し︑磨準樋式ほ一般化せず軋終ってしまったのである︒一九二九年に﹁財務諸表の検証 ︵くeri叫icatiOn Of
finacia−statement︶﹂が出されたのであるが︑内容打には一九一七年の﹁貸借対照表作成の公認方法﹂のはとんど
全部を受けついだものである︒所が﹁これで貸借対照表監査の決定版が完成を見たわけであるが︑皮肉なことにそ
︵ほ︶ の完成と同時に過去十数年占めて来た王座からの願落がほじまったのである﹂といわれる如くに︑一九二七年当時
紅会計監査の背景が移り変ってしまっていセのである︒
︵1︶ 岩田厳著前掲書 二二頁
︵2︶ T.C.C︒CFraneY OpけCit:pp・00○〜思・
︵3︶ C.A.MOy2r︺ Opl.Cit・■p・∞・
︵4︶ 冒id.p●∽︑
︵5︶ このことを精査より試査への移行の一理由としているのがモイヤーである︒︵C・A・MOyerV名・Cit・■p・↓︶尚久保田博
士は次の三つの理由をあげでおられる︒ 闇経営規模の増大のために会計記録の分急が多く︑時間と経費の点から精査が
不可能になった︒ 必会社の側で内部統制組織が整備されてきたために精査を行なう必要がなくな六た︒ ㈲近代的な刑
務諸表監査の意味が変化したので︑財務諸表の項目の個別的な検討よりも綜合的判断が必要になったことである︒︵久保
︵二〇こ 六三 米国における監査報告番の発展 H
五 限定監査報告書の発展
H
以上述べたように⊥九三〇年代の米国証券取引委員会による法定監査が実施されるまでは米国では会社経営者の
自由意志により採用されたので種々の目的の会計監査が行なわれた︒そして主流である会計監査によって時代区分
が行なわれたが︑実際は或る程度同時並行的であった︒そのために会計監査の結論苔である監査報告書も種々の形
をとった︒例えば不正の摘発の場合ほ私消金額の計算書が報告書であったであろうし︑会社の買収︑合併等の際に
は会社の資産価値︑負債額及び収益力等についての調査結果が報告書に記載きれる︒或は又誤謬の摘発が目的であ
るような場合口頭での助言或は勧告が報嘗ということになるであろう︒更に株主戎ほ銀行のような資本提供者︑信
用供与者のために会計監査が行なわれる場合にほ︑貸借対照表或は損益計算書が会社の財政状態および営業成績を
第三十三巻 第二号田音二郎著﹁近代財務監査﹂七〇頁〜七貝︶
︵6︶ C−A︸MOy2r−Op・Cit・■p・↓・
︵7︶ MOntgOmery.Auditing︸−空茶︶pp・N∽〜NA・
︵8︶−bid●﹀pp・N㌫〜N㌫・
︵9︶ MOntgOmeryu Auditing︸−2N●p・芦
︵10︶ H.Ste邑er︼OpけCit・u p・笥∽・
︵11︶ Hbid■−p・ひ謡.
︵12︶ 岩田厳著前掲書一八東︒ ︵二〇二︶ 六四
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適正に表示するように作成されているか否かの意見の表明が報告書でなされる︒監査報告書が古くは証明書ともい
われることが多かったが︑それが専ら不正の摘発︑或は買収︑合併の場合のように特別監査が行なわれる場合にほ
その名称も或る程度妥当したが︑信用目的︑或は株主保護目的の監査でほ貸借対照表或は損益計算書の信頼性につ
いての意見表明であるので証明書という呼称ほ適当でなく︑漸次監査報告書という呼称が一般化したのである︒
このような財務諸表の信頼性についての意見書の性格を持つ監査報告書にほ今日三つの形がある︒それは無限定
監査報告番︑限定監査報告書および意見表明の差控の三つである︒通常このような場合の監査報告書は経済社会の
人々に広く公表される社会的な性質を持つので簡潔化し︑且つ株式化する必要があるので短文形式の報告書が使用
されている︒この短文式報告書転は前段階として公共会計士が財務諸表について意見を表明するためにどれはど証
拠を集めたかを示す範囲区分とそのような監査の結果として財務諸表がどの程度の信頼性を持っているかについて
の公共会計士の意見を表明する意見区分との二つが含まれねばならない︒そこで充分な監査でなかった場合は範囲
区分で不充分な箇所を限定事項として示さねばならず︑叉財務諸表の或る箇所が会社の財政状態および営業成績を
︵1︶ 適正に表示していない場合にほ意見区分でその部分について限定事項として示さねばならない︒このような限定事
項ほ財務諸表の読者に注意すべき点を指示して財務諸表の判断材料としての価値を充実させる脚方︑監査人の式任
の限界を示す蚤大な役割をもっている︒従ってこのような限定事項が報告書に多く付けられると財務諸表に対する
綜合的な意見表明としてほ無意味であり︑又公共会計士が監査人として引き受ける責任も不明確になるのでそのよ
うな場合にほ意見表明が差し控えられねばならない︒
米国においで会計監査が行なわれるようになった当初よ月報告書における限定或は意見差控が完全に行なわれて
いたのではない︒長い歴史的な経過を辿って公共会計士の努力と社会の要求とが監査理論を押し進めた結果であ
︵二〇三︶ 六五 米国における監査報告番の発展 H
︵二つ四︶ 六六 第三十三巻 第二号
る︒例えば意見差挫の概念ほ叫九三九年の﹁監査手続の拡張﹂として知られる監査手続説明蕃第岬号ほよりその必
要が謎められたが︑実際に監査報告書に意見差控を明記すべきことの社会的認識として米国の会計士協会が監査基
準紅入れたのほ山九五四年のことであった︒このような例によっても示されるように監査報告書の簡単な文吉及ひ
様式の背後にほ長い歴史的経過が隠されている︒同様に限定報告書についてもそれほ非常に長い歴史を持っている
が︑それが何時頃どのようにして行なわれるようになったか明確な解答を与えて小る者ほいない︒
しかし限定報告書は貸借対照表︑損益計算書或はその他の財務諸表の読者がそこから得られる情報む利用するに
も賓大であり︑且つ監査人の責任の表示を行なうにも尊大である仙つの監査報告書の形である︒従って今まで述べ
た監査報告醤の発展をまとめる意味においても︑SECの法定監査以前までの時代を通じての限定監査報告書の発
展の跡を辿ることにしたい︒
日
限定監査報告書の発展を明確に辿ることほ困難であって︑英国会計士が仙八八〇年代に渡米してきた以前に果し
て限定監査報告書の作成の実務があったか否かを実証すべき文献上の手掛りを持たない︒しかし滞二章で説明した
ように加入八〇年頃までの公共会計士の主要な業務内容ほ会社の記帳の代理および会計上の不正︑誤謬の摘発等の
程度の低い兼務に留っていたので︑監査報告蕃が作成されたとしても︑私消金額或ほ訂正金額の計上という性質の
ものであり︑或る財務諸表の信頼性或は正確性についての意見表明をなすものでほなかった︒従って当時の監査報
告書は限定事項が付けられる性質のものではなく︑その必要性がなかったので︑当時ほ未だ限定報告書は作成され
ていなかったと考えられる︒
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次に山八八〇年代頃英国会計士が米国に会計監査を伝えたのであるが︑その当時の英国会計士の間に限定監査報
︵2︶ 告書の作成実務があったであろうか︒一八五六年の英国会社法の附属定款雛形の八四条ほ監査役が株主に対して提
出する監査報告書に取締役の提出した貸借対照表が法規の諸条件に合致し︑会社の状態の兵突かつ正確な表示であ
るかどうかについての意見︑および監査の実施に必要であった情報および説明を取締役から得たかどうかを記載す
べきことを定めていた︒この規程から当然に限定報告書の作成も導きだされる可能性があるが︑実際に現われたの
はずっと後のことであると考えられる︒このことの論証は別の論文で既に行なったので簡単にのぺれば︑二〇世紀
初頭紅かけてほ↓素人監査より会計士監査べ﹂の移行の時代であり︑不充分な監査しか行なわれていない場合が多
かったし︑叉会計士監査の場合でも取締役に対する彼等の独立性はあまり充分なものでなく︑限定報告書のような
取締役の貴任に関係するものはあまり厳密に作成されていなかったのである︒そこで英国会計士が渡米して会計監
査を伝えた際に限定報告書の作成実務は伝えられなかったと考えられる︒
前世紀末より今世紀初頭にかけての会計監査ほ英国の実務の影響の濃厚であった時期である︒此の時代の経済社
会ほ英国のような決算監査を必要とせず︑当時数多く行なわれた会社の合併および買収の際に公共会計士が利用さ
れて監査報告諾が提出された︒合併の場合軋は夫々の会社の収益︑資産価値︑負債および財政状態についての詳細
な報告書が作られ︑又買収の場合にほ過去の利益額︑年平均利益額︑その増加或は減少の率︑使用資本額その他会
社の買収および資本化の基礎になる資料紅ついての詳細な報告書が作られる︒叉どちらの場合でも同時に株式が追
加発行される場合は目論見書に添付される利益についての証明書が短文形式で作成された︒これら監査実務ほ英国
の模倣であり︑監査報告書についても同様であったが︑これら監査報告書では限定報告書ほ問題とされない︒
それでは仙般の会計監査ではどうであっ一たか守カイスクーは一八九六年の書 ﹁会社会計と監査 ︵COrpOrat山On
米国における監査報告書の発展 H ︵二〇五︶ 六七