著者 吉原 功
雑誌名 PRIME = プライム
号 17
ページ 25‑44
発行年 2003‑03
URL http://hdl.handle.net/10723/552
はじめに
「国家の安全保障」 が 「人間の安全保障」 を無 残にも踏みにじるという事例は枚挙にいとまがな いほど歴史的に繰り返されてきた。 この場合 「人 間」 は 「国家」 にとって敵国の成員であることが 普通であるが、 自国の成員である場合も少なくな い。 第二次世界大戦末期の沖縄はまさにその典型 といってよいであろう。 当時の 「沖縄住民の安全 保障」 は、 周知のように、 敵国である 「米国の安 全保障」 の犠牲になると同時に、 「自国の安全保 障」 の犠牲にもなったからである。 沖縄の特異性 は、 戦時における犠牲のこの二重性にあるととも に、 それがその後現在にいたるまで、 形をかえて、
構造はそのままに長期に継続されていることであ る。
個人にとっての 「安全保障」 とは、 本人や家族、
近しい人々が少なくとも戦争やそれに関連する危 険に巻き込まれる蓋然性が無限にゼロに近く、 衣 食住をはじめとする日常生活がごく普通の努力に よって可能となる状態が保障されていること、 と いってよいであろう。 その 「個人の安全保障」 が、
米国と日本という2つの 「国家の安全保障」 によっ て、 戦中も戦後も踏みにじられてきたのが沖縄で ある。
沖縄戦における戦没者数は正確には判明してい ないが20万人余といわれる。 沖縄県援護課の資料 によると県出身者戦没者は12万2千人余でその内
訳は軍人・軍属2万8千人余、 一般住民推定9万4 千人。 男子学徒は軍人に、 女子学徒は軍属に含ま れているから、 いかに県民の、 それも一般住民の 犠牲が多かったかがわかる。 戦後沖縄は、 日本国 家の棄民政策のもとで、 この人的な欠落と、 焦土 と化した県土、 さらに占領軍ついで施政権者とし ての米国軍隊とその軍事基地の存在という 「人間 の安全保障」 にとっては準戦時ともいうべき悪条 件のなかで、 自らその確保に努めねばならなかっ た。
本稿では、 読谷村という沖縄本島中部の一地域 に視点をすえ、 村民の反基地闘争と村づくり運動 を概観するなかで、 沖縄県民が戦後をつうじて展 開してきている 「人間の安全保障」 のための闘い の姿の一端を明らかにしてみたい。 ここで読谷村 をあえて取り上げるのは、 同村が沖縄戦における 米軍の沖縄本島上陸地点であり、 したがって壊滅 的被害を受け、 戦後も米軍基地に苦しめられなが ら、 それと闘いながら平和で文化的な村づくりに 努力してきた典型的な地域だからである。
1 読谷村の概況
読谷村は、 沖縄本島の中部、 東シナ海に面して おり、 南は嘉手納町、 北は恩納村に接している。
普天間基地の移転先として注目を浴びている名護 市は恩納村のさらに北に位置している。 (地図1) 現在の人口は、 3万7千人 (2001年9月末日現
沖縄読谷村、 焦土から平和・文化の村へ
吉 原 功
(国際平和研究所所員)
在、 37 208人。 男18 602人、 女18 606人、 世帯数 11 579) をこえているが、 1972年の復帰時は2万 6千人であった。 この間の人口増が極めて著しく、
しかもそのほとんどが社会増であることは読谷村 の一特徴といえる。 この社会増の持つ意味は後に 触れる。
沖縄の多くの地域と同じように米軍基地の存在 が読谷村民を苦しめその戦後史を大きく規定して きた。 それは以下のような村土 (35 15 2) に 対する米軍基地の占有率の推移ひとつをみても一 目瞭然だろう。 1946年11月20日前後でおよそ95%、
サンフランシスコ講和条約発効時つまり沖縄が日 本 か ら 切 り 離 さ れ 米 軍 施 政 下 に 置 か れ た と き (1952年4月28日) 約80%、 本土復帰時約73%、
そして現在 (2001年9月) 44 6 (15 68 2)。
いまなお村土の半分近くをしめる米軍の基地は具 体的には以下の通りである。 (図2参照)
嘉手納弾薬庫 (空軍) 読谷補助飛行場 (海兵隊) トリイ通信基地 (陸軍) 楚辺通信所 (海軍) 瀬名波通信施設 (空軍)
この中で嘉手納弾薬庫は嘉手納基地と隣接し、
読谷村の他、 恩納村、 石川市、 具志川市、 嘉手納 町、 沖縄市にまたがる広大な (計28 081平方キロ メートル、 読谷村土は11 449平方キロメートル) 弾薬兵器庫である。 極東最大といわれるこの弾薬 庫にはどういう物がどれだけ格納されているのか 判明していない。 「米空軍が管理し、 四軍全部の 任務を支援しており、 主要部隊は第18航空団18兵 站群の第18弾薬中隊で、 太平洋地域に展開する米 軍が使用する通常弾薬の貯蔵、 整備を行っている」
( 沖縄の米軍基地 (平成10年3月判) 沖縄県総 務部知事公室基地対策室) とされるが、 多くの読 谷村民は、 ここに核兵器があるのではないかと、
疑っている。 那覇から沖縄本島を北上する幹線道 路58号線は読谷村を東西に分けながら恩納村、 名
護市に向かうが、 その東側部分が弾薬庫で、 鬱蒼 とした森林状態なので軍事基地ではないかのよう に見える。
上記のように読谷村は去る沖縄戦における米軍 の沖縄本島上陸地点であったが、 米軍がここを選 んだ理由の1つに 「北飛行場」 という陸軍の飛行 場があったことがあげられる。 北飛行場は、 南太 平洋における相次ぐ敗退という戦局に追い立てら れた日本陸軍が昭和18年夏、 南西諸島に多数の飛 行 場 建 設 を 計 画 し た も の の 一 つ で 、 農 民 か ら
「360町歩」 の土地を取り上げ、 子供や女性も含め 沖縄各地の人々を緊急徴用 (1日約7千人といわ れる) して急遽造成したものである。 ( 読谷村史 第5巻 資料編4、 戦時記録 上巻 2002年、 55 58頁) 昭和18年夏に着工、 翌年の10月10日空襲で 壊滅的打撃を受け未完成に終わっている。
昭和20年4月1日、 読谷海岸から上陸した米軍 は直ちにここを占拠しさらにもう一つの急造飛行 場、 「中飛行場」 に進攻する。 両飛行場は米軍の 日本本土空襲の重要な基地となり、 戦後は、 後者 が嘉手納基地、 前者は読谷補助飛行場としてこれ また米軍にとって重要な機能を果たすことになる。
米軍の上陸地点であった読谷村は、 一夜にして 文字どおり焦土と化した。 住民の4人に1人を失 う。 新たに整備される米軍基地も村作りの大きな 障害となる。 そのなかで読谷村民は戦後の生活の 再建と村づくりをはじめる。 とりわけ復帰後の山 内徳信村政下で、 ユニークで粘り強い反基地平和 運動と地域つくりを展開、 基地を返還させ、 住民 の居住空間を確保し、 生活空間を整備するととも に、 伝統文化の復活や新たな創造に力を入れる。
とりわけ基地の中に米軍との共用という形で運動 公園や、 野球場、 そしてついには村役場、 文化セ ンターまでも次々と建設することに成功し、 注目 を集めるようになる。
読谷村の戦後史は人間の安全保障を、 基地と闘 争し共同体を再構築することによって自ら確立し
地図1. 読谷村の位置
出典:読谷村村政要覧 年度版 頁 地図2. 村内の米軍基地と返還された軍用地
出典:平和の炎
てきた歴史だったといってもよいであろう。 以下 その概要を追うことにしたい。
2 ゼロからの出発
「沖縄戦が終了したとき、 ことに激戦地たる、
沖縄島の、 中南部は一木一草もとどめぬほど、 赤 茶けた地肌を表していた。 そしてかろうじて死を まぬかれた人々は、 極度の緊張と、 栄養失調と不 自然な壕生活のために、 生きた人間の姿とは思え ないほどだった。」 (沖縄タイムス社編、 鉄の暴 風 、 1950年、 2 3頁)
米軍に保護された沖縄住民は米軍が応急に設営 した仮キャンプに収容されたあと、 16の収容地区 に、 日本の軍人・軍属と分けて収容された。 収容 地区から元の居住地への帰還は、 米軍政府の 「各 市町村の元居住地区への移動計画案」 (1945年10 月23日付) にもとづき、 同年10月29日からはじま るが、 読谷村民の帰還はかなり遅れることになる。
米軍に無血上陸された読谷は全村が占領下とな り、 上記の北飛行場は修復使用されると同時に残 波岬には本土攻撃のためにボーローポイント飛行 場もつくられ、 米軍の拠点となるからである。 村 民の多くは国頭 (クニガミ) の山中を逃げ惑い、
戦死するもの、 病死するもの、 餓死するものなど 戦争犠牲者は合計3千7百名余を数えた。
チビチリガマの悲劇は読谷のいや沖縄全体の犠 牲の姿を象徴する。 この自然壕には約140名の波 平地区住民が避難していたがそのうち83名が 「集 団自決」 で犠牲になっているのである。 犠牲者の 約6割が18歳未満の子どもたちであることがこの 地獄絵図の様子を浮かび上がらせている。 成人男 性はほぼ全員徴兵・徴用されていたから、 母が子 を、 老父・老母を、 という図がここでも繰り広げ られたからである。 皇民化教育が徹底して行われ、
「死して虜囚の辱めを受けず」 という軍人勅諭の
「教え」 も一般住民に浸透していたことが背景に あったことはいうまでもない。 それにこの壕には
中国戦線を経験した在郷軍人がいた。 日本軍が中 国人を虐殺したのと同じように米軍も自分たちを、
と思い込み、 その恐怖が壕内に広がったといわれ る。 村内の 「集団自決」 はこの他、 楚辺、 伊良皆、
長田などの部落でも起こっており判明しただけで 130人が犠牲になっているという (2001年1月現 在、 読谷村史編集室調べ)。 一方、 チビチリガマ と同じ波平地区の住民1000人余が避難していたシ ムクガマにはハワイ帰りの人が2名いて、 壕内で 米軍への投降を必死に訴えほぼ全員が命を取り留 めるという対照的な出来事もあった。
かろうじて生き延びた村民も上記のように戦後 すぐには村に戻れない。 石川や漢那 (カンナ) な どの米軍収容所に収容された人が多いが、 山原 (ヤンバル) の森に隠れていた村民もいる。 少数 ながら村内の自然壕 (ガマ) に隠れとおした人も いた。 海岸に面した壕に隠れ住んでいた人の話に よると海から流れ着いた死体の山が自分たちの身 を守ってくれたという。
1946年4月、 米軍海軍軍政府により知花英康が 読谷村長に任命され、 コザに仮役場が設定される。
各地の収容所にいる村民と連絡をとり、 民政府 (米軍政府により46年4月設立された沖縄中央政 府) に郷里への居住許可を要請することから読谷 の戦後復興の歩みがはじまる。 要請を繰り返して 同年8月、 やっと村内の一部 (波平、 高志保両地 区の一部) に居住許可がおり、 村建設隊を600人 余で編成、 戦禍に荒廃した郷土の再建にとりかか る。
建設隊が戻ってみると 「読谷山は見渡す限り米 軍施設で、 木は切り倒され、 石垣や垣根は破壊さ れ、 すすきや雑草が伸び放題にはびこり、 マングー スが徘徊し、 山羊や牛馬の遺骨などもあって全く 廃墟と化していた」 ( 平和の炎 10、 1998、
35頁) という状態であった。 野生の甘藷や野菜を 食料とし、 廃屋、 廃材、 米軍提供資材などを利用 して住宅建設をはじめるが、 それも 「住民移動中
止命令」 がでて収容所に戻り、 「命令解除」 をまっ て帰村しては作業を再開するという状況で進めら れた。 同年11月20日、 第1次村民移住がはじまり 12月12日の完了までに約5000人が帰村。 この時点 での居住地面積は村土のわずか5%、 当然数家族 が一家屋に住むという雑居生活を余儀なくされる。
本当の意味の郷里 (部落=字。 その数は当時22) に帰れた人はわずかであった。 (現在なお多数の 家族が帰れないままである)。
これ以後1947年11月まで5次にわたって村民移 住があり、 帰村はほぼ完了。 1万4千余の村民が 村内で生活することになる。 この間に居住許可に なった地域は、 上の二つに加え、 楚辺、 大木、 瀬 名波、 渡慶次、 儀間などの一部で、 その狭い空間 に役場を建て、 初等学校、 中等学校を設立して教 育を再会し、 青年会や少年自治会なども組織して いく。 農耕、 畜産、 漁業もわずかながら再開され はじめる。 が、 荒廃した土地、 物資も無いなかで、
これらの生産活動が十分にできるはずはなく、 多 くの人が米軍作業に携わるようになる。 基地経済 化のはじまりである。
3 米軍施政権下の無権利状態
1952年4月28日、 サンフランシスコ講和条約が 発効、 この条約で日本政府は沖縄を米軍に差し出 し統治権を放棄する。 「第二の琉球処分」 「棄民政 策」 である。 米軍の施政権下、 アメリカ民主主義 の一部 (25歳以上の男女平等の選挙権、 被選挙権 など) が与えられるが、 基本的には異民族支配で ほとんど無権利状態に置かれることになった。
戦前の沖縄は全体が農業地域であったが、 読谷 山 (ユンタンザ、 戦前の村名) も典型的な農村地 帯であった。 戦争をはさんでそれがどのように変 化を示したかを少し見ておこう。
下の表は沖縄タイムス社編 沖縄年鑑 1959年 版の数字を読谷中心に組み直したものである。
1938年から1954年の間に沖縄県全体の耕地面積 は42万1千515反から25万2千544反へと約4割減 り、 農家戸数は7万3千前後で横ばい、 平均5 8 反であった一戸当たりの耕地は3 5反に減ってい る。 米軍は1953年4月に 「土地収用令」 (米国民 政府布令109号) を発動し、 軍用地を強制接収し たが54年の数字はそれも反映しており、 沖縄全体 の農業が壊滅的状況に陥れられたことをこの数字 は表している。
読谷村の場合、 状況は一層深刻で耕地の7割を 失い、 一戸当たりの耕地面積は実に1 9反にまで に落ちている。 (北谷嘉手納村ではさらに深刻で 耕地面積は戦前の1割しかなく一戸当たり0 9反 という状況であった。) 農家戸数が微増している のは何とかして食料を確保しようという努力の表 れとみることができるが、 荒れ果てた耕地で生計 を立てるのは至難の業であった。 多くの農業者も 兼業をやむなくされる。
1945年の沖縄占領後、 米軍は4万余エーカーの 土地を接収し、 そのうちの44%が農地であり、 そ の結果およそ5万人の地主 (自作農家) が土地を 失ったといわれる。 与那国暹はその著 戦後沖縄 の社会変動と近代化 (沖縄タイムス社、 2001年) でこの点を想起しつつ (71 72頁)、 それは 「イギ
昭和 年 ( 年) 年
耕地 (反) 農家 (戸) 一戸当 (反) 耕地 (反) 農家 (戸) 一戸当 (反) 沖 縄
中 部 読谷村
リスにおける本源的蓄積期に、 エンクロージャー によって農民が土地を追われ、 無産の賃労働者に 転化していく過程に酷似する一面をもっていた」
(70頁) と指摘する。 が、 与那国が強調するよう に兼業農業者や賃労働者化した農民の向かう先に 生産工場があるわけではなく、 就業先は軍作業お よび基地関連の建設・サービス業しかない状態で あった。 沖縄の基地経済化=いびつな近代化がこ うして本格的にはじまる。 もっとも軍関係だけで 就業希望者すべてを吸収できるわけはなく、 琉球 政府は八重山開拓、 海外移住をすすめ、 52年から 55年にかけ読谷村からもかなりの村民が石垣やボ リビアに入植している。
次に村内の米軍基地関係の基本的動向をおさえ ておこう。 1951年5月17日、 楚辺区住民は米国民 政府に 「楚辺トリイステーション」 (地図2の⑦) 建設のための立ち退きを口頭で命じられる。 1947 年4月ようやくにして元の居住地域に帰ることが 出来、 それから3年余。 「(焼土と化した) 荒廃地 も開墾され、 農業収入も増え、 教育や文化面も向 上しつつあった。 青年会でも倶楽部を建築して活 発な運営をはかろうとしていた、 その矢先」 ( 楚 辺誌・民俗編 1999年、 101頁) であった。 昼夜 の別なく住民集会がもたれ、 「祖先伝来の土地を 去ることは人間の最大の不幸を招く」 ということ で、 立ち退きを拒否、 文書や口頭で何回も陳情を つづけた (同上) が効果なく、 同年12月米軍は工 事に着工、 やむなく移動条件 (①移動費として一 戸当たり1万円=83ドルの前払い、 ②輸送は米軍 が斡旋、 ③移住地に水道敷設、 ④米軍が使用しな い土地の耕作黙認) を受容、 翌52年1月、 隣接の 土地に移動した (同上102頁)。 移動に当たって字 楚辺は6万坪の耕地を買い一戸に100坪を配分、
抽選で各戸の宅地が決まったという。 また他字民 からの協力もえて共同作業で整地や道路敷設が行 われた。
翌53年1月、 楚辺戦略通信所建設のためとして
今度は渡具知部落が立ち退き命令を受ける。 同部 落の場合は51年5月28日に米軍からの旧部落居住 許可がやっとおり、 6年ぶりに故郷に帰ることが でき、 翌52年年9月21日、 移動完了祝賀会をもっ たばかりであった。 戸主会を開き抵抗姿勢を示す が 「土地収用令」 の発動を言明され、 米軍の用意 した比謝西原への借地移住を余儀なくされた。
(地図2の⑦). 渡具知の場合も54年11月、 黙認耕 作地の許可を米軍からえている。
1953年8月18日、 「楚辺トリイステーション」
と 「楚辺戦略通信所」 が統合され 「トリイ通信施 設」 となる。 324 強という広大な軍事基地の誕 生であった (現在は部分的に変換されて198 )。
名称の 「トリイ」 は日本の神社の鳥居のことであ る。 基地の正面ゲートに巨大な鳥居を建造し、 そ の鳥居の上部真ん中に富士山の絵を掲げた。 米国 が日本を完全に支配したぞ、 という意思表示だっ たという。
トリイ通信基地は、 西太平洋地域における戦略 通信網の最重要施設で、 現在は在沖米陸軍の上級 司令部になっている。 また特殊部隊グリーンベレー が配備され合衆国陸軍宇宙部隊の分遣隊もここに 形成され、 防衛用通信衛星を24時間調整、 運用、
管制しているという。 ( 沖縄の米軍基地 平成 10年3月、 沖縄県基地対策室)
米軍の上陸地点選択の一要因ともなった 「北飛 行場」 の動向も重要だ。 「北飛行場」 は嘉手納飛 行場の補助という意味で 「読谷補助飛行場」 と呼 ばれるようになるが、 朝鮮戦争のころからパラシュー ト降下訓練場として使用されるようになる。 パラ シュート降下訓練といっても落下してくるのは兵 士とは限らない。 トレーラーや、 燃料タンク、 何 トンものコンクリート塊などが空から落とされる。
当然事件事故は絶えず、 年表1にあるように、
1950年8月2日には、 米軍ジェット機の補助燃料 タンクが喜名地区の民家に落下、 当時3歳の知念 洋子ちゃんが片足を切断され全身に打撲をうけて
死亡するという悲惨な事故をおこす。 また1965年 6月11日には、 座喜味地区の民家の庭先にトレー ラーが落下、 母親に急を告げようと懸命に走って 学校から帰ってきた棚橋隆子 (当時小学5年生) ちゃんを直撃して圧殺する。 年表1に見られるよ うにパラシュート降下演習による事件事故は後を たたず、 復帰後の村民の闘いの中心課題の一つに なる。
この飛行場は台地状の高台にあり、 長さ2000 、 幅42 の滑走路、 1500 のエプロンを擁し、 読谷 村のほぼ中央に位置していて、 長い間村づくりの 障害になってきた。 補助飛行場と隣接して楚辺通 信所、 いわゆる 「象の檻」 も1945年4月に作られ ている。
米軍は読谷に上陸直後 「北飛行場」 を直ちに修 復使用すると同時に4月末にはもう一つ北部海岸 線にそって、 日本本土侵攻の前進基地としてボー ロー・ポイント飛行場、 射撃場を建設する。 戦後 は戦車や戦闘機の砲撃・銃撃演習に使われたが、
53年には拡張工事が行われる。 これに対し関連部 落 (渡慶次、 波平、 儀間、 長浜、 座喜味、 瀬名波、
宇座) と村役場が拡張中止の運動を展開している が、 米軍は意に介せず基地機能の強化を進めた。
1957年には瀬名波地域に米国務省所管の情報機関
「 (海外情報局)」 を設置、 アジア各国 (共 産国) の報道・通信を克明に傍受・分析したとい われる。 その後も57年にナイキ、 メースなどのミ サイル発射・誘導基地、 59年にはナイキ・ハーキュ リーズ基地が建設され、 航空自衛隊の実射訓練や 研修などにも使われた ( 平和の炎 10 84 頁)。 こうした基地の拡張、 強化にはそのたびに 反対運動が組まれるがやがて、 それは全沖縄の運 動、 反基地祖国復帰運動の一環になっていく。
1952年、 朝鮮戦争が激しさを増していくなかで 米軍は、 軍用地に関する布令第91号を公布、 新た に軍用地を拡大する。 ところが契約期間20年、 使 用料坪1円8銭との内容に県民は拒否反応をしめ
す。 そこで米軍は翌年4月布令第109号 「土地収 用令」 を公布、 「銃剣とブルドーザー」 による軍 用地の強制収用が全県的に強行される。 上記の渡 具知の例はその一環であった。 こうした米軍の理 不尽な振る舞いにたいして県民は 「島ぐるみ闘争」
を展開、 やがて本土復帰運動につらなることにな る。 平和憲法下の日本、 基地のない沖縄をもとめ、
運動はあらゆる地域、 あらゆる年齢層、 職業で展 開され、 読谷の反基地運動もそれに連動した。
4 本土復帰、 山内徳信村政の成立
1972年5月15日、 本土復帰が実現する。 しかし ながら県民の悲願であった、 平和憲法下における 核も基地もない平和な島は実現しない。 軍用地に ついていえば日本政府は復帰直前に 「沖縄におけ る公用地等の暫定使用に関する法律」 を強行採決、
未契約 (契約拒否) 軍用地を5年間強制使用する 暴挙にでる。 その5年が過ぎると 「地籍明確化法」
(77年5月施行) で強制使用をつづけ、 さらに82 年5月15日以降は 「米軍用地特別措置法」 による 強権発動を繰り返し強制使用の永続化をはかる。
こうして復帰後、 日本本土の米軍基地はつぎつ ぎと縮小されるのに、 沖縄の米軍基地は逆に強化 されるという事態がおこる。 日本全体の面積の 0 6%を占めるにすぎない沖縄県に、 米軍の専用 施設の75%が集中するという状態がつくられる。
加えて自衛隊が新たにやってきて平和の島、 沖縄 の夢は遠のく。
こういう状況のなかで読谷村に新たな住民運動 が起こる。 いわば、 本土復帰でかなえられなかっ た 「人間の安全保障」 を自らの手で、 自らの土地 に実現しようとする運動である。 その運動が、 若 い高校教師であった山内徳信さんを村長候補とし、
1974年7月21日無投票当選を勝ち取る。 運動の中 では日本国憲法を一生懸命学習したということで ある。 その学習や議論の中で、 憲法9条と99条 (公務員の憲法尊重擁護義務) が村是になる。 上
記したように村役場は戦後米軍が居住許可した狭 い地域の一角にあったが、 その門の脇に憲法のこ の二つの条文が役場職員組合によって大きく掲げ られるようになる。 ベニア板4枚ぐらいを連ね白 ペンキ地に黒で大書された憲法の条文の前を、 小 学生や中学生が登校・下校するという風景が村の 動きと非常にぴったりとする状況になるのである。
山内村政は 「主人公は住民」 をモットーに、
「人間性豊かな環境・文化村」、 「平和と自治の郷」
創りをめざす。 そのためにも必要だったのが軍事 演習を止めさせる運動、 基地を返還させる運動で あった。 返還させた軍用地を計画的に整備・利用 していくことにも熱を入れた。 例えば歴史民俗資 料館も、 やちむん (焼き物) の里も返還地につく られる。 80年代から90年代にかけては、 運動公園 とか、 野球場とかを作る。 その運動公園で、 読谷 まつりを実施する。 このまつりは村内23の部落 (字) の諸活動とりわけ芸能・芸術活動の年毎の 集大成という意味をもち、 これが飛躍的に発展す ることによって村内がより活性化するという循環 をつくりあげる。 そうした延長線上に、 基地の中、
読谷補助飛行場の中に、 村役場 (97年4月) と文 化センター (98年4月) が建設されることになる。
5 軍事演習阻止・基地返還闘争の展開
闘争は多種多様であり詳しく報告する余裕がな いので、 読谷村役場が作成した年表を参照しなが ら概要をみていくことにしよう。
まず 「不発弾処理場撤去の運動」 (年表2) が 1970年代に展開される。 座喜味地区の嘉手納弾薬 庫に不発弾集積所・処理場があった (地図2の③)。
1970年5月頃から処理がはじまり年表にあるよう に事故が多発する。 とりわけ73年11月の 「毒ガス 事故」 では読谷補助飛行場を乗り越えてトリイ基 地の東側にある読谷高校まで達するという広範囲 の被害をうけ 「抗議村民大会」 が開かれる。 山内 村政になってから運動はより組織的計画的になり、
処理作業予定日の早朝、 処理場入り口に村民200 人が座り込み、 作業阻止に成功する。 この勝利が
「読谷村民による米軍基地との闘いの原点」 と 1996年の広報 「よみたん」 442 は書いている。
米軍は処理場の閉鎖をきめこの地区は78年に返還 される。 読谷村はここに 「やちむんの里」 をつく り 「文化村」 の一拠点ができることになった。 現 在読谷村には 「やちむんの里」 を中心に41の窯元 があり、 沖縄陶芸の中心地のひとつになっている。
70年代後半には 「アンテナ基地建設反対闘争」
も展開される (年表3)。 これは読谷補助飛行場 の中に米海軍の 3 対潜哨戒機からの受信用アン テナを新たに建設する計画を阻止したもので、 関 係機関への中止要請を繰り返すほか、 役場、 議会、
飛行場所有権回復地主会で 「読谷村地域共闘会議」
を結成、 さらにそれを支援する組織として青年会 など各種団体による 「支援共闘会議」 も作られ二 重、 三重の運動の輪を組み、 工事阻止座り込み闘 争や工事中止要請行動を展開。 山内村長は 「道理 を尽くして訴えても、 村民の声を圧殺するのが米 軍や日本政府の立場ならば」 と米大統領ジミー・
カーターに 「直訴状」 をだす、 という思い切った 方法もとった。
トリイ通信基地関係でもいくつもの闘争・運動 が展開されている。 楚辺の海岸は基地から未処理 の水が沖合のマンホールに垂れ流されて長年汚染 されていたが、 そのマンホールが1980年5月ころ 決壊、 浜辺は汚物にあふれ悪臭をはなつようになっ た。 村長と区民が共同して那覇防衛施設局と交渉 してこれを解決、 ユーバンタと呼ばれる美しい浜 辺を取戻し、 ここで 「楚辺まつり」 が開かれるよ うになる。
1982年には、 「楚辺兼久ビーチ」 拡張問題が起 こる (年表4)。 米軍専用保養ビーチ建設 (5万 坪) のため黙認耕作地からの立ち退きを通告して きたのだ。 楚辺住民は総ぐるみで反対闘争を展開、
村長、 議長、 村議会もそれに呼応する。
1984年3月、 トリイ基地へのグリーンベレー配 備が発表されるや村民全体の闘いとなる。 村民ぐ るみの抵抗で、 米軍は当初計画の5分の1に規模 を縮小してビーチの利用は村民と共用にすると譲 歩し村民もこれを受ける。
悪魔の部隊グリーンベレー配備については村民 決起大会や県民決起大会をひらき基地強化に反対 しつづけるが、 隠密裏に配備が強行されてしまう (84年9月28日米軍発表)。
トリイ・ステーション内の黙認耕作地について は 「通信ターミナル建設」 (86年)、 「駐車場・倉 庫」 建設 (88年) でも立ち退き通告があり、 基地 機能は強化され続けた。 村長、 議会はこうした事 態に対し住民の抗議行動の先頭に立つと同時に在 日米軍司令部、 駐日米大使館、 日本政府、 関係省 庁にたいし執拗な要請活動を展開する。
「読谷補助飛行場における米軍パラシュート演 習による事件・事故」 (年表1) をみると読谷村 民がいかに基地被害と隣り合わせに生活せざるを えなかったかがよく分かる。 65年の隆子ちゃん圧 殺事件の際、 米軍は 「万全な事故防止策を講じ、
(これ以上) 村民に迷惑をかけない」 と約束する が、 それはすぐに反古にされ演習は続行される。
79年11月、 夜間の降下訓練実施の情報をえた村 では 「米軍落下傘降下演習中止及び並びに演習場 の即時撤去要求実行委員会」 を青年会、 婦人会、
老人会、 農協、 漁協、 商工会、 職組など16団体で 結成、 1000名規模の村民大会を開き、 「暁の演習 阻止実力闘争」 を組むなど本格的な闘争を展開、
日米合同委員会に付託させることに成功する。 村 ぐるみの闘いが功を奏して外交ルートに乗ったこ とから実行委員会は戦術を 「実力阻止」 から 「監 視体制」 に変える。 それをいいことに米軍は演習 を再開。 住民側は大凧を空中高くとばして夜間演 習を阻止するなど硬軟両用の撤去闘争を展開して いく。
グリーンベレーが配備されて以来、 補助飛行場
でのパラシュート降下演習はもっぱらこの 「悪魔 の部隊」 によるものとなり、 回数も降下ミスも多 くなった。 ヘリコプターによる 「宙吊り訓練」 や
「物資輸送訓練」 など演習のたびごとに村民の生 命・財産が危険な状態におかれることになる。 そ れらに機敏に対応しながら村では 「外交ルート」
を念頭におきつつ関係各機関との折衝をつづけ、
返還後の転用計画を練り 「読谷飛行場転用基本計 画」 を策定する (87年) (年表6)。 それと併行し て村民は撤去運動を粘り強く展開していった。
1986年から91年にかけては 「滑走路修復訓練、
鋭い剣 」 と呼ばれる演習にたいしても激しい 反対運動が展開された (年表5)。 これは、 敵の 攻撃で滑走路が破壊されたことを想定して緊急に 補修する海兵隊の訓練で、 1万平方メートル (約 3千坪) の黙認耕作地を壊して実施、 という通告 (86年10月) であった。 村長、 議会の那覇防衛施 設庁に対する中止要請が拒否されたのを受けて議 会、 村職労、 区長 (字長) 会、 婦人会、 老人会、
所有権回復地主会など村内15団体からなる実行委 員が結成され、 現場に監視テント小屋が作られ24 時間泊り込み体制がしかれる。 村民の抗議のなか 海兵隊が県警機動隊に守られて演習が行われる。
2年後の88年には再び 「滑走路修復訓練」 の通 告がくる。 しかも週1回年25−30回の予定で、 後 からは 「爆発物処理隊」 がマスクや化学防護服を 身に着け核戦争、 生物・化学戦争を想定した訓練 も加わった。 滑走路に座り込んで演習中止を訴え る村民にたいし米軍、 機動隊が強制排除 (ゴボウ 抜き) する事態にもなる。 それに抗議して滑走路 で開かれた村民大会には3000人が結集 「演習の即 時中止と読谷飛行場用地の返還」 を求め、 この年 の演習を7回で終わらせることに成功する。
91年にも同じ訓練の通告がくるが、 村民400人 のピケで米軍は演習を断念する。 パラシュート降 下演習に対する機敏で粘り強い抗議反対運動、
「滑走路修復訓練」 阻止運動等々は、 村の中心で
ある飛行場を返還させて 「村民センター」 をつく るという夢の実現のための闘いでもあった。 その 意味でも滑走路修復訓練の阻止に最終的には成功 したことの意味は大きかった。 94年3月12日、 米 国防次官の口から読谷飛行場の 「早期返還」 発言 がとびだし、 翌95年6月29日、 日米合同委員会が
「共同使用」 ということで飛行場敷地内に読谷村 庁舎建設を合意するのである。
さてこの項の終わりに、 普天間基地移設に関係 した大運動があったことも想起しておこう。 現在、
移設先は名護の辺野古地区に絞られているが、 当 初 (96年春) の有力候補地には嘉手納弾薬庫内の 読谷と恩納村にまたがる地域があがっていて沖縄 紙にも大きく取り上げられていた。
これに対する読谷村の反応はすばやく、 恩納村・
嘉手納町とも連携をとり議会で反対を決議して県 知事と県会議長に申し入れる一方、 村民総決起大 会開催を決定。 96年5月20日に開かれた大会は村 内各種団体を網羅した30団体が実行委員会を構成 し、 村民5000人が参加した。 村教育長、 老人会副 会長、 婦人会副会長、 村青年協議会事務局長、
連合会会長、 区長会会長、 高校生代表などが つぎつぎと 「米軍基地たらい回し」 を糾弾し 「基 地のない平和な村つくり」 を訴える。 この大会の 様子も沖縄紙に、 大きくとりあげられ沖縄全体の 運動を励ます。 村長はこの村民決起大会の決議文 をもって米総領事 (浦添)、 外務省、 各政党 (東 京) などを訪れ計画撤回を強く要請した。
この撤回運動でさらに注目すべきなのは読谷村 広報 「よみたん」 が 「新たな米軍基地 飛行場 の建設を認めない、 それが平和を求める読谷村民 の心だ、 村民の闘いを勝利するため過去を学ぶ」
と題して63頁にわたる特集を組んでいることだ。
読谷補助飛行場のなかに役場庁舎がつくれても、
新たな米軍基地がつくられるのでは何にもならな い、 という思いがそこに込められている。
6 運動の特徴
読谷村における軍事演習反対、 反基地闘争を概 観してきたが、 日本国民の安全が日常的具体的に 脅かされているのに、 日本国政府およびその諸機 関はその安全を保障する方策をとらないばかりか、
自ら自分たちの安全を確保しようとする住民や自 治体の前に立ちはだかり、 米国の基地機能の維持、
強化に肩入れする姿がここに浮かび上がっている。
これに対する読谷村の運動の第一の特徴は、 グラ ムシの 「ヘゲモニー」 概念に関連させていえば、
日本国政府、 米軍、 米国政府の何れに対しても、
思想的なヘゲモニーをにぎっていたということで ある。 思想的な武器は具体的には日本国憲法とア メリカン・デモクラシーであるといってよい。 前 者についてはすでに多少触れたが、 平和主義、 主 権在民、 基本的人権の尊重、 地方自治などの日本 国憲法の基本概念が読谷村民の運動を常にささえ ていたように思う。 後者はたとえばアメリカ合衆 国独立宣言の 「すべて人は生まれながらにして平 等で生命、 自由、 幸福になる権利を有する」 など が運動する人々の武器になった。 基地の現実を前 にしたとき、 この二つの思想的武器は読谷側の優 位性を常に示すのである。
運動は、 村長を先頭に役場執行部、 職員が村民 と一体となって行動し、 村外の団体・個人はあく まで協力者という姿勢を貫いている点も特筆され る。 激しい闘争を展開しながら 「非暴力」 を貫け たのもこれと無関係ではない。 村内のあらゆる団 体を問題に応じて網羅し、 子どもから高齢者まで 皆が 「自分の闘い」 として参加しえているのもこ の姿勢が堅持されたからだといえよう。
交渉の相手として現場を重視すると同時に関係 ある機関 (現地指揮官、 沖縄四軍司令、 那覇防衛 施設局、 横須賀米軍司令部、 日本政府、 米大使館、
日本政府、 米大統領等など) すべてに広げている ということも注目してよい。 そうした相手に対し ては上述の思想、 実は相手が最も忠実な体現者で
なければならない思想をぶつけると同時に、 読谷 の香り高い、 土俗的ともいえる文化に直接触れて もらう努力もしている。
焼き物=陶器とおなじように、 伝統織物 「花織=
はなうい」 の復活再生は村ぐるみの取り組みであ り、 また各部落=字は公民館活動としてそれぞれ 独自の古典芸能を復活させ継承運動も展開してき た。 それらを総出演させて成り立つような村民劇 も作られている、 すでに述べたように 「読谷まつ り」 はこれら村民の日常的文化活動の年毎の集大 成という様相を呈する。 激しい闘争と同時にこの ような形で展開され村民全体の文化村づくりが、
闘争にとっても大きな武器になったわけである。
「このような文化を、 人間的な営みを、 踏みに じらないでほしい」 「返還されたらこれがもっと 発展するのです」 といわれたときの軍司令官たち はどのような思いを抱いたであろうか。 跡地利用 計画には、 村民の経済生活、 スポーツ、 福祉、 そ して文化活動などが総合的に盛り込まれている。
運動を下から支える 「地域力」 についても指摘 しておかなければならない。 苦難に満ちた戦後復 興=共同体の再生の中で読谷村民は、 独特で濃密 な人間関係を築きあげてきた。 23ある字は行政区、
住所であると同時に何よりも共同体として機能し ている。 各字は公民館をもち、 子供会、 青年会、
婦人会、 老人会などがそこを中心に、 スポーツ、
芸能、 福祉、 モアイなどの活動を展開している。
字史編纂運動も活発ですでにいくつかの字で立派 な刊行物になっている。 伝統芸能の掘り起こしと 継承活動もすばらしく、 これらを通した世代間の 交流も活発だ。 「読谷まつり」 はそうした字ごと の共同体活動の年毎の総合であり競争の場でもあ る。 こうした 「地域力」 が山内村長という稀有の 指導者が推進する平和行政・演習阻止・基地返還 闘争を下から支えていたことが読谷の最大の特徴 といってもよいかもしれない。
最後にマスコミとの関係に触れておきたい。 こ
れは読谷に限らず本土では失われてしまった沖縄 の特質といっていいが、 沖縄のマスコミは県民、
住民の運動を大きく報道し、 そのことが運動をは げまし、 ひいては視聴率や販売につながるという 循環がなりたっている。 読谷も例外ではなくその 運動・闘争については地元マスコミが大きく取り 上げてきた。 跡地利用計画なども詳しく報道され ている。 それが村民をはげまし交渉相手にも問題 の本質をよりよく理解させることにつながり、 運 動が成果をあげるのに陰の力となってきたといえ るのではないだろうか。
おわりに
読谷村民は、 沖縄戦での過重な犠牲、 戦後の米 軍基地の存在ゆえの犠牲に苦しみながら、 それを 乗り越え闘いながら、 自らの安全保障を確立して きた。 それは濃密な人間関係の確立、 深々とした 文化につつまれた共同体の再構築に密接に関係し ていることを見てきた。 村庁舎は自治の殿堂とし て村の中心に堂々とそびえたって、 毎日多くの村 民が出入りしている。 役場に隣接して竣工した文 化センターは村内の文化サークルを中心にほぼ 100%の稼働率である。 その上空には嘉手納基地 から飛び立った軍用機が日常的に演習を繰り返し てはいるけれども、 かつてのような米軍との緊張 は少なくても日常的にはなくなっている。 読谷補 助飛行場の返還も本決まりとなり、 庁舎周辺は
「平和の園」に生まれ変わろうとしている。
すべて良い方向に向かっているのだが、 それゆ えにともいうべき問題もある。 最大の問題は 「本 土化」 の問題であろう。 一応安定した村には大量 生産、 大量消費の生活様式が否応なく浸透してく る。 それが従来の文化、 平和主義とどう関連して くるのかという問題である。 この問題は冒頭で触 れた人口の社会増とも関係する。 村外から移住し てきた人々は容易に読谷的共同体、 濃密な人間関 係に入り込めないでいる。 読谷村民でありながら
字のメンバーになっていない人々がかなりの割合 でいるのだ。 そのようなニュー・カマーとどのよ うな人間関係を取り結んでいくのか、 ともに共同 体を作り上げていくことができるのかは非常に大 きな課題である。
もう一つ、 本土化=近代化と関連した別の側面 の問題として 「自己表現力」 をあげておこう。 読 谷に限らず、 沖縄は表現手段を沢山持っている。
表現能力も他の県に比べると相当すぐれている。
それはたとえば出版点数の多さ、 雑誌点数の多さ、
二大県紙の存続、 放送局数の多さなどからもいえ るし、 県史や市長村史の編纂運動に数多くの県民 が参加していることにも典型的に示されていよう。
これらが今後どのように推移するかという問題だ が、 いわゆる 「双頭の沖縄」 になるのではないか と、 懸念するのである。 「沖縄イニシアティブ」
以来、 東京の発想が、 あたかも沖縄の発想のよう な言論活動が活発化してきたことに典型的にみら れる現象である。
文化的にも本土化がどんどん進む、 そうすると 沖縄の表現媒体が矢張全体的に衰退して行くので はないか。 表現したいこと、 表現すべきことが見 えなくなって来るということが進行するのではな いか、 という懸念である。
読谷に戻ると、 例えば読谷高校で毎年、 6・23 特設授業というのがある。 いわば文化祭で、 6・
23 (沖縄戦を記念した、 慰霊の日) だから戦争を
何らかの形で表現する。 詩の創作とその群読、 創 作ダンス、 創作劇等など。 村のおじい、 おばあか ら聞いた話を若者らしい感性で表現していく。 見 る者聞く者を釘付けにする力をもっている。 もう 一つ例をあげれば、 1995年、 終戦50周年記念の諸 事業に見られる。 この年、 読谷村では盛りだくさ んの平和事業をしている。 その中に不戦宣言碑 (資料と写真参照) の建立があった。 写真をみて 分かるように役場・議会の 「不戦の誓い」 を取り 囲むように老人クラブ連合会、 婦人会、 青年団協 議会、 児童生徒一同の碑が補助飛行場のなかにつ くられた公園の一角に並べて建立された。 彫られ た文章や琉歌は各団体が公募でつのったものだ。
驚くほどの作品が各団体に寄せられたという。 児 童生徒のものは沢山寄せられた作文全体のイメー ジを大切にして資料にみるような詩に構成したと いう。 近年、 読谷でも生徒児童の偏差値が問題に なりはじめたが、 このように自己表現することを 持っていてそれをさまざまに表現できる、 という 能力はすばらしい。 それは読谷の長い平和運動と 文化運動がはぐくんだ一つの貴重な成果ではない かと私は捉える。
「双頭の沖縄」 現象が読谷にも浸透してくるこ とは避けられないであろう。 そうしたときに読谷 の人々の、 特に児童生徒の 「表現力」 がどうなる のかは、 実に今後の読谷の 「人間の安全保障」 と 深くかかわってくるように思う。
年表1
年表2
出典: 平和の炎
年表3
出典: 平和の炎
年表4
年表5
年表6
資料1
出典: 平和の炎
資料2