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者遺族等援護法の適用と運用の実態―

著者 石原 俊, 加藤 美春

雑誌名 明治学院大学社会学・社会福祉学研究 = The Meiji

Gakuin sociology and social welfare review

巻 146

ページ 67‑93

発行年 2016‑03‑09

その他のタイトル The Military Pension Law and the Issues of

Mass Suicide in the Battle of Okinawa: How

does the Government of Japan Apply the

Military Pension Law to the Victims and

Survivors of Mass Suicide in Okinawa

URL http://hdl.handle.net/10723/2654

(2)

1 本稿の目的と対象

 アジア太平洋戦争末期の沖縄における地上戦は,膨大な住民を巻き込んで遂 行された凄惨極まりない戦闘として知られている。本稿は沖縄戦研究を長らく リードしてきた大城将保の定義にならい,地上戦としての沖縄戦を,米軍が沖 縄諸島に攻撃を開始した1945年3月23日から,日本政府が公式に降伏文書に調 印した同年9月2日までの戦闘と位置づけておく

(1)

。また大城は沖縄戦の特徴 として,戦略持久戦,総動員作戦,軍民混沌の戦場,軍人を上回る住民犠牲,

米軍占領の長期化という5つの特徴を挙げている(大城 1988: 71-84)。そうし た特徴をもつ戦闘の過程で慶良間諸島や読谷村などで起こった住民の集団自決 は,沖縄戦のなかでも最も悲惨な出来事として記憶されているとともに,その 事実認識や歴史認識をめぐって現在も激しい論争が繰り広げられている。

 沖縄戦の過程で集団自決した民間人の遺族には,1950年代以来,戦傷病者戦 没者遺族等援護法(以下では援護法と略記)が適用されてきた。軍人・軍属とそ の遺族に適用される援護法が民間人遺族に適用されるのは異例である。この異 例ともいえる政策は,集団自決の犠牲者や遺族に対して日本政府が非常に神経 質であり続けてきたことを意味している。かれらへの援護法適用に関しては後 述のように,沖縄出身の研究者を中心として,主に批判的なアプローチによる 歴史的評価がおこなわれてきた。

──戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用と運用の実態──

石 原   俊

加 藤 美 春

(3)

 本稿には,こうした援護法適用に関する批判的分析の意義を毀損したり貶め たりする意図はまったくない。しかし,その分析のベースとなるべき歴史具体 的な経緯,すなわち集団自決に対して日本当局がいかなる事実解釈や手続きに よって援護法を適用・運用してきたのかに関しては,意外なことに,従来まと まった研究がほとんど発表されていないのである。そこで本稿では,文献資料 と厚生労働省社会・援護局援護・業務課職員の方へのインタビューに基づいて,

援護法体系のなかでの集団自決の事実解釈や位置づけを分析し,援護法体系の 集団自決犠牲者への適用と運用の実態を明らかにすることを目的とする。

2 集団自決と援護法適用に関する議論

(1) 集団自決をめぐる歴史修正主義の台頭

 「集団自決」という言葉は,『鉄の暴風──現地人による沖縄戦記』 (沖縄タイ ムス社,初版:1950年)の執筆者の一人である太田良博による造語であるとさ れる。ここで太田は,沖縄戦における民間人の多大な犠牲を「玉砕」と一般化 してきた皇国史観に対する批判的意図を込めつつ,軍律が地域社会を支配する なかで住民が集団自殺したり住民・家族どうしが殺し/殺される関係に置かれ たりした状況を表す用語として,「集団自決」という言葉を作り出した。

 21世紀に入ると,集団自決にかかわる歴史認識や歴史記述をめぐって,激し

い抗争が巻き起こることになった。2005年,集団自決が起こった当時慶良間諸

島に駐留していた日本軍の部隊長や遺族らが,集団自決が軍命によるもので

あったとする家永三郎『太平洋戦争』 (岩波書店,初版1968年:現代文庫版2002

年)と大江健三郎『沖縄ノート』 (岩波書店,初版1970年)に対して,①両書の出

版停止,②名誉棄損と故人に対する敬愛追慕の情を侵害したことに対する謝罪

広告掲載,③大江氏と岩波書店への賠償命令,の3点を求めて,大阪地方裁判

所に提訴したのである。

(4)

 この名誉毀損訴訟が衝撃をもって受けとめられたのは第一に,原告側の提訴 理由のなかに,集団自決が日本軍の軍命によるものであるという当事者の証言

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

は,援護法の適用を受けるための作為であるという主張が含まれていた

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点で あった。そして第二に,原告側が証拠として2005年10月に法廷に提出した資料 のなかに,女性史研究者の宮城晴美氏が母親の宮城初枝の手記を用いて座間味 島の集団自決の状況を詳述した『母の遺したもの──沖縄・座間味島「集団自 決」の新しい証言』 (高文研,初版:2000年)のうち,初枝が部隊長の「玉砕命令」

を直接聞いていないと述べた箇所が,都合よく利用されていた点であった。法 廷に原告が提出した「梅澤裕意見陳述書」は,次のように述べている。

問題の日はその3月25日のことです。夜10時頃,戦備に忙殺されて居た本 部壕へ村の幹部が5名来訪して来ました。助役の宮里盛秀,収入役の宮平 正次郎,校長の玉城政助,吏員の宮平恵達,女子青年団長宮平初枝(後に 宮城姓)の各氏です。その時の彼らの言葉は今でも忘れることが出来ませ ん。「いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。」「老 幼婦女子は,予ての決心の通り,軍の足手纏いにならぬ様,又食糧を残す 為自決します。」「就きましては一思いに死ねる様,村民一同忠魂碑前に集 合するから中で爆薬を破裂させて下さい。」「それが駄目なら手榴弾を下 さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。」

/私は五人に,毅然として答えました。「決して自決するでない。軍は陸 戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘 り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。

共に頑張りましょう。」と。また,「弾薬,爆薬は渡せない。」と。折しも,

艦砲射撃が再開し,忠魂碑近くに落下したので,5人は帰って行きました(岩

波書店 2012: 89-90)。

(5)

 この訴訟は最高裁まで持ち込まれたが,1審・2審とも,陳述書の内容によっ て集団自決に対する日本軍の関与や強制性を否定することはできないと判断 し,最高裁も1審・2審の判決を支持したため,2011年に原告側の敗訴が確定 している。なお,こうした悪用に衝撃を受けた宮城は,『新版 母の残したもの

──沖縄・座間味島「集団自決」の新しい事実』 (高文研,2008年)を刊行し, 「玉 砕命令」が座間味島の民間人全員に直接告げられていなかったとしても,日本 軍側から住民が避難している各壕の名望家層に「命令」が伝えられていたとい う論点を明確にした(宮城 2008)。

 この名誉毀損訴訟の提訴に続く2007年には,2008年度から使用される高校日 本史教科書の検定において,日本政府・文部科学省の圧力によって沖縄戦の集 団自決に関する記述から「日本軍による強制」という表現が削除されたことが 明るみになった。2006年4月に検定申請をおこなった,山川出版社・東京書籍・

清水書院の「日本史A」の教科書執筆者と編集者は,同年12月に文科省から, 「沖 縄戦の実態について誤解を招くおそれのある表現である」という理由で訂正す るよう通知を受けていたのである。

 沖縄では検定結果に対して抗議の声が高まり,2007年9月29日に開かれた「教 科書検定意見撤回を求める県民大会」の参加者は11万6千人にもおよんだ。そ の結果,検定内容は変更されることはなかったものの,集団自決における日本 軍の強制性については申請時の記述内容がいくぶん復活した。

 この検定結果もまた,文科省の検定意見の内容そのものにとどまらない,深 刻な問題をはらんでいた。文科省が日本軍による強制性を表す記述を削除させ た有力な根拠として,先述の名誉毀損訴訟において法廷に提出された「梅澤裕 意見陳述書」と,沖縄戦研究をライフワークのひとつにしてきた歴史学者・林 博史氏の『沖縄戦と民衆』 (大月書店,2001年)の2点を挙げていたからである。

 たしかに林の『沖縄戦と民衆』には,渡嘉敷島における集団自決について, 「赤

松隊長から自決せよという形の自決命令は出されていないと考える」と記載し

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ている箇所があり,また座間味島の集団自決についても,「軍からの明示の自 決命令はなかった」あるいは「集団自決を直接,日本軍が命令したわけではない」

と記載している部分があり(林 2001: 161-163),検定意見はこの3箇所の表現 を「軍令がなかった」根拠としていた。だがこれらは,段落中または一文中の ごく一部の表現にすぎない。林は随所において,「民間人を生かしておくこと はできないからいざとなったらこれで死ぬように,と手榴弾を渡された」など,

明らかに日本軍将兵から民間人への「玉砕命令」に等しい事例を複数挙げてい るにとどまらず,沖縄戦の戦闘地域における軍律の強力さについても再三強調 している。林が『沖縄戦と民衆』の末尾で次のように述べていることを,わた したちは改めて銘記しておきたい。

沖縄戦のもっとも重要な特徴といってよいのが,日本軍による沖縄住民に 対するさまざまな残虐行為である。スパイ容疑,投降阻止などの理由での 住民虐殺,精神障害者や乳幼児の虐殺,食糧強奪,壕(ガマ)からの追い出 しなど無数にあり,沖縄戦に関する数多くの文献のなかでたくさんのケー スがわかっている。本書ではそれらについてほとんど触れられなかったが,

沖縄戦自体が沖縄住民を犠牲にした捨て石作戦であったこと,沖縄戦のな かで日本軍によるさまざまな残虐行為によって住民が犠牲になったことは 本書の議論の前提である(林 2001: 307)。

 林は『沖縄戦と民衆』が歴史修正主義的な教科書検定の方針に悪用されたこ とに衝撃を受け,後に『沖縄戦と民衆』の諸論点をより明確に記述した『沖縄 戦──強制された「集団自決」』 (吉川弘文館,2009年)を刊行している。後者で 林は,「集団自決」が集中して起こった慶良間諸島や伊江島,読谷村などでは,

秘密基地とされたり住民の大多数が戦闘員として動員されたりするなど,他の

地域にも増して軍律が社会秩序全体を掌握していたことや,駐留将校が住民た

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ちに手榴弾を配布し,米軍上陸時には「玉砕」するよう再三訓示していたこと など,「集団自決」の「強制」的背景を説得的に示す史料を積極的に提示して いる(林 2009)。

 以上のように21世紀に入ると,「集団自決」の当事者たちや研究者たちは,

歴史修正主義的な動向のなかで,激しい論争と攻撃の焦点になったのである

(2)

(2) 援護法適用に関する先行研究の議論と本稿の立場

 沖縄戦による戦没者は約20万人強であるとされるが,うち沖縄県出身者が十 数万人であるとされ,軍人・軍属より民間人の戦没者が圧倒的に多い。そして,

集団自決の犠牲者を含む多くの民間人戦没者が,戦争で国に命を捧げた軍人を

「神」として祀る靖国神社に合祀されている。なぜ,軍人でもない一般住民が「軍 神」 「英霊」となっているのか。その理由として,国から援護法に基づく「援護金」

を受給する代わりに,民間人が「準軍属」として扱われてきたのではないかと いう議論がなされてきた。社会学者の石原昌家は,集団自決と援護法の関係を 以下のように位置づけている。

国のいう住民の集団自決による戦没者とは,日本軍に「積極的な戦闘協力」

をしたので,「戦闘参加者」として認定され,「準軍属」扱いされるやその 遺族は「遺族給与金」という経済的援助をうけ,ゼロ歳児でも軍人同様に 祭神として「靖国神社」に祀られ,最高の国家的栄誉を授与されて精神的 に癒されたことになっている。 (…中略…)したがって沖縄戦における住民 の集団自決という用語に内在している問題の核心は,日本政府・皇軍(旧 日本軍)の戦争責任が免責されるという点にある(石原 2007a: 32)。

 したがって石原は,援護法の適用条件としての「集団自決」という用語は,

沖縄戦における住民被害の本質を見誤らせ,「沖縄戦認識」を「捏造」させて

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いると指摘する(石原 2007a: 32)。そして,援護法を適用することによって日 本政府・皇軍の戦争責任を免責させる「集団自決」に代わって,日本軍が住民 を「お互いに殺しあう等」の形で死に追いやったことを明確化する「強制集団 死」 (軍事的他殺)という語を使うべきであると主張する。

 援護法と戦後補償問題の関係について研究している河野麻美子もまた,「集 団自決」という語は,「鬼畜米英」に捕まり生きて辱めを受けるくらいなら自 ら命を断つ方がいいというイデオロギーによって投降を禁じられた住民たち が,追い詰められた末にお互い殺しあった事態を曖昧化させていると指摘する。

そうした「強制的集団死」が「戦闘協力」と質的に異なることを明確化しなけ れば,一般県民をこのような事態に陥らせたことへの日本軍の責任が免責され てしまうと指摘する(河野 2004: 231)。

 石原や河野の主張には,当初は「玉砕」という語に対する批判的カテゴリー として登場したはずの「集団自決」が,援護法体制と靖国体制によって利用・

簒奪されてしまったことへの,またそれが近年の歴史修正主義の主張に悪用さ れてしまったことへの,痛切な批判が内在しているといえるだろう。

 これに対して林博文は,集団自決を「強制的集団死」と言い換えることには 慎重である。林は『沖縄戦──強制された「集団自決」』のなかでこう述べている。

全国民の戦闘員化が図られたということは,民間人と軍人の区別がなくな

り(法的にはどうであれ,少なくとも指導者も一般の人々もそう思うよう

になる),民間人にも軍の論理が強制されていくことを意味している。責

任ある地位にある者だけでなく,日本国民であるすべての将兵や民間人に

までまとめて「自決」を強要したのが,当時の日本軍と日本国家の特徴で

あった。したがって本書のタイトルにもあるように,“強制された「集団

自決」”という言い方は,こうした事態を最も適確に表わしている表現で

はないかと考えている(林 2009: 230-231)。

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 ただし林も,援護法の適用によって日本軍による集団自決への加害が隠蔽 され「歴史の捏造」が起こってしまう危険性にも注意を払っている(林 2009:

226)。用語法の差違はあるが,集団自決と援護法体制の関係性において,林は 石原と一定程度立場を共有しているといえよう。

 だが,こうした援護法体系の集団自決犠牲者への適用がもたらしうる「歴史 の捏造」に対する懸念や批判とはまったく逆に,上述の2005年提訴の名誉毀損 訴訟では,集団自決の犠牲者遺族が援護法の適用を受けるために自決命令の存 在を「捏造」したといった主張が法廷にまで持ち込まれ,またこれ以降,歴史 修正主義的な論者たちが,集団自決の強制性に対する「捏造」説や援護金の「不 正受給」説を積極的に喧伝する状況が続いている。いわば,皇国史観に対する 批判的な意図を込めて使われてきた「集団自決」や「歴史の捏造」といった用 語自体が,皇国史観を奉じる修正主義者によって横領されてしまいかねない事 態に至ったといえよう。

 こうした修正主義者の議論に対して林は,集団自決という言葉が日本軍の強 制性に対する批判的意図を込めて使われ始めたのは,前述のように1950年刊行 の『鉄の暴風』であり,援護法の制定が1952年,沖縄戦の民間人「戦闘参加者」

に援護法が適用され始めたのは1957年であることからも,そうした自決命令捏 造説はまったく成り立たないと指摘する(林 2009: 222)。

 ただ,歴史修正主義者が集団自決犠牲者遺族の援護金の「不正受給」までを

も喧伝するに至ったこの10年の事態をふまえるとき,わたしたちは,援護法体

系によって集団自決と呼ばれてきた現象がどのように事実解釈され,援護法が

その犠牲者に対してどのように適用・運用されてきたのかに関して,歴史的経

緯や現場の対応を含めた事実関係を実証的立場から検討・確認しておく必要が

あるのではないだろうか。そこで本稿は,援護法の運用を担う厚生省(現・厚

生労働省)の担当部門が,集団自決をはじめとする沖縄戦の民間人犠牲に対し

てどのような事実解釈をおこない,援護法を適用してきたのかについて,あく

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まで実証的立場に徹しながら分析を試みるものである。

3 援護法体系からみた集団自決

 本章では,援護法が沖縄に適用されるまでの経緯を跡づけるとともに,担当 官庁である厚生労働省社会・援護局援護・業務課(以下では援護課と略記する)

が,集団自決に対するいかなる事実解釈によって援護法を適用・運用してきた かのを明らかにしていく。

(1) 援護法の沖縄への適用過程

 厚生労働省のホームページは,戦傷病者戦没者遺族等援護法とその支給対象 者について,以下のように説明している。

 援護法は,軍人軍属及び準軍属の公務上の傷病及び死亡等に関し,国家 補償の精神に基づき,障害者本人には障害年金を,死亡者の遺族には遺族 年金・遺族給与金及び弔慰金を支給し援護を行うことを目的とする法律で,

昭和27年4月に制定されました。

 支給対象者は,国と雇用関係又は雇用類似の関係にあった軍人軍属及び 準軍属並びにその遺族です。ただし,軍人については,昭和28年8月に軍 人恩給が復活し,原則として恩給法が適用されることとなったため,遺族 年金や障害年金の支給対象者は主に恩給法に該当しない軍人,軍属及び準 軍属並びにその遺族となっています。

軍人

 1.もとの陸海軍の現役,予備役,補充兵役,国民兵役にあった者(軍人)

 2. もとの陸軍の見習士官,士官候補生,もとの海軍候補生,見習尉官

(準軍人)

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 3. もとの陸海軍部内の警部,監獄看守長,高等文官,従軍文官等(文官)

軍属

 1.戦地勤務の陸海軍部内の雇員,よう人等  2.船舶運営会船員

 3.満鉄職員等 準軍属

 1.国家総動員法関係者(被徴用者,動員学徒,女子挺身隊員)

 2.戦闘参加者  3.国民義勇隊員

 4.満洲開拓青年義勇隊員(満洲青年移民),義勇隊開拓団員  5.特別未帰還者

 6.内地等勤務の陸海軍部内の雇員,よう人等  7.防空従事者

(厚生労働省ホームページ「戦傷病者及び戦没者遺族への援護」)

 1952年4月に制定された援護法は,戦争当時に軍人・軍属や準軍属だった者 については,公務上または勤務に関連して受傷・罹病した場合は援護の対象と し,一定基準より重度の障害を有する障害者本人には障害年金を,死亡者と一 定の生計関係を有していた遺族には遺族年金等を支給するものとした

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。  こうした援護法体系のなかで,沖縄戦の民間人犠牲者は「準軍属としての戦 闘協力者」として援護の対象となってきた。「戦闘協力者」とは,軍人・軍属 以外の者で,「戦時中,国家総動員法において徴用され敵弾によって死亡し,

負傷を受けた者及び軍の要請により戦闘に協力し任務遂行中,死亡又は負傷し た者」と定義される(林 2009: 222)。民間人が「戦闘協力者」と認定されるには,

「軍の要請により戦闘に協力したこと」が不可欠の条件となっている。したがっ

て沖縄戦における集団自決の犠牲者が「戦闘協力者」と認定されるにあたって

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は,日本軍による「自決」命令が「軍の要請」にあたるという解釈がなされて きたといえる(林 2009: 225)。

 1952年に援護法が制定された当初,沖縄は米軍の施政権下に置かれていたた め,民間人の「戦闘参加者」ばかりか軍人・軍属にも援護金の支給はなされて いなかった。しかし,援護法制定以前から「琉球遺家族会」 (後に琉球遺族連合 会,さらに沖縄遺族連合会に改称)を中心とした援護法適用運動は開始されて おり,日本政府に対して援護法適用を求める活発な陳情を展開していた(石原 2010: 57-58)。その結果1953年3月26日,「北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島 及び大東諸島を含む)に現住する者に対し,戦傷病者戦没者遺族等援護法を適 用する場合の取り扱いについて(援護第187号通知)」によって,沖縄にも援護 法が適用されるようになったが,適用対象者は軍人・軍属のみで,民間人の「戦 闘参加者」はまだ適用外であった(石原 2010: 60)。

 だが1956年になると,軍人・軍属以外の沖縄戦参加者に対する援護法の扱い を定めるため,厚生省から職員が派遣され,沖縄戦の実態調査がおこなわれた。

そのさい,沖縄遺族連合会が集団自決の犠牲者や日本軍への壕・食事の提供に ついても援護法を適用するよう職員に強く求めたため,遺族連合会と厚生省と の間で協議会が開催された。その結果1957年,厚生省は沖縄戦における「戦闘 参加者処理要綱」を発表し,以下の20項目に該当する犠牲者を「戦闘参加者」

としたのである(石原 2010: 63)。

①義勇隊(各村毎に調製) ②直接戦闘 ③弾薬,食糧,患者等の輸送 ④ 陣地構築 ⑤炊事,救護等雑役 ⑥食糧供出 ⑦四散部隊への協力 ⑧壕 の提供 ⑨職域関係(県庁職員報道) ⑩区(村)長として協力 ⑪海上脱出 者の刳船輸送 ⑫特殊技術者 ⑬馬糧蒐集 ⑭飛行場破壊 ⑮集団自決 

⑯道案内 ⑰遊撃戦協力 ⑱スパイ嫌疑による斬殺 ⑲漁撈勤務 ⑳勤労

奉仕作業。

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 石原昌家は,この20項目のうち特に③⑤⑥⑧⑮が,いずれも住民が日本軍の 命令や強制によって動員されたケースであるにもかかわらず,援護法体系のも とで「積極的戦闘協力者」と位置づけられてきたと述べ,援護法体系が沖縄戦 の住民犠牲を隠蔽し,沖縄戦の真実を捏造するために利用されてきたと主張す る(石原 2010: 63)。それでは日本国厚生省(現・厚生労働省)は,援護法を沖縄 戦における民間人犠牲者に適用するにあたって,どのような手続きに基づいて 受給者を認定してきたのであろうか。

(2) 援護法の適用と戦闘参加者申立書

 本節では石原昌家や安仁屋政昭らの先行研究に依りながら,厚生省に提出さ れる「戦闘参加者申立書」について検討する。石原によれば,民間人への援護 法適用当初の「戦闘参加者申立書」の記載要領は次である(石原 2010: 62)。

一,死亡者の氏名 例 甲野乙郎 明三十年二月五日生 二,除籍時の本籍地(本人死亡当時の本籍のことである)

  例,沖縄県島尻郡豊見城村字豊見城三五〇番地

三,要請又は指示を受けた当時の住所地(部隊の要請又は指示を受けたと きの本人の住所である)

  例,沖縄県島尻郡豊見城村字豊見城三五〇番地 四,当時の職業 例 農業,漁業等を書く

五,要請又は指示を受けた年月日及び伝達状況(本人が戦闘参加者として 要請又は指示を受けたところの年月日とどう云う方法で要請又は指示 が伝達されたか)

  例,昭和二十年三月末頃日 部落内の区長を通して協力するよう伝達 があった。

六,要請又は指示の内容又は目的(部隊から要請又は指示の内容はどう云

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うことであったか其の目的とすることはどう云うことであったか)

  例,弾薬運搬作業であって豊見城村の豊見城城跡の弾薬倉庫から首里 へ運搬する作業であった。

七,行動を共にした部隊名,所在地及び行動を共にした年月日(本人が戦 闘参加として行動したときの部隊名で其の部隊は何処にあったか又は 何時迄一緒であったか)

  例,山部隊,平野大隊,四月十日頃

八,勤務及び戦闘又は行動の状況(仕事はどう云う仕事であったか,戦闘 の状況又は本人が死亡までの行動の状況である)

  例,日没頃から豊見城城跡の弾薬倉庫から首里市赤田の陣地から壕ま で弾薬運搬を終えて又,豊見城村の上田に帰り一日一回この作業を続 け一週間程同じ作業がつづいた。

九,受傷罹病の状況(戦死した者についてこの欄は不要であるが受傷又は 罹病してから或る期間をおいて死亡したときはその状況を記載する)

  例,首里市赤田町の陣地壕まで弾薬運搬を終え帰途,真玉橋附近で米 軍の空襲を受け,機銃掃射により右大腿部に受傷した。その後同僚の 救援により豊見城村上田在の部隊の医務室で治療を受けた等……

十,死亡の状況(本人死亡の状況を書く)

  例,四月十五日兵隊(氏名が分かれば記載)に引率されて同僚大城某等 と一緒に豊見城城跡より弾薬を首里に運搬の途中で南風原村大名附近 で艦砲で頭部を受傷し戦死す。

十一,その他参考となる事項    本人の死亡

 このように,援護金受給の前提となる「戦闘参加者申立書」には,各種個人

情報だけでなく,「行動を共にした部隊名」や「勤務及び戦闘又は行動の状況」

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から,「要請又は指示の内容又は目的」,「受傷罹病の状況」や「死亡の状況」

にいたるまで,当時の状況を詳細に記載することが求められた。援護法受給要 件を満たすために,遺族は厚生省側からしばしば「戦闘参加者申立書」の記載 内容の加筆修正を求められることもあった。

 石原が沖縄県公文書館で公開された『琉球政府文書』から参照している以下 の「戦闘参加者申立書」の事例は,いわゆる集団自決の犠牲者のケースではな いが,厚生省当局が援護法を沖縄戦民間人犠牲者に適用するにあたって,いか なる事実解釈を根拠としていたのかを示す典型例であると考えられるので,詳 しく引用しておきたい。この「戦闘参加者申立書」は,1945年当時38歳であっ た女性と7歳の男児の死亡について,この女性の長女が申立者となって,琉球 政府社会局を通して日本政府厚生省に援護法の適用を申請したものである(石 原 2010: 64-65)。

社援第九九二号  一九六〇年四月二十一日

局 長 名 那覇日本政府南方連絡事務所長 宛

他県在籍戦闘参加者の申立書送付について 本籍 □□□□□□□□□□     

戦没者 □□ ウタ(明36. 1.13生)

    □□ 永浩(昭13. 1.21生)

 右両名は別添付戦闘参加者申立書のとおり沖縄戦に於て戦死した旨の申 立てがあったから関係のむきに進達方お取り計らい願います。

 なお,現認者の証明書及び死亡地村長の死亡証明書をそれぞれ二部づ

ママ

つ 添付してあります。

遺族 住所 □□□□□□□□□□

      名前 □□ □□

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現認証明書 本籍  □□□□□□□□□□□

戦没者 □□ ウタ 明治三六年一月一三日生

 右は昭和二十年六月二十日沖縄本島摩文仁村摩文仁付近の戦闘間に於て 琉球部隊司令部の下士官兵数名に避難壕を立ち退くよう要請され止むなく 同壕を戦闘員のため提供して立ち退き,他の壕を求めて移動する際,至近 に砲弾炸裂し,全身に砲弾片創を負い,即死したことを同一行動中に確認 致しましたのでその事実を証明します。

一九六〇年二月二十日

那覇市字壺屋一六九番地 大城外科医院勤務 医師 □□ □□

死亡証明書 本籍  □□□□□□□□□□

戦没者 □□ ウタ 明治三六年一月十三日生

 右の者は昭和二十年六月二十日沖縄本島摩文仁村摩文仁付近において死 亡したものであることを現認証明書によって証明します。

一九六〇年二月二十日

三和村長 大城 正一  印

三和庶援第三号

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現認証明書 本籍  □□□□□□□□□□

戦没者 □□ 永浩 昭和一三年一月二十一日生

 右は昭和二十年六月二十日沖縄本島摩文仁村摩文仁付近の戦闘間に於て 琉球部隊司令部の下士官兵数名に避難壕を立ち退くよう要請され止むなく 同壕を戦闘員のため提供して立ち退き,他の壕を求めて移動する際,至近 に砲弾炸裂し,全身に砲弾片創を負い,即死したことを同一行動中に確認 致しましたのでその事実を証明します。

一九六〇年二月二十日

那覇市字壺屋一六九番地 大城外科医院勤務 医師 □□ □□

死亡証明書 本籍  □□□□□□□□□□

戦没者 □□ 永浩 昭和十三年一月二十一日生

 右の者は昭和二十年六月二十日沖縄本島摩文仁村摩文仁付近において死 亡したものであることを現認証明書によって証明します。

一九六〇年二月二十日

三和村長 大城 正一  印 三和庶援第三号

(以上,下線は引用者の石原昌家氏による。個人情報にかかわる伏字を若

干加筆した。)

(18)

 この2名の証明書において留意すべきは,死亡に至る理由にかかわる記載内 容である。石原が下線を付している箇所が示すように,2名は「琉球部隊司令 部の下士官兵数名に避難壕を立ち退くよう要請され」たことが死亡の原因と なったと判断され,また「止むなく同壕を戦闘員のため提供して立ち退」いた ことが軍事行動であるとみなされ,たとえ幼児であっても「戦闘参加者」とい う立場を得て,援護法の対象になっているのである。

 このことは,「戦闘参加者申立書」において積極的に戦闘協力をしたことが 明示されているかどうかが,援護金を受給する上で重要な点であることを示唆 している。石原昌家が引用している,1960年に厚生省引揚援護局(当時)が琉球 政府社会局に宛てた次の文書は,この点にかかわって「戦闘参加者申立書」の 書き直しを求めた事例である(石原 2010: 66)。

一九六〇年 第十五号第二種十年 戦闘参加者に関する書類 援護課 未○第2737号

寫 昭和三十四年十月十三日

厚生省引揚援護局 未帰還調査部第四調査室長 琉球政府社会局援護課長殿

戦闘協力により死亡したものの現認証明について

 別紙記載の戦闘協力者に対し,遺族より弔慰金の請求をされましたが,

戦闘協力内容が消極的に失すると審査課より返却されたので死亡者は,要 請(指示)事項のみに終始したのではなく,当時の戦況から判断して現認証 明事項欄記載の如きもあったものと推定されるのでその旨,審査課に回答 した処,死亡の原因が回答のような積極的戦闘協力によるものであれば現 認証明書を添付されたいとのことですが,現認証明欄記載の如き事項は,

当時何人かが現認していると思われるがそうであったら然るべく御とりは

からい願います。

(19)

(以上,下線は引用者の石原昌家氏による)

 この文書が言及している「戦闘参加者申立書」の該当者について,日本政府 厚生省はそれぞれ次のように書き換えを指示している。

 まず沖縄県書記であった人物については当初,日本軍部隊からの「要請又は 指示の内容又は目的」として「壕生活の指導並に難指導のため摩文仁村に派遣 された」こと,「死亡事由」として「昭和20.6.17午前8時頃摩文仁で難民誘導 の任務遂行中砲弾の破片により胸部に受傷戦死」したことが記載されていた。

これに対して厚生省側は,「現認証明事項(死亡事由)」欄について,「上記の理 由では積極的戦闘協力とは認め難いとの審査課の意見であるが,積極的戦闘協 力の事実はないか」,「例えば軍命により弾薬運搬又は食糧の輸送の指導,若し くは陣地構築の指導の如きものである」として,書き換えを指導している。

 また,地方課長兼知事官房主事であった犠牲者についても,当初の「戦闘参 加者申立書」は「死亡事由」として「公務執行中に殉職した」と申告していた が,厚生省側からは,「公務執行中殉というが,公務の内容は何か,軍の命令 により何か積極的協力をしたのか」として書き換えの指導がおこなわれ,さら に地方警視であった犠牲者に対しても,当初記載の「本土への情報連絡のため 敵弾をくぐり沖縄島尻郡佐敷村植木原に進んだ際,敵弾により重傷自決」とい う「死亡事由」に対して,厚生省側は書き換えを指導しており,「軍の命令に より情報連絡のため昭和20.6.7島尻郡植木原に到った際,敵弾により重傷を被 り自決す」という内容に記載が変更されている。

 また石原昌家氏自身も,ある遺族から「戦闘参加者申立書」の申請を依頼さ れたさいに,市町村窓口の援護係から事実上の書き換え指導を受けたことがあ るという。その市町村の窓口担当者は,日本軍部隊から強制的に立ち退かされ て「壕を提供したので,避難先を探しているとき,24時間以内に被弾死した」

という内容でなければ,厚生省は「戦闘参加者申立書」を受理しないと述べ,

(20)

石原氏が代筆した文書を受け付けなかったのである(石原 2010: 66-67)。

 以上から石原は,沖縄戦における民間人被害者に援護法を適用するにあたっ て,厚生省は「戦闘協力内容」が「積極的戦闘協力」か「消極的戦闘協力」か という審査基準を設けてきたこと,そして「積極的戦闘協力」が援護金の支給 条件とされてきたことが日本軍の責任を免責する役割を果たしてきたばかりで なく,靖国体制を補完する結果をもたらしてきたと指弾している(石原 2010:

67)。

 また安仁屋政昭も,「戦闘参加者申立書」の作成にあたって,遺族がとにか く「皇軍に協力」という体裁を要求されてきたことを批判している。たとえば,

日本軍によって壕を追い出されて死亡した犠牲者の経験が「壕提供」と記載さ れたり,日本軍に食糧を奪われて飢え死んだ犠牲者が「食糧提供」と記載され たりするなど,日本国家は「皇軍の論理」を追認してきたと指弾している(安 仁屋 1997: 65)。

 しかしながら,従来の研究は,厚生省(現・厚生労働省)の担当部門である援 護課が,具体的にいかなる事実解釈に基づいて,沖縄戦の民間人犠牲者に対し て援護法を適用・運用してきたのかについては,詳細に調査していない。次節 では,援護課職員の方へのインタビューに基づきつつ,現場における援護法の 適用・運用の実態について,あくまで実証的態度に徹しながら明らかにしてい きたい。

(3) 援護法の運用と集団自決をめぐる事実解釈

 本節では,担当部門である援護課が実際に援護法をどのように適用・運用し てきたのかについて,厚生労働省社会・援護局援護・業務課の職員であるA氏 へのインタビューに基づき検討していく。

筆者:日本軍に直接殺害されて援護を受けていた人はいるのでしょうか。

(21)

A氏:軍の命令を受けて自決した人は処遇しますが,殺された場合は処遇 されないことが多いです。が,実際はケースバイケースで,例えば,

空襲を避け壕に避難した小さい子どもは怖くて泣き出してしまうこと が多く,アメリカ兵に見つかるかもしれない,という理由で殺されて しまうことがあったんです。こういった場合は援護を受けることがで きるケースもあると思いますね。

 日本軍の将兵に直接殺害された民間人は,援護法の適用・運用上,なかなか

「戦闘参加者」とみなされにくいことがうかがわれる。

筆者:援護金はどれくらいの金額なのでしょうか。

A氏:援護金に関しては,遺族給与金として年間196万6,800円を支給して おり,遺族に子どもがいる場合には1人あたり7万2,000円をプラス して支給します。また,遺族給付だけでなく障害年金もあり,その額 は医師の診断書に基づきながら怪我や病気の重度によって判断しま す。たとえばですね,「戦闘参加」によって失明したり両手足を失っ てしまったりした場合は,年間1,000万円近くを支給するんです。障 害年金の対象となる障害がいちばん軽い場合は96万1,000円です。た だし,手足の障害に対する支給は,薬指がなくなって初めて支給され るものですので,小指を失っただけだと,残念ながら支給の対象とは なりません。

 援護課においては,沖縄戦の民間人犠牲者に対する援護金の支給条件は,あ

くまでも援護法の趣旨にのっとり「戦闘参加」を条件としていること,また障

害年金については,軍人恩給と同様の厳密な支給条件となっていることが確認

できた。

(22)

 それでは援護金支給の前提となる民間人の「戦闘参加」について,援護課は どのような審査基準によって認定しているのであろうか。筆者はA氏に,石原 昌家氏が援護法の適用条件について論じた次の箇所を示し,実際の適用・運用 条件はどうなっているのかをたずねてみた。

軍の命令・強制などによって住民同士殺し合う形で集団死したという事実 を述べては,積極的戦闘協力にはならないので,その行為は「軍事行為」

によって死亡した「戦闘協力者」という身分は取得できない。したがって,

当然,「援護法」の適用除外者になる(石原 2008a: 21)。

 石原はここで,「軍の命令・強制などによって住民同士が殺し合う形で集団 死したという事実」は, 「当然,「援護法」 の適用除外者になる」と述べている。

A氏はこの点について,筆者に次のように説明した。

そこは本当に微妙な問題でして,日本軍という組織ぐるみで行ったもので あると判断された際に援護金の対象となるのです。たとえば,日本軍に所 属している○○さんが個人的な理由で,勝手に自分だけの意思で住民を殺 した,殺し合いをさせたという場合は,軍関与・軍命令とは言い切れませ ん。ですが,軍の命令・強制と表記しているのに除外される,という表現 は理解しかねますね。その方がどういう意図で記述しているのか分からな いですが,軍関与・軍命令というものは,あくまで日本軍組織としての問 題なんです。つまり,軍にいる上層部に……まあえらい人たちですね……

直接命令した人が別の方であっても,指示した人がいるのであれば,それ は組織ぐるみで行われた命令であると判断されます。とにかくね,軍関与・

軍命令の証拠が残っていれば,援護の対象であり,援護金を支給する対象

になるということです。

(23)

 このように援護課としては,軍の命令・強制・指示がなんらかの形で住民に 伝えられた結果として住民同士が殺しあった証拠が提出されれば,それは日本 軍組織としての関与があったとみなし,犠牲者を「戦闘協力者」として援護金 の支給対象としてきた/いることがわかる。すなわち,日本軍の命令・強制に よって住民の間に集団的な自殺や殺害が生じた場合は「積極的戦闘協力」とな らないので援護法の適用から除外されるという石原氏の議論は,援護法体系の 適用・運用の現場における実態を,正確に反映しているとはかならずしもいえ ないのではないだろうか。

 筆者は沖縄戦の民間人犠牲者を「戦闘協力者」と認定した証拠書面の閲覧を 願い出たが,現在は個人情報保護法の関係上,閲覧の許諾を受けることはでき ないという回答であった。しかし,前節で言及した石原氏自身が掲載している

「戦闘参加者申立書」の書面と,A氏の説明とを照らし合わせるならば,当局 は半世紀以上にわたり一貫して,沖縄戦の民間人犠牲者を「戦闘協力者」と認 定するにあたって日本軍による強制性を条件としていたことは疑いないといえ よう。すなわち,厚生省・厚労省当局はあくまで,沖縄戦における集団自決は 日本軍による組織的関与があったという事実解釈のもとに,犠牲者に援護法を 適用し,援護金を支給してきたことがわかるのである。

 しかしすでに述べたように,集団自決の犠牲者の遺族が援護法の適用を受け るために日本軍の軍命を捏造したといった主張が法廷闘争にまで持ち込まれた り,日本軍による強制性が集団自決の原因であるという記述を削除させる教科 書検定結果が明るみになったり,日本軍の組織的関与を否認するような言説が 力をつけてしまっている。筆者がこの点について話題にしたところ,A氏は次 のように述べた。

たしかに,裁判や教科書問題を含め,今になっていろいろな意見が出てい

ますよね。ですが,私たちは軍命令があったということを前提として援護

(24)

金を支払っています。実際問題として,日本軍関与の証拠を確認して支払 いをしているわけですし,何より命令がなかったと断言できる資料がある わけでもなく,現在の状況を覆すような記録が残っていないのでね。今の 若い人にとっては衝撃的かもしれませんが,日本軍から自決の命令があっ た,と考えるのが妥当でしょうね。

 続けてA氏は,ここからは個人的見解であるとことわったうえで,こう語っ た。

そもそもね,軍命令があったかどうか,という議論がなされていること自 体おかしいと思うんですよ。だってね,ほら,体験者の証言が書いてある 本って多く出版されているじゃないですか。私は研究者でもなんでもない ですけど,あれは嘘の証言だってまず失礼な話ですよね。わかります?当 時のことって,できれば,思い出したくないと思うんです。私なら,でき れば思いだしたくない。でもね,それでも,真実を伝えなきゃという思いで,

当時の自分の体験を振り返って証言をしているわけです。それをね,当時 の体験をしていないわれわれが疑うって,おかしな話だと思いますよ。

4 結論

 本稿の目的は,沖縄戦の民間人犠牲者に対して援護法体系がいかなる事実解 釈に基づいてどのように適用され運用されてきたのかを,援護法の沖縄への適 用過程や「戦闘協力者」の認定過程の再検討,そして実際に法の運用を担う国 の管轄部門である厚労省援護・業務課職員へのインタビューに基づいて,明ら かにすることにあった。

 集団自決と援護法の関係については,一次資料や当事者のライフヒストリー

(25)

を蒐集してきた石原昌家による研究が,長らく問題認識のカノンを形作ってき た。石原らは,援護法が集団自決(強制的集団死)の犠牲者をはじめとする沖縄 戦の民間人被害者に適用されたことは,かれらが「軍神」「英霊」として靖国 神社に登録されることを意味し,それが日本軍の組織的関与の隠蔽と日本国家 の戦争責任の免責に寄与してきたと指弾する。

 本稿の議論は,現在も日本社会で根強い皇国史観や靖国体制が,集団自決の 犠牲者に対する日本軍の強制性や日本国家の歴史的責任を希釈してきたという 石原らの議論に,異を唱えるつもりはまったくない。本稿の作業から明らかに なったのは,援護法の適用・運用を担ってきた厚生省・厚労省当局が,沖縄戦 の民間人犠牲者を援護金の支給対象に認定するにさいして,日本軍の命令や強 制があったことの事実確認を必要としてきたことである。

 すなわち援護法体系はこれまで一貫して,法の適用・運用にかかわる事実解 釈の次元では,集団自決による民間人犠牲者への援護金支給の前提として,日 本軍の強制性の存在を確認し続けてきたのである。逆にいえば,事実解釈の次 元で日本軍の組織的責任が確認されなければ,集団自決の犠牲者を含む沖縄戦 の民間人被害者が援護法の適用下に置かれることはなかったといえる。

 たしかに,集団自決の犠牲者に援護法が適用されたことが,結果として社会

4 4

意識やイデオロギーの次元で

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

日本軍の組織的関与や日本国家の責任にかかわる

大衆的な歴史認識を曖昧にしてきた側面を,わたしたちは否定することはでき

ない。だが,本稿の分析を通してわたしたちは,集団自決をめぐって吹き荒れ

る歴史修正主義に有効な批判を加えつつ,沖縄戦をめぐる歴史認識の水準を確

保していくためには,社会意識やイデオロギーのレベルと法の適用・運用をめ

ぐるレベルの重層的なからまりあいを,総体として捉えうるような視座を確保

していく必要があるといえるだろう。

(26)

(1) ただし,本稿の主たるテーマにかかわる戦傷病者戦没者遺族等援護法施行令は,沖 縄を含む「南西諸島」が「戦地であった期間」を,最初に沖縄大空襲があった1944年 10月10日からとしている。

(2) 集団自決をめぐる修正主義的攻撃のなかでの歴史研究者の試行錯誤と,その結果と して近年の沖縄戦研究が到達した水準については,屋嘉比(2009),林(2010),新城

(2014),戸邉(2015)などを参照のこと。

(3) ただし前述のように,1953年8月に軍人恩給が復活したため,恩給の対象者は援護 法の適用からは外れることとなった。

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厚生労働省ホームページ「戦傷病者及び戦没者遺族への援護」 (http://www.mhlw.go.jp/)

2014.10.23閲覧。

謝辞・付記

 本稿は,2014年度に社会学部社会学科卒業論文として提出され「社会学部長賞最優秀賞」

を受賞した加藤の卒業論文(学外未公開)に,指導教員であった石原が研究状況などをふま えて大幅な加除修正を施したものです。元の卒業論文の原型をとどめぬほど修正を加えた 箇所が多いものの,石原としては加藤の初発の問題意識をできるだけ尊重するよう努めま した。なお,引用文中の旧字体は原則として新字体に修正しています。学術文献等からの 引用文中の「/」は,原文の改行箇所を示します。

 最後になりましたが,本稿執筆にあたり,内閣府沖縄振興局沖縄戦関係資料閲覧室のみ

なさま,厚生労働省のみなさまにお世話になりました。とりわけ,ご多忙中にたびたび筆

者の質問に答えていただいた厚労省社会・援護局援護・業務課のAさんには,心からお礼

申し上げます。Aさんのお話を含め,本稿記載の一次情報の大半は2014年10 ~ 12月時点

の内容であり,その後変化している可能性があることをおことわりしておきます。もちろ

ん,本稿の内容に関する責任はすべて,筆者に帰されるものです。

(29)

参照

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