﹁イングランド王國輻耐論﹂について
一\序
論 一
濱,林正'夫
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私がここで﹁イン︑グランド王國輻耐論﹂と繹したのは...爵∪溢8⊆基oOh爵①Oo営営o岸嶺σ巳o恥酵ぼ硯剴Φ鑑信o隔
ざヨノ国⇔σq宣β伽︑・のごとである︒これは一五八一年 W・鼠﹂という匿名氏によつて︑エリザベズ女王への献僻を附して初め
︑て公けにざれたものである,が︑その時の標題は..臣O︒目好①昌脅︒qψo円び昌①用Φo図蟄据言暮ざ昌o騰o①洋欝M型①o尾象β鴛団
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OΦβ菖o目蟄見︑となつており︑まだ尉の版では..Pび艮oぽ︑8β8首言o馬掛σq冨魯Φ娼o押凶9曳︑テ乏も題さ耽ている噂之
ド の書物がいつ誰によつて書かれたかについては︑長い聞学界で論議されてきたのであるが︑私はここでその考讃をす
ノも..すめるつもり︑は毛頭ない︒ただ︑エリザベス・ラモン下(︺円一一N笹び㊦け昼H奮唐O︼ρ9)︑の徹底的な研究により執筆者はジ.ン・
へールズ(qσげβ・H日笹一Φ司ロ)︑執筆の時期は一五四九年之いう結論がだされていること︑この結論がその後大膣一般に承
バロ認されているごとへしかしなお反樹意見として執筆者を毒ス・スミス(日昼o目器め岩器昼﹀とする読もあること・を
げ あげておくにとどめ︑内容の槍討にはいりたいと思う︒
ゆゆロ﹁イソグナyド王國繭融論﹂について
一1一
"人丈研究第四輯︑}
一五世紀の末︑ジ.ン・フォーテスキューにょつて輝かしい讃美を與えられたイギリス農民は︑すでに=ハ世紀の
初めには︑トマス・モーアの描爲のうちに曙い姿を見せているが︑他方イギリスび﹁大黒柱﹂︑﹁産業の基軸﹂と讃
えられた毛織物工業はますマニュフ・クチュアとして農村にすごやかな根をはりはじめていたi﹁イ琶グランド王
國輻耐論﹂が書かれたと推定される一六世紀中頃のイギリズ肚会は︑そのような形における近代肚会の胎動期であつ
たといえよう︒それは封建杜会耐壊期における﹁解放される陣労働の黄金時代﹂をようやくすぜ︑いわゆるくo距甲
器ざ犀ρ百から国蟄胤言冒①ざ洋昌匿への移行期であつたともいえる︒このような攣動期の耐会ぱ本書の著者にはどの
ようなものとして把乏られているであろうか︑また著者はそれに甥して何を要求しているのであろうか︒一
へ﹁企てられた事柄に賛成したり反樹したりして︑推理があちこちとなされるような︑会話または会議によつて行わ
れる推論が︑眞理をふるいだすのぼ一番良いと思われる﹂(や這)と考えるために︑著者はダイヤローグ形式を用いよ
うどする︒そこに登場してくる入物は︑ドクター(僧職についていた︑またはついている人)︑ナイト︑商人
(揖o話げ碧暮Φ)・農民(酎易び暫β画B魯)︑帽子屋(ハ︒碧娼鴇)の五入であるが︑この入物構成は作爲的と思われるぼ
なロ
ど巧みに︑地主︑商入︑小農民︑職人という階級構成をあらわしている︒ラモンドはこの会談が實際に行われたので
はないかと考え(や図)︑ぞの場所をカヴェントリ(Ooざβ霞団)之し(b璃言)︑また入物についてもナイトをへールズ
(2)㌻}(3)
( b 娼 ・ 国 ぐ ド H l 固 鋼 μ ) ︑ 駈ド ク タ ー を ︑ラ テ ィ マ ー ( 穿 σq ぽ 目 蟄 寓 B Φ H ) ( 娼 b ・咽 図 一 ‑ 図 図 一 く ) で は 潅 い か と 考 え て い る が ︑ こ れ も こ
こでは問題としないことたする︒会話は三つに分れ︑第一の会話では國民のそれぞれがどのような不満をもつているかということから弊害の所在が
指摘され︑第二の会話ではその諸弊筈の源因が究明され︑第三の会話ではその封策が←めされる︒会話のイ三シャティ
ヴはドクターがとつていて︑ナイトが会話の報告者であるにかかわらす︑結局著者の思想はドグターによつてあらわ
︹ρされるのであるが︑しかし各人がそれぞれの見方を主張している黙に︑かえつてわれわれの注目すべ巻澗題が含まれ
ているように思われる︒.,・一
び百\第三の会話の初めのところで︑ドク夢1はそれまでの会話で明らかにされたととろの︑すべての人の﹁共通の苦し
み﹂(爵①8冒営oβσq鼠①♂の)を次のように要約して炉る︒﹁第一にこの一般的普遍的な高物償(山Φ胃窪)がすべての
人が不李をいつている最も主な苦しみであり︑第二にはとの王國の財寳(書①器霞Φ)の洞渇︑第三には園込み
(貯畠oの昌$)と耕地の牧地化︑第四には町や村の嚢微︑そして最後に宗教上の意見の分裂と相違﹂(や綿)︒・そして
このおのおのの﹁苦しみ﹂について原因を分析し︑樹策をしめしてゆぐところに︑ドクタτー著者ーの輕濟論︑
.肚会思想.学問論などが展開されてくるのであるから︑私も便宜上この分類に從つてゆきたいと思う︒
しかtその前にます著者の基本的な態度を指摘しておく必要がある︒それは一言でいえば合理主義的態度といえよ
う︒樹策を提示するに先だつて︑ドクターは︑﹁すべてのこと忙おいて根源的な原因(o臥σq§夢昌畠葛Φ)を求めるべ
きであ濁﹂(や㊤◎︒)として次のように設いている︒ちょうど時計に多くの歯車が組み合わされ︑最初のものから順々に
蓮動が傳えられてゆくのと同じように︑砒会の問題にも多くの原因がからまりあい覧・それらは循環的蓮動(9目︒岳霧
目︒試︒β)をなし題る︒そしてこの蓮動の根源には最初の蓮動を誉すとζろの原因‑脊効療因(︒窪皇暮
§塁Φ)または主原因(胃ぽo甘蟄昌o碧司︒①)ーがある︒それ故にある問題をとりあげる時に必要なことは︑あれとれ
の副次的︑随伸的な現象を求めることではなく︑その根本原因をつきとめることでなければならない︒㍉上にあげた
ようないろいろなことの原因を︑判断するごとなしにとり去つたり︑主要原因と中間原因とを颪別ぜすいわば二次的
にすぎない原因をとり去つたりしているから︑人々は決して︑その問題としていることの救濟に近すくことができな
いのである﹂(娼・㊤O)︒﹁原因をとりされば結果はとりさられる﹂(0α自げ冒言︒碧︒・讐8崇ε円⑦庸①審易)(b●HOO)︒この
﹁イングラy翌王國鵜⁝祉論﹂にっいて︑
一3一
人.文研・究第四輯
ような考え方はへ︒クシャーが重商主義と自由主義との類似黙の一つとしてあげている肚会的因果律︑合理主義の見解
(4)r﹃,・Lの最も典型的な例乏してぷかれて蛎るものである︒もちろん本書のこのような合理主義は︑輩に個々の問題の因果的
關聯を把えるということに止まつていて︑維濟機構の全艦を一つの自律的な︑﹁自然の流れ﹂をもつものとして考え
.るにはMたつていないけれども︑それは重商主義思想一般の共通の限界ともいえるものであつて︑決して本書の基本,卑的な合理主義的思惟方法を妨げるものではない︒経濟や砒会などの諸問題をそれ自膣として因果的合理的に究めrてゆ
き︑根本的な野策をたてようとする態度︑そ七てその態度︑方法についての明確な自箆f本書が一六世紀の著作と
してきわめてユ昌ーグな地位を占めえたことの火きな理由の一つはここにあるといわなければならない︒
(1)この考証の歴史については︑高橋誠一郎﹁重商主義維濟學設研究﹂(昭瀦七年﹀ニニ八ー二三三ぺ書ジにくわしい招介が
あ る ︒ ラ モ y ド の 研 究 成 果 は そ の 死 後 ︑ W ︒ カ ニ ン ガ ム に よ つ て ︑ 軌︑ } O 富 o o d 器 ① o h 浮 ρ O o 巨 日 O b ≦ o 巴 ⇔ 隔 け ぼ ︒︒ 函 Φ 巴 目 O h
浮 αq ζ 昌 誌 冨 け 娼 ユ 暑 μ ぽ 扇 ︒︒ H 慧 負 8 日 暮 三 団 畢 ユ び 巨 巴 8 嘩 聾 ︒ 愛 & 浄 ︒ 日 蔑 ︒ 出 ︒D の ξ 魯 巴 器 日 冨 び 雲 げ 冒 巳 巳 ︑︑
ハHQOO騨器やHONO)として出版されたが︑この序文に彼女の結論の基礎ずけがある︒本稿の引用も全部この版によつれ︒他に佛課
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と し て b 昌 脅 争 ︹ ︑・ 朗 謎 ① 昼 脚 ﹄ O 犀 口 国 巴 Φ O ℃ 審 伽 O O 霞 宣 ① ① け ︒︒ O 眉 け O 巨 陽 ( ↑ O O 刈 ) が あ ろ ︒ ' . ・
ラ モ y ド の へ ー ル ズ 読 は ︾ R ・ H ・ ト 書 ニ イ ︑ W ・ カ ニ ン ガ ム ︑ W し ﹂ ・ ア シ ユ リ ら に も 廣 く う け い れ ら れ て い う が ︑ ・ そ れ 以 前 に は
一 五 八 r 年 ︑ ウ ィ リ ァ ム ・ ス タ ッ フ ォ 書 下 ( 高 芭 宣 日 a 部 窒 ︒ 巳 U に よ つ て 書 か れ た と い う 読 が 麦 配 的 で ︑ K ・ マ ル 〃 ス ︑ J ・ K ・ イ y
グ ラ ム な ど は そ れ に 從 つ て い る ︒ し か し 最 近 で も へ ー ル ズ 説 に 反 鍔 が な い わ け で は な く ︑ 六 と え ば } ・ 周 ・ O ゲ 巴 犀 鴨 嶺 暮 導 巴 冒 薯
ノノあ
聾 餌 昏 Φ 盈 器 ︒ 肉 国 8 口 ︒ 鼠 ︒ H 謬 a く 窪 葛 蕾 言 富 国 5 σq 罫 5 臼 ( ﹄ o 脅 ・ ︒ 剛 蜀 ︒ ﹃ 国 8 ・ く o 冒 置 図 ・ 心 ・ 摩 ω G︒ 心 口 ︒ け ︒ 気 ) に よ る と ︑ 早 同 ・ 旨 ①
ドノへ﹂W冨9冨帖国︒曇ロ昌o雷び冨聲弓冨勘︒目巴︒(這GQ由)は㍗マスのスミスな執筆者としており︑これはラモyドの死後嚢見された養︑・料にもとずくも'ので︑彼女の主張ないちじる一しく弱めたが︑しかしやはり確定的てはないとされていろ︒・
(2)ジヨン・(ールズにケyトの生れ︑正式の数育はうけなかっ六が博學でとくに古典に通じ︑エドワード六世時代に下院議員
となサ︑農耕奨働︑食糧品投機阻止斗畜産奨働の三法案凄提出し宏がいずれも否決され︑同年サマセット侯の下に土地園込み︑委員
會(OO目P冒P一〇ロロ一〇口05︼尉昌O一〇胆鐸同①ω)に加わつて中部地方な捲當したが︑+分な成果はえられなかっ糞︒しかし園込み反封蓮動に払
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い て は ラ テ ィ マ ー と 共 に ・δ o 日 白 o μ 毒 ㊦ 9 H ま 目 9 .︑ と 呼 ば れ ろ グ ル ー プ な つ く つ て 最 も 精 か 的 な 活 動 あ し て お り ︑ こ め 委 員 會 の う
ちでも(←ズの部會だ戯が眞創に問題をとりあげて裂といわれる(魯即串弓薯・奄・日冨卜σ・琵曽団尋菩甘ぎ
己Q 一 鋒 o ① 葺 ゲ O ① 具 葛 ︾ H ゆ H ド も ・ G︒ ひ ひ ) ︒ ー ‑) 叛 し サ マ セ ッ ト の 失 脚 ︾ 共 に 故 國 な 追 わ れ ︑ 十 藪 年 の 放 浪 の 後 露 英 ︑ 一 五 七 r 年 世 な 去 つ
へた︒虚皿世術︑健康法︑・丈法論についての著課書がある︒ (3)ラティマ!は一四八五年ようヨーマyの子として生れ︑ヶムプサッジ悲學ぴ︑後ウー・スタ誓檜正となる︒宗教改革の擁護者で
その説教は多くの入々な改宗ぜしめれといわれるが︑更に薩會問題についてもデディ労ルな批判者であり︑とくに土地園込み蓮動
に封しては烈しい非難をあびぜて'いる︒後メァリーの薪教徒迫害にあい︑一五五五年激百の信者と共に擁き殺された︒
(4)財.国8認9コ自霞§曇罠︒・夢HOG︒夢く︒冒閏窄G︒Hω●.・
幽曜高物憤ー1領格論と貨幣諦
ドクターはいう︒﹁帽子一つが一四ペンスだつたのに今買うとニシリング六ペンス︒卜⁝・一足の靴は﹁ニペンスも︑
するが︑昔ならもつと良い昏のでも六ペンスで買えた︒馬一匹に蹄をつサるのに昔は普通六ペンス︑最近でもせいぜ
い八ペンスだつたのに︑今では一〇ペンスまたは﹁ニペンス以下では手に入らない﹂(やQ⇔QΦ)︒商入はいう︒﹁この↓
○年間になら四シリング八ペンスで買えた衣類=ヤードに︑今は八シ男ング佛つてい.る﹂(やcQゆ)︒ナイトはいう︒
ヒ﹁この八年間豚や鷲鳥はよりどり一匹四ペンスで買えたのに︑今は八ペンスもするし︑また良い食用難一羽三ペンス
または四ペンス︑ひよこが一︑ペニー︑牝鶏が二ペンスだつたのに︑今はその二倍もするだろう﹂(緊器)︒あるいはま
﹂た︑﹁われわれの仲間でまだ田舎に佳んでいる人冷は︑わすか=ハ年前なら年二〇〇マークでやつてゆけたのに︑今
では二〇〇ポンドでも家を保つてゆけない︒だからわれわれは家計の三分の一を祓するか︑または牧入の三分の一を
増加させるかしなければならないのだ﹂(や8)︒帽子屋はいう︒﹁現在では徒弟や召使の飲食物を見つけてやろうと
﹁イyグヲy下王國編愈論﹂にっいて
一5一