「事実の認容文」と「仮定の認容文」の枠組み
Irrelevanzkonditionaleを如何に位置づけるか
横山 明弘
はじめに
日本でのドイツ語文法では認容文には「事実の認容文」と「仮定の認容文」があ って、それぞれ「・・・であるのに・・・である」と「たとえ・・・であっても・・・
である」といった意味に対応するとされている。このことが示すことは、「事実の認 容文」と「仮定の認容文」というように区別されはするがそれらは同じ本質を持つ ものであるかのように捉えられているということである。しかし、その共通の性質 を「認容性」とすればそれは一体何であるかということの説明はこれまでほとんど されてこなかった。例えば関口存男は確かに認容文の現象を精細に分析してはいる1 が「事実の認容文」と「仮定の認容文」が共通に持つ筈である本質即ち「認容性」
について語ることはなかった。そして、「事実の認容文」と「仮定の認容文」は前件
(=副文)で語られる状況が事実に基づくものであるのか仮定に基づくものである のかといったことによって区別され、その区別は後件(=主文)で語られる状況と は直接的には関わりないのである。「直接的には関わりない」というのは原因・帰結 といった因由関係にないことは勿論、同時には成立し得ないように見えながら、常 に互いに排除し合う関係にあるのでもないという意味である。
一方、ドイツでのドイツ語文法ではどうであるのかということについて本論では 主 と し て König/Eisenberg( 以 下 König) の 論 文 Zur Pragmatik von Konzessivsätzenに拠るのであるが、そこではKonzessivsätzeはKonditionalsätze とIrrelevanzkonditionaleとの関連において取り扱われている。この三つのタイプ の文はいずれも前件を前提条件としたときの前件と後件との関係を表現していると いう意味に於いて類似しているからである。そして、この三種を互いに区別するも のはまずこれらの文がどのような形を取って現れるのかといった形式的な区別であ り、同時に文の中での前件と後件とが持つ意味論的な特性(含意性)による区別で ある。尚、「副文」、「主文」ではなく「前件」、「後件」の区別を使用するのは、扱う
1 「接続法の詳細」第4章第4節、「独作文教程」第5篇、「新ドイツ語文法教程」
第46課など
横 山 明 弘
対象である二つの部分文の関係が条件的な関係に近いからであり、また、主文、副 文といった文法的関係がなくなる場合があるからである2。
Konditionalsätzeについて (1) Wenn p, (dann ) q.
Konditionalsätze, deren typische Form in (1) angegeben ist, implizieren logisch weder Antezedenz (p), noch ihre Konsequenz (q).
( König p.314 )
(1) もしpなら、(そのときには)qである。
典型的に (1) で表されるようなKonditionalsätzeは論理的にその前提条 件 (p) もその帰結 (q) をも含意しない。
Irrelevanzkonditionaleについて
(2) ( Ganz gleich ) ob p oder ~ p , q3. alternative Irrelevanzkonditionale (3) (∀x ) ( wenn px , q ). universale Irrelevanzkonditionale Irrelevanzkonditionale, deren allgemeine Form (2) und (3) angebenen ist, implizieren logisch die vom Nachsatz ausgedrückte Proposition ’q’.
( König p.315 )
(2) p であるか非p であるか(に関わらず)、qである。
(選言的Irrelevanzkonditionale)
(3) すべての x についてpx ならば q である。
(全称的Irrelevanzkonditionale)
一般的な形式 (2) と (3) で与えられる Irrelevanzkonditionale は論理的 に、後件によって表現された命題 ’q’ を含意する。
Konzessivsätzeについて
(4) Obwohl p , ( dennoch ) q.
Von Irrelevanzkonditionalen unterschieden sich Konzessivsätze u.a.
dadurch, daß nur zwei Teilproposition miteinander in Beziehung
2 従属接続詞で関係付けられているのも関わらず副文が前に置かれるとき主文の定 動詞が正置されること。
3 記号~は否定記号、記号∀は全称記号 ( for all x )を意味する。
「事実の認容文」と「仮定の認容文」の枠組み
gesetzt werden und daß die Proposition, die der gesamte Satz ausdruckt, die beiden Teilproposition logisch impliziert. ( König p.316 )
(4) p であるにも拘らず q である。
Konzessivsätze は、ただ二つの部分命題が互いに関係付けられることに
よって、また文全体を表現する命題が両者の部分命題を論理的に含意し ていることなどによって Irrelevanzkonditionale から区別される。
内容的に同じことが G.Zifonun...(以下 Zifonun)による Grammatik der deutschen Sprache (Band 3) にも挙げられている。
Das Irrelevanzkonditionale nimmt semantish eine Zwischenstellung zwischen Konditionalität und Konzessivität ein : Wie beim Konditionale und anders als beim Konzessivsatz kann nicht auf die Gültigkeit des Antezedens geschlossen werden ; wie beim Konzessivsatz und anders als beim Konditionalsatz kann auf die Gültigkeit des Konsequens geschlossen werden. ( Zifonun p.2319 ) Irrelevanzkonditionale は意味論的に条件性と認容性との中間的位置を 占める。即ち、Irrelevanzkonditionaleは条件文の下でと同様に、また認 容 文 の 下 で と は 異 な り 前 件 の 妥 当 性 を 推 察 し 得 な い 。 ま た 、 Irrelevanzkonditionaleは認容文の下でと同様に、また条件文の下でとは 異なり帰結の妥当性を推察し得る。
Königが使用する用語logisch implizieren(論理的に含意する)とZifonunが使 用する用語auf die Gültigkeit schließen(妥当性を推論する)は同義と解すること が出来る。形式論理学では「含意する」とは、“ p ⊃ q “ を表す、即ち命題 “p” , “q”
について “p” が真であれば常に “q” もまた真であることを言う。しかし、「含意す る」とか「妥当性」とかいった形式論理学的な「真偽性」に結びつくような概念は この場合のような文の意味論的な区別立てのための基準には適さない。なぜならこ れらのタイプの文は、とりわけそれらの後件に於いて真理値を決定不能とするよう な命題を含むことが多々あるからである。例えば、誓いだとか約束だとかいった行 為遂行的な「命題」はその真理値を決定することはできないということが周知のも
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のとしてよいとすれば、前件がたとえその真理値を決定することが可能であるよう な文であるとしても、後件が誓いや約束などの文の場合にはその二者を同列に置い て「含意する」と語ったとしても厳密には意味のあるものとはなり得ない。たとえ ば、ここで取り上げられている三種類の文タイプでそれらの後件が疑問文であった り命令文であったり感嘆文であったりするときにはいずれの場合にもその真理値は 決定し得ないのであるからである。また、「妥当性」と言ってもいわゆる論理的な妥 当性が問題となるのではない。一般的に用いられる文を対象とするのであるから、
Gültigkeit はむしろ「通用するものであること」といった意味であるに過ぎない。
従ってここではいわゆる形式論理学的概念としての「含意」や「妥当性」を使用し ているわけではないと好意的に解するとすれば、ここで引用した三つの文の区別の ための基準は直感的にはよく分かる面があって、むしろ「事実その通りである」や
「確定している」などを「含意する」とか「妥当性」に置き換えれば厳密さは欠け るところがあるとしても妥当な説明となる。すると挙げられたこれらの三つのタイ プの文の区別は以下のようになる。
Konditionalsätze : 前件も後件も確定していない、或いは事実ではない。
Irrelevanzkonditionale : 前件は確定していない、或いは事実ではないが、後件は 確定している、或いは事実である。
Konzessivsätze : 前件も後件も確定している、或いは事実である。
従って Konditionalsätze は (1) の規定から日本語で言う「条件文」であり、
Konzessivsätze は (4) の規定から「事実の認容文」であるとすることができるこ
とは明らかであるとしてよい。では、Irrelevanzkonditionale が前件と後件との「事 実性」或いは「確定性」に関わる区別からすれば「仮定の認容文」であるとしても、
(2) と (3) の形式規定が「仮定の認容文」の「規定」と一致するかどうかは見てゆ かねばならないことである。つまり、Irrelevanzkonditionale は「仮定の認容文」
であるとみなすことは妥当であるか、ということが問題である。とは言え「仮定の 認容文」とIrrelevanzkonditionaleとではその規定の仕方がまったく異なっている。
「仮定の認容文」がその前件の規定状況のみに従って規定されているのに対して
Irrelevanzkonditionaleはその前件と後件との意味関係に基づいているのであるか
ら 、 こ れ ら 両 者 の 適 用 範 囲 が 全 く 一 致 す る と は 考 え に く い 。 一 方 、 Irrelevanzkonditionaleについて次のようにされている。
「事実の認容文」と「仮定の認容文」の枠組み
Eine Unterscheidung der drei genannten Konstruktionstypen, die bisher —— wie bei Adverbialsätzen allgemein üblich ― lediglich auf semantischen Kriterien beruht, ist auch aufgrund syntaktischer Kriterien möglich. Im Gegensatz zu den beiden anderen Adverbialsatztypen stehen die beiden Teilsätze von Irrelevanzkonditionalen stets in einem parataktischen Verhältnis, d.h.
der Vorsatz ist nicht Satzglied im Nachsatz, der sich somit mit normaler Grundstellung anschließt. ( König p.316 )
これまで挙げてきた三つの構文の区別は ― 一般的に副詞句を含む文で通 例であるように ― 意味論的区別に基づいているが、構文的な基準に基づ くことも可能である。副詞句を含む文のほかのタイプとは対照的に Irrelevanzkonditionaleの部分文は常に並列的である。即ち、前件は通常 の定動詞正置と連結するような後件の文肢ではない。
日本で教えられるドイツ語文法ではIrrelevanzkonditionaleの概念は浸透しては いない。更に、いわゆる「認容文」でその副文が先行するとき主文では定動詞が正 置される現象についてこのことは「認容文」一般的によくある現象として語られる の み で Irrelevanzkonditionale と 関 連 さ せ て 語 ら れ る こ と は な い 。
Irrelevanzkonditionaleのメルクマールとして副文先行時の定動詞正置は法則とさ
れる以上、その法則は日本におけるドイツ語文法に取り入れられるべきである。こ のことのためにはIrrelevanzkonditionaleと「仮定の認容文」との関係を明確にす ることが不可避である。つまり、問題は「仮定の認容文」とIrrelevanzkonditionale のその適用の範囲と限界がどのように定められるべきか、ということになる。そし てそのためには、こうしたことに見通しをつけるためには「事実の認容文」、「仮定 の認容文」そしてIrrelevanzkonditionaleがそれぞれ意味するもの、それらが実際 の文に使用されるときの諸特徴を明らかにしていく必要がある。
この論文では「事実の認容文」、「仮定の認容文」、Irrelevanzkonditionaleのそれ ぞれの形式的な規定とそれらの持つ意味をまず明らかにしていきたい(I, II, III)。 そしてこれらが実際に使用されることによって現れてくる諸特徴が共通にあるなら ばこの三つの形態は本質的には同一のものであることが示せる筈であろう(IV)。 以上のことを踏まえて、認容文と文脈との関係を探ってみたい(V)。この論文の出
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発点はそもそも認容文は文脈に規定されるのではないかという問題意識であった。
そして認容文に関するその本質的な事柄とその諸機能がある程度解明されれば文脈 との関係も一定程度は明確になってくると思われるからである。
I Irrelevanzkonditionale
I-1.Irrelevanzkondotionaleの形式的区別
Irrelevanzkonditionale に は 選 言 的 Irrelevanzkonditionale と 全 称 的 Irrelevanzkonditionaleとがあった。そして、選言的Irrelevanzkonditionaleは(2) で表現された。
(2) ( Ganz gleich ) ob p oder ~ p , q.
例文1-1 Ich stehe zu ihr, ob sie es nun gesagt hat oder nicht. ( Duden p.706 ) 彼女が今そのことを言ったにしろ言わなかったにしろ私は彼女の味方だ。
同様に全称的Irrelevanzkonditionaleは(3)で表現された。
(3) (∀x ) ( wenn px , q )4
例文1-2 Ich stehe zu ihr, was auch immer geworden mag. ( Duden p.306 ) たとえ何が起ころうとも私は彼女の味方だ。
選言性規定(2)は形式論理学的には Irrelevanzkonditionale の表現形式を記号化す るという積極的な面はあるとしても余り意味のあるものではなく、“p oder ~ p” と いう前件はIrrelevanzの名称にふさわしく、前提条件として何らかのことを語って いるわけではなく、 無条件に “q” という帰結が生じることを語っているに過ぎな い。言い換えるならば“p oder ~ p” は全集合もしくは命題の定義域の全ての領域を 表しているのであり、あらゆる変数或いは要素或いは条件がその中に含まれている ということなのであるから、従って、“ob p oder ~ p , q.” という式は単に命題 “q”
を表明しているに過ぎないのである。しかし、ここで (Ganz gleich ) が無視できる ものではないことが重要である。“p” も “~ p” も等しく前件に置かれるのであるか らそのどちらも前提条件の資格を等しく持っている。従って、“p” 或いは “~ p” の
4 px という表示法は関数表現としては一般的ではないので以降 p(x) という通常 の表記をする。
「事実の認容文」と「仮定の認容文」の枠組み
どちらかの条件の下では “q” はそこから、つまりその条件を前提条件としたとき、
前提―帰結の関係から必然的に成立する。
例文1-1 で文脈では明らかに、「彼女がそのことを言った(言わなかった)」とす れば彼女の味方をするものはいなくなるか或いはかなり少数となることが見込まれ ている。言い換えれば、「彼女がそのことを言った(言わなかった)」とすれば「私 が彼女の味方をする条件は悪くなる」ということである。そして、その逆の場合「彼 女がそのことを言わなかった(言った)」とすれば、彼女は依然として支持されてい るし私が彼女を支持することをわざわざ言う必要もないのである。結局「彼女がそ のことを言った」とすれば「私は勿論彼女の味方である」、或いは「彼女がそのこと を言わなかった」とすれば「私は勿論彼女の味方である」のである。そのどちらで あるかは文脈によって決定されることである。例えばこの例文1-1 を「彼女がその ことを言わなかったときには勿論私は彼女の味方だし、そのことを言ったとしても 私は彼女の味方だ」の場合だとすれば、「言ったときには私以外のものは彼女の味方 をしないであろう」ことが前提されているのである5 。
次に全称性規定 (3) について、その形式論理学的命題 (∀x ) ( wenn p(x) , q ) は「すべての “x” について “p(x)” ならば “q” である」ということであり、つまり
「すべての “x” について関数 “p” がp(x) をとるとき “q” である」ということで あるのだが、これも (2) と同様に形式論理学的な記号化という側面を除いてあまり 意味がない。ここで関数 “p” の定義域はこの文の発話で話者と聞き手との間の共通 の基盤となっている話題のその限られた領域の全てを網羅する。そして、例文 1-2 では、例文1-1と同様に「何かが起これば私が彼女の味方でありえる状況が不利と なる」場合が見込まれているのである。つまり、帰結 “q” の逆を「期待」するよう
な関数p(x)の値が暗黙裡に前提されている。一般にこの形式は疑問詞によって導か
れ、その疑問詞と助辞(auch,immerなど)がこの関数の全称性を保証するのだが、
例えば疑問詞がwo― 通常wo+immer(auch) ―であるなら “p” の定義域はあらゆ る場所を示すし、“x” はその定義域を全て動くということである。つまり、( ∀x ) ( wenn p(x) , q )は “p” という関数の定義域全体で “q” という帰結が成立するであ ろうことを示しているに過ぎないのである。しかし、ここで( ∀x ∃x’ ; p(x’ ) = ~ q )6 である。すなわち、「すべてのxについてx’ が存在し、p(x’ ) のとき “~ q” である」
5 ここでの「前提」は、発話の対象との間にある暗黙の了解事項となっているとい うことである。
6 ∀x ∃x’ :… とは for all x , there exists x’ という意味である。
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を意味するのであるが、このことを例文 1-2 に即して言うならば、「何かが起こる とき彼女の味方をする者はほとんどいなくなる」ような何かがあることが話者と聞 き手との間で暗黙裡に前提されているのである。むしろ「彼女の味方をする者はほ とんどいなくなる」に違いないような状況が話者と聞き手との間にある共通の了解 事項となっている。この了解事項があるということに基づいて例文 1-2が発話され、
その発話内容が話者の決意を表現させるものとするのである。
I-2.Irrelevanzkonditionale の表す意味
――「帰結と逆なことへの期待」と「意外な価値」について――
帰結の逆のことが前提されている、或いは期待されている、ということについて
Königは次のように語っている。
Einer bzw. einige der im Vorsatz eines Irrelevanzkonditionals genannten Werte stellen einen überraschenden Wert für den genannten Konditionalzusammenhang dar. Einer dieser Werte läßt eher das Gegenteil der genannten Konsequenz erwarten. ( König p.316 )
あるIrrelevanzkonditionaleの前件で語られた価値の一つの或いはいくつ かのものは語られた条件関係にとって意外な価値であることを表す。この 価値を持つあるものは語られた帰結のむしろ逆のことを期待されている。
ここで語られていること(「語られた帰結のむしろ逆のことを期待されている」と いうこと)は確かにIrrelevanzkonditionaleであると言われる文に現れてくる。「意
外な価値ein überraschender Wert」が、語られた「帰結」とは逆のことを期待さ
れているのであるが、ここで条件関係や帰結といった用語が使用されることによっ ていわゆる条件文であるとされている。しかしこの関係は、後件(帰結)が前件と は無関係に成立するが故に「条件関係」とは言えない。このことこそIrrelevanz(意 味のないこと)であることを指し示すものであるのだが、前件と後件とは前提―帰 結の関係にはないのである。このことについてDuden ( Band4 )では次のようにし ている (以下 Duden )。
「事実の認容文」と「仮定の認容文」の枠組み
Was im Satzgefüge im Nebensatz aufgeführt ist, wird als relevant oder irrelevant für die Geltung dessen bestimmt, was Hauptsatz aufgeführt ist. Wir setzen zwei Typen an, der Typ der Irrelevanz und den Typ der Relevanz. ( Duden p.705 )
複合文において副文で語られていることが、主文で語られていることの妥 当性にとって意味があるかまたは意味がないものとして役割を果たしてい るとき、二つのタイプがそれに当てられる。即ち Irrelevanz であるタイ プと Relevanz であるタイプとである。
Relevanzであるタイプについてはここでは取り扱うことはないのだが、Irrelevanz
であるタイプについてはここでは前件は後件にとって意味のない(重要ではない)
ものとされている。意味がないのは前件には無関係に後件が成り立つからであるが、
しかし、全く意味がないわけでもないのであって、前件で語られる条件のあるもの は後件に対立するものであるのである(即ち「意外な価値」)。実際の例で見てみる と
Die Waffen, die die gutgelaunten Soldaten angeblich suchten, konnte man bei den frommen Juden, wie sehr man sich auch bemühte, nicht finden. ( M.R-Ranicki : Mein Leben p.180 )
遊び半分の兵隊たちが名目的に探している武器など、この信心深いユダヤ 人のところでどれほど懸命に探したところで見つけることなど出来はしな いのだ。
Dazu kamen die Ameisen! In jeder Ritze und Falte, in den Kleidern, im Portemonnaie und im Bette fand man sie. Man unterschied schwarze, weisse und blutrote. Die schwarze, grösste Art, fand sich in allen Mauersprüngen und im Freien, wohin immer man seinen Fuss setzte. ( 原文ママ A.Kubin : Die Andere Seite p.244 )
おまけに蟻がきた。衣服にあるどんな裂け目にもどんなひだにも、小銭入 れの中にも布団の中にもいたるところに蟻がいた。黒蟻。シロアリ。赤蟻。
それらのうちで最も大きな種類の黒蟻は、どこに出かけようと壁の裂け目
横 山 明 弘 にも屋外でも見受けられた。
これらの例ではいずれも一般の人々(始めの例では普通のドイツ軍兵士であり、
後の例では一般市民である)の主観的願望が「意外な価値」を規定している。前者 では当時のドイツ軍兵士のユダヤ人観からすれば懸命に探せばひょっとしたら武器 が見つかるのではないかという願望である。そうした願望に支配された何らかの「探 すという努力」が「武器が見つからない」という帰結の逆であるような「意外な価 値」を生み出すのである。後者では蟻だらけになった生活に嫌気がさしてきたこと の裏返しの希望からどこかに行けば蟻のないところがあるかもしれないという主観 的願望である。そしてそうした主観的願望は現実の姿とは逆のものになっているの である。
こうしてみてくると「意外な価値」を中心としてみるならば、前件での変数xの うちの「意外な価値」以外のものはその動く定義域自体が意味のないものであった のだから「追加されたもの」でしかない、ということも出来る。
Königは選言的Irrelevanzkonditionaleには
sowieso, ohnehin, ohnedies, eh ( 原文ママ) が、全称的Irrelevanzkonditionaleには
jedenfalls, wie auch immer, auf jeden Fall, in jedem Fall, keinesfalls といった代名詞的副詞が対応するとしている ( p.315 )。
これらはいずれも絶対的な妥当性を論理的関係抜きに主張するときに用いる副詞 である。この点においてKönigが指摘するようにIrrelevanzkonditionaleは一種の 過度の強調表現であり、誇張であるわけである。同時に、前件と後件との関係には 論理的関係を含まないのだから、従って全体の文の意味からすれば前件は省略可能 となる。この文の文法的な規則から言っても副文が先行するとき主文の定動詞は正 置されるのであるから、前件は省略可能なのである。省略可能なほどの前件と関係 付けられる後件の強調がIrrelevanzkonditionaleの本質である、と言える。しかし、
省略可能な前件が省略されないということは前件に「意外な価値」が含まれている ことによるしかない。「帰結の逆を期待」しているのはラニツキやクビーンの例では 一般の人々であって、だから話者から見るならばその帰結を表明するということは
「帰結の逆を期待」している「一般の人々」の考えを否定していることになる。省 略し得る前件を省略してしまえばこの「否定」は現れてくることはない。ここに Irrelevanzkonditionaleの意味があるのである。
「事実の認容文」と「仮定の認容文」の枠組み
I-3.「中間段階」の発生
選言的Irrelevanzkonditionaleでは、前件の一方の条件が後件を満たすことはわ ざわざ表明する必要はないものであった。そして「意外な価値」は帰結と逆のもの であった。それと同じ構造が全称的Irrelevanzkonditionaleでもあって、条件の変
数x1もx2もx3も・・・意外な価値X以外は全て帰結を満たすわけであり、し
かも意外な価値Xは確定しているとは限らないのである。目に見える帰結と、目に 見えないときもある「意外な価値」とを対比させるという意味での強調なのである。
そして、こうした対立の構造が Konzessivsätze との間の「中間領域」を生み出す ものであるとKönigは語る。
例文1-3 Wie sehr er sich auch anstrengte, er konnte den Stein nicht heben. ( König p.316 )
どれほど力を振り絞ってみても、彼はその石を持ち上げることは出来な かった。
例文1-4 Obwohl er sich sehr anstrengte, konnte er den Stein nicht heben. ( König p.316 )
かなり力を振り絞ってみても、彼はその石を持ち上げることは出来なか った。
wie+auch によって全称性を表し、また主文で定動詞が正置されていることから例
文 1-3 は Irrelevanzkonditionale であり、例文 1-4 は (4) の規定から明らかに
Konzessivsätzeである。しかしこの両者の間には意味的な相違はほとんどないので
ある。こうした現象に関して次のような説明がなされている。
Fließende Übergänge in der Bedeutung der beiden Konstruktionen ergeben sich immer dann, wenn in Irrelevanzkonditionalen aufgrund des Tempus und aufgrund von Hintergrundwissen „praktisch“ nur eine Bedingung als Antezedenzbedingung in Frage kommt. ( König p.316 )
両者の構文の意味に定まらない中間段階は次のときに限って生まれる、即
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ちIrrelevanzkonditionaleにおいて時制に基づいて、また、背景的な知識 に基づき単に前件条件としての条件を「慣習的に」考慮の対象とするとき である。
このことを例文に即してみてゆくならば、例文1-3ではanstrengteというように 時制が過去となっているためにこの前件で語られた状況は事実的に起こったものと 解され従って前件は「含意」されることとなる。だから例文1-3 はKonzessivsätze のように解釈される。また、後件で「石を持ち上げることは出来なかった」とある ことから彼が実際に持ち上げようとしたことがあるであろうことは容易に類推され 得ることでもあるからである。
「彼が力を振り絞る」その力が即ち変数 xであって、x は全く力を入れない状態 であるゼロから彼の力がはるか遠く及ばない無限大にまで動くことが可能である。
これは (3) のような形式論理学的規定を行う以上どれほど荒唐無稽であろうと成 立することである。しかし、通常の会話やこうした文が使用される局面では使用さ れる変数xの定義域は著しく限定されているのが実際であって通常の考えに規定さ れるのである。全く力を入れないようなゼロは想定されることはない。また普通に 想定される力持ちの力量をはるかに上回るような x も想定されることはないので ある。つまり、「何らかの x に対して常にx’ があって、その x’ は x より大きい」
そのような x’ が存在するわけではないのである。しかし、ここで期待される「意 外な価値」としてのx’ は今述べてきた限定された定義域を超えたところにあるから こそ「意外な価値」であるわけである。例文例文1-3 がIrrelevanzkonditionaleで あるとされるのは wie+auch といった表現形式からだけでなく、前件の「非含意性」
に依っている。つまり、彼がどれほど力を振り絞ったのかが確定していないからで あるが、しかし彼なりに力を入れたことは事実として承認されるであろうから、こ の前件には「含意」され得る領域をも含み込んでいることになる。つまり、例文1-3 の前件は「含意」されているものと「含意」されないものその両者を含むことにな る。言い換えれば、事実として承認し得るものと事実としてはまだ承認され得ない も の そ の 両 者 を 含 む こ と に な る 。 従 っ て Konzessivsätze と 区 別 し 得 な い Irrelevanzkonditionaleとして現れることとなる。要するに、Königは事実として 承認し得るものと仮定のものでしかないものとを同居させることを許す表現形式の もとでその両者をひっくるめて仮定のものであるとしていることになる。このこと はIrrelevanzkonditionaleに関する表現形式の規定と前件と後件との意味論的関係
「事実の認容文」と「仮定の認容文」の枠組み
に関わる規定との必然的な結びつきがないということを示すものである。
ところでDudenはIrrelevanzkonditionaleに関してその分類を3種としている。
即ち、Sachverhaltsalternativ(選言的状況)を表すものと、Sachverhaltsreihe(全 称的状況)を表すものとの他に ein einzelner Sachverhalt(単独的状況)を表す Irrelevanzbeziehungを設定する。
例文1-5 Ich stehe zu ihr, sei das auch wahr.
例文1-6 Auch wenn das wahr ist – ich stehe zu ihr. ( Duden p.706 ) たとえそのことが真実であるとしても私は彼女の味方だ。
これはまさに日本におけるドイツ語文法による「仮定の認容文」であるのだが、
ここにKönigとDudenとの対立がある。DudenはIrrelevanzbeziehungで「副文 で語られていることが主文の妥当性にとってIrrelevanz」であるようなタイプは選 言的、全称的、単独的と三つあるとしてこの例文1-5, 1-6 が「単独的状況に関わる Irrelevanzbeziehung」であるとする。一方Königは選言的と全称的との二種類し か数えない。Königが「単独的状況についてのIrrelevanzbeziehung」は「選言的 状況についてのIrrelevanzbeziehung」に帰着し得るとしているとも考えられ得る。
例文1-7 Ich stehe zu ihr, sei das auch wahr oder nicht.
例文1-5 は 例文1-7 から oder nicht を取り除き短くした(つまり、省略した)
ものとも捉えられ得るからである。前に述べてきたように、「そのことが真実である としても」ということは「そのことが真実でなければ勿論私は彼女の味方である」
ということを含むのであるから。また実際の例文を見ると
Das waren Arbeiten, die man eigentlich einem Maschinisten hätte überlassen können, aber Offizier führte sie mit einem großen Eifer aus, sei es, daß er ein besonderer Anhänger dieses Apparates war, sei es, daß man aus anderen Gründen die Arbeit sonst niemandem anvertrauen konnte.( F.Kafka : In der Strafkolonie p.204 )
それは実際技術者に任せられるような仕事と思えるのだったが、この将校 は自分から熱心にその仕事をしていた。彼にはこの装置に格別の思い入れ
横 山 明 弘
があるからにせよ、他の理由からこの仕事は彼以外の人間には任せられな いからにせよ。
これは典型的な sei es, ... sei es 文であり、ここでも明確に sei es 文の最後にoder
nicht を補うことは意味的にも妥当なことである。この文はoder nicht が省略され
た も の で あ る と 見 な す こ と も で き 、 従 っ て 「 単 独 的 状 況 に つ い て の Irrelevanzbeziehung」は「選言的状況についてのIrrelevanzbeziehung」に帰着し 得る、とすることは可能である。
しかし、このことは一般的に言えることであって、Königの問題意識はこのこと か ら は 外 れ て い る よ う に も 見 え る 。König の 本 来 の 問 題 意 識 は konzessiv
Konnektiva(暫定的に「認容指示語」としておく)、即ち認容的に用いられる前置
詞、接続詞、代名詞的副詞がどのようにある文の意味を生み出すのかといったこと 及びその特徴の分析にある ( p.313 )。だから、Konzessivsätze の規定 (4) では
obwohl のみしか導入することはなかったのである。ドイツ語の発達の中で
IrrelevanzbeziehungはKonzessivsätzeへと変化してきたという観点の下でKönig は「認容指示語」を分析・分類しそれらを特徴付けるのだが、例えば “allerdings” や
“bei all-” は全称命題のための量記号としても用いられる「認容指示語」であり、英
語のalthough, albeit, for all that, all the same や仏語のtoutefois, tout ... que 、 或いはラテン語のquamquam などに相当するとしている ( König p.323 )。しかし、
Irrelevanzbeziehung から Konzessivsätze へと変化してきたとしても、ここで
König も指摘している通り「含意性」の変化ということが当然にも問題となる。
Königの規定によればIrrelevanzbeziehungの前件は「含意」されない事に対して Konzessivsätzeの前件は「含意」されるのである。従ってIrrelevanzbeziehungか
ら Konzessivsätze へと変化してきたとすれば「含意性」が転換する、つまり、仮
定のものが事実のものへと転換されなければならないのである。この解決不能の問
題を König は「両者のタイプの構造は常にはっきりと区別されることはない」
( König p.326 )と結論付けている。
I-4.いわゆる認容文における定動詞正置の現象に関して
Irrelevanzkonditionaleの構文論的規則として、「副文が主文の前に置かれるとき 主 文 で は 定 動 詞 は 正 置 さ れ る 」 事 に 関 し て は 既 に 述 べ た 。 そ し て 、
「事実の認容文」と「仮定の認容文」の枠組み
Irrelevanzkonditionaleをドイツ語文法に取り入れてはいない日本においてこの規
則は規則として認知されてはいないことについても述べた。
茂原譲は論文「認容文章についての一考察」でこの問題について論じている。ま ず茂原は橋本文夫を引用する。
(副文が前に来る認容文で定動詞正置である場合)副文章の内容にもかか わらず、主文章の内容の正しいことを主張するのであるから、前者は実質 的に後者を規定する力を持たない。従って前者は後者の定形を左右するだ けの力がないわけである。また~後続文章の先頭に so を置けば、 so が 副詞的接続詞であるがゆえに定形倒置になる7。
こうした橋本文夫の議論に対して茂原は、では通常の副文―主文形式、即ち副文 が前に来て定動詞倒置の語順を取る認容文はどのように捉えるのかと問題を提議す る。そして、
条件文Wenn es heute regnet, bleibe ich zu Hause.では副文章 Wenn es heute regnet, は主文章 bleibe ich zu Hause に対して、条件として強い 因果関係がある。
とする一方で、
認容文 Wenn es auch heute regnet, ich gehe dorthin. では副文章Wenn es auch heute regnet, は、主文章 ich gehe dorthin. に対して何らの拘束 力を持っていないし、また、主文章に対して条件にもなりえていない。つ まり認容文は主文に対して何の因果関係を持っていないのである。
とする。これは何の変哲もないごく普通の捉え方である。そして、認容文における 定動詞正置と同じような関係を持つ分詞構文や zu 不定詞句の例を引いたり、また ドイツ語の発達史を参照しつつ次のように結論付ける。
7 橋本文夫著「詳解ドイツ大文法」三修社 1956 年 p.545
横 山 明 弘
ここで問題にした認容文章と主文の配語関係については、それが主文に対 して因果関係が希薄であるという理由から主文の語順に影響を及ぼさなか ったのか、認容文章が成熟した複合文の関係を作り出すことが出来なかっ たから、主文の動詞の位置が動揺しているのか、即断できない。しかし、
認容文章には、古いドイツ語の文章構造の残滓が窺える。良きにつけ、悪 しきにつけ、ドイツ語の構文の自由な面と野放図な面が残された唯一の文 章であるように思える。文章語としては未発達な段階にとどまり、完全な ものとはいえないだろう。その点で、認容文章は成熟しきれていない複合 文章だと考えられる。
茂原は専ら認容文の主文と副文との配語関係をドイツ語発達史から根拠付けよう としている。それなりの根拠はあるだろうが、彼の「認容文章は成熟しきれていな い複合文章だ」とする結論には、普通の文法規則にのっとった語順、つまり、副文 を前に置く主文は定動詞倒置となるような語順を持つ、そのような文章が成熟した 複合文章である、という考えが前提されている。だから認容文を「文章語としては 未発達な段階にとどまり、完全なものとはいえない」とするわけだが、では茂原は KönigやDuden のIrrelevanz に関する規定をどのように受け止めるのだろうか。
文章の成熟度とは関係なく生きた言語の法則性を追求するという観点に立てば KönigやDuden の方向はより生産性がある。KönigやDuden は Irrelevanz 関係 にある副文に対して定動詞正置の規則を見出しているからである。また、副文が前 に来る複合文で主文が定動詞正置であるのは認容文に限らず、条件文や非現実的条 件文で使われることもあることはどのように説明しえるのだろうか。それらも「成 熟しきれていない」として片付けられ得るのだろうか、という問題も残っている。
I-5.まとめと補足
Irrelevanzkonditionaleに関して、その表現形式上の規定と意味論的な特性上の
区別の規定との間に必然的な関連がないことが様々な問題性を現象させている。た
とえばDudenはこの文の種類を三種類とするのだがKönigは二種類としているこ
と、また形式的にはIrrelevanzkonditionaleとKonzessivsätzeとに差別し得る二 つの文が意味的な区別をつけられ得ないことがあること、などである。また意味論 的な特性上の区別の規定即ち「含意性」による区別自体が明確なものではなかった。
たとえば、表現形式上の規定によれば前件は「含意」されないのだが、選言的条件
「事実の認容文」と「仮定の認容文」の枠組み
においても全称的条件においても事実的であるような条件の範囲を含むことが可能 であった。つまり、「含意」され得る範囲をも含むことが可能であった。このことが
Irrelevanzkonditionaleを他の文から厳密に区別することを妨げてきたことである。
しかし、IrrelevanzkonditionaleやKonzessivsätzeの規定にKönigが形式論理学 的な概念を導入したことにはこれまで述べてきたような否定的な意味だけではなく 積極的な意味も有している。関口存男が「多少仮定的色彩を帯びた事実の認容8」と している「疑問詞に導かれる認容文」が「含意」領域と「非含意」領域とを同時に 含み得ることは全称概念を適用することによって理解し易くなるからである。
しかし、IrrelevanzkonditionaleとKonzessivsätzeの区別不能となるのは「含意 性」の非一義性にあるだけでなく両者が共通に持つ特徴の故でもあった。即ちそれ らの文の前提に置かれる対立―否定関係である。Irrelevanzkonditionaleの前件は 省略し得るものではあるとしても、この対立―否定関係が前件の存在意義を保証し ているという意味でこの対立―否定関係はIrrelevanzkonditionaleの本質的特徴を なしている。
II.Konzessivsätze(事実の認容文)
II-1.König―Heidolphよる特徴づけ
Konzessivsätzeは次のような文であるとされる。
Obwohl er sich sehr beeilte, kam er nicht zurecht. ( Duden p.695 ) 急いだにも拘らず彼は間に合わなかった。
すなわち、前件で述べられていることと後件で述べられていることが通常では同時 に成立することはないかのように表現される文であるわけであるが、このことに関 して König は Konzessivsätze 規定(4)(本論 p.2)を更に深め、認容関係の特徴 づけのためにHeidolph et al ( 以下Heidolph )を引き合いに出す。
8 関口存男「新ドイツ語文法教程」三修社 1994年 p.325
横 山 明 弘
In dieser Relation stehen zwei Sachverhalte p und q , von denen p im
„Normalfall“ – auf Grund bisheriger Erfahrung, nach Ansicht des Sprechers usw. – einen Sachverhalt Neg(q) bedingt oder begründet, der den Sachverhalt q ausschließt, die aber beide als real voraussetzt (Bedingung – Nichtbedingtes) oder bereits realisiert sind bzw. – im Falle von Zukunftsaussagen – vor ihrer Realisierung stehen (Grund – Nichtfolge). Wenn neben p , das nach der Erwaltung Neg(q) bedingt, q gegeben ist, so stehen q in der Konzessivrelation. ( Heidolph p.806 ) この関係には p と q という二つの状況があって、そのうちの p は「通 常の場合」――これまでの経験に基づき、あるいは発話者の観点に従って、
などなど――『 q の否定』という状況を前提する、もしくは基礎付ける。
この『 q の否定』という状況は q という状況を排除する。しかしこの二 つの状況は両者とも事実として前提されている(条件付けられているもの
――その条件を否定したものが条件付けられているもの)、あるいはすでに 事実化しているか――未来に関する発話の場合には――その現実化を目前 にしている。期待された『 q の否定』を結果として生み出すような p と q があるときp と q は認容関係にある。
このHeidolphによる特徴づけをKönigは次の(4)-(4’)のように要約する。
(4) Obwohl p , ( dennoch ) q.
(4’) normalerweise ( wenn p, dann ~q ) ( König p.317 ) (4) p であるにも拘らず q である。
(4’) 通常は、pであるならqではない。
例文2-1 Obwohl er sich sehr anstrengte, konnte er den Stein nicht heben. ( König p.316 )
かなり力を振り絞ってみても、彼はその石を持ち上げることは出来なかっ た。
ここで (4’) を例文 2-1 に適用すれば「普通ならかなり力を振り絞ってみれば(誰 でも出来ることだろうから)彼はその石を持ち上げることが出来るだろう」という ことになって例文 2-1 の帰結である “q” 即ち「その石を持ち上げることは出来な
「事実の認容文」と「仮定の認容文」の枠組み
かった」を否定していることになる。重要なことはここで “q” の否定が例文2-1に 前提されているということである。今ここで挙げた Heidolph の説明には “p” と
“q” との否定に関わる関係すなわち文の真理条件に関わる問題と、“p” と “q” の前 提条件に関わる問題という二つの問題が提議されているのだが、König は前提条件 に関わる問題をKonzessivsätze ではより本質的と見ている。König は暗黙裡の前 提 Präsupposition を 、「 正 常 で は な い 投 影 作 用 」 ein abnormes
Projektionsverhalten を示すものであるとしている。すなわち暗黙裡の前提は論理
的な含意とは異なり、文脈や会話的な含意に限定されるとしても文全体に受け継が れるものであるとするのであるが、「正常ではない」とは「通常のことを否定する」
ことを表しているに過ぎないし、また、暗黙裡の前提についてはその一般的な規定 以上のことが語られているわけでもない。とはいえ Konzessivsätze の前提として (4’) が承認され得るとすれば、1. obwohl , wenn auch などのKonzessivsätze を指 し示すような接続詞、前置詞、副詞などは文の真理条件に対していかなる作用もし ていないこと、2. 暗黙裡の前提 (4’) は文の真理条件に対していかなる作用もして いないこと、従って 3. 暗黙裡の前提ではなく認容指示語が文の意味を確定させて いること、が明らかにされる。
ここで今語られた「暗黙裡の前提」に関してみてゆくならば、Königが持ち上げ るようにはそれほど革命的なことが語られているわけではないのである。話者と聞 き手との間に「暗黙裡の前提」があるということは話者の発話に対して聞き手は何 らかの事を期待する、或いは何らかの事を予想する、といった形で「暗黙裡の前提」
に結びつけるのである。こうした構造はいわゆる「因由文」や「条件文」で前件で 語られる事情と後件で語られる事情とを必然的に結びつけるものが「暗黙裡の前提」
である、そのような構造と本質的に同じものである。「因由文」の規定に因果律と結 び付けて論じるようなものも見受けられるが、「因由文」や「条件文」の本質は哲学 的認識論的なものではなく人間の使用する言語一般に備わるものである。それらが 使用されたときのその意味が言語発達上でもそれ程に歴史的社会的な規定を受けな かったからである。であるとするならば、ここでもKönig/Heidolph の言う「通常 はpであるならqではない」も「qではない」ことが期待されているに過ぎないの であって、そのことは条件文「もしpなら、qである」で「qである」ことが期待 されているに過ぎないのと同じである。
横 山 明 弘 II-2.Konzessivsätze規定
Konzessivsätze即ち「事実の認容文」の暗黙裡の前提としてその文の帰結の否定
があるということは十分に納得しえる議論であるのだが、まず一般的に「事実の認 容文」(基本的にこのことは「仮定の認容文」にも妥当することであるのだが)には 対立―否定関係が存在することは認められている。この対立―否定の関係は
Konzessivsätze即ち「事実の認容文」の規定に関わることでもあり、また実際に様々
な規定がなされているのだが、それらを挙げてみる。
(a) Duden
Zwischen zwei Teilsätzen besteht ein Verhältnis des unzureichenden Gegengrundes; In einem der beiden Teilsätze wird ein Sachverhalt formuliert, der zwar im Gegensatz zu dem des anderen steht, aber nicht ausreicht, um dessen Geltung außer Kraft zu setzen. Wir können hier einen Typ unzureichender Gegengrund ansetzen. ( Duden p.695 )
二つの部分からなる文があってその二つの文の間に不十分な反論根拠があ る、というような関係があるとする。つまり、その二つの文の一方にはあ る状況が語られていて、それは確かに他方の状況とは対立してはいるが、
その状況の妥当性を失効するには十分ではない、そうした関係である。こ のとき何らかのタイプの不十分な反論根拠をおくことができる。
この定義は正しいように見える。しかし、不十分である。即ち、認容文というも のが何を伝えるものなのかが明確ではないからである。不十分な反論根拠があるこ とを伝えるものなのか、何らかの対立状況があってその対立が解消されないことを 伝えるものなのか、ということである。「確かに他方の状況とは対立してはいるが」
という具合に対立状況が語られてはいる。しかし、既に対立状況があるのではなく、
主文が主文の内容を副文の内容に対して対立させているのであり、言い換えれば否 定しているのである。対立があるところに認容文があるのではなく、認容文自体が 対立を生成し否定するのである。また、仮定の認容文の場合には主文が副文を作り 出しているとさえ言えるものもあるのである。
更に、Duden の規定は認容文における主文の優位性といったことが全く抜けて
「事実の認容文」と「仮定の認容文」の枠組み
いる。認容文を譲歩という観点から見れば、主文の主張のための手段として副文が 語られたのであったことから考えても、認容文での主文の位置は大きい。また、認 容文を所謂対比文の発展形と捉えてみても、主文への重心の移動は明らかである。
つまり、主文は優位にある。しかし、Duden の規定では主文と副文が互いに平等 な位置にあるように語られている。Duden規定の文の中には主文Hauptsatzとい う言葉はないのである。すなわち、主文にも副文にもそれぞれ互いへの反論根拠を 持ち、しかもそれは不十分である、というように。
(b) Helbig/Buscha
Ein erwarteter Kausalzusammenhang bleibt unwirksam. Der im NS genannte Grund hat nicht die nach dem Gesetz von Ursache und Wirkung zu erwartende Folge. ( Helbig/Buscha : Deutsche Grammatik p.691 )
期待される因果関係が効力を持たないままでいること(生じないこと)。す なわち、副文で述べられる根拠が原因と結果という原理から当然期待され る結果をもたらさないこと。
この規定はDudenと同じように一見正しい規定であるように見える。認容文は「当 然期待される結果をもたらさない」ことを表わしているからである。しかし、この 規定も十分なものとはいえない。「当然期待される結果をもたらさない」と述べるこ とは認容文の現われをそのまま記述するものでしかないからである。つまりこの規 定は、認容文がどのようなものであるか、どのような作用をするのか、といった事 柄よりむしろ、認容文という一つの発話のその結果がどのようなものであるのかを 語っているのに過ぎないのである。「副文で述べられる根拠が原因と結果という原理 から当然期待される結果をもたら」すものが条件文であるならば、そのことを否定 するという意味ではこの規定は正しい。しかし、「もたらさない」のではなく、「も たらさない」ように主文が語られるのである。だから、これまで語ってきたように、
「副文で述べられる根拠が原因と結果という原理から当然期待される結果」に主文 が対立させられる。つまり、そのことを否定するのである。だから、それは確かに
「当然期待される結果」をもたらさないのだが、この規定では主文に本来的主張が あることが忘れ去られているのである。本来的主張が「当然期待される結果」を否 定するのだからである。
横 山 明 弘
(c) 在間進 「詳解ドイツ文法」
DudenとHelbig/Buschaの規定はKonzessivsätzeに関する規定であったが、日 本におけるドイツ語文法書では普通事実と仮定のその両者を含む認容文全体の規定 となる。
条件と帰結という観点から、主文と副文の二つの事柄が逆の関係にあるこ とを表す表現を認容文と呼ぶ。(在間進 「詳解ドイツ文法」 p.284 )
これは明確な規定であるとは言えない、というよりも意味不明である。主文と副 文が逆の関係にあるとはどのようなことを示しているのだろうか。何を言っている のか判然としないが、一般的に「逆の関係にある」とは例えば、命題A→Bの「逆」
は B→Aである。そして、「条件と帰結という観点」とは命題A→Bという形式を 想定しているわけで、認容文は一見したところ「副文」→「主文」という形式をと っている。それが逆の関係にあるとはどういうことなのか。「副文」→「主文」とい う形式が「主文」→「副文」であることを示すということなのか。
例えば次のような例文を考える。
Wir verloren das Spiel, obgleich wir uns gut vorbereiten haben.
( Helbig/Buscha p.691 )
十分練習をつんだにも拘らず我々は試合に負けた。
ここで「主文」→「副文」であるならば、すなわち在間が言う「逆」の関係にあ るならば、好意的に解釈して普通の文脈に従えば、「我々は試合に負けた」だから「わ れわれが十分に練習していなかったということなのだ」ということになる。主文を 条件として設定すればこのようになる他はない。しかしわざわざ条件と帰結を逆の 関係にする必要はないし、もとの認容文の本来的主張が主文であるという観点から 完全に逸脱している。更に元の副文の内容が結局は否定されている(=十分に練習 していなかった)ことも未解決のままである。
しかし、逆の関係ではなく「裏」の関係だとすると、つまり、命題A→Bに対し て~A→~Bの関係にあるとすると、「我々は十分に練習しなかった」→「我々は試 合に勝った」となるからこれは問題外となる。
「事実の認容文」と「仮定の認容文」の枠組み
最適な可能性は、「我々は十分に練習しなかった」 →「負けた」であり、また、
「我々は十分の練習をした」→「勝った」である。つまり、~A→B 及び A→~B である。在間がどちらかの可能性を念頭に置いているのか、或いは両方の可能性を 念頭に置いているのかは不明であるが、いずれにしても「逆の関係」という用語法 が全く誤っている。本論ではこれまで観てきたように~ (A→~B)の立場を取るも のである。
在間規定は「条件の帰結という観点から、主文と副文の二つの事柄が逆の関係に あることを表す表現」と言う。つまり、A⇒B(⇒は認容関係とする)が~A→B、或 いはA→~Bであることを表している、ということか?
繰り返しとなるがこれまで明らかにしたことを記号化するとすれば、A⇒B とは
~(A→~B)であることを示していた。明らかにこれは「逆」の関係とは呼べない。
言い換えれば、「十分練習したが負けた」という認容文は『「十分練習した」から「勝 った」』ではない、ということを示していた。
しかしこうした規定は大して意味のあるものではない。「十分練習した」結果が「負 けた」わけであり、つまりここでも主観的な判断と願望と現実との落差が問題であ り、普通の考え方からすれば当然勝つことが期待されるのであって、にも拘らず負 けたことが問題となるのに、単に論理的な側面から「十分練習しなかった」結果「負 けた」と言っても、上に挙げた問題はなんら解決しないのである。というよりも「十 分練習した」結果「負けた」ことが「十分練習しなかった」結果「負けた」ことを 表すのか、ということである。すなわち、「負けた」ことの根拠は多々あるに違いな いにも拘らず、後者は「十分練習しなかった」ことに根拠付けているということで ある。
在間は事実の認容文のみを対象としている訳ではないので、次のような例文を考え る。
例文2-2 Wenn auch ein Arzt gekommen wäre, er hätte den Kranken doch nicht retten können.
たとえ医者が来たとしても、医者はこの患者を助けられなかっただろう。
ここで
例文2-3 Wenn ein Arzt gekommen wäre, hätte er den Kranken retten können.
医者が来ていたらこの患者は助かっただろう。
例文2-4 Wenn ein Arzt nicht gekommen wäre, hätte er den Kranken