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トインビーの産業革命史論における問題意識

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トインビーの産業革命史論における問題意識

その他のタイトル The Basic Idea of Arnold Toynbee's

Interpretation of the Industrial Revolution in England

著者 矢口 孝次郎

雑誌名 關西大學經済論集

13

1‑2

ページ 81‑104

発行年 1963‑06‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15452

(2)

トインピーの産業革命史論における問題意織︵矢口︶ ーを引用するがごときは︑一見陳腐のように見えるにもかかわらず︑

一応言及しなければならない アーノルド・トインビーの名前は産業革命史に関する概説書においてはもちろん︑最近とみに旺んとなってきた産

業革命の特殊研究においてさえも︑依然として欠かすことのできないものであるかのようにしばしば引用されるとこ

ろである︒最近特に強く学界の前面におし出されてきた産業革命に関する新しい問題点ーー`端的にいえば

i n d u s t r i

a l i s a t i o n

の問題ないし

e c o n o m i c g r o w t h

の観点からの産業革命のとりあげ方ーからすれば︑いまさらトインビ

なお依然として

のは︑何故であろうか︒いうまでもなくそれは︑トインビーが産業革命史論の発端に立っているからであり︑またそ

の史論が上述のような新しい問題提起の上に立つ論議と︑何らかの点で密接に結びついているからである︒

さてトインビーが産業革命史論の発端に立っているというのは︑改めていうまでもなく︑ポール・マントーととも

( 1 )  

に︑彼が産業革命という概念及び用語の確立者であり︑また彼の著書がイギリス産業革命に関する最初の歴史書であ

トインビーの産業革命史論における問題意識

(3)

関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第一号

ったからでもある︒とはいえ︑

断片的であって︑

方︑挙証等も不十分であって︑歴史的特殊研究としてはもちろん︑史論としても︑かなり未完成なものであることは

否めない︒それにもかかわらず︑何故にこの著書がそれほど広く読まれ︑またそれほど深い影響を与えたのであろう

( 2 )  

か︒この点はトインビーの人と業績との評価にかかわることがらで︑従来からも若干の人々が彼の伝記・評論等でと

り上げてきた問題であるが︑もちろん一概には断定し難いところである︒

これもしばしば指摘されているように︑トインビーのこの古典的著書は︑その主張が

一貫した論旨を展開しているわけでなく︑時には論旨ないし記述に矛盾さえも見出される︒また一

この問題についての︱つの見解として︑トインビー個人のもつ影響力がその著書の評価に強く反映して

いるという見方がある︒それというのも︑

強い彼の人格は︑ トインビーは僅か三十オで世を去っているにもかかわらず︑極めて個性の

その交友と社会的活動とを通じて多くの人々に深い感化を及ぽしているために︑いきおいその面が

強調されがちであるからである︒この点について︑例えばクラークはその講演﹁産業革命の概念﹂

Th e I d e a   o f   I n

( 3 )  

d u s t r i a l   R e v o l u t i o n

,   19534

この書物の内容によって説明することは当らないと考えてきた︒すなわち︑そうではなくして︑

た︒また実際において︑ この書物がトインビーのもつ強烈な・真摯な・魅力的な個性の象徴であり遺物であるからであると考えてき

この書物は︑彼個人についての連想︑例えば旧友たちが⁝⁝序文の中にしるした推脚の言葉

などによって︑大いに得をしている︒またその出版後長い年月の間︑

えた称賛の言葉によって︑その人気が常に維持されてきた﹂と︒

(C la rk ,  p . 

17.)  この書物のもつ影響力を︑

この書物が成功した

トインビーの後継者や友人たちのこの書物に与

しかしながら︑トインビーの評伝において︑彼の個性や人格を強調してその面からのみ彼の業績を評価することの

(4)

83 

トインビーの産業革命史論は︑ ものは︑実はこの点なのである﹂と︒

( 4 )  

誤りであることは︑既にアシュリーがモンクーギュの﹁トインビー伝﹂に下した批判などにみられるが︑

上述のような批評家の見解が一面的である点を指摘して︑

影響をもちえたのである︒﹂

組み︑その上で自らの解答を提出したのである︒ トインビーの著書のもつ意義を更に別の角度から認めなけ

﹁人々をして信服せしめたものは説く人でればならいなことを説いている︒すなわちトインビーの場合においては︑

I

あるとともに説かれたことがらであった︒また一方︑説かれたことがらは︑人々がそれを待ちうけていたからこそ︑

(C la rk ,  p . 

18.)いいかえれば︑彼は当代の人々とともに︑身をもって当代の問題と取り

﹁彼の理想と意見とは︑単に彼の読書と思考からのみ形成されたも

のではない︒それはオックスフォードにおける当代の多くの人々が苦心した諸問題に対する解答であり︑その師たち

から与えられた諸要素を混えて生み出されたものなのである︒当時は何人といえども︑農村における農業不況︑都市

における社会的不満︑国内にみなぎる民主的傾向︑

問題とせざるを得なかった知的世界の動揺︑ そして科学と宗教のすぺての部門においてものを考える人たちが

( 5 )  

それらのことがらに無関心ではおられなかったのである︒﹂

13.)そしてその結果がトインビーにあってはあの古典的労作となったわけであったo

も︑彼のものの考え方に﹁師たちの与えてくれた諸要素﹂の入りこんでいるのは当然であって︑後述するように︑そ

れがラスキンとグリーン︑特に後者の与えた強い影響に見出される︒また︑このような時代の空気の中に育ったトイ

ンビーが﹁自由主義的な社会改良主義の若き闘士﹂となったことも当然であって︑

(C la rk ,  p . 

21.) 

一方においては︑牧歌的な中世主義ないしロマンティシズムという後ろ向き

の観点に立つものと考えられる場合があり︑また一方︑産業革命期の労働者の状態に関する論議としては︑彼の説く ﹁彼及び彼の著作が表徴している

(C la rk ,  p . 

従って思想の系譜からいって クラークも

(5)

関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第一︑二号

﹁窮乏説﹂ないし﹁悲観説﹂がただそれだけの問題としてのみとり上げられる場合が多かった︒しかしトインビーの

産業革命史論は︑そのような観点からだけでは十分な姿において捉えることはできないのであって︑われわれは彼が

いかなる立場に立って何を説こうとしたかを︑更に広い見地から︑且つ彼の根本的見解に即して再考してみる必要が

ある︒それに答えようとするのが︑本稿の︱つの意図である︒

(1 ) いうまでもなく彼の死後二年すなわち一八八四年に出阪された

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on

h e   t  I n d us t r ia l  R e v ol u t io n   of h e   t   E i g ht e e nt h  

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y  i n   E

ng

la

nd

であって︑オックスフォードにおける主たる購義の外に購演及び雑記等を収録したものである︒この 書はその後広く普及し︑いくたびか阪が改められた︒その中︑初阪以後一九〇八年の廉価版に至るまでの各版にはジョウェ

ットの追憶記•a

Sh

or

t  M em oi r b y  B

. 

Jo

we

tt

"

が附されていたが︑それは廉価版に至ってミルナー卿の追憶記

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 M

代えられるに至った。また、古く一八九四年の改阪に際しては、附録として•

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  i n  C a li f o rn i a "

" ,  

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e  i n   E

ng

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nd

"

というヘンリー・ジョージに対する批判の二つの講演が附されたが︑これは上 述の廉価阪においては除かれている︒更に最近︑彼の甥に当る同名の史家アーノルド・トインピーの序文を附した新阪が上

梓されている。なお邦訳としては、芝野十郎氏訳、川喜多・斉藤・杉浦•原田四氏共訳、原用三郎氏外訳、塚谷・永田氏共

訳等がある︒

(2 )

評伝としては︑前註にあげたジョウェット及び︑︑︑ルナー卿の﹁追憶記﹂のほかに

A.

Ma

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, 

Ar

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  T o y nb e e , 

n .  

d . ;   F.  C

. 

Mo

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,  A

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ol

d 

T oy n b ee ,

 1889

等があり︑更にそのモンターギュの評伝の批評としての

W .

J .  

As

hl

ey

, 

"

Ar

no

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"

, 

(S

u, ︑e

e ys   H is t o ri c   an d 

Economic•

19 00 , p p.

428 

ー 上

31.)

(3 ) グラスゴゥ大学における記念講演︒なお以下この書からの引用は本文中に頁数のみをもって示すことにする︒

( 4 )

(2 )

( 5 )

それらの諸問題の中においても︑凡ての人が対決しなければならなかったものは特に﹁貧困﹂の問題であった︒トインピー がとりあげた労働者の問題も結局の重点はそこにあったといえる︒﹁一八八

0年頃から二0

世紀の初頭にかけて︑労働に対

(6)

ll 

ここに激変説というのは︑ 産業革命史論の発端に立つものとして︑

トインビーの著書の中には︑

後に強調されるに至ったよ 前にも述べたよう する関心は︑その前後にいかなる時代にもみられないほど︑イギリス人の感情と思想とを大きく動かした︒この時期の間に︑労働者階級はイギリス社会を動かし始めたが、それは、一八六七年及び一八八四年の「選挙権法」のためでなくー—'いいかえれば労働者の数の増大のためではなくしてー—'彼らの困窮のためであった。『貧困の問題』―'the

pr

ob

le

m  o f   poverty" 

と﹃人民の状態﹄"the

co

nd

it

io

n 

o f 

th

e  people"とが社会のあらゆる階層の人々にとっての関心事となった︒﹂

(L .G

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Jo

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so

n,

T  he   So c i al   E vo l u ti o n  o f  I n du s t ri a l   B r i ta i n , 

1959•

p .  

130.)トインビーの心を揺り動かしたものも︑彼が如実に

接した労働者の窮状に屈かならなかった︒

そこでまずトインビーが産業革命をどのようなものとして捉えているかを考えたいと思うが︑

に︑彼の著書は若干の講義ないし講演の収録であって︑そのそれぞれがかなり断片的であり︑しかもその言及する範

囲は政治︑経済︑社会の諸問題に亘っている︒従ってそれを︑一貫した論旨のものとしてとりまとめようとすること

特に後年の史論ないし論議の展開と関連せしめてみる場

合︑それはおよそ二つの観点からとり上げることができるであろう︒激変説と窮乏説とがそれである︒

一激変説について︒

( 1 )  

の主張︑すなわち連続説との対比においてそういうのであって︑産業革命を︱つの歴史的断絶ないし激変

c a t a s t r o

ph e

として捉えようとする考え方である︒ 後にそれに対する批判としてあらわれてきた連続性

c o n t i n u i t y

うなかたちで激変を主張する明確な断定や︑その論旨の一貫した説明は見当らない︒ただいいうることは︑全体とし

ての論調︑特に第二の論点としての窮乏説の強調と関連せしめてみると︑彼の見解はやはり激変説の主張とみなけれ

トインピーの産業革命史論における問題意識︵矢口︶

(7)

. ^

T

 

he   Su dd en ne ss f     o t h e   R e v o l u t i o n   an d  i t s   I m p o r t a n c e

"

 

( 2 )  

節を設けてその変化の急激であったことを説いている︒その他︑これに類する教科書的偏向が︑産業革命における変

^

u n e x p e c t e d ,   r a p i d ,   d r a m a t i c ,   d i s r u p t i v e "  

$ c '

の形容をもってする変化として理解するー'│激変説ーに至

( 3 )  

らしめたのである︒

それならばトインビーは産業革命の変革をどのように説明しているであろうか︒彼はまず当時の産業の外的状態な

いし形態

e x t e r n a l c o n d i t i o n s   o f r   or ms

と内的生活

i n n e

r l i f

e

しろ後に説く窮乏説に結びつくものと考えられるので︑

通説と等しく︑彼もまた産業革命の始期を一七六0年と考え︑それ以前の産業特に工業が極めて単純な組織をもつも

のであったことを前提としている︒それは綿業や鉄工業においてはもちろん︑

った毛織物工業においても同様であって︑

その経営の特色はわが国においてもしばしば紹介されているところであるが︑

に住み︑小さな牧場を賃借していた︒⁝⁝大部分の親方はみずから働らき︑羊毛を製品に仕上げるまでのほとんどすべての工程ー紡毛・織布・染色ー~を自宅で行っていた。三・四台の織機を所有する者は少なく、八人ないし一〇

.  

たし の産業革命を叙述する一章に︑わざわざ

西

﹁彼らは都市ではなく農場の中の自宅 ばならないということである︒なおこの点に関してこの際特に言及しておかなければならないことは︑むしろ後の学者特に教科書的概説書の著者たちの偏向が︑産業革命に関する激変説を一般化するについて大きな役割をもっているということである︒例えば明らかにトインビーの影響の下にあったと認められるキビンズのごときは︑その著書の中

ここには主として前者に関して彼の説くところを述べておき

﹁イギリスの繁栄の偉大な支柱﹂であ

その典型的な姿が小規模の独立手工業者︵親方︶の経営に見出されている︒ それを説明しているが︑後者はむ

という

(8)

87 

及びその起因としての交通機関の改良等の原因を認めている︒ 人以上を雇うものは少なかった︒このような経営方法が家内工業制度と呼ばれるものである﹂︒Reoolutios n

ew

 

ch

ea

pe

r  e d .  p p.  

1956. 

'T oy nb ee

旧い世 次にこのような経営形態を典型的なものとして内包するところの全体の経済組織をみるに︑その特色はそれが局地的交易圏内において成立していたということである︒すなわち︑多くの地方において︑働の所産でないもの︑或いは自宅から数哩の範囲内で生産されないものはあまり使用しなかった﹂

(T

oy

nb

ee

,p .

1 

96 .)  

ので︑いわば局地的自足経済圏が彼の描くところの経済組織の限界であった︒このように︑当時の工業︵農業はもち

ろん︶のもつ基本的性格は﹁生産体制における極端なる単純性﹂と﹁国内交易の局地性﹂ということによって特質づ

けられていたと認められている︒またこのような工業の外的形態に対応して︑

働者との間の関係﹂が成立していたが︑

﹁農民も労働者も︑自己の労

その内的生活︑すなわち︑

その特色とするところは︑後にも述べるように︑雇用の恒常性であり︑両者

の間の温情に基づく個人的結合であった︑と考えられているのである︒

このような旧い経営組織を崩壊せしめたものが産業革命であった︒すなわち﹁﹃国富論﹄と蒸気機関が︑

︵それと並んで︑.あるいはそれに続いて行われたところのジェニー紡績機や力織機などの大発明とともに︶︑

界を崩壊せしめて新しい世界を造り出した︒いまや紡車や手織機は捨てられてその働らきを止め︑

工業は地方に散在

する農村や農家を離れて︑騒音に満ちた工場や都市に移ってしまった︒村落は町となり︑町は都市となってしまった

が︑また一方︑工場がヒースの茂る不毛の原野や放置せられた荒蕪地に建設されることとなった︒﹂

(T

oy

nb

ee

p .  

20 4. ) 

もちろんトインビーは︑産業革命の原因が単に﹁国富論﹂と蒸気機関並びに機械の発明のみに起因すると考えている

そのほかに内外の交易の拡大︑

(T

oy

nb

ee

,  I n du s t ri a l  

(9)

A 窮乏説について︒ 説明するに至らしめたとしても︑ 関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第一︑二号

その変化は約七十年ほどの間のことがらとして考えられており︑

てしまったという考え方は一貫している︑

改めてここに し︑彼の問題的観点からすれば︑前の二つのものに強調がおかれるのは明らかである︒ところで︑一方︑以上のような

一挙に行われたものではない﹂ということも認めている︒しかし︑それにしても︑

その結果がイングランドの地表と相貌とを一変させ

そしてこの約七十年間を隔期としたその前後の産業状態を対比して︑産業

革命の変革の激しさを描き出しているわけであって︑後に通俗史家たちをして︑産業革命は急激であり激変であると

一応は無理からぬところであろう︒

しかし産業革命の激変性は︑第二の問題点としての労働者の生活状態︑すなわち彼のいう工業の内的生活に関する

理解においては更に明確に認められる︒それが彼の第二の論点としての﹁窮乏説﹂であるが︑

の﹁窮乏説﹂は﹁激変説﹂を補足するものでもある︒

ここに窮乏説という用語を用いたのは︑この問題に関するハートウェルの論説中の

i m m i

( 4 )  

s e r i z a t i o n   t h e o r y

という適切な用語に従ったまでのことである︒ところでこの点をめぐる問題は︑

説くまでもなく︑産業革命史の研究において長い間の論議の対象であり︑また或る意味においてはいまなおそれが終

( 5 )  

結していない問題であって︑端的にいえば︑産業革命は労働者を窮乏に陥らしめたか否か︑その点をめぐっての肯定

的見解と否定的見解との対立である︒この二つの系列の論点︑及びその主張者については︑必らずしも明確に類別し

( 6 )  

えない場合も存するが︑両説に与えられた次のような種々の表示の仕方を一瞥するだけでも︑両説の系譜とその意味

するところの方向を推定しうるであろう︒

C l a

i c a l

v i e w .   T o y n b e

e   , H

am mo nd t h   e s i s .  

変革は﹁急激であったとしても︑

この意味においては彼

Ma

rx ︑T o y n

b e

e , H

am mo nd   , H ob sb aw m 

ー ︑ \

J

(10)

89 

R i c a r d o   , M a l t h u s

  , M

ar

x  , T

oy nb ee

  , H

am mo nd   vi e w .   P e s s i m i s t i c   s c h o o l .  

トインビーは窮乏化を肯定する立場に立っているわけであるが︑

出される︒従ってここには︑

特に彼のいう工業の内的生活に眼を転じて︑次のように説いている︒

すなわち︑工業労働者の状態は︑

なくして︱つの階級であった︒﹂

(T

oy

nb

ee

, pp . 

49

50 .)

またこうもいっている︒

トインピーの産業革命史論における問題意識︵矢口︶

S c h o o l .   Q u a n t i t a t i v e   S c h o o l .  

﹁雇主の大部分は小親方であった︒ アダム・スミスの時代以来名目賃銀の上昇したことによって︑

されたもののように解されている︒しかし農業労働者の場合に﹁高い賃銀と安い食料だけが必らずしも彼らの利益で

はなかった﹂と同じように︑工業労働者の場合にも︑名目賃銀の上昇だけでは説明されえない重要な面のあることを

忘れてはならない︒それは産業革命期に至って︑彼らが旧い時代に有していた多くの利益を失うに至ったということ

である︒すなわち以前は﹁工業に従事する人々はまだ大部分は農村に居住していた︒職人はしばしば僅かばかりの土

地をもち︑それが彼に対して新鮮な食物と健康のための休養とを与えてくれた︒また︑彼の賃銀と雇用とははるかに安

定していた︒彼は不安定ということに悩まされることなく︑後年子孫たちが苦しんだところの商業上の変動による恐

るべき苦しみを味わうこともなかった︒というのは︑工業の内的生活全体が︑現在のものとははるかに異っていたか

らである9すなわち︑労働者と雇主との関係ははるかに密接であって︑多くの工業において︑彼らは二つの階級では 一応はかなり改善 この点に関する彼の見解は随所に見

その論旨の特色を示す若干の点だけを引用するに止めたいと思う︒まず彼は農業労働者

の状態についての一八世紀初頭以来の変化を説いた後︑ほとんど同じ運命のもとにおかれていた工業労働者の状態︑ B窮乏北の否定︒

Mo de rn v i e w .   M

ac au la y  ,  C la ph am i e   v w .   C l a p h a n i

  ,  A

sh to n  ,  H ay ek i e   v w .   O p t i m i s t i c  

. 

1 e w .

Q u a i i t a t i v e   s c h o o l .  

(11)

関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第一号

すなわち︑彼らの考え方も生活慣習も労働者とほとんど異なるところなく︑また彼らは労働者の間から身を起した者

ではあるが︑再びそこに帰っていくというような手工業者であった︒⁝⁝このような密接な継続的関係の下で生活し

ている人々の間では︑その結合は当然に極めて緊密であった︒⁝⁝そのような状態の下では︑親方は常に労働者の幸

福やその子供たちの教育に気をくばり︑また一方︑労働者側は熱心に親方の利益になるように努めて︑彼の家運のこ

とに意を用いた︒このようにして︑彼らは二つの家族ではなくて︱つの家族であった﹂︒

うに︑産業革命前の時代における労働者に地位については︑雇用や賃銀についての

r s o n a l a t t a c h m e n t

という二つの点が特に重視されているのである︒

このような労働者の状態を破滅せしめたものが産業革命であった︒すなわち︑

な事実は︑当時の機械的発明の結果として︑家内工業制に代って工場制の出現したということである﹂が︑

果は恐るべきものであった︒新しい都市1それは人々が社会生活を営むためにではなく︑ただキャラコや金物や広

幅毛織物を造るために集ってきた巣であると非難されたが、ー—'その新しい都市においては、旧くからの地方的接触

や個人的な交際から生れる古来の温かい結合は消滅し︑ 主との関係における﹁人的結合﹂

(Toynbee•

p . 

1 9 9 . )

以上のよ

pe rm an en cy

と雇

それに代って出現したものは︑互に顔も知らない幾千もの人

々の間に行われる富のための激しい抗争であった︒個々の労働者と︑何百人もの労働者を雇っている資本家との間に

は︑大きな間隙が生れたc労働者はもはや雇主の愛撫のもとにあって彼に仕える者

c h e r i s h e d d ep en de nt

ではなく

できうる限 して︑雇主の所有する蒸気機関と同じく︑その身の上については全く知ることのない生きた道具であったC﹂いまや

両者の間には﹁金銭上の結合﹂

c a s h ne xu s

以外には何ものもなく︑﹁雇主はできうる限り僅かな金で︑

り多く働らかせること﹂︑それを唯一の目的とするに至った︒

(T

oy

nb

ee

, p . 

20 6. ) 

﹁工業における産業革命の最も顕著 0

(12)

9 I 

用を認めていることは事実である︒しかし︑

0年頃に至ると事態はまさに危機に達し︑

﹁この恐るべき害悪を阻止するためには︑もはやす

< 

単にこのような雇主との間の関係の激変に止まったわけではな

﹁彼らの大部分が陥った物質的苦難﹂によって倍加された︒すなわち︑

規制していたところの種々の法規や特権は廃止されて︑ この時代には既に旧くから産業を統制し

イギリスの物的富は急激な速度をもって増大してきていた︒

(T

oy

nb

ee

, 

p .  20 7. ) 

﹁しかし︑それにもかかわらず︑民衆は自ら生産したところの富の分け前にはほとんどあずかるところなく︑大多数

は欠乏と貧因と罪悪の深みへ︑時とともに陥ったのである︒﹂

べての改良計画はあまりにも手遅れであって⁝⁝社会革命は避けえられないというのが一般の人々の懐いた見解であ

(T

oy

nb

ee

, 

p .  20 8. )

これが窮乏化の頂点ともいうべき一八四0年頃の状態についての彼の解釈である︒

ところでトインビーは続いて︑このような窮乏化の原因を求めて︑労働者を怠惰ならしめたところの旧救貧法︑主

食価格の吊り上げに利用されたところの穀物法︑労働者を撤底的に搾取したところの新しい工業状態などをあげ︑更

に︑この時代が︱つの工業様式から他の新しい工業様式へ移る過渡時代にあったという事情などをつけ加えている︒

しかしながら︑彼の論旨全般の見地に立ってみる時は︑このような個々の要因よりも︑むしろ産業革命期に至って支

配的となってきた産業の新しい指導原理︑すなわち﹁競争﹂に対する彼の指摘に注目しなければならない︒この点が

彼の史論全体を通じての最も重要な点である︒ところで︑彼は競争を全面的に否定しているわけではなく︑競争の効

﹁生産における競争と分配における競争とは区別しなければならない︒

⁝⁝生産において相互に他を凌駕しようとする努力は社会にとって利益である︒しかし︵雇主と労働者との︶共同の生

産物を分配するについての抗争はそうではない︒その際︑強者の側は常に自己の条件を強要しようとする︒実際︑競

トインビーの産業革命史論における問題意識︵矢口︶ しかし産業革命の労働者に与えた不幸な影響は︑

そのような窮乏は各

(13)

関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第一︑二号

スク.ヘーション•ポイント

うとしたのである︒﹂

(T oy nb ee , p .   6 6 .) このようにして︑

て︑彼は﹁産業革命の本質は︑

﹁産業革命の結果は︑

﹁いま両説に﹃楽観

(1

)

拙稿﹁産業革命における連続性の問題﹂︵﹁社会経済史学﹂十八巻五号︶参照︒

(2) 

H. e  d   B. Gibbins, Industry 

i n  Eng la nd ,  H i st o r ic a l   O u t li n e s,   1 89 6 ,  c h .  X XI

;  c f .   I nd u s tr i a l History

  of   En gl an d,   Pe ri od   V.   ch . 

(3)H•

He at on ,  Ec on om ic   Hi st or y o f  E

u1

0

, r ev . e d   .  1 9 4 8,   p .   4 80 .   (4 )  R. M•  

Ha rt we ll , 

"

In te rp re ta ti on o  f  th e  I n du s t ri a l  R ev ol ut io n  in  Eng la nd : 

Me th od ol og ic al   In qu ir y"

  (f l .   o f  E co n.   H is t .   X

IV ,  2 ,   p .   2 31 . )  

( 5 )

この問題に関する研究史の展望としては︑クラッバム教授の主著の出版された頃(‑九三0年代︶までに関しては︑小松芳

喬氏の興味ある展望︑﹁産業革命と労働者﹂︵早稲田大学﹁人文科学研究﹂七号︶があり︑最近の研究動向に関しては︑こ

の問題についての近年の支配的傾向である計量的研究の論点を詳細に検討した琴野孝氏の力作﹁産業革命と生活水準﹂︵﹁社

会経済史大系﹂七巻所収︶がある︒なおそこにあげられている最近の諸見解ないし論評の中でも︑特に注目すぺ<且つ興味

あるものは︑上述のハートウェルの論文の外に︑

E.

J•

Ho bs ba wm , 

"

Th e  B ri t i sh   St an da rd o  f  Li vi ng ,  17 90

  │ 

18 50 ,"

  (Econ•

H is t R.   ev .  2n d  Series 

̀ X,

1 .   )  

A .  

J. 

Ta yl or , 

"

Pr og re ss a  nd   Pove rt y  i n  B ri t a in , 1  78 0  18 50   : 

Reappraisal,•

( Hi s t or y

,  XL 

V•

No .  153)

などがあげられるであろう︒

(6 )

例えば琴野孝氏はこの二つの系列を︑一応﹁楽観説﹂及び﹁悲観説﹂としているが︑それについて︑

自由競争は富を生み出したが︑

1 89 0 ,  

決し

(14)

93 

すなわち彼はいう︒ かによって理解される︒

﹁もはやすべての改良計画はあまりにも手遅れ﹂であって︑

九 ︱ ︱

一八七一年には労働組合は合法的のものとされ

﹁社会革命が避けえられない﹂ほどの危機に達していた

説﹄・﹃悲観説﹄の名称を与えることすら徒らに誤解を招くおそれを伴って妥当ではないが︑基本点における対立が霧消し

ていない以上︑⁝・・・ただ慣例に従ってこの呼称を踏襲するものである﹂︵﹁社会経済史大系﹂七巻︑一七九頁︶といってい

る︒われわれがここに二つの立場を対比したのも同じような見解からである︒

トインビーは産業革命期における窮乏化を以上のように捉え︑特に一八四0年頃の労働者の窮乏状態については︑

ことを認めている︒それならば︑彼はこのような史実の認識の上に立って︑更にその後の労働者の運命ないし歴史の

進展をどのように展望しているのであろうか︒この点に至って︑彼の史論は︑等しく窮乏説の系列に属するとはいい

マルクスないしエンゲルスの見解と訣別するのである︒その間の差異並びにこの点に関するトインビーの見

解は︑彼が講義を行った頃(‑八八0年代の初頭︶の時点に立って︑産業革命以後の発展をどのように回顧している

﹁民主主義が産業を救済した﹂と︒それはこういう意味である︒すなわち︑まずチャーティス

一九世紀の中頃から始まる労働者の新しい運動は次々と彼らの地位を向上させていった︒

年には労働者は選挙権を獲得して﹁自からの地位を開く鍵を握り﹂︑

てその地位を確立し︑更に一八七五年には﹁共同謀議禁止法﹂

La

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が廃止されて﹁労働者は雇主と

同一の地位に立つことになり︑⁝⁝自由な国家の完全なる市民となった﹂︒ところで︑

トインピーの産業革命史論における問題意識︵矢口︶ これらの段階を経て︑労働者

参照

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