一意味﹂の現象学
ー ⁝ ツ ッ サ ー ル ︑ ハ イ デ ヅ ガ ー ︑ メ ル 樗 オ 嚢 ポ ン テ ィ を め ぐ っ て l I ‑
足立和浩
フ獣サ;ル︑ハイデヅガー︑メル獄オ"ポンティという現象学の一つの系譜をたどってゆくと︑三者の哲学的内爽
はそれぞれ独創性に憲み︑たがいに独特の差異性を示してはいるものの︑その発想の大前提となっているものに関し
ては︑或る奇妙な一致が見られる︑すなわち︑それは﹁言語﹂をモデルとしたところの﹁意味﹂の概念にたいする殆
ど盲臼的と言ってもいい執着である︒われわれはこの﹁意味﹂という概念に︑主観と客観との一致が﹁判断H命題擁
命題の意味しにおいて成立する(すなわち﹁真理﹂の成就!)という西欧の一つの哲学的伝統(とりわけカソトに端
を発する近代認識論のそれ)の表現をみる︒﹁世界﹂を﹁意味﹂として把え返す所作は︑三老に共通である︒そのか
ぎり︑認識論ではなく﹁存在論しを標榜するハイデヅガーですら︑近代認識論の地平を端的に超出しているとは雷い
難い︒本稿の目的は︑フッサール︑ハイデッガー︑メル獄オ薩ポンティに共同的にみてとれる﹁音ゆ味﹂概念への執着
ないしは偏愛を明らかにじつつ︑彼らの﹁意味﹂の現象学の地平の限界を見定め︑あわせてその限界ののりこえの方
向を模索してみることである︒われわれは︑まずフッサールから始めることにしよう︒
﹁意味﹂の現象学三
讐意味﹂の現象学
耀︑フヅサールの場合
フッサールの最初の著作は︑一八九一年に刊行された﹃算術の哲学︑i心理学的及び論理学的研究i隠(℃ぴ一一9聾
⑳◎℃ぼo偽嬢︾甑9彰簿欝⁝"ω蜜9良◎臓ωoげΦ離鋤山一〇αq一︒α◎ぴΦO暮鶏ωにoぴ¢謬αqΦ口)であるが︑この中でフヅサ!ル
は︑論理学やその他の演繹的諸科学は心理学によって基礎づけられねばならぬ︑という心理学主義的な基本態度を表
明した︒たとえば﹁数える﹂という心理学的な操作によって﹁数﹂を説明し基礎つげようとする心理学主義的傾向
は︑当時のドイッの学界においで支配的な風潮,であって︑後年自身の独自の立場を築くζとになるフヅサールも︑いま
だそのような学界の趨勢に抗しきれなかったようである︒しかし︑まもなくフヅサールは︑心理学主義的思考の致命
的欠陥に気付くようになる︒数えるという︑それ嵐身明らがに心的な操作は︑数というイデア的存在とは厳密に区別
されねばならぬ︑と彼は考えるにいたった︒そして﹃論理学研究︹論理学的研究︺﹄(い○ひQお6ぴ①¢pけ①諺鋸oげ鍛嵩㈹Φロ)
においては︑一転して激しく心理学主義を非難する︒﹁ひとはやっと脱却した誤謬にたいしては最も厳格である﹂と
いうゲーテの言葉を引用しつつ︑彼はかつて自分自身のものでもあった心理学主義の立場を︑完膚なきまでに批判し
尽したのであった︒心理学主義を標榜していた﹃算術の哲学﹄のサブ・タイトル﹁心理学的及び論理学的研究﹂の︑
﹁心理学的しという形容詞を抹殺したところの標題をもつ著作において︑フッサールは若き臼の心理学主義と訣別し(1)たのである︒
フッサールは﹃論理学研究﹄において︑はじめて己れ独自の立場を獲得した︒彼自身︑﹁突破口となった作品﹂
(2)(Φぎ薯の婆α①ωU籍oげげ握畠ω)と評価するこの著作によって︑彼は一躍学界の注昌を浴びるようになり︑彼の主
張に賛同するプフ嫉ソダーやライナハなどが﹁ミ轟ンヘソ現象学派﹂を形成するようにさえなる︒学界への影響がい
かに大ぎかったか︑と・いうことの﹃つの例証となる出.来事である︒われわれは︑しぼらく﹃論理学研究﹄(とくにそ(3)の第一巻)の立場にとど︑まってみることにしよう︒
フッサ:ルによれば︑心理学主義の誤りは︑イデア的な客観とレアールな客観︑イデア的な法則とレアールな法
則︑との差異を無視する点にある︒たとえば矛盾律を例にとってみるならぽ︑心理学主義はこの矛盾律の根拠を︑
﹁AはBである﹂という判断と同時に﹁AはBでない﹂という判断をわれわれが現実的にもち得ないという事実(心
的︑心理学的な㌻実)のうちに求めようとする︒しかし︑そもそも︑経験的纏心的事実から論理学的法則を導出しょ
うとすることは︑原理的に蓋然的でしかあヴ得ない実在的事実性から論理学的必然性を導き出そうとすることであっ
て︑そのようにし︑で導出され必然的なりと称される論理法則そのものが︑今度は経験的蓋然性の制約を受けざるを得
ないことになる儀問題なのは︑相矛盾する判断作用(A諏B︑かつA十Bという命題を措定する現実的作用)という
レアールで時間的な諸作用ではなく︑相矛盾する命題そのもの(AHB︑かつA十B)であり︑後者は︑それ自体と
し.て存立ずる非蒔間的縫超時間的なイデア的統一体の法則的非両立性からとらえられねばらない︒このようなイデア
ール/レアールの区別に盲昌であると.ζうに︑心琿学主義の全誤謬の根源がある︒
フッサールが論理学ないしは純粋論理学の名称のもとに構想するのは︑心理学やその他の種々の事実学H経験学に
は全く依存せず︑しかもなお自身の領域内にあらゆる事実H経験学(すなわち実在学肉Φ巴≦δω窪ω9p︒津)を︑さら
には純粋算術学や集舎論などをもすっかり含み込み︑基礎づけてしまうような一つの理論学である︒だからそれは︑
認識論的な学問の基礎づけにも関わるかぎり︑論理学というよりはーつまり概念論︑判断論︑推理論といった具合
に整序される伝統的な論理学というより・はーむしろ︑フヅサール自身も言うごとく︑﹁単問論﹂(≦δ︒︒魯ωoざ津甲
﹁意味﹂の現象学五
澱心味﹂の税象学六
δ欝①)と呼ぶ方が適当であろう︒君論薪学研究﹄はそもそものはじめから学帥認議の墓碇づけ︑すなわち認識批判と
いう契機をはらんでいたのであり︑これが後に認識対象の側から認論主体の側へとフッサー亙の思索を轟いてウぎ︑
やがて純粋意識体験の本質記述的現象学の領野が開かれることになる︒が︑︑それ藪さてゐき\次に﹁イデアール蹴も
の鍔真理﹂の超越的目超時闘的性格に着目することにしよう︒
対象を認識したり︑事象を判断したりする際分われわれの個々の具体的体験(一プラス一イコ⁝ルニど表象する体
験)はレアールな個別存在であり︑これは時間的に制約︑規定され︑ズ成禰滅するものである︒﹁しかし︑真理︹この
場合︑一+踊翻ごという事態︺は︽氷遠︾で訪り︑あるいはいっそう適切には︑それは一つのイデー(の凶畑Φ回儀①の)
であり︑またそうである以上︑超時間的(偽び①國,麟Φ陣搾⁝恥Oび)である︒﹂(圃●φ罵G◎二ー一四九頁)イデアールなものH真
理は︑無時聞的翻超時間的である︒だがそれは︑プラトソが考えたようにどこか天上界にあをので︑もなく・かといっ
て︑われわれの思考のうちに内在的に存在するものでもない︒このイデアールなものはまだ﹁意味﹂(ω汐ジけや
伽①償欝ゆ鵡)としてもとらえ返されることになる︒..
ところで︑﹁慮味﹂を目題とする前に︑フヅサールにおけるイデア的なものの超越性をいっそう際立た棲9ために︑
フッサ,‑ルが﹁人間論主義﹂(︾馨導○"oδ嬢q謎諺窃)と呼︑んでいるも.のにどのような批判を加えているかを飾年に見
てみることにしたい︒われわれの判断対ノ(一+↓二)の確実性を︑われわれのその都度の個人的主馬"心理によ
って共縫づける立場は成程ナンセンスであるとしても︑それを人同総体としての種に依存せしめる立拐はどうであろ
うか︒人飼を懲えたところで確実性を姦提づける0ではなく︑人間という証の構造︑及びその思%法期にもとついて
具であるものは人問という種にとっては絶対めに真である︑と主張することはできないであろうかひこのような立場
をフッサールは﹁種的相対主義﹂(ω圏①N難ωoげ①ω沁甦鋤鑓く謄鼠灘ω)ないしは﹁人間論主義﹂ど名付ける︒彼にょれば︑
この人間論主義も︑実は懐疑主義の一変租であるにすぎない︒これにたいして︑彼は大略以下のように批判を加える︒
Lこの立場の主張には︑同じ判断(命題)が人間という種にとっては真であっても︑他の存雀嘉︑つまり人陶と
は別の構造をもつ主観にとっては偽であり得るということが含まれている︒しかし︑同じ判断内容が真偽双方である
ことはあり得ない︒﹁真なるものは絶対的であり︑︿それ自体﹀真である︒呉理は︑これを判断によって把握する
ものが人間であれ人闘以外の存在であれ︑天使であれ神々であれ隅同一である︒瓜冨譲魯鯵Φ詳.溝縛賦の簿δoび
団ヨρ○σωδ鍵の謬︒90びΦ謬o熱①鳩¢鱒露Φ類︒りoずの斜麟欝ぴQ蝕○鳥①層○α簿敷煽溝①鴇の鯵甑①鳳器︒9⇔鐸﹂(回ψ賦メ一ー一三八
頁)
ヘへa人間という種の韓造は一つの事実であるにすぎず︑事実からはつねに事実が導出されるのみである︒真理を種
の構造に基礎づけることは︑真理に事実の性格を与えることであって︑これは背理である︒
以上の批判からもわかる通り︑フッサールは戦理縫イデア的存在を︑人瞬の種的構斗34というような︑いわば﹁偶然
的﹂かつ﹁事実的﹂であるものによって志旋づけることを断田として拒絶する︒イデアール友冥鐸は︑人間の存立と
は無関係に︑﹁それ自体としてし存立する︒かくして︑イデアールなμ理は︑われおれにとってすぐれて超越的な性
格をもつことになる.
もっとも︑ここで︑真理/事実という二項対立︑すなわち︑あらゆる事実ないしは事実性から完全に自由であると
ころの真理︑さらには人間的なものを一切とっばらった地平に存立するところの真理︑なるものが︑それ自身きわめ
ヘヘヘヘヘへて入門的な一つの揮想︑ないしは妄想ではないのかどうか︑と自闇することはできよう︒人闘という地平をすべて完
全に超越しているようた真理を︑われわれはいかにして認識することができるのか︒もし算押か一切の人間的なるも
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘへのと艇國係だとしたら︑いかにして真弾はわれわれの体験を通して︑われわれに与えられるのか︒ζのようなきわし
﹁意味﹂の鐸rづ七