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賀 寿

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(1)

賀寿

第一章歴史的考察          ︑v目   欠

  コエ     ベこ      ン  M即   才   三ご

 一︑インドにおける華厳経原典の成立  二︑華厳経の著者とその思考のモティーフについて  三︑漢訳華厳経について

第二章 華厳経の解題ての他

 一︑華厳経の音心味について

 二︑注︹すべき華厳経の特質 仏最後の説法一︐法華

経﹂にたいする﹁仏の原説法﹂としての華厳経

 三︑華厳経にかんする﹁経﹂の定義のもつパラドクス

第三章 華厳経における根本問題

 一︑寂静と言語  宇宙言語としての光りと︑人問の言 としての説法  二︑華厳経の三つの中心としての﹁十地品﹂︑一宝王如来 性起品﹂︑一入法界品﹂

 三︑上昇と静止の同時性  四︑如来の天界の旅の象徴性︑即=二界﹂のなかの﹁欲

界﹂を範囲とする天界の旅 五︑ ﹁菩薩道﹇にかんする魅惑的な物語・ソ﹇入法界品﹂︑

方への旅の意味︑いわゆる仏教の伝統  ・lT鋭く対立する華厳経の ﹁世間﹂︑一女人﹂ および

生なきもの﹂にたいする高い評価

六︑ ﹁十地品﹂に見られる根本問題の深い哲学的意味

七︑個別化の原理としての 1宗王如来性起品﹂

八︑ 一方﹁川巳爪﹂へ︑他方一︐浄土己が﹂へと発展占ーウOぷ刑牙

 ・︑.︶しての華厳経 録︑華厳経三十四品の表題および八衆会の名称︵各会  の説法者名と説法のテーマ︶

第一章歴史的考察

  が  き

は︑全三十四品から成りたち︑八群にわかれて︑如来をめ

ぐろ無数の苦薩たちのさまざまな会座を︑八場面に亙って描き出し

ている.︑この会座にに︑それぞれ説法者があL︑説法の場所もそれ

大方広仏華薮経序説︵土井︶

(2)

    法華又化研究︵第十円ロヴ︶

それに異なっている.﹈︵附銀参照︶

 第 群ははじめの二品﹇世間浄眼品第↓﹂と﹁盧舎那仏品第二﹂

ある︒この群は︑r寂減這場﹂での︑如来を中心とすろ無数の菩

薩たちの第一の会座のさまを︑ありありと見せてくれる︒寂滅亘場

とは︑北インドのガンヂス河の.畔りにたつ菩提樹の下︑かつて歴史

       ホ  

あ.︒ガウζが︑お膓︑㏄五〇〇年の︑﹂ろ︑はじ竺人覚

者︑すなわち仏となられた場所である︒この寂滅道場での説法者は︑

悲を具現する普賢菩薩︵サr.ンタバードラ︶であり︑説法の主題

は︑如来の悟り給うた智慧である︒

群は︵第三から第八までの︶六品︑すなわち﹁如米名日σ品刀

三﹂︑﹁︐四諦品第四﹂︑﹇如来光明覚品第五﹂︑r菩薩明難品第六﹂︑﹁浄

七﹂︑そして﹁賢首菩薩品第八﹂である︒この六品に︑寂滅

らほど遠からぬ﹁普光法堂﹂で行なわれる︑第二の会座の光

景を述べている.︑ここでの説法者は︑仏の大智を体現する文殊菩薩

I

リ←であり︑説法の主題は︑純粋な﹁信仰﹂であろ︒こ

して︑無数の光りが如来のみ足のうらから輝やきを放

第三群も︵弟九から第十四までの︶六品︑すなわち﹁仏昇須弥頂

品第九﹂︑F菩薩雲集妙勝殿上説偶品第十﹂︑ r菩薩十住品第十一﹂︑

行品第十1 1﹂︑r初発心菩薩功徳品第十三﹂︑それに﹁明法品第十

四﹂である︒この第三の会座は︑須弥山の頂上で行なわれる︒説法        二者は法☆︐室日薩︑説法の主題に菩薩の住のト段階である一.このとき無数の光・ソが如未のみ足の指から握︐やきを放つ︒

0!

群は︵第十五から第十八までの︶四品︑すなわち﹁仏昇夜摩

自左品第十五﹂︑F夜摩天官菩薩説偶品第十六L︑r功徳華聚菩薩

第トヒL︑7.百薩十無尺蔵品第十八﹂であろ︒この第四群は︑

夜摩天宮で行なわれる第四の大きな会座の前に︑われわれをみちび

く︒夜晦三天とは欲界の01三天であって︑このときの説法者は功徳林

菩薩︑説法の主題は︑菩薩の行の十段階である︒このときもまた︑

無数の光りが如来のみ足の指から輝やきを放つ︒

 第五群は︵第十九から第二十までの︶三品︑すなわち﹁如来口升兜

宮一切宝殿品第十九﹂︑﹁兜率天宮菩薩雲集讃仏品第二十﹂︑﹁金

憧咋︐口薩卜廻向口川第11十 1Iでち○︒この第五の会座は︑かくて欲

界の第目天である兜率天宮で行なわれる︒説法者に金剛恒菩薩︑説

法の主題は無上の智慧を得るために︑そして一切の・衆生を救うため

に︑菩薩の行ずる十段階の廻向で←○ろ︒このとき光りが如来の御膝

ら輝やきを放つ︑︒

第六汗は︵第11卜二から第.二十二までの︶十一品︑+なわち﹁十

品第二十二﹂︑l十明品第二十三﹂︑r十忍品第二十四﹂︑F心王菩薩

曾砥品第二十五﹂︑二好命品第二十六﹂︑﹁菩薩住所品第二十七﹂︑

仏不思議法品第二十八﹂︑﹁如来相海品第二十九﹂︑r仏小相光明功

徳品第三十﹂︑F普賢菩薩行品第三十一﹂そして﹁宝王如来性起品第

(3)

二﹂である.︑この第六の会座は︑他化自在天宮で行なわれる︒

他化自在天とに︑欲界の第六天すなわち最高の大で︑この会座での

は金剛蔵菩薩︑説法の主題ぱ︑書薩の立つべき十段階の地で

あろ.︑ここでは︑如来の眉間の白.宅が輝やきを放つ︑ただし︑普賢

菩薩行口叩と宝王如来性起品では︑普賢菩薩が説法者であるー︒

第七群はただ一品であるが︑かなり大部の﹁離世間品第三十三﹂

ら成っている︒ここでに︑如来とともに菩薩たちが︑天界からふ

たたび地上に戻ってきて︑菩提樹下の寂滅道場に集うのである︒

第八群〜︒一品だけであるが︑これ−︸.非常に大部の︑華厳経のほと

ど三分の一を占める︑ ﹁入法界品第三十四﹂から成っている︒菩

薩たちのこの第八の会座は︑r大荘厳厄︑︐閣講堂﹂で行なわれる︒入

界品の第一部では︑如米がいわゆる﹁師子奮辺三昧﹂に入り給う

ありさまが描き出され︑第二部では︑五十111人の卓れた師を訪ねて

行く︑善財童子の南方への旅が語られている︒そして︑童子が最初

師こそ文殊菩薩であり︑最後に訪ねた師こそ普賢菩薩に他

ならない︒

なかにもう一度︑各品の題名と会座の場所の名があげられ

ていろ︒上述のことから明らかになるのは︑あの古代の造型芸術に︑

如来の脇侍として出現する普賢菩薩と文殊菩薩が︑本質的な役割り

を演じているということ︑そして華厳経の意を付度すれば︑二人の

うち普賢菩薩か一段と高い地位を占めるということである︒

     一︑  ︑    ︑L︵⊥吉π︶

 i)

B.C

  、

1.tl

すでに見たように︑華厳経に111十四品から成り立っているが︑こ

な経が︑ただ一人の著者の子になったとに︑事柄の性質上と

うてい考え・・とができ三.藁︑それは竺世紀のこ・かム

けて︑大勢の著者によって書きおろされたのである︒

それ故︑華厳経には新古の層がある.︑﹇十地品第二十二﹂とr入法

界品第一二十四﹁の二品は華厳経全体のなかでもっと己︑古く︑﹁宅王

第111十二﹂はもっとも新らしい︒この主張は何にもとつ

くのであろうか?

教えの第一の体系的思想家で︑﹁L﹂1プ丁﹂の思想を基礎づけた龍

ジニナ樹︵およそエ一五︵︶ー二五C     ︑     . ︶と︑第二の体系的思想家でt唯識説を基礎

      ワノコパ ン  ヒ

         くた世親︹お・三h三F紀三つ︶は︑いすれも﹁十地品﹂にかんす

る註解書を著わした︒しかしこのとき︑かれらはl.十地品﹂を︑華

なかの一品ではなくて︑ひとつの独立した経だと考えていた︒

さらに龍樹は﹁入法界品﹂をr不可思︑議解脱経﹂という独立の経

として引用していろ︒言い換えれば︑龍樹・も世81も全巻まとまった

厳経を知らす︑上述の二つの経だけを知っていたのであ.っ

て︑この二品は︑のちの世紀に戸三.てようやく︑全華厳経のなかの

品として︑そこに組み込まれたのであろこの最古の二品に︑一般

       三

(4)

 日口嘉ド丈に研究○弟十四け︶

若波羅蜜﹁の精川︵股桔ごわたる第六︑最高の技としての智只.﹈︶に

貫ぬかれており︑華厳経の後期の著者たちはみなこの精神を行き着

Vところまで発展させ︑深めたのであった︒﹁宝王如来性起品﹂こ

そは︑こうした発展と深化のまどらかな結実にほかならない︒これ

なぜ︑﹁性起品﹂が華厳経のなかでもっとも新らしい部分と見ら

ろかということの浪拠であろ︒

匹1葺

親二樹三

    ノ

A   A

十十地庄

シ砥 4Lじ

(}間

v

v

二︑華厳経の著者とその思考乙

ノ︑ーフごついて

ように︑華厳経゜を作り上げたのは︑ギリシ山︑におけろホメ

ーロスと同様︑いく世紀にもわたる複数の人びとである︒しかしこ

らの著者たちは︑ 如来の精神でちる﹁°般若波羅蜜﹂ ︵彼岸に渡る

第六の技としての智坤.心︶をうけつぎ︑発展させろことのほかは︑何

も考・え:ア︑ 何も望まなかった.︑ それ故にこそ︑ かれらは固有の名

を用いず︑いつも如未○み名において語るのでちる一︑﹇本でL−︑っと

・こ︑卓越した︑かつもっとも純粋な仏法者であり︑日本曹洞宗の開紐

ある道元︵gl二◎c1二二︐り三.︑      ︶二︑tてのむかし支那で︑五年の修

行時代を了えたのちに云りた︒﹁わ二くしは空手故国に帰還した        円それ故わたくしい.⁚如未のみ孜rえをさえ持っ.ていない.﹂このように︑あらゆろものをひとつひとつ放下して︑全くの無所有となること︑これが如来の﹁遺反﹂の真髄であって︑仏への帰依さえが仏の精神

反する︒ξっとも倣底した無所有のなかにいて始めて︑仏法者は

される︒そしてこれこそが﹁空﹂である︒華厳経の

著者たちは︑ ↓人筏らずこの精神を生き︑この精神をひとつの包括

な体系にまで発展させたのであった︒

 L

華厳経−のサンスクリット原典は︑﹁︐十地品﹂と﹁入法界口川﹂を除

て︑失なわれてしまった.︒今日残さ︑2/ていろこの二品の原典もま

た︑かつて作成された当けのものでなノ\その後いく度も手直しさ

たものであろ.︑

さて︑漢訳華渋経には﹇︐六十華厳﹂﹁八十華厳﹂﹁四十華厳﹂の三

種類がある一︑六卜巻の﹁六十戸羊厳﹂に一二十四品からなり︑仏駄敗陀

よソて⑪四一八から四二〇年にかけて翻訳されている︒﹁八十

華厳︺は八+巻三+九品から苔︑皿六九五から六九九年にかけて

実叉難陀にし︵って翻訳されている︒四十注からなる﹁四十華厳・﹂は

       う       ソ

より︑U七九五から七九八年にかけて翻訳されていろが︑こ

︑れは ﹇二人津い田介日順.一 一日川バ長けで・ある.︑

.六十華厳.﹂に︑いわば﹁.詩と真実﹂の意味で卓れている︒生き

(5)

た信仰の深さと芸術的表現のみごとさがこの訳の特徴である︒中国       ポ

ける華厳宗の最切の体系的思想家であ= srr︐1二祖である賢首︵M六

四.一ー︑じ1 11;・+︶ t!︑ この・六⊥1牛堆蚊にゲいっxiy︑W準.蚊〃賠ム上体にか.Wす︶っ︑       まギ

解説書を著わした︐華鼓宗の現言○信仰は︑爾来今

﹇﹇﹂⁚グ主ワつ士︽ス\t ︐JO ﹇−1ハ⁚ー⁚旺い︑敏﹂ ○︵己か⁚︵ル上シご/\い↓OのスS山めりO.︑

F

厳一は︑文献学的︑学問的正確さにおいて卓れている︒

厳宗の第四沮であり︑華厳宗と禅宗との折哀家である澄観︵皿七三

1八..兀︶が︑﹁八十華厳﹂にそって華厳経全体にかんする大部の哲

を書きのこしている.︑したがって︑われわれの今後の華

は︑r六十華厳﹁の深い信仰と︑美しい象徴性のみならず︑

r

華厳﹂の学問的正確さと弁証法哲学の両而から︑考察される

あろう︒

華域大琉ともいう﹂︶

第二章 華厳経の解題その他

1︑華厳経の意味について

ように︑華厳経のサソスクリット原典は︵十地品と入法界

を除き︶失われてしまった︒したがってわれわれは︑華厳経の表

   を漢訳によってしか知ることができない︒この経の正式な表題を

    大方広仏華鼓経序説︵土井︶

は﹁大方広仏華厳経﹂と云う︒すなわち﹁広大無辺一切即↓

なる如来を︑さまざ三な兵しい華で賛美し荘厳・丁る径﹂である︒

仏敦の伝統では︑一華﹂はかならいア泥⊥のなかに深く根をはりな

ら浄らかな空中で花ひらく蓮○華を意味すろ︑蓮の華には赤・

白・青などごまざまな種類があり︑菩薩と菩ほ○わざ︵業︶を象徴し

るが︑︵菩薩とt1 Jtm ︒r﹈ある存在のこと︶ それは菩薩が罪深い世

間のただ中にいながら︑浄らかなわざ︵業︶を行ずるからである︒菩

ちはみな︑さまざまに異︑なる世界と運命のなかで生きているの

で︑限りなく多様なわざを行なわなくてはならない︒無数の菩薩た

ち︑すなわち仏弟子たちに︑いつも千種千様の浄らかな行ないやわ

ざによって︑如来を喜こばせたり賛美したりしようとするが︑そう

した意欲や努力こそ﹁普賢菩薩行﹂と云うものである︒なぜなら︑

こそは菩薩たちの代表者であり︑指導者であるからで︑華

味するものは︑じつに普賢菩薩行にほかならない︒

しかし︑普賢菩薩でさえも︑他の菩薩たちと同様に︑如来の光り

        ら生まれるのであろ︒この光りは﹁海印三昧﹂とよばれる如来の

r精神統一の寂静﹂にもとついて輝やきを放つのだが︑宇宙にある

個々のものはすべて︑無数の限りなく多様なものの姿が︑静かで浄

らかな海面に映るように︑この三昧の寂静において︑如来のみ心に

るのである︒

無数の菩薩たちは︑すべてこのようにして︑﹁大海の聖なる鏡﹂

      五

(6)

    法華文化研究︵第十四号︶

ら立ち現われる︒したがって︑菩薩たちの行ないやわざの

ことごとくが結局は︑如来の底知れぬ寂静に由来するのである︒も

しも菩薩たちが︑無数のかぎりなくみごとなわざを成しとげ︑それ

によって如来を歓こぼせ︑如来を称えまつるとすれば︑これらすべ

は︑最終的には如来みずからの不可思議な神力に遡及する︒した

て︑いかなる菩薩のいかなる賛仰の行ない︑いかなる賛美のう

たも︑そのことことvが根本においては︑如来みずからの働らきに

ならない︒如来はみずからを荘厳し︑みずからを賛美し給うの

ある︒この点で如来は︑円満自足せる﹁アリストテレスの神﹂と

似ているが︑アリストテレスの神が︑けっして他の生あるものと関

りを持たないのに反して︑如来は︑ただただ無数の菩薩たちによ

て︑つねに断えることなく自からを賛美される.︒それ故如来は︑

まったく独りではあるが︑けっして孤立していたまうわけではない︒

このようにして︑如来がみずからを賛美されるたびに︑あらゆる

界のいたるところで︑無数の菩薩たちが如来を賛美する︒云い換

えれば︑この同じ瞬間に︑すべての菩薩たちの汚れを知らぬ色さま

ざまな蓮の華が︑天にも地にも︑くまなく花ひらくのである︒宇宙

はこの瞬間に︑無数の蓮の華で覆わ2/る︒そして︑如来がみずから

を賛美したまう瞬間こそ︑同時に永遠にほかならないそれ故︑宇

に︑そして日々に︑色さまざまな蓮の華でみち溢れている

ある︒︑華厳経の表題は︑したがって﹁一切即一華経﹂を意味す  *簡潔を求めて︑チベット語訳華厳経についてにふれなかった一︑ る﹂という意味である︒ る︒中国語の華厳とは一色とりどりの華でもって如来を称えまつ       六

二︑

目すべき華厳経の特質−

後の説法﹁法華経﹂に対する

r

法﹂として華厳経

は︑およそ二千年を通じてずっと︑仏の悟りの内容の自己

そのものであると信じられてきた︒したがってこの経は︑聖な

る教えをそれぞれの能力に応じて理解するといった︑聴き手を前提

する他の経とは根本的に異なっている︒それ故︑華厳経そのものが

ぎの事実を語っている..すなわち華厳経のなかの会座では︑仏第

中知恵第一の舎利弗︑神通第一の目健連等々の仏の十大第子たち

さえ︑完全にコ耳しい﹂であり一︐目しい﹂なのである︒ここでは

な菩薩だけしか︑如来を目に見︑耳に聞くことができないoと

これは︑如来の意志や思惟とは関わりがない︒天高く昇った

高い山脈の頂きしか照らさないように︑如来の悟りの光りも

まったく同様に︑もっとも卓れた菩薩たちのところにしか届かない

ある︐︶そういう形で︑華厳経に本来如来の独語であり自己表現

なのである︒太陽は︑おのれが恵みを与えている生きものにたいし

て何の思いも抱いていないが︑如来もまったく同様に︑聴き手を意

(7)

してはおられない︒この故にこそ華厳経は︑あらゆる仏教聖典の

あり︑基盤なのである︒

他の経は︑いずれもみな︑仏の大悲によって︑衆生ひとりひとり

力に応じて説かれているが︑法華経は浬葉経とともに︑この系

くする聖典の最後のものである︒云い換えれば︑華厳経は︑

すべての聖典の発端と根源の役割りを演じ︑法華経は︑終末と帰結

りを演じているのである︒

︑華厳経にかんすろ

  のもつパラドクス

r経﹂の定義

は︑聖典は三種類にわけられている︒﹁仏の金口﹂

ら語り出されて︑ のちに書きしるされた﹁経﹂と︑﹁経﹂を哲学

し基礎づけた﹁論﹂︑そして最後に︑現実の共同体におけ

る仏第子たちの︑実生活にかんする戒律を記した﹁律﹂である︒ど

なかでも︑如来みすからがさまざまな聴き手にむかって法を

ておられる︒ところが華厳経の如来は︑﹁大海の鏡﹂ の永遠の

静にとどまりつつ︑華厳経三十四品を通じ︑深く沈黙して一語を

も語られない︒如来はここでは︑語らず︑語られたまうのである︒

薩たちは︑順にしたがって語るが︑最後にはきまって如来

を語り︑ただただ如来を賛美する︒如来は他のいずれの経とも異な

り︑ここでは説法の主体でなく︑説法の客体であり︑主題なのであ

    大方広仏華弐経序説︵土井︶ る︒

このような面から考察すうとき︑華厳経は明らかに﹁経﹂の定義

反していろしかし︑無数の菩薩たちのこれらの説法はごとごと

v︑如来の不可思議な沈黙によって促がされ︑支えられている︒い

や︑菩薩たちの存在そのものが聖なる沈黙の光りに由来するのであ

ろから︑菩薩たちの説法も説話もそのことごとくが遡って仏の神力

する.︑如来は沈黙の寂静のなかで語り︑説くことなくして説

きたまうのである︒ここで如来は︑たんに説法の客体であるばかり

なく︑同時に源泉であり︑基盤であり︑したがってもっとも本来

な意味における主体である︒というより︑全華厳経はむしろ︑如

ずからを相手に語られた独白である︒それゆえ︑華厳経は︑

もっともすぐれた意味における﹁経﹂︑すなわち﹁仏の金口から語

り出された経﹂である.︒なぜなら︑ここには如来のほかには何もの

も存在しないのだからo

第三章 華厳経における根本問題

︑寂静と言語  宇宙言語としての

りと︑人間の言葉としての説法

ように︑華厳経には︑如来を中心とする無数の菩薩たちの

会︶が描かれているが︑この会座は︑地上四か所︑

       七

(8)

    法三r文化研究︵第十円㏄.っ︶

て七つの異なる場所︵七処︶で行なわれる.

華厳経の全体系は︑如来の悟られた智慧︵正覚︶と︑﹁普賢菩薩

行﹂に通じる同一の根本思想を︑一方では哲学的展開という形で︑

他方では︐魅惑にみちた物語りの形式で表現しようとしている︒それ

厳経はt 11つの大きな部分にわけることができる︒すなわち︑

第一品から第三十三品までが第一部で︑第三十四品すなわち﹁入法

界品﹂は︑第二部として︑︐ぼから云っても︑華厳経全体の三分の一

間を占めている.︑第一部○哲学的体系が︑第二部では意味深い

物語りの形式によって︑芸88的象徴にまでなっている.︒第一部の哲

は︑第二部でも再現されているが︑ここでは︑まったく新

らしい照明と︑新らしい様式を与えられているのである︒

第↓の会座︵第↓品と第二品︶は﹁寂滅道場﹂で行なわれるが︑

・れtJIN−︐25ガゥζ・バ︑三r.・︑・.︑.・が︑㏄百二.三年三月!2 F覚

者﹂すなわち仏となられたインド・マガダ国・ブ;ダガヤの地にほ

ならない︒ここでは全菩薩の首長で5り代表者であり︑如来の大

悲を具現するものとして白象にまたがっている普賢菩薩が説法する︒

主.題は華厳経の源泉として基盤としての︑如来のみ心に宿る

唐りの智彗心である.︑

第二のムム座︵第︑ニー−川かρつ第八n川吉︽で︶は︑庁杁パ獣▽口唄勿か・らジ旧へほど

らぬ︸︑普光法堂﹂で行なわれる.︑ここでの説法者は︑全菩薩の

あり︑仏の大智を具現するものとして︑いつも師子の 背に乗って︑仏の布側に侍している文殊汚薩であろ︒説法の主題は        八

原点としての純粋な信仰である.︑︵菩薩道には五十二の段

ある.︑すなわち﹁信の十段階﹂﹁庄の十段階﹂﹁行の十段階﹂﹁廻

向の十段階﹂﹁菩薩地の十段階﹂﹁加来と同等の段階﹂﹁如来自身の

階﹂である︶菩薩道にこのようにして純粋な信仰から始まり︑こ

こから次第に高く上昇して行vのであるが︑他方第一の会座は︑菩

薩道の源泉として基盤として︑まさにその故に不動不変永遠の寂静

にとどまっているのである︒いま︑この第二の会座で始めて︑無数

なる智慧の光りが︑如来のみ足の裏から輝きを放つ︒

第一11の会座︵第九品から第十四品まで︶は︑一須弥山﹂の頂上で行

なわれる︒この山は︑全地の中央に甕え立ち︑欲界の内部に︑切利

という第二の天を形成している︐ ︵仏教で云う天はすべて︑生死

領域にほかならぬ罪深い三界のなかにある︒ところで三界は︑

界︑色界︑無色界から戌り立ち︑欲界は六つの天と四大洲を︑色

界は十八の天︑そして無色界は︑四つの天を含んでいる︒簡単に云

えば︑仏教の天は二十八を数え︑感性的で喜こびにみちているが︑

けっしてキリスト教の天のように︑清浄でも神聖でもない︐︶如来

はいまや︑一片の雲のように︑飛翔しつつ須弥山の頂上にのぼられ

るが︑しかし︑寂滅道場にある︑もとの師子の座を去られることは

ない.︑この会座での説法者は︑法慧菩薩とよばれ︑菩薩の十段階の

住について語る︒ここでは︑無数の智慧の光りが︑如来のみ足の指

(9)

から信ドやきをu貿つ.

座︵第十五品から万十八品まで︶ご︑もはや地上でなく︑

ある夜厚⁚六汀でpげなわれ︐シ︑如・米は︑空にうかぶ雲の

ように︑上力をU指して飛弓し︑天富に到着される︒︑ここでの説法

は︑功徳林一.真ほとよばれ︑ロ.口薩のト段階の行について語る..この

第四の会座では︑無数の矧旦.口の光りがt ﹈︿たたび如未のみ足の指か

ら輝やきを放つ︑.

会座︵第十九品から第.二⊥日まで︶竺︑兜率天宮で行な

る︒如来ぱ空甲をさらに上年して夜摩天宮からここへ来られる

が︑このときLh︶や二り︑.Jpとの場である︑寂滅道易における菩

樹下の師子の座を去りたまうことがない.︑ところで︑説法者は金

菩薩とよばれ︑菩薩の+段階の廻向について語る︒ここで廻向

と云うのは︑菩薩が1つにご無=gのf︸:wil#︐i ︵仏の大知日︶を得るために︑

また1つにはいっさいの衆生を救うために︵仏の大悲︶みずからの

と功徳のすべてを手向け捧げることである.︒この第五の会座では︑

なる智が.心の光りが如来の御膝から輝やきを放?︑

第六の会座︵第二十二品から第.二十二品まで︶に︑他化自在天宮

なわれる..説法者は金剛蔵菩薩で︑菩薩の立つべき地の十段階

て語ろ.︑菩薩はこの﹁十地﹂の上に立つときに始めて︑本来

意味での菩薩になるのであり︑これに先立つ四十段は︑ここに到

するための準備段階にすぎない︒菩・μは︑ここで始めて堅固な大

    大方広仏華酸経序説︵土那︶

に︑まことの菩薩のゆるぎなき地盤の上に立つ︒苫薩.這の真

井が︑ここで始め〆︑起ころのでおろ︐︑それ故︑この会座ご︑欲

界の万六天︑すなわち最高の天で行なわれる.︒そして︑如来の兜率

らここに到ろ上昇は︑全華厳経におけろ最後の上昇である︒そ

れにふさわし/\ここで二智慧の光りが︑如末の胃問の白毫から輝.

きを放つ.︑

会座︵第三十三品︶は︑ふたたび地上の普光法堂で行なわ

る.︑この法堂ほ如来の上口汁の発端であるとともに︑終局である︒

そして︑このような連動−こ変化のすべてご対しては︑第一の会座の

ある﹁寂滅道場一の﹁菩提樹﹂下の﹁師子の座﹂が︑先なるものと

して︑あろいほ下なるご︑のとして︑これらを支えているのである︒

fなる師子の座﹂こそは︑じつに﹁動かずして動かすもの﹂︵アリ

ス・︑−Tアレス︶にほかならな1. c・ところで︑第七の会座での説法者は︑

たたびほかならぬ普賢菩薩であり︑†題は﹁普賢菩薩の行﹂であ

る.︑ここでは実に昔賢菩薩の二千のよき行ないがひとつひとつ事細

明されている.︒一離世間品第111十111 Jこそに︑仏教の功徳の

すべてを解明したものに已かならない︒

このようにして︑第一品から三十三品まで︑あるいは第一の会座

ら第七の会・座まで読み進み︑さてそこから︑全華厳経の第一部を

渡すとき︑われわれにおのずから︑次のような注目すべき事実に

気付かざろを得ないr︶ 1︑普賢菩薩が説法者として第一部の始めと

 九

(10)

    法華ズ化研究︵第十四号︶

りに登場していること︒二︑第一の会座のある寂滅道場の﹁師子

座﹂があらゆる運動︑あらゆる上昇と下降の源であること.︑三︑

第二の会座の説法者である文殊菩薩︵マンニュシdリ︶が上昇運動に移

る入口の敷居の上に立って︑運動のバネの役を演じていること︑四︑

なる運動︑いかなる上昇と下障にあたっても︑如来は永遠に菩

提樹下の﹁師子の座﹂に坐したまま︑けっしてもとの﹁寂滅道場﹂

を離れたまわないこと︒五︑さまざまな菩薩がさまざまな説法をす

るが︑そのときにLlP如来は︑﹁︐海印三昧﹂とよばれる精神統一の深

と寂静のなかにあvて︑ 一語をも語らず︑なに事をもなし給

わぬこと︑などである︒

これとまったく同じ構成が︑華厳経の第二部でも繰り返されてい

る︒しかしここでは哲学的思考のモチーフとしてでぱなく︑魅惑的

な物語りというごく自然な形を与えられている︒華厳経の第二部す

なわち﹁入法界品﹂は︑r師子奮迅三昧﹂と云われる如来の精神統

に基づいて︑まず文殊菩薩の説法から始まる.︑そして善財という

が︑文殊菩薩の教えに促がされて︑南へ南へと︑卓れた師︑指

導者を求めて旅に出るのである︑童子が訪ねた師は五十三人︑その

初の師か文殊菩薩であり︑最後の師こそ普賢菩薩にほかならない︒

ここでもま二︑如未の無言の静寂と不動○無為が︑善財童子の旅の

とともに︑五十一二人の卓れた師の多様きわまりない説法の根底

となっている一.それ故に︑如来の具これる数多くの名号の一つを︑       lo

r沈黙の済度者﹂すなわち﹁能仁寂黙﹂ツニムうのである︒

したがってわれわれに︑華厳経全体からつぎの結論をひき出すこ

とが出来る.すなわち︑言葉あるいに言語は︵あらゆる種類の運動

とともに︶けっして根源的なものでなく︑派生したものであ

ること︑云い換えれば︑人間および人間的なものは︑その根源を人

的でないもの︑あるいは超人間的なもののなかに持つ︑なぜなら

間は︑三口葉あるいは言語によって始めて人間になり︑またなるべ

きものであるからということである︒この点で華厳経は︑超人間

的あるいは超人間主義的なものとなる1人間の活動と行為はことご

とくその根を︑如来の安息と無為のなかにもち︑妥こLから始めて生

じる︒人間の言葉と言語はその源を︑如来の寂静と沈黙のなかに持

あるいっさいに︑いかなる人間の言葉や表現に︐も先立っ

て︑まず﹁大海の鏡としての仏の精神﹂に映り︑そのなかであます

ところなく自己を表現するのである..

rなる大海の鏡﹂に声宙が自己を表現すろ手段iーこれが言語

根源である︒聖なる鏡は﹁言語の根源﹂として﹁聖典﹂にほかな

らない.︑そしてそのなかから﹁宇宙言語﹂とも呼ばれうろ﹁智慧の

り﹂が輝やき出るのであるが︑ワ〆︑れは宇宙言語を背景としてはじ

めて︑人間の三﹇葉が耳にきこえるようになるからである︒

(11)

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すでに述べたように︑十地品と入法界品の二品は︑華厳経全体の

なかでご︑っとも古く︑むかしは独立した経だと考えられていた︒そ

してこの二品は︑その哲学的思想内容から云えば︑﹁空﹂の精神︑す

なわち﹁彼岸に渡る第六︑最高の技としての智慧︵P﹈︐.ljfl.a−parall︶iti︶

貫ぬかれている︒この﹁空﹁の思想は︑のちに仏教の最初の哲学

者であ甚系的思想家である謹︑.壁・・㊥五・⊥11dCJ︶︶にて︑

礎づけられ︑かつ深められた︒そして華厳経の全体

は︑この二品を本源としてここから生成発展し︑つねにこれによ

て方位を正しつつ︑数世紀にわたって書きつがれたのである︒そ

れ故︑華厳経の意味は︑ r般若波羅蜜﹂︵﹇︾︼.儒﹈コ訪︑pararllitlZ︶の精神を

深め広めつつ展開させて行くことである.︑華厳経全三十四品は数世

り︑多.くの著者によって書きつがれたものであるが︑しか

もなおこの﹁般若波羅蜜﹂の精神がこの経をすみずみまで支配して

るのであって︑この精神のまったき発展の成果こそ﹁宝生如来性

起品第三十二﹂にほかならなパ㌔全三十四品はすべて本源としての

最古の二品︑十地品と入法界品︑および帰結としての最新の一品︑

    大方広仏華︐迂径序説︵土非︶

如来性已品を中心に集められ︑これらによって方向づけられ︑

秩ぼJづけられて:.ICI﹈要ナうに︑最古の.︑品へ+地品と入法界品︶

と最汗の一品︵宝⊥如来巴起品︶が︑全華厳経の三大核心をなして

ろのであ一つ一︑

三︑上昇と静止の同時性

如来︑そして如来とと・・三に会座の場は移行して︑さらに上昇しつ

けるのであるが︑このときにもなお如来は︑本源的な場である菩

提樹下の師子の座を去りたまわない.︒あらゆる移行と上昇が如来の

と沈黙に茎ついて行なわれる︒つまり︑いかなる種類の運動も︑

ならず如来の不動性をその背景としているのである︒この不断の

と︑永遠の無為︑沈黙との同時性は︑ますます修行にはげむ菩

薩と︵菩薩とは智慧を求める存在ということ︶︑永遠に不動の仏︵仏

とは聖なる真実を象徴するもの︶との同時性を象徴的に示している.︑

そしてさらに︑たえず移り行く世の中の現象と︑本質的に変わらず︑

ぎ行かぬ聖なる真実との同時性︑すなわち﹁現象の宇宙﹂とF真

宙﹂との同時性をも示している︒︵キTlルケゴールが﹁イエ

クリストと個々の信仰者との同時性﹂を強調していることをこ

こで思い出して頂きたい︐︶菩薩と衆生はおよそみな聖なる﹁大海の

鏡﹂のなかに出現するのであり︑如来の悟りの内に存在しているの

あって︑菩薩とは努力し精進しつつある仏にほかならず︑如来と

      =

(12)

法華ズ化研究︵第十四号︶

は︵菩薩行を︶成就して永遠なる︑ものとなられた﹁菩薩﹂にほかな

らない.︑それ故にこそ普賢菩薩は︑菩薩たちの代表者として指導者

として︑如来の心の奥深くにやどる悟りの内容を︑象徴的に語り︑

述べることができるのである︒したがって︑第一の会座での聖

なる寂静に基づいて︑つづく六つの会座での運動と行為︑讃美と説

はすべてことごとく︑まるで自然に起るかのようにして起るはず

ある︒いや︑これではまだ︑真実をつくしているとは云えない︒

は動き︑あるいは上昇し下降されるかぎり︑すでにそれだけで︑

なんらかの意味で努力する菩薩になっておられるのであり︑他面菩

薩は向上につとめ︑仏事を営なみ︑如来を賛仰するかぎり︑要する

そのような行ないがすべてただ︑如来の智慧の光りと無言の寂静

ているのである.︑こうして︑仏と菩薩との同l性は︑両者が弁証法       ネ もとつくものであるかぎ=︑菩薩はすでに如来のおいのちを生き

同lであるとの認識を示唆している︒

x 証一如についてtE1∵礼頁を・・︒参照これたい

四︑如来の天界の旅の象徴性︑即コニ界﹂の

なかの﹁欲界﹂を範問とすろ天界の旅

如来は空中をますます高く昇り行き︑さまざなまな天を経めぐら

れる・︑しかしこれらの天は︑ヨーロソバの思想界で考えられている

ど︑大地と峻しく対立しているわけでにない︒仏教的に表象され る二十八の天はすべて︑地や地獄とともにことこA︶v ﹇生死輪廻一        一二

領域に属しており︑天の住人たちでさえ未来のいつかある時この

とか地獄の世界に生まれ変︵︑てくることがあるのである︒ところ

で︑華厳経のなかで如来が遍歴される天はただ下方にある天︑つま

り欲界のなかの天であるが︑これに何を意味するのであろうか︒

如来が動かれるとき︑そして菩薩が努力するとき︑この運動︑こ

力は︑ともかくも上方を目指す上昇であるべきでありまたそ

うでなくてはならない.︒しかしそれと同時に︑如来も菩薩もいたず

らに空中を漂よい︑地上の生活の苦悩にみちた現実を看過されるべ

きでになfかれらの上昇とかれらの救済とに︑つねに大地から︑

実から出発しなければならない..それ故に︑如来と菩薩は︑いか

命に努力しあるいは上昇するときにも︑つねに一︑欲界﹂の内部

とどまっているのである︒

し:ft li︶欲界の第六天︑如来の天界の旅の終極でもある欲界最高の

は︑驚くべき特性をもっている︒ この天に︑r天の魔王﹂とよば

れる鬼神たちの大王によっ・て統治されているのだが︑それは同時に

F浄土﹂だと信じられているt﹈同じ1つの天が︑一方では︐もっと︐︸b

怖ろべき澄王の宮段であり︑他方でほ慈悲深い仏の浄⊥なのである.︑

鬼神と仏との間の続密このJ− −1nない類縁関係のパラドクスは︑じつ

に︑仏の聖な○教えごひそむ深遠な弁証法の屯要な主題の一つであ

る.︑︵以下の六節と八節参照︶

(13)

道﹂にかんする魅惑的な物語り﹁入

法界品﹂︑善財童.寸の南方への旅の意味︑

わゆる仏教の伝統と鋭く対立する華厳

間﹂︑一女人﹂および﹁生なきも

の﹂にたいする高い評価

界品第三十四﹂は︑全華厳経中最古の部分であって︑上述

ようにすでに龍樹〇一五〇ー二五〇︶によって︑﹁不可思議解脱経﹂

という名称をもつ独立の経として引用されている︒入法界品はそれ

自体二部にわかれており︑第一部では︑如来が﹁師子奮迅三昧﹂に

りたもうありさまが語られている︒第二部では︑この三昧の寂静

もとついて文殊菩薩があらわれ︑善財童子にむかって︑卓れた師

を訪ねるため南方へ旅するように教えさとす︒ここで善財童子の五

師が︑つぎに見るような種類の人びとや神・︑から成り立っ

ているのは注︹に価する事である︒︵仏教の世界で考えられる神々

は︑ヨーロソバで考えられる神ほど神聖ではなく︑いつもせいぜい

如来の従者が護衛にすぎず︑時には怪物であったり鬼神であったり

もする.︶

類一︑

1 長者      十人

2 夜光天女︵夜天︶         七人

    大方広仏華厳経序説︵土井︶

19 18 17 ]6  15 14  !3 ]2 11  ]0  9 8 7 6 5 4 3

さて︑

(世俗のままの女.性の仏弟子︶

子供 伽族の女

少女

庄人︵天人︶

隠者外道師︵異教異端の師︶

師︵船頭︶

ー﹂ノ−1−11コS

これらの師は︑

人 人 人 人 人  人  人  人  人  人  人

さらにその世俗性と超俗性にかんしてつぎ

ように分類することができる︒

二︑

1 世俗人

=二

(14)

    法華又化研究︵第十四目ゲ︶

2 超俗人︵菩薩︑僧侶︑尼︶    一一人

ことは何を意味するのであろうか? 善財童子は−文殊菩薩の

導きにしたがって︑菩薩道をさらに進んで行き︑つぎつぎに五十三

を訪ねる.︑したがって︑これらの師はみなことごとく︑なん

らかの意味で︑菩薩と見なされるべきである︒事実︑かれらはそれ

れ︑仏の特別なすばらしい教えをひとつずつ身につけている.︑と

ころで︑この五十三人の師のなかには︑世俗のくらしをしている人

もいるばかりか︑さらに一人の外道の師と十八人の女人︑

そして八人の擬人化された自然力までいるのである︒しかし華厳経

智慧の眼にとっては︑大ぜいの世俗人や女人は卓れた敦師であっ

て︑かれらの教訓と指導は救いのために不可欠な手段なのである︒

このような智慧と謙虚さに比較するとき︑仏教の伝統にあり勝ちな

狭量や頑迷な独断論にはおどろくほかはない︒われわれはふたたび

に︑華厳経ととり組まなくてはならない︒大乗仏教の源泉で

あり故里である華厳経を目指して︑そこへ立ち帰らなくてはならな

い︒さて善財童子に︑このようにさまざまな卓れた師を訪ねて︑南へ

南へと旅をつづける︒しかし何故南へ行くのだろうかP 何故北へ︑

あるいは東へまた西へ行かないのだろうか?

中国の華厳宗の︑卓越した体系的思想家であり︑開祖である﹁賢

首﹂︵Ω六四三ー七≡︶は︑これについて四つの意味深い示唆を与えて       一四

る.. 一︑漢語の﹁指南﹂という言葉は︑﹇正しい道又は真実を教

えろこと一を意峠する︒つまり︑南は方位を定めろ16一準であって︑

を意味すろ..二︑南方では太陽が終日照っている.︑それ故︑南

方へ向うということは︑暗黒から光明へと方向転換することにほか

ならない︒そしてそれは︑r十信﹂からF十廻向﹂へと辿る菩薩の

た象徴である︒ 一二︑太陽は東から登り西に沈む︒ 云い換えれ

ば︑太陽はこの11つの方向にむかってたえず動きつつ相を変えつつ

る︒これに反して南方では︑太陽が増すことも減ること−ipな

く完全な満ち足りた輝やきをもって輝やいている︒そしてこれが︑

盾対立がより高次の中心点で止揚せられ︑互いに完全に融

する﹁法界﹂︑すなわち﹁真実の字宙﹂の象徴である.︒これこそ

が︑すでに﹁十地﹂をふみ超えてふたたびこの世で﹁大悲﹂の業を

うちたてようとする菩薩の立場である︒十地の立場それ自体は︑事

とはかかわりがなく︑従って︑何かを自己の象徴と

して利用する機縁がない︒大智を代弁する文殊菩薩が︑本来的な智

慧︵フラジュニア︶には方向性がないとさとしているのは︑このためで

ある︒従っ︑て大悲と法界︑すなわち真実の宇宙を代弁すろ普賢菩薩

してはじめて︑﹁南﹂を白からの象徴として用いろことができる

ある︒四︑南方の神は生産力をもち︑北方の神は破壊力を−tp  O

それ故︑如来は浬葉に入られるとき︵死にたまうとき︶頭を北にし

て臥されるのである︒南のもつこの生産力は︑善財童子が旅を行き

参照

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