荷風における過去と現在
著者 宮尾 俊彦
雑誌名 紀要
巻 34
ページ 9‑17
発行年 1980‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1118/00000810/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
荷 風 に お け る 過 去 と 現 在
荷風は文明批評家である︒その荷風には︑過去を懐しみ︑現在を慨嘆 するという批評パターンがあるとし︑﹁大正の荷風が明治を懐しみ︑昭 和の彼が震災前の東京に古き良き人情風俗を見ようとしたような︑常に
丹㌦樟∵了工㍉二㌦一言日工㍉了∴
目的は︑その荷風の過去と現在に対する態度と視点に重点を置き︑前稿 で一瞥したところのものの一層の細分化と補強を図るところにある︒
現状に不満を抱き︑古き良き過去を追慕するのは︑l人荷風に限らず人間普遍の心情である︒荷風もこう言う︒
江戸時代の随筆旧記の兢を見るに時世の曹序に流れ行くを慨嘆せざ
るものなし︒天明の老人は天明の奮捗を嘆きて享保の質素を説き文化文政の古老はその時代の軽薄を憤りて安永天明時代の朴粥を嘉へり︒明治に残存せる老爺は江戸の勤倹を称し大正の老人は明治時代
の現代に匪れるを説いて止まず︒時代と人とを異にすと錐もその筆
法は皆一律なり︒後人の回顧して追慕する処の時代はこれ正に先人
の更に前代を憶うて甚喜ばざるの時代なりしにあらずや︒此を以て 之 を 看 れ ば 老 夫 の 感 慨 全 く 理 に 当 ら ず
︒ 然 り と 錐 も 人 老 ゆ る に 及 ん で身世漸く落莫の息ひに堪へず壮時を追懐して覚えず昨是今非の嘆
を漏らす︒蓋し自然の人情怪しむに足らざるなり︒︵﹃偏奇館漫録﹄︶
しかし︑彼はこうも言うのである︒﹁過去を重んぜよ︒過去は常に未
来を生む神秘の泉であるピ︵﹃紅茶の後﹄︶しかり︑荷風文学の一面を﹁回想の文学﹂とするわたくしの立場からすれば︑﹁昨是今非の嘆﹂を人間
l殻の感慨として簡単に見過ごしてしまうわけにはいかない︒荷風の文
宮 尾 俊 彦
学と彼の人間とを理解する鍵をそこに見るからである︒
以下は︑日記︑書簡を含む彼の全作品を対象とした︑荷風における過
去と
現在
であ
る︒
荷風の江戸趣味については今更あげつらうこともあるまい︒ただそれ が︑荷風文学を貫く主流であることをさえ確認しておけばよい︒彼の江
戸讃美の言辞は︑その作物の随処に溢れているからである︒それは﹁昨是今非﹂どころではない︒明治の荷風も︑大正昭和の荷風も︑その帰す
るところは﹁江戸﹂であった︒
それでは︑その荷風にとっての江戸とはなんであったのか︒それをま
ず簡略にまとめておくこととする︒江戸伝来の趣味性は九州の足軽風情が経営した俗悪蕪雑な﹁明治﹂と一致する事が出来ず︑︵﹃深川の唄﹄︶ ︵傍点棉者︒以下同じ︶
まず﹁趣味性﹂である︒実利l点張りの功利的な明治文明に失われてしまったものがそれである︒それを﹃欧米の生活と日本の生活﹄︵明亜︶
では︑﹁旧時代の遺跡に遊んで昔の人の趣深く余裕ありし事を偲び﹂と
言う︒更に昭和の戦後になってからも︑江戸時代も嘉永年間といへば徳川氏の世も末ながら警吏の中にさへ
猶かくの如き清廉にして且ツ風雅の趣味ありし人物もありしなり︒
︵日
乗昭
22
・1
・2
8︶
と︑なおその江戸文明への追懐は変らない︒﹁趣味﹂は﹁余裕﹂のある
境地から生まれ︑その余裕があってこそ芸術の境に遊ぶことができるの
10
長好県短期大学紀要第三四号 ︵一九七九︶
であ
る︒
江戸時代はいかに豊富なる色彩と渾然たる秩序の時代であったらう︒
︵ ﹃ 冷 笑 ﹄
︶
次は華麗なる﹁色彩﹂と整然とした﹁秩序﹂である︒﹃新帰朝者日記﹄
で は︑
整頓した徳川時代の文明が破壊されて︑新しい明治の文明の未だ起
らざる混沌乱雑な現代
という︒また︑同じ﹃新帰朝者日記﹄中には︑
真率誠実は全く明治時代から逃去って仕舞った︒真率誠実は明治と
調和しないものらしく思はれる︒
ともある︒それは半額狗肉と朝令暮改の明治新政府の政策への批判でも
あろうか︒その他﹁封産の世には花は桜木人は武士と云はれし﹂︵﹃二百
十日﹄︶とあるような︑いさざよさ︑金銭名声に対する情況さのようなも
のも︑荷風の見た江戸文明である︒以上が荷風における﹁江戸﹂の瞥見であるが︑次章以下に述べる明治
大正︑昭和の時代︑世相に向けての荷風の悪属︑酷評は︑そのことごと
くが彼の江戸追慕の表現であり︑その裏返されたものに他ならないこと
は言うをまたない︒
t l
﹁維新後世態人情一変して江戸の旧文化漸次衰滅﹂︵﹃狂歌を論ず﹄︶し
た︒そしてその原因は︑﹁薩長の浪人が官員となって権勢を窓にして一
国上下の風俗人情を卑随にさせた﹂︵﹃うぐひす﹄︶ところにある︑とする
のが荷風の明治という時代に対する認識の一般である︒ただ︑この様な 認識が彼の当初からのものでなかったことは勿論である︒そしてそれが
彼の外遊後の一遍の文明批評色の濃い諸作品から出現するものであることは首肯できよう︒新しい明治という時代の肯定は︑例えば外遊前の明治三十五年の作品﹃野心﹄において︑﹁襲島光太郎は明治の青年だ/老人は相手にせんの
だ/﹂と叫ぶ︑野心的な未来を夢見る青年の姿をとって出現する︒むろ
ん︑この様な明治の立身出世主義が無条件に肯定されるものではないことは︑光太郎の事業の挫折の暗示や︑﹃闇の叫び﹄︵明35︶﹃新任知事﹄︵明讐
のごとき野心家批判の作品からもうかがわれる︒しかし︑そこには未だ
あらわな明治に対する批判は見られない︒新しい女性としての﹃地獄の
花﹄︵明35︶ のヒロインの前途には︑光明がほの見えるのである︒また︑
﹃ふらんす物語﹄〝ひとり旅″︵明41︶の青年芸術家は︑﹁宮坂の様な変っ
た男︑思想の病人が出て来たのは︑乃ち日本の社会が進歩した複雑になって来た証拠ぢや無いか︒私は喜ばしい事だと恩ふごと評されて︑新し
い明治の社会は是認される︒青年荷風の見た明治である︒
さて︑帰朝後の荷風によって明治はどうとらえられているか︒﹁不調和と
乱雑
﹂︵
﹃璧
天﹄
明4
2︶
︑﹁
混沌
乱雑
﹂﹁
野蛮
﹂︵
﹃新
帰朝
者日
記﹄
明
42
︶︑
﹁粗雑﹂﹁趣味のあまりに陶冶されてゐない事﹂︵﹃見果てぬ夢﹄ 明42︶
等々のことばによってそれがうかがわれる︒そして︑﹁玉垣の外なる明
治時代の乱雑と玉垣の内なる秩序の世界の相違﹂︵﹃紅茶の後﹄〝霊廟″明亜︶として︑江戸時代と対比されるのである︒
ところで︑荷風はこの明治を三期に区分する︒ここにそれを﹃東京の
夏の趣味﹄︵大2︶によって要約してみよう︒彼はそれを︑江戸衰滅史と
名づ
ける
︒ 第 一 期 明 治 初 年
〜 十 年
新明治風俗の発現︒江戸なる敗者が薩長の勝利者を歓化して行った
時 期︒
第二期 明治十一年︵西南戦役後︶ 〜明治二十七年︵日清開戦︶江戸趣味は西洋文明の侵略に遇って刻々瀕死の境に陥る︒しかし︑
市井の一隅になおその命脈を保つ︒
第三期 明治二十八年︵日停戦後︶〜明治三十八年︵日露戦争︶江戸趣味の残存を全く許さぬ時期︒
なお︑﹃東京風俗ばなし﹄︵昭23︶ においても次のように言っている︒東京の風俗は大体明治十年までを第一の時代︑それから議会創設の
頃までを第二の時代︑日清戦争から日露戦争頃までを第三の時代と
云ふやうに区切ることができます︒
次にその各期に関しての荷風の言及したものを拾ってみよう︒まず第
一期については︑
明治の初年は一方に於て西洋文明を丁寧に輸入し綺藍に模倣し正直に工夫を舞した時代である︒と同時に︑一方に於ては︑徳川幕府の
圧迫を脱した江戸芸術の残りの花が︑目覚しくも一時に二度目の春
を見せた時代である︒︵﹃紅葉の後﹄〝銀座″︶
とあるのが代表であり︑よくその特色を示している︒また︑
嘗てわたくしは此の時分の俗曲演劇等の事を論評した時明治十年前
後の時代を以て江戸文芸再興の期となした︵﹃向嶋﹄︶
とあるのもそれである︒荷風は太平洋戟争中の昭和十九年︑再度成島柳
北の﹃航薇日誌﹄ を書写するのであるが︑その折の日誌には︑今その原本を筆写するに臨み新に感じたことは︑全文にみなぎりし
哀調しみじみと人の心を動かすものあり︒又紀中に規来る人物奴僕
婦女に至るまで温厚席実なりしことなり︒過去の日本人の情愛に富 み た り し 事 は ア ル コ ッ ク の 著 署 に も 見 え た る 事 な り
︒ 今 日 戦 乱 の 世
にあたりて偶然明治初年の人情を追想すればその変遷の甚しき唯繁
くのほかはなし︒︵昭19・11・21︶
と書きつけられている︒荷風にとっての明治初年は︑江戸の延長であり
あるいは江戸文明が再度花開いた時期でもあったことが知られよう︒次に第二期即ち︑明治の十年代から二十年代にわたる時期についてみ
てみよう︒﹃浮沈﹄︵昭1︶中にいうところの明治の中葉である︒
明治時代の中葉︑教義のある中流社会の生活には︑西洋文化の感化 も次第に円熟し︑江戸時代の遺風も尚全く摩滅せず︑この二流の文
化の混和からつくり成された典雅︑素朴︑穏健なる気風が存在して
ゐ た︒
ここでは︑江戸の遺風の残存とともに︑新しい西洋文化との調和の時
代とされている︒
東京も明治二十年頃までは山の手の辺部なる処々にありては︑猶そ
の儀に江戸の昔を思出すべき事多かりき︒︵﹃東京の夏の趣味﹄︶
ここでいう﹁明治二十年頃まで﹂は︑明治二十年代まではと言い換え
てもよいのであろう︒
わたくし辛が行燈の下に古老の伝説を聞き︑その人と同じやうにい はれもない不安と恐怖とを覚えたのは︑今よりして之を腐れば︑其 時代の空気には一味の哀愁が流れてゐた故でもあらう︒この哀愁は
迷信から起る恐怖と共に︑世の草るにつれて今や全く塵威し尽したものである︒︵﹃巷の声﹄昭2︶
ことになるのであるが︑その時代には未だ一
錯 雑
この作品の文脈からすると︑ここでいう﹁其
﹂とは明治十四五年の
慾をかもし出す雰囲
気が存在していたと言っているのである︒
しかし︑こうした古き良き時代もやがて過ぎ去って行くことになる︒
それを荷風は︑文学に関してではあるが次のように言う︒純粋の日本人から生れた純粋の日本文学は明治三十年頃までに全く滅びて了つた︒其の以後の文学は日本の文学ではない︒形式だけ日
本語によって書かれた西洋文学である︒︵﹃新帰朝者日記﹄︶これは︑明治四十二年の時点における︑自然主義思潮を念頭において
のことばである︒
こうして第三期の時代が来る︒先にわたくしが﹃東京の夏の趣味﹄を
要約して︑﹁江戸趣味の残存を全く許さぬ時期﹂とした時代である︒しかし︑実際には荷風はこの時期をそれほど腔めてはいない︒小説﹃すみ
だ川
﹄
の序
︵昭
10
︶
はこ
うい
う︒
わたくしは洋行以前二十四五歳の頃に見歩いた東京の町々とその時 代 の 生 活 と を 言 知 れ ず な つ か し く 思 返 し て
︑ こ の 心 持 ち を 表 ために一簾の小説をつくらうと思立った︒
洋行以前︑荷風二十四五歳といえば︑明治三十五六年のことであろう︒
また︑昭和十年七月六日の日記もこう言う︒
明治三十年代は今日に比すれば言論猶自由なりしを知るべし
次の﹃来訪者﹄︵昭19︶ の一節は︑文壇の風潮についての言及ではある
が︑やはりこの年代になおその良さを認めている︒
明治三十年代も日露戦争の頃まで︑文壇の風潮︑文士の気風は明治 初年︑或は胡って江戸時代のそれと多く異るところがなかった︒江
戸文壇の風潮を承継したとも言へる︒又前代の風潮が次第に変遷し
ながらも︑まだ全く液びてしまはなかつたとも言へる︒いずれも昭和になってからの回想であり︑﹁昨是今非﹂という観点からすれば割引かざるを得ないのかも知れないのであるが︒
以上見てきたごとく︑荷風は日露戦争までの明治を三期に分割した︒
ということは︑日露戦争を以て一期を画したことになる︒それではその 日露戦争後の日本は︑どうとらえられているのであろうか︒日露戦争と 1 いえば︑明治三十六年から四十一年にわたる荷風の外遊は︑丁度この戟 1
荷風における過去と現在
12
長野県短期大学紀要第三四号 二九七九︶
争をはさんでのものであった︒戦争の帰結に関心を示さない荷風も︑こ
の間の時勢の変遷には敏感である︒﹁再び帰って来たとき時勢は如何に著しく昨日と今日との間を隔離させてゐたであらうど︵﹃紅茶の後﹄〟霊
廟″︶日露の戦いが日本の政治︑経済にもたらしたものについては︑近代
史の詳説するところであるゆえここでは問わないとして︑荷風はその時
勢をどう見ていたであろうか︒今から僅か七八年前︑日本が戦勝国といふ名誉に酔はない頃の時代
を顧みると︑まだノ\頼しい事がありました︒︵﹃新橋夜話﹄ 〝昼す
ぎ ″︶
今は既に江戸の名残りもほとんど失われてしまったことを嘆くことば
であ
る︒
日露戦争後日本の社会は経済界ばかりではありません︒国民的道徳 と社会的生活の凡ての方面に於て︑第二の御維新1乃ち社会制度
の外観ばかりでなく其の内的精神の革命が必要になって来たのです︒
︵﹃
父の
恩﹄
大2
︶
ここに引用した部分からは時代に対する薦声は聞かれないが︑続けて
民衆の集合的精神の発現という時代の趨勢を指摘し︑更にそれに対応で
きない政府の混迷を嘲い︑悲しむことばが続くのである︒時代は確実に
変ったのである︒また︑時代はずっと下って昭和十九年の評ではあるが
次のような批評もみられる︒わたくしは目頭戦争の後︑実業家の重立ったものが爵位を授けられ
た事︑政党政治の確実に成立せられた事︑帝国劇場と三越百貨店と
の建設せられた事等を以て︑一新時代の出現を見る︒文士小説家が
社会の一員として認識せられた事もこの新現象の中に加へゞきもの
であ
らう
︒︵
﹃来
訪者
﹄︶
彼は﹁世を挙げて営利に奔馳する時代﹂の幕開けをこの時代に見るの
である︒文士が社会の一員として認知せられたことなどは︑本来慶賀すべきはずのものであるが︑戯作者をもって自任する荷風は︑それをも文壇の沈滞腐敗の証とするのである︒その他︑当年の荷風は﹁乱雑没趣味
なる明治四十二年の東京生活﹂︵﹃紅茶の後﹄″冷笑につきて″明43︶と評
し︑一方昭和も十九年の彼は︑親友井上喧々との思い出をまじえながら こういう︒﹁親切で︑いや味がなく︑横転のきいてゐる︑かういふ接待
ぶりも其頃にはさして珍しいと云ふほどの事でもなかったのであるが︑
今日これを回想して見ると︑市街の光景と共に︑かゝる人情︑か〜る風
俗も再び見難く︑再び遇ひかたきものであるピ︵﹃雪の日﹄︶掛茶星のおか
みの接待ぶりを通しての明治四十一二年の人情風俗の回顧である︒こう
して比べてみると︑まさに昨是今非といえるようである︒
以上ここまで︑荷風の明治時代観をみてきたわけであるが︑後年の荷
風にとっては︑やはり明治は懐しかるべき時代であった︒﹁明治は吾々
にとつては最も懐しかるべき等の時代ですピ︵﹃父の恩﹄︶﹁明治時代まで
は日本の風景は都市田園到るところ美しきものなりLJ︵日記昭19・7・
17︶そしてあの薩長の田舎漢の起した維新でさえもが︑﹁同じ辟動にても成辰の時の方がまだしも見処ありと存ぜられ侯逗︵昭20・12・11相磯凌霜宛書簡︶とされ︑敗戦後の日本と対比して明治は懐しまれるのである︒
三
次に大正時代についてみてみよう︒荷風が明治と大正との間にl線を
画していることは確かである︒現代人の感情にはこの二者︵稿老荘︒仏教的哀愁と都人特有の燐智誇謹︶漸くその跡を絶たんとす︒何が故にその跡を絶つに至れるや︒
これ他なし我邦固有の旧文化破壊せられて新文化の基礎遂に成らず
一代の人心甚だ軽躁となり且つ騎倣無額に走りしが為のみ︒︵﹃狂歌を論ず﹄大6︶大正現代人からは︑荷風の最も貴重とする﹁哀愁﹂と﹁磯智詩誌﹂が
全くその跡を絶とうとしているのである︒また次のようにも言う︒
時勢はいよく変じて︑殊に大正改元以来︑.文学絵画の傾向演劇俗
曲の趨勢は日常一般の風俗と共に生来あまり物に熱中せぬ南巣をも
流石に憤慨せしむべき事が多くなって来た︵﹃腕くらべ﹄大6︶
かくして南巣は︑﹁旧時の風俗容儀什器の考証研究に心を傾け﹂るの
であるが︑それは荷風のそれと軌をlにしているといえよう︒風俗観察 家荷風は︑時代の様相を記録する︒西洋種の草花の流行︑婦人雑誌の勃 興︑女優の輩出︑入谷の朝顔と田子坂の菊人形の衰微︑ブラジルコーヒ
ーの普及等を︑自然主義文学の勃興︑硯友社文学の表徴とともに︑この大正改元前後とする︵﹃菩飾土産﹄︶︒そして︑明治と大正の世の相違を
﹁その頃︵稿着任︒明治︶の世の中には帝炭と羨怨の眼が﹂それほどは
就くなかったとする︵﹃雪の日﹄︶︒こうした大正四五年頃の軽挑浮薄な男
女と︑俗人画家を登場させて描いたのが︑﹃おかめ笹﹄の世界と言えよう︒
さて荷風は︑この大正の時代を更に繍分化するわけである︒その第一
を第一次世界大戦をもってする︒︵大正︶ 七年の冬欧州諸国の大乱五年を関して漸く鎮定するや︑
絶海遠隔の我国は此の間た立ちて漁夫儀侍の大利を占め︑世を挙げ て奮停逸楽に耽りしかば︑風俗忽ち壊乱し︑世運衰演の凶兆おのづ
から文学美術の上に敷著となれり︒︵﹃騒居のこゞと﹄大12︶
この大戦はわが国に漁夫の利をもたらし︑空前の好況がやってきた︒﹁大正の時代は今日よりして当時を回顧すれば︑日本の生活の最豊富な
時﹂となるのであるが︑それに続く恐慌はやがてその日本をして泥沼へ の道を歩ませることになる︒﹁一時の盛大はやがて風雲の気を醸し︑遂
に今日の衰亡を招ぐに終ったピ︵﹃葛飾土産﹄昭22︶戦争が日本に豊かさ
をもたらしたことは︑﹁東京の生活が次第に豊かになって釆たのは日露
戦争からのやうに思はれますピ︵﹃東京風俗ばなし﹄昭23︶ という回想か
らもうかがわれるのであるが︑それがわが国をして道を誤らしめたので あった︒それはともかくとして︑この第一次大戦後の世相を荷風は鋭く
とらえる︒﹁大正七年以後物価の騰貴人情の変化甚しければ﹂︵﹃おかめ
笹﹄後記︶というがごとく︑大正六年九月に筆を執り始めて︑大正四五年
頃の時代を写した﹃おかめ笹﹄ の世界は︑大正九年四月の単行本刊行時
には既に︑この小説の世界が大正九年現代のそれではなく︑大正四五年
頃のそれであるとの断り書きを付さねばならなかった︒それほど世態人
情の変化は激しかったのだと言えよう︒﹁時代は変った︒禁酒禁煙運動に良家の児女までが狂奔するやうな時代﹂︵﹃雨滞滞﹄大10︶ という︒荷風が大正を区分する第二の事件は︑十二年の大震災である︒東京の
市 街 が 旧 観 を 失 っ た の は も ち ろ
︑ 必 然 的 に 郊 外 の 田 園
も風趣を失って行く︒そして︑
英亥震災以後︑現代の人心は一層険悪になり︑風俗は弥頚廃せんと
して
ゐる
︒︵
﹃下
谷叢
話﹄
大1
5︶
と言う︒この震災についての荷風の言及は多いが︑ここでは日記のl節
を引いておこう︒ 東京の良風俗は大正十二年の震災以後年々に滅び行きて今は全く影を留めざるに至りしなり︒︵昭13・10・31︶
江戸の文化︑明治の文明は完全に滅び去ってしまった︒それは︑荷風が江戸趣味の最後の砦とする花柳の世界からも失われて行くことになる︒
災後区画整理をなせし処は道路いづこも直線となり︑狭斜特有の憂
欝なる趣は全く失はるゝに至れり︑今は新橋も柳橋も山の手の白山 富 士 見 町 な ど ゝ 変 り な く
︑ 皆 一 様 に な り ぬ
︑
︵ 日 記 昭 3
・ 1
・ 8
︶
今を時めく新柳の地を捨てて︑狭斜の巷に古き哀愁の趣を求める荷風
にとって︑広々とした道路に面した堂々たる妓衝は︑もはや心を慰め︑
回想に耽ける地ではなくなったのである︒江戸の文化の名残個となりぬ︒/胡治の文化また灰となりぬ︒︵﹃偏
奇館吟草﹄〝震災″︶
そして荷風の青春の思い出も消え去った︒
われは明治の児ならずや︒/その文化歴史となりて葬られし脾/わ が青春の夢もまた消えにけり︒︵同前︶
荷風は都会の人︑東京の人である︒その彼にとって︑東京の崩壊は江
戸の︑明治の崩壊であったのである︒しかし︑この震災だけが江戸や明
治を崩壊せしめたのではなく︑時勢の推移がそれを必然的にもたらした
ものであることを︑もちろん彼は承知している︒既に天変地妖なしとするも大正の世運は窮極に達して将に転換すべき危磯に漉せしにあらずや︒︵﹃隠居のこゞと﹄大12︶
戦後の日記はこうも言う︒我日本の滅亡すべき兆候は大正十二年東京震災の前後より社会の各
方面に於て顕著たりしに非ずや︑︵昭20・9・28︶震災はその滅亡への道に拍車をかけたのであろうか︒第一次大戦後恐
慌に悩む日本経済に深刻な打撃を与えたこの震災は︑その直後の治安に 名をかりての社会主義者︑労働組合活動家︑朝鮮人に対する大量虐殺と 逮描といった意外な口実を与えるととになる︒左巽運動に対する荷風の 姿勢はむしろ冷淡そのものであるといえるが︑時勢の赴くところとその
危磯は敏感にとらえているといえよう︒
大正という時代に対する荷風の目は︑
古 き も の 見 る に つ け て げ に い ま く し く 情 な き は 大 正 と よ ぶ な る 今
荷風における過去と現在
14
長野県短期大学紀要第三四号 二九七九︶
のよ
の中
なり
かし
︒︵
﹃几
辺の
記﹄
昭
11
︶
とい
い︑
江戸のむかしと西洋今日両勉の悪風︑偶然l処に集り来りしもの︒
是大正現今の世相といふべし︒︵日記大14・12・17︶
とあるがごとく︑総じてひややかである︒しかし︑﹁昨是今非﹂の思いは
ここにもある︒昭和になってからの荷風は︑大正という時代にまだまだその
良さを認めるのである︒︵﹃几辺の記﹄は昭和十一年の刊行であるが︑引用
した〝手筐″の二第は︑引用文からも知れるように大正年間の筆になる
もの
であ
る︒
︶
大正改元の頃︵中略︶には職人小商人の如きものゝ食事をなすさま
今日の男女事務員などに比すれば︑迄に優長にて互に礼儀作法を守
り居たり︒二十年来風俗人情の変化実に驚くべし︒︵日記昭7・3・顎
︵稿老荘︒十年むかしに比して︶風俗の乱れたること実に深くべき
也︒︵同昭9・4・22︶
四
次に昭和の世についてみよう︒先に引用した﹁大正改元以来云々﹂と
言って︑日常一般の風俗の堕落を憤慨する﹃腕くらべ﹄の記述に対応する
のが︑次の日記のl節である︒
昭和改元以米時勢の変遷に従ひ日々目のあたり世の無常を見ること
挙げて数へがたし︒当今の世は隠謀家と関西起業家等の暴威を振ふ
時代なり︒︵昭10・9・22︶
改元に一つの期を画することは︑別に荷風独自のものではなく至極常
識的であろう︒問題はどこに﹁世の無常﹂をみたかということである︒
右の日記の一節は︑酒楼花月の没落に閑遵しての感慨を述べたものであ
るが︑この花月とは以前幕臣であった者が明治二︑三年頃に始めた料理畳である︒即ち荷風の嫌う田舎者でない︑江戸人が始めた江戸趣味の残存する料理屋の没落が︑荷風をして世の無常を嗟嘆させたのである︒そしてそれに代って暴威を振うのが︑田舎者﹁関西起業家﹂であった︒関
西商人の東京進出に眉をひそめる荷風がしばしば日記には登場する︒荷風の文明批評︑社会時評は︑常に自己の趣味︑好尚をもってその基準と
する︒例えば︑﹁人情酷薄なる当今の世﹂ ︵日記昭3・12・20︶に在っ
て称揚されるのは︑男のために身を売る購妓である︒﹁彼の女の如きは まさしく新時代の貞女烈婦と称して可なるものし如し︑当代立志伝中に 英名を掲げて然るべきものなるべし﹂とは彼独特の逆説であり︑荷風の
本音をのぞかせているとも言えよう︒また︑﹁芸者の心意気も察せず︑
お客となる作法も知らず︑人情もなく涙もな﹂い野暮な遊びをする青年
文士の行為から︑﹁人心の下落せしことも亦甚しきなり﹂ ︵昭10・1・
31︶と論断する︒ここでも昭和現代の﹁人心の下落﹂という評は︑花柳
界での遊びの在り方から導き出されるのである︒花柳の世界が荷風にと
って如何なるものであるかをここに贅言する要はあるまい︒
昭和現代の世はさながら天保新政の江戸を見るが如く官権万能にし
て人民の柔順なること繁くに堪えたり︵昭4・10・18︶
明治の薩長以来政治家︑官憲に対する憎悪は荷風に一貫するもので あるが︑これも取締り厳格なため洒舗舞踏場の景気落莫となり︑女たち が揃いの衣裳もつくれぬ様を嘆くところから出てきた評言である︒女は
美しくあらねばならないのである︒銀座に酔漢が横行するようになったのも昭和となってからである︒
これも昭和になってから新に見る所の景況で︑震災後頻にカフェーの出来はじめた頃にはまだ見られぬものであった︒︵﹃塗東給等﹄︶
こうして銀座は荷風の憩いの場所ではなくなり︑彼は﹁塗東給等﹂の
世界を求めて去って行く︒
さて荷風は︑昭和の世をもいくつかに区分する︒その第一が昭和六年
の満州事変である︒
去秋満州事変起りてより世間の風潮再び軍国主義の臭味を帯ぶるこ
と益々甚しくなれるが如し ︵日記昭7・2・11︶
同日の記事には︑﹁早朝より花火の響きこえ︑ラヂオの唱歌騒然たる は紀元節なればなるべし﹂とあって︑紀元節もただ騒音のもととしか考 えない荷風は︑日清日露の戦いの際もそうであったが︑戦争の帰籍には
関心を示さない︒しかし︑軍国主義化の動きには敏感であり︑言論の自
由が侵されることへの恐れは深刻に︑的確にとらえられている︒荷風の 創作層動が許されるのももうしばらくの間である︒そして軍国主義の風 潮は昭和七年の五二五事件となって現実化する︒この軍人の凶行に荷
風は強い関心を示す︒当日の日記記事がよくそれを表わしている︒同年
十二月六日の記事では次のように言う︒本年五月十五日の事変以来世態一変したるを知るべし︒
その他この期に関連するものを二三あげておこう︒
昭和六七年満州戦争始りし頃より風俗一般に粗暴野卑となり︵日記
昭10・9・6︶
次は戦後の回想である︒満州事変が起つてから︑世には頻々として暗殺が行はれ初めた頃である︒一種の英雄主義が平和に飽きた人心を最毒し初めた頃である︒
︵﹃
基畔
の梅
﹄昭
21
︶
世はまさに戦時色一色の慾がある︒玩具は軍人の人形︑飛行政戦草水
雷艇のごとき兵券︑レコード崖の店頭では軍歌を奏すること毎夜のごと
き有様であった︒﹁今や日本全国挙って戟捷の光栄に酔へる如しJ ︵昭
7・4・9︶ と日記はいう︒そして﹁武力を張りて其夜度に達したる暁 独逸帝国の覆轍を践まざれば幸なるペLJ ︵同前︶という荷風の危供は
不幸にして適中するのである︒
日本現代の風俗習慣殆亜米利加風になりたれば︵日記昭7・4・14︶
路傍に薪をさらすことを今の女は一向に気まりわるしとも思はず却
て得意に息へるが如し︒此頃の銀座通は明治時代の遊廓の張見世に
異らず︒風俗人情の変遷するさま誠に興味津々たるものあり︒︵同
昭7・5・25︶
このような世相の中で︑荷風は病院通いの傍︑川をたどり︑橋をめぐ
り︑津南をたずねる散策に日を選って憂いを払うのであった︒
さて荷風は︑昭和の次の期を次のようにいう︒
東京の市街は既に大正十二年の震災以後全く其旧観を失ひ︑昭和十
年以後の政変は遂にわれ′\都人の生活をl変させるに至った︒
︵﹃
為永
春水
﹄昭
16
︶ 昭和十年以後の政変とは具体的には何であろうか︒まず天皇模関説間
用緑 川絹 鍼鏑 薄絹 錮締 鴇競 紺酢 蛸絹
⁝摘 鍔帖
に三度登場する︒また国体明敏声明に関しては︑それが出された八月三
日の日記に﹁政府日本国体明敏声明書発表すと云ふ﹂とある︒続いての大きな事件は︑翌年の二・二六事件である︒直接わが身に利
害が及ばぬ限り︑この種の事件にそれほど関心を示さない荷風も︑この 事件に関しては︑当日の日記から三月一日まで通日その成り行きに関心 を寄せる︒もっとも︑わざわざ見物に行って﹁議会の周囲を一まはりせ しが︑さして面白き事もなく﹂ ︵2・27︶とする傍観的態度は相変わら
ずである︒ただ︑岩波版全集第二十二巻後記に復原された三月l日の抹消記事によれば︑五・一五事件の際はむしろ軍人の暴行を是認するがご
とき感想をもらしているが︑その後の軍部の動きに失望し︑今回のこの
凶行の意義は全く認められていない︒軍事政権への歩みに強い恐れを抱いている荷風である︒﹁思想と生活との根桂を脅し覆すに至﹂ ︵﹃為永
春水﹄︶ る世の動きへの強い警戒心である︒
この昭和十年に関連するものとしては︑次のような日記記事も見られる︒
現在東京に居住するものゝ大半は昭和十年以後地方より移り来りし
ものなることを知れり︒︵昭15・11・16︶
東京はいよいよ田舎者の横行する土地となりはてる︒そして荷風の郊
外探訪はいよいよその慶を増すこととなる︒
次に昭和十五年も︑荷風によれば一期を画することになる︒東京従来の美風︑小ざれい︑小ざつばりしたる都会の風俗は︑紀元
二千六百年に至りて全くほろび失せたヮ︒︵日記昭15・3・3︶
十五年といえば大政巽賛会の結成された年でもある︒太平洋戦争への
歩みは文学者をも巻き込んで︑﹁文学報国﹂などという言葉までが登場
する︒十月二十一日の日記には︑偶成の詩二蔦が書きつけられる︒昨日の雨けさの風︒/両岸の柳は散ってゐる︒/廃の群よ︒旅の仕
度はもうよいか︒/冬の釆ぬ中お前連は南へ行く︒/簡候は変る世
はか
はる
︒
そして次のように歌う︒
見ずや今年の秋風のはげしさを︒/お前連の行った後/わたしは店 をしめるだらう︒/日毎あらしは烈しくなるばかり︒/先祖のたて
た老舗の倉も/今年のあらしには倒れるだらう︒
筆禍を免れるべく詩篇の体をとった時局批判である︒伝統は消え失せ
もはや小説家荷風の存在の許されぬ時代となった︒かくして太平洋戦争 を迎えることとなる︒小説﹃浮沈﹄の筆を執ったその日が開戦の日であ 5
ったDこれ以後荷風の軍人政府と世相に対する舌鋒はいよいよ銭さを加 1
荷風における過去と現在
16
長野県短期大学紀要第三四号二九七九︶えて行く︒﹁江戸時代の風習もいよノ\絶滅すべき時とはな﹂ ︵昭16・
12・16︶ ったのである︒
三四十年この方︑第二次世界大乱この方︑時勢に余儀なくせら れた日本の生活は︑殊に著しく婦人の容貌と体格とを変化させまし
た︒太平洋の戦争になってから此の変化はますます激しく︑到るところにわたくしの目を驚すやうになってゐたのです︒︵﹃秋の女﹄昭22︶
軍人政府の施策はいよいよ荷風の痛農を浴びる︒明日より割烹店待合茶屋宮菓禁止︒歌舞伎座其他大劇場の興行随時
禁止の命令下る由︒︵中略︶芸者は未だ禁止の令なきも出場所なき
故これはおのづから転業するなるべし︒芝居と芸者なくなれば三味線を主とする江戸音楽はいよく滅亡するわけなり︒︵日記昭19・
2 ・ 2 9
︶
同じ年の三月三十一日には浅草オペラ館がいよいよ解散を余儀なくさ
れる︒﹁都会情調﹂は消滅し︑﹁時事に憤慨する折々必この楽屋を訪ひ
彼等と共に飲食雑談して果敢き慰安を求むるを常とした﹂荷風の﹁晩年
最終の慰安処は遂に取払はれて烏有に帰し﹂てしまった︒近年軍人政府の為す所を見るに事の大小に関せず愚劣野卑にして国
家的品位を保つもの殆無し︒︵中略︶ 現代日本の如き低劣滑槽なる政治 の 行 は れ し こ と は 未 曽 て 一 た び も 其 例 な か り し な り
︒ 此 く の 如 き 国
家と政府の行末はいかになるべきにや︒︵日記昭18・6・25︶というが︑既に荷風は﹁此国に生れしからは嘘でかためて決して真情を
吐露すべからずピ ︵昭18・7・5︶と決心して︑いよいよ自己の殻の中
に と じ こ も る こ と に な る
︒ そ し て
︑ 公 表 の あ て ど の な い 小 説 の 執 筆 に 僅
かに心の渇をいやすのであった︒震災によってひとたび消滅した東京︑それを再運した現代の東京が空襲の災禍にあっても︑今の荷風の心はさ
して痛まない︒
こうして荷風の予言し︑待ち望んだ敗戦の日が釆る︒そして戦後の日
本が
始ま
る︒
一国の伝統にして戦争によって終局を告げたものも︑仮名づかひの
変化の如きを初めとして︑其例を挙げたら二三に止まらぬであらう︒
︵﹃
葛飾
土産
﹄昭
22
︶ と戦後の荷風はいうが︑そこには既に﹁わたくしは何物にも命数がある
と思ってゐる亡といった諦めしかないようである︒ただ江戸を︑明治を
大正の昔を慎しむほかには︑さして憤激する荷風の姿はないようである︒それでも敗戦の翌年あたりまでは︑
一国の人民lたび戦に放るゝやかくまで卑屈になり得るものかと覚
えず暗涙を催さしむ︑︵日記昭21・4・4︶
現代の日本人は戦敗を口実となし事に勒むるを好まず︑改善進歩の 何たるかを忘るゝに至れるなり︑日本の社会は棍横より堕落腐放し
はじめしなり︑︵同昭21・4・28︶
のごとき言葉も見られるが︑以後の荷風にはこのような気概は失われて
行く︒それは彼の創作活動の衰えと軌を一にしているといえよう︒
五
ここまで見てきたように︑そして荷風も承知していたごとく︑荷風の
過去と現在に対する視点には多分に﹁昨是今非﹂の感がある︒しかし︑
既に指摘した通り荷風の文学は﹁回想の文学﹂である︒﹁回想は歓喜と愁嘆との両面を持ってゐる謎の女神﹂︵﹃雪の日﹄︶である︒荷風のその態
度は︑明治四十l年の帰朝時から一貫している︒
日陰の裏町に残ってゐる過去の文化の跡を尋ねて︑漸くに自分は現
代に対する絶望と憤怒から解脱して︑ひたすら過去の追慕と夢想の 憧憬に生きる事ができるやうになった︒︵﹃冷笑﹄明聖 という青野紅雨の姿勢がそれである︒しかし︑続けていうところの﹁若 し然うであつたとすれば高慢らしい議論を戦はして現代を属しったり憤 ったりする必要はあるまい貢とする態度を荷風はとり続けることはでき
なった︒そこに人間荷風の意義がある︒万一彼が︑現代に対する憤怒と
絶望とから解脱してしまったとしたなら︑政後の荷風の作品は生まれな
かったであろう︒荷風の過去は現在があってこそ︑言い換えれば現在に
対する僚激があってこそ存在したのである︒そしてその荷風の現在は︑戦敗のその日まで続いていたのではなかったろうか︒
﹁現代﹂が失ってしまった﹃腕くらぺ﹄ の駒子の意気地︑﹃塗東綺茸﹄
のお雪のごとき︑︑︑ユ・1ズ︑そして﹁過去の人の持ってゐたものを今も猶
失はずに持ってゐる﹂︵﹃浮沈﹄︶さだ子のような哀愁の世界を追い求め続
けたのが荷風である︒現在に対する怒り︑言い換えれば批判精神を喪失
した荷風の戦後の創作に︑見るべきものの殆んどないことは当然といえ
るのではないか︒﹁昨是今非﹂は荷風の創作の泉であった︒
︵ 注 ︶
川 ﹁荷風における都会と田舎﹂ ︵種田政明編﹃新改荷風文学﹄所収︶
閻 〝哀愁″の荷風における意味については︑拙稿﹁荷風悪態小考﹂ ︵長野
県短期大学紀要第記号︶ 参照︒
関 大野茂男﹁荷風日記人名索引﹂︵﹃荷風日記研究﹄︶による︒
荷風における過去と現在