金沢港の通日用について
藤村潤一郎
(1)昭和二年刊和田文次郎霜「稿本金沢市史」によると'幕末の金沢藩の参勤交代には'供人即ち従者は大略1七‑九〇〇人であり'この他に雇者と称する輯重人夫が六〜七〇人いた。雇者には多‑越中諸郡の力者を徴募した。行列は
供人と雇者を二分して'当番'非番に別け'交互に行列に加ったとしている。そして某氏が城下出立の情況を実見し
た手記として'荷物の運搬は'
長持及竜包の荷物数箇'馬背人肩を以て運搬す'取分'道具運搬の雲助出立の'素肌に赤き手拭を以て鉢巻Lt
荷物五色の紙を以て切下げ'張抜きの面を結び付、加賀中納言殿荷物'又は松平筑前守殿荷物と記したる絵符を
立て'唄勇ましく運搬す'(中略)'又荷物の宰領には'手木組足軽付き添ふ'此手木足軽は'当藩の名物にて'
大兵大力の者を選み召抱へたるものにて'他国人も多く召抱へらる〜者也'其際他藩には'御抱力者又は関取杯
の身分も有しょしなるも'当藩には'手木組と云て'百貫カ'八十貫力等の者を選み抱へ'在京中は'消防鳶に
遣ひし由'此男当日伊達模様を染たる文長き羽織を著し'ハタラキといふ小袴と'草桂を穿ち'加賀笠の深く大
なるを冠り'荷物等道中の駅夫を差図するものにて'中々利したるものゝよし'(2)とある。この宰領である手木足軽の衣裳は紀州等の七里飛脚の姿を連想させる。恐らく似た性格の者であろう。な
金沢藩の通日用について(藤村)三五
史料館研究紀要第九号三六
オテコ(3)
お和事木足軽は昭和四年序日置謙編「石川県史」によると'藩初は相撲之者であったが廃せられ'五代前田綱紀の時
に「足軽中の力量ある者を択びて之に任じ'平時及び戦時に於ける造営土木の事に与るをその職とせLが'‑後世主と
して荷物輸送の宰領たらしむることゝなれり」としている。
(4)つぎに大正六年の和田文次郎「江戸三度1旧藩時代に於ける通信運送機関‑」は'参勤交代の荷物運送について'
潜侯の貴重な荷物の宰領は手木足軽が為してゐた其宰領にも小頭が居ってた御荷物を担ぐ人足は江戸金沢問の通
人足で多‑ほ越中滑川の力者が勤めてゐたそうだが1説に宿駅の人足が勤めてゐたともいふてゐる其他の御荷物こさいれゥは江戸三度の仲間の監督の下で江戸三度の小宰領が宰領を勤めてゐた又1般の荷物は小宰領の監理の下に宿駅の
宿馬や人足で持ち運ばされたさうである
とLt実際の運送は通人足と宿駅人足が当り'他に金沢の飛脚である江戸三度も従事している事がわかる。
諸大名の道中は江戸六組飛脚屋仲間が請負った通日雇人足が従事する場合が多く'彼等のl部は文政四年六月(5)「(日光道中)越ケ谷宿通行諸家風説書上」によると'「六粗仲間之内就も諸家様御供万人人之義'家業御座候得共中に
も利物師と唱へ初役屋敷様方御出入相勤'人足入用之節ハ安直段之入札ゆへ彼等をハ安物師と相唱へ(下略)」とあ
る利物師'安物師的存在であるが'金沢藩の場合には江戸六組飛脚屋仲間との関係は如何であろうか。(6)「五街道取締書物頬寄」拾六之帳に収録されている江戸日雇方六組と東海道'美濃路'佐屋廻り'中山道'日光道
中'奥州街道'水戸通り'甲州道中の宿々との'文化二年四月付「宿方日雇方双方議定」には'
一徹諸家様方御旅行之節'素人請負井諸国仕出旦属方之儀ハ'乍恐
勧公儀様方御免被為成下置侯渡世人こも無之'宿方二両も平生万事之儀対談いたし置侯儀も難相成御座慎二付'
臨時御差掛挑灯持井病人'足痛'落人足等有之候両も'宿方二而相対雇人足貸遣侯儀ハ難致'勿論通日雇之もの
旅寵銭之儀も'江戸六組日雇方之外は勧家中並二請取可申侯'此儀ハ加州様'越州様ニハ江戸街発想前徴国迎人
足参り加供いたし候故'小差'宰領相添侯得共'旅慌銭之儀ハ御家中並二受取来焼串(7)とある。従って金沢港の場合には通人足は和国迎人足であり'江戸六組飛脚屋仲間は関係がなさそうである。
1金沢港の参勤交代
金沢藩の参勤交代の経路について記るすと'金沢を中心に北陸道を南下して越前に入るのが上街道'北上して越中(8)に向うものを下街道と称するが'その大略は次の通りであり'第一図はその概略を示す。
H下街道金沢から津幡迄は加賀国'今石動から高岡'魚津'三日市'境が勉中国'市振'青海'糸魚川'名
立'高田'関川と越後国を通り'信濃国に入って牟礼'あら町'丹波島'榊'海野'追分'軽井沢'ついで上野国が
松井田'板鼻'武蔵国に入って本庄'熊谷'桶川'浦和'蕨を経て江戸に至る。つまり北陸道'加州道'尊光寺道'
中仙道経由でこれが最も利用された.途中の犀川'千曲川増水の場合には'松代往来か上野大笹越が利用された。即
ち前者は牟礼から神代坂'長沼'布野の渡'福島'松代を経て屋代で本道に合し'後者は牟礼から神代坂'須坂'仁
礼'菅平'鳥居峠'上野大笹'長野原'渋川を経て高崎で本道に合する。
臼日光社参前記H下街道の途中である中仙道倉賀野で例幣使道に入り'日光社参後は日光道中経由で江戸に至
るo
EE上街道金沢からとは逆に江戸から記るすと'東海道を宮に至り'美濃路を通って垂井で中仙道に入る。ついで
番場と鳥井本の問の下矢倉から北陸道に変る。そこで近江国の木本'中河内'勉前国の今庄'脇本'府中'福井'金
津'加賀国の大聖寺の小松'松任を経て金沢に至る経路である。つまり東海道'美濃路'中仙道'北陸道経由である。
金沢港の通日用について(藤村)三七
第1図 金沢港関係交通概略図
三 八
的中
仙
道れこも
江 戸
から
記る
すと中
仙
を 道
柏
原に
至り'
下 矢 倉
から
北 陸
道を
経て
金
に 沢
至るも
の
で'中
仙 道' 北 陸 道
経由である。
つぎに
参勤交代ではいがな
幕
末'明治
期に
は'
田 上
洛がある0
幕末金には
沢
から
北陸
を 道
南
下てし
今
庄に
至敦り'
賀'山中'
海
今 津'
津'
小松'
堅田'
大
津を経て
京
都に
至り'
明 治 初
年には
北陸
道を
通て武っ
佐を
経 て' 東 海 道 で 京
都に
至る。
さ て 金 沢
港の
藩
主等交通を「加賀藩史の
料
」 で 比
較まとまっ
ている
寛 永 一 一
年か明ら
治 四 年 迄 を 調 査
すると
藩
主は
第 一 表'
世嗣'
隠 居' 姫
等は
第 二
義おになるな。
第 一
義は
部 一
推 測
年度加両者共金沢をえたに‑。
江
戸が
多 い。
即ち
藩主場合のは
八九%'
世嗣'隠
居
等ほ
小
松を
含めると
八
六%当に
る。
幕
末に
至 っ て 京
都関係がみえている。
第1表 藩 主 参 勤 他
合計
江1金(遺骸)
京1伊勢1江
江戸1横浜
江戸‖熱海
金1日1江
京都1金沢
金沢1京都
江戸1金沢
期 間 (年数)
寛永11‑天和元 (48) 天和2‑享保11(45)
享保12‑明和 3(45)
安永元一文化13(45) 文化14一文久元 (45)
文久 芦‑明治 4(10) 12221700095121211157093 61 41 2 11
1 1 1
合 計 101 95 7 52111 119390
8 0 3 4 3
43
2第2表隠居 ,世嗣,他交 通表合 計江1金
(退骸)京
都大坂京都
1金沢金沢1京都金沢
1江戸江1
日
光1
小 江
戸1
京 都 小
松1
江 戸 江
戸1
小 松 寛永11‑天和元 天和 2‑享保11
享保12‑明和 8
安永元‑文化13 文化14‑文久元
文久2‑明治4 9 8 1 1 1 1l89l5 13 7832合.計9 〜8巨13422 220227
史料館研究紀要第九号四〇
由するものは藩主の場合には八'世嗣等の場合には六'合計一四'他に中仙道を経由するものは藩主は五'世嗣等は
二'合計七である。これに対して下街道を通った場合は一部推測を含めて藩主九四㌧世嗣等二四'合計一一八に達す
るから矢張り下街道利用が多かったろう。
二「加賀滞史料」にみえる通人馬(9)寛永1四年三月1四日付「金沢より江戸江御供に被召遣侯時空何物人馬駄賃徹定」は第三表の通りであ空
かた道'即ち金沢から江戸に下街道'上街道を通行Lt荷物が江戸到着後は人馬は帰国する。.賃銀はその往復分で
あり'人足は季節により賃銀に上下がある.そして人足が御用で江戸に逗留する場合には1日賃銀一匁宛である。(10)つぎに万治三年正月晦日付「御家中侍並町人日用雇定之事」には他国へ召連れる日用について'
一他国へ日用雇召遵侯祖々'飛脚等退使者'請人を取'他国に居留中間敷侯'請人不相立日用雇'他国江遣侯義有
間数侯
一日用雇侯刻'請状町会所へ遣置'罷帰り侯日限'町年寄共致吟味'右請状可相返'若日限達侯はゞ'請人手前穿
撃可仕事
一他国へ召連侯日用'上下五十日之定之日限越侯はゞ'曲事に可被仰付侯'但雇申主人断侯はゞ'日限相延侯共不
苦事
とあり'武家'町人共に他国に日用を召連れる場合があり'その際の日用は請人が必要である。請状は町会所が管
理する。他国に居附‑事は認められない。なお飛脚は日用と同性格として捕えられている。(ll)同年六月朔日付金沢御普請奉行宛の「布定書」は金沢から江戸への御荷物の貫目と日数について'三‑八月は1人
第3去 寛永14年金沢 よ り江戸へ徹荷物人馬駄宜表
賃 鋭 F往 日 数 L往旧賃銭 l帰 日 数 l矧 日賃鋲
種 類 l期 間
日l 匁
101 0.75 1.50】 111 0.75
.oLt5‑5511
かた道下通馬 同 下通馬 同 下通人足 同 下通人足 かた道上通馬 同 上退局 同 上通人足 同 上通人足
金沢藩の通日用について(藤村) 当り七貫目'日数二一日であり'九‑二月は五貫目で日数1四日である。
日数は裁許人から事情を説明すれば延長してもよい。御荷物のない場令
の日数は前記のものから二日宛を引いたものである。
つぎに金沢から京都への御荷物貫目は'三‑八月が一人七貫目で日数
は六日'九‑二月は五貫目で日数七日である。なお御荷物のない場合の
日数は各一日宛を差引いたものである。(12)寛文五年三月10日付「伽定等」によると'
一江戸御供之面々'日用やとひ召遠'又は他国江遣使はゞ'跡々知和
触'人々請人を取'日用之名'請人之名へ有所'帳面に記'町会所
迄可及断事
1日用に寵勉侯者'御発足之日より'三十日限当地江帰著侯様ーこ'雇
侯方より当地町会所迄'送りを添相越可中等
一自然於江戸相煩使者'やとひ使方より遂吟味'於無相違は本復次第
送りを添可申事
一送りを措取ながら'他国に致逗留'帰省之日限於柑延は'吟味之上
を以過般可申付事
一公儀御普請之日用札を柏極可入分'日用頭共札に而日用出し可申事
として'江戸御供の場合も1般の他国出の日用と同様で'町会所が取級
四一