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茶箱に詰まった歴史 ~茶業と林業を結んだ産業~

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(1)

茶箱に詰まった歴史

~茶業と林業を結んだ産業~

市川翔太 はじめに

1 箱とは何か 1.1 箱の種類と機能 1.2 箱の使用と信仰 2 茶と箱の出会い 3 川根と茶箱

4 製函業を生業とする人々 5 茶と箱の別れ

参考文献・HP

はじめに

今回の調査地である川根本町は、周知のように古くから銘茶のふるさととしてその名を 全国に知られている。茶農家で生産された茶は、初めは近隣地域での消費が中心だったが、

やがて製品として全国各地へも出荷されることとなる。近隣地域や遠方への茶の輸送が必 要になったことで、その輸送手段として広く活用されるようになったのが茶箱である。茶 箱を作ることを生業とした茶箱屋も川根地域には多く存在した。茶農家は加工した茶葉を 茶箱屋の作った木製の茶箱に箱詰めして出荷した。茶箱はいわば茶業の発展を支えた陰の 功労者なのである。茶箱にスポットを当てることで、川根地域においてマイナーではあっ たが欠かすことのできなかった茶箱産業の実態を明らかにすると共に、茶業を中心としつ つ、様々な産業に支えられてきた川根本町の歴史を考察したい。

調査方法としては、箱の基礎知識に関しては主に文献調査、そして茶箱のこと関しては フィールドワーク中に行ったインタビュー調査である。本報告では、箱を専門に作る茶箱 屋のことを製函所としている。インタビュー調査のインフォーマントとして、川根本町下 長尾にある

A

製函所、同じく下長尾の

B

製函所、藤川にある

C

製函所と、その他川根本町 の歴史や現状に詳しい方々にご協力をいただいた。

(2)

1 箱とは何か

1.1 箱の種類と機能

箱は私たちの生活のあらゆる場面において使われている。そもそも箱とは何であり、私 たちの生活にどのようにして関わっているのであろうか。本論に入る前に、『ものと人間の

文化史

67・箱』 (宮内 1991)

に従って、まずは箱の種類とそれぞれの意味について簡単に触

れておこうと思う。

箱の語源は、人の目から見えなくなる意味の「障」である。箱という漢字の竹冠が示唆 するように、物を入れる竹製の容器のことを指し、転じて容器一般やものを入れるところ、

さらには形見という意味がある。「蓋をして籠める」から、「蓋籠

(ふたこ)

」→「波古

(はこ)

→「箱」というように波及していったと考えられる。

一言に箱といっても、その種類や機能はさまざまである。その中でも、まず種類で大別 すると、「箱

(ボックス)

」と「櫃

(チェスト)

」に分けられる。櫃とは、定義として、稀にしか動 かさず、生活空間の中で一定の位置を占め続け、櫃を置いたところが家財を収納したり整 理したりする空間となるもののことである。つまり、家具がこれに当たる。一方の箱は、

随時どこへでも持ち運べ、使用場所を限定しない。裁縫箱や救急箱などがこれに当たる。

また、箱は昔からのその用途で分けると、大きく

4

つの型に分けることができる。

まず一つ目が「ファニチャー型」である。これは生活空間を構成するために作られたも ので、わが国には少ない。西欧の多くのチェストを含む。

二つ目が「ストリージ型」。これは、台所の米や麦粉、土地の権利書や経文、遺言書、お 金、貴金属など保存しなければならないものを入れるものが区分される。わが国では膳や 椀などの漆器類なども挙げられる。

三つ目が「パレード型」。神社の祭礼、参勤交代、武士の登城、婚礼行列などの衆人の注 目の下に行われる儀式化した行列に伴われる箱類がこれに当たる。この部分に関しては、

次項の箱の使用で再度述べることとする。

そして最後に、「コンテナー型」である。コンテナーとは、広い意味で繰り返し輸送に利 用される規格型の函

(ふみばこ)

の意味で、現代社会で多用されているが、西欧中世のトラベ リングチェスト、わが国でいえば通い箱や通い櫃がその祖形である。それは近世以降、店 屋が呉服、反物、菓子などを得意先に届けるのに用いた商標や屋号を記した小箱や葛籠、

行季などの類である。パレード型との違いは、効率的な運搬を目的としたものであるとい うことである。

以上のように用途で

4

つの型に分けることができる箱であるが、その基本機能について も大きく分けて

4

つほど挙げることができる。

まず一つ目の機能が対人機能とされるものである。具体的には、①盗難を防ぐ、②みだ りに手を触れさせない、③見せない・隠す、といった機能のことである。二つ目が対環境 機能である。具体的には、①雨・湿気を防ぐ、②ほこりを防ぐ、③ネズミや害虫を防ぐ、

(3)

ということが挙げられる。三つ目が対物機能である。具体的には①分散しないようにまと

める

(包括性)

、②分類・整理する

(個別性)

、③潰す・傷つけるなどの外力を防ぐ、などが挙げ

られるが、これらは箱がそれ自体で完結しており、移動可能なことに根ざしている。四つ 目が、付帯機能である。具体的には、①蓋の上に物や人をのせる

(台として使う)

、②蓋を外し 盆として使う、ということが挙げられる。

それぞれの機能が、箱がここまで広く私たちの生活の中で使われる理由と深いかかわり をもっているといえそうである。本報告で取り上げる茶箱は、これまで整理した箱の種類 と基本的機能から考えると、コンテナー型で、特に対環境機能と対物機能を重視した、箱

(ボ

ックス)ということになる。

1.2 箱の使用

では実際、このような種類や機能がある箱はどのような場面において使用されているの であろうか。現在私たちの身の回りには、ものを入れるための容器としての様々な箱が存 在する。本報告で取り上げる茶箱はもちろんのこと、箱という名前のつくものなら救急箱、

貯金箱、裁縫箱、筆箱などその種類は膨大であり、中に入れるものもまた多様である。も ちろん箱という名前がつかなくても、箱としての機能を果たしている入れ物もある。また、

そのように誰もが使うような日常的なものとしてだけでなく、限られた非日常的な場面で 使われるパレード型の箱もある。たとえば、三重県にある伊勢神宮では、祭りによって櫃 や箱に絹布衣や荒妙衣や金物類が入れられ、運ばれる。ちなみに神饌の運搬をする際、お 祓いをしたたくさんの櫃や箱を神格の異なる各社に間違いなく運ぶにあたって、途中で櫃 や箱の蓋を開けて中身を確認するということを避けるため、神饌の内容を紙に記しその紙 を蓋板に斜めの切り込みを作ってはさんであるが、これは、後述する茶箱におけるラベル と同様の機能を果たしていると考えられる。また、日本の定番ともいうべき昔話である浦 島太郎に出てくる玉手筥や、ギリシャ神話におけるパンドラの箱など、さまざまな神話に おいても箱は重要な位置を占めている。そもそもこういった話に箱が登場する所以は、箱 の神秘性によるものだと考えられる。箱にはみだりに触れたり、中身を見てはいけない聖

なるもの

(タブー)

という共通性がある。というのも、蓋をかたく閉じた箱は中に何が入って

いるか分からず気味が悪く、それが高じて畏怖の念が生じる。箱は、扉を開ければ内部が すっかりあらわになる戸棚と違ってふたを開けても覗きこまなければならず、依然として 保秘性が維持される。それが象徴性を獲得する箱の造形的特質といえる。人には秘密の空 間、秘密の内部というものが必要であり、箱にまつわる様々な神秘的な物語はすべてその ことに集約されている。

このように、箱は様々な場面で使用されてきたのである。

2 茶と箱の出会い

1

節で述べたように、箱は日常的な場面から非日常的な信仰との関わりの中でも機能して

(4)

きて、一口に箱といってもその用途や形状などによってじつに様々な種類に分けることが できる。そんな中で、茶を入れることを目的として作られた箱が茶箱というものである。

ここからは川根本町でのフィールドワークで得られた情報を中心に、本報告のテーマであ るその茶箱にスポットを当てていきたい。

茶と箱は元来、まったく別のものである。それぞれが別の道を歩む中で、なぜ、そして どのようにして関わり、茶箱というものが生まれてきたのであろうか。それは茶箱とはど のようなものであるかについてその歴史を言及することによって明らかになると考えられ る。

そもそも茶箱の起源に関しては諸説あるが、江戸時代から使い始められたとの考えが有 力である。このころ外国へ茶を輸出していたのだが、そのために袋に入れた茶を雑箱のよ うなものに入れて送ったのが茶箱の始まりとされ、当時から茶の主要産地であった静岡県 が茶箱の始まりとも考えられている。

茶箱の材木は昔から主にスギである。スギは木自体が柔らかいという特徴があるため、

木が曲がったりするのを防いだり、匂いをとったりするために、平均して

2

カ月ほど天日 干ししたものが使われる。スギが使われる理由としては、水分が多い時は水分を吸い、少 ない時には出すという機能に優れているスギは、湿気や乾燥を防ぎやすいからである。ス ギ製の茶箱を使うことは、湿気や乾燥を嫌う茶葉にとって、よりよい品質を保つためにと ても効果的な輸送手段であると考えられる。

湿気から茶葉の品質を守るため、最初はスギで作った茶箱の内側に、子柿を青いうちに とってうすでつぶしてできた柿しぶを塗って防湿加工をしたしぶ紙というものをひいてい た。その後、さらに防湿防乾機能を上げるために亜鉛板を貼るようになり、今では鉄板に 亜鉛メッキをつけたものを貼るようになっている。基本的なメッキの貼り付けは他の業者 に依頼するが、角やつなぎ目などは製函所で加工する。工程としては、まず塩酸で汚れを 落としてから、鉛と鈴からできたハンダを、熱した銅製のコテで溶かしながら貼り付ける。

こういった加工も輸送において茶葉の品質を保つために行われるのである

(写真 1)

また、蓋にも工夫が施されている。現在の茶箱は基本的には上から被せる被せ蓋だが、

蓋枠を受ける枠を身の縁よりやや下げて取り付けることでガタガタすることがなく、気密 性も高まっている。この形式は近隣諸国や西欧に実例がなく、わが国の箱の特色と考えら れる

(宮内 1991)

規格に関しては、一昔前までは茶箱にラベルを張って送る際、茶葉の入っている量を○

貫匁

(かんもんめ)

という単位を使って表記していた。1貫匁は

3.75

キログラムである。10

(37.5

キログラム)

12

貫櫃

(45

キログラム)

16

貫櫃

(60

キログラム)の茶箱が主に使われていた。

輸送用としては

10

貫、12貫が中心だったが、質のいいお茶は

10

貫で質があまり良くない お茶は

12

貫で運んだ。取引での箱の大きさが決まっている場合もあり、ラベルに

10

貫を

○櫃という表記がされていることもあった。その後、箱の大きさは

5

キログラム用、10 ログラム用、15キログラム用、20キログラム用、25キログラム用、30キログラム用、40

(5)

キログラム用、45キログラム用、60キログラム用というように種類が増えるが、茶箱が使 われる機会自体が年々減ってしまう。現在では茶箱が使われる場合でも、使う大きさにも ある程度偏りがあるので、大きさによってはほとんど作られないものも多い。実際、茶箱 が今より出回っていたころは一番茶を入れるためとしては

20

キログラム用の箱が中心で、

1

番茶の終わりから

2

番茶はあまり高く売れないため、それよりも大きい

40

キログラム用 の箱を中心に使った。すごく出来のいいお茶は単価が高いため、小さめの

10

キログラム前 後の箱を使うことが多かった。そして、一番大きな

16

貫櫃

(60

キログラム用)は輸送用という よりは、茶工場で機械の下に入れて、余った茶葉などを入れておくことが多かった。その ため、それぞれ茶工場には

16

貫櫃が何十個もあった。昔は現在のように集会所のようなも のがなかったため、なにかと工場などに集まることが多く、祭りの時などには

16

貫櫃を舞 台としても使ったりもした。これは

1

節で紹介した箱の付帯機能を生かした使い方である。

このことから、16貫櫃のことを使い櫃とも呼んでいた。いずれにしても、昔から質がいい お茶なほど小さい茶箱に入れて送る傾向があった。実際、これは茶の輸送手段として茶箱 に限った話ではなく、現在茶葉の輸送において多く使われている袋詰めの方法においても、

時代がすすむにつれ、茶葉のより良い品質を保つために一つ一つの包装の大きさがますま す小さくなってきているようである

(写真 2)

このように茶の入れる量のことに関しては昔から取り決めがあるが、実は寸法

(縦、横、高

さ)に関しては具体的な取り決めがない。そのため若干ではあるが箱屋によって寸法が違っ てしまう。また、茶箱は機械の作業の部分はあるといっても基本的には手作りであるため、

その時々によって大小はわずかでも変わってしまう。話を伺った製函所の方の話では、極 端なことを言えば、寸法は同じでも

1

つとして同じ箱はないということである。茶箱作り は簡単そうに見えても指先の感覚など、経験や技術が必要で、作り方によって全然違う箱 ができてしまう。それが機械ですべての工程を済ますことができない理由でもある。だか らこそ、箱にどこの製函所の製造か分かるような焼印などを入れることはなかったが、自 分の作った箱は見るだけでわかるという。

そして完成して茶葉を詰めた茶箱は、輸送に際して途中で蓋が開いたりしないように、

昔はまわりに紙をテープ代わりに張って、さらに鎹

(かすがい)

1も打っていた。一時期は、さ

1 丸鋼、角形鋼、平鋼などの鉄棒の両端を折り曲げ、先端を爪状にとがらせた建築金物で、二つの部材を つなぎ合わせるために金槌などで打ち込む。丸かすがい、角かすがい、平かすがいの名称がある。折り曲 げた部分を爪、中央部を渡りといい、木材や石材を相互に緊結させるために用いる。建具や家具に使用す る長さ 3cmのものから、建物の軸組を緊結する長さ 18cmのものまで各種あり、さらに、先端の爪が互いに 直角になるような手違いかすがい、一方を短冊状にしてこれに釘穴をつけた目かすがいがある。前者は (けた)と垂木(たるき)に、後者は縁甲板と根太(ねだ)の取り付けなどに用いる。また両爪の長いものは輪 かすがいといわれ、形状、名称など使用場所によっても異なる。「子は(夫妻の)かすがい」なども、つなぎ 止める意味からのことばといえる(HP Yahoo!百科事典)

(6)

らに頑丈にするために藁縄を

3

本がけ

3

まわりで掛ける決まりもあった

(写真 3)

写真 1 亜鉛メッキを貼った茶箱 写真 2 上から 5kg 用、10kg 用、20kg 用の茶箱

写真 3 テープ代わりに紙を貼った茶箱

あまり長くは続かなかったが茶箱としてアメリカへ清水港から輸出していた時期もあり、

輸出するときは

16

貫櫃を送った。これは貿易箱の規格にも規定があったと考えられる。そ して輸出の際には、ある程度の衝撃にも耐えられるようにより太い藁縄で結んだ。しかし 時代がすすむにつれ輸送技術も発達しより安定した状態での輸送が可能になり、鎹を打っ たり藁縄で結んだりすることはなくなっていった。

3 川根と茶箱

ここからは、川根地域において茶箱がどのような役割を果たしていたかということにつ いて述べていく。川根地域においては、環境的に林業と茶業どちらにも適した条件がそろ

(7)

っており、実際どちらの産業も栄えた

(茶業に関しては、本報告書富田報告、林業に関しては林田報

告参照)。茶箱はそれぞれの産業に関係があるといえる。茶業は、昭和

19

年から終戦後の昭

24

年前後のころまでは、食糧不足のため茶の木をこいで

(抜いて)

畑にして食料を作ってい たため、一時低迷していた。しかし昭和

24

年頃から茶が増産し、昭和

30

年頃「やぶきた 種」が導入され、茶業の全盛期を迎えることとなる

(大石 2004)

。茶業に活気が出るにつれ茶 箱の需要も増え、全盛期時代には静岡県内に

30

軒ほども製函所があったという。現在では その数は

10

軒前後と減ってしまっているが、それでもそのうち

3

軒が川根地域に集中して いる。この

3

軒の製函所については

4

節でスポットを当てる。

茶と箱をつなぐ茶箱がそこまで使われるようになったのは、

1

節で述べたコンテナー型と して茶箱が輸送に適していたことがその大きな理由である。その輸送方法は時代の移り変 わりとともに変化していった。順を追ってみていくと、まず茶箱が使われ始めたと考えら れる江戸時代ころは、川根地域からの茶箱の輸送は人足によって人力で行われた。当時は しっかりとした道も整備されていなかったため大八車2では山道を通ることができず、また、

当時お茶を包むのに使っていたしぶ紙が水に弱いということもあり、人の肩に頼らざるを えなかった。いかだを使って大井川で茶を運んだという説もあるが、当時は一部の人しか 個人の山をもっておらず、大半が村の山として村単位で保有していて自由に切っていい木 が少なかったためいかだにする材木が少なかったのではないかという理由で、この説に関 しては賛否両論がある。このような状況で川根地域からの茶箱は人足によって運ばざるを 得ず、人足が現在の浜松市天竜区春野町まで運び、そこから大八車で掛川や榛原まで運ん だようである。また、川崎町

(現在の牧之原市東部)

などの港にも運び、そこからは船で江戸へ 出荷していた。当時は全国のお茶が江戸へ集まってきていた。川根地域の茶もその中の一 つであったわけだが、その際、中村藤五郎という人物が活躍した。特に

7

代目、

8

代目の中 村藤五郎は、川根地域で大量にお茶を集めて江戸へ船で出荷していた。難破船が関西方面 でも出たことが分かっており、そのことから江戸のみではなく大阪の方面にも出荷してい たと考えられている。明治

22

年には東海道線が開通し、江戸までの茶の輸送は船から汽車 に変わることとなる。いずれにしても、山間部にある川根地域から重い茶箱をもって山を 越えて下流の地域まで運ぶのは、かなりの重労働だったことは容易に想像できる。

その後、明治

3

年になると大井川での船の使用が許可されて、間もなく水川にも船が入 ってきた。人足による人力に代わって、船での運送が主流になったわけである。1隻に米

2 大八車(だいはちぐるま)とは、江戸時代から使用され始めた、大きな荷物や、重量のある荷物を運ぶた めに使われる総木製の人力荷台のことである。名の由来は、諸説ある。①一人で八人分の仕事(運搬)がで きるところから、②車台の大きさが 8 尺(約 2.4m)のものを大八と呼んだ、③現在の滋賀県大津の八町で使 われていたことから、「大津八町の車」が略され「大八車」になった、などである。なお、同様の構造の 台車は少なくとも平安時代 から使用され続けているが、一般的には江戸時代からとされることが多い (Fresh eye ペディア)。

(8)

25

俵分くらいを乗せられたそうで、それまでの人足による輸送と比べると輸送手段として は効率がかなり上がったといえる。実際、川根地域からの船には合計で製茶

94

6250

分が乗せられた。値は一貫匁が

1

25

銭であったので、相当な量を出荷していたことがう かがえる。船で島田まで運ばれ、そこから静岡や焼津へ荷車で運ばれた。しかし、この船 というのが帆船で、なかなか思うような風が吹かず苦労する部分も多かった

(写真 4)

その後明治

13

年ころになり、アメリカへ大量のお茶が輸出されるようになって茶業界にも 活気が出てきたとき、一部の悪徳業者が、お茶の中へ柳の葉、桑の葉、柏の葉などを刻ん で混ぜて輸出した。また、乾燥不良や梱包不良などの不良品も紛れ込んだ。これに対して アメリカは明治

16 (1883)

年、『贋製茶輸入禁止条例』を国会で可決し、日本とのお茶の取引 を規制してしまった

(HP O-CHA NET)

その後大正

15

年、索道

(さくどう)

とよばれる、山の中に太いワイヤーを通して荷物を運ぶ 方法が導入された。索道とは、現在でいうリフトのようなものである。この索道は、最初 は藤枝から地名までだったが、昭和

5

年には沢間まで延長された。茶箱もこの索道で輸送 されるようになり、船の数が以前に比べて減っていく。この時期になると、2節で述べたよ うにしぶ紙をひいていただけだった茶箱の内装も、亜鉛板を箱の内側に貼って湿気を防ぐ 方法に代わっていった。この索道は当時としてはとても便利であったが、荷物だけが山中 を通るということで、悪い輩に途中で荷物を落とされるという被害も多少あった。

昭和

6

年、大井川鉄道が開通されると、茶箱は列車での輸送が中心になった。列車を使 って運搬していたころは、茶を詰めた箱を工場から駅まで馬車やリアカーを使って運んだ。

そして、昭和

16

年に川根本町水川に初めて自動車が入ってくる。その当時は茶箱を車で 運ぶという発想がなく、それからしばらく経った昭和

40

年前後にやっとお茶も車で輸送さ れるようになった。茶箱があまり使われなくなってしまった現在では、川根地域の茶箱の 需要がほとんどなくなってしまったため、川根から茶箱に茶を入れて出荷するということ はほぼなくなってしまった。しかしその代わりに使用されるようになった、大海

(だいかい)

というダンボール性の袋に茶葉を詰めたものを運ぶ際や、茶葉を詰めた茶箱としてではな く、中身の入っていない箱のみとして川根以外の地域に出荷する際は、自動車がその主な 輸送手段となっている。

このように茶箱の輸送手段は変化してきたわけだが、茶箱の輸送に注目するにあたって 見落とせないポイントがある。それはラベルである。茶箱を出荷する際、輸送用の大きめ の茶箱にはラベルを張り、入っている量、生産者、送り先などを書いていた。それらを、

お茶を加工する再製工場の達筆な人に書いてもらっていたこともあった。それ以外に、茶 商や、個人でも大規模に経営しているところでは、川根のマークや、屋号、家紋をいれて いた。最初はラベルを印刷していた静岡の業者が自転車で川根地域の茶屋を回ってラベル の注文を取っていた。後に昭和

28

年に茶業組合創立すると、組合がまとめて注文を取るよ うになった。ラベルのデザインは時代の移り変わりとともに少しずつ変わってきた。東京 などに出荷したお茶は、はじめのうちは袋などに入れて売られていたが、やがて缶に入れ

(9)

て売られるようになる。しかし当時の茶缶は今のものほどカラフルではなく、無地のもの がほとんどだったため、茶缶にもラベルを貼って販売していた。その他輸出用や、万国博 覧会に送ったりするときなどにもラベルは使用された。いずれにせよラベルは、茶箱の輸 送や販売において重要な意味を持っていたといえる

(写真 5)

写真 4 当時使われていた帆船 写真 5 茶箱に貼られる商標(ラベル)

4 製函業を生業とする人々

これまで述べてきた茶箱は、製函所で生産されてきた。

3

節の冒頭部分でも触れたように、

川根地域には

3

軒の製函所が現在でも残っている。この節では、製函所の過去、そして現 在歩んでいる道を実際にフィールドワークで得られた情報をもとにたどってみる。

茶箱が茶とともに全盛期を迎える昭和

30

年前後には茶をどこに送るにも茶箱が使われて いたほどで、どの製函所も基本的に茶箱を専門に作り、ほとんどを近隣地域の茶屋などへ 出荷していた。箱の材料として使うスギも近隣の製材所などから仕入れていたため、生産 から販売まですべて川根地域内で済んでいた。取引先も川根地域内だけで十分であった。

当時は製材所で製材された木を買う製函所が多かったが、製材からすべての作業を行う製 函所もあった。実際、お話を伺った

3

軒の製函所のうち、A 製函所では現在でも製材から 完成まですべて自分の工場でやっているそうである。時期としては

1

年を通して常に茶箱 の需要があったというわけではなく、やはり茶の出荷の時期が集中的に忙しかったようで ある。茶箱と茶の深い関わりがこのあたりからも見て取ることができる。製函所によって は多い時には1軒に

20

キログラム用の箱を数百個出荷もすることもあり、毎日夜まで仕事 をすることも多く、人手も多く必要だった。このころは、茶屋としては茶を茶箱に詰めて 出荷するだけであったので、箱の質よりも量という雰囲気もあり、箱の作りがある程度雑 になってしまっても許容されていた部分もあったという。

このような全盛期ともいうべき時代から、茶箱はやがて徐々に衰退の道をたどっていく。

先に少し述べたとおり、現在、茶箱の需要は全盛期に比べれば減ったと言わざるを得ない。

きっかけはダンボールや大海の普及である。ダンボールは

1870

年にアメリカとドイツで発 明され、日本では明治

42 (1909)

年ころから普及し始める

(HP Yahoo!百科事典)

。重くて使用後 の処理にも困る茶箱よりも、より軽いダンボールや大海の方が輸送面で手間が少なく済む。

(10)

ダンボールや大海が使われるようになると、以前は販売先でやっていた袋に入れて真空に するという工程も生産地ですべてを済ませてしまうようになった。それはなるべく入荷か ら販売までの手間を減らすためである。また、一つ一つが職人の手作りであるためどうし ても高価になってしまう茶箱を、販売先が進んで使うメリットがあまりなくなってきたと いう理由もある。現在では、大海に茶葉を入れたものを真空にして、より良い品質を保つ ためにさらにそれに窒素を入れたものが茶の輸送手段として主流となっており、川根地域 ではほとんど茶箱が使われなくなってしまった。その結果多くの製函所は店をたたまざる を得ないところまで追い込まれてしまい、残った製函所も取引先をより遠方に求めていか なければならなくなった。そんな中で現在まで箱を作り続けている

3

軒の製函所に私はイ ンタビューをした。その

3

軒の製函所それぞれが歩んできた道は実に三者三様であった。

その違いは、現在のそれぞれの製函所が作る箱の種類の違いに顕著に表れている。

まず創業が昭和

15

年の

A

製函所は、創業以来茶箱

(あるいは何かしら茶に関係する箱)

を中心 に作っている。材料のスギは近辺の製材所で丸太の状態で買って自分たちで製材して箱ま で完成させるため、工場の中には大きな製材機がある。現在の取引先は、菊川、掛川、相 良など県内が中心で、遠方では東京や埼玉にもある。横須賀にも少し前までは外国人に売 るために1年に4回くらい出荷していた。

A

製函所から箱を買った茶屋は、東京や新潟など に茶を送るのに茶箱を使っている。しかしその送り先でも茶を輸送する役割を果たした茶 箱をどう使うかあるいはどう処分するかという問題があるため、需要があるといっても大 量に必要になることはあまりない。西方面にはほとんど送ることがない。このように茶箱 を作る一方で、現在は同業者の引き継ぎで仙台の茶園ともつながりがあり、その茶園が毎 年正月の初売りのときに行っている、福袋の袋を茶箱にした福茶箱として使うためにも大 量に出荷している。このとききれいに紙を貼って装飾している。また、きれいに和紙など を張って衣類や小物入れとして使うために売ったこともあったが、それは今ではプラスチ ックなどで作られることが多くなり、需要は減ってしまった

(写真 6)

次に

B

製函所は昭和

27

年前後に創業し、現在は

2

代目が引き継いでいる。この

B

製函 所では、今は製材屋できちんと製材してもらった材木を材料に使っているが、昔は自分た ちで製材からやっていた。工場の中にはやはり、現在では使われていないようだが大きな 製材機があった。現在の取引先は主に東京、横浜、神戸が拠点の業者だが、この業者は茶 を入れる茶箱としてではなく、外国人向けに箱を販売する業者である。外国人が小物や洋 服を入れたり、インテリアとして部屋に置いたり、本国へのお土産として買っていく。た だ外国人といっても、単なる観光客ではなく、日本に滞在し、日本文化に興味のある人々 が多い。そのために本人が先生の指導のもとにきれいに加工したり、業者がきれいに加工 したものを好む。そのため外国人がいるところなら全国へ送っている。沖縄や北海道に送 ることも稀にある。消費者の使用目的は変わったが、箱の作り方自体は変わっていない。

ただ、お茶用としては

5

キログラム用以上の大きさしかなかったが、外国人用に底が浅い ものや

5

キログラム用より小さいものも作っており、全部で

20

種類近くの大きさの箱を作

(11)

っている。7、8年前には、アメリカのシカゴに、現地販売用に約

2000

個送ったこともあ る。木箱に荷物を詰めてそのまま本国に送る外国人向けの引っ越し業者にもよく売れてお り、多い時で年間

300~400

万円の売上げがあった。しかし、木製梱包材が森林資源に有害 な病害虫を伝播するために、森林環境保護と自由貿易促進の両面から、国連食糧農業機構

(FAO)

では

2002

3

月に衛生植物検疫措置のための国際規格『国際貿易における木製梱包

材料の規制ガイドライン』

(ISPM No.15)

を採択したことによって、アメリカも

2006

7

5

日以降全面的に規制を行うようになったため

(HP 木製梱包材輸入規制)

、その手の買い口は減 少してしまった。そもそもこのように茶を入れるため以外で売り始めたのは

10

年くらい前 からで、最初は口伝えで情報が入り始まった。現在では外国人向けの箱が茶を入れる目的 以外の中心的な収入源となっている。逆に茶箱としての販売は

1

割もない。そのため、茶 の出荷時期に集中的に忙しくなる茶箱の生産と違い、一年を通して偏りなく需要があり、

作業も需要に応じておこなわれる

(写真 7)

写真 6 仙台の茶園に送られる茶箱 写真 7 外国人向けにきれいに装飾された箱

C

製函所では、木材を近隣の製材所から購入し、現在は丈夫で水にも強いヒノキでラーメ ンの麺を入れておく箱を中心に作っている。ラーメン箱は茶箱と違いつくりがいくらか簡 素であるためそこまで高度な技術や経験を必要とせず、機械で行う工程も多い。作った箱 は一つ

1000

円前後で東京など都市近郊のラーメン店を中心に販売している。また、茶箱と つくりは同じでも箱の底を浅くして衣類やのりを入れるためとしての箱も作っている。一 方で、茶箱は需要が少なくなってきているため

15、6

年前から作らなくなってきて、現在 では新茶の時期にまとめて

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個前後作って、それを売り切れば終了という形にしている(写

8)

(12)

写真 8 ラーメンの麺を入れる箱

このように比べてみると、どの製函所も完全に茶箱から離れてしまったというわけでは ないが、現在はそれぞれ全くと言っていいほど違った方向性で箱を作っていることがよく わかる。製函所として経営を続けていくためには、茶箱だけにこだわり続けるわけにはい かなくなったのである。そしてそれぞれの製函所はその方向性は違いながらも、現在も箱 を作り続け、程度は別としても製函所としての経営も成り立っている。しかしどの製函所 も異口同音に、後継者不足の問題を嘆いていた。経営の不安定さや、箱作りに高度な技術 力と経験が必要なことに加え、製函所の数自体が昔に比べ減ってしまったことが後継者不 足問題を助長してしまっている。いくら需要があっても、続ける人がいなければ成り立た ない。かつては茶業の発展に目立たないながらも欠かすことのできなかった製函所も、時 代の経過によっていずれは姿を消してしまうこととなってしまうのであろうか。そんな逆 境の中でも、

3

軒の製函所の方はそれぞれに箱を作り続けている。そして箱についてほとん ど知識がない私に丁寧に、そして熱心に箱について語ってくれた。

私共老人も毎日箱作りにがんばっております。

これは、インタビューに協力していただいた製函所の方から頂いたお手紙の中に書かれて いた言葉である。

5 茶と箱の別れ

茶箱の衰退、すなわち、全くの別物であった茶と箱をつなぐ役割を果たしていたともい うべき製函所の方向性の転換は、茶と箱の別れを意味する。

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節で述べたように、現在も残っている製函所は様々な種類の箱を作るようになってきて いる。後継者不足という問題はあるものの、木材でできた箱は、プラスチックなど他の素 材にはない特別な良さが備わっている。木が水分を吸うことから湿気に強いなどという機 能的なことはもちろん、木そのものには独特の温かみがある。その特質ゆえの需要はいま

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だに数多くあるし、日本の文化的なものとして外国人にも好まれている。

一方で茶業界は、嗜好品である茶は不景気の影響を受けやすい上に、ペットボトルなど の飲み物が増えたことによる若者のお茶離れなどによってどうしても衰退しがちである。

実際、昔は川根本町水川には収穫したお茶を個人で加工するための個人工場が

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近くあっ たが、現在では効率面や金銭面的な理由から

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つほどしかない。しかし、川根の茶農家の 人々は、全国茶品評会で優勝したり、静岡空港が開港するなど、より川根茶のことを多く の人に知ってもらう機会が増えつつある中で、「これこそお茶」というものを知ってもらう ことをお茶普及への第一歩としようとしている。『ブランド化』することで再び茶に注目を 集めようとしているのである。また、最近では茶に含まれるカテキンなどの物質の健康へ の効果も証明され、注目が集まってきている。

かつて互いの発展を支えあった茶と箱は、それぞれが問題を抱えながらも、再びそれぞ れの良さを生かした別の道を歩み始めているのである。

参考文献 大石貞男

2004『大石貞男著作集 1 日本茶産業発達史』

宮内悊

1991『ものと人間の文化史 67・箱』法政大学出版局

参考 HP

木製梱包材輸入規制

PDF

http://www.ocean-commerce.co.jp/fmi/xsl/protected/docs/ispm.pdf#search=

(2009/09/18 現在) Fresh eye

ペディア

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Yahoo!百科事典 「ダンボール」

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%AE%B5%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB/

(2009/10/1 現在)

参照

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