基礎キャンパスの惨劇
出席学生全員死亡の五教室 生理学講堂では清原寛
一 教授(長崎医大卒︑四十歳)により学部一年生に講義が行われていた︒講義
が始ま っ
て間もなく
B
らしい大型機の異常に高い爆音に引き続いて﹁ピカツ﹂と眼もくらむ閃光が m
教室内を走
っ た ︒ つぎの瞬間すさまじい爆風とともに木造の講堂は
一 瞬にして倒壊︑さらに熱線のた
め炎を上げて燃え出した
︒
何が起こったかも分からぬまま多数の学生は圧死か熱線による火災で焼死
し た
︒
後に判明したところでは三三名の学生は倒壊炎上する教室から何 とか脱出していた
︒
もちろんガラス破片創︑打撲傷︑骨折︑熱傷(以下
火傷と表現する)を受けた重傷者が大部分だが︑なかには傷一つなく︑
途中で拾った自転車に乗って下宿に帰りついた学生もいた︒
しかし︑一の矢の爆風︑二の矢の火傷を逃れた幸運な学生たちには︑
清原寛一教授
(1905‑45)急性放射線障害(以下急性原爆症と略す)というとどめの三の矢が待ちか
歳の誕生日が命日となった︒
生理学教室の実習
まえていた︒三三名中二一名は︑被爆後一週目の十六日までに 死亡しているが︑その症状は汗の出ない高熱︑恒吐︑下痢︑血 便︑のどや舌の腫れ︑紫斑︑急激な衰弱︑意識混濁などである︒
なかには最後まで意識がはっきりしており︑母や家族の名前を
繰り返し呼んで息絶えた者もいたという︒
結局三三名全員が死亡したが︑死亡日時不明の八名を除きす べて被爆後二週間以内であった︒当日︑生理学講義出席者数は 記録も焼失して不明だが︑生存者の届出はなく︑原爆死亡七三 名の数字がそのまま出席者数とみなされる︒すなわち死亡率は
一 0
O
パーセントである(一 0
四 ペ
ー ジ
表 参
照 )
︒ 大西俊夫君は︑大正十五年八月九日生まれ
︑ちょうど満二十 野津恭君は︑医大に合格してから﹁骨の名称を覚えるのに一生懸命︑ノートをとれば万年筆のイン
キが 一
日で空になる﹂との手紙が家族への最後の便りになった︒子供の頃から昆虫などを無用に殺生 することを嫌い︑捕まえたトンボや蝉を殺そうとする兄に泣いて抗議
していたという
︒
青山賢治君は大の音楽好き︑中学時代からアコ
ーディオン︑クラリネ
ット︑小太鼓︑ラッパと何で もこなした
︒
長崎では同好の士とピアノに凝り︑暗い戦争下ではあったが︑大学講堂から流れてくる
、 │基礎キャンパスの略図│
コ 天 主堂│
グ ラウ ンド
?///チラジ勿づ
l三
回 目
宿泊ホール
口 口
@
解剖学講堂(医専 1年生第 1班) 富 { ⑪ 衛 生 学 講 堂 ( 医 専
2年生)
i
6J生化学講堂(医専 1年生第 2班)
l e 生理学講堂(学部
1年生)
⑮
病理学講堂(学部
2年生)
彼等の演奏する﹁トルコ行進曲﹂﹁舞踏への勧誘﹂などの美しいピアノの旋律に︑しばし疲れを忘れ 耳を傾けた教職員は少なくない
︒
被爆後︑一時大学裏の丘にいるのを目撃されているが︑以後消息は
消えた ︒
清原教授は長崎医大出身者として昭和十四年最初に教授になったが︑人格︑識見ともにすぐれ︑研 究面でも多くの業績をあげていた
︒
戦争が激しくなるにつれ多くの教室員が櫛の歯をひく
ように召集
されてい っ
たが︑残された僅かな教室員をまとめて研究指導と学生教育に余念がなかった︒被爆時 教壇でそのまま死亡︑同席していた芦塚陽助教授(長崎医大卒)ら四名の教室員も即死した︒教授宅
でも夫人と二児が死亡しており︑ 一
家は全滅した
︒
遺族の手記の中から
• 野j章 恭
品 拍
手
部 年 生
兄
野 津
︿亡弟恭を偲んで
﹀
原 爆
の強烈な放射線と熱線を受け︑半死半生のまま︑廃嘘と化した長崎の焼野を二日間幼い歩き︑幸に 奇特な人によって救われたという弟恭よ
︒
その方からの報せを受け︑ただちに長崎に駆けつけたが︑時すでに遅かった
︒
聞けばお前は荒れた口唇 を開いて︑その人に水筒の水を二口
三
口飲ませてもらい︑﹁下宿の小母さんも死んだらしい﹂と一言残
て不帰の客となってしまったという
︒
呪わしい戦争と原爆は︑お前の夢多い青春と抱負に満ちた生涯を︑お前自身から︑そして吾々の一家か ら︑何一つ残さず奪い去ってしまった
︒
思えば八人兄弟の六番目に生れたお前の幼い頃は︑本当に可憐だった
︒
母に抱かれたお前は︑会う人毎 に﹁人形のようだ﹂といわれて︑無心に笑っていた
︒
小学校の入学式当日︑黄色の草履袋をさげ︑新しい服︑帽子︑靴を身につけて︑ニコニコしていたその 姿は︑まだ眼底に鮮かに残っている
︒
山家に生れ育ったお前は︑山の子だった
︒
夏の炎天の下︑真黒に日焼けして︑大小各種のとんぼを龍に
一 杯入れていた
︒
だが決して殺さなかった
︒ 日比虫類を無用に殺生することは絶対に嫌った︒夏休みの宿題
の昆虫標本を作るため︑五口々兄がとんぼや蝉に熱湯をかけて殺そうとすると︑お前は涙を流して反抗した ︒
吾々が断念してもお前はニコリともせず︑何事かを考えていたようだつた
︒
( 中
略 )
高校入試には努力も空しく失敗︑折りしもいまわしい太平洋戦争が起こったが︑思いもかけぬ兄の病死 に遭い︑心を痛めたが次年には幸いに合格した︒しかし戦局の悪化とともに我々兄弟は次々と戦争に駆り 出され︑残ったお前は病母の看病と老父の世話︑そして兄の遺児の世話など︑家事
一 切の責任を持つこと
になり︑勉強も思うにまかせず︑楽しかるべき高校生活は苦難の連続で︑ついに留年の憂き目を見ること
になった ︒ 一時は落胆したが再び落着きを取戻してくれたのは︑五日々にとっても嬉しいことだった︒また
動員で工場で働いたこともあったが︑幸い長崎医大に合格︑﹁骨の名称を覚えるのに
一 生懸命︑ノートを
とれば万年筆のインキが一日で空になる﹂と報せてくれた
︒
永井隆先生は郷党の先輩であり︑親しく指導をうけ︑先生の様子を詳しく知らせてくれた︒思えば高校
生活と医大生としての生活が︑お前の短い人生の中で︑最も充実し︑また楽しく︑生甲斐のある時期では
なかったろうか︒(後略)
( 昭
和 叫
年
9 月
M 日
) ︿
﹃
忘れな草﹄第三 号より﹀
‑ 青 山
賢 治品 比
‑"t一
部 年 生
母
青 山 よ 八生理学講堂で遭難
︑一時︑大学裏の丘に避難していたが︑その後不明
﹀
賢治が山形の高等学校を卒業して︑帰って来たのは昭和二十年三月十五日でした︒二日後の十七日には 大空襲で︑神戸は一面の焼け野原となりましたが︑私共の家は山裾にあったため焼けずに︑火の粉や爆弾 のケ!スの落ちる音を︑防空壕の中でかたくなって聞いておりました
︒
そのあと死者や怪我人がたくさん 出たので︑賢治は担架でそれらの人を運び︑手足をふるわせていたのが可哀そうでした
︒
( 中
略 )
いよいよ長崎へ出発の前に︑角帽をかぶり︑父のオーバーを着て︑手提カバンを左手に持って鏡の前に
いいでしょう﹂と︑色白の顔に白い糸切歯を出して︑にっこり笑ってみせました︒私
立 ち
︑
﹁お 母さ ん︑
は嬉しいやらつらいやらで︑泣きながらもう
一 度肩から背中まで撫でてやりました︒
何一つ乗物のない焼野ヶ原の夜更けの街を︑父と代わり代わりに︑重いリュックを背負いながら神戸駅 に着きましたが︑見送人はプラットホームに入れてくれないので︑改札口で別れなければなりませんでし
た ︒
白い顔と挙手の白い手が階段に消えて行くのが︑大学への晴れ姿でした︒途中の無事を祈りながら︑
私達は淋しい物足りない気持で︑夜道をトボトボと帰宅しました︒
その後会社は焼け︑静かだった住宅地の私達の所にも爆弾が落ちたので︑家を引越しましたが︑それを 心配して賢治が突然帰って来ました
︒
私は思わず賢坊ノ
といって抱きかかえ︑ お互いの無事を喜び合い
ました
︒
そして短い慌しい聞にも︑長崎で習
っ たとい
っ てお茶のお点前をして見せてくれたり︑音楽が大 好きだったので︑中学時代からアコーディオン︑クラリネット︑小太鼓︑ラッパ等をやっておりましたが︑
今度は長崎に行ってからピアノを始めたといって︑バッハの前奏曲や乙女の祈り等を聞かしてくれ︑この 次帰った時は﹁月光の曲﹂をきかせてあげると私たちを喜ばしてくれました
︒
七月十四日に再び長崎へ旅立ちましたが︑このような時だからお互いにどうなるか判らないと爪を切っ て封筒に入れ︑﹁賢治の爪﹂と書いて残して行きました
︒
この爪が賢治が残した唯
一 のものとなりました
︒
そして白いリュックを背負って街角に消えて行った後姿が︑この世の最後の別れでした︒
その後七月三十日に︑﹁学校の近くに下宿を変りました﹂という便りが届きましたが︑それが最後の手 紙 で し た
︒ 賢 坊 は 学 校 へ 帰
っ
て行く度に︑讃美歌の﹁神ともにいまして︑ゆく道をまもり﹂をアコ
l
デ イ
オンで弾いていました
︒
( 昭
和 必
年
4月
)
︿
﹃忘 れな 草﹄ 第
一
号より﹀. 清 原
寛生
理A拍
手
教 授
義 姉
J同
原 た け
暑さを感じる頃になると︑毎年終戦の年の事々が︑
あの年の夏の︑例年になく暑さの厳しかった事が思い出されます
︒
長崎医大で教壇に立っていた義弟も︑例年ですと八月には︑福岡の実家でお盆を迎えるため︑家族四人 揃って帰郷する頃だったのですが︑あの年に限って未だでした
︒
ちょうどあの年︑六月十九日の福岡の空 襲で実家は焼け︑私どもの家族も︑人に貸していた家の一部に仮住いという状態でしたので︑それで帰省
つい女の甘い考えで思い込んでおりました
︒
ついこの頃の事のように︑まざまざとよみがえり︑
しなかったものとばかり︑
梅田薫教授
(1903‑45)当時遺体の葬いなど御世話下さった方のお話では︑﹁教壇で倒れていた﹂との 事︑その前には幾十人の学生さんが机を並べて︑戦地・内地ともに不足する医 者として︑一日も早くお役に立ちたいと︑緊急の勉強に励んでいられたに違い ありません︒
夏休みも返上しての特別教育や︑救護活動にあたっていた事は︑後になって 知った次第です
︒
自宅にいた寛一の妻︑五歳の長男︑三歳の長女も︑同じ爆弾 で瞬時にしてやられてしまったわけです
︒ ( 後
略 )
( 昭 和 弘 年
6
月初日)︿﹃忘れな草﹄第三号より﹀
病理学教室(第二)では梅田薫教授(東京帝大卒︑四十
二 歳 ) により学部二年生に講義が行われていた その日は病理各論の開講日であった︒梅田教授が﹁一般に人間の心臓の大きさは︑ほぼその人のこぶ し大で:::﹂と語ったその瞬間︑閃光が走り学生一同教授の顔をみつめ教授も学生を見渡した︒
後教授の背側にあった防火壁が倒れかかると同時に大音響とともに教室全体が倒壊し︑
机の下に潜りこんだ︒ 一部の学生は
この教室は木造建ての階段教{五主だったが︑側壁は煉瓦づくりになっていた ︒
そのためくずれた煉瓦 のすき間を必死で押しあけて外へ出ることが出来たので︑ここでも二ご二名の学生が地獄の教室から一 応逃れることができた
︒
間髪をおかず各所に火の手が上った︒
爆風がいかに強かったか︑竹田実君はシャツを完全に吹き飛ばされズボンだけになっているのに気
づき正然とした ︒ 佐賀の友人を頼って小西淳君と二人長崎を発ち苦労を重ねて十 一 日到着したが︑二
人とも高熱︑血性下痢等の症状著しく︑小西君は十五日︑竹田君は十六日に死亡した︒
三 三
名の脱出学生のうち二五名は受傷後 一 週間以内に死亡し︑残りも死亡日時不明の三名を除き全
員二週間以内に死亡した ︒ 結果的に学部 一 年生と同様︑当日病理学講義出席者六三名は全員死亡した
(一O
四 ペ ー ジ 表 参 照 )
︒
梅田教授はしばらく行方不明であったが︑数日後︑病理講堂教壇近くにあった焼死体のかたわらか
ら教授愛用のパイプ用煙草健が発見され死亡が確認された︒
梅田教授は
H吉田肉腫
Hの名で世界的に有名な吉田富三博士(東京帝大卒︑日本学士院会員︑ 一 九
O一 一 一
ー ー 七
三 )
( 注
8
︺ が昭和十九年七月︑長崎医大から東北大教授に転出した後任として長崎医大へ赴任後
ま だ
一 年であった ︒ 図書室に豊富な蔵書が完備しているのを喜び︑着任早々からしばしば深夜まで研
究を続け︑自宅で食 事 中でも病理解剖の連絡があると飯椀を放り出して大学へかけつけるほどの学究
の徒であった ︒
︹ 川 正
8︺
吉 田
富 三
( 一 九
0 =
一 七
一 二
) 昭 和 期 の 病 理 学 者
︒ 福
島 県
の 生
ま れ
︒ 東
京 帝
国 大
学 医
学 部
卒 業
︒ 医
学 博
士
︒
が ん
の 研
究 で
知 ら
れ ︑
﹁ 吉
田 肉
腫 ﹂
は 世
界 的
に 有
名
︒ ア
ゾ 色 素 に よ る 肝 臓 が ん の 人 工 発 生 に 成 功
︒ 一
九 五
九
年文化勲章
受 章
︒
附属医専一年生の第一班は解剖学第二教室小野直治附属医専教授(長
崎医大卒︑四十歳)の講義中であった ︒
この年の新入生は全国各地に動 員学徒として散っていたため︑入学式が七月一日に延期された︒したが
って入学後まだわずか一月余りしか経っていなかった︒
解剖学教室は基礎教室の中では北寄りの西端に位置しており︑医大の
施設としては原爆の爆発地点から最短距離にあった︒
第二班は生化学講堂で斎藤圭一助教授(長崎医大卒)の講義中であった
︒
この教室は解剖学教室と 並んで北寄りで東端の列にあった
︒
原爆 一 肉︑両講堂は大音響をあげて倒壊した
︒
解剖学教室で受講していた原裏君はその直後窓外に吹き飛ばされ夢中で山の方へ逃げた
︒
手当を受 けて十三日︑佐賀県神埼町の自宅にたどりついたが︑翌十四日死亡した
︒
土橋弘基君は全壊した講堂の中で一時人事不省におちいったが︑後に覚醒し全力をふりしぼって頭 上の障害物を押しのけ︑友人四人と脱出に成功した
︒
まわりの火の海を見て帰宅をあきらめ︑大学の 裏山で一夜を過ごした
︒ 空腹とのどの乾きが激しかったが︑翌十日父親に発見され自宅に収容された︒
しかし︑順一吐︑衰弱が強く︑家族必死の看護も空しく︑十六日永眠した ︒
もともと文科系志望だった が︑長崎は医学発祥の地だからと医科をすすめた父親の願いを素直に聴き入れて入学したのだった︒
調 弘 治 君 は 第 一 外科調来助教授(東京帝大卒︑ 一
八 九 九
一 九八九)の次男である ! ︒
教授は附属病
小野直治教授
(1904‑45)院の教授室で被爆したが奇跡的に外傷なく︑その後の言語に絶する多忙な救急医療の中核として活動 を続けた︒弘治君の消息を尋ねて当日午後遅くようやく解剖学講堂近くに行くことが出来たが︑一面 の廃嘘と火炎のくすぶりのため生死は確認できなかった
︒三
週間後︑被爆者の治療がほぼ一段落した 後︑遺骨探しに行き︑講堂の焼跡から弘治君のズボンの焼け残りを確認した︒同教授の長男精
一 君も
動員学徒として
三菱兵器大
橋工場で製図中に被爆︑十六日自宅で息を引き取っている
︒
附属医専
一 年生のうち即死を免かれて両講堂の外へ
一 応脱出した学生は五五名が確認されている
︒
しかし他の講堂の例に洩れず︑五五名中四一名は一週以内に死亡︑残り一四名中︑死亡日時の不詳者 三名を除く一一名中八名は被爆後二週以内に死亡した︒最後の一名も十九日目に死亡
︑出席学生
一 六
六名全員が死亡した(
一
O四 ペ
ー
ジ 表
参
照 )
︒
小野教授は研究室や教壇では謹厳そのもので近寄りがたいものがあったが︑個人的には非常に人な
っこい打ちとけた 一
面を持っており︑人類学研究上膨大な資料を蒐集ずみだった
︒
生化学講堂で被爆した大久保彰君は︑家族が焼あとに散乱する白骨︑鞄の金具︑ボタン︑アルミの 弁当箱などの中を必死に探したが︑遺骨︑遺品とも全く確認出来なかった
︒
ところが翌昭和二十
一 年
一 月︑金比羅山の頂上で遺骸が発見された
︒
ゲートルの裏に白布に書いて縫いつけた名札
( 一
九 四
六 )
が手がかりであった
︒
阿部琢磨君は閃光の直後︑素早く机の下に身を潜めるのと同時に講堂はつぶれその下敷きになった
︒
机のおかげで左手に擦過傷を受けたのみでやっと外にはい出した︒二︑三
0
メートル走ってふり返る
と講堂は火に包まれており︑助かったのは自分一人ではないかと思ったという︒市街は火の海と化し ていたのでやむなく山伝いに逃れ︑夕方近く︑知り合いの病院にたどりつき皆から命拾いをしたと喜
ばれた
︒ 一
両日は異常を感じなかったが︑次第に口腔粘膜が腫れ︑下痢を生じ︑最後は重篤な血便と なって十六日午後死亡した
︒
離島から急を聞いて父親が発動機船を借りて長崎にかけつけたのは二日 後の十八日早朝であった
︒
平山真之君は生化学教室の窓ぎわで講義を聞いていて被爆した
︒
斎藤助教授の﹁伏せっ﹂との声に 瞬間的に机の下にもぐりこんだ
︒
気がついて壊れた講堂からはい出し︑その夜は防空壕で
一 夜を明か し た
︒
翌十日長崎をはなれ︑深夜佐賀県下の自宅にやっと帰りついた︒急性原爆症の症状があらわれ
ると死期を覚り︑﹁お母さん︑僕は何 一
つ親孝行もせず︑今日まで勉強勉強で暮らしました
︒ 許して
下さい﹂と母親の両手の指を
一 本一本撫でながら話しかけたという
︒
八月十六日死亡
︒
わずか十六歳 八ヵ月の若さで世を去った平山君と私とは佐賀中学昭和十六年春同期入学の仲だった
︒
斎藤助教授は生化学教室の内野豊教授(東京帝大卒)が二十年春急逝した後をうけて教室を主宰し 精力的に研究︑教育に従事していた
︒ 矢野明助手ほか五名も殉職し生化学教室は全滅した︒
遺族の手記の中から
‑ 土 橋
弘 基
医 専 年 生
父
土 橋
J同
英 原爆の日は家族五人で午餐中︑閃光に続いて物凄い爆音とともに硝子戸は飛散し︑天井は爆風で吹上げ
られ︑夢中で屋外にとび出しました
︒
愛宕山越しに浦上方面に︑天に沖する大茸雲が魔物のように釜え立
っています ︒
この一瞬︑私は唖然として狐狸につままれた錯覚の存となりました︒(中略) 翌十日朝となっても︑前日登校した
二
男弘基が帰りません
︒
多分救護班として︑被害者の救護に従事し ているものと信じていました
︒
しかし不安でならないので︑学校へ行ってみようと自宅を出ましたが︑長 崎駅から先は悲惨な被爆者が群をなし︑助けを求める瀕死の重傷者︑身動きも出来ない人が水を欲しがる 哀呼声︑紙幣束を大事に抱えたまま息が切れている人︑数知れぬ屍︑巨体で道を阻む死馬︑思い出は涙を そそるばかりです
︒
それから行先はいよいよ火の海ですから︑止むを得ず山伝いに北進し︑ようやく県営 墓地へ出ましたが︑さっそく目についたのは大学病院の︑中程から﹁く﹂の字型に管曲した大煙突です︒
また墓地の石碑はほとんど倒れ︑埋葬した遺骨の露出しているのもある始末です
︒
や っ
と学校裏手の丘で︑神の慈悲により︑弘基の哀れな姿に遭遇することが出来ました
︒
眼鏡も帽子も ありません
︒
ただ破れたボロボロの被服をまとっているのみです
︒
歩行も不自由な程衰弱していましたか ら︑援護して十日午後︑愛宕町の自宅に収容する事が出来ました︒
本人の話によれば︑階段教室で授業中︑原爆の閃光と同時に建物が潰れ︑全員その下敷となって︑
瞬
その場は阿鼻叫喚の修羅場と化し︑断末魔の捻り声が聞えた︒けれどもその後は人事不省に陥り︑
憶はない ︒
夕刻近く覚醒したので︑全力をふり絞って頭上の障害物を押しのけ︑同僚四人が脱出に成功し
た ︒
しかし一帯は火の海で帰宅することも叶わず︑すでに日没後で山伝いに帰ることも出来ないので︑止 むなく四人で裏山で一夜を明かすことにした
︒ 非常な渇きを覚え︑空腹を訴えたが︑勿論水も食糧もなく︑
仕方なく附近の畑にあった南瓜を生食して︑飢を凌いだといっておりました
︒
自宅では家族全員で看護に努めましたが︑原爆症でしょうか︑飲食物は恒吐を催して受け付けません︒
日々衰弱の一途をたどり︑ 一
週間目の八月十六日︑家族の見守る中に永眠致しました
︒
本人は中学卒業後文科系に進むことを志望していましたが︑医学は長崎が発祥の地であり︑医科に入学 すれば自宅から通学も出来て安心だからと私が勧めた所︑親思いの素直な弘基は私の意見を受入れて︑長 崎医専に入学した次第であります
︒
文科系に進んでいれば原爆死を免れていたのに︑私がそれを拒否して 医科にやったばかりに死んだのです
︒
弘基は私が殺したようなもので︑誠に申訳ないと思い︑毎月十六日
(死亡の日)には必ず香を焚き灯明を点じて謝罪
を続けています
︒ この精神的悩みは︑私の生ある限り︑
永く尾を曳き続けることでありましょう
︒
( 昭
和 日
年
4月)︿﹃忘れな草﹄第一号
よ り
‑ 大 久 保
t包:~黒ジ
医 専 年 生
妹
山 根 良 美
︿
亡き兄を憶う﹀
八月八日の夜︑今日の大詔奉戴式で角尾学長から聞いた︑広島の新型爆弾の恐しさを話してくれた兄は︑
そのあと珍らしく解剖の時間に写生した骨の図などを見せて︑医専での生活がどんなに楽しく︑かつ有意
義なものであるかを︑当時長崎高女一年生だった私と母を相手に︑
翌九日の朝は︑その兄が初めて道ノ尾駅下り七時四十分の汽車に乗り遅れ︑玄関先で母に︑如何にも学 校に行きたくないような︑大儀そうな様子を見せたので︑母は
﹁
折角好きな授業も始まっているのに
﹂
と
い っ
て送り出したそうです
︒
兄が亡くな
っ てから︑いつもその事を苦にして嘆いていました
︒
いつまでも話しておりました
︒
爆心地から
三
キロ位の所にあ
っ た私の家は︑ 幸
いに焼けませんでしたが︑見る影もなく壊され︑でもそ の時家にいた母︑私︑弟︑妹︑女中の五人が︑ほとんど怪我もせず助かったのは︑天佑とでも申しましょ
︑ っ
か
︒
私達は一段下の芋畑の中に畳や蒲団を持ち出して︑恐怖にふるえながら父や兄の帰りを待ちましたが︑
父はその夜十
一 時半頃帰
っ て来たのに︑兄はとうとう姿を見せませんでした
︒ それから続く私達の不安︑
焦燥
︒
父は気狂いのようになって︑毎日水筒を携え︑金比羅山や西山あたりを尋ね歩きましたが︑遺体ど
こ ろ
か全く消息が判らぬままに︑夏が過ぎ︑秋も過ぎて︑その年も暮れてしまいました
︒
す っ
かり諦めていた兄の遺骸が発見されたのは︑翌
二 十 一
年一月末の事でした
︒
場所は金比羅山の頂上 にある鉄塔の下で︑鉄塔の修理に来られた鍵原さんといわれる方が︑腐りかか
っ たゲートルに書かれた
﹁
長
中 三
ノ四︑大久保彰﹂の字を頼りに︑長崎中学校へ報せて下さったのが︑発見の手懸りでした
︒
長中から の報せで早速かけつけてみますと︑すべてがもう白骨にな
っ ていて︑編上靴とゲートルの一部が残ってお りました
︒
それから毎年八月九日には︑家族中で金比羅山に登り︑兄の死んでいた場所に花を供えています
︒
( 昭和叫年 3
月 )
︿ ﹃ 忘れな
草 ﹄
第 三 号より﹀
附属医専二年生は午前九時から外科講義(石崎戊助教授)を附属病院
南講堂で受けた(六三ページ図参照)︒出席学生は一二九名︑十時に講義
は終わり︑つぎの細菌学の講義は十一時すぎから衛生学講堂で行われる と伝えられたため︑大半の学生は南講堂から歩いて基礎講堂の方へ移動
し た
︒
衛生学講堂は三列に並んだ各講堂の真中の列北寄りで︑細菌学教
室の隣りに接していた(二二ページ図参照)︒
細菌学の内藤達男教授(京都帝大卒︑四十七歳)は教室の図書室で被爆した ︒
衛生学講堂で講義待機
中の学生は一
O
O 名をこえていた
︒残 りはまだ病院で臨床実習の見学に行ったり南講堂に残留してい
た ︒
この学年も後で判ったことだが︑最低三二名の学生が即死を免かれて脱出に成功した
︒
し か
し 一週以内に二六名が死亡︑残り五名も二週以内に死亡した︒附属病院にいた二名が生存したが︑いず れも附属病院内の鉄筋コンクリートの建物内で被爆した学生で︑基礎講堂では全滅を免かれ得なかっ
た ︒
附属医専二年生の死亡者総数は南講堂残留組と合わせて
一 O
八 名 で あ る
一
O(
四 ペ
ー ジ
表 参
照 )
︒ 福井順君は︑外科講義終了後︑内藤教授の講義がおくれると聞いて学友たちと臨床実習の見学に行
った︒南講堂にもどって間もなく
B
m の爆音が聞こえ︑友人(後︑即死)の一人が西側の窓を開けて﹁オ
ヤ︑落下傘だ﹂といった
︒
福井君は瞬間的に前日学長訓辞で注意された広島市の新型爆弾の話を思い 出し︑夢中で鉄かぶとをかぶり講堂の最下段に駆けおり教壇下の板張りに身を伏せた︒閃光︑爆発︑
破壊︑暗黒の中で間もなく意識を回復した
︒歯 を食いしばり金比羅山を越えて全身負傷の身で帰宅し
内藤達男教授
(1897‑1945)た ︒ 歯ぐきの出血︑鼻出血︑高熱︑意識混濁などの放射線障害で死の淵をさまよう日々が続いたが︑
一睡もしないで看護に尽くした母の祈り︑そして輸血や輸液治療などの幸運にも恵まれ︑翌年になっ て奇跡的に回復に向かった
︒
ほかに南講堂にいた学友藤瀬実君(開業)も助かったが︑残りは全滅した
︒
八月
一 日の空襲で負傷
し附属病院に入院中の学生と入院見舞中の学友は幸運にも助かった
︒
児玉進君は︑脱出後爆心地より八
0
0 メートルほど離れた自宅に帰ったが︑両親以下家族が全滅し
たと信じこみ大分市の父の郷里まで汽車で帰りついた
︒ 二日後﹁クヤシイ ﹂
を連発して息絶えた︒そ の数日後︑無事だった父親が長女を連れて大分に着いた時は進君はすでに遺骨になって仏壇にのせら
れていた ︒
松尾宏君は︑その朝当時中学二年生の妹と電停まで
一 緒だった
︒電
停には警戒警報発令中の札が下 っており︑一向に電車の来る気配はない︒﹁兄さん︑帰ろう﹂と妹は言ったが︑宏君は﹁いや︑お前
は帰れ ︒
俺はもう少し待ってみる
︒
さようなら﹂と答えたという
︒
妹もこれが兄との一生の別れとは 思いもせず手を上げた兄をふり返りながら帰宅した
︒
松尾君は受講中即死した
︒
内藤教授は温情にして誠心︑周囲の信望を集めていたが︑教授室の隣りの図書室の分厚い灰の中に 骨と思われるものが発見された
︒
同年十二月︑さらに図書室の灰を丹念に探すうちに︑愛用の懐中時 計︑眼鏡のレンズなどが見つかり︑死亡が確認された
︒ ﹁学者らしい死﹂と令嬢は涙をおさえた︒細
菌学教室スタッフは三谷秀夫助手以下五名が死亡し全滅した︒
あの目︑正規の講義が基礎の五教室(細菌学のみ待機中)で行われていたが︑学部一︑二年生二二六 名全員死亡︑附属医専一︑二年生二七四名全員死亡︑計四一
O 名の︑将来は医師になるべき青年たち 全員を原子爆弾は死に至らしめた(
一
O四ページ表参照)
︒ 附属医専の二年生四名が奇跡的に生存したが︑
臨床講堂や病室など附属病院内での被爆であった
︒
基礎講堂の焼跡に散らばる焼死体はほぼ白骨化し︑
場所によっては整然と机や椅子の焼跡に沿って並んでいた︒
第二外科の古屋野宏平教授(京都帝大卒︑のち学長︑ 一
八八六一九七六)は︑この情景をみて︑第一 次世界大戦のヴェルダンの戦跡でざん壕に銃剣の尖を連ねて一瞬に爆死した兵士たちの悲惨な光景を 想起したという
︒
しかしそれは戦場であり戦士たちである
︒無防備の学問の府で
︑講堂に教授をかこ
んで並殺された例が古今東西どこにあった︑だろうかと嘆いた︒
洋服のボタン︑ベルトのバックルなどが散乱する中に︑当時は貴重品で︑新刊書では容易に入手で きないドイツ語の辞書をはじめ各教科のテキストブックが締麗にそのままの場所で灰になっていた︒
遺族の手記の中から
‑ 片 伯 部
勇
医 専 年 生
母
片伯部
/
、
八月六日︑広島原爆投下の翌々日︑角尾学長様があちらを御視察の上帰崎され︑全生徒を集めて広島の
悲惨な有様をお話しになりましたとか︑子供が内に帰
っ て﹁大事な品物は穴を掘
っ て埋めるのが 一 番よい
そうですから︑僕がやります
︒
品物を出して下さいしと申しますので︑私は﹁よしなさい
︒
死なば諸共で はありませんか﹂と申しましたら︑﹁それでは参考
書
だけ埋めよう﹂といって穴を掘
っ ておりました︒そ
の時鍬で足を怪我しましたらしく︑救急袋から薬など出して手当をしておりました
︒
翌日起きた時に本当
に痛そうにしていましたので︑﹁今日は学校を休んだら﹂と申しますと︑﹁どうせ治療をしなければいけな
いから学校に行くよ﹂と申して︑ 二
階に上
っ て行きました ︒
しばらくして﹁お母さん︑ちょっと見て下さい﹂とい
っ て︑新調して 一
度も手を通した事のない服を着
て角帽をかぶり︑﹁これで学生のようでしょう﹂とニコニコしていました ︒ いつもは戦闘帽に菜葉服︑巻ゲー
トルに地下足袋という出で立ちでしたので︑﹁ 一 体今日どうしたのですか﹂と申しますと︑﹁今日は足が痛
んで作業が出来ないから︑新しい洋服姿をお母さんに見て貰いたかったのです﹂といいながら︑玄関まで 下りて来ました
︒
しかし如何にも痛そうでしたので︑﹁お父さんのステッキをついて行きなさい﹂といっ て出してやりますと︑笑いながら﹁お父さんから支えられて行くようでおかしいや﹂とい
っ て︑こつこつ
と坂を下りて行きました
︒
これが永遠の別離になろうとは︑神ならぬ身の知る由もない事でございました
︒
そ れ か ら 運 命 の 瞬 間
! 矢 張 り 帰 っ て 来 な い
︒
そわそわしているうちに︑夜になってしまいました
︒ 明
日は 一
体何処を探せばよいか︑と考えながらうとうとしていますと︑病臥中の姉娘が︑﹁勇が今帰って来 ましたよ
︒
真黒い手を見せながら湯殿の方へ行きましたよ﹂と申しますので︑急いでその方へ飛んで行
っ
てみましたが︑誰もおりません
︒ ﹁お前は夢を見たのでしょう
Lと申しましたら︑﹁いいえ︑夢ではありま
一 体何ということでございましょうか︑後は皆様の御想像にお任せいたします
︒
せん﹂と申します
︒
池田吉人教授
(1900‑45)それから︑来る日も来る日も︑遺体を求めて歩き廻りましたが︑何一つ見当 りません
︒
仕方なく当時脱いでいった服や︑汗で汚れた帽子などを焼いて︑お
弔いをいたした次第でございます︒(後略)
( 昭
和 必
年
4 月)︿﹃忘れな草﹄第一号より﹀
戦懐すべき他教室の被害 講義のなかった基礎の教室はどうであったろう
︒
解剖学第一教室は︑池田吉人教授(東北帝大卒︑四十四歳)以下︑居合わせた六名の教室員は全員死
亡した
︒教室は跡形もない廃嘘となり︑遺骨も確認できなかった︒ところが︑原爆の爪あとがまだ生々 しいその年の十一月二日︑医科大学関係者の殉難慰霊祭の席に一つの白木の箱が持ちこまれた︒中に は風雨にさらされてほぼ白骨化した頭蓋骨と着衣の
一 片 が 収められていた
︒上顎 が総入歯だったこと とハンカチらしい布片の片すみの
H
ケ ダ
ι
と読みとれる文字などから池田教授の遺骨と特定された︒
遺骨発見時の事情から︑教授は被爆後重傷を負いつつ脱出︑近くの小学校校庭で救助を待って十日 午後まで生存していたことがわかった︒おそらく死期を覚り自力で小学校上の高台にある墓地までた どりつき︑そこで力尽きたと思われる
︒そこから
は自宅がはるかに望見できたのである
︒ しかし︑こ
の時自宅はすでに倒壊して︑夫人︑一児は即死︑十一歳の女児も一週間後に死亡し︑一家は全滅した︒
慰霊祭当日発見された池田教授の遺骨は︑無言のメッセージを参会者に伝えるかのようで︑
一 同
は
解剖学教室の実習
の偶然の符合に粛然となった ︒
教授は︑実験形態学の分野で
は︑わが国有数の学者であった︒
中村定八助教授(長崎医大卒)は郷里で外科医院を開業す るため荷物の発送を終え残務整理中自宅で被爆し︑二永六名 とも全滅した︒その後︑天主堂近くの横穴に同助教授が幼児 をかかえ生米を噛んで口移しに与えながら数日を過ごしてい たとの情報があったが︑消息は絶えた︒同助教授は生来無類 の動物好きで︑ヘピでも猿でもポケットの中や肩にのせて喜 んでいた︒専門分野での研究心・観察力ともに抜群で︑その 将来を嘱望されていた
︒
解剖学第二教室では︑高木純五郎教授(東京帝大卒︑四十九
歳)が教授室︑呂雲龍助教授(長崎医大卒)は研究室︑小野 教授は講堂(前述)でそれぞれ被爆した︒高木教授は教授室 が頑丈なスチール製品で固まれていたためか外傷もなく幸い
脱出した︒グラウンドを横切り︑天主堂の方へ一一追っていった
が︑川辺に着いたところで力尽き救助を待った︒ようやく附
薬理学教室では祖父江勘文教授(東京帝大卒︑四十九歳)が研究室で被 爆︑十六日死亡
︒ 当日出勤の教室員七名も全員死亡した︒
祖父江教授は東京から赴任後わずか三ヵ月であった
︒ 原爆投下の前日︑
八日午後︑所用で東京へ向けて長崎を立つべく駅へ行ったが小倉で貨車 脱線の事故があり︑復旧に手間取るとのことで翌日に延ばしたのが運命
の岐路となった ︒
九日は出発時刻を待って研究室の椅子に横になってい るときに被爆︑落下してきた梁の聞をくぐり抜けて脱出︑二晩裏山に食 事もなく過ごした後︑附属病院救護班に収容された
︒
小児科佐野保教授はただちに自宅に担送させ治 療に全力を尽くした︒十四日︑口中粘膜の腫脹著しく呼吸困難のため︑自ら気管切開を試みるのでナ イフを貸してほしいと佐野夫人に懇願した
︒
急ぎ帰宅した佐野教授も極力慰留し切開は思い止まった が︑病状は悪化の一途をたどり十六日午後永眠した
︒
同教授は
一 高
︑東京帝大医学部︑稲田内科を経て薬理学教室へ進んだ薬理学界切つての俊才で︑が
高木純五郎教授
(1896‑1945)授
日
教 川 内
一
一 政 寸
判 悶巨
Fhu
江 的
︑
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︑ 市
lム
パ ︑ノ
/1¥
且
4イt属医専 三年
の学生香田金朝君に背負われて附属病院裏の丘上にある急造
の救護隊に合流できた ︒
外傷はなかったが全く元気なく︑手を尽くした
が十
一 日
夕方死去
︒
急性原爆症の最も重症型であったと思われる
︒
教授は研究室で即死した︒
ん の 化 学 療 法 の 研 究 に 全 精 力 を 注 い で い た
︒
遺族の手記の中から
‑ 祖 父 江 勘 文
薬
理
み 比千
教 授
妻 祖 父 江 辰 子 (前略)夢中で過して参りました二十年余︑主人が東大薬理学研究室へ疎開させた研究用器械その
他 を
︑ 毎日のように長男と出かけて︑或いはリュックに背負い︑或いは大学側に引取って頂いた事も
︑遠い思い 出のように思われます
︒
その後は毎日の生活に追われて︑手を触れることもなかったあの当時の物を︑今 改めて手にして︑深い感慨に耽っております
︒
催災後︑主人は小児科の佐野保教授の御自宅でお世話になり
︑最後も見とどけて頂いたのですが︑その 佐野様からの御手紙(病状や死亡までの経過を記されたもの)︑死亡三日前に書いた主人自筆の手紙(佐 野様御二永のお手厚いお世話をうけ︑大変よくなっているから︑もうじき東京へ帰れる︑帰りたいという もの)︑長崎医大へ赴任の前日(昭和二十年五月三日)に書き残して行った遺書などでございます︒
それらにまじって宮内大臣からの﹁叙従五位︑祖父江勘文﹂という辞令が︑何と空しく見えます事か
l ︒
三人の子供もそれぞれ巣立った今︑私は私なりに絵を描いてみたり︑俳句の真似事を
してみたり︑或い は野鳥を探ねて山野を歩いたりしておりますが︑すでに主人より十五年余を長生きした事になり︑昭和元 禄の平和な世の中をみるにつけ︑早くこの世を去ったものの憐れさを思わないわけにはいき
ません
︒
主人の好んで使った器械類
︑ライカカメラ︑邦文タイプライター︑電動計算器︑電子顕微鏡︑診察室や 待合室の消毒用に買入れた乳母車大のエア
l
コンプレッサー︑往診用の携帯レントゲン等︑本当に器械類 をいじるのが好きでしたが︑今の時代には極く当り前の物になり︑時代の移り変りを思わずにはいられま
せん
︒生活のためにやった開業
︑その往診のために乗物にも随分と興味を持ち︑
トバイ︑サイドカーから自動車へと進んで参りました︒一応家の目標がついてからは︑中断していた大学 研究室通いが再開されたのですが︑その頃には自動車熱も相当高まり︑買入れた車のボディーを自分の好 みに設計して作り直したり︑車体を塗り換えたり
︑将来はこんな型︑こんな設備の車を作らせたいなど︑
夢のような事を申し︑平和の来るのを
心待ちにしておりましたが︑昨今のような自動車氾濫時代を迎えて︑
思い新たでございます
︒
唯今私の手箱の中には︑かつて主人が研究発表の際使用した実験鼠の腫蕩のスライド数箱と︑長年家計 のもとになった聴診器が︑大事にしまわれております︒
主人と同様東京生れで東京育ちの私
は︑まだ九州へ渡った事がございません
︒
思い起すあの頃︑昭和二 十年八月︑その八日には東京へ向けて長崎を発つ筈の主人から︑便りがばったり絶えて
しまいました 日の広島新型爆弾投下の新聞報道は知りながら︑長崎のを全く知らず︑ずっと経ってから友達に知らされ た時︑どうしてでも主人を探しに行こうと思いながら︑とうとう果せなかったのです︒
明治時代の厳格な箱入育ちも︑近頃ではすっかり一人旅にも慣れましたのに︑まだ九州へは決心がつき かねております
︒
しかし︑両三年中には是非参りたいと存じております︒
ハ
lレ
lダピットソンのオ ( 昭
和 白 年
3 月)︿﹃忘れな草﹄第三号より﹀
保野正之教授 (1907‑45) 園房二三教授
(1901‑45) 大倉玄一教授
(1893‑1945)
病理学第一教室では︑竹内清教授(九州帝大卒)は︑鳴滝の自宅で病
ほ の
気療養中のため難をまぬがれたが︑保野正之附属医専教授(長崎医大卒︑
三十八歳)は体調わるく下宿(物療科主任永井隆助教授宅)で安静中に爆死︑
教室補助の女性二名︑病理の写真技師︑実習標本担当係など四名︑計六
名が死亡した︒
法医学教室の園房二三教授(東京帝大卒︑四十四歳)は︑教室で被爆︑
東側の道路近くまで爆風で吹き飛ばされ︑一夜を近くの防空壕で明かし︑
翌日︑小児科の半地下室に収容された︒高熱︑火傷︑食欲喪失︑頑固な
下痢に悩まされたが︑意識は最後まで明瞭であった
︒
十五日未明︑佐野教授宅で永眠
︒
昭和二十年度の法医学会の宿題報告﹁ABO式血液型の亜型の研究﹂発表もついに果たせぬ無念の最期であった︒三名の教室ス
タッフもすべて死亡した
︒
衛生学教室の大倉玄
一
教授(九州帝大卒︑五十一 歳 )
は教授室︑内田信
久助教授(長崎医大卒)︑福田秀信助教授(長崎医大卒)は研究室で被爆
死亡した
︒
内田助教授は︑原爆投下の直前 ︑講義に向かう学生たちが研究室で一
金子直教授 (1900‑45)
生懸命試験管を見つめている同助教授を目撃していたことがわかってい
る
︒
福田助教授は︑恵まれた体躯の偉丈夫であったが︑遺骨は不明のまま
こ終った
︒
東亜風土病研究所の金子直教授(九州帝大卒︑四十四歳)は︑病理学科
の主任として第
一
︑第二病理と合世帯の形で病理学教室の中に研究室を
設けていた
︒
この日は︑建物疎開で取り除かれた小使室を金比羅山の麓に移築する作業に朝から教室 事務員二名と出かけていた
︒
その作業中に被爆し︑金子教授は大学から救護班を連れてくると言い残
したまま立ち去り消息不明とな
った︒解剖学の園友鼎名誉教授(一八七七
l
一 九
五 七
)は力尽きて水
を求めている同教授に会い︑後刻その姿を探したがついに発見できなかった︒
夫人も死亡した
︒
に作業していた事務の田川甚蔵氏は奇跡的に原爆症から回復し大学へ復職できた
︒
防空壕造りも空しく
附属薬学専門部の歴史は古い︒
明治二十三年(一八九O ) 六月︑第五高等中学校医学部に附設され た薬学科に始まり︑同二十七年︑第五高等学校医学部薬学科︑同三十四年︑長崎医学専門学校薬学科
を経て︑大正十二年(一九二三)四月︑長崎医科大学附属薬学専門部と校名を改めてきた
︒
基礎キャンパスの北側に木造二階建校舎︑実習室︑薬草園(一︑000坪)温室などがあり︑玄関の
入口まで桜並木のトンネルが続いていた︒
被爆時︑在籍学生二
O
一名中︑一年生九二名は市内南部の工場で動員作業︑二年生六
O 名は熊本県
水俣市にやはり動員中であった
︒
三年生
四九名は九月に繰り上げ卒業と決まり︑六月に動員を解除された
︒
しかし︑戦局が加速度的
に悪化したため急︑ぎ大型の防空壕完成にむけて土木作業を強行することになった︒
八月九日朝︑壕掘り作業に集まった三年の学生は二九名だった
︒
そのほか︑二年生九名︑一年生五 名が健康上の理由で学校に残留し図書整理などに従事していた︒当日︑江口虎三郎部長(東京帝大医
学部薬学科卒)以下三名の教授は出張中で︑在校の清木美徳教授(広島文理大卒)︑杉浦孝教授(台北帝
大理学部卒︑三十三歳)が壕掘りを指導した︒壕掘りは中でつるはしゃ鍬をふるって掘進する班と壕外 で土を運ぶ班に分かれ︑時間交代ですすめられた
︒暑 熱の中とあって上半身裸体で作業する学生も多 かった︒杉浦教授は途中で新聞記者の来訪を受け︑薬草園の案内に出掛けた︒
清木教授が壕内で最先頭に立って掘進を進めている時︑まさに至近の 上空で原爆は昨裂した
︒
被害は壕の内外で天国と地獄の差を現出した︒
﹁ や
ら れ た
! ﹂と外か
ら駆けこんでくる学生は頭髪も眉毛も焼け落ち︑
全身の皮ふはヌルリと脱落して血がにじみ︑真黒に焦げた顔からは誰な のか学友にも判じられなかったという︒即死した者も多く︑まさに一瞬 にして地獄絵図が現出された︒緑豊かに繁っていた樟の大木はすべてな
杉浦孝教授
(1912‑45)ぎ倒され︑太陽は塵芥の彼方に黒い車輪のようにかかっていた︒
清木教授らは息のある十数名の瀕死の学生を壕内に横たえ︑熱線のため生じた火災が迫ってくるの を消すため必死に戦った︒ようやく火災が鎮まったのを見て︑大学病院の応急医療班に救いを求めに いったが︑清木教授は五尺の棒材を杖に学生に後を支えられながら︑まるでゴ
l ギャンの絵のように︑
黒い太陽のかかった焦土に落涙しつつ歩いた︒再度の依頼で︑夕刻になって永井助教授以下医師︑看 護婦が救護にかけつけた︒これにより︑医師︑看護婦による応急の注射や包帯︑薬品塗布などの処置
を受けさせることが出来た︒
明けて十日︑生存者はわずか数名になったが︑朝六時頃﹁松本さーん﹂と呼びながら歩いて壕の方 へ来る夫婦があった︒松本登君の下宿の人で︑買物かごに握り飯や果物︑生なすび︑きゅうり︑じゃ がいもを一杯に詰めて駆けつけてくれたのだ︒松本君は生死の境にあり意識は混濁していたが︑下宿
の夫妻に気づいたのか笑顔を見せて感謝の手を握りつつ︑午前十時半﹁お母さん︑お母さん︑万歳!﹂
とかすかに叫んで息絶えた
︒
壕内にいたため奇跡的に元気だった富田恒夫君は前日から必死に被爆学友の看護にあたってきたが 壕外被爆学生の最後の生存者になった岡本省三君は
︑死期の近いのを覚ると︑﹁富田︑どこにいる︒
もう眼がかすんで何も見えない︒青ハ様の顔や姿形がかすかに見えるだけだ︒親父や母に会って死にた
い︒母はきっと俺を探しに来てくれるはずだ︒その時に︑この時計を渡してくれ﹂︒そのまま首が動 かなくなった
︒二 十一歳だった
︒
十五日︑岡本君の母親は下関からたどりつき︑形見の腕時計は悲し
みに沈む母親に渡された︒
一年生五名︑計三七名が死亡した(一
O四 ペ
ー ジ
表 参
照 )
︒ 杉浦教授は︑薬草園の温室の窓を開き手を差し出したとたんに被爆︑窓枠に手をはさまれたまま死 亡した︒薬草圏のレンガ壁の下敷きになっていたため︑レンガがテコでも動かず︑手前の方から土を 掻いて潜りこみやっと遺体の収容が出来た︒
三年生二九名中二三人︑二年生九名︑
山下次郎教授
(1915‑45)山木武俊事務官
(1903‑45)
山下次郎教授(東京帝大医学部薬学科卒︑三十歳)は附属病院に入院中
病室で被爆︑そのまま死亡した︒自宅でも夫人︑一歳の女児ともに死亡
し一家は全滅した︒
猛火の中に消えた叫び
事務職員はどうであったろうか︒
山木武俊事務官(明治大学法学部卒︑四十二歳)は︑医学部本館の事務
官室で被爆した︒その少し前まで法医学の園房教授と自室で話をしてい た︒法医学教室を脱出した園房教授はガラス傷や火傷でままならぬ体を 引きずって本館から正門の間に設けられた壕に退避する時﹁助けてく れ﹂という悲痛な叫び声を聞いた
︒
それは長身の事務官が落下した梁に
身体をはさまれたのか︑事務官室の窓から救いを求める声だった︒しか
し︑自らも重傷の園房教授は眼前の事務官を救助する術もなかった︒やがて本館の各所から火の手が 上り事務官室も燃え出した︒生身のまま火に包まれてゆく事務官の叫び声も建物のパリパリ焼ける音 の中に消えていった︒山木事務官は昭和二年明治大を卒えると同時に文部省官房会計課に入省した練
達の事務官であった︒
大学本部︑基礎棟の建物は再々述べたように︑ごく一部を除いてすべて木造であった︒原爆昨裂で は︑近距離木造の建物はマッチ箱をつぶすに等しく︑各部屋の窓ガラスは粉みじんに飛び散り︑梁は メリメリと音を立てて頭上に覆いかぶさった
︒
机︑椅子も木っ端みじん︑書類は木の葉のように舞い
上がった ︒
人々は必死になって脱出しようとしたが︑数時間内にありとあらゆるものは焼き尽くされ︑
無事脱出したものもつぎつぎに倒れ︑山木事務官以下
一 四七名(男子七
O名︑女子七七名)
の尊い生命
が失われた︒
以上が医大本部︑基礎キャンパスの原爆被害の概況である(一
O
四 ・
一
O