疑問文におけるモ ノダの機能
案 野 香 子
【要 旨】
本稿では、いわゆる形式名詞モノを含む疑問文が、いかなる構文的特徴をもち、更にモ ノが存在することによって話 し手の主観をどのように言表す るのかを考察 した。まず、疑 間文における名詞のモノは具体物の上位概念を表す ことを確認 した。次に、<本性><当
為><解説><回想><感慨>それぞれを表すモノダ文が疑問文 としても成立 し得 るかど
うかを検討 した。その結果、平叙文において<本性>を表すモノダ文は判断の成否を問う 疑問文 とな り得るが、その他のモノダ文は、判断内容が話 し手にとって既定のものでなけ ればならないため、疑間文 としては成立 しにくいことが明らかになった。最後に、ヨウダ、
ミタイダ、 ソウダ (様態)にモノが後接 した疑間文は、一般的にヨウナモノデハナイカと いった否定疑問形式 として述べ られることが多 く、話 し手の対象に対する批判的態度を表 わす傾向があることも述べた。
【キーワー ド】 疑間文、 モノダ文、 ヨウダ、 否定疑間、 批判的態度
1. は じめに
形式名詞 モ ノに断定のダが下接 した助動詞的単位 と してのモノダ、あるいはモノダが述 語の一部 に含 まれ る文 (以下モノダ文)については、従来数多 くの研究がなされてい る。
例えば寺村 (1981)では、助動詞化 したモノダの用法を大 きく次の五つの類型 に分け る (pp.114〜116)。 ①ある実体・ または個別的な概念について、その本性・習性を述べ る、②ある物事について「か くあるべ し」 という話 し手の主張、つまり理想・当為・期待 を述べる、③ある事件・事態の因由・背景の説明、④ある事態に強 く印象を受け、感心 し た場合の表現、⑤過去のことを思い出 してなつか しむ感 じを表す。ただ し、例えば① と② のように相互の用法が連続 していると解釈できる場合 もあ り、必ず しも文中のモノダは上 の①〜⑤のいずれか一つに厳密に分類 され るとは言えない。 この点については後に改めて 述べる。
その他、先行研究 としては、 コ トダ、モノダ等の形式について、当該の事態が望ま しい 事態であるとの判断を表わす価値判断のモダ リテ ィを表現す るとした益岡 (1991)や、 文末のモノダを通 してモノに共通の意味は「一般性」であると指摘 した坪根 (1994)な ど多数ある。
また、筆者はこれまで、各 々の文において、モノの前後に現れる形式の概念とモノその ものの概念の有機的結合等によって、モノダ文で表 され る話 し手の物事の捉え方が異なっ て くるということを考察 してきた (案野1996)。 つまり、述語内にモノダが附加 され るこ とによって、話 し手の客体的事態に対する何 らかの主観的態度が表わされることは事実で あるが、 しか し、そのことは、モノダという形式そのものがある一定のモダリティを担う
とい う断言にはつなが らない。語の相互承接 とい った言語形式や文脈・場面 などの話 し手 と聞 き手 との関係 など個 々の条件 が融合す ることによって、客体的事態に対す る話 し手の 主観 を表現す ると考 え られ る。
さて、文中のモ ノダの機能 を巡 る従来の研究 において対象 とされ る文は、平叙文で且つ 比較的分析 しやすい典型的な形式が多 く、モノの前後 に助動詞や助詞のヨウダ、 ラシイ、
ダロウ、 力などが接続 したいわば周辺的な形式や、否定表現、疑問表現、感嘆表現 とい っ た表現類型 という観点か らモ ノの構文的機能や表現的機能 を考察す る研究 はあま りなか っ たように思われ る。
そ こで、今回は特 に、助動詞的単位 とな ったモ ノダを含む疑問文 を考察の対象 と して取 り上げてみたい と思 う。そ して、 当該疑間文がいかなる構文的特徴 をもち、更にモ ノが存 在す ることによって話 し手の主観 をどのように言表す るかを考察 したい。 もちろん、 この 疑問文 には例 えば「 モノダロウカ」「モ ノデ スカ」等、形式 にバ ラエテ ィがあるが、本稿 では便宜的 に述語 にモノを含む疑間の文をまとめて「モ ノカ文」 と呼ぶ こととす る。
しか し、 モノを含む疑問表現形式 とい って も、そのすべてが話 し手の判断放棄を表 した り、聞 き手 に情報提供 を求め ることを表すわけではない。形式的に共起で きる助動詞 に制 約が生 じる場合 もある し、疑問表現か らむ しろ反語あるいは感慨表現 に移行 した と考 え ら れ るモ ノカ文 もある。 また、例えば手段・方法 を案 じる「どう した ものか」等モ ノカ文 に 特有の形式 もある。
しか し残念なが ら、本稿では、紙幅の都合 もあ りそのすべてを考察 し述べ ることはでき ない。 そ こで、モノカ文の体系を巡 る考察の第一歩 と して、今回は、特 に名詞性の強いモ ノ+力、寺村 (1981)が指摘 した①〜⑤ の用法 を もつモ ノダ文 と疑 問表現 との関係、モ ノダ文 と助動詞 (ヨウダ、 ラシイ、 ソウダ)との共起関係 に焦点をあて、言語形式面 での 特徴や、話 し手の主観の現われ方 を考察 していきたい と思 う。
2.疑 問文成立の条件
疑間文 とい って も、そ こでは疑いの対象や性質、話 し手の聞 き手 に対す る態度が常 に一 様 に言表 されてい るわけではない。 同 じく、モノカとい う同一の文末形式であ って も、そ の疑間文の タイプは一様ではない。そ こで、本論 に入 る前 に、疑問文 に関す る先行研究 を もとに、モ ノカ文 を考察す るにあた っての本稿 の考察の観点 を明 らかに しておきたい。
疑問文お よび疑 問表現 を詳 しく扱 った先行研究 の うち、 ここでは仁 田 (1991)、 中右 (1994)、 安達 (1999)を参考 に考 えてみ る。
まず、仁 田 (1991)は、疑問表現 を「<疑い>と <問いかけ>を有 してい る本来 の疑 問表現」 と「話 し手が聞 き手 に自らの要求の実現 を働 きかけ・訴える、 とい った<働きか け>に移行・ 派生 した疑 問表現」 に分け る (p.136)。 ここで「本来 の疑問表現」 が有す る<疑い>とい うのは、「話 し手 に不 明な点 があ って、判断の成立 を断ず ることがで きな い、 という特性」(p.137)であ り(1)、 一方、<問いかけ>というのは、「聞 き手 に情報 を 求め る、 とい う文の帯び る伝達・ 通達的 なあ り方」であ る(2)。 言い換 えれ ば、問いかけ るとい うことは、そのために不明な箇所 を有 していなければな らず、その不 明な箇所が言 表事態 (命題)の中にあるか、或いは判断 を構成す る要素 にあるか、判断の成立その もの
が不 明なのかが問題 になる。 しか し、仁 田 (1991)も本来 の疑問表現の下位類型 に位置 付けてい るが、聞 き手を有 さない ことによって問いかけ性が欠落あ るいは希薄化 し、単な る疑いの表 出 (述べ立て)にな ってい る表現 もあ る し(3)、 ̲方、聞 き手 を有 していた と して も、話 し手は不 明な点の補充 を期待 して問いかけ るわけではな く、確認や同意を求め てい るだけの表現 もある(4)。
更に派生すれば、疑問表現の形式 をもちなが ら、話 し手の判断を主張す る、いわゆる「反 語表現」 にもなる。
仁 田 (1991)では、文末形式 と文の機能 に重点 を置いて疑 間表現 に細 か く下位類型 を 設 けた ことは優れているが、例えば、
(1)あんな奴 と一緒 に仕事がで きるか。(仁田p.150)
という文であれば、文末の「力」以外 に、 どのような言語形式上の条件 がそ ろい、更に、
聞 き手 の存在 を含め、 どうい った状況・ 文脈 な どの条件 が揃 った ときに、「<判定要求>
の判断 の問いかけの形式 を取 る反語表現」(p.150)と 解釈 され るのか、 とい つた点 で具 体的 な言及がなされていない ことに物足 りなさを感 じざるを得 ない。 したが って、
(2)あんな奴 と一緒 に仕事ができるものか。
とい った類似表現 については、(1)に「モ ノ」が加わ ることによって、 どうい った表現 上の違いが生 じるのか、 また話 し手 の言表事態の捉え方が どう現れて くるのか、 とい つた 実際の言語現象に関わる具体的な問題 を明 らかに しようと した とき、結局、仁 田の説 明は、
うま く適用で きないのではないか と思われ る。
中右 (1994)は、疑問文の性質 について、「話 し手は通例、命題 内容の真実性 を不明 と した うえで質問す る」(p.37)と述べ る。氏 は文の意味 を命題 内容 とモダ リテ ィの二極 で 捉 えてお り、「質問態度」 とい うのは、非命題的 な もの (中右のSモダ リテ ィに属す る) であるが、 しか しそれは、「文の一定の語順の中に反映 され る」(p.37)ものだ と述べてい
る。日本語の場合、疑問表現であることは文中の語順の変化で表 され るわけではないので、
必ず しも中右の指摘がそのまま日本語 にも適用で きるとはいえないのだが、やは り例 えば 終助詞 力が文末に接続す る、あるいは上昇 イン トネーシ ョンで発話 され るとい った形式的 に有標 であることによって疑問表現であることが明確 になる。従 って 日本語 において も話
し手の質問態度 (モダ リテ ィ)は言語形式 に反映 され るとい うことが言える。
安達太郎 (1999)は疑 問文 を「何 らかの情報 が話 し手 に欠けてい ることを聞 き手 に伝 えて、それ を補 うことを要請す る手段」(p.47)と す る。その中で、安達 も特 に「ある意 味概念 はあ くまで、何 らかのかたちで文法形式や文法現象に反映 され ることによって取 り 出され なければな らない」(pp。9‐10)こ とを強調 してい る。
以上を見ると、人によって若干の異なりはあるが、疑問文 とは大きく、①話 し手にとっ て何 らかの不明な点がある、②不明な点を補うことを聞き手に要請する、 という話 し手の 態度を表わす言語表現であることが言える。ただ し、①の話 し手にとっての不明な点 とい うのは、命題内の要素、判断の成立そのもの、あるいは、聞き手の心的状態などさまざま である。また、話 し手にとって、明らかに当該の情報が欠けている場合もあれば、逆に話 し手にとって実は事態の肯否の見込みが既にできている場合 もある。そ して、 日の前の間 き手に対 して不明点を補 うための知識や情報を求めて要請する (問いかける)場合 もある
一方で、聞 き手に働 きかけてはいるけれ ども、話 し手の主張に対する同意を求めるだけで あ った り、あるいは、話 し手 自身に不明な点があることを単に述べ立てているだけである 場合 もある。 自問 自答 という場合があるように、聞き手 という人物が実際場面 において話
し手 に対峙す る形 で存在す るとも限 らない。
そ こで、 モノを含む疑問文 を考察す るにあた って、本稿 においては次の点を考察の対象 とす る。
[言語形式副
a.題目の有無、およびモノに前接 あるいは後接する言語形式。
b。 平叙文 のモノダ文の疑問形式 なのか、あるいはモ ノカ文特有の疑間表現であるか。
[意味面]
c.話 し手 にとって不明な点があ るか。
d.不明な点 (疑いの対象)がどこにあるか。
e.問いかけの性質。誰 に問いかけているか、不明な″点を補 うことの要請 を 目的 と して いるのか。
f。 モノが疑問表現 に使用 され る場合 と使用 されない場合の意味の違い。
3.名 詞モ ノ+カ
本章で扱 うモノは必ず しも本稿 の考察対象である述語中のモノとは限 らない。 しか し次 章以降で実質概念の極めて抽象化 したモノの用法 を検討す る前に、 まずは本来の名詞 とし てのモ ノが疑問形式の中に如何なる形で現れ るかを整理 しておきたい。
まず、文型で大 きく分類すると次の①〜③にまとめることができる。Xは名詞または名 詞旬、Yはモノに係る連体修飾句であるが疑間詞を含む場合と含まない場合がある。
① Xノモノカ
② XハYモノカ
③ XガYモノカ { 知 らない、わからない… )
まず、①「xノモノカ」の形 となる例であるが、
(3)雨の降 った後の泥淳の凹凸はジープも通れないほどで、そ して家畜のものか 人間のものか、糞は至るところに落ちている。(日本語)
(4)血液型の鑑別には、ABO式のほかにも、S式、E式、MN式など多数ある ので、それ らを順次試みていけば、千枚通 しに付着 していた血液が小早り││の
ものかどうか、もっと厳密に絞 っていけるわけである。(ゆき)
ここでのモノは文中の「糞」や「血液」の上位概念としての「もの」を表す。上例では
「糞」「血液」の帰属先が不確かであり、それぞれ「家畜のもの」或いは「人間のもの」、
「小早メ││のもの」或いは「それ以外の人物のもの」という二者択一形式またはマルチプル チ ョイス形式になっていると解釈できる(5)。
次に②「Xハ Yモノカ」の形で、モノカに対する題 目が立てられる文である。
(5)山田 私、国で受けるカルチ ャー・ シ ョックょり人間で受けるカルチャー・
シヨックのほうがものすごいと思うんですよね。(略)
小島 た とえばどうい うものですか。(内面)
(6)ではあの現 象 は何 によるものか。「彼」 がや ったのではない とすれ ば「彼」
以外 の誰が、 また、何がそれ をや ったのか。(エデ ィプス)
(5)では「小島」 は「山田」が述べた「人間で受けるカルチ ャー 0シ ョック」を受け、
題 目と し、それ について「 どうい うものです か」 とい う質問 を投 げかけてい ると解釈 で きる。従 って、形式上題 目が省略 されているだけで実際はあるもの として考 える。
次の (7)のようにモ ノの前 に疑間詞が現れ ない例 もある。
(7)それ はB女の肩 のあた りか ら立上 って くるのか、 あるいはその下 に在 るA女
の胸 か ら発す るものか判別 がで きなか ったが、太陽の光 を十分 に吸い込 んだ 牧草の匂いである。(砂の上)
いずれ も、話 し手 にとっての疑いの対象は主題 の属性や原因・背景であると考 えるのが 自然であると思われ る。 ただ し、(5)(6)は疑問詞 を含む「 どうい う」「何 による」 が あ り、「人間で受 けるカルチ ャー 0シ ョック」や「あの現象」の性質や原因が不 明である のに対 して、(7)は話 し手の中に情報が既 にあ り「それ (牧草の匂い)」 が「B女の肩の あた りか ら立上 って くるの」或いは「A女の胸 か ら発す るもの」のいずれ を選択すべ きか が不確 かである、 という違いはある。
次に、③「Xガ Yモノカ」のタイプである。これは全体で後に続 く知的認識作用「知る、
わかる」などの内容を表す埋め込み文になってお り、さらに、Xは文脈中に現れた事物を 表す指示代名詞、指示詞+実質名詞、連体修飾句+実質名詞のように、文脈において具体 的に限定されたものの場合と、一般名詞である場合がある。例 (7)の「Xハ Yモノカ」
も後接の「判別」の対象を表す埋め込み文であ り、その意味で③の分類に含めることもで きる。
次の例は、モノの前が疑問詞ではなく実質概念をもつ連体修飾句である。
(8)そうそう。やっば リバ ックグラウン ドっていうか、書 き始める前に、 自分の 作品を客観的に読む力がついていないと、 自分の書いているものがいいもの か、悪いものか全然わか らないか ら、最初に自分の書いたのが拙い と思えな い限 りは、書き始めないほうがいいの じゃないかと思うけど。(内面)
(9)(10)はモノの前に疑間詞が現れる例である。
(9)そして、そのブラックボックスの中身や原理は本人にさえわからない。使用 することはできるが、それがどういうものかはわからない。(世界)
(10)なに しろ絵がどういうものかもよく知 らない くせに自信だけはたっぷ りだっ たのです。(エデ ィプス)
ここでもモノは「書いているもの (作品)」「ブラックボックスの中身」「絵」の上位概 念としてそれ らを抽象化 している。また、疑間のタイプは先に述べた①②の場合と同様で あり、結局、話 し手にとっての不明点はいずれ も命題内にあるということがいえる。
4.疑問文におけるモノダ
4。 1 モノダ文の分類
名詞モノの概念が形式化 し断定のダを伴い、モノダ全体で助動詞的単位 として文中で用
い られ る場合がある。先にも述べたように、寺村 (1981)では、 このモ ノダの用法 を文 意 によって五つに分類 してい る。本章 において も「Xハ Yモノダ」 に類型化 され るモ ノダ 文 を、話 し手が述べ立てる内容 によって<本来的性質 0傾向 (以下、本性)><当為><
解説><回想><感慨>に大別 し、それぞれが更に疑問文 と して成立 しうるかどうかを考
察す る。本稿 におけ るこの五分類 は基本的 には寺村 (1981)の分類 の仕方 に倣 うもので あるが、しか し、各 々の厳密な捉え方 については多少の相違 はある。例えば、寺村 (1981) では「本性・ 習性 についての 自分の考え」が「ある物事 について『 か くあるべ し』 という 主張 に発展」 した「′らの動 き」 を表 している場合を「理想・ 当為・期待」 として一つの分 類 を設 けているが、実際 に挙 げ られている例 についてなぜ「理想・ 当為・期待」 という心 の動 きを表す と解釈できるのか、明確 な根拠や説明はない。 これは他の分類 についても同 様である。
そ こで本稿では、寺村 (1981)の分類 をさ らに発展 させ、各 々の構文的特徴や話 し手 の発話状況がなるべ く明確 になるように した。
4.2 本来的性質・傾向
ある対象 (主題)の具有す る本来的性質・ 傾向 (話し手がそ う解釈 してい る)を述べ る モ ノダ文「XハYモノダ」が次であ る。主題 となる名詞Xは下 の (11)の「人間」 のよ うに一般的な総称名詞であるという傾向がある。Yは話 し手がそ う判断 したXの属性であ
り、モ ノが附加す ることによってXの具有す る普遍的 な属性 と して扱われ る。
(11)自分だけが不運 で不幸 な ことには誰だ って耐え られぬ。そんな時、人間は 自 分 と同 じほど他人が不幸 になることをひそかに願 うものだ。(愛)
この本来的性質 を述べるモノダ文は、次のように疑問文に転換することができる。
(12)山田理髪店の椅子の上で、刈 り上が った髪の形 を見るまでは、伊木にとって 川村朝子はち ょっと気にかか る程度 の少女 に過 ぎなか った。いや、その程度 だ と思い込 もうと していた。その程度でな くては困る、 と伊木が 自分の心に 言い聞かせていた、 と言 ってもよい。
「少女 に恋す ると、頭の形 まで少年風 に した くなるものかな」
そ うい う声が、 この部屋 のどこかか ら聞 こえて くるような気持 に、伊木は陥 った。(砂の上)
(13)夢とい うのは、誰の夢で も似 た ものだ ろうか。私 はよく熊 に追いかけ られ る 夢を見 るが、三浦 も、 うちにい る三浦 の姪 も熊 の夢をよ く見 るそ うだ。(あ さって)
疑間文 とな って もモノダ文 と同様 に、(12)のように一般的因果関係 を導 く条件節 とも共 起す ることができる。
この<本性>のモノカ文の場合、話 し手が不明だと感 じているのは、ある対象Xに対 し て話 し手が本来的性質だ と解釈 して下 した判断 (Yモノダ)が成立す るかどうかとい うこ とであ る。上の (13)のように、その判断の成否 の疑いを独 り言 として述べ立てること もできる一方で、(12)のように相手 に問いかけることもで きる。
4。 3 当為
いわ ゆる<当為>のモ ノダ文 は次のように、
(14)「 おい倉持 どう したのだ」
一番奥で、工藤祐紀 を相手 に酒 を飲 んでいた徳 島大尉が言 った。
「どうもしません。酒 を飲んでい ます」
「酒 は愉快 に飲む ものだ」
「は っ、愉快 に飲 みます」
倉持見習士官は前 の盃 を一気 に飲 み乾 した。(八甲)
話 し手がある対象の具有す る本来的性質、傾 向を聞 き手 に向 って述べ ることによって、
聞 き手 に行為の実行 を促す ものである。 モ ノの直前の動詞の表わす動作 は行為者の意志 に よって コン トロールで きると話 し手 によって判断 され てい る。例 えば、「男は泣 かない上
2だ」 は「男 とい うのは泣 くのを我慢で きる性質 をもってい る、だか ら泣 くな」 とい う発 話意図をもって話 し手が聞 き手 (この場合、「男」)に働 きかけてい る場合 と、聞き手への 働 きかけを意図 してお らず、ただ単 に「男」の属性を述べ立て るのみ とい う場合がある。
今 ここで<当為>のモノダ文 と呼んでいるのは前者のような相手への働 きかけが言表 され た文である。
さて、上の (14)を次のように言い換えてみ る。
(15)酒は愉快 に飲む ものですか。
これ は「酒 とい うものは一般的 に愉快 に飲む もの とい う性質 を有 してい る」 とい う判断 を下す ことを話 し手が放棄 し、単純 に聞 き手 にyes― noを 問いかけてい ると解釈す ること もで きる し、或いは、「酒 は愉快 に飲む ものですか、そ うではないだ ろう、一人で しんみ り飲むべ きではないか」 のように、話 し手の否定の傾 きを含んだ問いかけ と解釈す ること も可能である。いずれにせ よ、<当為>を表す平叙文 を疑間の形 に しようとす ると、結局 は物事がある本来的性質 を具有す るかどうかを問 う疑問文 となる。
先の「男は泣かない ものだ」 も「男は泣かない ものですか」 とい う疑間文 に変えると、
やは り「男」の属性 を問 う文 と しての解釈 な ら可能である。
そ もそ も (14)のような<当為>のモ ノダ文 は、相手 の行動 を左右す るような働 きか けを含む文であ り、む しろ命令文 に近い性質 をもつ。従 って、その働 きかけの内容 につい ては、話 し手がすでに確信 をもっていることが前提であるため、判断の成立 を話 し手が放 棄 した りす ることは本来の意図 とは矛盾 した行為 にな って しまうと考え られ る。
ただ し、今少 し触れたように、話 し手の否定の傾 きを含んだ問いかけ (反語)形式 によ って話 し手の主張 を述べ、聞 き手 にある行為 を促す ことは可能である。例 えば、
(16)男はめそめそ泣 くものですか。
と、聞 き手 に敢 えて問いかけることで、含み と して「男はめそめそ泣かない ものだ」 とい う<当為>を表す ことはで きる。 これはむ しろ<本性>のモ ノダ文か らのバ リエーシ ョン であ り、同時に<当為>のモ ノダ文 と連続す る点で もあ ると考 えるべ きであろう。
4.4 解説
次 は寺村 (1981)で<解説>を表す と説 明 されてい るモ ノダ文であ る。新聞な どの報
道 記事 に主 に用 い られ る用法 であ り、既 に起 こ った事件 や周知 の事実 とな る状況 を客体化 して示す。
(17)梶山官房長官は同 日午後の記者会見で、公共投資基本計画について「若干の (事業年度 の)ワ│き延ば し、あるいは項 目の見直 しには関心 を持 たな くては いけないのかなという感 じは してい る」と述べ、見直 しの必要性 に言及 した。
見直 しの具体案 と しては、①計画の総額 は変えず、計画期間を延長す ること で、単年度の財政支 出を抑制す る②計画の総額そのものを圧縮する一 などが 政府部 内で浮上 している。
同計画は、二〇〇〇年 までの十年 間に総額四百三十兆 円を投資す るとした 旧計画 を、村 山内閣当時の九四年十月、投資規模 を三百兆円上積み して二〇
〇四年度 までの新 たな十か年計画 と して改定 した もの。(読売新聞97.1.28)
<解説>の「XハYモ ノダ」 において<本性>のモ ノダ文や名詞のモノ+ダと異 なるの は、主題Xは先行状況であ り、Yは先行状況の背景・原因を述べる既定事実であるという 点である。つま り、話 し手の主体的判断を述べ る文ではないのである。 この場合のモノは 述べ られた事実をよ り客体化す る作用があると考 ることはで きるが、主題Xの上位概念 と
して抽象化す る用法 を発揮 しているとは解釈 しに くい(6)。
従 って、
(18)同計画は新たな十か年計画 と して改定 した ものか。
のように、 この部分だけを抜 き出 して疑間文 に変換 してみた場合、「同計画」の属性 を尋 ね る文 と して解釈すればあま り不 自然 さは感 じないが、
(19)??同計画は、二〇〇〇年 までの十年間に総額四百三十兆円を投資す ることに した旧計画 を、村 山内閣当時の九四年十月、投資規模 を三百兆円上積 み して 二〇〇四年度 までの新たな十か年計画 として改定 したものか。
のように、極めて長い個別具体的情報 をモ ノによって客体化 した既定事実を、話 し手が不 明 と扱 うと不 自然 になる。 また、事実をこれ ほど長 く個別具体的に述べていなが ら、話 し 手が聞 き手 にその成立 を問 うのも必然性が感 じられない。そのため、不 自然な文になると 考え られ る。
4.5 回想
次 の例 は<回想>のモノダ文である。「よ く」 などの反復 を表わす副詞、動詞 夕形 と共 起 し、主に過去 に繰 り返 し起 きた出来事 を話 し手がある懐か しさをこめて振 り返 る場合に 用い られ る。
(20)竹井「私 もや っとります よ。中学一年 のときだ。学校のそばの文房具屋で小 刀― 切出 しっていったかな、あれをね (万引 きのジェスチ ュァ)原口
君、君はどうだい」
原 口「や りま したや りま した。おふ くろの財布か ら一 抜 きま してね、闇市 でよ く南京豆買 ったもんです」(冬の運動会)
従 って
(21)??闇市でよ く南京豆 を買 った ものか。
(22)??闇市でよ く南京豆 を買 った ものですか。
のように、疑問文 と して 自分の過去の行為 の成立 に疑いをもつ ことも、あるいは聞 き手 自 身の過去の習慣や出来事 を尋ね ることも不 自然 となる。逆 にいえば、 この<回想>のモノ ダ文が如何 に話 し手 自身の主観や経験 に依存 した表現であるか とい うことがわかる。
話 し手本人の行為でな く、第三者の過去 の反復性行為 を述べ ることもある。
(23)「 いや、変わ った子 ですが、 あれ でなかなか気 の き く娘 さんで してね。忙 し い ときなんか さっさとカウンターの中にはい って来て、手伝 った りして くれ た もんです。彼女 が東京へ行 っちま ったんで、 なんだか この店 も急 にさび し
くな りま した」(海峡)
しか し、 この文 を疑間文 に変換 してみるとやは り不 自然である。
(24)??忙しい ときカウンターの中にはい って来 て、手伝 った りして くれ た もんで すか。
モ ノを用いず、「忙 しい ときカウンターの中 にはい って来て、手伝 った りして くれ ま した か」の ように、第三者の行為 をあ くまで も客観的事実 と して聞 き手 に問 うことは可能 なの だが、そ こにモノを附加 してみ ると、(24)の ように不 自然 な疑問文 になることがわかる。
つま り (20)(23)は話 し手 自身が過去の事実や 自分の経験 をもとに確信 をもってい るこ
と しか表わせないため、それ に敢 えて疑いを抱 くことは難 しいのだ と思われ る。
4.6 感慨
(25)「 お まえの細君 は ヒステ リーを起 こすか知 らないが、俺の細君 の方 は、そん な じゃ じゃ馬ではない。夕方 にな るといつ も門 口に立 って、俺 の帰 るのを出 迎 えていて くれ る」
「ずいぶん暇な女房があるものだな」
「暇 とか、暇でない とかい った問題ではない。愛情の問題だ」(花壇)
は<感慨>のモ ノダ文である。 ある事実 に改めて驚 き、感慨 を覚えた ときの表現である。
この文 は「ずいぶん」等 の程度副詞、「暇な」等 の形容詞 と共起す る。程度副詞 の表わす 程度 とい うのは話 し手が主観的 に捉えた程度であ り、絶対的な尺度 はない。 また形容詞 に よる評価 も、あ くまで も話 し手の物事 に対す る認識 を言表す る。
(25)は相手 の発話 内容 「妻 が夕方 ごとに門 口に立 って夫 を出迎 え ること」 をうけて
「ずいぶん暇な女房がある」 とい う驚 きを言表 した文であ り、話 し手 にとって驚 くこと自 体、そ して驚 きの内容その ものが話 し手 にとって確かな ものでなければな らない。従 って そのまま
(26)*ずいぶん暇 な女房があるものか/ものですか。
の ように、聞 き手 に判定 を委ね ることはで きない。
このように、<感慨>のモ ノダ文 について もそのまま疑問文 に移行 させ ることはで きな い と考え られ る。一方、例 えば、
(27)結婚 とい うものは、それ 自身で こんなに息苦 しい ものなのだろうか。(愛) (28)大学での研究や授業 で疲労 していた り、不愉快 な事件 のあ つた 日などは、 こ
うい ったことが滅入 った気分をいかに爽快 に して くれた ものか。(若き)
の両者 は、それぞれ本来<本性><回想>を表わす文であるが、「 こんなに」「いかに」 な どの程度の副詞お よび副詞相 当語句、「息苦 しい」「爽快 に」 といった形容詞 と共起 し、そ の程度 が不確かであることを述べ る形で逆 に感嘆・感慨 を表現す ることができる。 これ ら の文 は聞き手 を想定 しない心内発話 あるいは独 り言と して用い られ ることも多い。同様に、
(25)の変形 である
(29)そんな暇 な女房があるものか。
も、話 し手 のある種 の感慨や呆れなどを表わす。 ただ しこの場合は、夕方 ごとに門 口で夫 を出迎 えるような「そんな暇 な女房」がい ることに対 して、呆れを含む否定的判断を言表 す るいわゆる反語表現である。
このような話 し手の感慨や否定的判断を言表す るモノカ文、そ して独 り言 として言表 さ れ るモ ノカ文 については、詳 しくは次稿以降で検討 したい。
5。 ヨウダとモ ノの共起関係
5。 1 共起関係 の特徴
疑問文 におけるモ ノと他のいわゆる助動詞 ヨウダ・ ラシイ・ ソウダとの共起関係 にはあ る傾向が見出され る。結論 を先に言 うな らば、モノを含む疑問文の文末形式は下のように 類型化す ることができる。
動 詞 ・ 形 容 詞
{ξ
:,}}モノ
+デハ ナ イ カ
ただ し、厳密に言えば、 この ヨウダは<推量>その ものではな く、多 くは<比況>のヨウ ダ、あ るいは ミタイダである(7)。 ソゥダ も<伝聞>ではな く、動詞連用形接続 のいわ ゆ る<様態>を表す ソウダである。推量の性質の強いラシイ・ ダロウ 0ハ ズダには後接 しな い。 ベシに後接す る例 もないわけではないが、 この場合のモノは名詞的用法であるため、
本章の考察か らは除外す る(8)。
また、モ ノを含む これ らの疑問文の文末形式 は、筆者が収集 した用例の限 りでは、モノ デハナイカとい った否定疑間文の形 をとるものがほとんどであった。 この否定疑間文 とい う形式か ら言えることは、話 し手がある事態 (命題 内要素)に対 して全 く知識や情報が欠 落 してお り、且つ聞 き手 に不足点の補充 を要請す るとい った疑間表現ではな く、話 し手に とってある程度 の肯定の判断への傾 きが生 じてい る状況であるということである。(安達 1999)。
そ こで、本章では、上記の ヨウダ、 ミタイダなどの助動詞的単位 と否定疑問形式、そ し てモノとの共起関係か ら、モノカ文の性質 を考察す ることとする。
5.2 ヨウダ・ ラシイとモ ノ
では、なぜモノはヨウダに後接で き、<推量>のラシイや<伝聞>のソウダに後接で き ないのだろうか。そ こで、疑問文 になる前の、平叙文におけるヨウダ、 ラシイとモノにつ いて見てみたい。
(30)五日間の豪雪 で雪は深度 を異常 に増 していた。 もと来た道の三 の尾根 を引返
す ことは雪崩 の墓場へ突進 してい くような ものだ った。 だが稜線へ向 っての 前進 も決 して楽ではなか った。(アイガー)
(31)今年 の レコー ド大賞 の新人賞 は もうタノキ ンの トシち ゃん とかに決 まった よ うな ものだ、 とい うような記事 を週刊誌 な どで 日に し、
「漫才師に賞を取 られたん じゃ、本業の歌手 は顔色な しだわね」
などとい っていたのだ。(女の)
上の例 (30)は、豪雪 の中を もと来 た道 を引返す ことを「雪崩 の墓場 へ突進 してい く」
とい う事態 と結びつけ、すなわち「死」 を意味す ることを示す、いわゆる比喩である。
例 (31)は、(30)のような比喩ではない。今年の レコー ド大賞の新人賞 は、誰が取 る かは決 まったわけではないが、実際の状況か ら判断 して、「 タノキ ンの トシち ゃん」 の受 賞が真実 に極めて近い状態であろうとい う確信 に近い予測 を述べてい る。(31)は
(32)今年 の レコー ド大賞 の新人賞 は もうタノキ ンの トシちゃん とかに決 まった上 三コL」里ユ。
のように、 モノを省 くと、推量 の意味 にな って しまい、(31)の文意 とは異 なった もの と なる。(32)は、
(33)今年 の レコー ド大賞 の新人賞 は もうタノキ ンの トシちゃん とかに決 まった二 しい。
(34)今年 の レコー ド大賞 の新人賞 は もうタノキ ンの トシち ゃん とかに決 まったえ うだ。
のように、 ラシイ、 ソウダという類義表現形式で言い換 えることがで きる。 しか しいずれ にせ よ、(32)(33)(34)の文意 を保 ちなが ら、モノを附加 させ ることはで きない。(32) は、例 えば、 レコー ド大賞の選考過程の状況や関係者の証言 とい った、 自らが見聞 き し体 験 した客観的な事態 (根拠)に基づいて話 し手 が推量 し、「新人賞 はもうタノキ ンの トシ ちゃん に決 まった」 とい う次 の事態 を引 き出 した ものである。(33)のラシイは「他者 の 事態認識 を伝 え聞いて述べ るような場合」(野林1999 p.65)であ り、(34)のソウダは
「何 らかの事態認識 を述べ るのではな く、単 に伝 言を伝 えるような場 合」(同 p.65)で
ある。つ ま り、ヨウダが用い られ るのは、事態 を話 し手 自身が認識 した こと、とい う意識・
態度で述べ る時であ り、 ラシイは 自分にとって直接認識外、 ソウダは加 えて他者か らの伝 え聞 きであ るとい う態度 で述べ るときであ る。 よって、 この (32)の話 し手 が捉 えた事 態 に対す る判断は、真実 と合致す るとはいえない まで も、話 し手 にとってはかな り真実 に 近い とい う意識があると考え られ る。
つ ま り (33)(34)の例か ら言えることは、他者 による事態認識 をモ ノによって実体化 す ることはで きない、つ ま リモノは附加で きない、 とい うことになる。 しか し、 ヨウダは 客観的根拠 か ら話 し手 によって導かれた事態であ り、それ を話 し手がモノによって客体化 す ることは可能である。その結果、事態の認識 が さらに確信 に近づいた ことが言表 され る。
(30)は、「三 の尾根 を引返す こと」か ら次 は「死」だ とい う事態を導いてい るのだが、
直接言わず にそれ と類似 した状態「雪崩 の墓場へ突進 してい く」 をつ くりあげてい る。推 し量 りとい うよ り、「Xハ Yモノダ」構文で表わ され る一種 の断定であるが、「死」 と「雪 崩 の墓場へ突進 してい く」 を結びつけるのは、話 し手 自身の「死」 のイメージの捉 え方 に
よるものである。
<推量>のヨウダと<比況>のヨウダの関係 はもう少 し深い研究が必要か と思われ るが、
やは り、ある事態Aから次の事態Bを真実 に近 い もの と して話 し手 自身の認識 で導 き出す 点 においては共通 し、連続 してい ると考 えて もいいのではないだろうか。(32)の<推量
>のヨウダは、話 し手が見た り聞いた りした事態Aを根拠 に (根拠 は複数 で も可)、 次 の 事態Bを真実か どうかは確信 はないが、真実 に近い もの と して導 き出す。(30)も ある事 態Aを見聞 き し、実体験す ることで、事態・状態Bを導 き出す。 あ くまで も話 し手の認識 による結果である。 ただ、(30)はそれがそのまま言表 され るのではな く、別 の事態・状 態Cに置 き換 え られ、表現 され る。そのため、修辞的 には誇張効果が加わ ることもある。
ただ し、事態Aから感 じ取 ったBが客観的 に真実であるとは限 らない上、 もちろん、実際 に言表 されたCがAから客観的 に真 と認め られ るもので もない。
5.3 ヨウダと否定疑問形式
以上が、平叙文 としての ヨウダ+モノの文の考察であ った。次 に話 を本題 にもど し、疑 間表現 について考察す る。先ほども述べたように、 ヨウダ、 ミタイダを含むモ ノカ文 は、
管見ではいずれ も否定疑間の形 をとる。典型的なのは、次のような例である。
(35)さすが にぼ くも、た じろがぎるを得 なか った。 これではまるで、猿 にむか っ て、猿芝居 をご披露 していたような ものではないか。(人間)
(36)「 あた したち もこの人生 では、人生 の意味 とい う犯人 を見つけ る探偵 みたい な もん じゃないか しら。最後 の章をめ くるまでわか りっこないんだわ」(愛)
(35)(36)は あ る事態 を異 な る事態で例 え る<比況>のヨウダ、 ミタイダにモ ノデハ ナイカが加わ った例 である。(35)は聞 き手の存在 を想定 しない心内発話である。
(37)「 しか し、なんだい、あのへんて こな文章 は !幼 稚 とい うか、滑稽 というか、
てんで もう、 な っち ゃいないね。第一、品性 とい うものがな さす ぎる。文 は 人 な りってい うが、君がいかに信用すべか らぎる人物 かを、そ っくりさらけ 出 して しまったようなもの じゃないか」(人間)
(37)は先の例 (31)のヨウダの用法 に相 当す ると思われ る。「あのへんて こな文章」
というのがあま りにもひ どいのだが、だか らとい って「君がいかに信用すべか らぎる人物 かをさらけ出 して しまった」のは、実際 に客観的な真実ではない ことは話 し手 自身 もよ く 知 っている。あたか もそ うである、 まさにそれ に近い状態であることを述べてい るのであ
る。
(35)(36)(37)は、いずれ も否定疑問文の形 をとることの説明がつ くと思われ る。例 えば、
(38)??さすがにぼ くもた じろがぎるを得 なか った。 これではまるで、猿 にむか っ て、猿芝居 をご披露 してい るようなものか/ものですか。
(39)??文は人な りってい うが、君がいかに信用すべか らぎる人物かを、そ っくり さらけ出 して しまったようなものか/ものですか。
のように、そのまま疑いの表 出、或いは聞 き手 に対 して何 らかの問いかけをす る疑間文 に す ると不 自然な文 になる。 これ は次のように考え られ るであろう。先 にも述べたように、
〜 ヨウダは話 し手がある事態Aを自ら体験 し、次の事態Bを引 き出 して成立す る文である。
従 って話 し手 自身が判断の成立 に疑間を抱 くとい うのは この場合の ヨウダの用法 とは矛盾 す ることになる。 も し、否定疑問文ではない無標 の疑問表現が成立す ると して も、
(40)中国の油 条 とい うのは、た とえば 日本の揚げバ ンのような ものですか。
のように、未知の ものを類似の ものに置 き換 え、その ことがそれが正 しいのか どうかを客 観的 に聞き手 に尋ね る場合な ら可能である。つ ま り、 ヨウダが<例示>を表 し、 しか もモ
ノが実質概念をもつ名詞であると解釈 され る場合である。
一方で、話 し手 自身が既 に実感 と して下 した判断の成否 を相手 に問うことはで きに くい。
断定 とまではいかないが、話 し手の 自分の主張の確か らしさを聞き手 に確認 した り、同意 を求め るという態度 において、否定疑問文 と して言表 され るのであると考 え られ る。
5。 4 否定疑問文 と話 し手の態度 否定疑間文 については安達 (1999)で、
ある命題 についていかなる判断への「傾 き」 も持 っていない中立的な状況では、話 し手 は無標 の肯定疑間文 を使 うのが普通 であるが、ある肯定の判断への「傾 き」が 生 じている状況では有標の否定疑問文を使 うと考 え られ る。(p.48)
と述べ られているが、ただ、その傾 きを話 し手が どのような態度で述べ るかは、場合によ って異 なる。例 えば、
(41)これ直 ンないかな。(安達1999 p.50)
(42)藤井商店の事件が、 自分にも波及 しや しないか、(同 p.51)
(41)は話 し手がその命題の実現を望む場合であ り、(42)はその命題 の実現を望 まない 場合に発せ られ る。
その他、 しば しば聞き手 に行為の実行 を求め る働 きかけの文 として機能す る場合 もある (同 p.51)。 こうい った有標性の発現 として否定疑問文が選択 され るというのである(安 達1999)。
そ こでヨウナモノデハナイカ、 ミタイナモノデハナイカが、否定疑問文 と してどのよう な場面 で用い られ るのかをい くつかの例 を挙げて見てみ ることにす る。
(43)おそ らく、 あなたの今の状態 はその ような ものではないで しょうか。(恋愛 論)
(35)これではまるで、猿 にむか って、猿芝居 をご披露 していたような ものではな いか。
(43)は、丁寧体 を使 ってい ることか らも明 らかなように、聞 き手の存在が前提 にな っ てい る。(35)は自分 自身の行為 について、「猿 にむけた猿芝居」 とい うある種 の評価 を 下 してお り、話 し手の心 内語あるいは独話であると解釈 して もよいであろう。前節の(37)
も相手が発話を受けて反応 してい ることか らも聞 き手 に向けた発話であると解釈で きる。
(44)山田 インテ リじゃないよ、 インテ リの家か ら作家が生れ ると思 う? 玩具 よ りはまあいいだろうみたいな感 じじゃないかな。
佐伯 ああ、なるほどね。
山田 テ レビ観 るような もの じゃない?
佐伯 そ うだね。親 にな った ときって、子供 と一緒 にもう一度やれ るって こ とはあるよね。 自分がやれ なか った ことを。(内面)
「山田」はその前の 自分の発話 を受けて、本 を読む ことが親子 にとってはテ レビを見 るよ うな、気軽 な娯楽 に等 しい ものであ った ことを述べ る。「佐伯」の「そ うだね」以降の反 応 と、山田の「テ レビ観 るような もの じゃない?」 は上昇 イン トネーシ ョンで述べ られて いることか ら、聞き手の存在 を前提 と してはい るが、不明点 を解消す るというよりも自分 の評価 に対す る相手 の同意 を求め るような形 にな ってい る。(43)(37)は 下降 イン トネ ーシ ョンで発話 され るが、相手 に同意を求めようとす る点は同様である。
ところで、 ヨウナモノデハナイカを用いる例 をあげてい くと、そのほとん どが、話 し手 が事態を批判 0非難 した り、蔑視 の気持 ちを抱いていた り或いは軽い ものと して捉えてい るときの表現であ ることがわかる。(35)と (37)はまさにそ うである。(43)も この文 だけではわか らないが、実は (43)が発話 されたのは、「彼 は教養があ り難 しい話 もで き る人なのに、私 は無知で時 々落 ち込んで しまう」 とい う悩みをうちあけた相手の女性 に対 し、話 し手が
(44)自分の「教養のなさ」 に気づいていなが ら、 なぜ、あなたは教養 をつけよう と努力 しないので しょうか。問題 は、要す るにそ こだ と思います よ。 自分は デブだ と気づ き、それ を恥 じなが らも、 ケーキを食べ ま くるの と、それ は同
じ行為です。(恋愛論)
か ら始 まるア ドバ イスを してい る場面であ り、(43)はそれ に続 く文である。つ ま り、丁 寧体 を使 ってはいるものの、相手 に対す るやや批判的な態度が見 られ る。
(45)結婚以来、十四年、女房 をな ぐったのはわずかに三回、四・七年間にた った の一回 とい う割です よ。 日本人の平均 は、二年 に‑0四回 ってい うんだか ら ね、 まるでお手本みたいなもの じゃないですか。(人間)
(45)は、 自分が「徹底 した暴力否定主義者」であ ることを強調す る発話であ り、 自画 自賛 とも受け取れ るが、 ち ょっと した 自嘲 にも似た皮 肉が こめ られているようにも解釈で きる。
このように、<比況>のヨウダにモノが加わ ることによって話 し手の批判的捉え方や軽 視 の姿勢が表 され るのは、ある対象を存在物である「物」 にlleえ ることに原因があるので
はなかろうか。例 えば、話 し手が高評価の意図で述べた (46)白雪姫の頬 は赤 く、 リンゴのようだ。
にヨウナモノダを附加す ると、
(47)??白雪姫の頬 は赤 く、 リンゴのようなものだ。
(48)??白雪姫の頬 は赤 く、 リンゴのようなものではないか。
の ように当初 の褒 め るとい う態度 は言表 され な くな り、受 け入れ に くい文 となる。特 に (48)はむ しろ軽視 を表す助詞 ナンテやナ ドを共起 させて「 白雪姫 の頬 なんて」 と した ほうが、文法的には座 りがよ くなるようにも感 じられ る。
モノが形式化 した後 も、その本来具有す る概念が根底 に残 っていると考えるならば、対 象を「物」 と して喩えること自体、その対象を低めることはあ って も高める効果はほとん
どないのではないか と思われ る。