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反懐疑論の戦略

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(1)

反 懐 疑 論 の 戦 略

―スピノザ研究(1)一

The Strategy of Anti‐ ScepticiⅧ A Study of Spinoza(1)一

Kiyoshi lsHII

(昭60年 10月11日 受理)

Abstract

ln the seventeenth century,the scepticism which emphasized the limitation Of OuF faculty of knowledge and the unceFtainty of truth was predominant.And this typ9 0f宙

ew

was suppoFted by the CathOuc conservatism,for■ was sceptical of the Refo..1lation which denied the authority of the Catholic Church and persisted ih its own certainty.

Against this tendency, ]Descartes discovered the only absolutely certain truth, the cogito.So he regarded himself the first conqueror Of the scepticiSnl. But he waS alSo a sceptic on his theoretical basis,since he presupposed that we have the free will to be able to suspend judttent on any questiOn,that is to say,to doubt everything.

The anti‐scepticism in the true sense of the word was presented by SpinOza,but it was quite different fFOm the dO帥 atic selfⅢconfidence of some Protestant thinkers.His main theses were as follows. Our ideas are nOt lifeless ObieCtS Which must be evaluated by criteria which themselves require justificationo We are forced intO affirmation by truth itself.Truth is a standard of itself and of falsityo ln other words,every our knowledge is produced by the obiect市 e prOcess independent of our will,so we carlnot but accept such product.In this way,Spinoza refuted the scepticism which is founded on the free will.

  あ る往 復 書 簡

1675年 のある日,すでにその短い生涯の最期 を2年後にひかえたスピノザは,かつて‐自らの 弟子の一人であったアルベル ト・ ブルフから思いがけない書簡を受け取った。イタリア旅行中 にカ トリックに入信 した彼は,ローマ教会の闘士 として,なんと師スピノザを「不信心者Jと 罵倒 し,その「不条理な」哲学を捨て彼 と信仰 を同じくするようにと激 しい調1子で迫ってきた のである。 しかしその意図には笑 うべきものがあるとはいえ

,書

簡の中には単なる狂信の産物

と言ってすますことのできないい くつかの重要な論点が含 まれていた。

ブルフは言う。 ヨーロッパやインドや地球上の至るところには新旧様々な哲学があ り,そ

(2)

ぞれが同等の権利 をもって自らの正 しさを主張 している。 にもかかわ らずあなたは自分の哲学 のみが真の哲学である と自負 し,それに矛盾するもの

,例

えばカ トリック教徒たちの聖書解釈 を誤 りであると断 じる。いったいあなたは「あなたの哲学が世界でかつて説かれた,現に説か れている,あるいは今後説かれるであろうあ らゆるものの うちで最上の ものであることをどの ようにして知 られるのですか。」また「た とえあなたが真の原理の上 にたち,いっさいをその上

に築かれた として も,あなたは世界 の中にあるもの

,起

こった もの,あるいは起 こっているも ののすべてをその原理で説明することはで きない」 はずであるのに

,何

故 にキ リス トやその使 徒たちおよびその他 の聖人たちによって行われてきた数々の奇蹟 をか くも明確 に否定す ること がで きるのですか。要す るになぜ あなたにはそれほ どまでに尊大であるのか。長い歴史 を持つ キ リス ト教会 に属 して きた多 くのす ぐれた人々 をあわせたよ りもあなたひ とりの方が聡明であ るといえる根拠 はいつたい どこにあるのか。む しろあなたの哲学 な どより,カ トリックの信仰 が綿々たる伝統 を守 って今 日に至 っているとい う事実の重みの方がはるかに信頼 に値す るもの であ り,それに対 して もっと謙虚 にな り

,我

々の信仰 を受け入れ ることこそあなたの とるべ き 道 なのではないか。 ブル フの説得 は以上 のような筋道 で展開 され るソ注 目しなけれ ばな らない のは

,奇

妙 な ことだが,こ こには積極的な意味でのカ トリック的信仰の弁護論が見出されない とい うことである。逆 に彼 の議論の中核 にあるのは我々の認識 はすべて相対的で不確実である とい う懐疑論であ り,に もかかわ らず 自分 こそが真の認識 を有すると主張する人間の不遜 さの 告発である。我々は人間が何一つ確実な ものを持たぬ寄 る辺 なき存在であるとい う事実 をはっ きりと確認することか ら出発 しなければな らない。 この ような存在 にとって確 固 とした組織 と 伝統 によって支 えられた信仰以外 に何か頼 りうるものがあるだろうか。ブルフは こう問いかけ

るのである。

この問いか けは決 して荒唐無稽な ものではない。 カ トリック的信仰が唯一の救 いの道である か否かはともか く

,少

な くとも彼の懐疑論 に対 しては真正面か ら答 えてお く必要がある。ス ピ ノザ もまさにそのように考 えた。 しか もそれは彼 に とっては単 に哲学的問題の一つに答 えると い う以上の ことを意味 した。ブルフの中に典型的 に見 られ る懐疑論 とそれに基づ く弁神論 こそ,

彼がその全生涯 をかけて闘 って きた当の ものだったのである。彼 は渾身の力 を こめて反論 の筆 をとる。いつ もの通 り抑制 された文体ではあるが,その内容 は断固たるものである。カ トリッ クには伝統があ り,すぐれた人々が属 している。確かにそれはその通 りであろう。 ローマ教会 の司祭たちの非行 を数 え立てるような悪趣味 は私 にはない。 しか し伝統 ある教団はカ トリック 教会だ けではない。 またす ぐれた人々はカ トリックにだ け属 しているわけではない。彼 はまず カ トリック的信仰 に特権的地位 を与 えようとするブルフの議論 を軽 く一蹴する。だが先 に挙 げ たあなたの哲学が最上の ものであるのをいかにして知 るのか とい う懐疑論的問いに対 しては, 明 らか にこれ とは異 つた調子で,わざわざこの問いを自らの書簡の中に言葉通 りに引用 し,き わめて凝縮 された簡潔な表現 を使 つてではあるが彼 の全哲学の真髄 をぶつけることによって答 えている。「それで もあなたはなお理性 を用いて論 をすすめようとしているかに見 えます。そし て私に尋ねています。《あなたの哲学が世界でかつて説かれた,現に説かれている,あるいは今 後説かれるであろうあらゆるもののうちで最上のものであることをどのようにして知 られるの ですか》 と。 これはむしろ私からあなたに返上 したいお尋ねです。私は最上の哲学 (optima philosophia)を発見 した と自負しているのではありません。しかし私は真の哲学(vera philoso‐

phia)を理解 していることを知っています。どうしてそれを知っているかとお尋ねなら,あ なた

(3)

反懐疑論 の戦略 ― ス ピノザ研究(1)一

が三角形の二つの角は二直角に等 しい ことを知 っているの と

同 じ仕方で知 っているとお答 えす るで しょう。 そして この答で十分な ことは

,健

全 な頭悩の所有者 な ら,また一見真 に見 えて実 は偽である諸々の観念 を我々に吹 きこむ不純 な霊の存在 な どを夢想することのない人な ら

,誰

で も否定 しないで しょう。実に真理 は真理 自身 と虚偽 とを顕わす ものだか らです。」②

この回答 は述べ るべ きことのすべてを述べた全 く完壁 な ものである。 しか し同時 にその外見 においては非常 に独断的な印象 を与 えることもまた確かである。私 は真の哲学 を理解 している, それ は明 らかである

,真

理 は真理 自身 と虚偽 とを顕わす ものなのだか らとはなん とい う尊大 さ であろうかここには自らもまた誤 りうるとい うことに対する一片の謙虚 さもないではないか とブル フな らず とも言 ってみた くなるか もしれない。結局 はカ トリック的信仰 に行 きつ くとは いえ

,ブ

ル フの立論の うちには人間の認識の限界 を強調│する懐疑論特有の寛容 さとで もいった ものが見 られるのに対 して

,反

懐疑論者 ス ピノザはあたか も真理の独裁者 としてふるまお うと しているかの ようである。我々がス ピノザのテキス トを読む時 に一種の違和感 をおぼえるの も,

このような非妥協的な反

ll■

疑論 の姿勢 によるところが大 きい ように思われ る。だが スピノザの 反懐疑論 は決 して懐疑論への感情的反発 に基づ く単 なる近視眼的独断論ではない。彼の反懐疑 論 は懐疑論が よつて立つ理論的地盤 その ものの転換 をめざす はるか に遠大な戦略 を持 つている のである。 スピノザによれば

,懐

疑論 はその見せかけの謙虚 さとは反対 に

,人

間 に所与 の観念 を否認 した りあるいはそれに同意 した りすることので きる自由意志 とい う無限の能力 を与 え,

真理 と誤診の起源 をこの意志 に求 める とい うきわめて倣慢 な前提か ら出発 している。 まただか らこそ世界 について一般的に疑 う (つまり同意 もせず

,否

認 もせず

,判

断を保留す る)などと

い うことがで きるのだ。 これに対 してスピノザは次 のような彼 自身の見解 を対置する。我々は 自由意志 を持たない。例 えば三角形 の内角の和 は二直角であると判断せざるをえない。真理や 誤診 は我々の意志 にかかわ らず「生産」 されるのであって,その生産過程 を変革 しない限 り, 我々は強い られた帰結 を受 け入れ る以外 ない

P従

って世界 について一般的に疑 い うるとい うよ

うな懐疑論の主張 は

,我

々の能力の限界 を顧 みない不遜 な主張であるということになる。理論 的地盤 その ものが ぐる りと転換す る。謙虚 は倣慢 にな り

,倣

慢 は謙虚 になる。ス ピノザのブル フヘの回答の真の意味 を十分 に理解す る為 にはこの転換の過程 を詳 しく分析 しなければな ら ない。以下,1.懐疑論 の理論的地盤,2.反懐疑論 の理論的地盤,3.認識 の生産過程

,4.

認識の生産過程の変革の順 に反懐疑論の戦略 を明 らかにしてい こう。

1。 懐 疑 論 の理 論 的 地 盤

ブルフが依拠 している懐疑論 とそれ に基づ く弁神論 は16世紀以降の近代 ヨーロッパ思想史 において きわめて重要な役割 を果た した。 この点 について最 もあざやかな見取図 を与 えている ポプキンの研究0に よれば,それは何 よ りもまず宗教改革の運動の中で問われた聖書解釈 の真 の基準 をめ ぐる論争の中か ら現われた。ルターやカルヴ ァンらの宗教改革派 は聖書が何 を教 え ているのかを判断する基準がカ トリック教会 によって独 占されている現状 を厳 しく批判する と ころか ら出発 した。カ トリック教会 こそ聖書に基礎 を置 くべ きであるのに,逆に聖書がカ トリッ ク教会 に基礎 を置 くべ きだ と言わんばか りのカ トリックの主張 は全 く本末転倒 だ と彼 らは言 う。では我々は何 を基準 として聖書 を読 むべ きなのか。宗教改革派 は最終的にはそれ を神が我々 に与 えた内的 自己確信 に求 める。神 は我々の内的 自己確信 を通 じて聖書の正 しい読 み方の基準 を与 えるのである。 これ に対するカ トリックの'側の最 も有力な反撃 は宗教改革派の主張が宗教

(4)

的アナーキーを生 む とい うことであつた。 自己確信 に頼 ることは基準 を完全 に主観的な ものに 変 えてしまうことを意味 し,それは結局

,基

準 自体 の消滅 に帰着せ ざるをえない。懐疑論が持 ち込 まれるのはここである。聖書解釈 に何 らかの絶対的基準があるという宗教改革派の前提 そ の ものが批判の対象 となる。聖書 には我々の理解 を越 えているが故 に我々が明確 に解釈 しえな い多 くの部分があ り,それ らについては多様 な見解が存在 しうる。 にもかかわ らず 自らの能力 を過信 し各々が 自説 の絶対的確実性 を主張 して譲 らない とい うことになれ ば

,宗

教的 アナー キーは必然である。 それ を避 ける為 には内的 自己確信 というような主観的基準 に頼 って絶対的 な ものを求 めようとする倣慢 さを捨て

,我

々が今 までその下で生活 して きた伝統的信仰 を謙虚 に受 け入れ る以外 にない。不確実 な根拠 に基づ く改革が引 き起 こす混乱 よ り

,己

れ の限界 を 知 った健全 な保守主義の方が ましである。エラスムスやモ ンテーニ ュといつた16世紀 を代表す る思想家たちの著作 の中により洗練 された形で展開 されているこの種 の懐疑論的弁神論 は

,宗

教改革派は もちろん,カ トリックの護教家たちすべての承認 を受 けたわけで もない。 しか しそ の影響力は絶大であ り

,単

なる聖書解釈論争 を越 えて当時の思想全体 の枠組 を設定す るまでに なった。

スピノザが生 きた17世紀の思想界 もまた,依然 として懐疑論者たちによって与 えられた 自己 確信か懐疑論か とい う以上で述べてきたような理論的枠組 の支配下 にあつた と言 つて よい。 こ 17世紀の懐疑論 の理論的地盤 を解明す る上で最 も注 目すべ き思想家 はデカル トである。周知 のようにデカル トは懐疑論の征服者 として思想史の舞台 に登場 した。我々が感覚するもの

,思

考するもののすべてが疑 い うるものである として も

,か

く疑 う我 その ものの存在 を疑 うことは もはや不可能であ り,この コギ ト(Cogito 我思 う)こそ懐疑主義 を打 ち破 る第一原理た りうる ものなのだ というのが彼の主張であった。 しか し彼 は他方,コギ ト導出の過程で これ までにな いほど極端 な懐疑論 を展開 した。 その きわめつけが

,我

々が最 も明証的であると思 っている命

,例

えば2に 3を加 えれば5になる といった算術的命題です ら,ある悪い霊 (genius aliquis malわmus)●)が我々 を欺いてそれがあたか も明証的であるかのように見せかけているにす ぎな いか もしれぬ とい うスピノザ も先の書簡で触れていた悪霊仮説 に基づ く懐疑論であつた。 もち ろんいかに極端 な懐疑であろうと,コギ トを導出する手段 としての「方法的」 な役割 を担 つて いる限 りにおいて,1陵疑論者たちのいわば懐疑 の為の懐疑 とは明確 に区別 されなけれ ばな らな い。だがデカル トのコギ トはこの彼 自身の徹底的懐疑 を真 に克服 しえているのであろうか。絶 対的に確実な原理 とそれ を獲得す る為の方法 という幸福 な関係 をここに見出すのは正 しいので あろうか。ポプキンはコ トギを宗教改革派の内的 自己確信 と等置することによって この問いに 否定的に答 えている。悪霊仮説 はコ トギを導出する為の不可欠な方法 とい うよりは

,む

しろ前 提であった。 そしていったん悪霊仮説 を認 めて しまえば

,次

にその仮説 を克服 しコ トギか ら出 発 して明証的なるものの真理性 を主張する為 に「欺かざる神」 とい うもう一つの前提が どうし て も必要 になる。 ところが この神 に支 えられたるコギ トとは,ま さに先 に挙 げた内的 自己確信 その ものであ り,とて も懐疑論の批判 を免れ うるものではない。従 ってデカル トは結局の とこ ろ自己確信か懐疑論か とい う16世紀が与 えた理論的枠組 を一歩 も越 え出る ことはで きなか っ た とい うのが彼の見解である9)

しか しデカル トの議論 は内的 自己確信 とい う古証文の単なるむ し返 しに とどまるものではな い と私 は考 える。それに加 えて彼 は,徹底的な懐疑か らコ トギ を導出 して見せ る ことによって,

もちろん彼 自身の意図に反 してではあるが,コ トギが懐疑論 を打破するもの どころかその一つ

(5)

反懐疑論 の戦略 ― ス ピノザ研究(1)一

の帰結 にす ぎない とい うことを

,逆

に言 えば懐疑論 に とってコ トギは決 してつ きあいに くい相 手ではない ことを明 らかにして しまったのである。すなわち

,内

的 自己確信か懐疑論か とい う 二者択―は

,デ

カル トが両者 を自らの哲学の内部で結合 した ことによってはじめて,それが見

せかけの二者択一であ り共通の理論的地盤 に基づ くものであることを露呈 した。 そして もしこ の懐疑論 とい うゲームの規則か ら脱 け出す ことを望むな ら

,後

に見 るス ピノザがそ うした よう

,両

者のいずれを とるか とい う問題設定 その ものを破壊するしかないのである。確か にデカ ル トの懐疑論への譲歩 もまた,ス ピノザの場合 と同 じく,それ を克服する為の戦略的な もので あった。彼 は徹底 した懐疑論 を逆手 に とって コギ トの確実性 に到達 しようとしたのである。 し か しこれは全 く誤 つた戦略であった。勝敗の分岐点 はまさに悪霊仮説 を典型 とす るような一般 的懐疑が成 り立つか否か とい う点 にあったのであ り

,ポ

プキンが言 うように,それが成 り立つ ことをいったん認 めて しまえば,あとは自己確信 とい う名の独断論 によって懐疑の糸 を断を切 るか,懐疑の流れに身をまかせ るか しかないのである。つ まリデカル トの懐疑論批判 においては, 我々にはすべてを疑 い うる能力が与 えられている とい うこの真 に批判 の対象 とされ るべ き理論 的地盤 は

,見

せか けの二者択―の背後 にあって一切 の攻撃 を免れているのである。だが さすが にデカル トの天才 は,誤つた戦略であるとはいえそれ をきわめて純化 された形で提出 したが故 ,スピノザが,そして我々がその誤 りを正 し反懐疑論の戦略 を立て直す上でのポイン トが ど こにあるのかをきわめて明確 に示 している。

デカル トがすべてを疑 い うる能力が存在するとい う重要な戦略拠点 を明 け渡 した根拠 は

,彼

が我々の認識 における真理 と誤謬の起源 を自由意志 に求めた ところにある。彼 は次の ように言 う。「私の誤謬 (・…。)力れゝったい どうい うものであるかを探究 してみると,その誤謬が同時に

働 く2つの原因に,すなわち私の内にある認識 の能力 と選択の能力ない し自由意志 とに

,言

換 えると知性 と同時 に意志 に依存す ることに気づ く。 とい うのは

,知

性だけでは私 はそれ につ いて判断を下 しうる観念 を とらえるのみであ り,この ように厳密 に考 えると知性 の内には本来 の意味 における誤謬 は見出されないか らである。」0そ して誤診 は「私が意志 を知性 と同 じ範囲 内に限 らないで私 の理解 しない もの に まで拡 げる」C81と ころか ら生 じ

,逆

に「判断 を下 す にあ たって知性 によって意志 に明晰判明 に示 され るもの以外 に及 ばない ように意志 を制 限す る」0) ことによって

,我

々は真理 に到達す ることがで きる。 また さらに「何が真であるか を私が十分 明晰判明に知覚 していない場合

,私

が判断を下す ことを差 し控 えるならば

,私

が そうするのは 正 し く,私は誤 ることがないのは明 らかである。」(10つまり知性 は我々 に観念 を与 え明晰判明性 とい う真為の基準 を示すのみであ り,それについて判断を下す ことによって真理や誤謬 を実際 に生み出すのは自由意志である。そして人間が神の似姿であると言い うるのはまさにこの自由 意志 を有す る限 りにおいての ことであ り

:1。

この意志 は何 ら外的強制 を受 けることな く肯定 し, 否認 し,あるいは判断を留保することがで きるのである。従 って仮 に2に 3を加 える と5に

る とか

,三

角形の内角の和 は二直角であるといった明 らかに真である と思われ る観念が与 えら れていて も,また逆 に明 らかに偽 と思われる観念が与 えられていて も,その ことだ けでは

,真

理や誤診 を生み出すのに充分ではない。 これに加 えて,さらにそれ らの観念 を我々が 自らの意 志の力で肯定 した り否認 した りすることによってはじめて

,真

なる認識 と偽なる認識が生 じる のである。

しか し知性が与 える真偽 の基準が絶対的な ものであるな らば

,意

志 は常 に知性の指示 に従 っ て判断すればよいのであるか ら

,知

性 と意志 を区別することは無意味である。 もちろん何が真

(6)

理であるかを知 りなが らあえて誤 りをおかす 自由は残 るが,それは全 くむなしい能力であろう。

デカル トもそのような自由意志の使い方 を正 しい ものだ とは思 っていない。意志に真偽の起源 を求 める議論が威力 を発揮するのは,これ とは逆 に真偽の基準が不明確 な場合である。 このよ うな場合 には もはや意志の働 きを拘束す る何 もの も存在 しないのであるか ら

,意

志 は真理 と誤 務 に関する全責任 を負 うことになる。 ここではじめて自由意志 は知性か ら解 き放たれて,そ 固有の役割 を演 じることので きる舞台 を手 に入れ るのである。ではその舞台で意志 は どの よう にふ るまうべ きなのであろうか。先 にデカル ト自身が述べていたように

,何

が真であるかが明 晰判明でない以上

,唯

一の正 しい選択 は判断を下す ことを差 し控 えることである。つ まり自由 意志 とは第一義的には基準が不明確 な場合 に判断を留保する能力なのである。では知性 によっ て与 えられる明晰半J明性 とい う基準が有効性 を失 うのは,どのような局面 においてであろうか。

まず我々はある事柄 を十分に認識 していない時 には,それ について明晰判明な観念 を持つ こと はで きない。例 えば太陽 までの距離が何kmぁるかを何 らかの手段 で測定す る以前 には

,我

々は

それ について明晰判明な観念 を持つ ことはで きないか ら,その場合 には当然判断を留保すべ き であろう。 しか しこのような局面 において我々はいわば判断を留保せ ざるをえないか らそ うし ているにすぎないのであつて

,積

極的 な選択 に基づいてそうしているわ けではない。う まり知 性が何 も指示 を与 えて くれないので意志 も行動 を起 こせない とい うのが実情であって,こ こで

は依然 として意志 は知性 に従属 しているのである。

これに対 して

,知

性が明晰判明な観念 を与 えているのにもかかわ らず意志がそれに反 して判 断を留保するという場合がただ一つある。それはある事柄 を十分 に認識 しそれについて明晰判 明な観念 を持 っていると思 っていること自体が悪意ある霊 の欺臓 によるものではないか という 疑いを我々がいだ く場合,すなわち先 に触れた悪霊仮説 を立てる場合である。悪霊仮説の下で の意志は知性 その ものの妥当性 を疑 っているのであるか らもはや知性の言 うことに対 して全 く聞 く耳 を持たない。2に 3を加 える と5になる とい う命題 はきわめて明証的であるにもかか わ らず疑わ しい。 しか もそれは何か具体的に疑わ しい点があるか ら疑わ しいのではない。我々 は明証性一般 を疑い うるか らその命題 も疑わ しいのである。意志 はこのように言 う。意志 は こ こにおいてはじめて主体的な選択 に基づいて判断を留保する。意志 は知性の支配 を脱 して自由 な意志 となる。デカル トは これについて次のように述べている。我々は自由な意志 を持つ。「 そ して これが最 も明 らかにされたのは

,少

し前一切 について疑 お うと努 め,ついにはある強力な 我々の創造者 (=悪

)が

あ らゆる仕方で我々を欺 こうと試みると想像するにまで至 った時な のである。なぜな ら,それに もかかわ らず我々は完全 に確実ではなかった ことを信ずるのを拒 み うる自由が我々の内にあることを経験 したか らである。」

(1の

すなわ ち自由意志 とは まさにす べてを疑い判断を差 し控 えうる能力 に他ならず,徹底 した懐疑論 こそその存在証明なのである。

さらに重要なのは

,デ

カル トが反懐疑論のアルキメデスの点た らしめようとしたコギ トは,こ のようなすべてを疑い うる能力 を否定するどころか,むしろ積極的に自らの内に取 り込 んでい るとい うことである。「思惟するもの とは何 なのか。むろん疑 い,理解 し,肯定 し,否定 し,欲

,欲

しない,また想像 し,そ して感覚す るものである。」。めつ まりその最 も重要な理論的地盤 においてコギ トは懐疑論 と立場 を同 じくしているのであ り

,す

べてを疑 い うる能力 こそコギ ト の本質である と言 つて も決 して言いすぎではない。

以上で見て きたように

,デ

カル トの体係 は

,我

々に自由意志 とい うきわめて大 きな能力 を与 えることによって

,考

えられ うる限 り最 も純粋 な懐疑論 を作 り上 げた。逆 に言 えば

,懐

疑論 の

(7)

/

反懐疑論 の戦略 ― ス ピノザ研究(1)一

根底 には自由意志 とい う前提が存在することを彼 ほど明確 に示 した人 はいない。 しか し彼 は懐 疑論の克服 とい う彼本来の意図 を実現することには完全 に失敗 した。コギ トす ら懐疑論の一帰結 にすぎないのであるか ら

,「

欺かざる神」か ら確実な認識へ というその後の展開 もまた同じ理論的枠 組 の内部 に とどまらざるをえない。コギ トヘの道 において我々の認識‐の二つの源泉のうちの一つ である知性 は疑わ しい もの として打ち捨て られてしまつた。もはや頼 るべ きもの としては意志以 外 にはない。だが意志 には何かを積極的 に定立す る能力 はない。では懐疑論 しかないのか。 も

し懐疑論 を避 けようとするな ら

,意

志 を支 える何か別の原理が導入 されるしかない。 そ こで登 場するのが「欺かざる神

Jで

ある。 もちろんそれは単なる信仰の対象 として持ち込 まれるわけ ではなく

,我

々の観念の主観的実在性(realitas object市 a)はそれ と同じかあるいはそれ以上の 客観 的実在性 (realitas forlnalis)を 持つ原因に出来する。うというスコラ哲学的な論拠に基づ く神の存在証明を介 してはいる。我々が持つている神の観念の原因は無限な実体である神その もの以外ではありえず,そしてそのようにして存在を証明された完全無欠な神は欺隅者ではあり えない

(1つ

とデカル トは言 うのである。確かに神が欺 くことのない存在であるなら,悪霊仮説は 成立せず明晰判明性 という基準は再び有効性を取 り戻す。だがすべてを疑いうる全能の力を与 えられた自由意志にとって,このような形での神の導入は明 らかに外在的であるgoも しこれを 反懐疑論 と呼ぶなら,やはりすべてを疑いうる能力を認めた上で長い伝統や確固とした組織‐ いった全 く外在的な根拠に基づいてカ トリック的信仰 を持ち込む懐疑論者たちまで反1陵疑論の 陣営に数えな くてはならな くなってしまう。前述 したようにポプキンはデカル トの立場を神に 支持された内的自己確信 とみなして宗教改革派の立場 と等置するが

,す

べてを疑いうる自由意 志の成立を認めた上で外在的な原理を密輸入するという論理構造のレベルではデカル トはカ ト

リック的信仰 とも十分に親和的なのであ り

,事

実彼が決 して不熱心 なカ トリック教徒ではな かったことは広 く知 られているところである,7)っ まり戦略拠点はあ くまで自由意志であって, それが承認 された上でなら

,少

くともここで取 り上げた近代の懐疑論は外在的な原理によって 懐疑の糸が断ち切 られることを否定 しないばか りかしばしば要求 しさえする。その際導入され る原理がプロテスタン トの神かカ トリックの神かによって内的自己確信か懐疑論的弁神論か と いうかの二者択一が生 じはするが,それが理論的地盤を同じくする見せかけの対立にすぎない ことはいまや明 らかであろう。デカル トの「欺かざる神」がそのどちらであろうと

,以

上のよ うな点から見て彼の議論は決 して反懐疑論的なものではな く

,む

しろ当時の懐疑論的立論の典 型をなしていると判定せざるをえない。 しかしくり返 し言うがデカル トの失敗は,その純粋 さ の故に

,我

々に問題の真の所在を指し示す という非常に重要な貢献 をした。すべてを疑いうる 能力なるものは果 して存在するのか。デカル トの遺産から徹底的に学んだからこそ,スピノザ はこの真に懐疑論の理論的地盤をゆるがしうる問いを彼の反懐疑論の中核に置 くことができた のである。

2.反懐 疑 論 の理 論 的地盤

知性 と意志を区別 し前者を後者に従属させることによって

,デ

カル トは我々に自由意志 とい う全能の力を与えた。スピノザのデカル ト批判は,まさにこの知性 と意志の区別 という前提そ のものを問い直す ところから出発する。そしてここにこそ自らの哲学 とデカル トの体系 との最 大の相違点があることをスピノザは常に意識 していた

'0「

知性 と意志 とは同一である。」

"こ がスピノザのテーゼである。知性が観念を与え

,意

志が判断するとデカル トは言う。 しか し例

(8)

えば三角形の内角の和が二直角に等 しい ことを我々が肯定す る時,この肯定 は三角形の観念 の 内部 にすでに含 まれているのであつて外部か ら付 け加 えられ る必要な どない。つ まり三角形 の 観念が与 えられれば

,我

々 は必然的 にその内角の和 は二直角であると判断せざるをえずそれ以 外の選択 は全 く不可能 なのである。我々に与 えられる観念 は意志 によって下 される判断を待 つ ている「画板の上の無言の絵」。のではな く,自らの内に肯定 した り否定 した りする力 を持つ意志 作用 その ものなのだ。従 って観念 を与 える知性 と判断 を下す意志 とい う区別 は無意味であ り, 実際 に存在 しているのは個々の観念のみである とスピノザは言 う。 もちろん肯定 した り否定 し た りする作用一般 を意志 と名づ けることはで きる。 しか しそれはペテロやパ ウロを人間 と呼ぶ ように

,三

角形の観念や円の観念 に含 まれるそれぞれ異 った内容 を持つ肯定 ない し否定 を一般 的 に意志 と呼んでいるにす ぎないので あつて

,個

々の観念 か ら離れて 自由 に判 断す る能力が 我々に与 えられているとい うことを意味す るもので はない。「精神 の中には意志 した り意志 しな ′ かつた りする絶対的能力がな く,単に個々の意志作用ぅすなわちこのあるいはかの肯定ないし,

このあるいはかの否定が あるのみである。」の だが以上の ような点でス ピノザの主張 を認 めた として もなお

,判

断を差 し控 える能力 としての 自由意志の存在 は否定 されないのではないか と 問 うことはで きる。なぜな ら観念の内に明確 な肯定ない し否定 の作用がある場合 には我々はそ れに従わざるをえないが,そうでない場合 には判断を留保することがで きるか らである。ただ 先 に太陽 との距離 の例 を使 つて述べた ように

,我

々の認識が不十分で判断を留保せざるをえな いような場合 は,いわば観念 自体 の内部 に判断を留保する作用があつて我々 もそれに従 ってい るにすぎないのであるか ら,それ を自由意志 と呼ぶ ことはで きない。

結局問題 はかの悪霊仮説 をスピノザはい ったい どの ように扱 うのか とい う点 に帰着す る。我 々は個々の観念が示す肯定や否定 に反 して まで判断を差 し控 えることがで きるであろうか。 こ こでスピノザが強調するのは

,我

々はあ くまで も与 えられた観念 の下で しか判断を下す ことが で きない とい うことである。例 えばペガサスの観念 しか持たない子供 は決 してペガサスの存在 を疑わない。 それを排除する観念 を与 えられてはじめて

,彼

は翼ある馬な どとい うものは空想 の産物ではないか と疑 うようになる。 また「夢見ている間,自分の夢見ているものについて判 断 を控 えた り自分が夢見ているものを夢見 ていない ようにした りす る自由な力が 自分 にある と 思 う人 はない。」。幼夢が夢であることに気づ く為には我々は夢か ら覚めなければならない。つま り夢以外の観念が存在 しなければその夢 こそ現実なのであ り,それを疑 うことは絶対 に不可能 である。反懐疑論者 スピノザは決 して疑 うこと一般 を否定 しているわけではない。我々がある 事柄 について持 つている観念 の確実性 をゆるがす ような他の観念が与 えられれ ば

,我

々 はこれ

まで下 してきた判断が誤 りであつたのではないか と疑い,と りあえず判断を留保する。 しか し これは自由意志 に基づいてそうするのではな く

,再

三述べているように我々の認識が十分でな く明確 な肯定ない し否定 を含む観念 を我々が所有 していない ことか ら必然的 に生 じて くる帰結 であるにすぎない。「ある人が判断を控 えると我々が言 う時,それは彼が物 を妥当に知覚 してい ない ことに自ら気づいている と言 うのに他 な らない。」123)この ような場合 には懐疑 こそが唯一 可能な選択なのであ り

,逆

に反懐疑 は正 しい判断を可能 にして くれ る確実な観念が新たに獲得 されない限 り無根拠 な独断 とな らざるをえない。 これに対 して

,我

々が持 つている観念 につい て具体的には何 ら不確実な点バ見出されえないにもかかわ らず

,我

々の認識 は一般 に誤 りうる ものである とい う理由のみに基づいて これ を疑 うことは全 く無意味である とス ピノザは主張す る。我々が現実であると思 っているこの世界 はもしかすると悪意ある霊が我々を欺いて見せて

(9)

反懐疑論の戦略 ―スピノザ研究(1)一

いる夢 にす ぎないか もしれず,そこで きわめて確実であるように見 える観念 もすべて誤 りであ るか もしれない とデカル トは言 つた。 このような一般的な懐疑 は

,見

非常 にラデ ィカルだが, 実 は言葉が空回 りしているだ けである。彼 は「心では疑 つていないのに言葉 だ けで疑 ってい る

と称 している」。のにす ぎない とス ピノザは言 う。何が疑 わ しいのか を具体的 に指摘で きなけれ ,その疑いは空虚である。すべてを疑 うことは

,結

局何一つ疑わない ことを意味する。 その 証拠 に

,デ

カル トはいったん「欺かざる神」 を導入すると,こん どは神 の善意 を理由にあらゆ る疑 いを一般的 にこの世界か ら排除 してしまうことになる。 この世界が夢であるか現実である かを判断する基準 をデカル トの ように観念 の外部 に求 めるな ら,「欺か ざる神」の導入 によって 一切 の懐疑の糸を断ち切 るか,あるいは悪霊仮説 に基づい│て基準 その ものを否定 し全面的懐疑 を受 け入れるか とい う二者択一 は必然である。我々は与 えられた観念の内部で しか判断 を下す ことはで きない。 これは くり返 し確認 されるべ きスピノザ哲学の大前提である。 この世界が も し夢であるな らば,それ を明 らかにすることがで きるのは真の現実の観念だけであ り

,両

者 を 分 ける絶対的基準 を観念の外部の第二者 に求 めることはで きない。夢 をそれ として指 し示す こ とがで きるのは夢か らの覚醒以外 にない。「光が光 自身 と闇 とを顕わす ように,真理 は真理 自身 と虚偽 との規範である。」の 真なる観念が具体的に与 えられることによつてはじめて,我々 は何 が真理であ り何が虚偽であるか を知 ることがで きるのであつて,ある観念が真理であるか否か を判定する観念外的な基準は存在 しない。従 つて観念の外部 に絶対的基準がないか らといつて 懐疑論 に陥つた り

,逆

にそのような基準 を独断的なや り方で設定 した りする必要 は全 くない。

ブルフヘの書簡の中にも見 られた きわめて独断的な装いを持つ この「真理 こそが真偽の基準で ある」 とい うテーゼは

,以

上 の ようなスピノザの見解の簡潔な表明なのである。

また同じところでスピノザは

,三

角形の内角の和が二直角であるのを知 っているの と同 じ仕 方で私 は真理 を知 つている とも述べていた。具体的 に与 えられた真なる観念以外 に真理 を指 し 示す ものはないのであるか ら

,彼

の このような言い方は当然である。 しか しこれに対 して

,デ

カル トなら次のように言 うであろう。三角形の内角の和が二直角である とい う命題の真理性 は いったいどのようにして保証 されるのか。我々が真理であると信 じていたのに

,後

に誤 りであ ることが明 らかになった認識 は無数 にあるではないか と。 自由意志 とい う全能の力が我々に与 えられていることを前提 とするな ら

,確

か に絶対的な保証のない認識 に同意 を与 えるのは軽卒 な選択である。だが我々は常 に我々が現 に生活 しているこの時代 と社会 によって与 えられた観 念の支配下 に置かれているのであ り,その外 に出て 自由に判断を下す能力 を授 けられてはいな い。従 って好む と好 まざるとにかかわ らず

,我

々 には我々に与 えられている限 りの真理 に基づ いて判断せざるをえない必然性がある。すなわち絶対的な保証があろうとなかろうと

,我

々は

我々 にふさわ しい真理 を受 け入れ る以外 にないのである。三角形の内角の和が二直角である と い う認識 は絶対的な ものではないか もしれない。 しか し「私 はある最高の欺睛者が我々 を欺 く か どうかを確実 に知 らないに もかかわ らず

,三

角形 について こうした認識 に到達 で きる。」0

「欺かざる神」抜 きに我々は確実な認識 を得 る。 そして もし将来 その認識 を覆す ような新 しい 観念が与 えられることになれば

,我

々 は何 らためらうことな くそれ を新たな我々の真理 として 受 け入れるであろう。真理 の問題 は時代 と社会 の必然性 との連関 においてのみ語 られ うる。 こ れがスピノザの立場である。逆 にデカル トが言 うように絶対的な保証がある認識のみに同意 を 与 える とい うことになれば,「欺かざる神」の保証 を受 けた認識 を絶対視 してあ らゆる認識 の進 歩 を否定するか,あるいはすべての認識 に対 して同意 を拒み全面的な懐疑論 に陥るか とい う不

(10)

28

毛な二者択一 しかないであろう

b

真理 と誤修 の起源 を自由意志 に求 めることによって

,デ

カル トは我々にその育旨力 をはるかに 超 える重い責任 を課す。認識 の真理性 はひ とえに我々が正 しい選択 をするか否か にかか ってい ると彼 は主張するのである。だが このような責任 は とて も負い きれるものではない。従 つて こ のデカル トの前提 を認 める限 り

,我

々 は自由意志 にとって全 く外在的な原理 を導入 してそれに 責任 を転嫁す る (欺かざる神

)か

,あるいは真理や誤診の存在 その ものを否定 して責任 を放棄 する (懐疑論)かとい う選択の間を様々なヴ ァリエーションをとりなが ら揺れ動 くことにな ら ざるをえない。 これに対 してスピノザはまず

,真

理や誤謬 に関 して我々は何 ら責任 を負 う必要 はない,なぜな ら我々はそれ らの起源ではないのだか らと主張する。真理であれ誤診であれ, 我々がいだ くあらゆる観念 は我々の意志 とは独立 に存在する「生産過程」 において必然的な法 則 に従 って「生産」 され る。観念の起源 はこの生産過程であって我々ではない。従 って この よ

うな諸観念の生産過程 その ものが変革 されない限 り

,我

々が 自らの誤 つた認識や行動 を正す こ とは不可能である。逆 に言 えば我々が 自らの誤 りを意識 しうるのは

,生

産過程 の内部 に変革の 条件が生 まれ何 をなすべ きかが明 らかにな りつつある時だけである。そして この何 をなすべ きか とい う変革の課題 を生産過程 の分析 を通 じて明 らかにし,それを実現 してい くことが我々を正 しい認識や行動へ と導 く唯―の道 なのである。デカル トのように我々の自由意志 に全責任 を負 わせ るなら

,必

要なのは倫理的決断だ けである。だがそれは逆 に諸観念の生産過程 とい う真理 と誤参の真の原因 をおおい隠 し

,我

々の進むべ き方向を誤 らせ るもので しかない。スピノザは このように考 える。我々は常 に諸観念のある特定の生産過程の下 にあるが故 に「最上の哲学」

を持つ と自負することはで きない。 しか しその生産過程の下 にある限 りにおいて何 をなすべ き かは確実に知 ることがで きる。つ まり「真の哲学」 を理解することはで きるのだ。

3.認識 の 生 産 過 程

デカル トが言 うように認識が我々の自由意志 によって生産 されるとすれ ば

,真

理 を獲得 し誤 診 を除去す る為 に必要なのは決断であつて認識 の生産過程の分析ではない。我々 は決断 しさえ すれば,すなわち神 によって与 えられた基準 に従 つて正 しく判断 しさえすれば常 に真理 を手 に することがで きるのであ り

,逆

に誤謬 に陥るのはそのなすべ きことをなさないか らなのだ と彼 は主張するのである。 これに対 してスピノザは

,我

々が真理 を獲得することがで きるのは固有 の必然的な法則 に従 う認識 の生産過程 において真理が生産 され我々 に与 え られた時だ けであ

,反

対 にそこで誤 った観念が生産 されれば我々 もまた必然的 に誤謬 に陥 らぎるをえない と考 える。つ まり我々には客観的に与 えられた ものを拒否 した り,あるいはそれ以上の ものを求 め た りする自由はないのである。従 ってスピノザに とっては

,我

々が 自らの置かれた客観的条件 にふ さわ しい認識 を獲得する為 には,認識 の生産過程 を分析 し

,我

々が何 をなしうるのか また 何 をな しえないのかを具体的に明 らかにしてお くことが どうして も必要なのである。

ス ピノザによれば,我々の認識 は他のすべての もの と同様 に神の本性の必然性 の下 にあるgつ 彼の体系における神 は

,被

造物の外部 に存在 し様々な奇蹟 を引 き起 こす ことによってその法則 性 をかき乱す超越的原因ではな く,常に同一の必然性 をもつて万物 を生み出す内在的原因90す なわち全 自然 を支配する法則的秩序その ものであるか ら

,我

々の認識 の生産過程 を規定するの は このような必然的 自然法則 に他 な らない。そして神 ない し全 自然の秩序か ら見れば,この必 然的 自然法則 に従 って生産 された我々の認識の内には自らの本性 に反する何 もの も含 まれてい

(11)

反懐疑論の戦略 一スピノザ研究(1)一

ないが故 に,すべての認識が真である。つ まり「 すべての観念 は神 に関す る限 り真」

"なのであ る。 これに対 して我々人間 に とっては真理 も誤診 も共 に存在す る。それは我々が対象 を次の二 つの認識様式 に基づいて把握せざるをえないか らである。一つは,対象 をそれが我々の身体 を 刺激する (afficere)仕方 に応 じて把握する表象 (imaginatio)に よる認識であ り,も う一つは 対象 をすべての自然物 に共通 な観念 に基づいて,換言すれば全 自然 に共通 な法則的秩序 によつ て生み出された もの として把握する理性(ratio)ない し知性(intellectus)に よる認識である。の

(ス ピノザが第3種の認識 と呼ぶ直観知 (scientia intuitiva)に ついてはここでは触 れない

)。

もし後者の認識様式のみに基づいてすべてを把握 しうるなら

,我

々 もまた神 と同様 に常 に真理 を手 にすることがで きたであろう。 しか し我々は前者の表象による認識 を除去することはで き ない。なぜな ら,その為 には我々の身体 を刺激する外物 その ものを除去する必要があるが,そ

れは不可能だか らである。すなわち自然の一部分 にす ぎない我々人間は自然全体のように自ら の本性の必然性のみによつてすべてを産 出するわ けにはいかないので

,我

々 とは異 った本性 を 持つ外物の圧倒的影響か ら逃れ られないのである。「人間が 自然の一部でない とい うことは不可 能であ り,また人間が単 に自己の本性のみによって理解 され うるような変化,自分がその妥 当 な原因であるような変化だけしか受 けない ということも不可能である。」。つ

人間 もまた一個の 自然物 として自らの本性の内に全 自然の秩序 と共通の ものを多 く含んでい る。のが故 に,その限 りにおいて我々は対象を知性 によって認識 することがで きる。だが同時 に 我々は自然ではあるがあ くまでその一部分 にす ぎないので 自らの本性 のみによってすべてを理 解することは不可能であ り

,我

々の身体 の外物への隷属状態 を示す認識すなわち表象 に常 に付 きまとわれざるをえない。表象 は誤謬 その ものではないがそれの唯一の原因 である,0例えば 我々が太陽 を真近 に存在 する もの として表象す る時,その こと自体 は誤謬 とは言 えないが,我 と太陽の距離 に関する真の認識 をおおい隠す ことによって誤謬 をもた らす原因 となる。 この表 象が もた らす誤診の内でス ピノザが最 も重要視 しているのは目的論的な世界把握である。我々 はすべての自然物 を自らの欲求 を目的 とする手段 として表象する。例 えば動植物 は我々の栄養 を満たす手段であ り

,海

は我々が魚を養 う手段であるとい うように。 この表象はそれ 自体 とし てはやは り誤診ではないが,目的 こそ手段 の原因であるとい う転倒 に基づ く目的論的世界観 を 生み出す ことによって誤謬 をも.たらす。すなわち動植物が存在するのは我々の栄養 を満たす為 であ り

,海

が存在するのは我々が魚を養殖する為である という転倒 の根底 には,この ような表 象があるのだ。 目的論的世界把握 に我々が特 に注 目しなければな らないのは,それが 目的原因 を持 ち込む ことによって対象 (上の例で言 えば動植物や海)を必然的 自然法則 に従 つて生み出 した真の原因の探究 を遮断 して しまうか らである。スピノザによれば目的 とい う表象 は次のよ うな過程 をた どって物の原因 と見 なされ るに至 る,。まず我々は自らの欲求 の原因 に関 して無 知であるが故 に,目的の定立が我々の自由意志 に基づ くものであ り,それ以上 さかのぼって追求 することので きない絶対的な ものである と考 える。従 って我々はある物の 目的 を示すだけでそ れ についての完結 した説明 を与 えたかのような錯覚 に陥る。 さらにこのような錯覚 に基づいて 我々 は一般 にすべての自然物 を手段 として とらえ,それ らに目的 を与 える我々 と同様 の自由意 志 を持 つた絶対者すなわち神 の存在 を想定 しぅ この神が与 える目的 こそ万物 の原因であると思 い込むようになる。つ まり目的原因は我々およびその投影である神の原因なき自由な決断 とい う表象が我々の自然物の真の原因に関す る無知 をおおい隠 してい く過程 において生 じる表象な のである。 目的原因に対する批判者 として知 られるデカル トも

,彼

が 自由意志 とい う表象に と

(12)

らわれている限 り

,以

上 の ような厳密 な意味で は依然 として 目的論的問題 設定 の内部 に とど まっている,0そ して彼が真理 と誤診の起源 を自由意志 に求 め,正し く判断することによって誤 診 を除去 しようと努 めれば努 めるほど

,彼

は真理か ら切 り離 され誤参の悪循環の中に開 じ込 め られ ることになるのである。 しか しか く言 うスピノザ も,ただ真理 と誤謬の必然的生産 につい て語 るだけでは

,確

かに自由意志 にまつわ る様々なアポ リアを避 けることはで きるか もしれな いが

,逆

にすべての出来事 を受 け入れ よという東洋的諦観 を説いているにす ぎないのではない か と反論 されるであろう。スピノザにそのような面がないわけではない。だが彼 自身の生涯が 特 にその政治 とのかかわ りにおいて示す ように

,彼

は常 に我々にはなすべ きことがあると考 え ていた。ではその根拠 は何か。我々は何 をな しうるのであろうか。

ス ピノザはまず

,我

々人間の本性 は他のすべての個物 と同様 に「 自己の有 に固執 しようと努 める努力 (conatus)」 F6)換言すれば「我々の身体 の存在 を肯定す る努力」mでぁる と主張す る。

そ して我々は この内的必然性 に従 って認識 し行為す る時 にのみ本来の意味で 自由である とされ め認識に関して言えば,我々 は内的必然性 に従 う限 り全 自然の必然性 と共通の ものを持つが 故 に常 に知性 に基づいて認識することがで きる"また行為 に関 して言 えば,内的必然性 に従 う 行為 こそ有徳的な行為の定義であるFのしか しすでに述べた ように人間 は自然の一部分 で しか な く

,従

って「人間が存在 に固執する力 は制限 されてお り

,外

部 の原因によって無限 に凌駕 さ れ る。」1)外物の力 による支配の下で我々の本性の必然性 は挫折 を余儀 な くされ るもこの ような 支配 の下では

,我

々が常 に知性的かつ有徳的であ り続 けることは不可能である。外物の力に対 して受動的である限 りにおいて我々は表象 による認識 を通 じて誤診 に陥 らぎるをえず,また「身 体の状態 を表示する限 りにお ける表象」"で ある感情 (affectus)に隷属 した行動 をとらぎるを えない。 もちろんだか らといって我々の内的な力すなわちコナ トゥスが消 え失せて しまうわけ ではない。「何び とも自己の本性 に反する外部の原因に強tljさ れ るのでな くては,自己の利益の 追求 すなわち自己の有 の維持 を放棄 しは しない。」め我々は 自らの力 の及 ぶ限 り能動的 であ ろ うとし続 ける。 しか し内的な力 は外的な力 を完全 に除去す ることがで きるほど強力ではあ りえ ない。む しろ逆 に「ある受動ない し感情の力は人間のその他 の働 きない し能力 を凌駕すること がで きる。」に。従 って我々が このような状況下 においてなお知性的かつ有徳的である為 には, 我々の内的な力が外的な力に対 して可能 な限 り有利 な力関係 を作 り出す しかない。そ うすれ ば 我々 は確かに完全な知性 と徳 を手 にすることはで きないにして も

,客

観的な条件が許す範囲 に お ける最善の ものを獲得す ることがで きる。我々の受動性

,具

体的には感情 への隷属 をいかに して克服するか とい うこの古典的問題 を,ス ピノザは力関係の変更 とい う全 く新 しい枠組の内 で解 こうとする。我々は感情 に対 して絶対的権力 を有 してはいない。彼 は この ことを強調す る。

ス トア学派 もデカル トも誤 つた前提の上 に立 っている。前者 は「感情が絶対 に我々の意志 に依 存 じ我々は感情 を絶対 に支配 しうる と信 じていた。」また後者 も精神が単 に意志するだけで松果線 を様々に動か し身体 内に起 こる運動 を支配 しうる と考 えていた,0彼らはいずれ も意志 の力 に よって感情 を克服 しうると主張 していたのだ。 もしそれが正 しいのな ら必要なのは決断だけで ある。 しか し我々に不足 しているのは決断ではな く力であるとスピノザは言 う。 そして力の不 足 を決断で補 うことはで きない。力 を獲得 する為 に必要 なのは戦略である。我々の内的な力が 最 も有利 な力関係 を構築 しうる戦略 を立てなければな らないのである。

スピノザの戦略は一言で言 えば真の社会的連帯の形成である。同 じ内的な力 を有する個体 は 相互 に結合す ることによってその力 を増大 させ ることがで きる。「例 えば全 く本性 を同 じくする

参照

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