学校文化 と地域社会を接合す る民俗芸能
一小笠原諸島における南洋踊 りの伝承 とその児童による連合運動会でのパ フォーマンスを中心に一
The perforlning arts as a cottuncture of school culture ttld local community:
focusing on the transmission of」 Vaん り。。 ごOrj in the Ogasawara lsiands and its performance at the athletic meet by school children
小 西 潤 子 Junko lKoNISHI
(平 成 13年 10月 9日 受理 )
0。 は じめに
昭和 52年 の学習要領改定 (昭 和 55年 施行 )に よって、音楽教育の教材 として「郷土の民謡」、 「郷土 の音楽」、 「郷土の伝統芸能」などいわゆる民俗芸能 (以 下で「民俗芸能」の語を用いる場合にはこれ ら 3種 類を含める 1)の 導入がはか られた (松 永 1982:71)。 これを機 に、音楽学・ 音楽教育学では民 俗芸能の教材化 に関する論議が盛んに行なわれるようになった。その焦点のひとつ となったのが、学 校教育におけるカ リキュラム化 と、現場での実践を集積する徒弟的学習 とのギャップをいかに して埋 めるかであった (伊 野 2000)。 当初か ら民俗芸能の もつ総合性を考慮 し、 「 『 教材化』 という名の もと に音楽的要素だけを取 り出 して」の ドリル学習 には「一教科内の一素材」で しかな く、そ うした「分 離学習 は全体把握を妨 げさらにその一要素 もつま らないものに して しまう。」 と警告 し、 「全体像の把 握、音楽的諸要素の学習そ して新 しい伝統創造へ と発展 させるためには学校教育の一環 として多面的 調査・ 研究を行ない、多領域相互交流・ 共同作業を積み重ねることがまず必要」であるとし、それを 地域社会教育 として結実 させようといった主張 (岩 井 1982:82)も あった。
平成 10年 12月 改定の学習指導要領 において も、音楽科 における民俗芸能の指導 には重点がおかれて いる 2。 のみな らず、「体験的な学習」や「地域の教材や学習環境の積極的な活用」を配慮すべ き「総 合的な学習の時間」 (文 部省 1999a:91)が 創設 されたことによって、学校での民俗芸能学習 はより 総合的なかたちで実現可能 になった。すなわち、地域 と密着 し実践的学習を要する民俗芸能が、学校 全体 にまたが る 1つ の教科 のなかに入 り込む余地がで きたのである。逆 に「地域の人々の協力」 と
「全教職員が一体 となって指導するなど学校全体 としての取 り組みが不可欠」 (文 部省 1999c:52)と される総合的な学習の時間は、民俗芸能学習に活用 されることで極 めて意義深いものになる。そのた めには、学校側 は家庭や地域の人々の協力や教育上の連携を深めるための方策について検討する必要 がある。「開かれた学校づ くり」 は、一方的に家庭や地域 に支援を求めるのではな く、相互 に横断で
きる関係を築 きあげて こそ実現可能 になる。
地域 との持続可能な相互連携を築 くための第一歩 として、 ここでは学習成果の公開の場を工夫する ことを提案 したい。成果発表をめ ぐって、「保護者や地域の人 々の意向や建設的な意見」 (文 部省
1999d:101)を 聞 き入れ、次の学習段階で生かす ことによって、児童の学習意欲の向上のみな らず
地域 との信頼関係を深めることが期待 される。そのためにも、教科内・ 学校内での閉 じた「発表会」 3
ではな く、地域 ぐるみで「学校文化」を支援できる成果披露の場を学校行事のなかに位置づけること
小 西 潤 子
を検討あるいは再検討する必要があるのではないか。
今回の改訂 によって、学校行事 は「学校や地域の実態に応 じて重点化するとともに行事間の関連や 統合を図 るなど工夫 し精選 して実施す ること」 とされた (文 部省 1999d:4)。 つま り、惰性的・ 形 式的な行事を改善 し、弾力性・ 融通性 に富んだ教育効果の高い指導計画が望ましい (文 部省 1999d:
68)と されたのである。 また、 「学芸的行事や健康安全・ 体育的行事などを実施す る場合 には、地域 社会の人々が参観 しやすいように、期 日などを考慮 して計画す ることも必要」 4(文 部省 1999d:71)
とされてお り、学校行事を学習成果公開の場 として積極的に活用す ることが促されている。 さらに、
指導計画は「各教科、道徳、特別活動の他の内容、総合的な学習の時間などの指導計画 と有機的に関 連 しあうように作成 されな くてはな らない」 (文 部省 1999d:71)と されている。 こうしたことか ら、
民俗芸能の学習成果発表の場 として学校行事を活用 してい くことは望 ま しいことなのである。
その際、取 りあげる民俗芸能 自体の もつ特質や地域性を熟慮 した計画を立てるべ きである。すなわ ち、民俗芸能の成果発表の場 として「平素の学習活動の成果を総合的に生か し、その向上の意欲をいっ そ う高めるような活動を行なうこと」 (文 部省 1999d:62)と される学芸的な行事のみがふ さわ しい とはいえない。儀式的な性格の強い神楽や祝詞に由来する祝福芸の場合は、「学校生活に有意義な変 化や折 り目を付 け、厳粛で清新な気分を味わい、新 しい生活の展開への動機づけとなるような活動を 行な うこと」 (文 部省 1999d:61)と される儀式的行事 に取 り入れることも考え られる。 また、余興 性の高い民俗芸能の場合 は、遠足・集団宿泊的行事での活動 に一部を取 り入れることもできよう。元 来勤労 と結びついていた田植神楽などの民俗芸能 は、勤労生産・ 奉仕的行事 と関連づけて行なうこと も可能である。 このように、個々の民俗芸能が従来果た してきた役割 と有機的に関連 させることで、
学校行事を「学校文化」 5な
らではの学習成果発表の場 とす ることがで きる。そのことによって、子 どもたちが学習内容を地域の文化や社会 と関係づけ、総合的に理解するための援助ができよう。
以上をふまえて、連合運動会における民俗芸能の学習成果発表によって学校 と地域の人々とが連携 を高めている、東京都小笠原村立小笠原小学校の事例を紹介する。小笠原諸島は、東京か ら約 1,000
km(父 島まで 984h、 母島まで 1,033h)に 位置 し、全体の人 口は 2,824人 (平 成 12年 国勢調査速報、
東京都 2001)で ある。小笠原の「南洋踊 り」は、 1987年 にその踊 り歌が「小笠原の民謡」 6と して、
踊 りのパ フォーマ ンスが 2000年 にそれぞれ東京都指定無形民俗文化財 (民 俗芸能 )に 指定 されている (東 京都教育庁 1987;2000)。 小笠原小学校 は、村立小笠原中学校・ 都立小笠原高校 とともに開催す る連合運動会に「小学校表現」 として、南洋踊 りを改編 した通称「子ども南洋踊 り」を行なっている。
南洋踊 りは小笠原の近代史を背景 に成立 した特異な芸能であるため、民俗芸能 としての正統性や芸能 の再構成 に関する問題を当初か ら抱えていた。 しか し、小笠原の自然や文化に惹かれて近年移住 した 人々の活躍 もあって、 さまざまなヴァリエーションを生み出 しなが ら地域のアイデンティティを象徴 するものとして「発展」 している (小 西 2002〔 出版予定〕 )。 「子 ども南洋踊 り」 は、そのヴァリエー ションのひとつである。小笠原小学校での民俗芸能の実践は、 これか らの民俗芸能の継承 と学校教育、
地域社会 とのつなが りを考える上で示唆するところが大 きい。
以下では、次のように論を進める。 まず、小笠原の歴史 と文化について概観 しその特異性について
整理 したうえで、それを背景 に成立 した伝統芸能・ 南洋踊 りの沿革について述べる。次に、小笠原小
学校で、郷土学習の一環 として行なわれてきた郷土の歌の指導に着 日したうえで、南洋踊 りの学習導
入の経緯およびその過程で起 こった改編について述べ る。小笠原小学校で伝統芸能が「学校文化」化
され学校行事 に組み込 まれていったのは、学校 と地域 との連携が うまくいっていることにもよる。そ
の関係は、連合運動会のプログラム構成の中にも表れていることを指摘する。 ところで、小笠原の事
例で見た地域 ぐるみの性格を もった運動会 は、学校制度確立期以来、全国で見 られた。 そこで、近代 以降の運動会の歴史 とその受容をふ りかえ った上で、 ほかの地域 における体育大会の事例 によって今 日の運動会の実態を明 らかに し、 またその受容 について考察す ることによって、運動会を地域社会 と の横断の場 としてい くための可能性 について述べる。そ して最後に、 まとめと今後の課題をあげる。
1。 小笠原 と南洋踊 りの沿革
1。 1 小笠原の歴史 と文化
1670年 父島に紀州の蜜柑船乗組員が漂着 (山 下 1992)す る以前、小笠原 は無人島であった。江戸 幕府 は、 1675年 領土確認調査のため嶋谷市左衛門 らを派遣 した (山 方 1906:72‑79;秋 岡 1965)が 、 その領有を諸外国に宣言 したのは 1862年 の ことである (田 保橋 1922;田 中 1973)。 その間、 1820年 代半 ばには、 欧米 の捕鯨船や軍艦が水や燃料補給 のために寄港す るよ うにな り (Dobson 1998)、
1830年 にはハ ワイか ら 25人 が移住 した。八丈島出身者を中心 とする本格的な日本人の入植が開始 され たのは、 1877年 か らである (田 中 1997:204‑205)。 その 10年 後 には、水産業の発達 とともに 999人 、 さらに 10年 後の 1897年 には 4,360人 と日本人移民の数 は膨れ上が り (津 田 1998:11)、 19世 紀末には小 笠原居住者の大多数を占めるようになった。
日本人の入植開始 とともに、 1877年 6歳 以上 19歳 以下の 23人 の児童生徒を対象 に、学校が開校 され た。授業は当初か ら日本語 と英語の併用で行われ、 1910年 代までにバイ リンガル教育が確立 されていっ た (ロ ング 1998:103)。 それ とともに、 日系移民 2世 と同世代の非 日系居住者 7と の交流が始 まり、
両者で婚姻関係 も成立す るようになった (犬 飼・ 橋本 1969:64‑76)。 日本の ミクロネシア (旧 南洋 群島 )統 治支配期 (1914〜 1945年 )に は、小笠原 は本土 との中継地 となり、同時に ミクロネシアヘの 人口流出や出稼 ぎも行われるようにな った。島内人 口は、 1920年 までには 5,425人 、 1944ま でに 7,711
人 となった (津 田 1998:11)が 、 1941年 戦時体制下で島民 は本土に強制疎開させ られた。本土では、
形質の異なる非 日系島民に対する差別や「敵」 と見誤 られての攻撃 もあった (2001年 2月 、瀬掘エー ブル、北国ゆう同伴 )。
第二次世界大戦終結 によリアメ リカ統治下 におかれた直後 は、 135人 の非 日系島民のみが帰島を許 可 された。その子女たちは、 アメ リカか らの通信販売で購入 した服を身につけ、 ラ ドフォー ド提督学 校で教育を受 けた。彼 らは、 アメ リカの教科書に掲載 された日本の零細農民や漁民の姿か ら、 日本は 貧 しい国だというイメージを もった 8。 その頃の小笠原では、男子生徒 はアメ リカ軍人 になることを、
女子生徒 は軍 の看護婦 にな って水兵 と結婚 し、 アメ リカ本土 に住む ことを夢みていた (犬 飼・ 橋本 1969:85… 87)。 その一方で非 日系島民のなかには、第二次世界大戦中に日本軍 に入隊 した人 もお り、
公用語 に英語を用いて も家庭内では日本語で会話する子 どももいた (ロ ング 1998:104‑105)。 1950年 代、非 日系小笠原島民 に貴重な現金収入を もた らしたのは、貨物船の乗組員や近隣の ミクロネシア諸 島への出稼 ぎであった。出稼 ぎ先では、 日本統治時代 に日本語教育を受 けた ミクロネシアの人々と日 本語 によるコ ミュニケーションや歌交換 も行われた。そ うしたなかで、 ミクロネシアで 1930年 代頃か ら創作 されていた学校唱歌調の旋律 とリズム、 日本語ない し日本語混 じりの歌詞か らなる歌が、非 日 系島民を通 じて小笠原 にもた らされたのである。 これ らは、家族や友人に披露 されるうち次第 に知れ 渡 り、後に「小笠原の民謡」 と認知 された (2001年 2月 、瀬掘 エーブル、北国ゆ う同伴 )。
このように、小笠原 は非 日系、八丈島出身者を中心 とする旧世代の日系、戦後本土か ら渡 った新世
代の日系などの人々が移住 し混血 も進むなかで、多元的・ 多層的な社会を形成 して きた。 1968年 の
日本への返還後、父島 0母 島 0硫黄島およびその周辺諸島を含めて東京都小笠原村 とな り、現在に至
102 西 潤 子
る。本土か らの情報が リアルタイムで入 るようになったのは、 1984年 に NHK衛 星放送が開始 されて
か らである。 その後の情報化 はめざま しく、 1998年 にはイ ンターネッ ト・ ユーザーが人 口の 27.1%、
1999年 に開始 された携帯電話サーヴィスによって、 3カ 月後には携帯電話の所有率が 34。 0%に なった
(前 納 2000:3‑4)。 返還 20周 年 (1988)ま でに、次第 に小笠原の自然 にあこがれて一時滞在 あるいは 移住 した新 々世代の移住者が人 口比では優位 にな り (前 納 2000:14‑18)、 その一部 は政治的発言権 をもち始めた。彼 らを中心 に、多元性・ 多層性をよりどころとする小笠原の人々のアイデ ンティティ が形成 されてきてお り、その核 として近代的な民謡 と南洋踊 りといった民俗芸能が用い られているの である。
1。 2 南洋踊 りの成立
歴史が浅い小笠原 には、創作年代や創始者が不明になるほど古 い民謡や民俗芸能 はなか った。南洋 踊 りの前身 は、小笠原生 まれの非 日系島民であるジョサイア・ ゴンザ レス (1899‑1935)が もた らし た「土人踊 り」 nで ぁった。 ゴンザ レスは、 1920‑1930年 代に出稼 ぎ先のサイパ ンで これを覚え、帰島 後の 1933年 頃に広めた (北 国 2002〔 出版予定〕 )。 これは、 日本語混 じりの歌 に合わせて踊 るために、
欧米海軍の軍事訓練を ヒン トに して ミクロネシア各地で新 たに創作 された行進踊 り 2で あった。 その 後、小笠原では男性 による余興や太神山神社の例祭 (11月 1〜 2日 )の 奉納芸 として、 うたいなが ら 踊 られた。 また 1938年 頃には、青年団による同神社の奉納芝居≪南へ≫の一場面 に挿入 されたことに より、 日系の男性島民の間にも一層広 まっていった B。 強制疎開か ら返還 まで本土生活を強いられた 日系の小笠原島民 は、集会のときにこれを踊 ることで遠い故郷を しのんだ。
返還の翌年、美濃部東京都知事歓迎会のために大平・ イーデス・ 京子 (1921‑)ら 女性を含む在住 島民有志や帰島者が集 まり、浅沼正之 (1911‑1992)の 指導のもとで再び小笠原で踊 られることになっ た (FM東 京 2000)。 この頃か ら、次第 に男女の踊 り手が入 り混 ざり、現在の「南洋踊 り」に近いも のに様式化 していった M。 1981年 5月 、東京都が民謡発掘調査 (北 国 2002〔 出版予定〕 )を 行なった ことを受 けて、元青年団員を中心に、南洋踊 りの伝習 と保存を目的とする保存会が結成 された (2001 年 2月 、高崎喜久雄、北国ゆう同伴 )。 そ して、 1987年 「歴史を知 るうえで重要であ り、文化伝播を 明 らかにする有力な学術的資料 として貴重である」 という理由か ら、 「小笠原の民謡」 (南 洋踊 りに伴
う歌を含む )が 、東京都指定無形民俗文化財 (民 俗芸能 )に 指定 された (東 京都教育庁 1987:55) のである。
翌 1988年 の返還 20周 年記念行事には、無形文化財指定を村民に周知する目的で、実行委員会がカセッ トテープ『小笠原の民謡」 15を 記念品 として村民 に無料配布 した (2001年 4月 、北国ゆう )。 それとと もに、南洋踊 り保存会 は新島民にも門戸を広げて再結成 された。 また、記念行事の一環 として東京・
新宿のデパー トで開催 された小笠原物産展では、保存会 は南洋踊 りの伴奏にオ リジナルの割れ日太鼓
「 カカ」を取 り入れた (小 笠原諸島返還 20周 年実行委員会記念誌編集室 1989:114) 。以後、南洋踊 りはカカを伴 うようにな り (2001年 2月 、池田望 )、 うたいなが らの踊 りか ら歌唱に専念す る歌 い手 をお くという様式変化がお こった。 また、 この頃までに踊 り手の大半を女性が占めるようになった。
南洋踊 りは、続 く返還 25周 年、 30周 年イヴェントはもちろん、平成元年か らは年間平均十数回の公演 など、保存会の活発な活動 によって島内のみな らず本土 にも紹介 されてきた r。 1990年 代半ば頃か ら は保存会会員の うち、在住年数の短 い若者の割合 も大 きくなった B。 一方、母島在住の小高常義 は、
父島と母島とでの微妙な様式の違いを統一するために、高崎による模範 ビデオを撮影 し上映会を行 っ
ている (2001年 2月 、高崎喜久雄、北国ゆ う同伴 )。 このように、近代的な脈絡のなかで成立 した南
洋踊 りの保存会活動 は、 「新参者」向けのカ リキュラム (Cf。 福島 1995:48)を 活用す ることにも積 極性を示 している。
2.小 笠原小学校の学校文化 としての郷土の歌 と子 ども南洋踊 りの学習
2.1 小笠原小学校における郷土の歌の学習
小笠原村立小笠原小学校では、 自然環境 に恵 まれ独 自の歴史を歩んできた郷土を愛する心を育てる 教育が行われて きた。そのひとつが、町田昌三・ 大浜勝彦 (両 、元教諭 )に よる歌集づ くりとその指 導であった。 たとえば、全 143頁 ガ リ版刷 りの『小笠原子 ども歌集 1.2集 』 (大 浜・ 町田 1991)に
は、 1)小 笠原で伝承 されている歌 (既 述の「小笠原の民謡」や南洋踊 りの踊 り歌を含む )、 2)町
田作詞・ 大浜作曲のオ リジナル曲、 3)1)な い し 2)の 編曲版など全 82曲 が収め られている。その 大部分が 2)で あり、 1)に は日本語の替え歌の歌詞をつけた もの もある D。 町田・ 大浜 は、 こうし
た歌集を何種類か作成 し、朝礼や学校行事 に際 して歌唱指導を行 った。
2)の うちの 1曲 《アオウ ミガメの旅》 (作 詞・ 町田昌三、作曲・ 大浜勝彦 )は 、両教諭が転任 し た後 も、校歌のように機会があれば うたわれている (2001年 2月 、池田光生 )。 その歌詞 は、浜辺か
ら旅立つ子ガメに「生 きて生 きて生 きぬいて /ど の子 もどの子 も大 きくなって /ま たこの浜に帰 って おいでよ」 とうたいかけ、 アオウ ミガメの生息地・ 小笠原の自然を題材 としなが ら郷土愛をうながす ものとなっている。旋律 は、ハ長調 6/8拍 子で I、 Ⅳ、 Vの 主要三和音伴奏を基本 とするもので、
今井智香子編曲によるピアノ伴奏付二部合唱版 もある (大 浜・ 町田 1991:140‑142)。 また、 この曲 は返還 30周 年記念 ビデオ『 小笠原島民のあゆんだ 30年 』 (小 笠原諸島返還 30周 年記念事業実行委員会 1998)の テーマソングにも選ばれている。 ビデオは、返還 30周 年記念式典の模様か ら始 まり村民が過 去の体験を語 る構成になってお り、そのなかで 《アオウ ミガメの旅》 は子 ガメを小笠原のメタファー
とし、その将来的発展に希望を託す という政治的な文脈で用い られている。
町田 0大 浜 は、多少 とも 1918‑1919年 に在住 したサ トウハチローを意識 していたと思われる。サ ト ウにとって、小笠原 は創作の原点であったといわれる。サ トウは、その間「島にたった一羽すんでい たカラス」 とも、 「丘のバナナ畑で、一 日中パイプを くわえていた松葉杖のお じさん とも」仲 よ くな り、 「 ポル トガル人の牧師さんの子 どもたち」 といっしょに歌を うたい、 「 それや これやを、詩の中に どしど し入れた」 (倉 田 1983:102)と いう。 1994年 の平成天皇 0皇 后の小笠原行幸 に際 して開催 さ れた「 小笠原郷土芸能の夕べ」 20で は、 《アオウ ミガメの旅》がサ トウハチ ローの処女作 《小笠原 島》などとともに、小・ 中学生の二部合唱によって披露 された (小 笠原村役場 1994、 東京都 1994)。
これ らは、厳密には「郷土芸能」 とはいえないが、郷土にちなんだ歌 として このイヴェントにふさわ しいと判断されたのであろう。 このように、小笠原小学校 には近代の民俗芸能を実施する素地が整え られていた。
2.2 南洋踊 りから子 ども南洋踊 リヘ
南洋踊 りの基本 は、 「 レフ ト、 ライ ト」 という掛 け声 と行進のような手足の動作である。 ただ し、
この動作 は片方の足を体重移動 させて踏み こみ、間髪な くもう一方の足を曲げて持 ち上 げることを交
互 に繰 り返す ものではない。体重移動 させた後、膝を曲げてを軽 くはずませた勢 いで、 もう片方の足
を蹴 り上げる動作か らなるのである。 したが って、音楽的には強拍 と弱拍を 1つ の単位 とする 2拍 子
ではな く、体重移動 と蹴 り上げの間に短 い休拍が入 る弾んだ 2拍 子 となる。 この動作を基本に、片方
の足を踏み出 しなが ら回 した腕の反動を使 って腰をたた く動作、胸の高 さまで持 ち上げた腕の関節を
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回 しなが ら上半身 と顔を少 し捻 る動作などを組み合わせたもので、踊 り手の位置の移動 はわずかであ る。 《ウラメ》、 《夜明け前》、 《ウワ ドロ》、 《ギダイ》、 《締め踊 りの歌》の全 6曲 か らなる踊 り歌 ごとに固有の動作があるが、 これ らはメ ドレーで歌われ、各曲のつなぎ目には「 レフ ト、 ライ ト」の 掛 け声 とともに行進のような動作が挿入 される。 これ らの歌の うち、 《 夜明け前》以外 は意味不明の 言語 による歌詞 aか らなるため、演唱者 は歌詞をカタカナに置 き換えて丸暗記 している。 また日本語 による 《夜明け前》の歌詞 にも、不 自然な表現がふ くまれる 22。 歌の旋律 は 16〜 32小 節か らなり、 I、
Ⅳ、 Vの 主要三和音 による伴奏が可能である。《ウラメ》や 《夜明け前》のように、 8小 節を単位 と す る 2部 形式か らなるもの もあるが、 《ウワ ドロ》のように、長 く弓 │き 伸ば したフレーズの終止音の あとで、強拍 と弱拍が逆転す る曲 も含 まれている。 こうした行進の動作、 メ ドレーによる演唱、歌詞 や旋律などの特徴は、 日本統治時代 に ミクロネシアで創作 され現在 も伝承 されている行進踊 りと共通 す る。 また、ヤ ップ島には 《 夜明け前》や 《ウワ ドロ》をうたえる人や記憶す る人たちもいる。
この南洋踊 りのパ フォーマ ンスが小笠原学校に導入 されたのは、 きわめて偶然のことであった。小 笠原小学校では毎年、連合運動会で全学年 による集団演技を行 っていたが、 1991年 頃、それまで演技 担当を していた赤間泰子元教諭が指導 に加われな くなった。 そ こで、石井良則・ 元教諭が提案 した
「児童による南洋踊 りの演技」が採択 されたのである (2001年 2月 、赤間泰子、北国ゆ う同伴 )。 石井 は、 1983年 母島小学校在職時に「南洋踊 りの歌」を習い覚えた経験があったが、 これを機 に磯辺守教 諭 とともに、浅沼正之 による南洋踊 り勉強会 に参加 した。残 りの教諭 は、 20分 の昼休みを使 って職員 室で ビデオを見なが ら練習を始めたが、細部がわか らなか ったため河野 一 (社 会福祉協議会 )を 学 校 に招聘 して伝習が行なわれた。つまり、 「学校教育的な知識の伝達」では不十分だとわか り、 「伝統 的稽古法」が導入 されたのである (Cf。 西郷 1995:128‑135)。 しか し、その過程で「少 し違 って習い 覚えたのが、どうして も改め られず…子 どもたちに指導」 した結果、子ども南洋踊 りは南洋踊 りをベー スとしつつ も、少 し異なるものになった器 (2001年 10月 、石井良則 )。
児童への指導 は、 まず町田・ 大浜による歌唱か ら始め られた。児童が うたえるようになった段階で ピアノ伴奏付でカセットテープに録音 し、それを運動会当日に流 して踊 ることにした。踊 りの指導方 法 は、 まず 5年 生 4人 2に 既述の返還 20周 年記念 カセ ッ トテープ『小笠原の民謡』を使 って放課後指 導 した後、その模範演技を体育館で見せなが ら全体学習をす るものであったる。 その結果、児童たち はテープが流れると自然 に身体が動 くほど習得で きるまでになった。練習の段階では、指導者 による 意図的な改編 も行なわれた。保存会では横隊で踊 るのだが、児童を円形に並ばせて円周 に向か って踊 らせた り、男女別に編成 したりと隊形 にも工夫が試み られた。「戦前 は身体をたた く音が遠 くまで聞 こえた」 と聞いていた石井 は、運動会当 日には指揮台の上で意識的に身体を強 くたたいたり振 りつけ を大 きくして踊 ったという 26。 こぅした改編を含む ことか ら、町田の提案によって「子 ども南洋踊 り」
と命名 し、発表することになった (2001年 10月 、石井良則 )。
このように、小笠原小学校では最初か ら郷土芸能の発表の場 として、運動会が意図的に活用 された わけではなか ったのだが、当日の「子 ども南洋踊 り」 は地域の人々に好評だった。 これに刺激 され、
児童の「子 ども南洋踊 り」 に対す る学習意欲が高 まり、翌年 には皆が率先 して覚えるよ うになった (2001年 10月 、石井良則 )。 一方、学校側の演出にも、次々と工夫が加え られていった。 たとえば、
「 バ ンブー太鼓」の導入があげ られる。すでに南洋踊 りにカカが定着 していたことを受 けて、複数の 児童が同時に演奏で きる竹製の打楽器を学校で製作 したのである。 また、踊 り歌 も録音 テープか ら、
歌唱担当の児童 によるマイクを使 った歌唱に変わ った。手作 りの衣装にも工夫が凝 らされて きた。導
入期には、女子 は赤いハイビスカスの造花を男子はバ ンダナを頭部につけ、体操着の上にスズランテー
プで製作 した腰みのを着用 した。材料 は、教諭が東京・ 浅草の問屋街 まで買い付 けて揃えた (2001年 10月 、石井良則 )。 2000年 度か らは、エコロジー問題を考慮 して、腰みのの材料を椰子の葉 に変えた。
椰子の葉を集めることか ら始める衣装づ くりには、父兄 も協力 している。 こうした努力の結果、地域 の人か らは「毎年やって もあきない」 と評 され、その年のパ フォーマンスは数 ケ月間地域の人々に話 題を提供す るという (2001年 2月 、池田光生 )。
ただ、 「子 ども南洋踊 り」への批判の声 も全 くないわけではない。一部の教諭か らは「子 ども南洋 踊 り」の運動的効果を疑問視する意見が出される (2000年 2月 、池田光生 )。 また、 「子 ども南洋踊 り」
を覚えた児童が高校生 になり、保存会の踊 りとの違いに気づいたことか ら、踊 りの「正統性」が問題 にされたこともある 27。 これは、連合運動会で子 どもたちの演技を観 ることによって、地域の人々の 民俗芸能・ 南洋踊 りに対する意識が高 まった結果だともいえる。そ もそも、学校文化 としての「子 ど も南洋踊 り」が きわめて短期間に創出されたのは、モデルである南洋踊 り自体が近代 日本の植民地で 生み出されたためハイブ リッ ドな性格を帯 びていたか らで もある。「正統性」を主張す る保存会の側 も、そのハイブリッド性を認知 したうえで、彼 らな りの工夫を加えなが ら南洋踊 りを自分たちの もの として発展 させてきた。それゆえ、保存会 も学校 と対立することな く、教諭のために講習会を開いて 協力 している (2001年 2月 、高崎喜久雄、北国ゆ う同伴 )。 このように、運動会 という学校行事を通 じて、南洋踊 りとそのヴァリエーションは、着実に世代や出自を超えて小笠原の人々に共有 されるも のとなったのである。
2.3 小笠原の連合運動会
「子 ども南洋踊 り」が広 く地域の人々に認知 されたのは、 そのパ フォーマ ンスの場が連合運動会で あったことにも因する。小笠原 (父 島 )の 連合運動会 は毎年 10月 10日 前後の日曜 日に開催 され、幼稚 園・ 小・ 中・ 高校合わせておよそ 230人 (う ち平成 13年 度の小笠原小学校児童数 は 131人 )の 幼児児童 生徒が参加する。平成 13年 度連合運動会 (10月 8日 実施予定 )プ ログラムは、開会式・ 閉会式を除 く
と、徒競走 A(小 )B(中 、高、一般 )、 小学校表現 (小 )、 小 (低 学年 )・ 小 (高 学年 )・ 中・ 高それ ぞれの団体競技、小・ 中および中・ 高合同の団体競技、幼児種 日、紅白 リレー A(小 1〜 4)B(小
5〜 6、 中、高 )、 応援合戦 (高 )、 職員対抗 リレー予選・決勝 (中 、高、一般 )、 地域対抗綱引き (一 般 )の 16種 日か ら構成 されている。団体競技の内容 は、 ムカデ競争 (中 )、 大玉転が し (小 ・中 )、 綱 引き (中 ・高 )と いったお馴染みの種 日、 「 /1ヽ 笠原 ダービー」
C/Jヽ・ 低 )や 「だいなまいと」
C/1ヽ・ 高 )"
のような複合的な独 自の競技か らなる。 これ らは、一部を除いて学校や学年を超えた縦割 りで行われ る。 リレー種 目も縦割 りで、小学校か ら高校 までが 2つ に分かれて実施 される。各学校の単独種 日は、
幼稚園の「 くるくる風車」、小学校の「子 ども南洋踊 り」、中学校のムカデ競争、高校の応援合戦 となっ てお り、中学校の種 日以外 は表現を重視する内容だと受 け取れる。
また、一般参加者による地域対抗綱引きや徒競争、職対 リレーが設定 されているの も大 きな特徴で ある。 「 13年 度連合運動会大綱」 には、 この行事の目的が①各校の身体活動を重視 した体育表現の場 とす る、②準備 0練 習・ 発表などの活動を通 して、児童生徒の自主性・責任感・ 協調性を育てる、③ 応援団を中心 に紅白それぞれの結束を図 り、対抗意識を持 って、相互の力量を高める、④家族、地域 の人々と一 日を楽 しく過 ごす ことにより、小笠原島民の一員であることの喜びと自覚を持たせると記 されてお り、その方針 としては①競技 に関 しては、児童生徒の発達段階を考慮 して各校の独 自性を生 かす、②村民 も参加できて楽 しいものにする (小 笠原村立小笠原小学校 ほか 2001)と ある。つまり、
連合運動会 は学習成果発表の場 としてだけではな く、地域 との交流の場 として位置づけられているの
106 小 西 潤 子
である。
このように小笠原では、小学校か ら高等学校 まで連続・ 一貫 して参加できる連合運動会の利点を活 かす縦割 りの種 日と村民参加種目を多 く設 けることにより、 この学校行事を通 じて地域に開かれた学 校づ くりが達成 されている。 また、小笠原を象徴 した種 目名称である「小笠原 ダービー」
K/1ヽ・ 低 )、
「 ボニンフットボール」 (高 )"も 含まれている。子 どもたちは、連合運動会に参加す ることによつて、
島民 としてのアイデ ンティティを確立 してい くことになる。小学校表現の「 子 ども南洋踊 り」は、い まやその中核を担 うものとなっているのである。小学校での 6年 間 これに参加 した児童 は、卒業後 も 観客であ り続 ける。長期にわたる参加 と鑑賞 によって、 「子 ども南洋踊 り」 は小笠原の子 どもか らお となへ と受 け継がれ、 1つ の学校文化 として構築 されていく。本土か ら太平洋で隔絶 された小 さな島 であること、近代 日本を経験 した ものの 1945‑1968年 のアメ リカ統治領時代を経て日本に再編入 され たこと、特殊な多民族社会を築いてきたことなど地域の もつ諸条件か ら、小笠原ではそれに適応する 学校が求め られてきた。地域社会 と学校 とが相互 に横断 しつつ、児童生徒の教育環境を整備せざるを えない事情があったともいえる。連合運動会には、 こうした小笠原の独自性が投影 されているともい える。
だが、近代学校教育のなかで成立 した運動会 は、学校行事のなかで も最 も地域 と密着 した性質をも ち合わせているともいえる。小笠原のケースに見 られる地域学校一体型の運動会は、かつては日本全 国で見 られたのである。次 に、わが国における運動会の歴史を振 りかえることにより、運動会が地域 社会のなかでいかに受容 されてきたかを考察 したい。
3 運動会と民俗芸能
3。 1 学校行事 と しての運動会 とその受容史
わが国最初の運動会は、 イギ リスの顧問団団長 ダグラス (Arcbald Lucius Douglas,1842‑1913) の提言を受 けて、 1874年 東京・築地の海軍兵学寮で行われた競闘遊戯会だといわれる。 その種 日は、
走 る 。投 げる・ 跳ぶ といった陸上競技的なものと、豚追い競争のような遊戯的なものか ら成 り立 って いた。平田によると、 これ らの種 日はヴァージニア州 ウイ リアムズバーグで、イギ リス軍人の守護聖 人 といわれ るセ ント・ ジョー ジの祝祭 日で行われた種 日と重 なるという (平 田 1999:86‑96)。 その 後、札幌農学校で「力芸」、東京大学で「運動会」 と称するエ リー トによるアマチュア 0ス ポーツ競技 会が開催 された。
こうした競技中心のスポーッ大会 は、そのまま日本全国の小学校に普及 したわけではなか った。小 学校の運動会 は、 1886年 4月 に公布 された「小学校令」によって、尋常小学校 と高等小学校で体操が 必須学科になってか ら実施 されるようになった。初期の運動会 は、各学校の児童 0生徒が「遠足行軍」
して近隣の野原・ 浜辺・神社境内 0練兵場などに集 まり、体操種 目を中心に軍事教練的種 日、競走的 種 日、遊戯競争的種 目 (平 田 1999:99‐ 103)を 行 うものであ った。学校外での開催 には、運動場が 整備 されていなか ったという事情があった。 しか し、 こうした運動会では、個々の競技以上に目的地 までの「行軍」が重視 されていた。「行軍」 とは、子 どもたちが隊列を組んで歩 くことであり、 もち ろん軍隊か ら借用 されたものである。行軍の重視 は、明治国家が軍事 と教育の両面で「規律 =訓 練的 な国民の訓育 システム」を整備 (吉 見 1999:16‑19)し たことを反映す る。 また、軍事教練的種 目が おこなわれたのは、それを通 じて 日本の子 どもの身体能力を欧米人並みに改造 しようとする、初代文 部大臣 0森有礼の意思が働いた結果で もあった (吉 見 1999:22‑23)。
一方、 こうした行政側の思惑 とは裏腹 に、地域社会において運動会は「村のマツリ」 として受容 さ
れていた。それは、 1885年 の東京府下の師範学校 に対す る知事か らの「運動会 卜号 シ…多人数相群 リ 酒 ヲ飲…等之挙動」をなす者を教員が監視すべ きだ という通達 (吉 見 1999:41‑42)か らもうかがえ る。初期の運動会には、教師や生徒数をはるかに超えた村をあげての見物人が盛装 し宴を張 りつつ競 技を観覧 した。 また子 どもたちもお祭 り気分で楽 しんだのであった。 1900年 代に入 ると、校庭で行 う 運動会が台頭 し、 ダンス (舞 踊 )が 種 目に加わった。その分、競技的種 目として徒競争のみが残 され た (平 田 1999:99‑106)。 就学児童数が増加 した大正期 にはいると、各学校 ごとの単独運動会が増加 した。 この頃には、オルガ ン伴奏による唱歌遊戯や リズムダンスが多 く登場す るようになった (平 田 1999:108‑112)。 たとえば、 「桃太郎」 「牛若丸」 「 日の丸」 「 お もちゃのマーチ」などの唱歌 に振 り付 けを加えたものや、 「バー ンダンス」 「 メディシンボール」 「 ポルカセ リーズ」 「 マスゲーム」のような リズムダンスがそれにあたる。平田・ 今林 は、種 目変化の背景 には新教育運動 における教材開発やオ ルガ ンの普及があると指摘する (平 田・ 今林 198&平 田 1999)∞ 。
それとともに、運動会 は日常の労働の疲れをいやす地域社会全体の祭礼的行事 として根づいていっ た。当日には商店 も休業 し、映画館の楽隊が競技 に合わせて演奏 したり、校門のそばにはあめやせん べい、飲み物を売 る出店が出るほどの賑わいを見せた。教育雑誌ではこうした傾向に対 して、「多額 の予算が費やされ、父兄 は家を空にして会場で酒宴にふけり、児童 も仮装行列に熱を入れるなど、運 動会本来の趣 旨か ら大 きく逸脱 して きている」 「安息 日である休 日に運動会が催 されている」 などさ まざまな批判が掲載 されている (吉 見 1999:39‑44)。 1930年 代後半 になってか らは、時局を反映 し た遊戯・ ダンス種 目が増えた。 また、 「運動会」か ら「体育会」、 「体練大会」 「練成大会」 と改称す る 学校が多 くなり、集団的競技、集団美、集団訓練を表現する種 目が選定 された (平 田 1999:118‑126)。
こうして運動会 は、次第 に軍事的色彩を帯 びたのであった。
以上のように、近代における学校での運動会の歴史を概観すると、競技、軍事、 ダンスとそれぞれ の時勢を反映させた種 目が加わ りなが ら、次第に学校の運動場のなかに収 まっていった。それに対 し て、観客 は村の祭 りの延長上にあるものとして受容 していたことがわか った。吉見は、 こうした近代 のマツ リとしての運動会を「規律 =訓 練的」な権力 と儀礼 =祝 祭的な権力の接合関係にあるものとと
らえている (吉 見 1999:9)。 しか し、 この関係 は第二次世界大戦勃発 によって崩れていき、次第 に 国家儀礼 として集約 されていった。
では、今 日の運動会 はどのようなプログラムか ら構成 されているのだろうか。次に、大阪府堺市の ある小学校 における運動会の事例をもとに考察す る。
3.2 堺市の A小 学校における運動会プログラム
A小 学校 (児 童数 600‑700人 規模 )は 、大阪府堺市の西区域 (面 積28.4kば、人 口 129,567人 、 48,735 世帯 )に ある。 この区域全体 は、臨海部の工業地、市街地、内陸工業地、農地などか らなる。人口は ゆるやかな減少傾向にあり、一方で高齢化率 は全市平均 に比べ高いという特徴がある。鉄軌道や幹線 道路が整備 されていて、大阪市中心部 までのアクセスが鉄道で 15分 くらいであることか ら、近年 は農 地が減少 し集合住宅や戸建住宅が目立つ。 A小 学校 はこの区域中央部 に位置 し、周辺 には公共施設や 商店街、大型 ショッピングセ ンター、金融機関などが整備 されている (堺 市 2001)。 平成 13年 9月 23 日実施 された体育大会では、 A小 学校 は事前 に申告 した保護者 らのみが来校できるよう証明書を発行 した 31。
プログラムは、合同体操 (ラ ジオ体操第 1)、 各学年 ごとの徒競走、低学年 と高学年 に分 けての リ
レー、団体競技、団体演技、 PTA競 技、職員競技の 24種 日と、番外の子 ども会対抗 リレーか ら構成
108 小 西 潤 子
されていた。団体競技種 日の内容 は、紅 白玉入れ (1年 )、 だるま運 び (2年 )、 綱引 き (3年 )、 棒 引 き (4年 )、 旗奪 (5年 )、 騎馬戦 (6年 )、 大玉お くり (全 学年 )か ら構成 されていた。綱引きと 旗奪は、前節で見たわが国における初期の運動会 (明 治 18〜 20年 )か ら実施 されていた種 日である 32。
玉入れ、騎馬戦、大玉お くり、およびだるま運 びに通 じる俵運 びは、遊戯競争的種 目が多様化 した大 正期か ら現れた種 日である (平 田・ 今林 1986;1988)田 。 このように、 A小 学校での団体競技種 目は、
100年 以上 にわたって受 け継がれてきたもので構成 されていた。
一方、各学年 の団体演技 は体育科 (文 部省 1999b)と 音楽科 (文 部省 1999a)の 学習 目標を考慮 した新 しい内容か ら成 り立 っていた。すなわち、 日本のポピュラー音楽を用いた表現 リズム遊び的な もの や リズムダンスと大 きななわとびを組み合わせ ることで「走・ 跳の運動」を取 り入れたもの 35、
世界のポ ピュラー音楽 に合わせてのフォークダンス (日 本の民踊を含む )と リズムダンス 36、 西洋の ポ ピュラー音楽 にあわせて、徒手での運動や人の重 さを利用 した運動を取 り入れた表現運動 "、 担当 教諭の笛を使 った号令 による組み立て体操 "が 実施 された。 これ らに用い られた音楽 は、各学年担当 教諭の判断によって、子 どもに親 しまれている日本の流行歌やアニメ主題歌、長年 日本で親 しまれて きた民俗音楽、 リズム感をとらえやすい音楽のなかか ら選曲されたものと見受 けられた。児童以外の 参加種 目については、昼食後 に教職員競技および PTA競 技が設定 されていた。 これ らが この時間帯
に設定 されたのは、摂食直後の児童 に対する健康上の留意か らで もあろう。
以上のように、 A小 学校の運動会のプログラムには「伝統的な」団体競技種 日と徒競走、新 しい教 育的観点が取 り入れ られた団体演技種 日とがバ ランスよ く、子 どもの発達段階に合わせて各学年 に配 置 されていた。 また、子 どもの健康 と安全、保護者や地域への配慮 もなされていた。 しか し、個々の 内容 には A小 学校の特色が表れていたとはいいがたい面 もある。「昼休みを借 りて」実施す る子 ども 会主催の対抗 リレー 39が 唯一の地域 ぐるみの種 日であるとい うの も、開かれた学校づ くりの実現の困 難 さを思わせる。 A小 学校のみならず、多 くの場合、運動会は学校文化の一方的な成果発表にとどまっ ているのではないだろうか。 こうした運動会を観客はどのように受 けとめているのであろうか。
3。 3 受容から見る運動会の可能性
平成 13年 9月 29日 付の『朝 日新聞』 には、運動会観戦のマナーに関する記事が掲載 された (大 村
2001)。 その焦点 となっていたのが、保護者によるカメラや ビデオカメラでの撮影マナーの問題であっ
た。いいアングルをと思 うあまりに人の前 に立ちつ くしたり、撮影 に夢中で拍手や声援を行わなかっ たり、閉会式前 に帰宅する保護者の態度が批判 されていた。今 日の運動会 は、 もはや集団美や集団的 競技を観戦する場ではな く、 ファイ ンダーの中に写 ったわが子を記録する場 となっている。その目的 が達成 されれば儀式的な部分 はカ ッ トして もかまわない、 という個人主義的な態度が日立つようであ る。 しか し、そうした観客の態度にも運動会のマツリ性への期待が見え隠れ している。先の投稿には、
ほかにも当 日午前 1時 か ら場所 とりをす る例、 ビールを飲み午後 になると昼寝をす る父親を批判す る もの も含 まれていた。ひとりの 39歳 の主婦 は、「『親にとって子 どもの運動会 って何 ?』 と考えて しま いました」 と投稿を締め くくっている。 これ らは、学校行事 における親のマナーの悪 さを物語 るもの として、多 くの賛同を得 る意見であろう。ただ、 この疑間を投 げかけたのは「学校を中心 とした文化 交流のもと、みんなと同 じでありたいという等質化 された価値観」が広が った高度経済成長期 (神 谷 2001)に 学校時代を過 ごした年代の親である点 にも注 目したい。 ここでは、あえて運動会で飲酒行為 が黙認 されている現状 に、わずかなが らも救いを求めたい。 なぜな ら、マツ リにはサケは不可欠であ
り、すでに述べたように運動会の初期か ら飲酒 はつ き物であったか らである。
かつて、主体的な観客 として参加する立場にあった保護者の一部 は、客体化 したわが子の身体 に冷 たい レンズを差 し向ける観察 。記録者 になった。だが、行 きす ぎは見 とめ られないにせよ、早朝か ら の席取 りや運動場の一角にシー トを敷いて家族で弁当を広げるありさま、 ビールを飲みなが らの観戦 は、 ほかの学校行事では見 られない光景だといってよい。 これは、 まだ受容する側 に、近代の運動会 が果た してきたマツ リ性の片鱗が受 け継がれているか らだといえないだろうか。月ヽ 学校の学校行事の なかで、運動会 は休 日に設定 された「特別な」行事のひとつでありつづけている 40。 今 日の日本にお いて、運動会 は村のマツリか ら学校の管理下におかれた核家族のためのマツリヘと変貌 している。 し か し、受容す る側が運動会 にマツ リ性を期待する限 り、学校 は現代のマツ リとしての運動会を演出で きる可能性を もつ 4。 これは、学校側が一方的に学習成果を披露す ることか ら、観客の意識をおのず と巻 き込むような投 げかけを行なうという姿勢へ と転換することによって、実現可能 となるのではな いだろうか。たとえばそこに地域 と密着 した民俗芸能をとりいれると、さまざまな観点か らの反応や 評価がなされ、それをめ ぐって地域 との連携を強め られる。それが可能な地域 は、学校流にア レンジ したものを運動会に導入することを検討する余地 は十分ある。地域独 自の民俗芸能を もたない場合、
学校文化 としての新 しい民俗芸能的な もの一たとえば、長年 にわたって学校内で継承可能なパ フォー マ ンスーを創出することによって、一歩ずつで も地域 と横断する場を築けるか も知れない。
先に見たように、小笠原小学校で「子 ども南洋踊 り」が創出され、運動会 に導入 されたのは極めて 偶然の事情 によったが、そのことによって民俗芸能・ 南洋踊 り自体 も大 きく発展することになった。
もちろん、近代的な南洋踊 りはもともと学校および運動会 と親和的であった。 しか し、 これが「小笠 原島民」 としてのアイデ ンティティを創造する中心 となったのは、多様な民族集団か らなる社会の中 で、その構成員 として自己を位置づける必要を感 じた 42新 参者の方であった。彼 らの積極的な活動 に よって、小笠原の芸能 は「 自分たち」のものへ とアレンジされ、創造 され続けているのである。学校 文化 もそうした新参者に含 まれる。小笠原の事例 は、学校文化が民俗芸能を創造 し地域 に投げかける
ことを通 じての学校 と地域 とが横断する可能性を示唆するものである。
4.地 域への働きかけの場 と しての学校行事 と民俗芸能学習に向けて
民俗芸能習得のための徒弟制 と学校文化 は、基本的にかみ合わない。小笠原の事例で も見たように、
「芸能組織の側が伝授の正統性を保証す るために必要な主張」 (福 島 1995:50)を す ることは しば し ばある。 しか し、学校での学習を拒絶すれば、伝統芸能や地域の民俗芸能の担い手や観客の裾野を広 げるのは極めて困難であろう。たとえ「真髄」 には至 らないものであって も、学校での芸能学習は次 世代の「新参者」やよき観客を生み出す 43の みな らず、子 どもたちが生涯 にわたって音楽 に親 じむ こ
とで「生 きる力」へ とつながる体験 となろう。そ して、実際に徒弟的学習 と学校での学習が相互干渉 し、混清や部分的代替現象が生 じている (福 島 1995:48)場 合 もある。パ フォーマ ンスの場を考え ると、ある「伝統的」芸能が本来の場ではない舞台で公演 されたリカルチャーセンターでデモ ンス ト レーションされるなど、「学校的」なや り方で行なわれることは しば しばある。その場合、多少なり とも本来その「伝統的」芸能を再構成 し、脱 コンテクス ト化することになる。一方、近代 とともに成 立 し構築 されて きた「学校文化」 に根 ざす芸能パ フォーマ ンスが、「伝統的」 なコンテクス トに回帰 す ることはない。それゆえに、学校での芸能パ フォーマ ンスは、それ固有のコンテクス トの中で硬直 化 しがちだ ったのではないだろうか。
双方の利点を考えた場合、芸能組織や地域の側 には「学校文化」固有の芸能をそれ独 自の ものとし
て認知 し批判することが求め られ、学校側 には内部での実践 と披露 に満足することな く、学校外にも
110 西 潤 子
学習成果を広 く公開 しさまざまな声を聞 き入れてい く努力が求め られる。本論では、そのために双方 が歩み寄 るための場 として、その芸能にふさわ しい学校行事を活用 してい くべきだと述べた。その実 践例 として、小笠原の連合運動会 と子 ども南洋踊 りの例をあげて考察 してきた。運動会 は、児童生徒 と一体 となって応援することで、観客が積極的な参加者 となりえる数少ない学校行事である。つまり、
観客は直接の参加者である身内の子 どもの身体 に自分の身体を重ねて観戦するのである。 このように 観 る側を引き込む身体感覚 は、 まさに民俗芸能のパ フォーマ ンスに通 じるものである。競技 も民俗芸 能 も、共同体の儀礼や祭礼のなかに組み込まれたものか ら、観客 と演者 とに制度的に分化 され (金 芳・
松本 1997:37‑43)、 さらに今 日ではその間にメディアを媒介 させ るに至 った。 この流れを止めるこ と自体 は不可能であろうし、学校側が規制を強化すると、ますます学校行事 は学校のルールの中で閉 じたものとなる危険性がある。本論では、 この問題の解決方法にまで言及できなか った。 しか し、情 報化 とメディア化の加速化が とまらない時代 に育つ子 どもにとって こそ、身体を動かす ことを通 じて 地域 と接点を持つ体験の場 は、 きわめて重要であることは明 らかである。 こうした子 どもたちの成長 を援助するためにも、学校には地域か ら学ぶだけでな く、地域へ と働 きかけることが求め られている のである。
謝 辞
共同調査および事後調査では、北国ゆう氏 に大変お世話 になった。 また、調査後 も頻繁な電話やファ クシミリでのや りとりに応 じて くださった矢作利三・ 小笠原小学校教頭、長引 く避難生活のなかで、
子 ども南洋踊 り導入の経緯 についてびっしりと記 された原稿をお送 りくださった石井良則・ 三宅島小 学校教諭 (元 小笠原小学校教諭 )の 各先生をは じめ、た くさんの小笠原関係者の方々、 とりわけ本稿 執筆に直接関連する情報を提供 くださった瀬堀 エーブル、高崎喜久雄、赤間泰子、池田望、池田光生 (前 小笠原小学校長 )、 鈴木敏之 (小 笠原村役場主査 )、 米満明子、島田絹子 (小 笠原村教育委員会 )
各氏および東京都教育庁生涯学習部および列記できなか ったすべての人々に感謝する。
凡例
1.筆 者が個人的に提供を受 けた情報 については、本文中に (情 報提供年月、提供者氏名 )で 示す。
また、共同調査で得 られた情報 については (情 報提供年月、提供者氏名、 〔 同伴者氏名〕同伴 )、
2次 的情報 については (情 報提供年月、提供者氏名、 〔 調査者氏名〕調査 )と 表記する。
2.本 文中で言及す る人物の うち、生没年が明 らかな場合 は、氏名 (生 年 一没年 )な い し氏名 (生 年
― )と 表記する。
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.「民謡」 「音楽」 「伝統芸能」の内容については、本来 は厳密な定義づけが必要である。本論では その煩瑣を避 け、ひとくくりにす る。
小学校の歌唱教材 として地方 に伝承 されているわ らべ うたや民謡 (文 部省 1999a:112)、 中学 校 の表現教材 と して「郷土の民謡」 を取 り扱 う (文 部省 1999a:102)と されている。 また、
「郷土の音楽」ない し「郷土の伝統音楽」 は、小学校第 3・ 4学 年および中学校の鑑賞教材 として 取 り扱 うものとされ (文 部省 1999a:103,108)、 選択教科 としての「音楽」では「郷土の伝統 芸能など地域の特質を生か した学習、表現の能力を補充的に高める学習」を工夫 して取 り扱 うも のとされる (文 部省 1999a:77)。
音楽教育の立場か ら加藤は、 「横断的・ 総合的学習」の時間にふさわ しいものの一例 として、「 も
ともと総合的な性格を もつ「祭 りの音楽」をあげている (加 藤 1997:20)。 その学習計画 として
は、① 自分たちが住む町や村には、 どのようなお祭 りがあるか話 し合い、その中か ら音楽や踊 り
が活躍 しているお祭 りを選ぶ、②選んだお祭 りについて、 グループごとにテーマを決めて調べる
計画をたてる、③お祭 りに携 っている人々、家族、近所の人々などに話を聞いて調べる、④実際
のお祭 りの本番に出かけ、調べたことを確かめる、⑤ グループごとに調べたテーマをまとめる、
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