孝 重視の思想について
− 中国古代の容隠を通して1
福 田 芳 典
一︑今なぜ孝か■
﹁孔子とその周辺思想﹂という題の下︑中国古代の諸子百家の思想を概観する予定を変更︑焦点を絞っ
た内容にした︒たまたま︑国際家族年と銘打たれた年でもあったために︒
﹁私がこの研究︵﹃満州事変と政策決定過程﹄緒方貞子︶を試みなければ︵両親は︶ いま少し多くの孝養
を受け︑︵夫は︶ いま少し落ちついた家庭生活を楽しみ︑︵子供は︶ いま少し母親と遊ぶ時間を持つことが
出来たのではないかと思う﹂として﹁この本は家族ぐるみの努力の成果だ﹂と記したのは︑現︑国連難民
高等弁務官の緒方貞子氏の前記書物のあとがきであると上坂冬子氏は記している︒雑誌﹁正論﹂ ︵平成五年
八月号︶には上坂冬子氏のインタビューに答えて次のようにものべている︒﹁父は私がカリフォルニア大学 におりました時に狭心症をおこしたために︑私はあわてて留学を切り上げるかたちで帰国しました︒⁝⁝
母は脳出血で病院に出たり入ったりしましたが︑私の手で介護することができました︒たしかに大変では
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ありましたけれど︑親の最期を世話できるくらい幸せなことはありませんから︑私は運がよかったのでし
ょ う︒ ﹂
﹁私は自分なりのテーマにそって仕事をしてまいりましたが︑最終的にはいつも家庭を優先してまいり ま し た
︒
⁝
⁝ 私 は よ く 女 子 学 生 に 申 し ま し た
︒ 女 性 に は 男 性 と は ち が う サ イ ク ル が あ る の だ か ら
︑ あ せ っ て目標をきめるより︑自分のサイクルを生きながら長期戦で構えたほうがいい︒﹂と︒上坂氏は緒方氏につ
いて﹁子育て ︵二人の︶ の合間をみて博士号を取得したという話に私は圧倒される思いである︒⁝⁝その
人の口から語られる場合に限り︑聞きかじりの男女平等をとなえる女子大生でも納得するのではないか︒﹂
と感想をのべている︒
現今の自由という名の下での自己本位の世相の中で︑このように親を夫を子供を深く思いやって日常を 過ごし︑かつ︑世界を舞台に活躍している人がいるということを忘れてはなるまい︒
孝 − は単に親を扶養するというだけではない︒思いやりのある温かい心で敬愛する気持ちが奥にあっ
ての行為だからこそ一層尊いのではないか︒そして︑それは身近な人から次第に広く及んでいくものでも
あ ろ う︒ そ う し た 心 を 創 り だ せ れ ば
⁝
⁝
二︑孝の重視と直 ︵正直︶ − ﹁直窮﹂を例として
Ⅲ ﹃論語﹄子路簾の第十八章
菓公︑孔子に語げで日く︑吾が党に直窮なる者有り︒其の父羊を擾みて︑子之を証せり︒孔子日く︑吾
が党の直き者は︑是と異なり︑父は子の為に隠し︑子は父の為に隠す︒直きこと其の中に在り︒︵党は郷党︒
直窮は正直者の窮と呼ばれた者︒証は証人となって役所に訴え出る︶
こ れ は
︑ 菓 公 が 自 慢 す る 正 直 と は 親 を も 罪 人 と し て 訴 え 出 る よ う な 極 端 な 正 直 で あ る が
︑ 孔 子 は
︑ そ れ
は人情の自然に反する行為だとして退けている︒里仁篇第十八章に﹁子日く︑父母に事へては幾諌す︵そ
れとなくいさめる︶︒・⁝﹂ということばがあって︑親が万二過ちを犯した場合には︑子供は気持ちを和 らげ︑心をおだやかにして︑それとなく諌めるのがよいといっている︒さて︑﹁直とは自己を偽らぬことで ある︒然るに︑子として父の悪を露わし︑父として子の悪を露わすことは︑人情の自然を偽わることであ
る︒隠すことは必ずしも直であるとはいえぬにしても︑その間おのずから人情を偽わらざる美しさがある︒
而して孔子はその人情の自然を偽らざる美しさの中に正直を観じた訳である︒漠代の法律或は唐津などに 容隠という制度があった︒これは隠せる者を容すことであるが︑全く孔子のこの章の教に基づくものであ った︒もちろん今日の法治国家の精神から見れば︑或は若干の異見もあろうが︑人情を害わぬことが政治 の要道であるとすれば︑これも一応考えなければならぬものであろう︒﹂これは﹃論語の講義﹄にのべられ
ている諸橋轍次先生のことばである︒
倒 ﹃韓非子﹄五蛮篇 楚に直窮有り︑其の父羊を窺む︒而して之を更に謁ぐ︒令平日く︑之を殺せ︒以為らく︑君に直にして︑
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〇
父に曲なりと︒報へて之を罪せい㌔是を以て之を観れば︑夫の君の直臣は父の暴子なり︒魯人君に従ひて
戦ひ︑三戦して三北す︒仲尼其の故を間ふ︒対へて日く︑吾老父有り︒身死せば之を養ふもの莫きなり︒
仲尼以て孝と為して挙げて之を上せり︒是を以て之を観れば︑未の父の孝子は君の背臣なり︒故に令ヂ託
して楚姦上聞せず︑仲尼愛して魯民降北を易んぜり︒︵略︶古老︑蒼頴の書を作るや︑自ら環む者之を私と
謂ひ︑私に背く之を公と謂へり︒公私の相背くや︑乃ち蒼諜回り以て之を知れり︒︵令平は宰相︑三北は三 度逃げる︒姦は近親者の隠れた罪︒暴子は父の悪をあぼく子︒蒼頴は文字を創案したとされる人︒環は自
分のためばかり営る︒書は文字︒︶ 私の古い字はム︑公はムに背く︒八は背く︒
この﹃韓非子﹄の例では︑直窮は楚の宰相によって﹁君に対して正直だが︑父に対しては不人情だ﹂と
して殺されてしまう︒以後︑楚の国では近親者の罪を届けなくなったという︒また︑孔子は戦争に行き逃
げ帰った男を老父に老養を尽くすためと聞いて高い地位につけた︒以後︑魯の国では人民は敵に降参した
り 逃 亡 す る の を 何 と も 思 わ な く な っ た と い う
︒ 韓 非 は こ の 二 つ の 例 を 通 し て
︑ 父 に と つ て の 孝 子 は
︑ 君 に とつての逆臣となるとのべ︑上下の利害はかくのごとく相反するものだと説く︒文字を創案した蒼頴は公 私が相そむくものであることを知っていて文字をつくつたとも述べている︒国家の統治を重んずる韓非は︑
楚の宰相の考えとは逆に︑直窮が父の罪をあばき夏に届けた行為こそ立派な行為だと推奨したのである︒
公 直
無 私
だ と
言 っ
て ︒
制 ﹃呂氏春秋﹄普務篇
楚に直窮なる者有り︒其の父羊を病み︑之を上に謁ぐ︒上軌へて将に之を誅せんとす︒直窮なる者︑之 に 代 ら ん こ と を 請 ふ
︒ 将 に 誅 せ ん と す
︒ 束 に 告 げ て 日 く
︑ 父 羊 を 病 み 之 に 謁 ぐ る は
︑ 亦 信 な ら ず や
︒ 父 誅 せらるるに之に代はるは亦孝ならずや︒信且つ孝にして之を誅すれば︑国に将に殊せられざる者有らんと するかと︒荊王之を聞き︑乃ち誅せざるなり︒孔子之を聞きて白く︑異なるかな︒直窮の信為るや︑一父
にして戟び名を取ると︒故に直窮の信は信無きに著かずと︒︵異は奇異︒載は再︒不著無信は直窮の信︵正
直 ︶
な
ど な
い 方
が よ
い ︶
この話は︑直窮の詭弁とも思える弁論に︑王侯の立場にある荊王は判断に迷い罰しなかったという例で
ある︒公権力の行使者たる者が︑私情を抜きにして父の悪をあばいたことについてそれを罰すれば︑韓非
の言うように以後の人民へのしめしがつかなくなろう︒病むこと自体は悪なのだから罰しないのではこれ も困ることになる︒問題は︑孔子の言うように︑親の罪の身代わりになろうという程の人情の厚い人物な ら︑最初から親の悪を訴えないで反省させるという方法をとるのが人情の自然というものであろう︒直窮
の行為は奇異な行為︑首尾一貫しない行為だといえよう︒孔子が︑父を利用して名声を得ようとした直窮
を批判したのはもっともだと言えよう︒荊王はこの点に触れずに直窮の主張に従うかに思える判断をした
のは︑王侯としての立場ゆえであろうか︒
以上︑三例により︑人情の自然を重んじ︑親子の情愛を重んずる中国古代の孝重視のl面が伺えたかと
思う︒儒家である孔子は葉公のいう正直は公的立場よりの理知のまさった合理に過ぎる考えで同意しがた いと言う︒孔子は人間のもつゆるやかな自己矛盾︑自己撞着を理性と感情との中に見つめつつ︑歯止めが
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きかなくなると流される恐れの強い人情に対しては﹁仁を好みて学を好まざれば其の蕨や愚 ︵人間らしく
ありたいと思っても向上心に燃えていないと︑愚かなお人好しになってしまう︶﹂ ︵陽貸篇︶と戒めている︒
﹃中庸﹄ には﹁道は人に遠からず︒人の道を為いて人に遠きは︑以て道となすべからず︒﹂ ︵第十三章︶
正道を行なうと称しながら︑あまりに人情から遠い行為・行動に出るなら︑正道とは言えない︒更に続け
て ﹁たとえば父母に仕えるには自分が子供からどうしてもらいたいかを考え ︵恕︶ て仕えればよい︒
自分にはまだできないことだが⁝⁝︒﹂また︑﹁諸を己に施して願はざれば︑亦人に施す勿れ︒﹂と孔子の言
葉を引用している︒
孝1−・尊重という考えも︑つまるところ︑人情の自然を重んじ︑まごころ ︵息︶ とおもいやり ︵恕︶ の
こころに収赦されていくようだ︒
三 ︑
﹁ 容
隠 ﹂
の
周 辺
−
孝
と 法
︵
律 ︶
−
二において孝尊重の例を見てきたが︑孝の蔭に隠れてはいるが︑現実の社会の秩序を具体的に支えてい
る律 ︵法︶ はどう機能していたか︒その条文や︑背景となっていた例などを管見する︒
Ⅲ 法の遵守︑孝の実曙 − ﹃孟子﹄尽心上篇
桃応問うて日く︑舜︑天子と為り︑皐陶︑士となり響捜︑人を殺さば則ち之を如何せんと︒孟子日く︑
之を軌へんのみと︒然らば則ち舜は禁ぜざるかと︒日く︑夫れ葬は悪んぞ得て之を禁ぜん︒乗れ之を受く る所有るなりと︒然らば則ち葬は之を如何せんと︒日く︑舜は天下を棄つるを視ること猶ほ散躍を棄つる
がごときなり︒縮かに負うて逃れ︑海浜に遵ひて処り︑終身訴然として︑楽しんで天下を忘れんと︒︵桃応
は孟子の弟子︒普哩は舜の父︑夫有所受之也はいったい刑獄の法は先王以来伝授する所のものであって︑
私することはできない︒敵躍は破れ草履︒訴然は欣然︶
中国古代の聖天子︑舜は︑天子であるがゆえに国の法に従い親子の情で法律を曲げるようなことはしな いという話︒もっとも︑その後で︑天子の位を棄てて親を背負って遠くの海辺まで逃れ︑親に孝養を尽し
て楽しく過ごすという︒宇野精l ﹃新釈孟子全帝﹄ には﹁天子といえども国法は柾げないことと︑天子の
位といえども父子の親愛には代えられないことが述べられているまでだ﹂という伊藤仁斎の考えを紹介し︑
更に﹁この章については大いに内容に問題があるが⁝⁝︵略︶﹂として︑朱の司馬光のこの話の偽作説をも
紹介している︒
佃
大 義
は 親
を 滅
す ー
ー 1
﹃ 春
秋 左
氏 伝
﹄
︵ 隠
公 四
年 ︶
経 九 月
︑ 衛 人 州 呼 を 干 磯 に 殺 す
⁝
⁝ 伝 厚︑州呼に従ひて陳に如く︑石措︑陳に告げしめて日く︵略︶⁚⁝血の二人の者は︑実に寡君を耗
せり︒散へて即ち之を図れと︒陳人之を軌へて池まんことを衛に帯ふ︒︵略︶君子日く︑石精は純心なり︒
州呼を恵みで厚与る︒大義は親を滅す︒とは其れ是の謂か︒︵州呼は衛の桓公を雑して自立した逆臣︒厚は
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八
四
石確の子の石厚︒池は処刑に立ち合うよう申し入れた︒大義滅親は重大な道義のためには親子の情︵親緑︶
も無視する︒与は巻き添えになる︶
魯の隠公四年︵B・C・719︶の春︑衛の桓公を耗した州呼と︑そのお供をした石厚とが陳の国に行った時︑
衛の国の老家臣である石靖は︑この二人は主君を試した悪人故︑二人をとらえて殺すよう依頼した︒陳の
国で二人は殺されたが︑悪かったのは州呼であったが︑石諸は息子の石厚をも巻き添えにした形で殺した︒
衛の国という大蓑の下では親子の情をも犠牲にした石楢の行為を君子︵立派な人物︶は彼を純忠な臣だと
賛えた︒息 ︵国の道養︶という大義の為に孝 ︵親子の情︶ も犠牲にされた︑容隠と衝突する例である︒
拗 容隠の条文 − ﹃唐津﹄名例枠内 およそ同居もしくは大功以上の親︑及び外祖父︑外孫もしくは孫の婦︑夫の兄弟及び兄弟の妻に罪あり て︑相ために隠すもの部曲妖婦主のために隠すものは官給ずる勿し︒︵略︶たとえそのこと漏露し︑及び消 息を樋語するもまた坐せず︒︵略︶もし謀叛以上を犯す者はこの律を用いず︒
﹃唐律疏議﹄巻第六︑名例六︑凡一十三候のうちの同居相為隠問答一の所よりの引用︒﹃中国の孝道﹄桑
原隙蔵︵講談社学術文庫︶ は﹁即ち謀反・謀大逆・謀叛のごとき国家及び皇室に関係ある特別犯罪を除き︑
その他の犯罪の場合では︑父母と子祖父母と孫︑夫と婿︑兄と弟︑伯叔父母と従子︑従兄弟同士等を始め︑
随分広い範囲の家族や親展の間において︑相互に犯罪者を隠蔽して差支えない︒単に隠蔽する以上︑さら
に進んで官憲追捕や手配や︑その他の事情等を通信して︑犯罪者に便宜を与えても罪にならぬ﹂と解説し
てい る︒
㈲ 他人同士の漏露は厳罰1−1﹃膚律疏議﹄巻第二十八候掃亡︑凡一十八候のうち︑掃罪人漏露其事よ
およそ罪人を掃うるに其事を漏露して逃亡することを得しむる者は︑罪人の罪より減ずること一等︒
また︑同書同巻のうち︑知情蔵匿罪人間答一より およそ情を知りて罪人を蔵匿し︑著しくは︑過致︵取り次ぎ︶資給し︑隠避するを得しむる者は︑各罪
人の罪より減ずること一等︒
﹁他人同士の間で︑官憲の追捕を犯罪者に内報して︑逃亡に便宜を与え︑もしくは情実を知って︑犯罪
者を蔵匿し︑又は金銭を給与して隠避に助力する者は︑本犯罪者より一等を減じて罪に処するのが一般で︑
かく重罪を科して︑犯罪者の隠匿を防範︵ふせぎとどむ︶するのである︒然るに家族や親展の間に限って 容隠を認めるのは︑ひっきよう家族制度を維持して︑親親主義︵みよりに親しくすること︶を保護する目
的に外ならぬ﹂と記し︑更に﹁儒教では﹃為親者韓︵親者の為に詩む=隠蔽する︶ ことと︑﹃為親者隠︵親
者の為に隠す︶﹄ こととは当然の行為として承認している﹂と﹃中国の孝道﹄には記されている︒
㈲ 父母を訴える者は絞 − ﹃唐律疏議﹄第二十三巻︑聞訟凡l十三億のうち︑告祖父母父母より
およそ︑祖父母︑父母を告する者は絞︒
孝 重視の思想について
創る
また︑同書︑第二十二巻 闘訟 凡一十六修のうち︑殴晋祖父母父母より
およそ︑祖父母︑父母を音る者は絞︒殴る者は斬︒
子や孫が︑祖父母︑父母を告訴することも︑罵言︵ののしる︶ することも︑ましてや殴ることは許され ない︒絞死刑や斬首刑となる︒﹃韓非子﹄五蛮篇の直窮が楚の令声に誅されたことの法令化ということにな
る︒親の過失に対しては﹁幾諌 ︵それとなくいさめる︶ せよ﹂ ︵里仁篇︶ とは孔子の言葉であった︒
㈲ 老疾者への扶養−﹃唐律疏議﹄第三巻 名例三 凡一十候のうち︑犯死罪非十悪 問答三より
およそ死罪を犯すも︑十悪に非ずして︑祖父母︑父母の老疾にして︑応に侍すべく︑家に期親︵二等親︶
の成丁なき者は上帝す︒流罪を犯す者は︑権に留めて親を養はしむ︒
十悪とは謀反・謀大道・謀叛・悪道・不通・大不敬・不孝・不睦・不轟・内乱の十種類の悪をいう︒﹃中
国の孝道﹄は﹁死罪を犯した重罪人でも︑その祖父母︑父母の年八十以上 ︵時代により年七十以上︶ の高
齢なるか︑しからずとも鴬疾あって自活し難きに︑これを侍養すべき至親の者見当らざる時は︑特に事情 を具して上帯し︑勅許により該犯罪者を留めて父母に侍養することを許す︒流罪の犯人ならば上帝を要せ
ず︒当該官憲にてその祖父母︑父母の生涯を見送り︑一周忌を終えてから︑始めて犯罪者に所定の実刑を
科するのである﹂とある︒ここでも親不孝者は対象外となる︒
∽ 君 ︑ 親 へ の 謀 反 ︵ 逆 心
︶ は 誅 − ﹃ 唐 律 疏 議
﹄ 第
一 巻
名例l 凡七候のうち︑死刑二のl日謀反の疏議より
案ずるに公羊伝に云ふ︑君親には将 ︵予備罪︶ 無し︒将すれば必ず誅す︒将に道心有りて君父を害せん
とする者は︑則ち必ず之を誅すを謂ふ︒︵﹃公羊伝︵﹃春秋公羊伝﹄荘公三十二年︶ ﹃中国の孝道には﹁君親
に対する逆罪は将 ︵未発︶と巳 ︵巳発︶との区別を認めぬ︒悪道の意志存すれば︑それだけにて大辟︵大
罪︶ に処するという︒大辟とは死刑をいう︒古代の五刑 ︵量刑・剃刑・剃刑・宮刑・大辟︶ のうち最も重
罰である︒わが国の﹁養老律﹂も﹁膚律﹂にならって﹁君親には将なし︒将すれば必ず誅す﹂の精神が継
承されていると指摘されている︒
以上︑容隠の周辺として︑孝に重きを置く法 ︵律︶ について管見してきた︒
終りに︑不孝に対する罰はどうかというと︑﹃唐律疏議﹄等一巻・名例十悪の不孝の欄に︑
祖父母︑父母を告言・阻普するは︑絞 ︵絞死刑︶
祖 父 母
︑ 父 母 在 る に 籍 を 分 か ち 財 を 異 に し
︑ 若 し く は 供 養 に 開 く る 有 り
︑ 父 母 の 喪 に 居 り て
︑ 身 自 ら 嫁
要し︑若しくは服を釈きて吉に従い︑祖父母︑父母の死を詐る者︑皆三年︵徒刑︶
祖父母︑父母の喪を聞くも︑匿して京を挙げず︑一年 ︵徒刑︶
﹁﹃明律﹄には︑凡そ人を罵る者は筈一十︑︵略︶されど親に対する罵言は絞︵絞死刑︶である︒﹂ ︵F中国
の 孝 道 ﹄
︶
孝がいかに律の上でも重んじられていたかがわかろう︒そして︑孝に生きた人々に想いを馳せるのである︒
孝 重 視 の 思 想 に つ い て 八 七