佐 藤 弘
はじめに
1948年 1 月、歴史学者の石母田正は、「村の歴史・工場の歴史」という論文を発表 し、そのなかで村の歴史、工場の歴史を農民・労働者がみずから書くことの意義と、
それに奉仕する歴史研究者の任務をといた(1)。その後、1952年 3 月この論文を含む
『歴史と民族の発見』(2)が刊行されると、若い歴史家と学生に大きな影響を与え、民 衆とともに歴史を書いていこうとする運動の推進力となった。この運動を「国民的歴 史学運動」とよんでいるが、運動推進の負担が研究者としては未熟な若い人たちに集 中したり、政治のおしつけやひきまわしの指導があったりしたため、1955年 7 月の日 本共産党第 6 回全国協議会による混乱が広がるにつれて、多くの活動家がこの運動か ら離れ、この運動は終焉した。
その後、運動の体験者を含めて様々な角度から総括がなされたが、この運動に「国 民的」という言葉が冠されたにかかわらず、「総括や批判が、大学・研究所に身をお く研究者のペースで行われてきた」(3)という問題があった。総括を行う人の社会的立 場により、おおきく評価が分かれているのである(4)。本稿では、普通の人々が、学問 を学ぼうとした場合どのような問題に逢着するのか、その問題をどのようしたら克服 できるのかといった観点から、国民的歴史学運動から何が学べるかを検討してみたい。
1 石母田正の提起
国民的歴史学運動の出発点となったのは、石母田正「村の歴史・工場の歴史」(5)で あるが、石母田の提起がどのようなものであったかまずみてみよう。
石母田は、中等学校の歴史教科書編纂の動向に関して、歴史を自分のものとして身 に着け教育するためには、教育現場の教師が自ら教科書を書くべきであるとして、教 師にまず手始めとして「平次郎地蔵」のような歴史物語を執筆することをすすめてい る。だが石母田の主張の中心はそこにあるのではない。「歴史はしかし学者や教師の みの仕事ではない。生活のあるところにはどこにでも豊かな歴史がある。学者や教師 の眼のとどかないところで営まれている歴史は民衆自身が書かねばならない歴史であ
国民的歴史学運動から学ぶこと
──特に「工場の歴史」について──
る」というのが、この論文が提起した問題である。では、「学者や教師の眼のとどか ないところで営まれている歴史」はどのように「民衆自身」によって叙述されるべき なのか。これについては、「伝統と歴史」という労働者の文章がおさめられている。
しかし、それは石母田が、労働者の書いたもとの文章を「私意を加えて補修」すると いうかたちで、再構成したもので(6)、石母田が工場の歴史はどう書かれるべきかをと いう構想を示したものである。この「工場の歴史」は次のように三層からなっている。
①労働組合の歴史
私の働いている池貝鉄工所は、工作機械工場で、明治以来の我が国の資本主義の歴 史を体現するような伝統ある工場である。戦後になって労働組合と、日本共産党の工 場細胞の活動が始まり、労働者の交通と統一を確立することができた。労働組合は争 議で勝利するが、そののちに開催された大会の席上で、この日を記念するために組合 の歴史をつくろうという提案がなされた。それは闘争の中で池貝の伝統を身にしみて 感じたからである。池貝における労働者の苦闘の体験をとおして年寄りと若いものの あいだにつくられてきた新しい結合が、動機となっている。池貝には資本家の歴史と 労働者の歴史という二つの歴史があり、資本家の歴史の方は社史として既に存在して いる。年寄りから若いものに物語として伝えられているまだ書かれていない歴史をこ れからつくっていって、労働者一人ひとりに配りたい。
②工場細胞の歴史
また賃上げを獲得した後の細胞会議で、細胞の歴史を書く必要があるという提案が なされ、承認された。それは、他の工場では、自分たちが以前に討論したことを行っ ている、われわれの細胞の経験をまとめておいたらどんなに他の細胞の成長のために なるかわからないという動機によっている。工場細胞は今まで想像もできなかった労 働者の新しい生活体であり、労働組合の闘いを支えている。この工場細胞の歴史がで きあがらなければ、組合の歴史も書けない。
③工場の歴史
しかし、①②の歴史は一面的であることが明らかになりつつある。それは、労働者 は工場を自分のものと考えていなかったが、銀行資本の圧迫の中で、工場と機械を死 守するのは労働者だけであることが理解され始めたからである。労働者一人ひとりが このことを真に理解したとき、工場と機械がほんとうに社会化されたとき、池貝のほ んとうの歴史が書かれる。この歴史は資本家の書いた経営の歴史でもなく、労働組合 や細胞の争議の歴史でもなく、それらが一本の太いたばになった新しい歴史である。
そもそも、労働者が歴史を問題とするようになったのは、労働者が工場のなかで 様々な課題に直面したからであり、それは労働組合や工場細胞の闘争の中においてで ある。このような中で生じた歴史に対する意識を「歴史意識」とするならば、労働者 の歴史意識の発展は①→②→③のように進行する。しかし、労働者自身が実際に歴史
の叙述を行うことは困難であり、これに対して、「歴史の専門家がその仕事を助けて やらねばならない。歴史について教える最上の方法は歴史を書くことを教えること、
そのような芽生えを育ててやることである。�高いところから民衆に呼びかけるので はなく、けんそんに一緒に仕事をする」のが歴史の専門家の役割である。この時点で は、石母田は、歴史家は労働者を援助する、つまり「歴史を書くことを教える」存在 であると考えていた。歴史研究者は労働者を啓蒙する立場に立つと考えていたといっ てもよいだろう。そこにおいて歴史家に要求される最大のものは謙遜な態度であった。
ところが『歴史と民族の発見』が刊行された1952年ともなると
戦前と戦後とでは、歴史学の基礎をなしている─問題にしているものは、根本的 に質的に変わってきたということなのです。戦前には、少数の歴史学者あるいは 歴史学者になろうとする人たちのためのものであったが、今は、町町、村村を含 めて、とにかくなんらか国民の解放運動に参加しよういう人たちが、歴史を問題 にし、同時に又歴史を書き始めているのです。その場合、問題なのは、そういう 新しい問題が提起され従って今までの方法ではどうにもならなくなってきてお り、経験の中から理論、方法の問題が提起されているということなので
(す)
�。と方法の問題として提起された(7)。
このような「新しい問題」の提起に対し、従来の歴史学の「方法」では役に立たず、
新しい「方法」が探し出さねばならない、というのである。ここに至って労働者や国 民の啓蒙の問題から、歴史学自体の問題として捉えるようになった。では、この「新 しい問題」とは何か。
この町
(福島県喜多方町のこと─引用者)
の歴史は、原則として町の人々が、専門 家の協力をまって、書くべきだと思う。その歴史は国民の歴史の一部として書か れねばならない。村の歴史や、町の歴史が、単に「地域社会」の歴史として、日 本全体の問題から、国民が全体として当面する問題から切離されて書かれたなら ば、それは村の歴史にも、町の歴史にもなり得ないとおもう。それは、国家権力 の問題や、国民全体の問題が、中央だけに存在するという考え方(であり)
�一面 的であり、誤っている。近代の日本、現在の日本のもっている根本的な矛盾は、この小さな町のなかにも、生きた矛盾として現に存在し、緊急の解決をせまられ ている。全体の矛盾と、個別的な矛盾とのつながりをいかにしてつかむかという 問題こそ、村の歴史、町の歴史をつくるばあいのもっとも根本的な問題なのであ る。このことは、町の歴史をあつかう小さい問題についてもいわれる。たとえば、
日本の近代及び現代が発展してきた基本法則、その具体的な歴史について正しく 知らなければ、塗師のおかみさんの物語でさえ、その正しい意味をつかむことが できない(8)。
このことは池貝鉄工所においても同様の問題が存在することが明らかになる。「伝
統と歴史」以後、実際に労働者は歴史叙述に着手したが、「とにかくなんらか国民の 解放運動に参加」した労働者であっても、「いざ書こうとすると書けない」「また努力 しても、何を書いたらよいか分からない」(9)という問題にすぐさま突き当たった。労 働者は、工場のことについて話す意味があるのかどうかわからないというのであり、
「何が一体大事なのか」ということを自分で判断できないというのである。また経験 を整理して、工場の歴史が具体的に認識できるようになったとしても、日本全体、あ るいは世界の問題と結びつけるには、全体的な観点がないとできない。では、これは 労働者自身によって達成できるかというと不可能である。だから、専門家が「何が一 体大事なのか」ということを労働者自身で判断できるよう労働者の「能力を高める」
よう「指導」しなくてはならない、ということになる。しかし、専門家つまり歴史研 究者の行う指導は、従来の歴史学の方法のなかには存在していないものであった。労 働者が身近な経験から出発して、それを全体的な観点から捉え返すことを可能にする ような指導が必要となったからである。これは「国民全体の問題となると、経験だけ ではどうにもならんものがある。そこに科学が成立すると思います。それと職場とか 家庭というものに出てきた歴史の芽生えをどういうふうに組み合わせるか」という問 題であり、その点にこそ「苦労」の焦点が存在するのであった。このようななかで、
労働者自身による「職場の歴史をつくる会」の運動が出現するのである。
2 「職場の歴史をつくる会」の運動
所属するサークルを異にする若ものたちが集まって、歴史の研究会を行っていた が、米騒動のところで、いままでの日本資本主義発達史の説明では農民がなぜ米騒動 に立ち上がったのかわからないという疑問が提出された。それについて、貧しいけれ ど多様なあり方をしている大衆の生活をつかまないと騒動はわからないし、「歴史」
はつかめないということになり、それを 共 同 研 究 でおしすすめることとなった(10)。 そして民科歴史部会のなかに米騒動の共同研究会が出現した(11)。
しかし、1954年 5 月頃になると活動は停滞し、研究会は解散に瀕していた。この時 たまたま日鋼室蘭労働組合員の上京を知り、彼らと交流する中で、竹村民郎が中心と なり、「歴史の本質をつかまえたいという強い要求から出発し、労働者階級の現実に 学ぶことによってこのような考えをもって来た二三の友人たちと相談し、労働者と いっしょに『工場の歴史をつくる会』をはじめることとしたのである」(12)。こうして 同年10月、「歴史学研究会、民科歴史部会の会員有志、東京大学、教育大学学生歴史 学研究会など多数の研究団体の有志と、国鉄、中小企業などさまざまな職場の人たち によって工場の歴史をつくる会が結成された」(13)。会の名称は、結成後新しい会員を 迎えるにつれて「工場の歴史をつくる会」では、会員の範囲が「工場」に限定されて
しまい、狭くなってしまうという意見が出され、「職場の歴史をつくる会」に改称さ れた(14)。また連絡先も民科歴史部会(15)から国鉄労働組合品川客車区分会(16)に移っ ている。
結成一年後にまとめられた「会のしおり」(17)によると、「会の趣旨」は
職場の人たちと自然や社会についての科学を学ぶ人たちがいっしょになって、働 くものがつくりだしてきた歴史の遺産をまもりそだてて、日本国民の歴史をつく りだし、その成果をひろめてゆくことを目的とします。そして職場から生まれて くる「働くものこそ歴史の主人公である」という確信と、未来への明るい見透し をもって励ましあってゆこう。
というものであった。この「趣旨」によると、会は必ずしも「職場の歴史」の研究の みを目的にするものではなく、もっと広く「国民の歴史」を対象とするものであった。
また研究それ自身が最終的な目標ではなく、研究の成果を通じて労働者としての自覚 を深め、労働者の共同性を確認することを目標としていた。また実際の活動をみると、
歌やフォークダンスの会をとおして、労働者が「自由に交際」することも行われてい た。このようなリクレーション活動は、労働者の要求に基づく職場のサークル活動の 常道であり、そのような活動を基礎として、その上に勉強会や「職場の歴史」の叙述 の取り組みが行われるという構成がとられたのである(18)。
主な活動としては(19)、月 1 回の連絡会、隔月の総会があり、機関誌として『職場 の 歴 史』
(隔 月 刊)
、『職 場 の 歴 史 をつくる 会 ニュース』(随 時)
が 発 行 された。この『ニュース』の編集作業を民科歴史部会のスタッフと会の編集係が共同で行う中で、
1955年 5 月に『歴史評論』職場の歴史特集号が刊行されることとなった(20)。そこに は「N労組の歴史」を中心として、労働者が職場における労働者の闘いを日常生活の なかから記録した文章が掲載された。この特集は好評で、発売と同時に売り切れとな り、『歴史評論』創刊以来初めて増刷をおこなったという(21)。その後、特集号に掲載 された職場の歴史をつくる会N労組グル─プ「N労組の歴史」と職場の歴史をつく る会東証グループ「私もついて行く」という 2 つの文章に、『職場の歴史特集号』の 刊行をきっかけに新たに関係をもった王子製紙労働組合や美唄炭鉱の労働者の文章を 加え、さらに研究者の文章なども収録して1956年 4 月に新たに単行本
(新書判)
とし て『職場の歴史』が発刊された(22)。収録された研究者の文章は、『職場の歴史特集号』刊行後の反響への反応という面を持っており、次に石母田正と井尻正二の文章をとり あげて、「職場の歴史」をめぐり、何が問題とされ、先の石母田が提起した課題がど のように受けとめられたか検討したい。
3 『職場の歴史』をめぐって
⑴ 石母田正「『職場の歴史』をめぐって」
「職場の歴史をつくる会」の運動の開始は、石母田にも大きな影響を与えた。この 会に結集した労働者の要求は、「労働者として、人間として自分を確立すること、職 場をそのために変えるためにどうしたらよいか学びたいということ」であり、そのた めの集団として「文化サークル」という形態が求められていた。だから「そこに参加 してくる労働者はなぜそのようなもの
(「職場の歴史」のこと─引用者)
が、自分たちに とっていま 必 要 なのかを 感 じていない」のであった。このようななかで、すぐさま「職場の歴史」をつくろうとすることは押し付けになる危険性があり、サークルの「自 主的な自由な組織」という性格を損ねることとなると石母田はする。このような発言 の背後には、池貝鉄工所の労働者との交流から学んだ石母田自身の反省があった。先 述のとおり、石母田が「村の歴史・工場の歴史」のなかで、池貝鉄工所の労働者の
「伝統と歴史」という文章を発表したのは、1948年のことであった。その後池貝の労 働者は、工場での闘いの歴史を勉強していくうちに、「みんなが知りたいことは、経 済のことや哲学のことだったりして、いわゆる『歴史』というのはそのなかのほんの 一部にすぎないこと、書くことよりも、まず学びたいというのがみんなの希望である ことなどがはっきりした」のであり、結 局 のところ「『歴 史』のことはいつかどこか へいってしまった」のである。この事態をまえに、石母田は労働者の学習を「歴史」
へ収斂させようとした自分の努力を「自分勝手の傾向」として反省するに至るのであ る(23)。
しかし、様々な職場の中には、工場の歴史を書きたいと考える労働者も存在するの であり、石川島造船所で働く二見さんという労働者は、「石川島労働運動史」(24)を発 表した。これは明治以降の石川島造船所の労働者の運動を編年体で概説したものであ り、これが実をむすべば、「日本の労働運動史の系統的な叙述に寄与するばかりでな く、同造船所の労働者の自覚と学習のために大きく役立つ」というのが、石母田の評 価であった。だが以前より石母田が提起していた問題は、ここでも現れている。
この場合でも、根本的な問題としてのこるのは、科学および科学者と右のような 個々の工場の歴史とのつながりの問題である。二見さんが石川島の労働者の編年 体の歴史をつくるさいにも、そこにあげてある参考文献を見ればわかるように、
たとえ不十分なものではあっても、従来の一般的な労働運動史や社会運動史を基 礎にしなければもちろんできなかった。そのような、一般的な歴史は、個々の工 場の歴史をつみかさねただけでできるものではなく、日本の近代史や資本主義に
ついての独立の科学的研究に基かねばならないことはいうまでもない。歴史の研 究者としてのわれわれが、二見さんのような仕事を援助するとすれば、右のよう な科学的研究を深めることによって、それと個々の工場の歴史との結びつきを明 らかすることであろう。それが研究者らしい援助の道である。ここに科学者とし ての私どもの責任がある�。
「身の回りのことならば、経験を整理すれば一応はできるわけです。しかしながら、
それも全体的な観点からの意味づけがないとできない」(25)という科学上の問題を、
ここでは、「二見さん」という現場の労働者と「科学者としての私ども」の関係の問 題として提起している。つまり二見さんは、専ら経験から出発して自分の働いている 工場の歴史を叙述するのに対し、「科学者」は、日本の近代史や資本主義について独 立した科学的な研究を行い、その研究成果をもとに「個々の工場と歴史の結びつきを 明らかにすること」によって二見さんを援助するという関係である。ここで石母田は 両者の研究上の持ち分を規定しているといってよいであろう。こうして石母田は「根 本的な問題」をこのような形で解決しようとしたのである。
⑵ 井尻正二「歴史の職場─科学運動の発展のために─」
井尻正二は地学団体研究会の指導者であり、また「国民的科学」の主唱者とみなさ れていた(26)。井尻は、職場の歴史特集号の刊行後、自然科学者として「職場の歴史」
をどううけとめるかについて民主主義科学者協会の機関誌に論稿を発表した(26)。井 尻は、職場の歴史特集号の刊行が歴史学界に与えた影響について、歴史学者を「びっ くりさせたり、ふるえあがらせたり、おこらせたりしている」としたうえで、この問 題状況を次のように整理している。
①「村の歴史・工場の歴史」をつくろうと提起され、その後、成果も発表されたが、
多くは専門家による調査とその叙述にすぎなかった。しかし、「職場の歴史」は労働 者が主体となり、実際にそれを実践した。
②「職場の歴史」に結集する若い歴史家や学生は、このような労働者の闘争の役に立 ち、労働者自身が書いた歴史を、これこそ本当の歴史だと強く主張している。その反 面で従来の歴史学と歴史家を、歴史学にあらずとは言わないまでも「なんだあんなも の」というセンスで見ている。
③従来の歴史家は「職場の歴史」を「あれはつづり方のようなもので、学問ではない」
という態度をとるか、または科学運動としての意味は認めるが、学問的な価値は殆ど ないという態度をとるかどちらかである。
このような問題状況を理解するために、井尻は科学者の仕事の三つの側面を指摘す る。それは科学者としていい仕事をすること、国民に科学の正しい知識や考え方を普 及すること、そして研究の自由を守り、研究条件を民主化することである。この点か
らすると「職場の歴史」は、まさにそのような科学運動のルツボであると井尻は把握 するのである。だから「このような科学の創造と普及の側面ひらき、民主化運動をも 進めている労働者と若い歴史家とその実践に、なにをおいてもまず敬意を表したい」
というのが「職場の歴史」に対する井尻の態度である。しかし井尻は、国民的歴史学 運動の代表的な成果である「『富貴の歴史』や、厚生省の『母の歴史』は、日本の史 学史上の一大金字塔というべきである」(28)というような見解はとらない。なぜなら
「『職場の歴史』がきり開いたものは、科学の正しい方向と、その第一歩」に過ぎな いからである。このような井尻の把握の背後には、生物学における「個体発生は、系 統発生をくりかえす」というヘッケルが発見した法則の認識がある。この「反復説」
という法則は、生物学上のものであるが、研究者もこのような経路をたどって形成さ れるというのが、井尻の主張である。つまり生物学の歴史的形成過程を個人の研究者 としての形成過程のなかで再現しているというのである。だからこれを歴史学にあて はめると、歴史の老大家にあっても「職場の歴史」のような段階を必ず通過してきた はずであるということになる。とするならば「職場の歴史」に結集する人びとは、職 場の歴史を新しい歴史学の体系に育てるためには、いままでの歴史科学の蓄積や伝統 をとりこんで、これに学ばなければならないのである。このように井尻は、「職場の 歴史」を歴史学の個体発生としての最初の段階として把握するのであるが、このよう な把握は石母田の提起した国民的歴史学運動の「根本的な問題」の解決に道をひらく ものであった。
4 国民的歴史学運動が残したもの
国民的歴史学運動は1955年の六全協以後に終息に向かった。国民的歴史学運動の
「挫折」をうけて、石母田は改めて国民的歴史学運動の経験を整理している(29)。こ こでの問題は、1950年代になると問題化するサークル活動と研究者との関係である。
民主主義科学者協会は、サークルが科学運動の基本的な活動形態の一つであるとする ようになるが、では一体科学者はそのサークルのなかでどのような役割を果たすべき か、ということである。これは「学問研究とサークル活動はどのような関係にあるか」
とも言い換えられる。「職場の歴史をつくる会」のようなサークルは、労働者の創造 的な仕事の土台となる。しかし、サークル自体は、何かを知りたい、学びたいという 思いをもっている人たちが集まってくる自主的な自由な組織である。確かに「村の歴 史・工場の歴史」や「母の歴史」をつくる運動は、サークル活動なしには考えられな いが、サークル活動のなかから自然発生的に生まれたものではない。だが、このこと からそれを歴史学の内部から起こった運動として捉えるのは正しくない。それはあく までもサークル活動の一環としてとらえるべきものであるというのが石母田の見解で
ある。
しかしこのことは、それがサークルの自主的な運動であることを否定するもので はなく、「村の歴史・工場の歴史」や「母の歴史」等の性質をかんがえるばあい に、この点を強調する必要がある。それはその目的と性質からみて、またつくり だされる場からみても、科学としての歴史学とは性質を異にしたものとしてとら えられねばならない。
つまり、「村の歴史・工場の歴史」と「科学としての歴史学」とは、「性質のちがった 二つのもの」というのが石母田の結論である。この両者には確かに内面的な連関はあ るが、むしろ重要なのはこのような「運動から生まれた各種の歴史叙述のジャンルの 質のちがい」をあきらかにすることであり、それが両者の協力の前提となるとするの である。
石母田は、1952年には「戦前と戦後とでは、歴史学の基礎をなしているものは、根 本的に質的に変わってきたということなのです。戦前には、少数の歴史学者あるいは 歴史学者になろうとする人たちのためのものであったが、今は、町町、村村を含めて、
とにかくなんらか国民の解放運動に参加しよういう人たちが、歴史を問題にし、同時 に又歴史を書き始めているのです」と捉えて、それが歴史学に新たな問題を提起した とした。ところが、ここに至って結局科学としての歴史学と「国民の解放運動に参加 しようという人たち」もっと広く言えばサークル活動に参加している人たちの行う歴 史叙述とは、「性質のちがった二つのもの」ということになったのである。
このような石母田の把握の基礎には、国民と科学者という二分法が存在していた。
戦前においては、歴史学は少数の歴史学者のものであり、「一般の国民と、それから 専門の研究者というものはそれぞれ別のオーダーに属している、というような考え方 がもたれていた」(30)のである。日本の敗戦とその後の民主化は、科学者に対しても おおきな影響を与え、科学者と国民との関係についての反省が科学者の中に生まれて くる。民主主義科学者協会は1946年に結成されるのだが、活動方針のなかに「科学に 対する民衆の意欲を満たし、たかめ、結集する」「科学および技術を民衆の福祉のた めに動員する」などが含まれていた(31)のはその表れである。これは「人民のための 科学」という考え方にもとづいているのだが、このような発想に大きな問題が含まれ ているのも事実であった。「人民のためといふことが第一いけない。他人事ではない のです」という批判(32)は正当であった。学問の方法としても
古代をとらえるためには専門の技術と専門家的習練というようなものが必要であ るということを理由として、古代史研究の専門家というものは、古代にたいして 一般の国民とは全く違った関心をもってよい、などと考えるものがあれば、それ は変だ、と私は考える。逆に、もし一般の国民がヨーロッパ古代というものにつ いて本当に知りたいというなら、結局専門家的な習練を経なければつかめない問
題がいっぱいあるのだということを心得ていなければならないのではないか。つ まり、一般国民向きのヨーロッパ古代というものと専門家向きのヨーロッパ古代 というものとの二つのヨーロッパ古代があるわけでない以上は、一般国民にとっ ても専門の学者にとってもそれをつかまえる方法というものは一つでなれければ ならぬはずだ。もし違いがあるとすれば、古代をつかまえることに専念できない 国民とそれをこまかくやれる国民との違いがあるだけの話であ
(る)
。という上原専禄の発言(33)は是認されるものであった。このようななかでの石母田の
「村の歴史・工場の歴史」の提起は、国民が身の回りから出発して科学をつくりだそ うとするものであり、科学者による国民の啓蒙という段階から大きく飛躍して、一人 ひとりの国民が科学の担い手となるとりくみであった。しかし、石母田はサークル活 動がもつ豊かな内容と将来への発展性を保障するためのサークル活動の自主性に大き な意義を認めることによって、結果としてサークル活動から「科学としての歴史学」
へ向かう回路を遮断することとなった。それが「性質のちがった二つのもの」「ジャ ンルの質の違い」という言葉に現れている。こうして石母田が提起した「根本的な問 題」は問題自体が解消されてしまうこととなった。このような石母田の総括は、「大 学の研究室を中心とする伝統的アカデミズムが復活整備されてゆくこととも対応して
�『国民的歴史学運動』には、きわめて清算主義的な評価がなされる傾向が生じた」(34)
という事態を招くことになるのである。
一方、「個体発生は、系統発生をくりかえす」という法則に依拠する井尻が率いる 地学団体研究会は、その後も大衆参加の活動を続け、1970年代には野尻湖の集団発掘 として国民参加の運動が花開くこととなるのである(31)。
また1950年代には岡山県の月の輪古墳の発掘が、地域住民の参加で大きく成功し た(36)。これはその後も地域に大きな影響を与え、現在では「地域考古学の原点」と してとらえられるようになっている(37)
これに対し、国民的歴史学運動の「挫折」後の歴史学界にあっては、1981年から開 始された「自由民権百年」の運動は、市民・学生・歴史教育者・歴史研究者が一体と なって自由民権の歴史を明らかにしようとするもので、「『国民的歴史学』の運動の成 果を受けつごうとした」と評価されている(38)。石母田の提唱以後「市民の歴史意識 の成長、教育者・研究者の層の厚さ、文化運動の経験の蓄積、多様の地域史・民衆史 研究を位置づける歴史学の内容の広がり」などの条件が伸長した結果であると捉えら れているのである。だが地団研の野尻湖発掘と比較することによって、ここでも国民 的歴史学運動の「挫折」の意味が浮かびあがってくるのである。
注