担当:林昌彦教授
(論文要旨)
記述情報による財務情報の補完
─開示資料を用いた実証分析─
兵庫県立大学大学院 経営学研究科 博士後期課程 2018年入学 学籍番号 BD18B001 石田裕明
2020年12月17日提出
(論文要旨)
1. 本論文の意義
近年、企業が開示する有価証券報告書やアニュアルレポートにおいて、非財務情報 の重要性が高まっている。この背景の一つに、企業価値に占める無形資産や、企業固 有のビジネスモデルの割合が増加していることが指摘されている1)。それを裏付けるよ うに、企業価値と財務情報との間における相関が低下していることが明らかにされて いる2)。
こうした背景を受け、金融庁は「記述情報の開示に関する原則」を公表し、財務情 報を補完する非財務情報の開示の充実を図る制度を整えた3)。同時に、「記述情報の開 示の好事例集」を公表しており、優れた非財務情報の開示の在り方を提示している4)。 そのため、本論文において、非財務情報(以下「記述情報」という)が、財務情報を 補完しているという証拠を提示することが必要である。
また、今日においては、記述情報を投資意思決定に利用する際に、機械学習の手法 が用いられるようになっており、既に社会実装が進められている5)。そのため、会計学 分野における記述情報に関する先行研究に加えて、機械学習分野における記述情報に 関する先行研究を、会計学とデータサイエンスの両視点から概観する必要がある。し かし、会計学分野、機械学習分野における先行研究を上記の視点から比較し、データ 基盤の概念を用いることで、両分野に残されている課題を示した研究は、これまで行 われていない。そのため、その課題を解決した研究についても、これまで行われてい ない。よって、会計学分野における先行研究と、機械学習分野における先行研究を比
1 経済産業省(2017)「伊藤レポート2.0持続的成長に向けた長期投資(ESG・無形資産投資)研究会報告書」, pp.9-
11およびpp.38-55。
2 加賀谷哲之(2012)「持続的な企業価値創造のための非財務情報開示」『企業会計』, 64(6), pp.79-80。
3 詳細については、金融庁(2019a)「記述情報の開示に関する原則」を参照されたい。
4 詳細については、金融庁(2019b)「記述情報の開示の好事例集」を参照されたい。
5 金融庁(2019c)「金融庁政策オープンラボ『有価証券報告書等の審査業務等におけるAI等利用の検討』実証実験の
結果概要について」において、社会実装を進めるための実証実験が行われている。
較し、両分野に残されている課題を提示することが必要である。さらに、その課題を 解決する研究方法を提案することによって、提示した課題を解決することが必要であ る。そこで、本論文では、上述している課題を解決することによって、記述情報が財 務情報を補完しているという証拠を提示している。
さらに、個別の事例においても、経営分析の基礎となる財務情報と、補完の役割を 持つ記述情報を組み合わせることが有用であることを示す必要がある。そこで、本論 文では、自動車産業において、金融子会社の存在が重要であることを財務情報と記述 情報を組み合わせた分析を行うことで明らかにしている。なお、自動車産業において、
金融子会社の存在が重要であることを財務情報と記述情報を組み合わせることで明ら かにした研究は、これまで行われていない。そのため、財務情報と記述情報を組み合 わせることが有用であることを示す新たな事例を提示している。
2. 本論文の構成と内容
本論文では、先ず、第1章において、会計学分野と機械学習分野における記述情報 に関する先行研究のサーベイを行い、本論文で解決すべき課題を検討している。そこ では、会計学分野では、特定の有価証券報告書の記載事項や、市販されているデータ ベースに依拠した形で行われているため、構造化されていない非構造化データの分析 は、十分に行われていないという課題があることを指摘している。また、機械学習分 野では、有価証券報告書や決算短信という非構造化データに着目しているものの、非 構造化データから構造化データへの変換過程がブラックボックス化されるため、変換 された構造化データが持つ意味や背景が理解されにくいという課題があることを指摘 している。
そして、これまで会計学分野において、研究対象となってこなかった非構造化デー タに着目した研究を行うことが課題として残されていることを明らかにしている。さ らに、会計学の知見に基づいた非構造化データの構造化データへの変換および蓄積を
行う研究についても課題として残されていることを明らかにしている。
上述の課題を解決するために、非構造化データである有価証券報告書に記載されて いる記述情報から、情報利用者の実態に即した記述情報の分類方法である過去情報お よび将来情報という構造化データへの変換を、意味や背景を踏まえながら行うととも に、変換した過去情報および将来情報が、財務情報を補完しているという証拠を提示 することが必要であることを提示している。さらに、個別の事例においても、経営分 析の基礎となる財務情報と、補完の役割を持つ記述情報を組み合わせることが有用で あることを示す必要があることを指摘している。
第2章では、第1章の内容を踏まえ、データが持つ意味と背景を明らかにすること ができる輸送用機器業界を対象に、記述情報が財務情報を補完しているという証拠を 提示することを目的とした実証分析を行っている。
実証分析に用いたサンプルは、東証一部・東証二部・JASDAQに上場している輸送用 機器業界に属する3月期決算企業であり、2018年3月期および2019年3月期のデー タを使用している。このサンプルとデータを用いた実証分析によって、以下の仮説1 から仮説5の検証を行っている。
仮説1:予測誤差の大きい企業は、過去情報と将来情報の変化量も大きくなる。
仮説2:前期比の収益変動が大きい企業は、過去情報と将来情報の変化量も大きくな る。
仮説3:予測誤差の符号が負の企業は、符号が正の企業に比べ、過去情報と将来情報 の変化量が大きい。
仮説4:収益変動の符号が負の企業は、符号が正の企業に比べ、過去情報と将来情報 の変化量が大きい。
仮説5:下方修正に関する記述情報は、上方修正に関する記述情報に比べ、開示量が 多い。
この研究によって、経営者は、過去情報および将来情報によって財務情報を補完す るという仮説を支持する証拠が得られた。また、データが持つ意味と背景を明らかに した上で、データ基盤を構築することができた。そのため、本論文の課題を解決する ための証拠の一つを提示することができた。よって、サンプルが輸送用機器業界に限 定されているものの、記述情報が財務情報を補完していることを明らかにすることが できた。
さらに、第3章において、データが持つ意味と背景を明らかにすることができる企 業ライフサイクルに焦点を当てた実証分析を行っている。そこでは、企業ライフサイ クルを色濃く反映することができる新興企業、成熟企業、倒産企業の企業群を対象に、
企業ライフサイクルごとに、記述情報の量や質に特徴が見られることを示す証拠を提 示することを目的とした実証分析を行っている。
実証分析に用いたサンプルの条件は、新興企業が2006年から2014年にかけて東証 マザーズに新規上場した金融業を除く企業、成熟企業が 2017 年 10 月 31 日時点の
TOPIX100の構成銘柄に収録されている金融業を除く企業、倒産企業が帝国データバン
ク「全国企業倒産集計」の2007年度報から2015年度報にかけて収録されている金融 業を除く企業となっている。また、新興企業については上場年度と上場翌年度のデー タ、成熟企業については2015年3月期から2017年2月期にかけてのデータ、倒産企 業については倒産前々年度と倒産前年度のデータを使用している。このサンプルとデ ータを用いた実証分析によって、以下の仮説6から仮説8の検証を行っている。
仮説6:新興企業・倒産企業は、成熟企業に比べ、過去情報と将来情報の変化量が大 きくなる。
仮説7:導入期・成長期・淘汰期・衰退期に識別される企業は、成熟期に識別される 企業に比べ、過去情報と将来情報の変化量が大きくなる。
仮説8:記述情報は、企業ライフサイクルの特徴を表現している。
この研究によって、成熟期の企業ライフサイクルに識別される企業に比べ、導入期、
成長期、淘汰期、衰退期の企業ライフサイクルに識別される企業は、企業ライフサイ クルの背景となっている財務指標の悪化の要因を投資家に対して説明しようと行動し ていることが明らかとなった。
したがって、企業ライフサイクルごとに、記述情報の量や質に特徴が見られること を示す証拠が得られた。さらに、有価証券報告書に記載されている記述情報は、ボイ ラープレート化した記載が多いという指摘とは異なり、企業の発展段階に応じた記述 情報の開示が行われていることが明らかにされたため、財務情報を補完する記述情報 の有用性を示す重要な知見が得られた。また、企業ライフサイクルというデータが持 つ意味と背景が明らかにされた構造化データを積み上げることにより、データ基盤を 整備することができた。そのため、本論文の課題を解決するための証拠の一つを提示 することができた。よって、サンプルが企業ライフサイクルを色濃く反映することが できる企業群に限定されているものの、記述情報が財務情報を補完していることを明 らかにすることができた。
上述している記述情報が財務情報を補完しているという観点について、第4章にお いて、個別の事例においても有用であることを示すことを目的とした実証分析を行っ ている。先ず、自動車メーカーが自ら開示している記述情報において、金融子会社の 存在は、競争戦略上の優位性をもたらす重要な存在であることが明記されていること を指摘している。そして、金融子会社に関する記述情報に対して、テキストマイニン グを行うことで、記述情報のみによる分析では、自動車メーカーとその金融子会社の 経営活動がどのような形で財務情報として認識されるのかを明らかにすることはでき ないことを確認し、財務情報と記述情報を組み合わせた分析を行う必要があることを 指摘している。
次に、金融子会社について数多くの先行研究がある商学や経営学の分野では、自動 車メーカーにとって、金融子会社の存在が重要であることが示されている一方で、会
計学分野における研究の蓄積が不十分であることを指摘している。このことから、財 務情報と記述情報を組み合わせることが有用であることを示す、新たな事例を提示す ることに繋がることを指摘している。そして、自動車メーカーにとって、金融子会社 の存在が重要であるという観点について、財務情報による実証分析を行っている。
実証分析に用いたサンプルは、大規模な金融子会社を持つ自動車メーカーであるト ヨタ自動車、日産自動車、本田技研工業、GM、Ford、Volkswagen、Daimler、BMWであ り、2000 年度から 2016 年度にかけてのデータを使用している。このサンプルとデー タを用いた実証分析によって、以下の仮説9から仮説12の検証を行っている。
仮説9:販売金融債権の期末残高が大きい企業は、売上高もまた大きい。
仮説10:販売金融債権の変化率が大きい企業は、売上高の変化率もまた大きい。
仮説11:販売金融債権の変化量が増加(減少)する企業は、売上高の変化量もまた 増加(減少)する。
仮説12:販売金融債権が増加(減少)する企業は、有利子負債もまた増加(減少)
する。
この研究によって、金融子会社は、自動車メーカーの経営成績に相当程度の貢献を 果たしていることを、記述情報だけではなく、財務情報と記述情報の両面から妥当で あることを明らかにすることができた。そのため、財務情報と記述情報を組み合わせ ることが有用であることを示す、新たな事例を提示することができた。
さらに、第5章では、自動車メーカーにおいて、自動車事業と金融事業のライフサ イクルが異なることを、キャッシュフロー・パターンから検討している。そこでは、
金融子会社において想定されるキャッシュフロー・パターンを予想し、キャッシュフ ロー・パターンによる事業ライフサイクルの識別が妥当であることを考察するととも に、財務情報による分析を行うことで、成熟期に位置している自動車事業に対して、
導入期あるいは成長期にある金融事業が成長を補完するという意味を持つことを明ら かにしている。
この研究結果によって、将来の経営成績やキャッシュフローの予測に資する、自動 車産業に特有の原因を明らかにするとともに、セグメント別のキャッシュフロー情報 が、有用な情報を提供している証拠を提示することができた。また、この研究によっ て、第4章の研究結果を補強する証拠が得られ、第4章の財務情報と記述情報を組み 合わせることが有用であることを示す個別の事例を精緻化させることができた。
そして、第6章では、第2章および第3章において実証分析を行った際に、残され た課題として挙げている有価証券報告書の分析に最適化された辞書の整備についての 検討を行っている。そこでは、先ず、会計学および経営分析の分野において、最も網 羅的に整備されている専門辞書から単語を抽出し、分析に用いるユーザー辞書の作成 を行っている。会計学分野における専門辞書として、神戸大学会計学研究室(2007)
が編纂している『第六版 会計学辞典』を用いた。経営分析分野における専門辞書と して、日本経営分析学会(2015)が編纂している『新版 経営分析事典』を用いた。
そして、作成したユーザー辞書を用いて、会計学および経営分析の分野の専門辞書 が有価証券報告書の分析に有用であることを確認するための分析を行っている。分析 に用いたサンプルは、2019年10月31日時点においてTOPIX100の構成銘柄に収録さ れている企業であり、2019年3月期から2020年2月期にかけてのデータを使用して いる。
この分析によって、有価証券報告書の分析において、会計学および経営分析の専門 辞書を用いることは有用であることが分かった。他方、有価証券報告書の記載事項ご とに、会計学および経営分析の辞書の有用性は異なることが明らかとなった。有用性 が高い結果が得られた記載事項は、「MD & A」、「配当政策」、「コーポレート・ガバナン スの状況等」、「独立監査人の監査報告書及び内部統制報告書」であり、有用性が低い 結果が得られた記載事項は、「経営方針、経営環境及び対処すべき課題等」、「事業等の
リスク」、「研究開発活動」である。そのため、有価証券報告書の記載事項ごとに、会 計学および経営分析の知識に基づく記述情報が占める割合が異なるという知見が得ら れた。したがって、有価証券報告書の分析に最適化された辞書を整備する際の指針の 一つを示すことができた。
さらに、「監査上の主要な検討事項」を早期適用している 47社の「独立監査人の監 査報告書及び内部統制報告書」を分析することにより、会計学の分野における網羅的 な辞書に比べ、監査実務に特化した「監査基準委員会報告書の体系及び用語」が有用 であることを明らかにした。これにより、会計学および経営分析の分野における個別 の専門分野に特化した辞書を整備することで、有価証券報告書の記載事項を捉えた、
より精緻な分析が行えることが分かった。したがって、有価証券報告書の記載事項の 特徴を捉えた辞書を整備する際の指針の一つを示すことができた。
このように、本論文では、非構造化データである有価証券報告書に記載されている 記述情報に対して、会計学の視点によって、サンプルが持つ意味や背景を踏まえなが ら構造化データへの変換を行うとともに、変換した構造化データが、財務情報を補完 していることを示す証拠を提示するという新たな研究方法を提案している。また、サ ンプルが限定されているものの、上述している研究方法によって、記述情報が財務情 報を補完していることを明らかにすることができた。したがって、会計学分野におけ る新規の研究領域を開拓することができたといえよう。
そのため、機械学習分野の研究とは異なる会計学分野の研究における独自の貢献を 示すことができた。
3. 本論文に残された課題
本論文に残された課題の一つは、データが持つ意味と背景が明らかにされたデータ 基盤を拡大することである。これは、本論文で用いた輸送用機器業界や企業ライフサ イクルのように、非構造化データである有価証券報告書に記載されている記述情報か
ら、会計学の視点によって、サンプルが持つ意味や背景を踏まえながら構造化データ への変換を行い、変換した構造化データが、財務情報を補完しているという証拠を提 示することが必要となる。
さらに、本論文の実証分析で使用した非構造化データである過去情報と将来情報以 外の非構造化データに着目する必要がある。情報利用者にとって、過去情報と将来情 報以外の重要な非構造化データとして、具体にセグメント情報が挙げられる。特にわ が国の企業は、米国や欧州の企業と比較し、事業の多角化が進展しているため、セグ メント情報の重要性は高い6)。
しかし、会計学分野において、セグメント情報に関する記述情報を対象とした研究 は、著者の知る限り、これまで行われていない。この理由の一つとして、セグメント 情報に関する記述情報は、有価証券報告書の記載事項ごとに断片的に記載されている 非構造化データであるため、構造化データとしてデータ基盤が整備されていないこと が挙げられる。したがって、会計学分野において、非構造化データであるセグメント 情報を、構造化データとして整備することが求められる。
本論文に残された課題のいま一つは、財務情報と記述情報を組み合わせることが有 用であることを示す新たな事例を提示することである。これは、本論文で用いた自動 車産業における金融子会社のように、企業が開示している記述情報の内容を財務情報 によって裏付けることが必要となる。他方、財務諸表分析によって得られた特徴を記 述情報によって裏付けることも必要となる。
そして、上述している本論文に残された二つの課題を解決する際に、より精緻な結 果を得るためには、第6章で検討しているように、有価証券報告書の分析に最適化さ れた辞書を整備する必要がある。とりわけ、有価証券報告書の記載事項ごとに、会計 学および経営分析の知識に基づく記述情報が占める割合が異なるため、有価証券報告 書の記載事項ごとの特徴を捉えた辞書の整備が求められる。
6 中野貴之(2018)「セグメント情報の実態」『法政大学キャリアデザイン学部紀要(法政大学)』, 15, pp.198-201。