3.吉宗ゆかりの出世大黒天にみる歴史的風致 大黒天祭礼は、養源寺よ う げ ん じに所蔵されている大黒天の開帳とともに執り行われる一連の祭礼で ある。江戸時代、養源寺に大黒天が納められ、大黒天信仰が高まるにつれ地域の年中行事と して位置付けられたようである。『紀伊国名所図会【嘉永4年(1851)】』には「広村養源寺初 甲子きのえねにぎわい賑 の図」として境内から溢れる黒山の人集だかりが描かれている。「遠近の人々尊崇そんすう大かた ならず、香火こ う か日によひて盛なり、就 中なかんずく毎年初甲子日卯刻、暫時開扉するを以て、参詣殊に 夥おびただ し。」と述べ、大黒天信仰は遙か遠方まで及んでいた様子がうかがわれる。 養源寺の草創は室町時代にまで遡る。鹿ヶ瀬峠法華壇での骸骨法華経読誦奇譚き た んの円善上人 を開祖としている。室町時代末期には鹿ヶ瀬峠から広村田町に移り、その当時は鹿ヶ瀬山法 華寺と名乗っている。 現在の養源寺の境内地は、室町時代には、名島広城を構えた紀伊国守護畠山氏の「畠山御 殿」で、江戸時代には紀州藩主の御殿地 であった。正徳元年(1711)養源寺は、 広の要衝であるその跡地を拝領してい る。 畠山氏は応永7年(1400)から永正 12 年(1515)約 110 年余りの間、紀伊国守 護職に就き、天洲の浜を埋め立て居館を 設け、海岸沿いに四百間余りの波除石垣 を築くなど広村繁栄の基盤を固めてい 江戸末期の広村絵図(手前が養源寺) 広村養源寺初甲子賑の図(紀伊国名所図会:国立国会図書館蔵)
る。養源寺堀よ う げ ん じ ぼ りも「畠山御殿」の海側に築かれ、広浦漁民は、この堀を基点に西国や関東沿岸 に出漁したという。徳川頼宣が紀州藩主の時代には、畠山御殿の跡地に新たな御殿「観魚亭かんぎょてい」 を建て、別 業べつぎょうの地としている。人々はそれを「広浜御殿」と呼び、藩主は度々遊猟で立ち寄 ったり、熊野参詣での途中の宿としたりして利用した。徳川頼宣は近郊に馬場を設け、今も 「院の馬場」の地名が残っている。 吉宗と養源寺の結びつき 徳川吉宗は江戸幕府第八代将軍で、紀州藩五代藩主 を務めている。宝永7年(1710)紀州藩主となった吉 宗は、藩政機構を簡素化するなどの藩政改革に着手す る。また、藩内各地で甚大な被害を発生させた宝永4 年(1707)宝永地震津波の復旧費などで悪化していた 藩財政の再建に手腕を発揮している。享保元年(1716) 江戸幕府の将軍に就任すると、紀州藩主時代の藩政を 幕政に反映させる改革を行った。享保の改革は江戸幕 府の破綻しかけていた財政の復興を果たしたことか ら、中興の祖とも呼ばれ江戸時代を代表する名君の一 人である。平成28 年(2016)は吉宗将軍就任 300 年の節目にあたる。 養源寺の大黒天画像は、遠く九州肥前からもたらされている。寛永年間(1624~1644)、 九州肥前の廻船が紀伊水道で突然嵐に遭い漂流し、命からがら広の浜辺まで流れ着いた。そ の廻船の船員一人が、大黒天画像を所蔵していた。大黒天画像は、鎌倉時代の画師大蔵尉某 筆の大黒天画像に、日蓮にちれん上人が画賛した掛け軸である。船が嵐に翻弄された時、その船員は 船中の人々に「吾信ずる大黒天なり、ともどもに祈願せよ」と語り、皆大黒天の名を唱え一 心に祈ったので船は転覆をまぬがれたのだという。その後、九州肥前の船員たちは、郷里へ 帰る旅費調達に困り、広村の崎山甚右ヱ門に頼んで金子を借り、その代わりに大黒天の掛け 軸を預けて去った。崎山氏は、養源寺住職日泉上人から大黒天の功徳を聞き、このようにな ったのは大黒天がこの地に留りたいのであろうことかと思い、掛け軸を養源寺に奉納した。 その後、紀州藩五代藩主吉宗がこの地に猟遊の際、当地に立ち寄り家来富松喜兵衛から大 黒天の由来を聞いて、深く信仰の心を寄せた。吉宗は貞享元年(1684)子ね年生まれであり、 鼠は大黒天のお使いだといわれたことから信仰が始まったともいわれている。 吉宗は、宝永4年(1707)宝永地震津波で被災していた 養源寺を見兼ね、正徳元年(1711)頼宣の御殿跡地を寺領 として養源寺に寄進し、同3年(1713)には寛かん徳院とくいんの御殿 を江戸から養源寺に廻送し、本堂や書院その他諸宇を建築 徳川吉宗肖像(1684~1751) (和歌山市立博物館蔵)
寺から養源寺へと改めている。棟札には「当寺本堂並境内 寄附 中納言吉宗公長福君 小次郎君御武運長久 正徳 三年癸巳正月 願主 浄圓院」と記されている。 やがて、吉宗は享保元年(1716)将軍職を継いだが、 大黒天信仰は篤く、またその生母浄 圓 院じょうえんいんも深くこれを崇 敬していた。吉宗は紀伊藩主時代に一度、将軍時代にも2 度養源寺を訪れ、大黒天を拝観している。養源寺には紋章 入りの長持、浄圓院愛用の唐御鏡、吉宗の父母状なども残り、徳川家との深いつながりが明 らかである。養源寺は、昭和7年(1932)4月に大黒天堂をあらたに建立し大黒天信仰を更 に深めている。 現在、養源寺は、本堂、書院、方丈、僧坊、鐘楼、大黒堂等が立ち並び、書院は平成12 年 (2000)広川町指定文化財に指定されている。 養源寺書院 養源寺本堂(左中央)大黒天堂(右) 紋章入り長持
大黒天開帳 徳川吉宗が将軍の座を射止める一連の幸運は、大 黒天の霊験によるものと当時は取り沙汰され、養源 寺の大黒天は「出世大黒天しゅっせだいこくてん」と称された。天保10 年 (1839)完成の『紀伊続風土記』に「遠近の貴賤毎 年正月初子には群衆をなして参詣し世に出世大黒と いふ」と載る。大黒天は庶民の信仰を集め、年一回の 開帳である初甲子の日には群衆が殺到した。大黒天 は卯の刻、現在の朝5時から7時の間に開帳し、先 立って堂で御籠りが行われていた。大黒天の祭礼はその後も途絶えることなく続けられてい たが、早朝や平日の大黒天開帳に人が集まりにくくなったことから、昭和 35 年(1960)頃 旧暦の初甲子の日から4月の第1日曜日の午後開帳に変更している。昭和39 年(1964)『有 田タイムス』の記事に「有田三大祭の一つで、近畿一円から参拝人がつめかけて賑わった」 と掲載され、この地方を代表する祭礼であることが分かる。現在、大黒天の祭礼は、養源寺 護持会12 名の役員が中心となり営まれ継承されている。 前日の宵大黒天祭では、午後6時から祈願祭が執り行われる。役員達は祈願祭を知らせる 梵鐘をつき鳴らし、町内に響き渡る鐘の音を合図に地域の人々が連れ立って集まってくる。 昭和39 年有田タイムス記事 ■出世大黒天祭礼関連図
当日は午前 10 時から御祈祷が始まり、昼食を挟んで午後に説法があり、午後2時から大 黒天像が開帳される。当時を偲び当日は書院を大奥に見立て、そこに安置している大黒天画 像を、肩衣かたぎぬを付けた50 人程の警護と福娘 10 人で大黒堂に渡御する。大黒天開帳は、大黒堂 で「南無妙法蓮華経」の読経と太鼓が打ち鳴らされるなか、大黒天像が開扉される。大黒天 像を納める厨子は龍の図柄が繊細に施された、三つ葉葵の紋が入る紀州徳川家から譲り受け た豪華なものである。一目見ようと集まった信者は、手を合わしながらその大黒天像を拝す る。その後抽選会が開催され、境内に臨時に立てられた 櫓やぐらから餅撒きが行われる。餅撒きは 地域の大人や子ども達の楽しみで、餅撒きの時間が近づくと拾った餅を入れる袋を手に、方々 から人々が集まってくる。やがて、梵鐘の鐘の音を合図に餅撒きが始まると境内には大きな 歓声が起こる。餅撒きが終わると、大黒天の祭礼は終了となる。 取り替えられた新しい幣 宵大黒天の様子
養源寺は、中世町割りの要衝に位置し、境内には徳川吉宗ゆかりの建物が残る。その様子 から境内には信仰が保たれた独特の趣を感じ取ることができる。養源寺の伝統的な建物が佇 む境内から山門を抜けると広の町場に繋がり、養源寺と町場の成り立ちが絡まり変遷を遂げ てきた歴史が想起される。中世畠山氏が築いた基盤の上に、紀州徳川家の庇護で萌芽した地 域とのつながりが幾重にも積層し、人々は大黒天祭礼に対する親しみを今も強く感じている。 毎年4月に執り行われる大黒天の祭礼は、古くから受け継がれてきた大黒天に対する人々の 篤い想いと、手厚く守られてきた徳川吉宗ゆかりの建造物などとともに、町の成り立ちや人々 のたゆまなく続くつながりと相まって本町固有の歴史的風致が形成されている。 大黒天餅撒きの様子 大黒天開帳の様子