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インドネシア・マレーシア両国独立後の言語協力に関する史的考察

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インドネシア・マレーシア両国独立後の言語協力に関する史的考察

目次

凡例

序章 本研究の動機、問題の設定、鍵概念の定義および先行研究 ・・・ 5

第一節 本研究の動機 第二節 問題の設定

第三節 主要鍵概念の定義

第四節 先行研究および本研究の課題と方法

第一章 インドネシアにおける社会変容と言語綴りの変遷 ・・・ 14

はじめに

第一節 インドネシア語綴りの誕生 第二節 インドネシア語綴りと社会状況

2.1 綴りにおけるオランダの影響 - オップハイゼン綴り 2.2 独立直後のインドネシア人による綴り - スワンディ綴り 2.3 言語綴りの脱植民地化 - 改新綴り

2.4 インドネシア・マレーシアの言語協力 - ムリンド綴り 2.5 本格的言語機関の設立 - インドネシア語新綴り/LBK綴り

2.6 インドネシア・マレーシア両国の言語の近代化 - 完全インドネシア 語綴り

第三節 完全インドネシア語綴り制定後のインドネシア語 おわりに

(2)

第二章 複合民族社会マレーシアにおけるマレーシア語の地位と役割 ・・・ 80

はじめに

第一節 20世紀初頭のマレー語の発展

第二節 シンガポールにおけるマレー語の歴史

第三節 ブルネイ・ダルサラムにおけるマレー語の地位 第四節 独立前後のマレー語に対する関心

第五節 マレーシアにおける綴りの変遷

5.1.植民地下の西欧人による綴り-ウイルキンソン綴り 5.2.マレー人による綴り-ザーバ綴り

5.3.日本軍政期の綴り-ファジャル・アジア綴り 5.4.独立前後の綴り-会議綴り

5.5. 独立後の綴り-マラヤ大学綴り

5.6 マレーシアにおける言語の近代化-新綴り 第六節 マレーシア語確立に貢献した会議

第七節 独立後のマレーシア語の地位と役割の変貌 おわりに

第三章 近代語形成と言語会議の役割 ・・・ 124

はじめに

第一節 1938年第一回言語会議 - 戦前の民族主義の成果

第二節 1954年第二回言語会議 - オランダ色の払拭

第三節 1978年第三回言語会議 - 近代化への道

おわりに

第四章 言語近代化と両国の言語研究・実施機関 ・・・ 142

はじめに

第一節 インドネシアにおける国語発展・育成機関 - Pusat Bahasa (言語セ

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ンター)

第二節 マレーシアにおける国語発展・育成機関 - Dewan Bahasa & Pustaka (言語・文学協会)

おわりに

第五章 インドネシア・マレーシア2国間の言語協力機関 ・・・ 174

はじめに

第一節 両国間での最初の共同言語研究・実施機関 - インドネシア・マレーシ ア言語審議会(Majelis Bahasa Indonesia-Malaysia[MBIM])

1.1.インドネシア主導期の言語審議会 1.2.両国協力期の言語審議会

第二節 ブルネイ・ダルサラム参加後の3国による共同言語研究・実施機関-ブル

ネイダルサラム・インドネシア・マレーシア言語審議会(Majelis Bahasa Brunei Darussalam-Indonesia-Malaysia[MABBIM])

2.1.ブルネイ・ダルサラム加入直後の言語審議会 2.2.3カ国協力期の言語審議会

おわりに

終章 インドネシア語、マレー語の今後の問題点と可能性 ・・・ 238

第一節 インドネシア、マレーシア両国の言語交流と共通問題 第二節 インドネシアの言語環境の現状

第三節 マレーシアにおける言語状況と問題点

第四節 アセアンの公用語としてのマレー語の可能性 おわりに

参考文献 ・・・ 257

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凡 例

1.人名、新聞名は原則として当該国での一般的呼称をカタカナで表記している。人名の 原綴りについては「外国人名原文表記一覧」を、新聞名については巻末の参考文献「一 次資料」を参照されたい。

2.参考文献の多くがインドネシア語、マレーシア語によるものであり、日本語訳を付す と煩雑になるため、原文のみを記してある。

3.機関名は、原則として初出の際に正式名で表記し、それ以外は基本的に略語あるいは 日本語訳名を使用している。

4.ブルネイ・ダルサラムの表記に関し、国名として使用する場合はブルネイ・ダルサラ ム、機関名に使用する場合はブルネイダルサラムとする。(ブルネイダルサラム・イン ドネシア・マレーシア言語審議会)

(5)

序章 本研究の動機、問題の設定、鍵概念の定義および先行研究

第一節 本研究の動機

本論文はインドネシア、マレーシア両国独立後のインドネシア、マレーシア両国間の言 語協力に関する研究である。

インドネシアの国語を研究していた筆者は、インドネシア語の語源はマレー語であり、同 じ起源に発するマレーシア語も学ばなければ真の意味でのマレー語研究とはならないこと を研究過程で実感することになった。

上記理由からインドネシアの大学で学んだ後マレーシアの大学で両言語の比較研究、特 にオランダ、イギリスの植民地支配の確立後両国言語が別の道を歩んだ足跡を考察した。

現在の両言語の差異は歴史的(植民地時代)、地理的、人種的問題など複合的な諸要因 から生じたものである。マレー半島ではこの両国の言語を統一しマレー社会を団結させよ うとする50年代文学者世代(Angkatan Sasterawan’50)等の団体が1950年前後に現れ た。そのためには同語族間の協力が必要不可欠であった。これが彼らの努力の原動力の一 部となり、本論文の一章から五章までで論述する経緯を経て一度は歴史的要因により別の 道をたどり始めた両国語が、再びマレー語を植民地化以前の共通語として共有していた状 況を目指し歩み始めた。

筆者は両言語を学ぶ中で、両国の言語育成機関がどこかで接点を持ち協力関係を結ぶこ とが望ましいと考えた。もしそのような言語育成機関があるならば接触し、その活動内容 を調査、研究したいとする意欲が本研究の動機となった。その後調査した結果、本論文第 五章で述べる言語育成機関の存在を知ることができた。本言語育成機関であるインドネシ ア・マレーシア言語審議会(Majelis Bahasa Indonesia-Malaysia[MBIM])はインドネシ ア、マレーシアの一般社会にはあまり知られていないが、1972年発足以降両国国語の質的 向上に多大なる貢献をしている。

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第二節 問題の設定

インドネシアは東南アジアの南部に位置し、東西 5000 キロメートルにおよぶ群島国家 であり、現在のインドネシア領内において紀元1世紀には既にインドと中国の貿易の重要 な中継地点となっていた。その後インドへ仏教を学びに行く中国人僧侶たちが立ち寄り、

7 世紀には仏教教育を行う施設もでき現スリランカに居住していたインド系の僧侶がその 教育に当たるようになった。『南海寄帰内法伝』を記した義浄もインドから中国へ帰国の途 に着く前695年から数年間、7世紀後半からパレンバンを都としてマラッカ海峡とその国 際交易の支配により繁栄した交易国家のスリウィジャヤ王国で経典の翻訳に携わっている。

その後アラビア商人がインドに拠点を置き貿易のため直接インドネシアを訪れるように なる。このようにマレー系住民の他インド人、中国人、アラブ人などが交わる状況となり 共通語としてスリウィジャヤ王国の繁栄と共にインドネシアやマレーシアなど現在のマ レー語圏に広がったマレー語が普及範囲の広さ、文法の簡潔さなどから必然的にリンガフ ランカとして使われるようになった。

一方ヨーロッパに目を向けると、1453年コンスタンチノープルがイスラームの領地とな ったため、西欧にとりアジア・ヨーロッパ間の貿易路の確保が困難となった。独自の自由 なものを創造するというルネッサンス精神により西ヨーロッパ諸国は独自の貿易路を模索 することになり、海洋民族であるポルトガル人が航海を始めた。16世紀になると大航海時 代の始まりとともに西欧人が東南アジアに来航するようになり、インドネシア、マレーシ ア両国を植民地化することになった。1824年の英蘭条約によりイギリス人が現在のマレ ーシア領、シンガポールおよびインドを、オランダがほぼ現在のインドネシア領を植民地 とすることが決定すると両国のマレー語もそれぞれの植民地政府の言語や政策の影響を受 け発展していった。

本研究ではこのような状況下で本来は同一であった言語が次第に別言語として変化し ていく過程を社会言語学的に分析したい。狭義の社会言語学では年齢、性別、職業、教育、

地方、地域などに分類し調査、研究を行うが、本論文では広義の社会言語学、すなわち歴 史、社会状況との関連から分析を進めたい。

言語の発展は政治、経済、社会状況に大きく左右され、一般的には次の4期に分類され るがインドネシアの場合の時期区分は以下のようになるであろう。

1.確立化期 (~1947)

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2.安定化期 (1947~1972)

3.育成期 (1972~現在)

4.保護期

インドネシア語の場合確立化期は、最大言語のジャワ語に代わり 1915 年のキ・ハジャ ル・デワントロによるマレー語の共通語化の提案から始まる。デワントロはタマン・シ スワ学校の指導者としても知られ、1913年から1919年までオランダで追放生活を送って いる時期に本提案をインドネシアにいる青年民族運動家たちに行ったものである。本期 の重要な出来事として 1928 年には「青年の誓い」が採択され、インドネシア語がインド ネシアの唯一の民族語に宣言されたことがあげられる。1938年には当時の新聞紙上のイン ドネシア語の乱れを嘆き第一回インドネシア語会議が開催された。日本軍政期になると オランダ語と英語の使用を禁じ、インドネシアの民族運動を推進する知識層により普及さ れつつあったインドネシア語の使用を政策上本格的に実施し、それまでオランダ語で生活 を送っていた知識階層が真剣にインドネシア語を学び始めた。

安定化期は、第二次世界大戦後からインドネシア語発展のため多くの困難を乗り越え 1972年に完全インドネシア語綴りが完成するまでの期間である。1960年代後半からの経 済開発に伴い国内に流入してきた外国語、特に英語の乱用によるインドネシア語の質的低 下の時期であった。

育成期は、1972年から現在までの期間である。1980年代、1990年代には俗化された外 国語が横行し、これを制御できずインドネシア語やインドネシア文化の価値の低下が危惧 された。この状況を回避するためスハルト大統領が 1995 年に国家規律運動(Gerakan

Disiplin Nasional)を開始した。国家規律運動とはインドネシア国内の一般社会における

「規律の乱れ」を正すため1995年5月20日「国家覚醒の日」からスハルト大統領により 実施された。秩序、衛生、労働および正しいインドネシア語の使用に焦点が置かれた運動 である。秩序に関しては整列に重点が置かれた。公共の場では整列して順番を待つこと と、信号に従うことが喚起された。衛生に関しては、ごみはゴミ箱へ捨てることが促され た。またジャカルタなどの都市の所定の場所で清掃人が10時、12時、14時,16時に清掃 作業を行うこととした。労働に関しては、遅刻、早退をなくし就業時間を遵守することが 強調された。また言語に関しては、言語は広く社会に影響を及ぼすので社会の安定を実現 するため正しいインドネシア語を使用し、社会に良い影響を与えることが目標とされた。

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上記理由から教育文化省の言語センターを中心に活動が開始された。ワルディマン・ジョ ヨヌゴロ教育文化相は正統かつ適切なインドネシア語の使用はインドネシア民族としての 誇りを喚起する。またインドネシア民族としてのアイデンティティを忘れないよう子孫の ためにも正しいインドネシア語を維持していかねばならない、と語った。本国家規律運 動はジャカルタをモデルケースに全国で実施されたが、モラルの問題であり、短期間での 成果は上がらず、スハルト大統領失脚とともに結果を残すことなく消滅した。

歴史の浅いインドネシア語は現在この育成期にあり、言語として完成し、安定した保護期 には到達していない。

本論文では育成期までを中心に、また保護期への到達までを論述するが、合わせてイン ドネシア語、マレーシア語の今後の発展の可能性を考察してみたい。

第三節 主要鍵概念の定義

本論では言語を中心に論じるので、まず「言語」に関する定義を確認しておきたい。

「言語」については下記のような定義が成り立っている。

「言語」は思考や文化形成の上で影響を与え続ける人間の英知であり(アリシャバナ、

1977)、人類の歴史を創造するものであり、歴史そのものと言っても過言ではない(ウィ ルヘルム・ファン・フンボルト、1985)。また「言語」は想像の共同体を生み出し、特定 の連帯を構築する能力を持つ。(ベネディクト・アンダーソン、2003)

つまり「言語」は1つの集団自体のものであり、その集団の継続を保証する道具であり、

狭義では「言語」はナショナリティの核であり、自己の認識道具であり、差別化、同一化 の機能を果たす(フィッシュマン、1972)のである。

以上から「言語」は、思考、感情、願望を表現したり一定の言語システムにより社会の 中で情報を伝えるコミュニケーションの道具であるばかりでなく、社会、エスニック・グ ループ、民族そのものの表徴であり、民族の誇りとしての役割を果たす社会的力を有する。

つまり言語は文化、宗教、歴史同様ナショナリズムと切り離すことができない深い関係に あると言えよう。また言語こそが社会変容を起こす可能性を有し、変化活動を促進する力 となる。つまり言語は政治、経済、教育、社会を左右し、社会育成の究極的役割を果たす。

一方社会状況は言語発展をもたらすが、言語に悪影響を及ぼす場合もあるので、これを食

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い止めるためにも言語として確固たる不動の言語体系が重要となる。その言語を使用する

「民族」は政治的単位であり、「エスニック・グループ」は他のグループとは異なった社会 文化単位としてみなされている社会グループである(フィッシュマン、1972)。そして「国 語」は国民間のエスニシティと文化の相違を克服し、一つの民族を形成するのである。具 体的な例を挙げると、どの主要エスニック・グループの言語にも偏らないリンガフランカ という共通語が国語となったインドネシア語である。

ナショナリズムは意識的に統一語を生み出す場合があり、それは他の言語に取って代わ る。しかし取って代わられた言語はある民族・国民の一部である小社会グループにとり地 方色を持った純粋の象徴として機能しているのである。つまり言語と言語社会の関係はい かにその社会が言語を維持しているか、あるいはいかにその社会がその言語を置き去りに してしまうかという面でエスニシティの局面から観察することができる。

第4節 先行研究および本研究の課題と方法

現在までインドネシア語はインドネシア研究者に、マレーシア語はマレーシア研究者に よってそれぞれ個別に調査研究されたが、その結果は両言語が同一語源であるという指摘 にとどまり、両言語を比較研究することは等閑視されてきた。本研究の目的は、(1)音声 学、意味論などのような言語学的見地からマレー語にアプローチしていく方法とは異なり、

両言語が同語源である点、および過去の同時期の言語近代化の共通点、相違点を見据え、

社会言語学的にインドネシア、マレーシア両国の同時期における言語分野の活動を比較す ること、(2)唯一の国家レベルの共同言語研究機関の活動を通し、現在そして今後のマレ ー語の発展状況を検証すること、(3)植民地政府の言語の影響を受け、差異が生じた両言 語が現在再び共通語となるべく研究されている理由を考察することである。この角度から 両国語の比較を行った先行研究はなく、その意味で筆者独特の検証法研究と考える。

筆者はインドネシア語、マレーシア語の発展状況を下記のようにまとめ(図1)、これに 従って論証を進める。叙述にあたり、マレーシア、インドネシアという概念が存在しない 時代には国名に括弧を付した。

(10)

図1 マレー語発展の推移

6~7世紀 1600年頃 1824年 1972年 2005年 ムラユ王国の言語 西欧諸国による 英蘭条約 MABIM

スリウィジャヤ王国 植民地化 の繁栄とともに普及

(筆者作成)

本論ではまず 1600年前後から始まった西欧諸国による植民地支配によりオランダの影 響の強かったマレー世界(現在のインドネシア)とイギリスの影響が大であったマレー世 界(現在のマレーシア)における言語が多少異なっていき、英蘭条約以降の両国のローマ 字綴りになってからの正書法の急激な差異がいかなる社会状況の中で生じたかを分析する。

次に独立前後インドネシア語を急速な発展に導いた言語会議、そして 1972 年設立で、別 の言語となっている両国語の統一を目指すインドネシア・マレーシア言語審議会に関し論 証する。

前述のようにインドネシアとマレーシアの昨今の言語研究活動を比較した先行研究は ほとんど存在しない。そこでまず各章との関連で個別の国の先行研究を概観した後、各章 の主な課題を整理しておきたい。第一章「インドネシアにおける社会変容と言語綴りの変 遷」の中のインドネシアにおける綴りに関してはユス・バドゥドゥ (1984 年)、ラース・

ヴィコー (1990 年)、ルクマン・アリ (2000年)のものがある。これらの文献は綴りの決定 事項のみを述べたもの、音声学的側面から分析したものであり、綴りの変遷の背景にあっ た社会状況、あるいは綴りの改定により引き起こされた社会状況について記されていない。

これらの文献に欠落している言語問題と社会との関連性について当時の新聞記事(1967 年-1972年)などを資料に、また当時各言語委員会で直接言語発展政策に携わっていた言 語学者、外務省担当官へのインタビュー調査を行い新たな視点から問題に接近したい。イ ンタビュー調査に協力してくれた言語学者たちは筆者のインドネシア大学時代の言語学の

マレー語

(マレーシア)

(インドネシア)

マレー語

マレー語 マレー語

(マレーシア)

(マレーシア) マレーシア

(インドネシア)

(インドネシア) インドネシア

(11)

教官であるため、非常に詳しくかつ明確に当時の状況についての解説があった。

第一章では、上述の先行研究を参考にしつつ、主に新聞記事、会議議事録などの一 次資料、会議、セミナーでの参与観察およびインタビュー調査に基づいて言語の最重要事 項である綴りの成立を中心に、インドネシアにおける綴りの変遷と社会状況の関連を検証 する。

第二章に関するマレーシア側の先行文献にはラジャ・ムカタルディン・ビン・ラジャ・

モハマッド・ダイン(1982)、アブドゥル・ハミッド・マフモッド (1995)がある。ラジャ・

ムカタルディンはマレー語全体の問題について書いているが表面的なもので、綴りの変遷 とそれに伴う社会状況が詳しく記されていない。またアブドゥルの著作は言語学的解説で あり、社会の中での言語の位置づけには触れていない。本研究では1969年5月13日事件 により政策変更を余儀なくされ、ブミプトラ政策が導入される国内情勢、それに伴う国語 教育状況を綴りの変遷と時代照合し、マレーシアの言語状況を社会言語学的見地から考察 した。一次資料、二次資料のほか筆者の指導教官であった教授を含む言語学者数名、マレ ーシア、シンガポール、ブルネイの言語・文学協会の言語専門家へのインタビュー調査も 利用した。ここでは主にマレーシアにおけるマレー語の発展を綴りおよび教育面から考察 する。また 2003年から全学校で、科学と数学の教育用語が英語となったことで明らかな ように、マレーシアでは近年英語偏重の傾向がある。この点に関しても考察を行なう。

第三章の「近代語形成と言語会議の役割」に関し重要な会議は、1938年、1954年、1978 年の3会議である。これら会議についてはその内容の一部や要約を記した二次資料がある 程度であり、その空白を埋めるために本研究では会議議事録を使用し、その詳細を明らか にし考察を深めた。

第四章の「言語近代化と両国の言語研究・実施機関」についてはインドネシアの言語セ ンター(Pusat Bahasa)とマレーシアの言語・文学協会(Dewan Bahasa dan Pustaka) について検証を行う。両機関とも現在両国内の国語の発展に関し全責任を負っている教育 省傘下の重要な機関であるにもかかわらず先行研究は未だなく、ここでは両機関が発行し ている刊行物、新聞記事等、当該言語研究機関の専門家からのインタビューを活用した。

第五章のインドネシア、マレーシア2国間の言語協力機関であるブルネイダルサラム・

インドネシア・マレーシア言語審議会(Majelis Bahasa Brunei Darussalam‐Indonesia

‐Malaysia[MABBIM])に関しては、両国の現代マレー語の発展状況および今後の方向性

を知る上で不可欠であり、かつ最重要機関であるにもかかわらず、1972年設立と歴史が浅

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く、現在進行中の機関であるため先行研究はまだ存在しない。そのため本言語審議会の議 事録、関係者(言語学者、各分野の専門家、教育省担当官など)とのインタビュー、また 本言語審議会への唯一の非マレー語圏国民である筆者の参与観察結果などを交え考察した。

本章では本研究の主題となる両国共同言語研究機関について検証を行った。ブルネイダル サラム・インドネシア・マレーシア言語審議会(MABBIM)というマレー語を語源とする 国語を有する3カ国が国家レベルで共同言語研究機関を設立し、3カ国統一用語を作成し ているという事実は世界的にみても稀であり、マレー語研究を深める上で非常に重要な存 在である。また本言語審議会は、言語分野ばかりでなく政治面でも東南アジアにおける国 際関係に大きな影響を与える存在となろう。本言語審議会の存在を知りえない研究者も多 いことから、本論でこの点を解明することは大きな意義を持つと考える。以上のように、

本言語審議会の検証は今後のマレー語研究にとって重要な意義を有するものと確信する。

終章では両国の現状とマレー語の今後の可能性、課題などについて考察し結びとする。

本研究では従来のような両言語の個別の研究ではなく、相互の関係を踏まえた研究を行 うため、マレー語の発展をより明確に検証することが可能となる。すなわちマレー語がイ ンドネシア、マレーシア両国各々の社会状況下で異なった道を歩みつつも、いかに相互に 影響を与えていったかの過程を、両国を並列的に検証することにより、マレー語全体の発 展の流れが明確となり、かつ両国間の言語協力状況を新たに解明することが可能になると 考える。

現在のインドネシア共和国は1945年8月17日の独立宣言により成立した名称で、そ れ以前はオランダ領東インド(Nederlandsch-Indiëと呼ばれていた。そのため独立以 前には「インドネシア」という名称は正式には使われておらず、「インドネシア語」ではなく

「マレー語」と呼ばれていた。本論文中マレーシアのマレー語と区別するため、蘭領東イ ンド版図内あるいは植民地化以前の古代からその地で使用されていたマレー語を「インド ネシア語」と記す。

当時「マレーシア」という国家概念は存在しないが、現在のインドネシアの領土と区別 するため便宜上「マレーシア」と記す。

Soenjono Dardjowidjojo ed.,

Bahasa Nasional Kita:Dari Sumpah Pemuda ke Pesta Emas Kemerdekaan,

Bandung:ITB Bandung, 1996.

これについては後藤乾一・山崎功『スカルノ:インドネシア「建国の父」と日本』吉川 弘文館、2001年、90-98ぺージを参照。

(13)

Ki Hadjar Dewantara,”Welke plaats behooren bij het onderwijs in te nemen eensdeels de inheemsche talen, ook het Chineesch en Arabisch, anderdeels het

Nederlandsch?”(1915) in

Prae-adviezen van het Eerste Koloniaal Onderwijs Congres

.

‘s Gravenhage 28-30 Aug.1916.

第一回インドネシア語会議については第三章で考察する。

Kompas,

March 14,1995.

Kompas,

March 30,1995.

参照

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