2. 立体映像の適用と制作・呈示におけるの諸要因の検討
2.1 本章の目的
奥行き情報を記録・再生できるという立体映像の特徴を生かし,これまでにも様々な分 野において応用検討がされている.例えば,アミューズメント分野においては,映像が画 面よりも飛び出すことを利用して娯楽性や臨場感を高めたり,医療分野や教育分野におい ては,奥行き情報把握の向上に利用されたりしている.しかしながら,立体映像は,奥行 き情報を表現でき,その利用が期待されているが,現在用いられている平面映像が全て立 体映像に置き換わることが期待されているわけではない.平面映像においても十分な映像 情報を表現できることは多くある.つまり,奥行き情報の表現が必要である,あるいは,効 果的である利用場面において,立体映像の利用が期待されているのである.そのため,立 体映像の具体的な応用場面における検討が,立体映像を効果的に利用し,映像メディアと しての利用を促進させるために重要であると考えられる.加えて,具体的な検討を行うこ とで,立体映像メディアの利用に関わる,具体的で本質的な課題を抽出することができる と考えられる.
そこで,本章での研究においては,福祉利用,文化財記録,及びディスプレイ設計の3つ の具体的な応用場面を設定し,立体映像利用に関する検討を行うことで,立体映像の問題 点の解決を図った.具体的には,福祉利用では,歩行訓練機を用いたリハビリテーション における立体映像呈示に関する検討を行った.文化財記録では,チベットの伝統的民俗芸 能を立体映像で記録し,その記録方法に関して検討した.そして,ディスプレイ設計では,
ヘッドマウントディスプレイを対象とし,映像呈示方法に関して視機能の観点から検討し た.さらに,各研究に対して,立体映像の制作と呈示に着目し,応用研究の基盤となる,手 法や技術開発に関する研究課題について論じた.
2.2 立体映像のリハビリテーションへの応用
(1)高齢者を対象とした立体映像利用
近年,高齢化が進み,総務省統計局が発表した平成 15年 9 月 15 日現在の推計によると,
日本の65歳以上の高齢者人口は2431万人で,総人口の19.0%を占めている.また,今後も 高齢化が急速に進み,2025年には高齢者人口が3473万人で総人口の28.7%になることが予 想されている34).高齢化とともに視聴覚を始めとした身体機能や認知機能の低下,さらに は痴呆の発症などが起こるため,高齢化社会を迎えるにあたって,高齢者の自立性や心的 な満足,生活環境の整備を行うことが求められている.
さて,河合らが行った痴呆性高齢者の表情に関する研究において,軽度の痴呆性高齢者 が映像刺激に対して強い興味を抱く傾向があることが報告されている35).そこで,本研究 では,映像刺激として,より臨場感が高いと考えられる立体映像を,高齢者を対象とした リハビリテーションに応用することを検討した.高齢者の立体視機能の確認を目的とした 基礎的検討からは,基本的な日常生活動作の自立性を表すADL(Activities of Daily Living)
スコアが高い被験者ほど,立体映像に対し強い興味を示す傾向が認められた36).またそれ より,高齢者を対象としたリハビリテーションシステムの適用において,ADLスコアを一 基準として対象者を選定することが望まれることが示唆された.
本研究においては,立体映像を用いたリハビリテーションとしては,トレッドミルを用 いた歩行訓練を選択し,単調なリハビリテーションにおいて立体映像コンテンツを呈示す ることで臨場感を高め,患者の積極的な行動を促すことを目的とした.これまでにも,ト レッドミル歩行時の高齢者に関して臨床的な検討37)や,映像を伴った際の検討38)もされて いるが,立体映像を用いての検討はされていなかった.また,トレッドミルを用いた場合 の歩行感覚に関する報告39)や,トレッドミルに映像を付随した場合の重心動揺に関する報
告40)41)などがされているが,それらは青年・壮年の健常者を対象としたものであった.そ
こで本研究では,臨床での実用化を想定し,高齢者を対象とした立体映像リハビリテーショ ンシステムの試作とその評価を行った.
(2)システムの試作と実験方法
立体映像の呈示には,指向性反射スクリーン方式投射型立体ディスプレイ42)(日立製作 所)を用い,それを歩行訓練機(SPR-7500,SAKAI)に搭載した.このディスプレイは,プ ロジェクタにより右眼用と左眼用の映像を投射し,それぞれの映像を観察者の右眼と左眼 に集光する方式である.明るい部屋で立体メガネを着用することなく,大画面の立体映像 を鑑賞することが可能である.また,25 以上の高ゲインが得られるため,明るい部屋でも 鑑賞可能であり,病棟やリハビリテーション施設などでの利用に適していると考えられた.
なお,映像呈示には,液晶プロジェクタ及びHi8ビデオデッキを用い,立体ディスプレイを 歩行訓練中でも立体映像観察が可能だと考えられる位置に設置した.具体的には,視距離 を約2mとし,歩行時の平均的な眼の高さにスクリーンの中心を配置した.また,実験は,
昭和病院(山口県下関市)のリハビリ室で行った.リハビリ室を使うことで,被験者に解 放感を与え,リラックスした雰囲気の中での実験への参加を促すことができた(図 2.1).
指向性反射型スクリーン プロジェクタ
被験者 療法士
歩行訓練中に呈示する立体映像には,以下の3つを用いた.それらの映像を連続して再生 し,全ての映像が終了した際は,また同じ順序で繰り返し再生された.1サイクル(3つの 映像)の映像時間は,約 12 分間であった.
(a)薬師如来の映像43)
奈良県薬師寺を対象とした立体映像作品であり,境内や金堂内の仏像を仮想的に参拝 する内容である.
(b)スペインの修道院の映像44)
北スペインの修道院Santo Domingo de Silosを対象とした立体映像作品であり,上記の 薬師如来の映像と対をなす作品として制作されたものである.
(c)公園の散歩を想定した風景の映像
公園内の散歩を想定した立体映像であり,立体カメラの2つの光軸の交点を前方約2m に保ちながら,ズームアップさせた映像である.
歩行訓練中の被験者の身体動作や発言などのプロトコルと,ディスプレイや立体感,コ ンテンツなどに関する感想を記録した.また,実験後には,「普段テレビをよく見るか」,「ど んな映像が気に入ったか」,「映像はよく見えたか」などのシステムの実用性に関わる質問 を行った.加えて,実験前後において,眼精疲労に関する自覚症状調査(6項目)と,病院 の療法士によるバイタルサイン・チェックを行った.
被験者は,ADLスコアが比較的高く,歩行訓練をリハビリテーションとして処方できる,
高齢者 11 例(男性 6 例,女性 5 例.平均年齢 75.6 ± 9.4 歳)であった.なお,解析におい ては,データ欠損のあった1例を除いた10例(男性6例,女性4例.平均年齢76.8±9.0歳)
により行った.ADL スコアの平均は,85.0 点であった.
また,トレッドミルでの歩行速度は,被験者の意志及び療法士の判断により被験者ごと に決定し,実験中は療法士が被験者の脇につき,安全への配慮を行った.
図2.2 呈示した立体映像コンテンツ(左:薬師如来,中:スペイン修道院,右:公園)
(3)実験の結果及び考察
被験者のプロトコルより,対象とした高齢者が映像に立体感,特に奥行き感を知覚して いることが確認できた.また,コンテンツに関しては,薬師寺の映像と公園風景の映像に 好感をもつ意見が多かった(表 2.1).
表2.1 被験者のプロトコル結果
立体感に関わること
・仁王が少し飛び出して見えた
・自然の風景が奥に広がって見えた
・たまに飛び出して見えた気がする
・(被写体が)自分に近い感じがした
・立体的に.鳥居が近くから遠くに見えた コンテンツに関すること
・公園の映像は,広くて気持ちがすっきりする
・公園の映像が一番良かった.道がはっきり見えて良かった
・信仰の集まりみたいなものがきれいだった
・釣り鐘が気に入った
・歩きながら見る映像としては、仏様や公園などがよい 立体ディスプレイに関わること
・画面ははっきり見えた
・テレビは近くで見るから疲れる.この映像の方が疲れない
・映像があまりはっきりしていなく,見にくかった
・テレビと比べて,立体映像の方が少し見にくい その他,被験者からの意見など
・歩行訓練のときは,映像があった方が退屈しなくてよい
・テレビの方が番組を好きなように変えられるからいい
・危険でなければ、映像を見ながら歩いた方がよい
・ここ(リハビリ室)でお寺観光ができたらいいと思う
・速度に合わせた映像が見えるようになれば、歩調を合わせる
・前を見ると足が見えなくなるので,映像を見ることができなかった
本リハビリシステムに関しては,被験者により,「映像を見ながらの歩行訓練の方がい い.」いう肯定的な意見と,「いつも見ているテレビよりも見にくい.」という否定的な意見 に分かれた.肯定的な意見を持つ被験者は,立体映像に興味を示し,映像内容に関しても 感想などを多く述べていた.今後,立体映像コンテンツを検討していくことで,リハビリ テーションにおけるモチベーションの向上を図ることが期待できる.
一方,否定的な意見を持つ被験者は,映像観察をしながらの歩行が困難であった.本シ ステムのハードウェア設計の改良も課題としてあげられたが,立体映像を福祉領域へ応用 するにあたり,歩行訓練に限定せず,診断や測定といった,その他の応用面も検討する必 要性が考察された.
また,立体映像の観察時間は長くても約15分間であったが,自覚的な眼精疲労は認めら れなかった(図 2.3).
図2.3 眼精疲労の自覚症状変化 1.0
1.5 2.0
前 後 前 後 前 後 前 後 前 後 前 後 評
定 点
症状1 : 眼が疲れる 症状2 : 眼が重い 症状3 : 眼が乾く
症状1 症状2 症状3 症状4 症状5 症状6
症状4 : 頭がぼんやりする 症状5 : 眠くなる
症状6 : 全身がだるい
(4)まとめ
立体映像の福祉応用として,高齢者を対象とした立体映像リハビリテーションシステム の試作と評価を行った.システムの試作に際し行った,高齢者の立体視機能の確認と立体 映像コンテンツに関する調査を目的とした基礎的検討からは,立体映像を用いたリハビリ テーションシステムの対象者選定の一基準として,ADLスコアを手がかりとすることが示 された.
そして,立体ディスプレイを歩行訓練機に搭載し,ADLスコアが比較的高い高齢者を対 象とした歩行訓練実験からは,「歩行訓練中に映像があった方がよい.」といった肯定的な 意見と,「歩行訓練と映像観察というように複数のことを同時に行うのは困難だ.」といっ た否定的な意見が得られた.それより,高齢者の立体映像に対する興味や意見を確認でき,
高齢者を対象とする際の課題や,システムにおけるハードウェア設計の改善が示唆された.
立体映像の呈示により,平面映像と比べてより高度な情報の呈示が可能となる.しかし ながら,高齢者を対象とした福祉分野へ応用する場合には,いくつかの課題があげられる.
簡易で快適な立体映像観察が可能なハードウェア設計に加え,応用領域に適切な立体映像 コンテンツの検討,そして,表情や身体動作の測定機能付加といったような,より実用的 な立体映像システムの検討などがあげられた.
2.3 チベット民俗芸能の立体映像記録
(1)立体映像による文化財の記録
近年,映像情報技術の発展に伴い,有形・無形文化財のディジタル化が進められている.
ディジタルデータにすることにより,文化財を半永久的に劣化させることなく保存するこ とが可能となる.また,ディジタルアーカイブの方法は各種あり,それらを利用した様々 な試みが行われている.しかしながら,技術的・社会的問題点がいくつかあり,それらの 検討と解決が必要とされている45).
ディジタルアーカイブの分類を,立体物のアーカイブという観点から考えると,まず,絵 画や写真といったような平面形状を高精細に記録するというアプローチと,彫刻物や陶器 などといったような立体形状を 3 次元的に記録するというアプローチに大別できる.さら に,後者においては,3次元スキャナやモーションキャプチャ,コンピュータグラフィック ス(CG)を用いて,3次元座標上に記録する方法と,2眼式立体映像(以下,立体映像)や ホログラフィなどを用いて,立体情報を記録する方法とに分類される.立体映像による方 法の利点としては,ディジタルビデオテープなどのメディアに記録するため,基本的にカ メラのレンズを通して撮像される被写体を全て記録でき,かつ,その記録や再生が容易で あることがあげられる.特に,建築物などのように大きい対象物の記録や,多人数の動作 の記録,風景などの空間の記録などに適していると言える.
また一方で,文化財の記録方法やその利用方法の検討や,無形文化財である伝統芸能に おけるメディアの役割と責任に関する検討46)などもされており,ディジタルアーカイブの 意義や,その重要性などを考えていくことが必要とされている.
本研究では,中国雲南省迪慶チベット族自治州のベンズランという村を対象とし,チベッ ト族の民俗芸能を保存することを目的に,立体映像と立体音響による輪踊りの記録を行っ た.そして,映像資料の利用方法に関して,立体情報という観点から考察した.
(2)記録方法
立体映像の撮影方法としては,民生用ディジタルビデオカメラに立体アダプタ(NuView,
3D Video Inc.)を取り付けて記録する方法を選択した.立体アダプタでは,液晶シャッタの 制御により,左右の視差画像を NTSC 信号のフィールド毎に切り替えて,立体映像信号の 入力を行っている.立体アダプタによる撮影は,カメラやレコーダを2台使用するものと比 較して,簡易な立体撮影が可能である.また,本方法の立体撮影におけるいくつかの問題 点が指摘されている47)が,本研究においては,撮影条件をあらかじめ設定し,それらの問
題点に留意することで,解決を試みた.なお,左右映像の光軸を交差させて記録する,交 差撮影法を用いた.表 2.2 に,指摘される問題点と本研究における解決策を示した.
表2.2 用いたアダプタの問題点とその解決策
立体撮影に先立ち,あらかじめ撮影条件を設定した.具体的には,視距離5m,スクリー ンサイズ100インチという再生条件をあらかじめ設定し,画像呈示面上の被写体が等寸大で 再生されるよう,カメラの画角を設定した.加えて,立体アダプタにおける左右の光軸の 交差位置を5m前方に設定した.それにより,撮影時にカメラから5mの位置にある被写体 は,再生時に画像呈示面上に再生されることになり,被写体の大きさに加えて,立体感も 実際の状況に近似して記録された.このように,撮影条件と再生条件を設定したことによ り,一貫した立体感の記録と,臨場感の向上を図ることができた.また,一貫した立体感 であることから,記録後に,奥行き感を定量的に予測することが可能となった.
ベンズランでの輪踊りは,伝統的礼服で着飾った男女が,歌を掛け合いながら踊る.男 女は,それぞれ半円形に列をなして歌を掛け合い,その際,楽器による伴奏などはなく,特 徴的なステップを踏むことで踊りを続けていく48).さらに,男女はそれぞれ踊りながら,時 計回りに少しずつ移動していくため,声が発せられる音源の位置が,踊りとともに移って
左右の光路長が異なるた め,近距離撮影で左右の 被写体の大きさが異なる 片側のみで光軸を変化さ せるため,パンさせた場 合に違和感が生じる 反射像側の画角が狭いた め,ケラレが発生する
撮影条件の設定によりカメラの画角を 決定し,そのために少しズームアップ させたことで,ケラレを除去した
撮影条件の設定により一定の立体感と し,基本的にカメラを固定アングルに して収録した
近距離撮影を避け,光軸の交差位置で ある5m付近に被写体が配置するよう に,カメラを設置した
用いたアダプタの問題点 本研究における解決策
ディジタルビデオテープに同時に記録した.さらに,ダミーヘッドマイクの位置及び向き を,立体撮影カメラのそれらに近似させることで,収録における位置関係を明確化した.つ まり,再生時において,音が後方から聞こえているシーンは,映し出されている被写体と の位置関係に対して,後方から音が発せられていたことになり,あたかもその場にいるか のような,視覚・聴覚情報を記録した.なお,今回,主に輪の中央から踊りの様子を収録 したため,視聴者を取り囲むような音響が記録されている.立体カメラとダミーヘッドマ イクを用いた収録の様子を,図 2.4 に示した.
(3)収録結果
設定した撮影条件のもと,2001年にベンズランで行われた,グォジョ(Guozhuang)と呼ば れる春節の輪踊りを記録した.輪踊りが記録の中心であったが,輪踊りの前後に行われた グォジョの一連の行事も可能な限り本システムにより記録した.
ベンズランでのグォジョは,昼前から始まり,食事などの休憩を挟みながら翌日の明け 方まで行われたが,その間,基本的に連続して収録を行った.その結果,約10 時間に及ぶ グォジョの様子が記録された.
今回,グォジョが行われた会場の中心付近からの収録を主に行い,それにより,立体映 像に関しては,両眼視差が奥行き感度に極めて重要だと言われている10m以内の奥行き情 報が記録された(図 2.5).また一方,立体音響に関しても,男女の歌の掛け合いとその音 源移動が効果的に記録され,収録における本研究の目的は達成されたと言える.しかしな
図2.4 収録の様子 立体撮影用アダプタ
DVカメラ
立体音響記録用 ダミーヘッドマイク
がら,今回,諸要因により,輪を形成している全体の様子は記録されなかった.本収録を 通して,輪踊りの全体を収録することも非常に興味深いことであると考えられた.そこで,
複数台のカメラの設置や,輪踊りの中心からの360度全周撮影などを検討することで,グォ ジョにおける空間情報を,多面的に記録できる可能性が示唆された.これらは,無形文化 財の記録方法とその利用方法いう観点から,今後検討すべき課題である.
図 2.6に,本システムにより記録された立体映像の一部を示した.これらの画像は本来,
ディジタルビデオテープに記録された動画像であったが,紙媒体に載せる関係上,静止画 像として左右画像を取り出したものである.このように,記録後に必要に応じて二次加工 できる点が,ディジタルデータの利点の一つであると言える.なお,これらの画像は,左 側に右眼用画像を,右側に左眼用画像を配置した.したがって,交差法による裸眼立体視
(眼を内側に寄せて視線を交差させる方法)を行うことで,立体観察が可能である.
図2.5 輪踊り収録の様子
図2.6 輪踊りの様子(左:右眼用画像,右:左眼用画像)
(4)まとめ
本研究では,チベット族の輪踊りを,立体映像と立体音響を用いて記録した.時代の移 り変わりとともに失われつつある文化財を記録し,現在の姿をそのまま保存したという観 点からも貴重な記録と言えるが,それ以上に,平面映像と比べて,より高次元な奥行き情 報を記録している点が重要であると考える.それはつまり,立体映像として記録すること により,視差による奥行き情報を利用することが可能となるためである.加えて,記録後 に,平面映像が必要であれば,立体映像から抜き出すことは比較的容易であることが大き な特徴である.しかしながら,現状の立体映像撮影では,通常の撮影と比較して,立体映 像特有の撮影技術や手間が必要となり,また,記録する情報量が平面映像よりも単純に2 倍以上となるため,撮影機材の規模や,画質などを検討した上,撮影方法を選択しなくて はいけない.そこで,簡易で高品位な立体撮影を可能とするシステムが必要とされている.
さて,記録した資料は,学術研究資料や伝統芸能継承の資料などといった,様々な用途 での利用が可能である.そのためにも,記録した情報の利用方法とそのための記録方法の 確立が必要とされる.本研究においては,あらかじめ撮影条件を設定し,一貫してその撮 影条件を維持することで,記録後の定量的な奥行き情報測定を可能としている.しかしな がら,立体空間の再現性やレンズ特性,立体アダプタの精度などにより,測定値の客観性 に影響を与えてしまうという問題点もある.そこで,記録方法と併せて,立体情報の定量 的な測定方法の検討が今後の課題としてあげられる.それにより,記録した立体情報をよ り効果的に活用していくことが可能となる.
2.4 HMD を用いた立体映像観察
(1)HMD の視覚系への影響
HMD(Head Mounted Display)は,一般に,光学系が左右眼用に別々に存在するので,立 体映像表示に必要な,左右像の分離が容易に実現できるという特徴がある50).そのため,
HMDを用いた一般向けの立体映像ディスプレイの発展が期待されている.しかしながら,
映像呈示機器を一般に広く用いる際には,視覚系をはじめとした人間の各種機能への影響 を考慮することが必要となり,十分な配慮がなされないと,意図した映像効果が得られな いばかりか,身体への負担や障害をまねく結果になる.したがって,HMDを用いた立体映 像の利用を行う上で,それが人間に与える影響を考慮することが重要な課題となる.
視覚系からみると,HMDはさまざまな特徴を有する.その一つに,光学系が眼前にある ため,観察者は虚像を見ているということがあげられる.また,光学系が左右別々に存在 するので,左右の光学系間の距離や角度の調整が任意に行える点も,従来のディスプレイ とは大きく異なる特徴である.さて,HMDでの映像は虚像となるが,その位置は眼前にあ る光学系のレンズ屈折力に依存している.そして,その位置は焦点調節が行われる位置で あり,調節機能への距離情報となる.一方,左右光学系の輻湊角(左右光学系の角度)に より,左右眼の視線方向がある程度限定されるため,輻湊と調節の不整合が,不適切な設 計によって助長され視覚負担が増大してしまう可能性がある.
HMD光学系の輻湊角の違いによる視覚系への影響に関する検討結果からは,HMD 光学 系の輻湊角と仮想的スクリーン位置が同じ距離情報を与えている条件において,呈示前後 の調節応答時間の変動が少なく,頭痛や目眩などを示唆する自覚症状の変化も少ないこと が認められた51).また,輻湊角と仮想的スクリーン位置の距離情報に大きなずれがある条 件では,調節応答時間の遅延が大きいなどの傾向がみられ,HMDを用いた立体映像の呈示 においては,左右光学系の光軸の輻湊角を,そのレンズ系によって決定される調節距離と 一致させた方が観察者の視覚への生理・心理的影響が少ないことが示された.
そこで,本研究では,HMDのおける立体映像観察における,適切な映像呈示条件を調査 することを目的として,先行検討により視覚負担が少ないことが分かった,HMDの光学設 定を用いて,映像の再生位置の違いによる,観察者の視覚負担に関する検討を行った.
(2)実験方法
HMD内部に使用されている光学系の光軸の間隔と輻湊角を任意に設定することが可能な 光学ユニットを用いて, 表示装置には0.7インチの液晶画面を両眼の前に設置し,画面と眼 球との間にレンズ系を付加することで,眼球から3m前方に両画面の映像が見えるようにし た.虚像としての画面の大きさは,理論的に 97 インチ(水平視角 37 度)となった.また HMD 光学系の光軸輻湊角は,左右光軸が 3m前方で交差するように設定した(図 2.7).つ まり,HMD光学系の輻湊角と仮想的スクリーン位置に対し,同じ距離情報を与えた.なお 光軸間距離は各被験者の瞳孔間隔距離の測定結果をもとに調整した.
HMDにより再生される 仮想的なスクリーン位置
調節距離:0.3D 輻湊距離:0.3MA
左眼 右眼
液晶モニタ レンズ系
図2.7 HMD による立体映像呈示
呈示図形は,1辺の視角が2度の立方体であり,左右像のずれ量を変えることで,その理 論的な再生位置が制御される.呈示刺激には,再生位置が異なる5種類の映像を用意し,そ れを実験条件とした.具体的には,再生像が呈示画面上に存在する映像(条件N)と,再生 像が画面の手前(条件F)あるいは奥(条件B)に存在する呈示条件であった.設定した条
視覚負担を検討する指標としては,ステップ刺激に対する調節反応時間及び眼精疲労の 自覚症状を測定した.調節ステップ応答の測定には赤外線オプトメータ(AR2000,NIDEK)
を使用し,調節緊張時間と調節弛緩時間に関して解析を行った.また,眼精疲労に関する 自覚症状では,37 項目の質問に対し,5 件法での回答を求めた52).
なお,被験者の疲労を考慮して実験は 2 回に分けて行った.実験1として,条件 B1,条 件N,条件F2の3条件を行い,実験2として,条件B2,条件N,条件F1の3条件を行った.
また,被験者は,裸眼視力1.0以上で遠視眼でない女性(20歳台前半)を選択し,個別に実 験を行った.実験 1 では 9 例,実験 2 では 8 例であった.
条件B2:後方に1.0度
条件B1:後方に0.5度
条件N:画面呈示位置で0度
条件F1:手前に1.0度
条件F2:手前に2.5度 調節距離:0.3D
輻湊距離:0.3MA
左眼 右眼
図2.8 実験条件
(3)結果
調節応答時間に関しては,まず各条件の平均所要時間の比較を行った.各所要時間とも 映像呈示後に延長が認められた.測定時期(前・後)と調節時間(緊張・弛緩)を要因と した2要因の分散分析の結果,測定時期の主効果に有意差が認められた(実験1:F=26.482,
p<.01,実験 2:F=5.119,p<.05)
次に所要時間別に呈示条件と呈示前後での比較を行った.調節緊張時間では,条件F2の 呈示後に顕著な延長が認められた.呈示前後の所要時間の変動が最も小さかったのは,実 験 1,2とも条件N であった(図2.9).呈示条件と測定時期を要因とした2 要因の分散分析 の結果,実験1に関して,交互作用に有意傾向が認められた(実験1:F=2.909,p<.01).一 方,調節弛緩時間でも,条件F2の呈示後の延長が顕著であった(図2.10).変動が最も小さ かったのは,実験1,2とも条件Nであった.なお,分散分析の結果,測定時期の主効果に 有意差が認められた(実験 1:F=21.264,p<.01,実験 2:F=4.265,p<.05).
図2.9 調節緊張時間の変化(左:実験1,右:実験2)
呈示前 呈示後
B1 N F2
呈示条件
B2 N F1
呈示条件 0.0
0.2 0.4 0.6 0.8 1.0 1.2
0.0 0.2 0.4 0.6 0.8 1.0 1.2
時 間
︵ 秒
︶ 時
間
︵ 秒
︶
呈示前 呈示後
0.2 0.4 0.6 0.8 1.0 1.2 1.4
時 間
︵ 秒
︶
0.2 0.4 0.6 0.8 1.0 1.2 1.4
時 間
︵ 秒
︶
呈示前 呈示後
呈示前 呈示後
眼精疲労に関する自覚症状に関しては,呈示後の評定点において,顕著な増加が認めら れたいくつかの自覚症状(眼が疲れる,眼が重い,眼を押さえると痛いが気持ちがよい,眼 が乾く,まぶしいなど)について,分析を行った.これらの自覚症状の中では「眼が疲れ る」「眼が重い」が,呈示後の増加が大きかった.しかし,測定時期と自覚症状を要因とし た2要因の分散分析では,有意差は認められなかった.また,各症状の条件別の比較でも,
有意な差は認められなかった.しかしながら,「眼が重い」といった眼痛を示唆する自覚症 状では,呈示後の評定点の増加は,条件 N が最も少なかった(図 2.11).
図2.11 自覚症状「眼が重い」の変化(左:実験1,右:実験2)
(4)考察
実験の結果から,HMDにより呈示された立体映像鑑賞後に被験者の視覚系に,生理・心 理的な変化が認められた.調節応答時間では,各所要時間とも映像呈示後の延長が認めら れ,特に呈示図形と画面との視差量が大きい条件では,調節緊張時間,調節弛緩時間とも に延長が顕著であった.自覚症状では,各症状とも呈示後の評定点の上昇が認められ,特 に「眼が重い」について,顕著な上昇が認められた.なお,呈示図形の再生位置が画面手 前か画面奥かによる違いは明確にはみられなかった.
調節応答時間に関する結果は,図形再生位置と画面位置との視差量の大きさに対応して 映像鑑賞後の変化が大きくなる傾向を示している.一方で,視差量が1度程度の場合は平 面映像に近い条件(条件N)の場合と大きな差はない.従って,この範囲で立体感を演出す れば視覚系への負担を少なく押さえられると考えられる.
今回の結果は,立体映像の呈示方式に液晶メガネを用いた実験結果と類似している.井 上らが行った実験では,映像鑑賞中の眼球運動の変化や観賞後の調節反応時間の変化が,映 像の視差量に対応して変化量も大きくなっており,視差量が1度以内であればこれらの変化
1.0 1.5 2.0 2.5
B1 N F2
呈示条件 評
定 点
B2 N F1
呈示条件 評
定 点
1.0 1.5 2.0 2.5
呈示前 呈示後
呈示前 呈示後
は平面映像を鑑賞した場合と同程度であったと報告している53).従って,今回の実験結果 はHMDによる立体映像が視覚系に与える影響は,従来のディスプレイ装置の場合と基本的 には同じであることを示している.
(5)まとめ
本研究ではHMDにより立体映像を呈示した際に,被験者に与える視覚負担の調査を行っ た.実験の結果から,HMDにより呈示された立体映像観察後の被験者の視覚系に生理・心 理的な変化が認められた.具体的には,映像と画面位置との間の視差量が大きいほど調節 反応への影響が大きい結果を得た.ただし,視差量が1度以内であれば,その影響は平面映 像と同じ程度であることが示唆された.加えて,これらの結果が液晶シャッター方式の立 体映像の場合と同じ傾向であったことが分かった.それより,HMDにより呈示される立体 映像の視覚系に対する影響は,従来のディスプレイ装置の場合と基本的には同じであると 考えられる.
本研究より,HMDを用いた立体映像観察において,人間の視覚特性の観点から,適切な 光学設計をし,また適切な立体映像コンテンツを表示することにより,立体映像観察の視 覚負担を軽減できることが確認された.今後の課題としては,立体映像の利用場面や応用 領域に関する検討の必要性があげられた.
2.5 立体映像の制作・呈示に関わる課題とその解決
福祉利用では,歩行訓練機を用いたリハビリテーションにおける立体映像呈示に関する 検討を行った.結果から,立体映像という情報量の豊かな映像呈示により,リハビリテー ションへの意欲の向上を期待できることが分かった.しかしながら,同様のコンテンツの 繰り返しではその効果が低くなることが予想できるため,多様な立体映像コンテンツが必 要であることが示唆された.加えて,本研究より,立体映像の具体的な応用領域の設定が 重要であることを再確認した.
文化財記録では,チベットの伝統的民俗芸能を立体映像で記録し,その記録方法に関し て検討した.本研究を通して,現状の立体映像の制作を行う機材では,使い易さの点で課 題が多くあり,ユーザフレンドリな制作機材が必要であることが分かった.また,現状で は,立体映像撮影後の映像編集が困難である点が課題としてあげられた.加えて,記録を 目的とした映像の場合,記録後に映像を学術的見地から考察するために長時間の観察が行 われることが多い.そのため,観察者に対して視覚負担の少ない立体映像の呈示系が必要 であることを再確認した.
ディスプレイの設計では,ヘッドマウントディスプレイを対象として,映像呈示方法に 関して視機能の観点から検討した.結果から,過度な視差量を伴った立体映像を呈示した 場合には,生理心理的に視覚負担が発生することが分かった.そのため,立体映像の制作 と呈示において,安全で快適な立体映像とするために,観察者の視覚特性を十分に考慮す る必要があることが示唆された.また,現状では,制作と呈示のいずれにおいても,立体 映像の安全性と快適性を,簡易に実現するのが困難であることが課題としてあげられた.
立体映像の適用に関する研究から得られた課題と,それらを解決するための研究課題を 図 2.12 に示した.
立体映像の制作環境 立体映像のリハビリ
テーションへの応用
チベット民族芸能の 立体映像記録
HMDを用いた立体映 像観察
多様な立体映像コン テンツが必要
具体的な応用場面の 設定が必要
ユーザフレンドリな 立体映像撮影システ ムが必要
二次加工を可能とす る立体映像編集シス テムが必要
立体映像呈示におい て視覚系への考慮が 必要
立体映像制作におい て安全性と快適性の 考慮が必要
学術研究資料として 観察可能な映像呈示 系が必要
福祉応用 文化財記録 ディスプレイ設計
立体映像の呈示環境 立体映像撮影用ア ダプタの開発 立体映像編集用ソ フトウェアの開発
立体映像の呈示方 法の改善
立体映像ディスプ レイの開発
図2.12 立体映像の適用に関する3つの研究から得られた課題と解決