イタリアの黒死病関係史料集 (五)
著者 石坂 尚武
雑誌名 人文學
号 181
ページ 97‑147
発行年 2007‑11‑20
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011305
イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集 ︵ 五 ︶
編 訳 石 坂 尚 武
目次
全体的解説と考察
一五世紀のペストについて
︵一︶ペストの周期性
︵二︶ペストは北部から南部に移動する
︵三︶一世紀間での三分の二の人口喪失
︵四︶一五世紀のペストの特徴的傾向││小規模ペスト││
︵五︶一五世紀における民間での接触感染説の支配
第一九章ルーカ・ランドゥッチの﹃フィレンツェ日記﹄より
史料の解説と考察
︵一︶ランドゥッチとその日記について
︵二︶事件の発生と疫病の発生の交錯
︵三︶ランドゥッチの時代の人びとの抱いた心性・宗教意識
︵四︶自然現象に神のメッセージを読む││中世的心性││
― 9 7 ―
イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
︵五︶一五世紀の支配者層の抱いた﹁怒れる神﹂のイメージとその講じた措置
││なぜソドミーと奢侈が禁じられたか││
︵六︶まとめ
︵七︶補足的疑問││一五世紀の一般的市民社会に﹁ルネサンス﹂はあったか││
史料
ルーカ・ランドゥッチの﹃フィレンツェ日記﹄より
全 体 的 解 説 と 考 察
一五世紀のペストについて
まず始めに︑これまであまり述べる機会がなかったペスト︵黒死病︶の流行形態の一般的傾向について述べ︑次に一五世紀に
なって生じた疫病の新しい傾向・特徴について︑今日の研究水準からやや詳しく論じておきたい︒
︵一︶ペストの周期性
西欧のペストは一四世紀の後半に開始し︑一八世紀の三〇年代に終息する︒このペストの特徴のひとつは︑その周期性であ
る︒この周期性は表1で示される︒表1は︑イタリアの疫病の歴史の研究者デル・パンタの研究成果
盧をもとに編訳者が作成し
直したもので︑疫病の発生した年と発生しなかった年が年毎に視覚的にわかるようにしたものである︒ただし︑この表は完全な
ものではなく︑たとえば本章で紹介する一四九七年のフィレンツェのペストは抜け落ちている︒
この表では︑デル・パンタにしたがって数年連続して発生した同質のペストはまとまった一回のペストとして扱っている︒た
とえば一三六〇年から六三年のペストは一回のペストとして扱われている︒この表1をもとに︑一五世紀を中心とした時期の疫 イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
― 9 8 ―
表
1
イタリアにおけるペスト発生の年と地域北部 北部
島
北部 中部 北部 中部
北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 26回 中部 22回 南部 13回 島 8回 1583
1584 1585 1586 1587 1588 1589 1590 1591 1592 1593 1594 1595 1596 1597 1598 1599 1600 1601 1602 1603 1604 1605 1606 1607 1608 1609 1610 1611 1612 1613 1614 1615 1616 1617 1618 1619 1620 1621 1622 1623 1624 1625 1626 1627 1628 1629 1630 1631 1632 1633 1634 1635 1636 1637 1638 1639 1640 1641 1642 1643 1644 1645 1646 1647 1648 1649 1650 1651 1652 1653 1654 1655 1656 1657 回数 北部 中部
北部 中部 北部 中部
北部 北部 北部 北部 北部 北部
北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島
北部 北部
北部
北部 島
北部 島
北部 島
北部 島
北部 島
北部 島
1504 1505 1506 1507 1508 1509 1510 1511 1512 1513 1514 1515 1516 1517 1518 1519 1520 1521 1522 1523 1524 1525 1526 1527 1528 1529 1530 1531 1532 1533 1534 1535 1536 1537 1538 1539 1540 1541 1542 1543 1544 1545 1546 1547 1548 1539 1550 1551 1552 1553 1554 1555 1556 1557 1558 1559 1560 1561 1562 1563 1564 1565 1566 1567 1568 1569 1570 1571 1572 1573 1574 1575 1576 1577 1578 1579 1580 1581 1582 北部 中部 南部
北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部
北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部
北部 中部 北部 中部 北部 中部 北部 中部
北部 中部 北部 中部
北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部
北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島
北部 中部 北部 中部 北部 中部
北部 中部 南部 島
北部 中部 北部 中部 北部 中部 北部 中部 北部 中部 1425 1426 1427 1428 1429 1430 1431 1432 1433 1434 1435 1436 1437 1438 1439 1440 1441 1442 1443 1444 1445 1446 1447 1448 1449 1450 1451 1452 1453 1454 1455 1456 1457 1458 1459 1460 1461 1462 1463 1464 1465 1466 1467 1468 1469 1470 1471 1472 1473 1474 1475 1476 1477 1478 1479 1480 1481 1482 1483 1484 1485 1486 1487 1488 1489 1490 1491 1492 1493 1494 1495 1496 1497 1498 1499 1500 1501 1502 1503 発生地域 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島
北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島 北部 中部 南部 島
北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部
北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部
北部 中部 北部 中部 北部 中部
北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部
北部 中部 北部 中部 北部 中部 北部 中部
北部 中部 北部 中部 北部 中部 北部 中部 北部 中部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 北部 中部 南部 発生年
1347 1348 1349 1350 1351 1352 1353 1354 1355 1356 1357 1358 1359 1360 1361 1362 1363 1364 1365 1366 1367 1368 1369 1370 1371 1372 1373 1374 1375 1376 1377 1378 1379 1380 1381 1382 1383 1384 1385 1386 1387 1388 1389 1390 1391 1392 1393 1394 1395 1396 1397 1398 1399 1400 1401 1402 1403 1404 1405 1406 1407 1408 1409 1410 1411 1412 1413 1414 1415 1416 1417 1418 1419 1420 1421 1422 1423 1424
― 9 9 ―
イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
病の頻度を見るために作成したのが表2である︒ここでは︑疫病の発生の地域差を無視して︑第1期︵一
四世紀後半︶から第5期︵一六世紀後半︶までの疫病について︑かなり便宜的︑機械的な数え方をして︑
各期の発生回数と発生年数を示してみた︒これによるとその﹁第1期﹂である一四世紀後半の五〇年間に
ペストはイタリアでは六回︑第2期に六回︑第3期に五回のペストがそれぞれ周期的に発生しており︑そ
の頻度は一四世紀から一五世紀を通じてほとんど変わらないことがわかる︒
︵二︶ペストは北部から南部に移動する
一三四八年を中心に襲った中世末の最初のペストは︑これまで何度も見たように︑ジェノヴァのガレ
ー船によって黒海沿岸の都市カッファから運ばれ︑一三四七年九月末︑まず始めにメッシーナ︵シチリア
島︶を襲った︒それから一方でカターニャ︵シチリア島︶に進むとともに︑リグリア海を北上していっ
た︒しかし実は︑この第一回目のペストの感染の進行方向││南部から北部へ││は︑それ以後周期的に
発生するペストと正反対のものであった︒第二回目以降︑ペストは︑ふつうアルプス以北の地域で発生
し︑南下してイタリアに達し︑まず最初にフリウーリ地方に感染する︒あるいは︑場合によっては海を渡
ってやって来た北方からの船舶によってヴェネツィアやジェノヴァの港に運ばれる︒そしていずれの場合
もふつうイタリア半島を北から南へと進んで行く
盪どび人のアリタイ部中のな︒ェツンレィフ︑らかだと
は︑北部でペストが発生したという知らせを聞くと︑ペストが近々自分たちの住む中部にやって来るのを
予感し︑覚悟と警戒の念を強めたのであった︒第一章で紹介したように︑フィレンツェの商人ジョヴァン
ニ・モレッリは︑息子のために一五世紀初頭に書いた﹃回想録﹄︵﹃覚書﹄︶のなかでこう述べている︒彼
にとってトスカーナの北に位置するロンバルディーア地方やロマーニャ地方の疫病の動向は極めて重大な
関心事であった︒
﹁私としてはお前に以下の助言を与えたい︒お前も︑他のどの話よりも真っ先に聞いているだろうが︑来年か再来年には疫
病がフィレンツェにやって来るのだ︒なぜなら疫病は我々の都市よりも先にまずロマーニャとロンバルディーアを襲う︒そ
表
2
疫病の回数と発生年数第
5
期(1551−1600)
4
回11
年 第4
期(1499−1550)
4
回23
年間 第3
期(1452−1498)
5
回16
年間 第2
期(1401−51)
6
回25
年間 第1
期(1347−1400)
6
回22
年間 時期発生回数 発生年数
イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
― 1 0 0 ―
してたいていの場合︑翌年にフィレンツェにやって来るからだ︒あるいは遅くともその年の冬には都市のコンタードか都市
郊外に疫病の徴候がはじめて感じられるだろう︒﹂
蘯
このように見ると︑表1を見る際に気をつけるべきことは︑ひとつのペストは北部・中部・南部において同時に発生したわけ
ではないということである︒例えば︑﹁一三七一年〜一三七四年﹂のペストは︑表では﹁北部中部南部﹂とあるが︑これら
の地域において同時発生したわけではない︒つまりこのペストは四年間に及びながらも︑同質の有機的なかたまりとしてひとつ
のペストと見なされるためにこのように記載されているのであって︑実
際にはこのペストは北部から少しずつ南下して汚染地域を拡大させてい
ったのである︒そして時に︑北部や中部で停滞し︑二〜三年間︑程度を
変えて反復して襲った︒だから︑ペストがまだ北部を中心に襲ったばか
りの時には︑ふつう中部や南部は汚染されていなかったのである︵な
お︑一年間のなかでペストが猛威を振るう期間それ自体はあまり長くは
なく︑ふつう夏を中心とする数カ月であった︒このペストの季節性につ
いては別の機会に触れたい︶︒
では︑同じひとつのペストが︑たとえば三年間同じ地域に停滞して被
害を与えた場合︑その三年間のそれぞれの年の被害にどの程度の違いが
あったのだろうか︒これについてはグラフ1を参照願いたい︒これは一
四二〇年代から五〇年代︵この時期は﹁小規模ペスト﹂﹇後述﹈の時期で
あった︶のフィレンツェの﹁穀物局の史料﹂︵後述︶にもとづいて作成さ
れたものである︒このグラフによって三年間のペストの死亡者数の変化
がわかる︒
すなわち︑三年間のペストのうちの導入となる第一年目︵﹁疫病序盤の
年﹂︶はペストの来ない﹁通常の年﹂の一日あたりの死亡者数﹁二名程
グラフ
1
疫病の年と通常の年の一日あたりの死亡者数(Carmichel, 67.)
― 1 0 1 ―
イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
度﹂と比べた場合︑一日あたりの死亡者は年の後半において若干多い程度︑一日あたり﹁三名程度﹂であり︑さほど注目するほ
どの差ではない︒しかし︑中心となる第二年目︵﹁疫病中盤の年﹂︶に死亡者数は急上昇する︒そこでは六月から九月頃にかけて
一日あたりの死亡者が﹁一五人程度﹂にまで達する︵ピーク時の数日間には一日あたり二〇〜三〇名かそれ以上︶︒そして疫病
の最後の年︑終息年である第三年目︵﹁疫病終盤の年﹂︶では︑疫病のピーク時︑すなわち夏季の二〜三カ月で一日あたり﹁五人
程度﹂の死亡者にまで減少する︒その死亡者数は︑﹁疫病中盤の年﹂よりは圧倒的に少ないが︑﹁疫病序盤の年﹂よりは明らかに
多いのである︒
表1によって次にわかることは︑北部から発生したペストは︑その勢いの度合いに差があったということである︒ペストによ
っては北部での流行だけに留まるものもあれば︑南部や島︵島嶼︶にまで達するものもある︒もしそのペストが非常に強い勢い
のペストであれば︑北部に達してからさらに中部を汚染し︑突き進んで南部や島嶼に達する︒それほど勢いがない場合︑中部に
達してそこで終わる︒あるいは││これは一五五五年以降︑特に目立つようになる││その北部だけで終息してしまい︑全く南
下しない︒しかし南部に広がらなかったからといって︑その被害が小規模であったかというと︑必ずしもそうでない場合もあっ
た︒一六三〇年にミラノを襲ったペストは︑マンゾーニが﹃いいなづけ﹄で描いたとおりの惨状をもたらした︒それはミラノの
人口の五一%︵G・カルヴィ︶を抹殺したのであった︒
ペストのなかには︑ごくまれに南から北へと逆行するペストもあった︒一四二二年にシチリアと南イタリアに発生したペスト
は︑それ以後次第に北上していき︑全イタリアに広がった︒また珍しいペストとして︑一六二四年のペストのようにシチリア島
で発生したものの︑それ以後北上せずに︑半島には波及しなかったものもあった︒
ペストの進行の速度はどうであったか︒ペストの進行の速さは様々であった︒最も速い例が一三九九年のペストである︒一三
九九年にフリウーリ地方で最初に記録されてから︑わずか数カ月でナポリにまで達したという︒一方進行が遅い例は一三六〇年
〜六三年のペストであった︒ペストについて膨大な量の研究成果を発表したA・コッラーディによると︑このペストは半島の南
端に達するのに約四年間かかったという
盻︒
︵三︶一世紀間での三分の二の人口喪失
一三四八年のペストはイタリアの多くの都市で人口の半分︑場合によってはそれ以上の人口を奪った
眈ら︒っといかだ部村農 関五︵集料史係リ病死黒のアタイ︶
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てもすでに中世後期からは都市と結びつきの強い地域がほとんどであったことから死者は多かった︒西欧の各国の地方史研究を
統合した最新の研究では︑農村部でもペスト死亡率が非常に高いこと︵五〇〜六〇パーセント︶が示されている︒トスカーナ地
方のプラートの農村部の例︵第一二章の解説︶からわかるように︑都市に負けないくらいに多くの死者を出している︒そして史
料の豊富なフィレンツェについて見ると︑一三四八年のペストによって︑それまで一〇万人いた市壁内の人口のうち半数︑すな
わち少なくとも約五万人が死亡したと考えられている︒さらに五回に及ぶ一四世紀後半の大規模なペストと︑規模の小さな一五
世紀の初頭の三回のペストなどを経て︑一四二七年のフィレンツェの市壁内の人口︵その年に租税徴収のために人口調査がおこ
なわれたのでかなり正確なもの︶は︑三万七〇〇〇人にまで落ち込んだのである︒この一四二七年のフィレンツェの人口は︑一
三四八年の最初のペストの来る直前の人口のわずか二七パーセントまで落ち込んでしまったのである︒さらにいえば︑すでに第
一二章の﹁解説﹂でトスカーナの都市プラートの例を挙げて述べたように︑一三四八年のペストに先立つ時点から大幅な人口減
少は︑飢饉や不景気などによって始まっていたのである︒フィレンツェの人口のピークを一三三〇年代の一二万人と考えるなら
ば︑その人口と一四二七年の人口を比べるといっそう大きな落差が認められる︒すなわち一〇対三である︒イタリアのトスカー
ナ地方についてのハーリヒーとクラピッシュ
=
ジュベールの研究によると︑一世紀間かそれより短い間にトスカーナ地方の三分の二の人口が消滅したという︒すなわち︑大まかにいうと︑最初のペストで三分の一が死に︑そのあとの一世紀の間に発生した
ペストで三分の一が死に︑残った人口はペスト前の三分の一であったという
眇︒
しかも一四二七年の﹁三万七〇〇〇人﹂という人口は︑フィレンツェに生き残った人間の実数を意味するものではないはずで
ある︒人口回復を目指したフィレンツェ政府は思い切った優遇措置︵免税など︶によって従属都市︵ディストレット︶や農村か
ら多くの人びとを招き入れており︑そうした人びとがそこに含まれているからである︒だから︑実際に生き残った人口の実数は
もっと少ないはずである︒ここに紹介する史料の著者ランドゥッチの父親もこの時期かこの前後にそうした一人としてトスカー
ナ地方の農村︵ディコマーノ︶からフィレンツェにやって来た一人である︒
どうしてこれほど急激な人口減少がもたらされたのであろうか︒一五世紀初頭におけるフィレンツェのこうした人口の急激な
減少に大いに作用したひとつの要因は︑ペストが若い層を直撃したことにあると考えられている︒この意味で一四世紀の最後の
年一四〇〇年に襲った六回目のペストの場合︑悲惨であった︒それまでにフィレンツェ政府は人口回復措置として農村から大量
の農民等を招き︑人口を六万人にまで回復させていたのに︑このペストは︑﹁子ども疫病﹂︵一三六二年のペスト︒大量の子ども
― 1 0 3 ―
イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
の命を奪ったといわれる︶と同様に︑これから結婚して子どもをもうけるはずの若い世代そのものに壊滅的な打撃を与えたので
あった︒それは人口の二〇パーセント︵一万二〇〇〇人︶を奪った︒この大規模ペストによる子どもや青年の大量の死去は︑あ
まりに大きな損失であり︑それは一五世紀半ばまで尾を引く人口のマイナス要因となったのである︒
これまで述べたフィレンツェの市壁内の人口の激減ぶりを再確認すると︑以下のとおりである││
フィレンツェの人口変動
一三三八年一二万人
一三四七年一〇万人
一三五〇年五万人
一四〇一年四万八〇〇〇人
一四二七年三万七〇〇〇人
一四八〇年四万二〇〇〇人
︵四︶一五世紀のペストの特徴的傾向││小規模ペスト││
では︑一五世紀のペスト︵黒死病︶は全般的にどのような傾向のペストであったか︒一四世紀後半のペストはどれも﹁大規模
ペスト﹂であり︑どれもが極めて破壊的なものであったが︑それに対して︑一五世紀のペストの多くは﹁小規模ペスト﹂であっ
た︒両者を区別するものは︑ペストのピーク時におけるフィレンツェ市内での一日の死亡者総数の規模である︵A・カーマイケ
ル︶
眄す〜二五〇人の死亡者を出が〇︑﹁小規模ペスト﹂では︑人〇︒〇﹁大規模ペスト﹂︵一四〇二年︶ではピーク時に一日で最
も死亡者の多い一市区で一日あたり二〇〜三〇名程度のものである︒一五世紀には︑傾向として疫病の被害の規模が小さくなっ
たのである︒
一五世紀のフィレンツェにおける死者の死因やその規模については五巻からなる﹃死亡者台帳﹄︵一三八五年〜一四五八︶が
多くを教えてくれる︒五巻のうちの四巻がフィレンツェの穀物局が記録したもので︑他の一巻は内科医・薬剤師組合が記録した イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
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ものである︒この史料を分析・調査したA・カーマイケルの研究成果を見てみよう︒フィレンツェ政府は︑疫病対策として︑被
害の実態を迅速に把握する目的から︑穀物局に疫病の実態把握を命じた︒食糧の調達を担当するこの穀物局は︑都市の人口の把
握の観点から︑都市での死亡者数の把握︑とりわけ疫病による死者の実態把握を委ねられたのであった︵一三七八〜七九年の条
例による︶︒穀物局はこうして墓掘人に対して死亡者の﹁死因﹂とその出身市区︵または埋葬先︶の報告を義務づけたのであ
る︒穀物局の書記はその墓掘人から受けた報告を﹃死亡者台帳﹄に記録した︒当時は流行病をすべて﹁疫病﹂と呼んで︑固有の
病名を与えていなかった︒近代人のように﹁ペスト﹂という特定の病気を指すことばを持っていなかった︒しかし︑一三四八年
以後は︑﹁疫病﹂といえば︑大概の場合︑疫病のなかでも最も恐るべき疫病︑すなわち一八九四年になって顕微鏡によって特定
され︑初めて命名された病気﹁ペスト﹂︵﹁エルシア・ペスティス﹂﹇ペスト菌﹈による病気︶のことを指していた︵したがっ
て︑これまで何度か述べたように︑中近世の史料の翻訳では﹁ペスト﹂という訳語は使うべきではない︶︒当時の人びと︑とり
わけ一四世紀後半の人びとは︑この前代未聞の恐るべき﹁疫病﹂を他の様々な疫病から区別するために︑報告にそれ特有の症状
を添えた││﹁腋の下や鼠蹊部の悪臭を伴う疫病﹂︑﹁苦痛の疫病﹂︑﹁横根の疫病﹂︑﹁疫病性の膿疱の病気﹂などと
眩︒墓掘人に
与えられた最も大きな任務のひとつは︑疫病のなかでも最も恐ろしい︑いわゆる真性の﹁疫病﹂︵我々のいうペスト︶による死
を嗅ぎ分け特定することであった︒墓掘人にとって真性の﹁疫病﹂は︑ふつうの場合︑遺体にリンパ腺の発症による﹁横根﹂が
認められること︑発症から数日以内に死に至ったこと︑同じ家やその近隣から連続して発生したことなどが決め手とされてい
た︒しかし︑疫病の死者を出した家は︑世間体や不名誉さからそのことをなかなか認めたがらなかった︒医師でさえ自分の患者
から疫病患者が出たことを認めようとしなかったという︒
さて︑一五世紀は﹁小規模ペスト﹂の世紀であった︒グラフ2
眤代補てっよに価評の家作記年は︑りあが分部損欠に帳台︑充
されている年︵破線︶もあるが︑フィレンツェ穀物局の﹃死亡者台帳﹄から割り出したフィレンツェでの全死亡者数の推移であ
る︒これによると︑一五世紀前半では一四一七年のペストを除けば︑すべて小規模ペストであり︑どの小規模ペストにおいても
死亡者の総数は三︑〇〇〇人を越えることはなかったことがわかる︒
一五世紀においてペストが小規模ペストになったことに関連して︑ひとつの特有の傾向が認められるようになった︒それにつ
いて述べる前に︑まず︑フィレンツェの市内の行政上の﹁市区﹂について述べよう︒この頃︑フィレンツェの市壁内は行政上︑
四つの﹁市区﹂︵クァルティエーレ︶に分割されていた︒すなわち︑サン・ジョヴァンニ︵北部・中央部︶︑サント・スピリト
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イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
︵南部・アルノ川以南﹇左岸﹈︶︑サンタ・マリア・ノヴェッ
ラ︵西部︶︑サンタ・クローチェ︵東部︶である︒大規模ペ
ストの場合は︑これらの四つの市区のうちひとつの特定の市
区だけが割合として突出して死亡者を多く出したということ
はあまりなかった︒全市区がほとんど等しく被害を受けた︒
それに対して︑小規模ペストの場合では︑死亡者は四市区の
なかのひとつの特定の市区︑主にサン・ジョヴァンニ市区
︵人口集中区︶かサント・スピリト市区︵貧民区︶に偏り︑
そのひとつの市区だけで全市区の死亡者の半数前後の高い割
合を占めようになったのである︒
まず対比として一四〇〇年の﹁大規模ペスト﹂の場合につ
いて見よう︒表3
眞で中集が者亡死のまは月〇一らか月五し
た時期について︑市内の全死亡者数とサン・ジョヴァンニ市
区︑サント・スピリト市区の死亡者の割合を示したものであ
る︒このペストによって︑総人口が六万人であったフィレン
ツェ市︵市壁内︶の人口のうち︑二〇%の一万二〇〇〇人も
の命が奪われ︑その総人口が四万八〇〇〇人にまで減少し
た︒このペストでは死亡者数がピークであった七月あたりで
は一週間に一︑〇〇〇人を越える死亡者が出ている︒その前
おえつ後の時期も恐るべき死亡者数である︒遺族の悲鳴と嗚咽の声
が聞こえるようである︒このペストにおいて︑サン・ジョヴ
ァンニ市区やサント・スピリト市区の死亡者が全市の死亡者
においてどの程度の割合を占めたか︒サン・ジョヴァンニ市
グラフ
2
穀物局におけるフィレンツェの死者の記録(Carmichel, 63.)イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
― 1 0 6 ―
区で三七
.
四%︑サント・スピリト市区で二九.
〇%であり︑いずれも五〇%には達していないことがわかる︒
次に表4
眥は生発に年七五四一でをここ︒うよみて見し
た﹁小規模ペスト﹂において︑サン・ジョヴァンニ市区
が都市の全死亡者のうちで占めた割合が示されている︒
その割合は五一
.
八%であり︑一市区だけで半数の死亡者を出していることがわかる︒
このように小規模ペストでは︑同じひとつの市区にペ
スト死が偏って発生する傾向︵集中化︶が認められた
が︑実はこの傾向はそのままその市区におけるペスト発
生地点周辺でのペスト死の集中化の傾向と平行した︒わ
かりやすくいうと︑その市区内の同じ町内のなかで次々
とペスト死が発生する傾向
││ペストが飛び火せずに
同一家族の他のメンバーや
隣近所にそのまま拡散する
傾向││が認められた︒四
枚の地図A・B・C・D
眦
は︑一四三〇年の小規模ペ
ストでのサント・スピリト
市区での六月から七月にお
けるペスト死亡者の増加を
示したものである︒地図を
表
3 1400
年の全市死亡者数とサン・ジョヴァンニ市区・サント・スピリト市区の死亡者の割合 サント・スピリト(%)20.7 19.8 18.3 28.4 28.6 37.3 30.5 31.3 31.9 28.1 25.3 32.6 22.2 32.0 26.2 28.7 25.1 22,0 21.7 29.0
Carmichel, 72.
サン・ジョヴァンニ(%)
58.6 57.4 51.9 50.7 44.9 37.6 42.3 39.3 35.5 34.3 32.5 32.4 36.1 33.2 30.0 33.4 40.4 41.5 35.9 37.4
全市死亡者人数87 141 208 278 343 542 550 887 1,177 1,015 966 746 459 253 233 341 203 118 92 9,486 5
月3−10
日5
月11−17
日5
月18−24
日5
月25−31
日6
月1−7
日6
月8−14
日6
月15−21
日6
月22
日−28日6
月29−7
月5
日7
月20−26
日7
月27
日−8月2
日8
月3−10
日8
月11−17
日8
月18−24
日8
月25−31
日9
月1−15
日9
月16−30
日10
月1−15
日10
月16−31
日表
4
フィレンツェ全市区におけるサン・ジョヴァンニ市区の死亡者の割合
1456
62 50 46 51 50 Carmichel, 72
より作成 時 期6
月後半〜7月8
月9
月10
月11〜12
月― 1 0 7 ―
イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
地図
A
サント・スピリト地区での死亡場所1430
年6
月1
日〜15日地図
B
サント・スピリト地区での死亡場所1430
年6
月15
日〜30日イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
― 1 0 8 ―
地図
C
サント・スピリト地区での死亡場所1430
年7
月1
日〜15日地図
D
サント・スピリト地区での死亡場所1430
年7
月15
日〜30日(Carmichel, 74−75.)― 1 0 9 ―
イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
A↓B↓C↓Dと見ていくと︑ペストが同じ町内で︑隣近所に少しずつ広がりペスト死亡者が増加していく様子がわかる︒フィ
レンツェの都市のなかの最も大きなブロックである﹁市区﹂に集中化があったように︑﹁旗区﹂と呼ばれる市区のなかの小さな
ブロックのなかでも集中化があったのである︒これはペストが小規模であったことから当然のこととも思える︒
︵五︶一五世紀における民間での接触感染説の支配
一四〜一五世紀の時代︑大学の医学部で学んだ内科医が信じていたのは︑古代医学の権威にもとづた観念的な病理の構造理論
であった︒その医学理論を支配していたのは︑古代のガレノスなどの体液病理学の理論であった︒それによると︑まず大気が何
らかの原因で腐敗する︒その大気の腐敗の結果︑人間の体液に不調が来され疫病が発生する││と考えられた︒その予防や治療
として︑瀉血や浣腸やテリアカ︵毒消し︶や酢による消毒などがおこなわれていた︒今日から見れば︑ペストに対する全く的外
れなこれらの対処法も︑医師の権威のもとに︑有効なものとして多くの人びとに受け入れられ実践されていたのであった︒すで
に第一章﹁モレッリ﹃回想録﹄より﹂
眛﹁えばモレッリは優たれた医師に助言をと︑で般見たように︑一にく医師への信頼は高仰
ぐことは必要なことである︒医師から書面の形で処方箋をもらうべきである︒そしてそれを熱心に実践すべきである﹂といって
いる︒さらにモレッリは︑疫病で多くの人が亡くなった一方で︑﹁医師の助言のおかげで多くの人びとが生き延びることができ
たと私は信じている﹂という︒今日から見れば︑おかしな話だが︑当時は︑疫病で死ななかった人がいたこと自体が医師の力量
の成果と見なされていたのである︒
しかし人びとは現実には必ずしも全面的に体液病理学にしたがっていたわけでなかった︒こと生死のかかった疫病をめぐって
は︑医師の教えに従うだけではなく︑実際に身の回りから得た経験的知識をも採用して行動していたのであった︒その行動は理
論的体系をもたないものの︑この疫病を一種の接触感染による病気として把握していた︒確かに︑理論的には︑接触感染で病人
から他の者にいったい何がどのように伝わるのかということになると︑当時の医師には説明がつかなかったのである︒古代のガ
レノス自身も眼に見えない粒子のようなもの︵今日の﹁細菌﹂︶の存在を否定していたのであり︑その考えはこの時代の医師を
も支配していた︒巷の人びとは︑接触感染説に︑頭や理論ではなく身体で反応したというべきであろう︒彼らは身近の数々の事
例から経験的に︑たとえば︑人の集まりに近づくことが疫病の発病につながり︑非常に危険であることなどを理解していた︒
この意味で人びとは︑一方で伝統的︑権威的な﹁医師の理論﹂︑他方で身近な﹁経験的知識﹂︑この対立し矛盾する二つの見方 イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
― 1 1 0 ―
の間を行き来していたのかもしれない︵このほかに食物によって発病するという見方もあった︶︒たとえば︑第七章で紹介した
﹁ピストイアの疫病条例﹂
眷では︑たしかに一方医例師の大気腐敗説に従で条を併見ると見事に両者が存︑している︒すなわちっ
て︑大気への悪影響を信じて市内での皮なめしを禁じたり︑悪臭による疫病の蔓延を恐れて遺体の埋葬に必要な深さについて厳
しく規定したが︑他方において︑経験から学んで︑疫病感染地域からの物品・商品の持ち込みや旅行者の立ち入りを禁止してい
たのである︒たしかに︑この持ち込みの禁止を大気腐敗説を根拠にして説明するのは無理がある︒接触感染を前提にしていると
考えた方が自然である︒一四世紀後半からの疫病に関する多くの情報から︑死者の持ち物に触れたおかげで多数の者が死んでし
まったことを知っていたのである︵実際には死者の持ち物にペストノミが潜んでいたのである︶︒
さらに︑一部の知識人についていえば︑前章で紹介したように︑医師の医学的能力に不信感を抱いていた人文主義者サルター
ティは︑ピサの疫病の状況に着目して︑説得力ある考えを提示した︒すなわち︑同じ大気のもとにあるはずなのにピサでは市壁
一枚隔てられただけでその内と外とで疫病の有無が全く違う状態にあることから︑大気腐敗説に大きな疑問を投げかけた︒サル
ターティのような知識人のみならず︑一般の人びとも︑医師の理論には一般の常識的な疑問に明快に回答できない弱さを感じて
いたかもしれない︒日常的経験︑たとえば︑同じ家に住む家族のなかで次々と死者が出る実態など︑当時目の前で日常的に起こ
った数々の事例から︑接触感染の見方は︑因果関係が直接的でわかりやすく︑納得がいくように思われたであろう︒
この見方は君主をも支配した︒ミラノの君主ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ︵一三五一︱一四〇二︶は︑すでに一三
四八年の時点でいわば直観的に接触感染を確信し︑ペストの罹病者を市壁から素早く排除することで︑一三四八年のペストから
ミラノをイタリアの都市で最低限の被害に抑えることに成功していた︒さらに一三九九年には︑彼の命令のもと︑疫病にかかっ
た︵と思われる︶病人を容赦なく隔離病棟に運び込む荷馬車が走りまわったのである︒しかしその彼もフィレンツェ侵攻中にペ
スト死してしまう︒
もちろん医学的にはペストは肺ペストを除けば︑梅毒などと違ってふつう接触感染しない︒ここで人間までの感染経路をたど
ると︑まずはじめに︑ネズミノミ︵ケオプス・ネズミノミ︶は︑ペスト菌︵エルシア・ペスティス︶を含んだクマネズミに寄生
する︒ところがペスト菌に侵されたことから多くのクマネズミは死に至る︵彼らもペスト菌の犠牲者であった︶︒そこでネズミ
ノミは︑養分の取れない死んだクマネズミを離れて︑新たな養分を得るべく次の寄生先として人間にとびつく︒だが︑ペスト菌
のためにネズミノミの消化器官︵前胃︶も冒されており︑前胃はペスト菌とその血のかたまりによって塞がれてしまっている
― 1 1 1 ―
イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
︵ノミもまた犠牲者であった︶︒そしてネズミノミは人間の皮膚に刺咬した時に︑前胃のなかで塞がれてしまっていたペスト菌と
その血のかたまりを一気に逆流させて︑それが人間の血管に吐き出される││こうして人間はペストの犠牲者となる
眸︒
人はこの感染のルートに何世紀もの間︑全く気づかなかったのである︵ただ︑ネズミを犯人と特定しネズミを殺せと助言した
ジェノヴァ貴族がいた︶
睇が︑たとえ健康な人ペのスト患者に接触してでな︒ふこのようにペストはつ気う接触感染しない病も
︵肺ペスト患者からの飛沫感染によらなければ︶それだけではふつう感染しない︒しかし︑接触感染を恐れて︑患者から距離を
保つことは︑多くの場合︑結果的にペストノミから距離をおくことになるわけで︑罹病防止につながりやすく︑現実には一定有
効だっただろう︒つまり接触感染を信じて︑ペスト患者に﹁接触﹂することを恐れ︑彼らとその持ち物から距離をおき︑彼らの
住んでいた家を燻蒸したりすることは︑多くの場合︑結果的にペストノミを回避することになったからである︒次々とやって来
るペストを前にして︑大気腐敗説のようなあいまいな見方を信じるよりも︑人びとは経験的に接触感染を避けようとしたと思わ
れる︒
この意味において︑都市の富裕市民は都市に疫病が発生すると︑いち早く都市を逃れたが︑彼らのこの行動は︑接触感染を避
けた行動といえるかもしれない︒そして何度も疫病を経験するうちに︑彼ら富裕市民はこの退避が有効なものであると確信する
ようになり︑それは習慣化していった︵この習慣は︑ペストがネズミノミの活動の活発な夏に流行することから︑ふつう夏の習
慣であった︶︒都市内に留まった者たち︵すなわちほとんど貧民であった︶の罹病や疫病死の多さを見るに︑富裕市民は︑疫病
から距離を置くことの措置の正しさは立証されたと思ったことだろう︒
この富裕層市民の都市からの逃亡に対して︑フィレンツェやヴェネツィアの都市政府は︑結局のところ︑都市生活のこの放棄
を非難するよりも︵前章で見たように愛国者サルターティは一三八三年に声を大にして非難した︶︑むしろ是認し︑一五世紀に
は退避する市民から特別に税を取るなどして彼らの留守中の財産の保護のために夜警や兵士を置いて管理システムを制度化した
のであった
睚︒
﹁接触感染﹂からの逃避は︑いわば富裕市民の特権であった︒その逃避は時に貧民の見殺しとして機能した︒一五世紀の富裕
層の市民は︑我が身の安全からみずから都市を離れるとともに︑日常的になされていた貧民への慈善による施しも︑貧民が生き
るための職も与えることなく︵富裕市民が都市にいなければ日雇い労働者は失業した︶︑貧民を置き去りにし︑むしろ好んで貧
民を疫病の犠牲にさせ︑﹁厄介者﹂︵イタリア語の﹁ペステ﹂︵
pe st e
︶にはこの意味がある︶である貧民の数が減少することを望 イタリアの黒死病関係史料集︵五︶― 1 1 2 ―
んだ︒それによって都市の治安が貧民の暴動と騒動から守られると考えたのである︒
接触感染説が経験上︑支配的になるなかで︑一五世紀において次第にペスト対策として定着し︑確立していったものが︑﹁隔
離病棟﹂︵ラザレット︶の設立や船舶の四〇日間﹁検疫期間﹂の設定であった
睨れ配支に方え考の別もず︒いは初当︑もれずいさ
れたものであったが︑最終的には接触感染の見方によって支配され︑定着していくことになる︒すなわち︑隔離病棟の設置は︑
当初の考え方において︵それ以後もある程度そうであったが︶︑人が今こそ直ちに取り組むべきは慈善行為と考えられておこな
われた︒その措置に際しては︑ダニエル書からは﹁罪を悔いて施しを行い︑悪を改め貧しい人に恵みを与えなさい﹂︑トビト書
からは﹁施しは死から解放してくれる︒罪を清めるのは施しである﹂ということばが引用された︒ここでは聖職者が指導的な役
割を果たし︑修道院や教会の施設が利用され︑あるいは慈善活動に積極的な信心会が大いに関与した︒﹁疫病﹂は︑当時の人び
との共通した見方として︑不義で不信心な人間に対する﹁神の怒り﹂にほかならず︑人ができることはそれに対して慈善行為を
もって神をなだめることだと考えられたのである︒フィレンツェの大司教アントニーノ︵アントニヌス︶
Ant oni no Pi er oz zi
︵一三 八九︱一四五九︶は︑病人︵=
貧民︶に対して安定した食料を供給し︑適切な治療を施す必要をシニョリーアに訴えて︑隔離病棟のために三︑〇〇〇フィオリーノを拠出させた︒彼の設立の申請書を貫く意図は︑決して接触感染への恐れではなく︑疫病が
もたらしたキリスト教的慈善の欠如を憂い︑貧民への援助によってそれを回復することであった︵なお︑疫病が流行していない
時は隔離病棟は貧民収容所として︑また乞食収容所として機能した︶︒
しかしながら次第に隔離病棟は︑事実上︑疫病患者を救うというより疫病患者を市内から文字通り隔離・排除して︑健康な者
を守る機能に傾斜した︒皮肉にも︑隔離病棟の設立は健康な人のためのものとなった︒すなわち隔離病棟を設置するのは︑事実
上市内から疫病患者を排除し︑接触感染から健康な市民を守るためのものとして機能した︒疫病による死者や死直前の疫病患者
のあふれかえる恐るべき病棟では︑治るかもしれない者をも死の渕へと追いやった︵それどころかランドゥッチの一四九八年五
月一二日の日記には︑施療院から市外にほうり出す疫病役人の非情さが描かれている︶︒疫病病棟のすさまじさは︑小説ではあ
るが︑マンゾーニの﹃いいなづけ﹄︵一八二七年︶に極めてリアルに描かれている
睫う﹁うつふ︒るあでよ︒の夢悪は状惨のそ事
実は小説より奇なり﹂といわれる︒しかしマンゾーニによるその描写されたリアルさから︑やはり小
説 !
は !
事 !
実 !
よ !
り !
奇 !
な !
り !
││と !
いいたくなるほどである︒
― 1 1 3 ―
イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
第 一 九 章 ル ー カ ・ ラ ン ド ゥ ッ チ の ﹃ フ ィ レ ン ツ ェ 日 記 ﹄ よ り
史料の解説と考察
︵一︶ランドゥッチとその日記について
フィレンツェ市民ルーカ・ランドゥッチ
Luc a La nduc ci
︵一四三六〜一五一六︶は︑フィレンツェの中心部︑大聖堂のあるサン・ジョヴァンニ市区において︑薬種商の店を営んでいた︒父の出身地であるディコマーノ︵フィレンツェから東北へ約二五キ
ロメートル︶に不在地主として農地を所有しており︑疫病が来ればそこへ避難していた︵一四七九年四月一八日の日記による︶︒
彼がフィレンツェ市民の階層のなかでどの程度の層にいたかについては︑はっきりしたことはいえない︒妻の持参金︵嫁資︶
の額︑地主および薬種商の店主としての地位︑息子をボローニャ大学に入れて医師にしたこと︑その他の日記の記述内容などか
ら見ると︑フィレンツェ市民のなかで﹁中﹂の﹁上﹂か﹁中﹂の﹁中﹂程度に属していたのかもしれない︵ただし彼自身は︑増
税に触れた日記のある箇所で自分が﹁貧乏人﹂の部類に属しているかのような記述をしている﹇一四九一年五月一日の日記﹈︶︒
ランドゥッチは薬種商の店を経営するかたわら︑みずからペンを執って﹃フィレンツェ日記﹄︵一四五〇〜一五一六︶を死ぬ
︵一五一六年六月二日没︶数カ月前まで綴りつづけた︵ただし最初の二七年間は││もし手稿の紛失等がないとしたら││記述
は極めて少なく︑実質的な開始日は一四七八年の春である︶︒この日記は︑高価であった﹁羊皮紙﹂でなく︑一五世紀から入手
しやすくなった﹁紙﹂でできた出納帳簿に書かれている︒内容的には︑それはひとりの市民の日々の私生活を記録したものとい
うより︑フィレンツェで日々刻々と目まぐるしく起こった政治的・社会的な出来事を克明に綴ったドキュメンタリーであり︑当
時の歴史資料としては極めて貴重なものである︵実際︑死後早くからその価値が認められ︑写本が数多く出回っている︶︒
フィレンツェでの彼の政治的立場については︑特定の党派に属してそこで積極的に活動するということはなかったようであ
る︒彼には政治に距離を置く姿勢があったように見受けられる︒日記の記述からも個人として目立った動きを避けようという慎
重な態度が認められる︵一四九七年二月一一日の日記︶︒一四九五年四月一日の日記でも彼は︑﹁善い道を歩んでいる人﹂を﹁国
の政治や党派に熱を上げない﹂人と表現している︒実際︑彼が生涯フィレンツェの役職に就かず︑政治の第一線にいなかったこ イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
― 1 1 4 ―
表
5
ランドゥッチの日記に記載された疫病・病気の全箇所*は「疫病」と記載されていないもの。網かけ部分は本章の訳出部分。
1 1478年9月14日 施療院で疫病で1日7人〜11人死亡。
2 1478年10月5日 スカーラ施療院には100人の疫病患者がいた。
3 1478年10月11日 疫病にかかった少年がひとり発見された。
4 1478年10月14日 疫病の女性患者がひとり施療院にいく途中で死亡した。
5 1478年12月24日 多数の疫病の死者がでた。「神の思し召し」。戦争と都市の破門と重なる。
6 1478年2月4日 疫病がずっと弱まった。
7 1479年4月18日 疫病がひどいので私は田舎に引っ越した。
8 1479年1月20日 疫病がひどく我々を苦しめた。
9 1484年6月14日 疫病が始まった。ブロジョッティ家から3人死者が出た。
10 1495年10月6日 疫病の家が発見された。アントーニオ・ディ・ボーノの家で二人死亡。ほかにも疫病の 家があった。疫病は我々を痛めつけた。
11 1495年2月29日 このころ疫病が勢いを増していた。
12 1496年5月14日 疫病がフィレンツェのあちこちでぶりかえした。
13 1496年5月28日 *正体不明の病気[梅毒]がはやり出した、フランスの腫れ物と呼ばれていて、大きな インゲンマメのような腫れ物だった。治す薬はなくて、だんだんひどくなっていった。
14 1496年6月25日 疫病の家が20軒位出た。
15 1496年8月4日 このころ疫病はほとんど終わっていた。
16 1496年12月5日 また1軒疫病の家が出た。何カ月か全く鳴りを潜めていたのだった。
17 1496年1月11日 ペンニ閣下がナポリから来たが、フランスの腫れ物[梅毒]にかかっていた。
18 1497年5月18日 *熱病で多数の人びとが死んだ。その熱病のためにうわごとを言ったり、気が狂ったり した。患者は聞くに耐えない言葉を言って、罹ると2〜3日で死んだ。サンタ・マリア
・ヌオーヴァ施療院には1日12人入院した。
19 1497年6月1日 多数の者が発病して数日で死んだ。8日で死ぬ者もいれば、10日で死ぬ者もいた。なか には4日で死んだ者もいた。この日施療院と町中で120人病人が出たという。この日サ ンタ・マリア・ヌオーヴァ施療院で24人が死んだ。みんなこの疫病のおかげで罪を浄 めてもらえると言っていた。
20 1497年6月13日 1日で施療院と町中とを併せて100人位死んだ。
21 1497年4月28日 やはり熱病で1日60人が死んだ。
22 1497年4月30日 町中で疫病の家が何軒も見つかり、ボルゴ・ディ・リコルポリでは8軒もあった。
23 1497年7月2日 熱病と疫病で人が大勢死んだ。
24 1497年7月3日 疫病の家が何軒も見つかった。そのためみんな逃げ出そうかかと考えていた。病人が多 く出たせいで鶏の値段が上がった。
25 1497年7月9日 サン・マルコ修道院で疫病が見つかった。そこで多数の修道士たちは父親や親戚の田舎 に行った。しかしサヴォナローラは修道院に残った。この頃フィレンツェには疫病の家 が34軒位あった。熱病の家も多かった。
26 1497年7月16日 フィレンツェで疫病の家が30軒。熱病でも多数死亡。子どもの死亡なし。
27 1497年7月20日 貧乏人が道端で倒れて、施療院に運ばれ、そこで死亡[疫病とはないが、疫病]。 28 1497年7月29日 疫病と熱病で人が死んで、市民は市内から逃れ田舎へ行ってしまった。
29 1497年8月15日 墓掘人が墓穴に入った途端に悪臭にやられて死亡。
30 1497年10月18日 *家長と善良な市民が多数熱病で死亡。女性と子どもは死ななかった。
31 1497年10月19日 何軒も疫病の家が見つかり、市民は田舎に逃げた。
32 1497年10月28日 疫病患者で座ったまま騁づえをついたまま死んで者がいた。疫病が我々を苦しめた。
33 1497年11月7日 ディコマーノで疫病が始まった。
34 1497年2月11日 このころ、疫病患者は1軒か2軒程度で、疫病についてほとんど話題にならなくなった。
35 1498年4月21日 多くの家で疫病が見つかる。スカーラ通りに4軒疫病の家が見つかり、ここサン・ブラ ンカッツィオ教会近辺でも4軒みつかる。2日間でかなり死人が出ていた。
36 1498年5月12日 疫病対策の役人が疫病患者をフィレンツェから追い出していた。フィレンツェに戻って 来ようとする病人に対して拷問の道具を用意した。これは逆効果と思われた。
37 1499年8月19日 このころ、多数の人びとが病気や負傷で戦場から戻って来た。兵士よりも見物に行って いた農民の方が多く、その多数が死んだ。
38 1499年2月16日 疫病は止んでいて話題にならなくなった。
39 1500年7月2日 このころ、フィレンツェで疫病の家が15軒見つかった。
40 1500年3月5日 このころ、疫病がまたやって来た。フィレンツェでは疫病の家が10軒以上出た。
41 1500年3月9日 夜空の月が最も欠けたこのころ、疫病がひどくぶりかえした/あちこちで何軒もの疫病 の家が見つかった。スカーラ通りでは1日4軒も見つかった。一晩で3人全員死亡した 家も出た。その場合外から戸口を外して遺体を運び出さねばならなかった。
42 1501年4月27日 疫病は多くの家で出ていた。
43 1504年5月23日 *フィレンツェに寒気がするはやり風邪がやって来て100人中90人咳をして熱を出し た。これで死ぬ人はほとんどなかった。
― 1 1 5 ―
イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
とも︑彼の報告を概して党派の偏りを少なくし︑比較的客観的なものにしている要因であろう︒ただ︑本章で紹介する時期はラ
ンドゥッチにとって︑多くのフィレンツェ市民とともにサヴォナローラの説教に魅せられた時期であり︑彼は心情的にはややサ
ヴォナローラ派に近かったかもしれない︒しかしそれでもメディチ派の青年に対して︑事実上サヴォナローラ派の支配するプラ
ティカ︵特別評議会︶の会議の判決によって﹁残酷すぎる﹂ことに死刑が執行された時は︑その遺体を見て涙を流したのであ
る︒
彼が関心を抱き︑努めて日記に記述したことは︑政治的な事件の他に︑疫病の発生・流行であった︒その報告ぶりは几帳面な
ものである︒この日記での疫病の報告はすべて表5に示した︒彼が疫病の報告について非常に几帳面であったのは︑ランドゥッ
チにとって︑疫病こそは︑この世の特異な自然現象︵雷・地震︶や奇跡とともに︑漏らさず記録して後世の人びとに伝えねばな
らない重要な事柄であると感じていたからであった︒そして︑後述するように︑彼のそうした﹁心性﹂︵ものの見方・感じ方︶
の奥には︑そこに紛れもなく神の強い意思が働いているという確固たる意識があったのである︒
︵二︶事件の発生と疫病の発生の交錯
フィレンツェの都市内に様々な事件が起こるなか︑勃発した﹁疫病﹂は都市社会の不安をいっそう刺激するように作用した︒
ランドゥッチの日記には︑時々︑日々の政治的争いの﹁出来事﹂の描写と﹁疫病﹂の描写との生々しい﹁交錯﹂が認められる││
たとえば︑サヴォナローラの政治的台頭と疫病の交錯である︒もともと人びとの終末論的不安をかき立てて説教に注目させよう
とする手法を取るサヴォナローラにとって︑飢饉とそれにつづく疫病の発生・流行は︑教会と世界の改革を求める神の叫びとし
て認識すべき出来事であり︑まことに好都合な出来事であった︵特に一四九六年〜九七年︶︒サヴォナローラは︑当時ちょうど
発生した疫病を自分の預言どおりに起こった出来事であると解釈して自己の立場の正当化に利用したのであった︵一四九七年七
月一一日の日記︶︒その一方で︑時のシニョリーアは︑サヴォナローラ派のますます高まる動きに対して︑それを阻止するため
に︑フィレンツェに疫病が発生したことを理由にして︵つまり疫病の拡散を防ぐ名目から︶彼らの集会を禁止したのであった︒
こうした交錯のなかで我々もその社会に実際に生きているような臨場感を与えられる︒また︑フィレンツェの貧民街に発生した
疫病に対して︑ランドゥッチやフィレンツェの市民︑さらに時のシニョリーアがどのように反応・対応したか︑また︑当時起こ
っていた政治抗争︵たとえば︑サヴォナローラ派とその反対派の争い︶に対して疫病がどのような作用を与えたか︒││この日 イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
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記は︑疫病がその生きた社会に実際にどのような影響を与えたかを知る意味でも興味深い︒
︵三︶ランドゥッチの時代の人びとの抱いた心性・宗教意識
しかし︑本質的に見て︑そうした疫病と事件の交錯よりもずっと重要と思われることが︑このランドゥッチの史料には秘めら
れている︒ランドゥッチが何年にもわたって綿密に書いた文章を通読することによって︑当時の人びとが抱いた心性が我々に身
近に伝わって来て︑心性に規定された彼らの行動様式のあり方が︑ある程度まで理解できるようになるのである︒具体的にいう
と︑この時代に頻繁に制定された奢侈条例やソドミー取り締まりは︑後述するように︑この時代の人びとの心性を理解して初め
て理解できるであろう︒以下︑具体的に見てみよう︒
ランドゥッチが書いた日記から彼がどのような神のイメージを抱いていたかを探ってみよう︒ランドゥッチの心性がどの程度
まで当時の一般の人びとのそれと共通するかはわからないが︑日記を通読する限り︑おそらく平均的な心性の持ち主であったよ
うに思われる
睹す自分なりのコメントをるいことがあるが︑神につてつ︒かというのも︑日記のなでに︑彼は起こった出来事い
て語る時の姿勢は︑これまで述べてきた都市の立法者の姿勢と見事に一致する︒彼の頭には︑全能の神こそは︑この世界の創造
者で︑この世でこれまで起きたことと︑これから起きることの一切の支配者であるとの意識が強く︑この信念に揺らぎはない︒
ランドゥッチにとっては︑物事がうまくいくと︑それは神の思し召し︵意思︶であるがゆえに神に感謝すべきであり︑一方︑物
事がうまくいかない場合︑それは罪深い人間への神の思し召しであるがゆえに︑厳粛に甘受すべきであった︒
仮説的にいえば︑そもそも︑中世の人びと︵それ以前の人びとも同様である︶にとって﹁神﹂を想定せずには︑地震などの天
変地異に満ちたこの世はどうにも説明がつかないものであり︑﹁不安﹂であった︒そこで﹁神﹂を想定して︑この世の不可解な
ことの一切の原因を﹁神﹂に帰することにした︒こうして世界の説明づけに関しては納得し︑﹁安心﹂できたが︑今度は﹁神﹂
こそはこの世の不可解なことの一切の誘因者として﹁不安﹂の根源となったのである︒
恐るべき神︑世界の支配者としての神の観念を示すことばは︑彼の日記の随所に認められる︒実質的な開始日である一四七八
年三月二五日から一四九四年三月二二日までの一六年間のうち︑日記が書かれたのは三三八日であったが︑このうち一七回にわ
たって神に言及したことばが認められる︒二〇日に一回の割合である︒
以下︑神のご意向︑思し召しに触れている例を示す︒
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イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
悪疫による大勢の死者
﹁このころ悪疫が死人を大勢出していた︒これも神の思し召しなのだ︒﹂︵一四七八年一二月二四日︶︵邦訳三二頁︶︒
疫病の弱まり
﹁疫病がぐっと弱まった︒神がほめたたえられますように︒﹂︵一四七八年二月四日︶︵邦訳三三頁︶︒
カラブリア公との戦で
﹁だからわれわれは勝利者になれないのだ︒これもわれわれが罪深いための神の思し召しなのだ︒﹂︵一四七九年四月一八
日︶︵邦訳三四頁︶︒
女の児︑熊に
鐓まれる
﹁難儀に難儀して男たちが大勢で熊の口から血まみれの深く
鐓たし召し思の神は児の女︒しま離き引を喉の児の女たれで
死なないで済んだ︒﹂︵一四八五年五月九日︶︵邦訳五八頁︶︒
大聖堂のクーポラから大きな石が落ちたこと
﹁教会はもう人で一杯だったが︑人には被害を与えなかった︒これは不思議なことだった︒われわれを助けてくださる神
の思し召しによるものだ︒﹂︵一四九〇年九月二一日︶︵邦訳六五頁︶︒
増税
﹁この増税も神がお許しになったことで︑それもわれわれが罪深いからだ︒というのも貧乏人の方が金持や実力者よりも
たちが悪いからなのだ︒ただし︑普通は︑の話だ︒神がほめたたえられますように﹂︵一四九一年五月一日︶︵邦訳六六頁︶︒ イタリアの黒死病関係史料集︵五︶
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館の完成を見ずに死んだフィリッポ・ストロッツィについて
﹁われわれは神の御好意にかなうかぎり罪をあがなう者なのであって︑支配者ではないのだ︒あらゆるものは神の御心に
委ねられていて︑神の天下を飾るためにあるのだ︒だから私は彼の罪を赦したまえと神に祈る﹂︵一四九一年五月一五日︶
︵邦訳六七頁︶
落雷による大聖堂のクーポラの塔頂の大破壊
﹁もし説教がある朝だったら︵毎朝︑当時は一万五千人の聴衆を集めて説教していたのだから︶何百人と人が死んだにち
がいなかった︒しかしそれは神がお許しにならなかったのだ﹂︵一四九二年四月五日︶︵邦訳六七頁︶︒
ロレンツォ・デ・メディチに触れて
﹁人間の本来の特性はまことの穏健と謙遜であり︑あらゆるものに神がいますと考え︑神が善いものとしてつくったもの
以外はすべて無いにひとしいものと考えることこそ望ましいのだ﹂︵一四九二年四月八日︶︵邦訳六九頁︶︒
気落ちして死んだであろうカラブリア公について
﹁実は時が満ちていたので︑だから神の手がかれをお打ちになったのだった︒こうなるとわれわれは信仰を持ちはじめ︑
われわれのあらゆる高慢を止めはじめる︒われわれもいずれは全員こうなるのだ︒メッセール・フランチェスコよ︑他人の
国を服従させて何になるというのか︒神がわれわれの罪をお赦しくださいますように﹂︵一四九四年一〇月二三日︶︵邦訳八
一〜八二頁︶
シャルル八世のフランス軍のフィレンツェでの宿泊をめぐって
﹁神の御手がわれわれの頭から離れたことはなかったし︑これからも離されることは決してないのだ︒なぜなら神は信者
の涙とため息と祈りをお聞きになったからだ︒真実の中を歩み︑心が善良で正しい者に恵みを与えたまえと毎日祈り︑なに
にもまして神の名誉と栄光を愛し︑逆境にあっても順調なときと同じように神をほめたたえ︑神の御心を果たす以外になに
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イタリアの黒死病関係史料集︵五︶