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体編成と植民地統治 : 大東諸島の系譜から

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体編成と植民地統治 : 大東諸島の系譜から

著者 土井 智義

出版者 法政大学沖縄文化研究所

雑誌名 沖縄文化研究

巻 38

ページ 385‑433

発行年 2012‑03‑31

URL http://doi.org/10.15002/00007969

(2)

|①』)きたい。 沖縄現代史の記述においては、米国による直接的な施政権行使をともなう米軍占領期を、一つの時代区分として見なすことが一般的である。本稿では、当該期の「琉球列島(吾の内宮ご□閂の一四己の)」(これが米国の沖縄統治機関であった琉球列島米国民政府の沖縄に対する法的呼称である)で展開した植民地統治のあり方を、支配される側に位置する人びとのあいだに設けられた「国民Ⅱ県民(「琉球住民」)」/「外国人(「非琉球人」)」という差別的な分割に焦点をあてることを通して考察してい

本稿では、当該期の沖縄を、米国が主に第二次大戦後に採用した「新たな国民国家に統合されるの はじめに

米軍占領期における「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治

l大東諸島の系譜から

土井智義

385米耐占領期 ニおける「国乢」「外国人」という1ミ体編成と植民地統治

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とは違った主権の現動化の形式として[の]植民地体制」という覇権的統治機構の一環に組み込まれた単位の一つとして考えている(酒井、一一○○八]一一一一~一一五、[]内は引用者の補足)。一一一一口い換えれば、それまでの複数の帝国による宗主国/植民地という垂直的な支配体制を転置させ、構成要素の

大部分に「国民国家」という形態を与えることを通して新たに再編成されてゆく第二次大戦後の冷戦構造において、少数ではあるが中心的な事例としてこの時代の沖縄を捉えて考察するということである。そして、沖縄で展開する植民地統治において、従属的な立場におかれた人びとの「内部」に刻まれた「国民」/「外国人」という位階化された主体編成のあり方、またこうした実践を根底で支えた

「植民地的差異(8」・言}&芹席のロ8)」の実働形態などを、この視座において分析したい。こうした試みの結果として、これまで十分に問われることがなかったという事実のみがその存在の

証であるような、「非琉球人」という「外国人」化された存在に関する、「国民」的主体間の相互作用における組織化された集団的な「忘却」が、現在おもに「日本語」で流通する沖縄をめぐる言論にお

いて、発話者それぞれの居住地や出自を横断しながらますます追認・昂進されていく諸ナショナリズムの転移的な関係性に対して果たす構成的な役割への見通しを得ることを目標としたい。米軍占領という継続中の植民地状況全体を問うことと、「外国人」問題とを切り離さずに同時に批判する方法を

獲得するためには、植民地状況における「外国人」の苦難に対する集団的な「忘却」のもつ意義を歴史的に検討することが求められているのではないだろうか。

386

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ところで、米軍占領期の沖縄における「国民」/「外国人」主体の編成を問おうとするとき、一つ焔

の厄介な問題に直面することになるだろう。それは、当該期の沖縄が国民国家ではないという事実に唾

突き当たるからである。通常、「外国人」問題の発生とい、うものは、、王権をもつ国民国家という制度纈 的な装置の成立にその原因が求められている。当地の国籍をもつ「国民」と、それをもたない「外国輝

人」。この両者の分割に起因する様々な差別こそが「外国人」問題なのだ、という理解である。しか対 上記の課題に向き合うにあたって、本稿では、迂遠と思われるかも知れないが、大東諸島の歴史的展開を軸に米国による沖縄統治の系譜を探ってみたいと思う。大東諸島では、米軍統治が開始されて以降、南大東村(南大東島)と北大東村(北大東島と沖大東島[ラサ島])という地方自治体が設置されるが、それまでは大日本帝国の「内地」に包摂されながらも糖業資本が島全体を私有して、独占的に施政権を行使するといった「例外」的な地域として、事実上の植民地統治が行われていた。このような「例外」的地域からの系譜を参照することで、第二次大戦後の米国の覇権機構において、「国際法上の魔法」とまで呼ばれ、グローバルな統治体制にとっての「例外」とされていた米国による沖縄占領のもつ意義を把握する手がかりが得られるのではないかと考えている。

国民国家とは異なる単位における「国民」/「外国人」編成について

「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治

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し、当該期の沖縄の場合、そもそも「琉球列島」という枠組み自体が、米国の統治の都合でその範囲の変動をともないながら形成されたものであって、国民国家はもちろん、あらゆる意味においても主

-3} 権をもつ国家と見なすことなどできないのだ。

だが、主権をもつ国民国家でないにもかかわらず、占領者としての米軍兵士と米国籍の軍属からなる「米軍要員」以外の支配される側である人びとのあいだに、「国民」/「外国人」主体の編成が制

度化され、「外国人」問題が実働していたのである。「外国人(非琉球人とには、参政権の剥奪や「在留登録」時の指紋押捺などが強要され、強制送還の対象となるなど、さまざまな日常生活の局面において市民権が制限されていた。米軍占領期とは、一九世紀後半から二○世紀前半までの時期に顕

著に見られた宗主国の主権に統合されていくような「公式的」な植民地統治ではなかったのだとして

も、支配する側と支配される側との間の強固な分離を前提に米国が直接的に施政権を行使するという意味において、やはり植民地統治にほかならないと言い得るが、そうした植民地状況下においても、

「外国人」問題は、主権をもつ国民国家としての日本国の一県になった現在と同様、制度的な面から

も、あるいは「国民」的主体からなる官吏が「外国人」に対して行う多様な抑圧の実態から見ても、紛れもなく存在していたのである。こうした主権をもつ国民国家に包含することのできない単位にお

いて展開した「国民」/「外国人」主体の編成の問題を、どのような枠組みにおいて可視化し、どの

ように分析することができるのか。まずは、この問いに取り組んでみたい。

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1「国民」/「外国人」編成の「植民地的系譜」についてここで、米軍統治期の沖縄社会のあり方を問題化できない「国民国家」なるものを前提とする「国民」/「外国人」主体編成の理解そのものを再考してみたい。問いは、ひとまず反転されるべきである。「国民」/「外国人」主体の編成という、人びとのあいだに差別的な分割を打ち込む統治形態は、いかなる「の冨帝(国家・状態)」を要請するのであろうか。それは主権をもつ国民国家という枠組み

においてのみ実働するのであろうか。こうした問いを考えるために、ここではインド系移民を主題とする歴史学者のラディカ・モンジアによるジョン・トーピー批判を参照していきたい。

まず、トーピーによるパスポートなどの「合法的な移動手段の独占」の歴史認識を要約してみよう。第一に、「パスポートと他の書類による移動と身元確認に対する管理」にかかわる合法的手段の独

占による移民抑制を、国家の本質的な実践として見なしていることが挙げられる。トーピーも語るように、こうした実践は第一次大戦以降の「国家の甲殻化」と呼ばれる偏在性を持った現象において一定の完成を見るものだが、トーピーにおいてはそれまで国家が移民規制の合法的手段を独占できなかったのは、ただ技術不足などの理由によるとやや単純に考えられている。そして、第二に、こうし

た本質的特徴を具備する国家というもの、すなわち国民国家というものが西洋という想像的な地理的

範蠕に起源をもち、その形態やその移民管理の実践などを、西洋がそれ以外の地域に強引に拡散させ

389米軍占領期における「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治

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モンジァによると、国家は本質として移民の流入抑制を行っていたわけではない。移民の流入に対する統制は、植民地主義と密接に絡まりあった人種主義に深く影響されながら、帝国全体ではなく植

民地の火急の目的に対処するために設けられたのであった(モンジア、前掲書二一四一~二四四)。モンジアが紹介する国家の移民管理に刻まれた「植民地的系譜」とは、次のようなものである。一九世紀の大英帝国統治下のモーリシャスでは、プランテーション経営のために移民促進の論理が支配的であった。しかし、一八三四年に奴隷制が廃止されたことによって、インドからの年季契約労働者が奴隷ではなく、「自由」な移民であることを証明しなければならなくなったのである。そのた

め、’八三五年にモーリシャスの植民地政府は、インド系移民が「自由」な意志によって移動してきたことを証明するために、インド系年季契約労働者に対してだけ帝国の法体系にとっての「例外」と ていったという理解である。つまり、この見解によると、西洋にこそ原型があり、残りの地域にあるものはその派生物ということになる(弓・巳の】ESCⅡ四s⑭)。こうした国家に関する本質主義的な理解と、西洋から残りの地域への伝播という単線的な歴史認識に対して、モンジアは、国家が採用する移民管理の実践を歴史的に変容するものとみなして、イギリス統治下のインド系移民に対する移動規制の変遷から「移民に対する国家の統制とそれにともなう国家主権の定義」が「植民地的系譜」をもつことの重要性を提示している(モンジア、二○○七二一五)○

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しての移民統制を制度化し、その抑制の根拠に「無知」な人びとが編されないためといった「文明化の使命」に基づく明示的な人種差別的認識を提示したのである(三・長田》国s司竃『‐さ←)。|方、一一○世紀初頭のカナダにおける事例は異なる様相を示し、移民統制の現代化とでも言うべき、等価的な

「国民性」の差異に依拠する移民抑制の論理が登場する。一九一五年、大英帝国内のインドからカナダへの移民に対して、「白人」移民の流入が不問にされるなか、同じ「臣民」であるはずの「自由」なインド移民に対しては異なる法適用を介して流入抑制が実施きれることになった。このとき、問題視されるのは年季契約労働者だけではなく、ある「国民性」を備えているとされる人びと一般へと拡げられたのである。反アジア感情に染まったカナダの社会防衛意識とインド社会からの差別への弾劾

が交錯するなかで、不平等な法適用を正当化する論拠となったのが「国民性」の違いという「一般的

原理」であった。インド系移民がカナダで生活することによって社会が攪乱されるという差別的な指

摘だけではなく、異なる環境で暮らすことへの適応可能性への不安が指摘され、インド系移民自身にとっても流入抑制が有効だとする論理が行使されたのである(二・口四四・巴&)。以上のモーリシャスとカナダにおけるインド系移民抑制の歴史的展開から、モンジアは、移民を抑

制するという国家(この場合は大英帝国というネットワークによって接合された宗主国と各植民地)

の実践が当初から実現が目標とされていた本質などではなく、当座の目的に対応するための「例外」的な実践として植民地においてこそ成立したと主張する。また、ある特定の対象に対して異なる法適

391米軍占領期における「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治

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用を実施するという同じような移民規制であっても、それを適法化する論理は、明示的な人種主義に依拠する姿勢から「普遍的」な「国民性」の差異に訴えていくというように、その正当化戦略の転位にも注意を促がしている。こうした観点に立つことで、モンジァは、トーピーによる「国民国家」という形態やその移民統制の実践が西洋から残りの地へ派生したとする語りを西洋中心主義だとして斥けるのである(モンジァ、前掲書二一三五~一一四一)。「国民国家という形態の後に移動管理が始まるのではなく、国民1人種(sの口昌・ロ日8)の軸に沿って移動を管理するために国民国家が生じる」のである(三・口四四面S山邑]◎)。こうした歴史認識からモンジアは次のような結論を導き出している。まず、パスポートシステムの形成を、旧帝国の終焉もしくは再編成という変遷過程において、人種主義をそれ自体として言及することなく、「普遍的」な「国民性」という等価的なカテゴリーに基づく区別として転置させていく実践だと分析している。つまり、パルタ・チャタジーの用語を駆使しながらモンジアが述べるように、「植民地的差異の支配(&の三の。【8-・旨}臼庁帛のごnの)」が「ポストコロニァルな差異の支配(弓の昌一の。ご・の〔8-・昌一臼牙扁のごnの)」のなかへと自然性を演出しながら効果的に継承ざれ制度化されたものが、「国民性」という差異の規範化なのである。また、モンジアは、とくに第二次大戦後に顕著となった複数の帝国の解体と植民地の「独立」を契機として構成されている国連などに代表される国民国家の並存体制を、「等価性の形態を通して構築された不平等の規格化(sのの庁目ga冨弓ロ・{

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旨のcg」弓の(曰、(貝の□片言・巨召言のざ【曰・席のC曰く四一のごB)」として捉えて、不平等の継続性を重視している。さらに、「植民地的系譜」の忘却を前提に、起源としての西洋から各地へ伝播したものとして国民国家という形態の拡散を説明するあり方を、「帝国l国家(の日ロ言‐の三の)」からの系譜を特権視する西洋中心主義だと批判するのである(三・口四P』S函邑○m)。言い換えるならば、かつて「帝国’

’4) 国家」と「植民地状態((す①8已巴の己【の)」として垂直的な関係性において統轄されていた不平等が、「国民国家(ロ昌一・ロー印画(の)」という外見上の等価的な範鴫の並存のなかに温存ざれ維持管理されてい

るのが現在のグローバルな統治形態なのであり、「植民地的系譜」の組織化された忘却こそが、このあり方を自然性に基づく「国民性」の「平等」な共存と見なし不問にする姿勢を支えていると言いう

るだろう。また逆に述べると、こうした現況においては、「国民性」を基盤にした等価性の形態の構築を目指すという「国民主義」的な実践が、グローバルな統治体制のなかで横領される危険性を強く示唆してもいるのである。

これまでモンジアの議論を長く紹介してきたが、むろんのこと、パスポートシステムという出入管

理に関わる差別的な分割だけが「国民」/「外国人」編成を支えているわけではないだろう。そのことは、「外国人登録」の問題を考えれば、容易に理解される。ただし、「国民」/「外国人」編成にとっ

て必須の要素であるパスポートシステムにおける「植民地的系譜」の指摘は、植民地状態としての米

軍占領期の沖縄における「国民」/「外国人」編成を可視化し、問題化する契機を開いていくと考え

393米軍占領期における「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治

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2米軍占領期における「統治性」について「国民」/「外国人」主体の編成が、「国民国家」の成立によって専有的に創出されたものではなく、その「植民地的系譜」、すなわち植民地における火急の問題に対する対応から既存の人種主義を「等価性を通して構築された不平等の規格化」へと転置させることで再編されてきたことを確認したうえ

で、では、米軍占領期の沖縄における同編成の展開を、いかなる視点において考えることができるのだろうか。とりわけ、軍事的展開の自由の確保を至上命題として、日本に「潜在主権」を設定するこ

とで、それが「主権」国家のあいだの「対等」な「合意」の結果という外見を与えられながら、日本の深い協力のもと米国によって施政権が掌握されていた米軍占領期から、当の軍事的展開の自由がまったく損傷されることなく、米国が施政権を手放すことによって「潜在主権」をもつ「独立」国日

本の「主権」に統合され、現在の「沖縄県」ヘと転位していったというポストコロニアルな現在を意識しながら考察してみるとき、どのような議論を展開できるのだろうか。

このとき突き当たるのが、モンジアの主要な問いの立て方のなかに米軍占領期以降の沖縄を、うまく繰り込むことができないという問題である。モンジアの論では、その主たる関心が論文タイトルで

もある「国家主権を歴史化すること」に注がれており、|般的に考えられている西洋中心主義的な られるのである。

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「国家主権」の理解に「植民地的系譜」への喚起を促しながら、「国家主権」が宗主国と植民地との不平等な関係性の歴史的展開のなかで「共生産(8‐官・目&目)」されたものであることが説得的に描かれている。だが、移民統制に象徴される、現存の位階化された国民国家の集合という形態において

実働する国家主権が、帝国の垂直的な統合から国民国家の並存体制へと転置した形式的平等のなかに

刻まれた不平等をこそ明らかにするモンジアの議論において、重点がおかれているのは国家主権の歴史理論のなかにある西洋中心主義への批判である。おそらく、イギリス・インド・モーリシャス・カ

ナダという現在は複数の国民国家に分岐した地域を分析の対象としているからだろうが、モンジァにおいて宗主国と植民地という垂直的な位階化から国民国家の並存へと進展したという一方通行的な歴

史認識が前提にされている傾向が否みがたく存在しているのではないだろうか。そのため、ある一定

の領土的空間における、領土所有権と施政権の一致が自明のものではないことが十分に問われている

とは言い難いのである。上述したように、グローバルな統治体制における一つの権力関係の結節点(単位)として沖縄を考えるならば、米軍占領期の「琉球列島」から現在の「沖縄県」ヘと転位した

歴史的展開は、国民国家の並存体制という現状認識だけでは不十分なものとならざるをえないのでは

ないだろうか。一方での米国と日本国との「国際関係」における等価性、そして他方の沖縄と他の都道府県との関係という「国内」における等価性といった等価性の入れ子状態を前提に成立する「施政

権返還」後というポストコローーァル状況の沖縄を思考する基盤を、「等価性の形態を通した不平等の

395米軍占領期における 「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治

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規格化」に対する批判の欠落によって是認される戦後日本の「国内問題」という枠組みの外へと位置づけるためにも、国民国家の並存体制には納まらない視点から考える必要がある。主権国家、宗主国の主権に統合されながらもその「例外」とされた植民地、主権に統合されることなく施政権が独占的

に行使された米軍占領期の沖縄など、グローバルな統治体制が実働するなかで多様な形態において位階化されていくこれらの権力関係の結節点(単位)を、沖縄を後景化することなく横断的に検討していくためには、いかなる視点が有効となるのであろうか。

ここで参照すべきは、フーコーの二つの枠組みのなかで国家の諸々の道具を用いることによって人間の行いを統御しようとする活動」のあり方としての「統治性」の議論であろう(可CE8B戸四つ五Ⅱ囚Sm己宙)。フーコーは、「国家は市民社会という自らの対象でありかつ標的でもあるものとの関

係において際限のない拡大の力を持つという考え方」と、「国家の諸形態は国家に種別的な一つのダイナミズムから出発して互いに他から生み出されるという考え方」という二つの要素からなる本質主義的な国家理解を批判し(句・ロ日三・ms←Ⅱ四Sm邑山])、代わりに次のような国家の分析方法を示し

ている。

国家は本質を持っていないということです。国家は普遍的なものではありません。国家はそれ自

体、権力の自律的な源泉ではありません。国家、それは、不断の国家化ないし不断の数々の国家

396

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国家の本質なるものを設定するのではなく、国家として認識されているものを、「不断の数々の国

家化」という「動的効果」として捉え返すこと。こうした視点に立つことによって、主権をもつ国民国家と米軍統治期の沖縄といった形態上の差異を越えて、それぞれの「国家化」における諸実践を問

題化することが可能になる。ここで私が問題にしたいのは、「国民」/「外国人」編成が「国家化」

のなかでどのように実働するのか、というテーマである。そして、米軍占領期の沖縄を問うことにお

いて、「国家化」というときの「国家」とは、主権をもつものに限定するわけにはいかず、「植民地状態(8』。ご臣の言の)」をも含みうるような多種多様な「国家・状態[ステイト(、三の)]」として想起されねばならないということである。ある本質に還元することが不可能な「国家化」という多様な動態について、領土所有権と施政権との結びつきの形態、植民者と被植民者との分離を正当化する「植民地的差異」、「国民」/「外国人」という主体編成のあり方などが問われるべきなのである。またさ 化によってもたらされる効果であり、その外形であり、その動的な切抜きに他なりません。[中略]国家、それは、多数多様な統治性の体制によってもたらされる動的効果に他ならないのです。[中略]問題は、国家からその秘密を引き出すことではなく、外部へと移動し、統治性の問題から出発して国家の問題に問いかけること、国家の問題の調査を行うことなのです。

(可opCm巨言いつ○一Ⅱいつ○mい①←)

397米軍占領期における「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治

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らに、「不断の数々の国家化」の「動的効果」である諸「ステイト」を、自生的なものとするのではなく、グローバルな統治体制において相互横断的に形成されるものとして見なす必要があるだろう。

では、「国家化」における「国民」/「外国人」編成をどのように考えることができるのであろうか。

繰り返しとなるが、この差別的な分割が成り立つために、主権をもつ国民国家という存在は必ずしも

必要ではない。まさにその実例を米軍占領期の沖縄が示しているのであり、後述の糖業資本によって植民地統治を受けた大東諸島の事例もそうなのである。主権による支配を前提にするのではなく、「統治性」の視点から見たとき、やはりフーコーの説明は有効である。フーコーは、十八世紀に現れて現在まで存続している政治経済学的な対象、すなわち、主権者と臣

民という軸線ではなく、経済学の知の介入点であり、一つの所与として統治技術の目的となり自己躁導する主体ともなる自然性としての「人口」について、興味深い二様の水準について語っている(句○口目三邑云Ⅱ⑭S「)。これは十八世紀の重農主義者が食糧難に関して獲得した考えだが、一方に「人口という水準」があり、これは「統治の政治経済学にとって適切とされ」、他方には「多くの個人、個人の群れという水準」があり、こちらは「適切とされない」水準がある(可・ESロ一戸巴忘Ⅱ四○○コ臼‐田)。そして、この一一様の水準は次のように説明されている。

しかるべく管理・維持・助成されたそれ[人々の群れI引用者]が、人口という適切な側の水準

398

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統治の目標としての「人口」と、この「人口」という水準を通して権力関係が実働するときの「中

継ぎ」として活用される「個人の群れ」という分割。このフーコーの指摘が重要なのは、適切と不適切という位階化が、主権者と臣民という軸において展開しているのではなく、統治の対象となる人び

との群れに対してなされた分割だという点である。食糧難という個別具体的な文脈を離れることが許されるならば、この「二つの水準」こそがまさに「国民」/「外国人」という位階化された主体編成に相当するだろう。そして、この位階化された主体編成は、植民地状況における被支配者のあいだに

も構築されるのではないか。またさらに重要なのは、この分断が「現実の分断」ではないとされていることである。すなわち、 で獲得が欲される当のものを可能にするかぎりでのみ、適切とされる。個人の群れはもはや適切ではない。それに対して人口は適切である。[中略]この分断は現実の分断ではありません。現実に一方がこちらにあり、他方があちらにあるというわけではない。そうではなく、権力知の内部自体(テクノロジーと経済的管理の内部自体)において、人口という適切な水準と、適切でない水準(さらには単に道具としての水準)のあいだでの切断がおこなわれるということです。[中略]後者はただ、人口の水準において何かを獲得するための道具・中継ぎ・条件としてのみ適切であるに過ぎない。(可・ロ日三・巴三Ⅱ四s司田)

399米軍占領期における「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治

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あらかじめ実体として経験的に得ることのできると想定された集団の差異(たとえば「民族」など)が、自動的に「国民」/「外国人」という分断に編成されるわけではない。「二つの水準」は、「権力知の内部自体」において構成されたものにほかならないのである。周知のように米国は、沖縄を専有的に統治するために日本「本土」と分離するべく、それまでの被差別経験を横領して「琉球人」という国民主義の育成を目標としたが(石原、一九九九、宮城、’九八二)、米軍占領期においては、ま

さに統治の目標として主体化される「琉球住民」こそが「人口」の水準であり、一方の「琉球住民」を構成的に支えるものとして、一人一人に対する在留登録が義務づけられた「非琉球人」が「個人の

群れ」としての水準なのである。米軍統治期の「琉球列島」は、もちろん国民国家ではない。しかし、「国家化」という運動性の中で、統治における「人口」の獲得という実践において、「国民(「琉

球住民))」/「外国人(「非琉球人」)」という「二つの水準」が現れるのは何も不思議なことではない。いや、むしろ国民国家の並存体制の枠に入ることがないまま現存した米軍占領期の沖縄のあり方は、国家についての本質主義的理解を排した上で向き合うならば、「外国人」問題を裸形で示すものかもしれないのだ。「植民地状態(8-・己四一の己(の)」と「国民ステイト(口呂・ロ-の己[の)」を同時に占める沖縄は、主権をもつ国民国家でないという点において少数例ではあるが、「統治性」の観点から見ると、

「ステイト」と主権との対応関係が物理的に切断されているという点において中心的な事例を提供しているのではないだろうか。制度や表象など様々な要素が動員されて構築されたと考えられる米軍統

400

(18)

なお、付言するならば、十八世紀以降の統治においては、「君主とその領土の安寧」が追及されるのではなく、「人口の安全(したがって、人口を統治する者たちの安全こが求められるというフーコーの指摘も忘れるわけにはいかない(句・口8已戸四s』Ⅱ国&『s‐」○m)。「国民」/「外国人」編成の枠組みから超越する米軍の位置づけが、「人口を統治する者たちの安全」において問われるからであ

る。もちろん、統治者たちの「安全」とは、米兵各人の生命が保護されているというわけではあるまい。軍事力の展開に組み込み可能な兵士という主体の生産管理にとっての「安全」が重要なのであ

り、米国が沖縄でとった戦略の一つは、兵士たちを、統治される者たちからなる「国民」/「外国人」

編成から分離し超越させることであったとみて差し支えないだろう。また、そうした分離を前提にし

た主体生産の運営が重視されるならば、反植民地主義や共産主義などの思想的、あるいはセクシユア

リティに関して被支配者たちと兵士たちとの「接触」を、統治にとっての「安全」確保のためにどのように管理するか、という点も重要なテーマとなるだろう。こうした統治の形態は、日米地位協定によって米軍が住民社会から超越しつづける現在も同様なのである。 治期のである。 「国民」/「外国人」編成は、統治の実態を見極める意味においてもきわめて重要な問いなの

401米軍占領期における「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治

(19)

1大東諸島史の素描

まず、ここで大東諸島の歴史を素描しておこう。ただし、本稿では支配される側の階層構造が顕著に現れる甘蕨プランテーションが全島に築かれた南大東島を中心的に取りあげ、燐鉱採掘がメインで

あり甘蕨栽培が比較的小規模であった北大東島については補助的に一一一一口及するに留める。また、沖大東島は戦前まで南北大東島とは別の企業が所有し燐鉱採掘だけを行っていて、事情が大きく異なるので今回は触れないこととする。

大日本帝国が無人島を領有し、沖縄県島尻郡に編入した一八八五年以降、国家が玉置半右衛門(玉 植民地統治における被支配者のあいだに刻まれた「二つの水準」、すなわち、「人口」と「個人の群れ」。そして、統治にとってより良き人や物資の流通の確保などを目標とする「安全」の獲得のため、地理的には同じ場所に共在しながら統治者が被支配者から超越していくあり方。このような米軍占領期の沖縄のあり方を考えるうえで、戦前の糖業資本による植民地支配から米軍統治にいたる大東諸島の歴史的展開は、主権の奪取をともなわずに行われた米国による沖縄統治を歴史的に考えるうえで重要な場所となるのではないだろうか。 二大東諸島における植民地統治について

402

(20)

アジア・太平洋戦争の激化にともなって島の人口を上回る日本軍が駐屯すると、食糧増産のため甘

(6) 蕨栽培が停止され、施政権も軍に委譲された。いわば軍政への移行である。その際には強制的な「島民」の引揚も行われている。日本の敗戦後は、軍が引き揚げてから一定の空白期間を経て、一九四六年に米軍統治が開始されるとともに南北大東島に村制が設置され、軍事占領下の地方自治体として、 置商会)というひとりの起業家に開発を許可し島をまるごと貸与した。’九○○年、玉置が組織した

一戸、)八丈系、王体の男性一一一一一名が、難難辛苦のすえに南大東島の「開拓」に着手する。その後、玉置商会が

傾くと、一九一六年に島の経営権が製糖業によって植民地台湾で利益をあげていた東洋製糖に譲渡され、翌年には島の所有権自体も一企業によって完全に私有されることになる。一九二七年には、長期的不況のさなか、「内地」・大東諸島・台湾・朝鮮・ジャワなどに工場を展開する大日本製糖が東洋製糖を合併し、島の所有権も移動した。当然ながら、企業統治下の大東諸島は地方自治と無縁であった。島を所有した企業は、甘蕨栽培の強制をはじめに、出入管理(渡島承認証と退島許可証の発行や退島命令など)、紙幣(島内流通用の物品交換券の発行)、失業者対策、学校の設立、警察(請願巡査)、小作層である「島民」という法的主体の定義、防風林の保護義務、航路や鉄道の敷設などを独占し、国家による徴税と徴兵以外、島内すべての施政権を掌握していたのである。帝国内で「内地」として登記された地域の内部に、独自の施政権を行使する「例外」的な領域を作り上げていたのであ

403米軍占領期における「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治

(21)

米国が再編成した「琉球列島」のなかに統合される。そして、戦後しばらくすると、日本統治下の台

湾において大日本製糖などで実務者や技術者として勤めていた沖縄出身の人脈によって創立された大東糖業が、戦前の会社統治への反発から島外資本に対して警戒心をもつ小作層と交渉し、一九五○年

(7) に製糖を開始する(大東糖業一一一○年の歩み編集委員会編、’九八一一エハ’一一~一一二一一)。また同時期の一九五一年には、戦前までの統治者たる大日本製糖が米軍の協力の下に再び島の所有権を主張するべく調査を始めたことから、小作層と日糖との間に土地所有権をめぐる紛争が発生した。裁判など長きにわたる折衝の末、ときの高等弁務官キャラウェイの裁定で小作層の土地所有権が認定されることになった。紛争が生じてから一一一一年、「開拓」から実に六四年後の一九六四年に、はじめて農家に土地

(8) 私有制が認められたのである。ここまで統治する側の変遷を中心に概観したが、こうした歴史をもつ大東諸島の歴史的展開を簡潔

にまとめると、戦前は植民地支配の民営化とでも言うべき事態であったことがわかる。大東諸島を統治する企業は、イギリスのインド支配における東インド会社の立場について、浅田實が「本国政府の植民地請負業者」と指摘した位置にあったのである(浅田、一九八九二一○七)。ただし、会社統治地域を国有化したイギリスのインド支配とは異なり、国有化した領土を民間委託した大東諸島では、

企業統治と国家統治との歴史的展開が逆転している。強制栽培と徴税という形態において、国家と企業が甘蕨プランテーションから生産された富の収奪を分担しながら、国家が領有する島を企業が利益

404

(22)

一方、戦後は、米国のアジア・太平洋地域支配の一環として形成された「琉球列島」のなかに、占

領の主要目的である軍事的展開の自由を保証するかぎりでの地方自治が許されていた。フーコーの表現を変形させるならば、「国家とは異なる空間としての軍事的展開の自由の空間から出発してそれを

どのようにして存在させればよいかという問題」のなかで、「国家化」が継続していくのである。戦前に比べれば、強制栽培の廃止や「琉球列島」内での移動の自由が獲得されるなど、いくつかの重要な権利取得が進展したが、やはり軍事的展開の自由を損壊しないかぎりであることに留意しなければ

ところで、大東諸島の歴史は住民たちとっていかに認識されているのだろうか。村の公的な語りでは、およそ次のような歴史観が提示されている。 ならない。 ある(句gていない。 を得るために私有するという形態で統治することで、軍事と外交を除く独自の施政権が行使される一

(9) つの「ステイト」が大東諸島に形成されていたのである。フーコーが新自由主義について語る一一一口葉を借りるならば、「国家とは異なる空間としての経済的自由の空間から出発してそれをどのようにして存在させればよいかという問題」のもと、「経済制度から国家へと至る回路」が形成されていたのである(句・ロ8三.巴云Ⅱ』Cs皀已]&)。もちろん、ここでの「国家」とは主権をもつ形態に限定し

405米軍占領期における「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治

(23)

基本的な展開は、「開拓」から「植民地支配」、米軍占領とともに開始される「自治」、そして土地所有権の獲得による「脱植民地化」と理解していいだろう。一見してわかるが、戦後の数年間、北大

東島で米軍管理のもと燐鉱採掘が再開されたほか、南北大東島には米軍基地も建設されなかったため、「脱植民地化」の課題は米国の施政権行使を拒否する「復帰運動」ではなく、かっての統治者である大日本製糖との土地所有権紛争が主であった。沖縄戦後史で最も重要な出来事のひとつである「施政権返還」があまり重視されていないのである。他方で土地所有権の確立は最重要視されており、土地所有権の確立に「尽力」したあの悪名高いキャラウェイ高等弁務官の胸像まで建立されている(城間編、二○○一、南大東村役場編、二○一○)。

また、上記の歴史展開に沿って「村民」という主体の自己画定も、「開拓者」↓会社支配下の小作層としての「島民」、という系譜のなかに位置づけられており、沖縄系と八丈系との融合した主体と(皿)して語られている。いわば、エーナィエンヌ・バリバールのいう「予め存在する統一性の表現を国家の

なかに見出す」ため、「理念としての国民」と内在的な相関性をもつ「虚構的エスニシティ」が、沖縄系と八丈系という一一つのルーツからなる主体なのだと考えられる(、四一一ヶ貝の(三四一一の局の己P]毛CⅡ 無人島の「開拓」↓企業による植民地支配(主に東洋製糖時代以降)↓米軍占領期から「自治」の開始↓土地所有権確立(「脱植民地化」)

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(24)

2被統治者間の階層化をめぐる語りについて企業による植民地支配から米軍占領によって開始された「自治」という展開。また、「開拓者」として始まり、会社統治期に被支配者となった「島民」、そして米軍占領期からの「自治」を担い始めた「村民」という公的な語りにおける自己画定。この両者の地平を確認したうえで、大東諸島におけ えられる。 ]@℃ヨ]墨)。もちろん、ここでの「国家」とは主権をもつ国民国家ではなく、ある形態を備えた一つの「ステイト」として理解していることを記しておく。このとき、「国民」的位置にある主体の系譜から後景化していくものに、二つのルーツ以外の住民の存在が挙げられるが、それだけではなく、たとえ沖縄系と八丈系であっても後景化される経験がある。それは、一つが、男性を主体とする沖縄系の「仲間」と呼ばれた契約労働者の経験であり、もう一つが八丈系の「非琉球人」という「外国人」化された経験である。そして、「仲間」と「非琉球人」との交点には一九六○年代から導入された女性を主体とする台湾労働者と、施政権返還後に日中国交正常化によって台湾と断行した結果、入れ替わりで導入された女性主体の韓国労働者の経験がある。

このような大東諸島の歴史は、主権国家でなく、植民地状態としての「ステイト」のなかで展開した「国民」/「外国人」編成を主題とする本稿にとって、少数だが中心的な事例を提供していると考

407米軍占領期における「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治

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る「国民」/「外国人」編成は、どのように分析されるのだろうか。まずは、このテーマに関連する先行研究を二点にわたって整理したい。第一点は、米軍占領期から施政権返還後しばらくのあいだ続けられた台湾と韓国からの年季契約労働者移入をめぐる研究である。第二点は、会社統治下において八丈系と沖縄系とのあいだに階層差と絡まりあう「対立」があったという事実の指摘である。まず第一点目についてみてみたい。甘蕨収穫と製糖工場の労働力を補うため、台湾と韓国から沖縄に導入された労働者の大半は、南北大東村に導入されていた。米軍占領期における台湾労働者導入に

ついては、日本「本土」の高度経済成長にともなう沖縄からの労働力流出や沖縄・台湾間での賃金格差という社会的背景の分析などが詳しく行われている(平岡、一九九一一、呉、二○一一)。施政権返

還後、日本と台湾が断交したことで韓国から労働者が導入されるが、韓国労働者については、韓国と沖縄社会の双方の分析が行われ、沖縄滞在時の聞き取りなどが行われている(外村・羅、二○○九)。これらは実証的で有益な研究だが、台湾や韓国からの労働者が「非琉球人」「在日外国人」であることが、端的に国民国家の「国境」によって区画された地理的範鴫の差異として前提にされており、米軍占領期に八丈系が「非琉球人」となり、その多くが「転籍」によって「琉球住民」になった事実と

有機的に結びつけられていない。つまり、国民国家の並存体制において「国民」化された主体を前提に受入側の住民と移住労働者が理解され、地理的範鴫だけではなく、地域住民のなかからも「国民」

408

(26)

そこで、二点目の沖縄系と八丈系の「対立」に一一一一口及するあり方について考えてみたい。この問題は、「村民」として「国民」的に理解された主体のただなかに刻まれた亀裂を浮かび上がらせ、地理的範艤の差異に還元できない「国民」/「外国人」編成への問いに接近していると一一一一口いうるだろう。

この「対立」に言及するあり方には、一一一つの傾向を指摘することができる。まずは、戦後になると「融合」に向う流れを前提にした上で、会社に支配される側であった両者の「対立」を、「日本本土

(人)と沖縄(人)」という「エスニック」集団のあいだで生じたものとして解釈する姿勢である(高

良、一九九二、仲里、一一○○一一一、同、一一○○七)。次に、会社による支配に一一一一口及しながらも、沖縄系

と八丈系との「対立」を「日本と沖縄との関係史の投射」や「日本と沖縄の関係史の歪みが持ち込まれた」ものとする理解、すなわち、沖縄と日本「本土」との関係(差別をともなう)の原型のような

ものが存在し、それが移民先に派生したという語りである(仲里、一一○○三)。こうした語りは、大東諸島に限らず、沖縄の移民研究において散見されるものである(山下、二○○七)。そして最後に、八丈系が上層部をしめる小作層と沖縄系の年季契約労働者との「対立」を、会社の統治方式にその契 /「外国人」編成が構成される事態を十分に考慮しているとは言いがたいのである。大東諸島の場合、その無人島を「開拓」したという来歴から、「国民」と「外国人」との差異が、本来的で土着的とされる人びとと、外来の新しくやって来た人びとのあいだに刻まれたものではありえないことが容易に察せられよう。

409米軍占領期における「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治

(27)

機があると見なす視点である(平岡、’九七七)。これは「対立」という事実の否定ではなく、植民地統治が「対立」を使嗽し固定化した側面を重視する立場であり、あるいは戦後にも「対立」が尾を引いたならば、それを民主化されたプランテーション経営のなかに刻印された会社統治期の「遺産」|u) だと見なす視点にもつながってくるだろう。では、このような三つの傾向をどのように検証することができるだろうか。ここでは、大東諸島が「南洋群島」の一環として開発されたこと、沖縄系と八丈系の移民ネットワークの交差点であったこと、そして無人島であったことという三つの事実から検討する。

まず、大東諸島が「南洋群島」の一つとして、いわば「南進」のフィールドとして「開拓」されたという事実を取り上げよう。すでに一八八八年に刊行された横尾東作によるイギリス人H・J・フィンドレーの『北太平洋水路誌』二八七○年)の抄訳『南洋群島燭案内」に、大東諸島は「南洋群島」の一島として記載されていたが(望月、一九九一一四四三~四七)、大東諸島の開発に着手した玉置商会の経営者である八丈島出身の玉置半右衛門(一八三八~一九一○年)は、すでに無人島の鳥島開発(アホウドリ羽毛採取)で莫大な財産を築いていた。望月雅彦によると、玉置は代表的な「南進」論者である志賀重昂や横尾東作らと深い交流をもつ人物であり、彼の鳥島開発とは大東諸島を「開拓」

するための前提となる事業であるが、「鳥島開拓を実現化したのは当時の『南進』気運の興隆によるものであり、大東島開拓も『南進』の延長にほかならない」のである(望月、前掲書”四九~五○)。

410

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また石原俊は玉置を評して、「玉置によって殖民・開発が進められた一連の島々こそが、世紀転換期の日本帝国にとっての『南洋』を構成していた」と断言している(石原、一一○○七》一一一○一一)。言い換えると、大東諸島は沖縄県という行政上の「内地」(ただし周縁的な)に登録されていることよりも、「南洋」という地政的な認識においてこそ開発が着手されたのであり、その後の日本の「南進」政策を考慮すると、無人島の「開拓」と有人島の「植民」は、ほとんど紙一重といっていいほど隣接

してしまうのだ。

そして二つめの問題として、「南洋」という地政学的な配置との関連で浮かび上がるのは、大東諸

島が八丈系と沖縄系(特に沖縄本島と周辺離島)という異なる島々から旅立った移民ネットワークの交差点だという点である。八丈島は、小笠原諸島・大東諸島・「南洋群島」に大量に移民を送出している島であり(對馬、二○○五、東京都八丈島八丈町教育委員会編、一九七八)、沖縄本島や周辺離

島からも大東諸島・「南洋群島」・ハワイ・南米・日本「本土」などへ大量に移民を送り出している(中山、一九九二)。ある調査によると、「大東島への出稼ぎは南洋群島に行く一つの手段」であった側面が強かったのである(具志川市史編さん委員会編、二○○一一》九五一~九八一一)。大東諸島における沖縄系と八丈系との出会いとは、何よりも「南洋」というフィールドで生じたものにほかならな

レコ

また、移民送出地という以外にも両者の共通点を指摘することができる。八丈島も沖縄も登記上の

411米軍占領期における「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治

(29)

「内地」に位置づけられながらも、行政上の面から見れば、「内地」に統合されきらない時期をもつのである。沖縄が「琉球処分」という強権的な過程をへて大日本帝国に編入されたのは周知の事実だ

が、普通町村制とは異なる沖縄県及島喚町村制が、沖縄で廃止された一九二○年以降も八丈島には適用され続け、最終的に八丈島が「内地」に統合されるのは一九四○年であった(高江洲、二○○九)。この歴史的経緯から述べると、両者は「内地」に統合されきらない場所から出郷し、大東諸島や「南

洋群島」などで出会ったと言いうるだろう。たとえ、八丈系と沖縄系がそれぞれ「日本本土」と「沖縄」という位階化された地理的範囑の転写した関係として語られ、ときに「対立」があったのだとしても、それは両者が「日本本土」と「沖縄」という異なるカテゴリー「である」ことに起因するので

はなく、大東諸島においてこそ当のカテゴリーに「なった」のである。つまり、非歴史的かつ静的に存在する異なる集団が予め存在して、双方が出会えば必然的に「対立」するような分断が原型のよう

に両者のあいだに存在していたからではなく、そうした階層化や「対立」という関係性のなかでこそ

異なる集団に「なった」と言いうるのだ。

最後に、上記の二点に関わって無人島の「開発」の意義を考えてみよう。これは逆説的にも、有人

島との差異がない点において意味を持つ。繰り返すが、大東諸島は、「南洋群島」と連続的な「開拓」「植民」空間において、沖縄系と八丈系という移民ネットワーク、そして東洋製糖や大日本製糖という帝国と軌を一にする糖業資本ネットワークとの結節点であった。そうした地政的な布置において、

412

(30)

大東諸島と「南洋群島」とのあいだに差異があるのは、無人島と有人島という違い、そして会社統治

という「内地」のなかで展開した植民地状態の大東諸島と委任統治領の「南洋群島」という帝国における「ステイト」の種別である。’’一一口い換えれば、大東諸島では沖縄系と八丈系はともに被植民者の位

置にあり、「南洋群島」ではとりわけ「先住民」に対して植民者的な位置にあったのである。こうし

た差異が厳然と見られるにもかかわらず、大東諸島と有人島である「南洋群島」やハワイなどにおいても、沖縄系の移民をめぐる語りにおいて同じ「沖縄」/「本土」というカップリングで「対立」の経験が語られるのはどうしてだろうか。なぜ、差異は蒸発するのか。

共通の語彙で語られた「対立」、つまりここでは「沖縄」/「本土」というカップリングで語られた「対立」のなかに、たとえば、大東諸島のように沖縄系と八丈系の双方が植民地化される過程で生

じた/生じさせられた「対立」と、別の植民地である「南洋群島」において両者が「先住民」に対して「植民者」として共在するなかで生じた/生じさせられた「対立」が同様に含まれているというこ

とは、個々の状況によって大きく位相の異なる「対立」が翻訳された結果として考えられるのではないか。同じ語彙で語られるのは、同質の「対立」があるからではなく、異なる社会状況における異なる階層化・分節化を受けて生じた/させられた「対立」が、宗主国と植民地、植民地と別の植民地、という多様な状況を横断して広範囲に流通するヘゲモニックな制度や表象空間のなかで解釈されることによって、矛盾をはらみながらも「沖縄」/「本土」というカップリングによる語りを通して表現

413米軍占領期における「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治

(31)

されたからではないだろうか。これを、ある原型が拡散したものだと考えることは、「対立」の「植民地的系譜」、とりわけここではプランテーション系譜を忘却することにつながりかねないと考える。この「植民地的系譜」の消去には、すでに触れた第二次大戦後の「等価性の形態を通して構築された不平等」としての国民国家の並存体制との関係性を指摘することができる。すなわち、各々の単位を自然な差異として再登録するために、移民先の多様な社会状況で形成された「対立」を、もとの帰属するべき「国民」的な単位の差異によって規定されたものとする解釈図式である。大東諸島や「南洋群島」などに関して言えば、大日本帝国の地域編成を、米国が再編した過程を想起しなければならな(皿)い(浅野、一一○一一)。そして、「沖縄」/「本土」というカップリングが、各地の異なる状況に影響されることなく共約可能になるのだとしたら、その翻訳において少なくとも二つの後景化を指摘することが可能である。一つは、「先住民」やその他の集団の存在であり、もう一つはプランテーションを経営する主体である。無人島と有人島との差異はもとより、大東諸島や「南洋群島」において、そこに住まう人びとの出身地の多様性は、当然ながら各々で全く異なっている。だが、この違いにもかかわらず、同じ語りが可能なのだとしたら、それは「先住民」や現在の沖縄を含む日本の施政権下で「外国人」とされる人びとの不在化を前提にしているからではないだろうか。「先住民」やその他の集団が数に数えられないという点において有人島と無人島の「開拓」の差異が蒸発し、「沖縄」/「本土」というカップ

414

(32)

リングが抽出されるのである。もう一方のプランテーション経営者の主体の消去は、大東諸島やハワ

イなどの具体的な植民地状態の分析の回避であり、すなわち植民地責任の不問化ということでもある(⑫} う。こうした一一重の消去において、「沖縄」/「本土」という対によって表現きれた「対立」が、施政権返還後に沖縄が合流することになる第二次大戦後の日本国の「国内問題」から派生した現象であるかのような語りを生むのである。

八丈系と沖縄系との「対立」は、植民地状態において内在化きれた階層化が、「先住民」と旧植民地出身者も含めた戦後日本における「外国人」の非在化と、会社責任者と八丈系を一括することで植

民地責任を暖昧にするという二つの屈折を通して、「対立」を「エスニック」化し、戦後日本の「国内問題」化する語りの内部で流通しているのである。ここでは、三つの目の傾向としてあげた、「対

立」を会社統治によって構造化されたものとして考えるあり方を継承し、考察をすすめてみたい。

S大東諸島における「国民」/「外国人」編成では、「対立」の語りを戦後日本の「国内問題」へと回収するのと違ったやり方で考えるために、戦前の会社統治期の被支配者のあいだに刻まれた分割を考察し、それを目下の課題である植民地統治における「国民」/「外国人」編成の問題と接ぎ木することを試みてみたい。一九一六年、玉置商会が神戸の鈴木商店の斡旋によって東洋製糖株式会社に合併され、大東諸島の

415米軍占領期における「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治

(33)

考察したい。

会社統治とは、いかなる支配だったのか。先行研究にしたがって記述してみたい。玉置時代には会社が砂糖販売を掌握しながらも、各農家が自主的に甘蒔栽培と黒糖生産を行っていたが、東洋製糖以降は違約すると退島処分という厳しい状況のもと甘蕨の強制栽培が実施されることになった(南大東村誌編集委員会編、前掲書二七七~二九一一一)。平岡昭利によると、玉置商会から 経営も同社に移り、翌年、島が政府から払い下げられたことで、大東諸島は完全に一企業の所有物と

(皿}なる。南大東島では原料糖の生産が行われ、巨大な分蜜糖工場が建設された。東洋製糖時代以降、開拓後三○年すれば耕作地を譲渡するという玉置時代の口約が反故にされ、反発する農家組織(共進会)と会社が交わした「覚書」と「小作地規定」が島の基本法令となって、農家は「島民」という名

称とともに永代的な小作層に定位され、甘蕨栽培の強制、小作料の規定、ネズミ捕獲の義務制など、細部にわたる支配が貫徹された。一九二七年には、東洋製糖が、「内地」・大東諸島・台湾・朝鮮・ジャワなどに工場をもつ大日本製糖に吸収合併され、小作層への「指導」も厳しさを増す。この日糖への移行は島にいる会社員もそのままで、会社統治の基本法令である「覚書」なども引き継がれたた

め、農家のあいだに大きな混乱はなかったという(南大東村誌編集委員会編、前掲書二一九四~四○二)。ここでは、「脱植民地化」として知覚される土地所有権獲得の経緯から見て、土地譲渡の口約が

反故にされた東洋製糖以降を、基本的に明確な植民地統治と考えて、当該期における統治のあり方を

416

(34)

東洋製糖への事業権の移動および続く土地の払下げは、「前期性の強い商業資本の経営段階から本格的な金融独占資本の進出を意味」するのである。それまでの玉置商会と農民との関係性は、農民が製糖した黒糖を玉置商会が独占的に取り扱うという「流通過程のコントロール」に限られていたが、東洋製糖の場合は、強制栽培と自主製糖の禁止など厳格な規定を定め、新型分蜜工場を設置して生産・加工・流通という「全過程の統一的な経営を画する製糖業の資本主義化を意味し、ここに於て原料売却者と買収者が完全に階級的に分離」したのである(平岡、一九七七唾九)。こうした東洋製糖時代から開始される統治において注目すべきは、小作地の細分化を防ぐことであった。東洋製糖の支配に移行する際、反発する農家組織(共進会)と会社が交わした「覚書」によって、利益配分率が農民七》会社三と定められていたが、この規定のもと、会社が小作地の細分化

防止策として利潤増大を追求するべく取られたのが反収増加策であった。小作地を細分化して小規模

の生産農家を増やし、労働集約性を低下させるのではなく、「大規模経営の状態で粗放化を防ぎ反収

を上昇させるため、南洋群島などと同様、過剰人口に苦しむ沖縄より低賃金労働者を導入し、それを

{脂〉各農家の経営規模に応じて配分」する一」とで対応したのである。その結果、〈云社は利益を増加きせる

が、農家は労賃支払いのために赤字を抱えることになった。そして、「低賃金労働者導入を図った政策からは雇傭者(親方)対賃労働者(仲間)と一一一一口う階層間の対立が前面に現われてくる」ようになったのである(平岡、一九七七二五~一六)。まさに、この被支配者のあいだの「階層間の対立」こ

417米軍占領期における「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治

(35)

東洋製糖の支配を拒もうとした農家組織「共進会」が、最終的に会社側と交わしたものに「覚書」

と「小作地規定」があるが、後者には、会社の統治目的と「島民」の地位が次のように法的に定義さ

れている。 そが、八丈島系と沖縄系との「対立」を構造化するのである。たしかに、戦前において沖縄系に対する差別的な対応には、広く流布した「琉球人」という表象も影響し、八丈島出身者のうちに近代以降に形成された沖縄への差別観が内包されていたこともあっただろう。しかし、この「対立」は、あくまでも製糖会社による植民地支配を受けるなかで内在化され、強化されたものであったことを忘れてはならないのである。では、このような被支配者のあいだの「対立」を構造化する会社統治とは、いかなる「植民地的差異」によって正当化されていたのだろうか。近代権力体制の普遍的理論のただなかで、その「普遍性」の異なる適用を正当化するのが「植民地的差異(8-.已巴&芹扁の目Oの)」であり、十九世紀以降は圧倒的に人種がその差異として規範化されていた(S三のuの①]@房》]←‐い←)。では、会社統治期の大東諸島での「植民地的差異」とはいかなるもいた(O宮戸田のだったのか。

第一条大正五年九月十八日の覚書きに準拠し会社は本島在住者の利益幸福を増進せしむる目的

を以って本規程を制定する

418

(36)

甘蕨の強制栽培やその他の作物の栽培を厳しく制限するなど、露骨な支配があったにもかかわら

ず、「利益幸福」を躯い、会社統治が支配者と被支配者の分離にもとづく強制に支えられていることを否定するものとなっている。そして、「島民」層のほぼすべてが八丈系か沖縄系であり、形式的には「内地人」であったため、公式的な人種差別なき支配ということになるのだろう。すなわち、戦前の大東諸島における植民地支配とは、朝鮮や台湾のような制度化された公式の人種差別がなかった支配なのであり、「異民族支配」に還元できない統治の実践なのである。「植民地的差異」を「エスニッ

ク」な差異だけに還元して理解すると、大東諸島の植民地統治を視野に収めることができなくなるのである。ピーター・ドウスは、「大東亜共栄圏」の構想に見られる、民族主義による帝国主義批判を横領し、各「民族」の「平等」な連合による「汎ナショナリズム」的なイデオロギーによる広域支配を「植民地なき帝国主義」と論じたが(ドウス、一九九二)、大東諸島の会社統治では、会社と「島民」との「平等」な主体間の「契約」という形態において支配そのものは正当化される。「永住の目 第二条本規定に於て島民と称するは本島内に永住の目的を以って渡島し土地の割当を受け誠実耕作に従事するものとす。島民にして本島をさりたる場合は勿論官職に就き又は会社の社員となりたる場合は島民たる資格を喪失するものとす

(南大東村誌編集委員会編、前掲書》九七四)

米軍占領期における「国民」/「外国人」という主体編成と植民地統治 419

(37)

的」をもって「誠実耕作に従事」する、官吏や会社員ではない存在として「島民」を法的に定義し、統治の交渉相手として主体化することによって会社統治は成立するのであり、このとき「植民地的差異」とは、企業ネットワークのなかで移動する社員と、島に定住を求められ小作人となる「島民」という階層の制度化ということになるだろう。いわば人種などの「植民地的差異」を利用できないという条件下で編み出されたのが「島民」という「経済的」な範囑なのだ。|方で、製糖期に必要となる労働力を補うために各「島民」のもと導入された、沖縄からの年季契約労働者である「仲間」が、「取締カード」によって個人化され「管理」されていたことはきわめて重要である(江崎編、一九二九二七)。つまり、大東諸島における会社統治では、統治の目標を獲得するための「人口」の水準こそが「島民」なのであり、それに対応する「個人の群れ」こそが「仲

間」なのだ。会社による植民地統治において、会社員が島に入植して耕作地を奪うというわけではない。そうではなく、先に「開拓」していた八丈系を中心とする「内地人」を「島民」へと編成し、年季契約労働者を「仲間」ヘと階層化することで統治を実践したのである。統治される側における「人口」と「個人の群れ」という分割を想起するならば、「島民」/「仲間」という編成こそが、会社支

配下の被支配者における「国民」/「外国人」編成に相当するだろう。そして、この両者の位階化さ{肥)れた規定から、〈玄社員は超越するのである。大日本帝国の崩壊後、日本軍と会社員が引き揚げ、かつての「島民」層を中心に「自治」が開始ざ

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