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王維の乘如禪師に寄せた詩とその

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全文

(1)

一、序

本稿では乘如禪師の俗兄である蕭居士について、皇甫冉の詩を基にその人物の一端を探った上で、靜嘉堂宋本『王右丞文集』卷四に收載される、王維が乘如禪師に寄せた詩の解釋を行いたい。

二、乘如禪師の俗兄である蕭居士について

皇甫冉の詩にみえる蕭居士

乘如禪師の俗兄である蕭居士に關する

管見の 料は極めて少ない。

作 ぶ限り、王維が乘如禪師と蕭居士に寄せた詩一首と 不詳の同詠一首、「蕭和

靈 銘」(以下「靈

の銘」)

陰に見える記

、そしてもう一つ、詩題に「蕭居士」の名が 含まれる皇甫冉の詩、の合計四件である。「靈

銘」

本文から、乘如禪師が大十三年に八十一(七七八) 陰の 寂したため、蕭居士が靈 で示 八(七八〇) 建立を發意したことや、建中元年 の靈

完 ことが知れる。乘如禪師と假に一 の折に蕭居士がまだ存命であった

靈 いであったとしても、

完 時、蕭居士は八十四

さてここで、四つめの て長命であったわけである。 の高齡であった。兄弟そろっ してみたい。詩の題と本文は『 料である皇甫冉の詩について檢討 嵩』卷二十九に據った。 (1)

和鄭少府祭中嶽祠因訪蕭居士之作(鄭少府の「中嶽祠を祭り因りて蕭居士を訪ふ」の作に和す)皇甫冉

王維の乘如禪師に寄せた詩とその

邊(下)

(2)

肅事祠靈境事を肅 つつしみて靈境を祠り 眞到隱居眞を

ねて隱居に到る

幽谷

して幽谷

曉 蕭散白雲餘蕭散として白雲余す く 持 律曉

他年 律を持し

書他年書を

はす 邊曽狎鳥

濠上正 邊曽て鳥を狎らし 魚濠上正に魚を

一峰綿 淳和淳和覩太初太初を覩る 寂靜求無相寂靜無相を求め る

一峰

綿かにして はる

象任盈

象盈 謝公懷 窓臨澗水疎窓は澗水の疎るに臨む とほ 門掩林鐘度門は林鐘の度るを掩ひ に任す

壑謝公

廻駕復何如駕を廻すこと復た何如せん 壑を懷ひ

この詩は

本により文字の

同が見られるので、『

卷二十九 嵩』

載の詩題と本文に據り、

本との

同についてま ず記したい。但し、岳と嶽、峰と峯、疏と疎などの

いては指摘しない。なお『 いにつ 嵩』を底本とした理由は後

る。校勘に用いたテキストは す の

『嵩書』卷十三 (2) りである。

『嵩山志』卷二十 (3)

鐵琴銅劍樓

明・銅活字本『 『皇甫冉集』卷四(以下、鐵琴銅劍樓本) (4)

嘉 下、五十家本) 五十家詩集』收載『皇甫冉集』卷中(以 (5)

本『

四庫 百家集』收載『皇甫冉集』卷一(以下、百家本) (6)

書本『二皇甫集』卷四 (7)

明・汪宗尼校訂本『

詩品彙』七言律詩卷九 (8)

書局本『

詩』卷二百四十九 (9)

〔詩題の

集』・『 「府」詩題中のの字は、鐵琴銅劍樓本・百家本・『二皇甫 なっている。 『嵩山志』では詩題の上に「奉」の字があり、「奉和…」と 同と校勘〕

詩品彙』・『

冉の作品に「河南鄭少尹 詩』では「尹」に作る。同じく皇甫 南亭 鄭官 ある。この「祭中岳祠因訪蕭居士之作」という詩の作 !河東」という詩が

"であ

王維の乘如禪師に寄せた詩とその

#邊(下)(

$田)

37

(3)

る鄭氏も、河南少

禮、仍封岳 應しい。『嵩書』卷四には「玄宗開元十八年、命祀嵩山以王 においては、鄭氏は中岳廟を祭るのであるから河南少尹が相 の鄭氏である可能性が考えられる。本詩

爲天中王。

六 、 河

無改(玄宗の開元十八年、命じて嵩山を祀るに王禮を以てし、仍りて岳

を封じて天中王と爲さしむ。

ごとに六

、河南の守を

して岳下に至りて恭しく祀らしむ。 は を

・『『二皇甫集』五十家本・百家本・ 詩題中の・鐵琴銅劍樓本・・『嵩山志』『嵩書』の字は、「祠」 る。に 「鄭少」の字が無く、「府」なお五十家本にはこのとある。 」ふるまで改むる無し)

詩品彙』・『

寫にあるが、これは は「寺」に作る。すなわち「祭中岳寺」となっているわけで 詩』で

「祭中岳祠」かわからないが、に作っているのは が自然である。『嵩書』がいかなる版本を底本としているの 意味をなさない。「祭中岳」ないしは「祭中岳祠」とあるの 因するりであろう。寺を祭るでは

と思われる。陳貽 當である 『 訂 釋 詩題中の「中岳寺」を「中岳廟」と 詩』第二冊では、

することは しているが、そう解釋

「中岳寺 しいのではないか。「中岳寺の用例としては、

圓靜、年八十余」(『

書』卷百二十四・李師

傳・ 『

治 や「中嶽寺修羅鑑』卷二百三十九など)

續 洞記」(『欽定 い。なお、「中嶽寺修羅 志』卷百六十八)といった寺院を表す用例しか見當たらな

洞記」は「中天嵩岳寺常

感應 院新修

竹林寺五百大阿羅

洞記

岳寺 とは中天嵩岳寺、寺」すなわち嵩岳寺のこととわかる。「中 」のことであるので、「中嶽

あって「中岳」が重ねて出てくるために、轉寫の 來の詩題中には「祭中岳」の三字以外に「中岳寺」の文字が 岳寺とよばれていたことがあったのであろう。とすると、本 圓靜」の「中岳寺」も同樣と考えられる。嵩岳寺が中

岳」二字が書き で「中 集』・『 「因」の字は、鐵琴銅劍樓本・五十家本・百家本・『二皇甫 とされた可能性も考えられよう。

詩品彙』・『

と「北」の字は、 詩』では「北」に作る。「因」の字 文字の 體になると似するため、寫によって 百家本・『二皇甫集』・『 詩題末尾の「之作」の二字は、鐵琴銅劍樓本・五十家本・ !同が發生したのであろう。

詩品彙』・『

に作る。詩題に「越上方」の三字が無いのは、管見の 詩』では「越上方」

り、ここで底本として據っている『 "ぶ限 と『嵩山志』のみである。 #嵩』、そして『嵩書』

$・傅

%&『 五代文學

年史』初

'卷

では、この ( 中國詩文論叢第二十七集

38

(4)

詩を天寶中の作とした上で、「

る)」として天寶八載の秋に繋年している。そして、『 略繋此(おおよそここにかけ

などが 詩』

方」を根據として、王維の「 用している詩題「和鄭少尹祭中岳寺北訪蕭居士越上

乘如禪師蕭居士嵩丘

しかし、ているのであろう。稿で 方」を「北のかた蕭居士越の上方を訪ふ」という意味にとっ 蕭居士の本名が越であるとする。詩題中の「北訪蕭居士越上 」の べたように、「蕭和

銘」の記

から居士の名は蕭時

であると

とになるが、およそ在家の佛 たこの解釋では、居士である蕭越なる人物の山寺を訪ねるこ 明した。ま 信 が なお、明・陸柬『嵩岳志 うのは存在しないであろうから、不自然な表現となろう。 持をつとめる寺とい

』卷上・靈毓第二では「

隱の士」として多くの人物を列 身卜 と越上方の名を するが、そのなかに蕭居士 を收めており、校點 居士越上方」とある。『嵩岳文獻叢刊』第一冊は『嵩岳志』 げた上で、續いて「皇甫冉和鄭少尹詩訪蕭 の張 の 鈞氏が「蕭居士」と「越上方」

に頓號を入れている。(=竝列記號〔、〕) ドゥンハオ

校點 の陸柬も

の張 列する人名と考えているようである。この場合、「上方」は 鈞氏も、詩題中の「越上方」を「蕭居士」と竝

持の意と解しているのであろう。ただ、そう解釋した場合、 詩中で「越

持」について詠んだ部分がどこなのか

ない 然とし

よ「越」は人名となる。 るにせよ「北のかた蕭居士を越の上方に訪ふ」と解するにせ 「北のかた蕭居士・越上方を訪ふ」も可能であろう。と解す また、「北のかた蕭居士を越の上方に訪ふ」と解すること いがある。

時期の嵩山地

持つ で「越」の名を

といえば、李

「中岳越禪師

「於」や「于」といった場 ふ」と訓ずるには、「北訪蕭居士於越上方」というように、 と解することも可能であろう。ただ「蕭居士を越の上方に訪 〇五~七六三)が思い出される。よって越禪師を指している 記」の越禪師常超(七 る。 を表す助字がほしいところであ に、なぜこのような

體の「之作」二字が接 同が現われたのか考えてみたい。

!すると、「越」の體と

また作 !似する。

字に の皇甫冉の「皇」字の體は、體の「上方」二文

!似している。本來の詩題は『

訪蕭居士之作」で "嵩』にあるように「因

#わっていたのではないだろうか。轉寫の を「之作」「越」、「皇」を「上方」とそれぞれ讀み $で、「訪蕭居士之作皇甫冉」と書かれてあったものを、

%って、

%寫された可能性が考えられよう。小稿が、『

"嵩』卷十三

王維の乘如禪師に寄せた詩とその

&邊(下)(

'田)

39

(5)

載の詩題と本文に據ったのは、本來の詩題の

〔詩の本文の 考えた方が、すんなりと詩題が解釋できるからである。 蕭居士之作」ではなかったかと考えるためであり、またそう わりは「訪 第三句の「 同と校勘〕

『 」は、鐵琴銅劍樓本・五十家本・百家本・

詩品彙』では「寅

第五句の「曉 」に作る。

『二皇甫集』五十家本・百家本・・『 」は、『嵩書』・『嵩岳志』・鐵琴銅劍樓本・

詩品彙』・『

は「 詩』で

」に作る。「曉

」では意味を

さないので「

の 」

第十二句の「 りであろう。

『二皇甫集』・『 象」は、鐵琴銅劍樓本・五十家本・百家本・

詩品彙』では「

姓」に作り、『

は「 詩』で

性」に作る。「

姓」では

後が繋がらないので

本・『二皇甫集』・『 第十三句の「門掩林」は、鐵琴銅劍樓本・五十家本・百家 であろう。 り 詩品彙』・『

詩』では「籬

作る。 溪」に

體の「門掩」二字が

に 接して書寫されると「籬」字 うに思われる。なお『 似する。よって本來は「門掩」とあった可能性が高いよ

詩』に「一作門掩林」と

ので、『 がある

嵩』や『嵩書』・『嵩岳志』が底本とした皇甫冉詩 のテキストは、『

詩』の

同じく第十三句の「鐘」は、鐵琴銅劍樓本では「中」に ないしはそれと同系統のテキストである可能性が高い。 にある「一」(或るテキスト)

る。第十四句の「窓」は、鐵琴銅劍樓本・五十家本・百家本・『二皇甫集』・『

詩品彙』では「空」に作る。『

『 詩』では、

と 嵩』・『嵩書』と同じく「窓」に作り、さらに「一作空」

する。直

の第十三句が「門掩」であれ「籬

對應關係からいって「空臨」では極めて(むなしくのぞむ) 」であれ、

い對句となり不

家本・『二皇甫集』・『 同じく第十四句の「水」は、鐵琴銅劍樓本・五十家本・百 」が最も緊密な對句となろう。と「窓臨(窓は臨む) 當であろう。ここは、「門掩(門は掩ふ)」 詩品彙』・『

のかという問題となる。直 るのか、」な(まばら)疏「が「澗木」「疏」が「澗水」る。 詩』作に「木」では の第十三句との對句關係から

斷するに、「林鐘」が「度」るのと「澗水」が「疏」るのは、いずれも動きを表しており、對應關係が緊密である。よって、本來「澗水」であったと考えるのが自然ではなかろうか。こうして見てくると、『

冉詩を引用するのに用いたテキストと、現行の『皇甫冉集』 嵩』・『嵩書』・『嵩岳志』が皇甫 中國詩文論叢第二十七集

40

(6)

本とは、明らかに系統を

にしていることがわかる。また のように、『

詩』の

テキストのうちの一本は、『 が皇甫冉詩の校勘に用いた のである可能性が高い。『 甫冉詩を引用するのに用いたテキスト、ないしは同系統のも 嵩』・『嵩書』・『嵩岳志』が皇 ひとまずここで、校勘した詩を を物語ってもいよう。 た皇甫冉詩のテキストが、いかがわしいものでなかったこと 嵩』・『嵩書』・『嵩岳志』が用い

げる。

和鄭少尹祭中嶽祠因訪蕭居士之作(鄭少尹の「中嶽祠を祭り因りて蕭居士を訪ふ」の作に和す)皇甫冉

肅事祠靈境事を肅 つつしみて靈境を祠り 眞到隱居眞を

ねて隱居に到る

幽谷

して幽谷

蕭散白雲餘蕭散として白雲余す く 持 律

他年 律を持し

書他年

書を はす 邊曽狎鳥

邊曽て鳥を狎らし 濠上正

魚濠上正に魚を

一峰綿 淳和淳和覩太初太初を覩る 寂靜求無相寂靜無相を求め る

一峰

綿にして はるか

象任盈

象盈 謝公懷 窓臨澗木疏窓は澗水の疎るに臨む とお 門掩林鐘度門は林鐘の度るを掩ひ に任す

壑謝公

廻駕復何如駕を廻すこと復た何如せん 壑を懷ひ

にこの詩の

容について

鄭少尹の「祭中岳祠因訪蕭居士」詩は、鄭少尹が皇 因訪蕭居士之作」という作品も傳わらない。それはさておき、 あるが、鄭少尹という人物は特定できず、鄭某の「祭中岳祠 この作品は、皇甫冉が鄭少尹なる人物の詩に和したもので 單に見ていきたい。

によって中岳廟を祭り、その後、中岳廟から の命令 う蕭居士のまいを くないであろ ねたおりの作と考えて

ろう。 !"いないであ

#時代の嵩山地

外の「蕭居士」と呼ばれる人物が存在していた可能性は $に、乘如禪師の兄である蕭居士以

く低いと思われる。よって、嵩岳寺域 し の堂宇ないしは庵室

王維の乘如禪師に寄せた詩とその

%邊(下)(

田)

41

(7)

に んでいた蕭居士(蕭時

第五句に「 考えてよかろう。 を訪問した折に詠まれた詩と) 持

律」とあるので、

家ながら戒律を保って 年の蕭居士は、在

侶のような生活を

思われる。それは、『大宋高 っていたものと 傳

』卷十五において「

部」と記される俗弟の乘如禪師の影 律 六句に「他年 かもしれない。また第 書」とあり、かつて書物を

たらしい。後の第七句の「狎鳥」は『列子』 したことがあっ をふまえており、第八句「濠上正に魚を 篇の「狎鴎」

る」の「濠上

魚」は『

太初を覩る」の「太初」も 子』秋水篇に見える話であり、また第十句「淳和

は、蕭居士と 家の語である。これらの詩句 家・

との關

よって、第六句の「 を暗示するかのようである。

書」は佛

書だけでなく

指しているのかもしれない。あるいは の書をも は、 年ないし中年の頃に 年とは

なり、

に親しんで

の書物を

いたのかもしれない。いずれにせよ、 して

年の蕭居士は

二 ・佛

に 第七、八句の「 した人物であったことになる。

邊曽て鳥を狎らし、濠上正に魚を

る」は、俗利を

れて を山水に寄せ、居士として自

活を な生

る蕭居士を詠じている。なお、「

邊曽て鳥を狎ら す」は王維が乘如禪師と蕭居士に寄せた詩の第三句「

磬 隨鳴

烏下(

は鳴磬に隨ひて

烏下る)」との關

これについては後 を思わせる。

第十一・十二句に「謝公 する。

に顛倒したものと考えられよう。ここで敢えて、會稽の東 「何如」は本來「如何」とすべきであるが、韻を揃えるため 士が俗界に赴く氣持ちのないことを詠っている。なお、この 何如せん」とあり、蕭居士を東山に隱棲した謝安に喩え、居 壑を懷ひ、駕を迴すこと復た

に隱棲した謝安に喩えたのは、の理由によるものかと思われる。蕭居士が俗弟乘如禪師と

した嵩岳寺、その嘗ての

持である大照禪師普寂は、五

!弘

"の東

法門を繼承した

#

秀の弟子である。乘如禪師の師は普寂であり、蕭居士もその

えを直接受けた可能性が高い。少なくとも

$接

%に 受けていることは えを

$&いない。東山法門とは、弘

の東山すなわち憑 "が雙峰山 '山に 士から、同名の東山に隱棲した謝安を想 う。嵩山に隱棲して東山法門の流れを汲みつつ修行する蕭居 したことから、その禪風をかく言

のではなかろうか。 (したと考えてよい 中國詩文論叢第二十七集

42

(8)

三、王維の乘如禪師に寄せた詩とその解釋

に、王維が乘如禪師に寄せた詩について、

ながら檢討してみたい。まず王維の詩と作 文を參照し

不詳の同詠を

げる。それぞれの詩題は、「靈

銘」の兩

のに、 側に刻されたも 同詠の本文は、缺字を補う の本文は靜嘉堂宋本『王右丞文集』卷四に據った。 稿で推測した文字を括弧を付けて補った。王維の詩

料がないため、

た文字を字するにとどまっている。同詠は文字の 側に刻され 分 が失われており、 く 基本 體像を想像することすらできないので、

やすさを考慮して、本文は一行一句で表記している。 にこの詩自體の檢討は行わない。なお二首とも、讀み

王維の詩如和

與賢兄・・・〈中缺〉・・・嘗下山。僕竊

寄(如和 焉。

無 蕭居士)。

天親弟與兄無

嵩丘 天親弟と兄と 一峯

嵩丘の

一峯

れたり 隨鳴磬

烏下

は鳴磬に隨ひて

行踏空林 烏下り

聲行は空林を踏みて

聲あり 迸水定

香案濕迸水は定めて香案を

雨 して濕ひ

應共石床

は應に石床と共に

深洞長松何 らかなるべし 有深洞長松何の有る

儼然天竺古先生儼然たり天竺の古先生 ぞ

參考:作

同王右丞寄蕭和( 不詳の同詠

□□□□□□ 居□□□□□□ 如公錫杖倚三車如公の錫杖三車に倚る 蕭居士詩)

高居

壁枕 □

壁に高居して

惠 □□□□□出家□□□□□家を出づ □□□□□□□ □を枕む

惠時□□□惠

□□□□□□□ ・惠時□□□

まず詩題であるが、宋本をはじめとする『王維集』版本には「

!乘如禪師蕭居士嵩丘

」となっているのに對し、

では「如和

與賢兄・・・嘗下山。僕竊

となっていることは 焉。寄」(下缺)

稿、

"ち(上)稿で

#べた。「嘗下

王維の乘如禪師に寄せた詩とその

$邊(下)(

%田)

43

(9)

山(嘗て山を下る)」に續けて「僕竊

焉(僕竊かに焉を

はつながりが惡い。 」ふ)

禪師と居士が容易には下山しない 言い方に、「未嘗下山」がある。ここは(未だ嘗て山を下らず) 侶が深山で修行していることを讃える

俗の境地を「竊かに

たものと思われる。「嘗下山」の直 」っ れており「未嘗下山」となっていたと考えられよう。 には「未」の字がおか は 目すべきは詩題中の「寄」の字である。現存のテキスト て「

乘如禪師蕭居士嵩丘

は離れた人に 」に作っている。「寄」

兄の 作られたことを示している。この二首の詩は、禪師・居士弟 り屆ける意であり、この詩が嵩山以外の地で む嵩岳寺を訪れた時のことを、王維と同詠

れ回想して詩に詠い、禪師と居士のもとに がそれぞ 考えられる。 り屆けたものと に詩の本文。一部、

稿の「詩語をめぐる考證」の

容を

した箇

佛 第一句では、乘如禪師・蕭居士弟兄を、古代インドの大乘 がある。

唯識 の高 である無

スバンドゥ)兄弟に喩えて贊美している ・天親(アサンガ)(=世親・ヴァ

。すでに

禪師が蕭居士の俗弟であったことがわかった。森槐南『 文から、

詩 釋

』では「法弟師兄」とし、實の兄弟とは考えていな い。

野 明『

詩 詳

とし、士」目加田『新釋 』は「乘如禪師と其の弟の蕭居

!文大系

』は「 "

兄弟で、乘如は剃髮して禪師となり、弟は在俗のままで佛 #らく

を修行していたのであろう」とするが、いずれも詩題での順序が先である禪師が兄であるに

ところで、天親は兄無 が、禪師は蕭居士の弟なのである。 $いないと考えたのであろう に は した人物である。さきに皇甫冉の詩を檢討した際に、蕭居士 %されて小乘から大乘に轉向

&年 侶のような生活をしていたが、以

( 期)には「 年期か中年 書( の書物)」を

'(しており、

していた可能性があることを を信仰

(べた。蕭居士は

から佛

へ轉向した人物だったのではないか。そこで王維は、蕭居士のことを小乘から大乘に轉じた天親に譬えたのではあるまいか。「弟與兄」と詠んだのは韻を合わせるためと考えられようが、もしかしたら、それだけではない可能性も考えられよう。

から佛

に轉向した兄

蕭居士を、敢えて無 )

の弟 ば、王維が禪師・居士を無 ある天親に譬えようとしたのかもしれない。そうであるなら で )

という共 ・天親に譬えたのは、單に兄弟 こととなる。とすると、釋 *點があるだけではなく、實に深い意味があっての

+潭が『國譯

』卷五で , 中國詩文論叢第二十七集

44

(10)

「單に兄弟なるを以て此の二師を出し以て比したりとするは、何の意義も無し」と

じているのは

第二句の「嵩丘 當でないことになろう。

」は嵩岳寺域

は嵩岳寺の後方に聳える峰 岳寺の後方には嵩岳の峰が聳えている。よってこの「一峰」 の堂宇ないしは庵室。嵩 體を言うのであろう。寺の

峰が聳えると解するが少なからずあるが、すぐ に 存在しない。 方に峰は 部南郭『

詩 國字解

』が「この

峰が高う には一

れ切って、境地も面白い」(傍點

とし、 田、以下同樣)

野 明『

詩 詳下』が「其の寺

つの峰が には、一

れわたつて高く聳えてゐる」とし、目加田

釋 『新

文大系

詩 』が「この嵩山の寺

が には、一つの峰

係が合わない。「一峰 れた空にそびえている」と解釋するが、いずれも位置關

」で、この「一」は、分

されない 體を意味する用法であり、峰

體が 詠い、禪師兄弟の れ渡っていることを まわれる

第三句は、『御 暗示している。 が、靈境の地であることを 詩』卷十九が

烱の「馴烏逐 に引くように、陳の沈 磬、狎獸繞禪牀(烏を馴らして

を狎らして禪牀を繞る)」(「同 磬を逐ひ、獸 中庶

吾 處士弘讓

明慶寺」)を 踏まえていよう。禪師の感

が鳥獸にまで

詠っているようにも思われる。しかし、これは んでいることを たように、皇甫冉の詩の第七句「 に少しふれ 邊曽狎鳥(

を狎らす)」との關 邊曽て鳥 士が鳥をも馴らすほどの執のない修行 を思わせる部分である。となると、蕭居

齋 鳥を馴らすことに長けていたのかもしれない。いずれにせよ、 ている可能性が考えられよう。あるいは、實際に蕭居士は禽 !であることをも詠っ

"

#『 詩大系

詩 (下)

』が、「 $

%くに からすがむらがって &ぐうている からだ」とするように、單に烏が 'いおりてくる。おあまりが頂戴できる

第四句は、釋 と解するのは當を得ないであろう。 の殘りをついばみに來る (潭『國譯

詩 常行梵行」を 』が大寶積經の「在空林中、

えてよいだろう。ここでの「行」は經行。 に引くように、この部分を意識していると考

ための散 )ち心身を整える

*。第三句の「

+」との對應から考えると、

屋外を散 +後に

禪後の散 *することを言うのであろう。あるいは屋外での座

*かもしれない。「

と居士の ,-聲あり」は、第三句が禪師 士の .を稱えていることからすると、この句も禪師と居

.によって、

,ち -を踏む を言うのではあるまいか。 /も讀經の聲に聞こえること

王維の乘如禪師に寄せた詩とその

邊(下)(

田)

45

(11)

第五句は、李

詠う。「迸水」は、 寺の裏手にある流泉、すなわち菱鏡泉を、王維が思い出して をして「菱鏡漾于玉池」と言わしめた嵩岳

泉の故事や『法

珠林』の

故事を踏まえていよう。後するが、同詠に の ・

に禪師と居士を譬える表現が見られる。よって王維と唱和 時兄弟

で、『法

もしれない。「 珠林』の迸水の故事が話題に上っていたのか 香案濕」は『法

珠林』の佛圖澄の「燒香 願」の故事をふまえる。ここで

えたのは、この兩 や佛圖澄の故事をふま が戒律に嚴格であったため、戒律に

第六句の「雨 うか。 い乘如を詠うのに相應しいと王維が考えたからではないだろ し 」は、

野 明『

詩 詳

『王維 』や入谷仙介 究

』がすでに指摘しているように、梁の武

の の時代

雲光の「雨

臺」の故事をふまえる。「靈

銘」の

本文から、禪師が武 陽 の六代の孫であることが

禪師の出自を意識して王維が武 明したため、

時代の奇瑞を讀み

會の あるが、この推定を表す文字の意味をめぐって、これまで附 ところで、第五句の「定」の字と、第六句の「應」の字で のと考えるのが自然であろう。 んだも や憶測がなされてきた。例えば皆川淇園『

解』 七律では

のように解釋している

「乘如與蕭、天竺無 。

與兄也。王欲 !大士、有弟天親菩薩、而亦爲弟

"其

#寓嵩丘

$%、

&値其

#居一峰

而其元 '之時。

(之心以爲彼二人之居、其

)必隨其鳴磬、而

下 *鳥

)、我行踏空林只有

+,之聲、而巖

或有迸水、定亦

其香案、而以濕又時有天女雨

。亦應共其石牀

-.矣。

/0到而

1之、亦無

亦無迸水、亦無雨 *烏、亦無空林、而只是深洞長松。

、試問何

而已。(乘如と蕭と、ほ天竺の無 #有、獨有儼然天竺古先生 がごとくして、亦た弟と兄たるなり。王其の寓する !大士の、弟天親菩薩有る

#の嵩丘

$%を

"らんと欲するに、 よぎ

&たま其の居する たま

#の一峰 の時に値ふ。而して其の元と之を 'れたる 二人の居、其の (むの心に以爲へらく、彼の )は必ず其の鳴磬に隨ひて

*鳥下りて

行きて空林を踏めば只だ )ひ、我 +,の聲有りて、巖

り、定めて亦た其の香案を 或るひは迸水有 雨 して以て濕ほし、又た時に天女の 有りて、亦た應に其の石牀と共に

.を

-すべしと。

るに /に到

0んで之を

1るに、亦た

だ是れ深洞長松のみ。亦た迸水無く、亦た雨 *烏無く、亦た空林無くして、只

の有る 無し。試みに何

すなわち、第三句から第六句までを、王維が禪師と居士の #」ぞと問ふに、獨り儼然たる天竺の古先生有るのみ。) 中國詩文論叢第二十七集

46

(12)

に立ち寄ろうと

くから

ている。「實際に立ち寄ってみると、 んだ時の想像・予想ととらえ

るのは深洞と長松のみ。そしてまた迸水も雨 烏も空林も無く、有

「應」の二字の存在を無 というわけである。敢えてこう解釋することで、「定」 何がありますかと訊ねたところ、有るのは佛像だけだった」 も無かった。

森槐南『詩 せずに讀めるわけであろう。

釋』では「迸水雨

に逗入す、然れども 、乃はち佛家の典故 し又眞の如くなりと云はゞ、則はち

に るの あり、因つて『定』『應』の二

了の語を做して肯て斷ぜず、之を作 字を用ゐ、未 くに筆を下せば、已に が想像に止む、此の如 の

なくして、又倍

を高からしむ」としている。また入谷仙介『王維 二人の身分

「實景と故事をふまえた幻想とが 究』では、

中に奇 妙に交錯して、嵩丘の山 第五、六句の まえた幻想」とは第五句と第六句のことであろう。いずれも な別世界を現出している」としている。「故事をふ 按ずるに、「 である。 容を王維の想像や幻想であるとしているわけ 乘如禪師蕭居士嵩丘

」すなわち

の整合性を 立ち寄ったという詩題と、推定を表す「定」「應」二文字と に 索した結果、以上三

にみられるような付會の

の二字を用いたのは、「應」 や解釋が生じたものと言えよう。しかし、王維が「定」

に立ち寄る直

らではなく、「 の想像だか に る」のを「

たのでもなかったのであった。 止」めたのでもなく、また「故事をふまえた幻想」を表現し 」って敢えて「想像に

く離れた場

回想つつ、現在の から嵩岳寺を

「深洞」によって思想の深 第七句は、「深洞」「長松」はそれぞれ洞窟と松樹であるが、 る。 況に對しても想像をめぐらせたわけであ

の詩語によって乘如禪師ないしは蕭居士の 高さを、それぞれ暗示させているのであろう。つまり、二つ さを、「長松」によって人物の崇

第八句の「儼然天竺古先生」の解釋に關しては、 ものと思われる。 を賞贊している

るようにA~Dの先行 にげ

!が存在する。その中で大

るのが、Aの佛像が安置されているとする "を占め 居士を佛に譬えているとする と、Bの禪師と

、である。

A佛像が置かれているとする

#歎『

汝詢『詩解』卷四十二 #歎外書』

王維の乘如禪師に寄せた詩とその

$邊(下)(

田)

47

(13)

部南郭『

詩 國字解』(日野龍夫補

『 詩 國字解』3、

凡 皆川淇園『 、一九八二年)

詩 解』卷五(丹陽源府

森槐南『 版、一七九三年)

詩 釋』(新

※森 堂、一八九三年)

では、佛像があってその

篠田 ているとする。 で禪師と居士が修行し 南『

詩 義』卷五(岡本書店、一八九三年)

崎允明『箋

詩 』卷五(

文大系、冨山

釋 年) 、一九一〇 潭『國譯

詩 』卷五(『國譯

文大 東洋文 文學部』第五卷、

協會、一九一二年)

野 明『

詩 詳 小林太市 (下)』卷五(明治書院、一九二九年)

・原田

雄『

詩大系 10王維』(集

目加田 九六四年) 、一 『 詩 』卷五(新釋

齋 四年) 文大系、明治書院、一九六 『

詩 』(下)(

詩大系、集

、一九六五年)

原楚水『

詩 解』卷五(

李『禪詩三百首譯析』(吉林文史出版 堂、一九六七年)

、一九九五年) B禪師と居士を佛に譬えているとする

!可久『

小川 王右丞詩集』卷四

"樹ほか『王維詩集』〔本詩は(岩波文庫、一九七二年)

高木正一『 #留春雄擔當〕

詩 中』(

$日新聞 陳鐵民『王維集校 、一九九六年)

』一冊(中

楊文生『王維詩集箋 %書局、一九九七年)

』卷四(四川人民出版

※金人瑞( 、二〇〇三年)

&歎)と とを示した上で、「生按、或解爲乘如、蕭居士二人宛 汝洵が「佛像」と解釋しているこ '天竺 陶文 (佛菩薩。」としている。

)『王維孟

*然詩

』(三秦出版

・二〇〇四年)

C禪師と居士を無

・天親に譬えた第一句の

いるとする 容を移して

の項に

+げた ,生『

詩 』(『

詩 三種』〈

,山書 一九九五年〉 、 -收)の該詩に付された朱之荊の補

の に、こ

があることが記されている。

D禪師と居士を老子に譬えたとする

野直彬『

(中)』(岩波文庫、一九六一年) 中國詩文論叢第二十七集

48

(14)

E居士を、佛・老子のいずれに譬えたか

然としないもの

生『

詩 』卷三(『

詩 三種』〈

山書 年〉 、一九九五

※ 收)

では、五・六句が禪師、七・八句が居士について

いているとする。

まず、佛像が置かれているとするA

師と居士の であるが、王維が禪 られていた佛像を に立ち寄った詩であれば、「深洞」の中に祀 し、この詩は禪師と居士のもとに 寫することも不思議ではあるまい。しか

王維の回想を基にして詠まれたものである。 り屆けられた詩であり、

士に くの禪師・居 でずっと禪師・居士弟兄を賞贊していたのに、尾聯で洞窟 は考えにくいのではないか。ましてや、第一句から第六句ま る詩において、佛像が置かれていたことを回想すると

に佛像が置かれていたことを詠じて詩を

不自然であろう。以上のことから、A えるのは、極めて は に思われる。 立しがたいよう に、禪師と居士を佛に譬えているとするB

結論からまず言うと、 であるが、

優れているからとはいえ、相手は解 く贊同できない。なぜなら、いくら

もしていない一

侶で ある。佛

先行 佛を貶めることにもなるからである。 えられない。ましてや在俗の蕭居士まで佛に譬えることは、 徒である王維が禪師を「佛」に譬えることなど考 の大

を占めるA・B兩

には筆 ではC は與しがたい。

はどうであろうか。

生『

詩 』の南屏

(乾 堂刻本

十五年)の當該詩には、朱之荊の補

補 る。それには、 が付されてい を持ち上げて「結句有謂

轉無 天親 有謂古先生指佛像 、

(結句は無 、不如作五六寫禪師、七八寫居士爲是 天親を

轉すと謂ふ

ふ 有り、古先生は佛像を指すと謂 と」ある。この補すに如かず) 有るも、五六は禪師を寫し、七八は居士を寫すと作すを是と爲

「天竺古先生」は、第一句の「無 でわかるように、第八句の ・天親」を「

轉」(=轉 したものであるとする)(=移した)

ンドの無 ある。つまり、第八句の「天竺古先生」も第一句と同じくイ が存在したようで 單 解釋すると、第一句と第八句の意味が殆ど同一となり、眞に ・天親兄弟であるとする解釋である。ただ、そう 板な てしまうであろう。よってこの解釋も り方となり、王維らしからぬ拙劣な作品となっ

立し 最後に殘ったのが、禪師と居士を老子に譬えたとするD れる。 いものと思わ

王維の乘如禪師に寄せた詩とその邊(下)(

田)

49

(15)

である。まず第七句「深洞長松何

有」の「何

有」に

たい。この「何 目してみ 有」は陶弘景の「詔問山中何

詩を想 有賦詩以答」

させる。陶弘景は「山中何

有」という齊の高

下問に答えて、「嶺上白雲多し。只だ自ら怡 の ちて君に寄するに堪えず」と詠んだ。「白雲」は、 すべし、持 行に最の の修 界を暗示しているのであろう。その がい 境、ないしはそこでの修行によって得られた境

だ陶弘景自身が「怡 境と自らの境界は、た 渡しに 」できるのものであって、陛下にお手 王維詩の「何 上できるようなものではない、と答えている。

よいだろう 有」は陶弘景の詩を意識していると考えて

。陶弘景は、後に梁の武

ち、「山中宰相」と稱された人物でもある。梁の武 と緊密なる關係を持

である禪師・居士弟兄を詠う際に、陶弘景が想 の子孫 な は極めて自然だからである。さらにその表現から、修行に最 されること 境や修行によって得られた高い境界が自然に想

ものとなる。 るのであれば、嵩山で修行する禪師や居士を詠うに相應しい され で見た皇甫冉の詩から、蕭居士は佛

のみならず

にも

していたと考えられる。もしそうであるとすれば、 しかし、この詩は佛 ます相應しい。 なおさら陶弘景を意識したことであろうし、表現としてます

が 意識していることがあるのではないか。「何 體であるから、陶弘景以外にも

現から想 有」という表 されるのは、『維

文殊と維 』文殊師利問疾品における

の問答である。

文殊師利言、「居士。此室何以空無侍

。」維

「 詰言、

侍 空。」(文殊師利言ふ、「居士よ。此の室は何を以てか空にして、 佛國土亦復皆空。」又問、「以何爲空。」答曰、「以空 無き」と。維

詰言ふ、「

「空を以て空なり」と。) り」と。又た問ふ、「何を以て空と爲す」と。答へて曰はく、 佛の國土も亦た復た皆な空な

は「空」を示現 の居室はがらんとして何もなかったわけである。それ

王維は「何 したものであった。

深い洞窟の中は、『維 有」を反語として用いて、「修行の場である

經』の『空』を示現

もない空 するように何

そう襃めたのではないだろうか。『初學記』卷五の「嵩高山 である。まことに修行の場としてすばらしい。」 中國詩文論叢第二十七集

50

(16)

第七」に「戴

十七里。嵩其總名也。謂之室 之西征記云、其山東謂太室、西謂少室。相去

、以其下各有石室焉(戴

が多く、嵩山は石室とある。」(洞窟)おの石室有るを以てなり) 之其の下に各を室と謂ふは、は其の總名なり。嵩去ること十七里。 相ひ西は少室と謂ふ。の山の東は太室と謂ひ、其の西征記に云ふ、 之 侶や さて、やはり「何 士たちもその中で修行していたものと思われる。

有」は、『維

ていると考えてよいだろう。『維 經』問疾品を典故とし

經』は在俗の佛

ある維 で

は維 居士を人公とする大乘佛典である。問疾品の部分 ということになろう。陶弘景にとって嶺上が修行に最 の第七句は、同じ居士である蕭居士の修行の場を詠っている 居士の居室が問題になっている。となると、王維の詩

境であったように、蕭居士にとっては深洞が理想

場であったにちがいない。 な修行の に「老君西昇開 の第八句、「天竺の古先生」とは老子のこと。『西昇經』

竺乾、號古先生(老君西昇して

開き、古先生と號す を竺乾に となったという傳 」とあるように、老子が天竺に行って佛)

る。第七句の「何 があり、この部分はその話に基づいてい と、第八句では、最 有」が陶弘景の詩を意識しているとなる な

境や修行によって得られた高い境 界が詠まれている可能性がある。また、『維

が意識されているとすると、空を示現 經』の問疾品 した空

い、そこに居るのは維 には何も無 ただ、名と字を續けると「維 であろう。 居士ならぬ蕭居士ということになる

蕭居士を維 詰」となる王維にとって、

非 士に對する最高の贊辭として、佛になったと言われている、 に譬えるのは憚られたであろう。そこで、蕭居

出家

である老子に譬えたのではないだろうか。

うに、蕭居士は のよ 弟乘如禪師とこの嵩丘の にも詳しかったようである。その居士が

するならば、天竺に行って佛となった老子のように、二 で修行しているわけである。と

を いずれにせよ、第七句が蕭居士の理想 和させておられる、と襃めた可能性が高いのではないか。

筆 れ表現ないしは暗示しているとみてよいであろう。 句が蕭居士自身の修行によって得られた高い境界を、それぞ な修行の場を、第八 は以上のような理由から、D

を「老子」と解釋することに贊 のように「天竺古先生」

を老子に譬えたと解することには與しがたい。さきにB であるが、禪師・居士兩名

C ・

の項で

げた 生『

詩 七八寫居士」とあるように、五・六句は禪師の法力をたたえ、 』の卷三に、「五六寫禪師、

王維の乘如禪師に寄せた詩とその

邊(下)(

田)

51

(17)

七・八句は居士を讃えていると考えたい。王維は一・二句で禪師と居士の

は禪師と居士の法力と感 境を詠い、三四句で禪師の法力ないし ている。五六句で禪師の修 を詠い、五六句で禪師の法力を詠っ であるから、バランスから言って、七八句では について讃辭を加えているわけ

體 が自然ではないだろうか。 人を天竺に行って佛となった老子になぞらえているとするの 居士の居室を維居士の居室になぞらえ、居士その(洞窟) に關しても詠わないとおさまりが惡いであろう。末二句は、 に居士

つぎに詩の解釋を試みたい。なお、これまで乘如に關して「乘如禪師」と記

解釋文中では、石刻上の詩題にある呼稱に倣い、「如和 「乘如禪師」とは呼ばれていたか否かはわからない。よって、 してきたが、本詩が作られた時期には、

ないしは「和 」 」と記 する。

如和

無 と蕭居士に寄せるうた 大士と天親菩薩にも比すべき如和

お二人が と蕭居士のご兄弟。

まわれている嵩山の御寺・嵩岳寺の御堂。以

た時には、お堂の背景に聳える峰 伺っ

體は、雲も無く輝いて見 齋 えたことだった。

の時には磬の

行の時にはひとけの無い林を踏み行けば を聞いて烏までもが下りてくるし、經

ち の聲をたてた。嵩岳寺の境域は居士の感 までもが誦經 と和

「 ちわたっているわけである。 の法力が滿 泉」の故事で有名な流泉の水は、

も比すべき和 や佛圖澄に の法力で

置く机を潤おしていることであろうし、和 頃きっと、佛圖澄が用いた安息香のような御香を焚く香爐を えることなく涌きほとばしり、今

が經典を

れると、梁の武 じら の御世に

雲光が天

雨にぬれた を雨ふらせたように、

びらが坐禪の石床と同じ高さまで散りしくに

いない。背の高い松が生えているあたりの深

の蕭居士は、いまも禪定に入っておられることであろう。 で、天竺に行って佛となったと傳えられる老子さながら空 も無く、まことに「空」であった。維居士の居室のような くう 居士がいつも修行されているところであるが、その中には何 なる洞窟。そこは蕭

四、結語

乘如禪師の俗兄である蕭居士は、出家

!のように戒律を守 中國詩文論叢第二十七集

52

(18)

り、

俗の修行生活を

っていたようである。そして、

二 佛

に していたようである。それゆえに

圍の人々から

詩を を受けていたものと思われる。でなければ、皇甫冉から られて、「

律を持し、他年

書を はす。

邊曽て鳥を狎らし、濠上正に魚を

「 また、皇甫冉詩の「和鄭少尹祭中嶽祠因訪蕭居士之作」の 求め、淳和太初を覩る」と賞贊されることも無かろう。 る。寂靜無相を 邊曽狎鳥(

せた詩の「 邊曽て鳥を狎らす)」と王維の乘如禪師に寄 隨鳴磬

烏下(

は鳴磬に隨ひて

の關 」と烏下る)

性は 沈烱の「馴烏逐 意すべきものであろう。王維のこの句が、陳の 磬、狎獸繞禪牀(烏を馴らして

獸を狎らして禪牀を繞る)」(「同 磬を逐ひ、

中庶

吾 處士弘讓

淡とした人格を稱えるのみならず、居士の感 を踏まえていることを考えると、王維の句が蕭居士の無欲恬 明慶寺」)

にまで踏み

んだ表現である可能性が考えられよう。王維の詩の第五句の「定」の字と、第六句の「應」の字をめぐって、以

が嵩岳寺の御堂に立ち寄った折の作品ではなく、以 よりさまざまな解釋がなされてきた。この詩

た際のことを回想して詩に詠い、禪師と居士のもとに 立ち寄っ けたものと考えると、現時點での り屆 の

況に對する推定と は蕭居士の修行の場を維居士の居室のような理想 ら居士についても詠われてしかるべきであろう。「深洞長松」 の二人に寄せた詩である。禪師のみならず、當然のことなが について詠まれたものと考えられよう。この詩は禪師と居士 の場とそこで行われる修行やそれによって得られた高い境界 さらに、王維の詩の第七、八句については、蕭居士の修行 ずと理解できよう。 いう意味あいから、「定」「應」の二字を用いていることが自

!空 譬え、「天竺古先生」は "に 佛二 に

「その作品の制作年代を考察」でなく、する、と なお、本稿においては、王維が禪師に寄せた詩の解釋だけ 譬えたものと解せられよう。 した蕭居士を老子に

いと思うゆえ、これを了とせられたい。 に記したが、この問題についてはいずれ別稿で詳しく論じた 稿の結語

五、

(1)『嵩岳文獻叢刊』第三冊(中州古

#出版

(2) を使用。 $、二〇〇三年)

(1)

(3) %&の『嵩岳文獻叢刊』の第一冊を使用。

(1)

%&の『嵩岳文獻叢書』の第二冊を使用。

王維の乘如禪師に寄せた詩とその

邊(下)(

'田)

53

(19)

(4)『四部叢刊廣

』三十三冊(臺灣

務印書

(5)『 を使用。 、一九八一年)

五十家詩集』五冊(上

古 出版

(6)『 使用。 、一九八一年)を

(7)『四庫 百家集』百七十一卷(嘉十九年自序刊本)を使用。

書』第一三三二冊(上

古 出版

(8)『 を使用。 、一九八七年)

詩品彙』(上

古 出版

(9)『 、一九八八年)を使用。

詩』第八冊(中

( 書局、一九九六年)を使用。

10)この

の原

は、宋の崇

元年に立

されたもので、

挺の撰文、王 有 の大定二十九年に重刻された。重刻の の書にかかるもの。兵火に毀損したため、金

文と重刻の際の

淨 の跋文は、『嵩陽石刻集記』卷下にも

( されている。

11) 出版

( 、一九九八年。

12) (1)

( の『嵩岳文獻叢刊』第一冊。

13)『宋高

傳上』(中

( 書局、一九八七年)。 14)同詠の第七句では、禪師と居士を

・ いる。 持兄弟に譬えて 隋の文 は戒律に嚴格であり、經典の譯出に力を盡くし、

に えられて

に上った。弟の

時も佛

に たようである。一方、乘如禪師は『高 し 律に詳しく、經典の譯出に從事し、玄宗・肅宗・代宗の 傳』にあるように戒

た。これらの共 を受けたのであった。俗兄の蕭居士も佛に深く歸依してい 崇 點をふまえた上で、同詠の作

!は二人を

( 持に譬えたと考えられよう。

15)新

( 堂、一八九三年。

( 16)明治書院、一九七八年。

( 17)明治書院、一九八五年。

18)『國譯

"文大

#文學部』第五卷、東洋文

( 年。 $協會、一九一二 19)

%凡

( 、一九八二年。

20)集

&

( 、一九八三年。

21)創文

( 、一九八一年。

22)丹陽 '源府藏版、一七九三年。句讀と訓讀は筆

( る。 !(田によ 23)第五十四回中國四國地

)中國學會大會(二〇〇八年五

十一日、岡山大學)で、筆 *三

!が「石刻『蕭和

+靈 務めて下さった岡山大學の橘 された王維の詩とその解釋について」を發表した際、司會を ,銘』に刻 の「何 &範氏から、この部分は陶弘景 そのとき筆 有」をふまえているのではないかと質問が出された。

!は、陶弘景の「何

が、やはりここは佛 有」も意識しているだろう -表現であるから維

山の麓とはいえ 識しているだろう、と答えた。後になって熟考してみると、 .經の問疾品を意 は梁の武 /臺は嵩山の寺であること、禪師・居士弟兄 の子孫であることなどから、武

弘景をま と親しかった陶

0

意識したのであろうと思われた。橘 0

に感謝申し上げる。 &範氏のご高 中國詩文論叢第二十七集

54

(20)

この第七句は王維のことであるから、陶弘景を意識した上で、さらに維

經の問疾品に見える維

の居室を想

「深洞長松何 して、

詩の他の句にも見られる。これは をいくつも組み合わせて詩句を作り上げていることは、この 有」と詠んだものと考えられる。王維が典故

稿で論

( る。 したとおりであ 24)羅什譯『維

詰 經』(『大正新脩大

( 但し句讀は筆に據る。 經』十四卷)參照。

25)『老子

經十戒經西昇經合訂背誦本』(

會臺灣省分會

設 水善書流

處、民國七十四年)

〔付記〕本稿の後

部分は、第五十四回中國四國地

會(二〇〇八年五 中國學會大 口頭發表を論文 三十一日、岡山大學)における筆の したものである。當日、色々ご

た 示下さっ

先生方に感謝申し上げる。

王維の乘如禪師に寄せた詩とその

邊(下)(

田)

55

参照

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