アクタルッジャマン・イリアスの「現実」
丹羽 京子
はじめに
1.バングラデシュの成立 2.バングラデシュ文学の成立 3.現実のイリアス
4.イリアスの「現実」
おわりに
はじめに
今のバングラデシュを代表する作家であるハッサン・アジズル・ホク(Hasan Azizul Huq, 1939-)は、アクタルッジャマン・イリアス(Akhtarujjaman Elias, 1943-97, 以下イリアス)の 早すぎる死を悼み、彼に最大級の賛辞を送った。いわく、「ここ最近ノーベル文学賞を取ったか、
あるいはノーベル賞を取らないでも、今日の世界における優れた物語作家であると考えられて いる人々、ガルシア・マルケス、カルロス・フエンテス、バルガス・リョサ、チアヌ・アチェベ、
ウォーレ・ショインカ、ナディン・ゴーディマ、ナギーブ・マハフース、サルマン・ルシュディ、
大江健三郎などの同時代の作家たちと、このベンガル語作家、アクタルッジャマン・イリアス を同列に並べることに、わたしはいささかの躊躇も感じないし、過大なこととも思わない1)。」 同じ追悼文で、ハッサン・アジズル・ホクは自分より年下で、常に自分に対して敬意をもって 接していたイリアスを、若輩扱いすることはついぞできなかったと語っている。イリアスがど れほど偉大な作家であったかは時が証明するだろうとまで語っているハッサン・アジズル・ホ クだが、別の評論でその文学について次のように解説している。
わたしには、イリアスが人間性と人間そのものが異なるものだと主張したかったとは思 えない。さまざまなかたちの愛なるものが、人間としてのありようの真の姿なのか?
そしてそれを文学作品のなかで祀り上げることが作家にとってのただひとつの使命なの か? 人間のこの情熱こそが究極的な善であるとだれが言ったのか? 残酷さや悪意、
嫌悪や憎しみに同様の価値が与えられないのはなぜなのか? 人生において、これらは 愛よりも些末なことなのか? 人間のなかには、愛と憎しみが、優しさと残酷さがある というだけのことで、そのうちのどれも、善でも悪でもない。それらは、まるで次元の
異なるものにあてはめるとき、善だの悪だのと言われるのであって、それはいわば便宜 的なものにすぎない。すなわち、作家はこうしたものに価値づけをしなければならない というわけではない――イリアスの作品では、人間性というものにおけるこのような解 釈が、ひとつの真実となってかたちを取っている2)。
これはイリアスの第一短編集を評して語られたものだが、以後もイリアスの作風は一貫して 同様の原則に貫かれている。すなわち、生きた人間そのものと人間性という抽象的な概念を切 り離して考えず、さらにすべての人間、そして人間のすべての要素に平等な重きを置いて扱う という姿勢である。
イリアスの作品群は、通常そのスタイルとともに、社会性が高く評価される。すなわち彼は バングラデシュの厳しい現実、そしてそこにおける人々のあがきを鋭く描き出した、という点 においておおかたの評は一致している。ハッサン・アジズル・ホクは、このようなイリアス文 学の登場を、「甘いものを食べすぎたときに生の唐辛子を齧りたくなる3)」状況に例えている。
すなわちそれだけイリアス文学は、それまでのベンガル文学と異質だったのであり、読者に現 実をつきつけるものだったわけだが、本稿では、イリアスの散文作品の特徴的な叙述スタイル に言及しつつ、そこに提示された「現実」がどのようなものであったかを探ってみることとする。
1.バングラデシュの成立
ベンガル文学がただひとつの大きな流れからふたつの流れに分かれたのは、1947年のイン ド・パキスタン分離独立以降であると言ってさしつかえないだろう。イリアスが登場し、そし てそのあくなき関心と鋭い分析の対象となったバングラデシュの社会を知るために、ここでそ の歴史を振り返っておく。
分離独立の1947年にベンガルの地は東西の異なる国家に分断され、西側はインドの西ベン ガル州に、東側はパキスタンの東ベンガル州(のちに東パキスタン州と改称)となった。この 分断は、世界史上にもまれに見ると言われる悲劇をベンガルの地にもたらす。分断によって、
非常に限られた時間のなかで、西側のイスラム教徒は東側へ、東側のヒンドゥー教徒は西側へ 移住することを強いられたのである。もちろんそのまま残ることも可能であったし、現在も東 西双方とも100パーセントがイスラム教徒、あるいはヒンドゥー教徒であるわけではない。し かしマイノリティーとして残るのにはリスクが伴い、こうした混乱した状況においては暴動が 頻発し、ベンガルは不穏な空気に包まれた。このような計り知れない代償を払っての分離独立 だったわけだが、その後の道のりも東西ベンガル、特に東ベンガルにとっては平坦なわけでは なかった。
独立後間もない1952年には、東ベンガルを揺るがす大きな事件が起こる。「ベンガル語国語 化運動4)」である。当時パキスタン政府はウルドゥー語を唯一の国語とするという方針を示し ており、それに対する抗議運動は犠牲者を出す事態とまでなった。以後、東ベンガルは自治要 求へと大きく傾き、西パキスタン(現在のパキスタン)との溝は広がる一方となる。一方でパ キスタンの政治的混迷は独立後いっこうにおさまらず、1958年には憲法が廃止され、アユーブ・
カーンによる軍事政権が成立する。このアユーブ・カーンの時代、60年代は、パキスタン全 体にとっては抑圧的ではあっても経済発展の時代となったが、中央政府と遠く離れ、さまざま な側面で不利な立場に立たされていた東パキスタンは、ほとんど経済的恩恵を享受することは なかった。それどころか、自治要求を退けるためのさまざまな抑圧的な政策が取られ、ベンガ ル人にとっては60年代はまさに暗黒時代と化していく。
69年になると、アユーブ・カーンが政権の座を降り、代わってヤヒヤー・カーンによる軍 事政権が成立した。ヤヒヤー政権は70年に独立後初めての成人普通選挙による国民議会およ び州議会の選挙を実施する。結果は人口に勝る東パキスタンのアワミ連盟の圧勝だったが、同 連盟が国政や新憲法制定へ影響力を行使することを嫌った現政権と西側は、国民会議を開催し ようとせず、東西の緊張は高まっていった。
こうしたなか、翌71年3月25日深夜にパキスタン軍が軍事行動を起こし、以後9か月間に わたって東パキスタン全土は凄惨な内戦の舞台となる。アワミ連盟を率いていたムジブル・ラー マンは逮捕され、同連盟も非合法化されたが、東パキスタン側も独立を宣言、バングラデシュ 解放軍を組織した。解放軍は圧倒的に不利な状況に置かれていたが、最終的にはインドの介入 もあり、同年12月にバングラデシュは独立を果たす。
独立戦争によって、またもや東ベンガルは300万人とも言われるおびただしい犠牲者を出す に至ったが、それと引き換えに成立したバングラデシュは、人々の期待とは裏腹に順調に発展 のレールに乗ることができなかった。75年には独立の指導者で初代首相(のちに大統領)であっ たムジブル・ラーマンが暗殺され、その後、ジアウル・ラーマン、エルシャドと軍事政権が続 く。民主化運動によってエルシャド政権が倒れ、選挙が行われて国政が正常化したのはやっと 1990年になってからのことだった。
これがイリアスの生きた時代だった。イリアスは分離独立前夜に生まれ、60年代の「抑圧 の時代」に文壇に登場し、独立戦争、そして独立後の混乱と失望の時代を生きた。バングラデ シュが民主化を果たし、ようやく安定と発展へと向かって進もうとしたころ、イリアスにはほ とんど余命は残されていなかったのである。
2.バングラデシュ文学の成立
国家としてバングラデシュが成立したのは1971年だが、通常47年以降のパキスタン時代も 含めたものを「バングラデシュ文学」と呼ぶ。なぜなら47年から71年までの東ベンガルはも はやインドではなく、しかし同時にこれらのものを「パキスタン文学」と呼ぶこともできない からだ。さらにパキスタン時代における東ベンガルの文学は、独立への希求を強く反映してい るので、71年以降の文学潮流にもそのまま直結しており、実質的にこれらはすでに「バング ラデシュ文学」であったと考えることに無理はない。
もちろん国家が立ちあがったからといって突然その文学があらわれるわけではないし、同時 に国家がないからといって文学が存在しないわけでもない。そもそもベンガル文学全体の歩み は長らく国家や公的組織とは縁がなく、ベンガル語が公用語として使われるようになったのは 47年の分離独立以降のことにすぎない。1000年以上続いたベンガル語のこの「非公式」な存 在はまさに文学によって支えられてきたのであり、ベンガル文学がベンガル文化の根幹をなし、
それがベンガル人のアイデンティティーにつながるという構図に東西の違いはない。
東パキスタンからバングラデシュへという移行にも見られるように、この地域には以前より 多数のイスラム教徒が居住していた。それに伴い近代以前のベンガル文学にはヒンドゥー、イ スラーム両方の要素が存在しているし、両文化のある種の混交も見て取れる。しかし近代以降 の文学の発展においては、さまざまな理由によりイスラム教徒やイスラム文化は文学シーンの 背後に退いて行く。
事実、分離独立以前のベンガルでは、あらゆる意味で破格であったカジ・ノズルル・イスラ ム(Kazi Nazrul Islam, 1899-1976)5)を除いて、イスラム教徒で全ベンガル的な読者を獲得す るに至った作家や詩人はほとんどいない。それが分離独立後、東側にベンガリ・ムスリム(イ スラム教徒のベンガル人)を中心とする文壇が成立するに至って一気に花開いていくのが「バ ングラデシュ文学」の始まりとなる。
バングラデシュ文学の中心的な担い手がベンガリ・ムスリムであったにしても(それでもも ちろんバングラデシュの作家がすべてイスラム教徒であるわけではない)、バングラデシュ文 学をそれ以前の「ベンガル文学」もしくはインド側のベンガル文学とは異なるものとして特徴 づけたのは、ひとり「イスラム性」だったわけではない。それどころか、当初からバングラデ シュ文学に多大な影響を与えたのは、信仰よりもむしろ、二度にわたる独立というまれに見る 歴史的変遷であり、政治的、社会的であることを余儀なくされた時代状況であった。すなわち 分離独立、ベンガル語国語化運動、パキスタン時代の軍事政権、そして独立戦争といった「こ れらすべてのできごとは、この国(バングラデシュ)の人々の心に刻印を残し、そして独立後 はそれが彼らの意識のなかに形を取るようになったのだが、それらはことごとくわたしたちの
小説のなかにあらわれているし、表には出ていないにしてもはっきりと影を落としているのを 見ることができる6)」のである。
つまりバングラデシュ文学は、それ以前、そして西側では体験したことのない状況を経るこ とによって形づけられてきたわけだが、もう一点、バングラデシュ文学を考える際に忘れては ならないのは、ことば、そして表現スタイルをめぐる問題である。
バングラデシュの散文文学を一気に第一級のスタンダードに押し上げたのは、ショイヨド・
ワリウッラ(Syed Waliullah, 1922-71)である。ワリウッラの長編小説『赤いシャールー』(Lal
Salu, 1948)は、そのテーマとともに洗練された著述スタイルで高く評価され、今日ではバン
グラデシュを代表する小説として確固たる位置を占めている7)。つまり短編、長編を問わず、
バングラデシュの小説はこのワリウッラに始まったとされるのだが、まさにその後継者とみな されているのがアクタルッジャマン・イリアスであり、それは例えば次のように記述されてい る。
ベンガル語において、小説を芸術の一形態ととらえ、さまざまな試行錯誤をおこなった 優れた小説家としてはまずショイヨド・ワリウッラが挙げられる。ワリウッラののち、
同様の試行錯誤を行った現代作家としては、ハッサン・アジズル・ホクとアクタルッジャ マン・イリアスが挙げられよう。彼らは卓越した技能を持って登場人物の心的世界を描 き出した。彼らの著作は多くはないが、その数少ない著作によって文学界に自らの地位 を確立したのである8)。
ここにも述べられているように、イリアスも含めてここに挙げられた3人の作家は、基本的 に多作であるベンガル作家のなかにあって極めて寡作であると言えるが、そのことが作品の質 を高めていることは間違いない。そしてイリアスがバングラデシュ小説の第一人者であるショ イヨド・ワリウッラの後継者と目されてきたこともほぼ一致した見解である。ただし、このふ たりには注目すべき大きな違いもあり、そこには著述スタイルとことばの問題が含まれる。
ワリウッラは生まれも育ちも東ベンガル、すなわち今日のバングラデシュだが、修士課程に 進むにあたってカルカッタ大学に進学し、43年から分離独立の47年までをコルカタ(旧カル カッタ)で過ごしている。分離独立以前のベンガル文壇の中心はコルカタにあり、まさにこの 地でワリウッラは文学修業を開始し、そしてワリウッラの長編第一作にして代表作である『赤 いシャールー』は実質的にコルカタで書かれたのだった。つまりワリウッラが『赤いシャールー』
を書いた時点ではベンガルはひとつであり、標準ベンガル語もひとつだったわけだが、イリア スなどの次世代が登場する60年代にはことばを巡る状況が異なってくる。
分離独立直後から、東ベンガルがベンガル語を公用語に加えるべく強く要求してきたことは すでに述べた。それを受けて多くの知識人がベンガル語のありようについて意識的に考えると いう状況が生まれたのだが、その過程で、それまで無条件で受け入れられていたコルカタの「標 準」ベンガル語に対しても違った眼が向けられることになる。この40年代から60年代にかけ てのことばを巡る状況について、イリアス研究もしているザフォル・アーメド・ラシェドは次 のように述べている。
40年代と50年代を通して、ことばとスタイルの試行錯誤に関してショイヨド・ワリウッ ラに並ぶものはなかった。60年代の作家たちはまた、かなりの割合でことばやスタイ ルを強く意識したが、彼らとワリウッラの違いは歴然としている。ショイヨド・ワリウッ ラの口語文にはタトサム系の語彙がしばしば目に付くか、目立っているのに対し、60 年代の作家たちはそうではない。イリアスはときにタトサム系の語彙を使ったが、それ は皮肉なニュアンスを出すためであった9)。
タトサム系の語彙とはサンスクリット語から入って来た単語のことで、これらはもともと文 語体との結びつきが強く、西ベンガルでもこれらの語彙の使用を巡って論争が起こっていた。
すなわち口語体を採用した現代ベンガル語においては、完全にベンガル語化したタトサム系の 語彙以外は使うべきではないとされたのである。東ベンガルの作家に起こったことも構造的に はこれに似ているが、ベンガル語国語化運動によってベンガル語のありようを強く意識した東 ベンガルでは、より鮮明にその傾向があらわれ、また、タトサム系の語彙を排除して代わりに 採用される語彙は東西で異なることも少なくなかった。さらに、それまで「方言」扱いされて いたダッカのベンガル語が一国の首都のベンガル語となることによっても意識の変化があらわ れ、あわせて「方言」に対する関心が高まっていった。実際こうした方言が積極的に文学作品 に取り入れられていくようになったのは、もっぱら東側での現象であった。
つまりバングラデシュ文学は、パキスタン時代である50年代60年代を通して従来のものと は異なるアイデンティティーを形成しつつあったのであり、それはテーマや物語の背景といっ たいわば内容に伴うもののみならず、ことばやスタイルの面でも形を取っていったと言えるだ ろう。こうして政治史的には苦難と失望を繰り返しつつ、パキスタン時代にバングラデシュ文 学は着実に育って行ったのであった。
3.現実のイリアス
イリアスは1943年、分離独立前夜に生まれている。生まれたのはロングプル県ゴティヤ村(現 バングラデシュ領内)の母方の祖父の家だったが、ほどなくボグラ県に父方の祖父が家をかま えるのに際して一家も合流し、幼いころをその地に過ごす。
イリアスの父は、当時高校教師であると同時にボグラ県のムスリム連盟の主要メンバーで、
政治意識の高い人物であったようである。ただしイリアスによると、その父は同時にリベラ ルな思想の持ち主で、共産主義者とも親しく交わっていたとのことである。なによりも父は けっして自分の考えを人に押し付けることがなく、議論を好んだとされ、この父のありようが イリアスの人格形成に大きな影響を与えたことは間違いない。一方母は読書好きで、いつもイ リアスに自分の読む本を同時に――それがその年齢の子どもにふさわしいかどうかには頓着せ ず――読み聞かせていたとイリアス自身が回想している。それらには言わずもがなのタゴール の詩編を始めとして、当時手に入るありとあらゆるものが含まれていたようで、イリアスはゴー リキーやパール・バックなども母の読んでくれるベンガル語訳で(彼女は外国語を知らなかっ た)知ったと語っている。
分離独立直前、46年の制憲議会選挙で父が議員に選ばれたため、一家はダッカへ移ること になる。こうしてイリアスの学校生活はダッカで始まるが、5年生のときにいったんボグラへ 戻り8年間を再びその地で過ごしている。このボグラ時代からイリアスは書きものに手を染め るようになり、このころすでに複数の雑誌に詩や物語が掲載されている。その後ダッカに戻っ たイリアスはダッカ・カレッジを経てダッカ大学に進学する。専攻はベンガル文学で、64年 には修士号を取得している。学生時代のイリアスは文学青年の例にもれず、仲間と文学談義を し、多くの同人誌に関わった。まだまだ本格的な創作には至っていなかったが、いくつかの短 編小説は有力な雑誌にも掲載され、仲間内での評価は常に高かったようである。
一方職業的なキャリアとしては、65年にはじめて非常勤講師としてジョゴンナト大学の教 壇に立ったのを手始めに、翌年には同大学で定職を得、以後長年にわたってイリアスはベンガ ル文学を講じている。同大学には同時代、あるいは先輩にあたる作家も多く、作家活動をする には比較的恵まれた環境だったと言えよう。73年には結婚、翌年には長男も生まれている。
創作活動はずっと行われていたものの、社会的な状況もあってなかなか本を出すことは できず、イリアス初の短編集『ほかの家、ほかの声(Anya ghare anya swar)』が出版された のは76年になってからである。この第一短編集は文壇で高く評価され、以後イリアスの作品 は――広範な読者を獲得するのには多少時間がかかったにせよ――常に注目され、数々の賞を 受賞し、高く評価されてきた。生涯に本として残した著作は、短編小説集が5冊(1冊は没後刊)
に長編小説が2冊とけして多くはないが、それは彼が徹底的に作品に手を入れ、少しでも気に
入らなかったものは短編小説集に収録しなかったせいでもあり、そしてまた、十分に長く生き られなかったせいでもある。
96年1月、足に激痛を訴えたイリアスは、検査の末に癌の宣告を受ける。すぐさま治療の ためにコルカタの病院に入院するが、そこでの決定は足の切断であった。手術を終え、4月に ダッカに戻ったイリアスは、いったんは執筆活動などを再開するが、同年の暮には再び入院、
翌1月に帰らぬ人となる。その生前からの意志により、イリアスは故郷のボグラの父母の墓の 隣に葬られた。
イリアスが生きたのはまれに見る「激動の時代」であり、イリアス文学がそうした状況と切っ ても切れないことはどれだけ強調しても強調しすぎるということはないだろう。もともと抒情 的なトーンが主流で、叙事詩の伝統を持たなかったベンガル文学において、この政治的激動を どのように描くかということは、大きな課題であり、だれにとっても避けては通れない問題で もあった。ハッサン・アジズル・ホクはイリアス作品をして「甘いものを食べすぎたときに生 の唐辛子を齧りたくなる」ようなものだと述べたが、それは、ほかの作家たちが「甘い」抒情 的な作品を書いているときにイリアスがひとり社会に真っ向から取り組む作品を書いたという 意味ではない。バングラデシュの作家たちは――少なくともイリアスが生きた時代において は――すべからく政治という魔物と対置しなければならなかったのであり、およそ流行作家で あろうとも、解放軍兵士の一人も出てこない物語ばかりを書くということはあり得なかった。
イリアスを際立たせているのは、そのテーマそのものではなく、その手法とリアリティーで ある。もちろんリアリティーの追求は新しい課題ではなく、それこそタゴール小説であっても そこにはリアリティーは存在している。しかし、バングラデシュのこの未曾有の現代史は小説 世界でそう簡単に扱えるものではなく、現在に至ってもその「真実」を真正面から捉えること に成功した作品はごくわずかであると言えるだろう。
自らの生きた時代と社会をイリアス自身はどのように捉えていたのか、「わたしとわたしの
時代(Ami o amar samay)」というエッセイでその激動の時代を振り返って、イリアスは次の
ように語っている。
わたしが生まれたのは飢饉の年であった。1943年のベンガルでは、何十万という人間 がただ食べられないために消えていなくなった10)。その隙をつくようにしてわたしは 母の胎内からこの世に生まれ落ち、ひとりの人間としての場所を占めたのだった。…(中 略)…わたしが4歳半のとき、独立が達成された。そしてそれとともにやって来たのは 暴動であった。団結して独立に向けて戦ってきたものたちが、再び二派に分かれてお互 いを攻撃し合ったのである。このふたつの出来事は、ひとつの事柄なのだろうか? わ
たしの時代を、わたしはどのように認識したらいいのだろうか? 独立を迎えたことか、
あるいは数えきれない人々が家を失ったことか? どちらがより重大なことなのだろう か?…(中略)…独立が人間の解放をもたらしてはくれないことを理解するのに、それ ほど長い時間はかからなかった。それでは人々の失望こそが究極の真実だと考えるべき なのだろうか11)?
イリアスはここでまず、飢饉で大勢の人が亡くなった土地に場所を占めたものとして自己を 定義づける。そしてまだ幼く、その時点ではまったく理解していなかったであろう分離独立の 栄光と影のどちらが真実なのかを問いかける。そしてまた、独立後に人々が味わった失望こそ が自分たちの時代の「真実」なのかとも問いかける。
このあとイリアスは5年生でベンガル語国語化運動を目撃し、その後青年時代へと足を踏み 入れていくことになるわけだが、それはこのようなものであった。
少年時代が過ぎ去り、わたしはカレッジに入ったが、それは軍隊に踏みつけにされた時 代で、わたしの青年時代は、そのやっとこによって締め上げられるようにして過ぎて行っ た。そしてわたしは未だその苦しみから逃れられていない12)。戒厳令というおそろし く重い石に押しつぶされそうになりながら、わたしの少年時代は青年時代へと突入した。
そして青年時代を過ぎ、今や白髪交じりの中年となり、そして今、ほかの国の人々と同 じような晩年を迎えられるのかどうかも疑わしい。それではその嘆きや疲弊や無力感や 失望が我々の時代の本質なのだろうか13)?
これだけでも十分厳しい時代であったが、この上に独立戦争というバングラデシュ最大の動 乱をイリアスは経験しているのである。
わたしの時代は1971年の独立戦争で形作られる。4歳半のときから「月と星は白、そ して緑の旗(パキスタンの国旗のこと)」と声を張り上げていたその旗で無数の人間が つるし上げられたのである。
そしてふたたび独立がやってきた。独立その2。
それとともにやって来たのはなんだったのか? 解放? 否である。新しい旗を手に、
新しい支配者がこの国の打ちひしがれた人々の頭の上で土地を転がし続けている。…(中 略)…そしてまた飢饉14)。今度はわたしの息子が生まれた。息子が生まれると同時に、
また多くの人々がただ食べられないために死んでいった。そしてその同じ土地で王族と
も思しき富裕層の娘たちは黄金の冠をかぶって結婚式を行っている。このどれが真実な のか? 独立か? 飢えか? それとも黄金の冠に彩られた結婚式15)?
このあともイリアスは問いを繰り返す。二度の独立だけでなく、相次ぐ暴力行為や、支配、
被支配という構図、あるいは飢饉の繰り返し(それも自身が生まれた年とともに息子が生まれ た年が歴史に残る飢饉と重なっているという事実)がイリアスを宿命論者にしてもおかしくは なかっただろう。しかしイリアスは宿命論者ではない。イリアスは、自分の生きた時代につい て明るい兆候をひとつも挙げることができなかったけれども、しかし同時にそれがこの時代の すべてであると断じてしまうことにも躊躇している。
このようにしてイリアスは、この世界の、そして人間の真実は何なのかを問い続けた。そし てその問いこそが、イリアス文学の中核をなしていくのである。
4.イリアスの「現実」
イリアスが本のかたちで残した作品はけっして多くはなく、すべてあわせて長編が2本、そ して生前に出された4冊の短編小説集に収められた短編があわせて18本に過ぎない。実際に 書いた短編はもう少し多く、30篇前後だが、イリアスは単行本化にあたって徹底的に手を入 れるとともに、厳しく自作を選んでおり、すなわちイリアスの眼から見て短編小説集に収める に足ると判断したものが18篇だったということになる。没後に第五短編集が出版され、ここ には5編の短編が収められているが、このうちイリアス自身が納得いくものと考えていたのは 3篇のみと伝えられる。それら3篇では一冊に満たないため、単行本化を見合わせているうち にイリアス自身がこの世を去ってしまったのだが、それを惜しんだ友人たちがほかの短編2編 を加えて出版したというのが第五短編集成立のいきさつである。
紙面の関係でここでは短編のみを扱い、そのうち特に最終段階での短編、すなわち生前最後 の短編集となった『地獄で暖かい16)』の表題作を中心に分析を試みるが、その前に短編作品 全体を展望しておく。
イリアスの作品は、第一短編集17)冒頭の作品「行先のない旅」を除いて共通したトーンに 貫かれている。「行先のない旅」は、そのタイトルがタゴールの有名な詩から取られているこ とからわかるように、過去のベンガル文学へのオマージュに溢れた作品である。イリアスの分 身とも目される主人公ロンジュのやや混乱した記憶(ロンジュには精神障害がある)には、ジ ボナノンドの詩編18)や、ビブティブション・ボンドパッダエの『大地のうた19)』のイメージ があらわれ、全体としてロンジュから見える世界には幻想的な雰囲気が漂う。ロンジュがシム ルの木の下で死んでしまうという結末もどこかロマンティックである。
しかしこのあと、イリアスは作風を転じ、以後一貫してリアルな「厳しい現実」を描くよう になる。イリアスが最も得意としたのは、自身も長く暮らしたオールド・ダッカの市井の人々 を中心とした物語だが、農村が舞台になることもあり、その場合は慣れ親しんだボグラを描く ことが多かった。ついでながら、イリアス作品ではその土地の方言が効果的に使われており、
そのためもあって、イリアスの作品の舞台は、彼自身が長く暮らしたこのふたつの場所にほと んど限られている。イリアスの作品では常に登場人物が生活感を持って描かれるが、その「生 活」は往々にして政治的混乱や二度の独立によって分断される。この日常であって日常でない 日々をさまざまな角度からイリアスは描いた。
もうひとつイリアス作品にしばしば描かれるのは社会的階層をめぐることどもである。政治 の激変により、バングラデシュでは支配層がしばしば入れ替わったが、貧しい農民や労働者の 状況は悪化することこそあれ、好転することはまずなかった。そうした不利な状況に置かれた 人々の出口のない苦悩は、しばしばイリアス作品の基調をなしている。例えば、第三短編集に 収められた「足の下には水20)」では、首都ダッカに住む不在地主の息子と、村の小作人の対 比が描かれる。この物語の主人公アティクは兄たちに言いつけられて先代からの土地を売り払 うために村に赴くが、それはダッカの家の拡張と兄のハーバード留学にあたって現金が必要と なったためなのである。小作人たちに土地を買い取る現金があろうはずはなく、唯一買い手と なりうるのは村を支配するモウロビ(ムスリムの聖職者)だけという構図がバングラデシュの 社会階層の縮図となっている。「足の下には水」というタイトルは、この村が常に大河の氾濫 に脅かされ、いつ水没するかわからない不安定な状況をあらわしている。これもまた、バング ラデシュの村の現実である。
このような短編小説群のなかで、「地獄で暖かい」はある意味イリアスの描く文学世界の集 大成のような作品となっている。主人公は年老いて右半身不随となったカマルウッディン、舞 台はイリアスが最も得意とするオールド・ダッカである。一言でまとめるなら、仕立て屋とし て生涯を過ごし、今や自分のベッドからほとんど動くことができなくなった老人の、数日間の 出来事と回想をつづったのがこの物語である。すべては一貫してカマルウッディンの視点から 語られ、病苦を嘆きながらベッドの上で自らの人生を回想するカマルウッディンの独白を読者 はひたすら追いかけることになる。
実は、主人公の視点から物語を語るという構図は、ほとんどのイリアスの短編に共通してい る。そして一人称を使うことがあまりなかったイリアスが採用したのは、いわゆる自由間接話 法で、そのスタイルは「行先のない旅」以来ほぼ一貫している。「地獄で暖かい」はいわばこ のスタイルを極限にまで推し進めたもので、ある意味イリアス文学の完成形と言ってもよい。
「地獄で暖かい」では時間的順序を無視して、カマルウッディンの連想のなすがままにその生
涯や思いが語られる。ときとして何ページも段落が変わることなく続くこの独白を読み進める うちに、読者はカマルウッディンの眼で世界を眺めるようになるのである。
カマルウッディンの回想は、度重なる繰り返しや記憶違い、思い出せない人の名前がふとし た瞬間に出てくるありさま、あるいは連想による思考の飛躍などによって、リアリティーを帯 びている。はじめのうちこそ読者は混乱し、もどかしい思いをするが、自分自身の思考や記憶 のありようとも重なるこうした連想の道筋を辿って行くのはさほど困難ではない。そのように 行きつ戻りつしながらしだいに明らかにされるカマルウッディンの生涯をまとめると、以下の ようなものになる。
物語の年代ははっきりとは書かれていないが、分離独立直前に10歳ごろだった長男が、現 在55歳ぐらい(カマルウッディンの記憶では年齢は常に不確かで、あちこちに2,3歳のずれ がある)とされているので、これは1990年代はじめの数日間の出来事ということになろう。
おそらくカマルウッディンの年齢は70代、つまり英領インド時代に生まれ、結婚し子供をも うけ、その後分離独立、そしてバングラデシュ独立を経て現在に至っていることになる。
カマルウッディンは生涯を仕立て屋として過ごし、三男二女を育てたが、そのうちの二人は もはやこの世にはいない。男兄弟のなかで一番優秀で、一度で大学入学資格を得た三男のシャ オボンは家族の自慢の種で、その入学にあたっては兄が駆け回って学資をなんとか工面したの だが、独立戦争時に仲間とともに解放軍に加わり帰らぬ人となってしまう。もう一人、下の娘 ヌルンナハルは際立った器量よしとして知られ、カマルウッディンの大のお気に入りだったが、
結婚後に若くして亡くなってしまっている。
カマルウッディンは長男のアクバルを跡取りと考え、別の店に修行に出したのだが、そのア クバルは店主の妻と駆け落ちして両親の逆鱗に触れ、勘当されたようなかたちになっている。
現在は二男のアムジャドとその家族がカマルウッディンと同居しており、そこに夫に死なれた 長女のコデジャが子どもたちを連れて戻ってきている。コデジャは父がいるからこそ実家に居 場所があると心得ていて、ことのほか父を大事にするが、当のカマルウッディンは動くことも ままならぬ自分の体をもてあまし、死を願うばかりである。
この物語で印象的な点は、死者と生者がなんの不思議もなく混在していることである。カマ ルウッディンの妻は3年半前に亡くなっているが、しばしば彼の前に姿を見せる。それを娘の コデジャに語ると彼女は父親が夢を見ていたのだと考えるのだが、それに対してカマルウッ ディンはこう語る。
何年も経たないうちに、コデジャにとって母親は死んだもの以外のなにものでもなく なっているのか? あれにどうやってわからせよう、これが夢だとか幻覚だとかではな
いということを。アクバルの母さんは21)最近毎晩この部屋にあらわれる。さもなけれ ばこの部屋のものをきちんきちんと片付けるのはだれなんだ22)?
常にカマルウッディンの眼を通して語られるこの物語のなかでは、彼の妻があらわれるとい うことは「真実」であり、そこには現実感が伴う。カマルウッディンにとってはむしろ、死ん だショオボンやヌルンナハルが同じようにあらわれてくれないことが不満なのである。そのカ マルウッディンは、物語の冒頭で明け方の光に包まれた若い女とその女に抱かれた赤ん坊を見 るのだが、それがだれなのかについて一日中さまざまな思いを巡らす。赤ん坊が幼いころのア クバルに似ている気がして、アクバルの小さい頃を思い出そうとするが、判然としない。しか し物語の中盤過ぎ、アクバルの突然の死という悲報を受けてカマルウッディンはそれがなんの 前兆だったのかを理解する。「今すべてがはっきりした。55年前に戻って、アクバルの母さん がやって来たのだ。胸に抱いていたのは1歳にもならないアクバルだったのだ23)」と。
このように、カマルウッディンはいわば死者の世界と生者の世界を行き来しているような心 的状態にあるのだが、一方でこの世界におけるカマルウッディンは運命を享受するしかない存 在である。国や社会のありように目を向ける余裕があろうはずもなく、ただひたすら日々を必 死に生き、子どもたちにはよりよい人生をと望みながらそれも叶えられることなく、病に倒れ 自分のこともままならない今がカマルウッディンには耐え難い。
カマルウッディンは始終この生を終わらせてくれるようにアッラーに祈るのだが、物語の最 後までそれが叶えられることはない。物語の後半、長男アクバルが死に、自分が生きていると いう事態に直面して、カマルウッディンはなお一層死を懇願して次のように語る。
アッラー、あなたの僕しもべの心の叫びを聞いてください。この夜がわたしの最後の夜になり ますように。わたしをこの地獄から救い出してください。審判の日まで墓のなかでわた しを罰してくださってもかまわない。ムンカルとナキールがやってきて、わたしに炎の 鞭を食らわせてくれてもかまわない。それでもこのハーウィヤ地獄からわたしを救い出 してくれさえすれば。どうかこの地獄の夜明けを再びこの眼で見ることがありませんよ うに24)。
この「地獄から救って欲しい」というフレーズは物語中何度もあらわれる。カマルウッディ ンから見えるこの世界、つまり生きていることは地獄以外のなにものでもなく、彼は死んだ後 に課せられるかもしれない罰よりも、この世の苦しみをはるかに恐ろしいものとみなしている。
地獄で生きるということ、それがこのタイトル「地獄で暖かい」のひとつの由来である。
カマルウッディンは自分の望みが叶えられないのは、自分がなにか罪を犯したからではない かと考え、過去の罪に思いを巡らせる。彼はいつでも一日五回の礼拝を欠かさず(ほかの店を 手伝いに行っていたときをのぞき)、断食を欠かしたことのない(大量注文をこなしている際 に断食で気絶してしまって以来、何度かは欠かしたものの)、敬虔なイスラム教徒である。そ のカマルウッディンが列挙する過去の罪とは、暴動のどさくさの際に、空き家になった家の家 具を勝手に売り払ってしまったこと、妻に懇願されて手に入れたエビの代金を支払わなかった ことなどことごとく些細なことである。もう少し重大な罪としては、三男の友人の解放軍兵士 たちを家にかくまうのを拒否したこと、妻がお産で死にかけたときに、彼女が死んだら別の女 性と再婚しようと思ったことなどもカマルウッディンは思い出す。そして果てには天井を眺め ているうちに、そこにかけられた扇風機も独立戦争のどさくさのときに二男がどこかから盗み 出してつけてくれたことを(ついでながらそれを妻が「親孝行」だと言っていたことも)思い 出すのである。カマルウッディンはこれらひとつひとつについて、それがそれほど重大な罪で あったのかを考える。しかしどれも「しかたがなかったこと」にしか思えない。
このような「地獄で暖かい」はどのような結末を迎えるのであろうか。急死した長男アクバ ルの葬儀は、カマルウッディンと二男アムジャド一家の住む家で無事執り行われるが、アムジャ ドは亡くなった兄の家族に冷たく当たる。カマルウッディンもかつてアクバルに腹を立て、遺 産相続からはずそうと考えていた手前、アムジャドの発言に異を唱えることができない。まし てやベッドに寝たきりで、実質的な当主はもはやアムジャドなのである。しかしアクバルの娘、
つまり孫娘のパルビンに「わたしたちはこの家に住めないの?」と再三訴えられ、最後にカマ ルウッディンはこう言うのである。「おまえの叔父さんに言え、じいさんはまだ生きていると な25)」。
そこにあるのは救いではない。ましてやどんでん返しもカタルシスもない。あえて言うなら ば「生きるという意志」がそこに示されているとでも言えようか。カマルウッディンはこの世 を地獄とみなし、死を願い、死者の世界と生者の世界をいわば行き来するようにして暮らして いたが、孫娘の懇願によって老いてなお自分が「生の世界」の住人であることを、そしてそれ がまだ続くことを実感するのである。
厳しい時代を生きたイリアスにとって、この世は希望に満ちたものではなかったし、現実を 直視すればするほど、そこに救いを見出すことは困難だったろう。イリアスが提示した現実、
カマルウッディンの眼に映る現実は「地獄」であった。しかしイリアスは、「わたしとわたし の時代」にあるように、救いのない失望こそを唯一の真実とも考えたくはなかったのである。
そして同時にイリアスは、救いを文学の「外」に求めることもしたくなかったに違いない。
筋金入りの社会活動家であった父とは違って文学の道を選んだイリアスは、いかに社会的関心
が高かったにせよ、運動家そのものではなく、全身全霊を持って文学者だったと言えるからで ある。そのほとんどの短編を通してイリアスが描いたのは、矛盾と困難に満ちた地獄にも似た 世界であったが、解決のつかないその世界において、あきらめるという選択肢は彼にはなかっ た。最終的にそのイリアスが到達した地平とは、カマルウッディンが感じたのとも同じ、地獄 にも例えられるこの世界における「生きる意志」、あるいは「それでも生きている」という確 かな実感だったのではないだろうか。
おわりに
イリアスが編んだ最後の短編集となった『地獄で暖かい』のあと、最晩年に発表された短編 に「レインコート26)」という作品がある。これは独立戦争といういわば「非常時」に取材し たものだが、その基本構造には「地獄で暖かい」との共通点が少なくない。
「レインコート」には地獄ということばこそ使われていないが、その異常な状況そのものが すでに地獄さながらである。ダッカの町は戒厳令下にあり、一歩外に出るとあちこちに兵士が 立ち、いつ自分もなにかの容疑で(あるいは容疑などなくとも)引っ張っていかれるのではな いかと怯えるのがここでの日常である。
主人公のヌルル・フダは臆病なカレッジの教員で、義理の弟が解放軍兵士に加わったために、
自分も疑われることを恐れて何度も引っ越しを重ねるような人物である。彼の勤めるカレッジ にはパキスタン軍がキャンプを張り、授業は行われず、ただ教員室でなりをひそめ、ウルドゥー 語教授のよくわからないジョークに相槌を打つ毎日だが、ある日緊急の用件で校長に呼び出さ れる。
ヌルル・フダは義弟のレインコートを着ていくかどうかでひとしきり迷うが、それはカーキ 色をしたそのレインコートを着ると警官風にも軍人風にも見えてそれが吉と出るか凶と出るか が判断できなかったためである。結局そのレインコートを着て家を出、道中びくびくしながら 学校に着いたヌルル・フダだったが、彼が呼び出されたわけは、カレッジのパキスタン軍キャ ンプに爆弾を仕掛けたものがいて、その容疑者が仲間としてヌルル・フダの名前を出したため であった。イリアス得意のスタイル、ひたすらヌルル・フダの視点から世界を眺めている読者 にとっても、突然犯人の一味として軍人につるし上げられるシーンは衝撃的である。
しかしここで、ヌルル・フダに奇妙なことが起こる。自分の名前を出したという工作員との なにげないやり取り(その時点ではもちろんヌルル・フダは彼を工作員とは知らなかったのだ が)を事細かに思い出すにつれ、彼が自分を仲間だと思ってくれていたこと(それもまた確実 ではないが、少なくともヌルル・フダはそう解釈する)に得も知れぬ喜びを感じてしまうので ある。そしてヌルル・フダは拷問を受けることになるが、すでに脱がされていた義弟のレイン
コートの「暖かさがすでに彼の体に染みついていた27)」というのがこの作品の結末である。
つまり、息詰まるような日常で、ひたすら目立たぬように暮らしていたヌルル・フダは、い わば生きているようで生きていなかったのに等しいが、工作員の仲間と見做され、身体的精神 的危機に直面して突如として自分という存在と、その自分が生きているという事実を実感する のである。
カマルウッディンと同様、ヌルル・フダに起こったことは、英雄的な精神的転換などではない。
ただし、冒頭のハッサン・アジズル・ホクの評にあるように、イリアスの描く世界にものごと の優劣はなく、どのような人物もみな同じ価値を持って描かれるし、であるからこそカマルウッ ディンもヌルル・フダも、些細な悪行や後ろめたいものを持っていようとも、けっしてつまら ない人物などではなく、読むものひとりひとりと同じ絶対的な価値を持った存在としてあらわ れる。その彼らが、受け入れがたい現実を前に、「それでも生きている」ことを、あるいは「生 きる意志」を見せること、それがこの世界のなにが真実なのかを問い続けたイリアスの辿りつ いた地平だったのである。
註 1) [Huq 2008: 99]
2) ibid., 201.
3) ibid., 202.
4) ベンガル語ではBhasha Andolan(直訳すれば「言語運動」)。死傷者を出した日にちなんで「エクシェ・
フェブラリ(Ekushe February, 2月21日)とも言われる。
5) カジ・ノズルル・イスラムについては、拙稿[2013]に詳しい。
6) [Hai 1983: 371]
7) 『赤いシャールー』の成立過程については、[ワリウッラ2004]を参照のこと。この小説は分離独立の 混乱の時代に発表されたため当初は黙殺されたが、60年に再版されるとともに大きな反響を呼んだ。
8) [Hai 1983: 385]
9) [Rashed 2001: 23]
10) 1943年のベンガル大飢饉では、300万人もの犠牲者を出したと言われるが、これは戦時下における食
料統制と政策の失敗による人為的な飢饉として知られている。
11) [Elias 2004: 286]. 初出はBorbar, Id sankhya, 1987.
12) この文章が書かれた時点ではまだエルシャドによる軍事政権が続いていた。
13) [Elias 2004: 286-7]
14) イリアスの長男は1974年に生まれたが、この年バングラデシュは洪水を引き金とした飢饉にみまわれ、
およそ100万人が犠牲になった。
15) [Elias 2004: 287]
16) [Elias 1989]. 原題は‘Dojakher om’. Dojakhは「地獄」を意味し、omは、寒い時などに暖を取る際の「暖」
をあらわす単語。直訳すれば「地獄の暖」。炎に包まれた地獄で「暖を取る」ことは無意味でもあり、
ここにイリアス流の皮肉が込められている。
17) [Elias 1976]. 「行先のない旅」の原題は‘Niruddessha yatra’.
18) ジボナノンド・ダーシュ(Jibanananda Das, 1899-1954)は、タゴール後を代表するベンガル詩人。イ
リアスのこの作品にはその代表作「ボノロタ・シェーン」の一節を想起させる記述がある。
19) ビブティブション・ボンドパッダエ(Bibhutibhushan Bandyopadhyay, 1894-1950)の『大地のうた(1929、
原作名はPather pancali, 「道の物語」ほどの意味)』はすべてのベンガル人にとって心のよりどころで
あるような作品である。サタジット・レイによる映画化(1955)によってもよく知られる。
20) [Elias 1985]. 「足の下には水」の原題は‘Payer nice jal’.
21) カマルウッディンの妻の名前は本文中にはあらわれず、慣習に従って「アクバルの母さん」と呼ばれる。
女性の名はこのようにしばしば子どもの名前を介して語られる。
22) [Elias 1999: 296]
23) ibid., 308.
24) ibid., 312. ムンカルとナキールはイスラームの天使で、死者を罰する役割を担う。ハーウィヤ地獄は最 も恐ろしいとされる地獄で、つまりカマルウッディンはここで、死後の責め苦よりもこの世に生きて いる方が恐ろしいと言っているのである。
25) ibid., 318.
26) この作品ははじめ1995年に「土(Mati)」という雑誌に掲載されたが、没後刊の第五短編集『水の夢、
夢の水(Jal swapan, swapaner jal)』[Elias, 1997]に収録された。
27) [Elias, 1999: 404]. ここでもまた「地獄で暖かい」と同じomという用語が用いられているのは象徴的
である。
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Akhtarujjaman Elias and his “Reality”.
NIWA Kyoko
Akhutarujjaman Elias (1943-97) is a very powerful writer and is considered to be one of the representative novelists in Bangladesh. He was born in 1943, the year of Bengali Famine and just before the Partition, and spent most of his school days in Dhaka under the pressure of military government of Pakistan. Witnessing Liberation War and Independence and also experiencing severe backlash and disappointment, Elias could have never been an optimist in the stream of modern history of Bangladesh.
It has been great and sometimes too big a task for all the Bangladeshi writers to work on the theme concerning this extraordinary modern history – including two independences within a quarter century -- of Bangladesh and there are only a few writers who could successfully deal with these realities. Elias was one of those exceptional writers who could grapple with the severe actuality in the world of literature not carried away by a simple heroism or easy relief of dogmas.
Akhtarujjaman Elias left only two novels and four books which contain 18 short stories altogether. Later, one more short story book was published and there are some other short stories that remain uncollected in a book, still, all his works are not large in number compared to other writers. However, he achieved wide recognition as a great writer with these writings and it means his works were always written with the greatest circumspection and distinguished skills.
Here in this short paper, the writer will concentrate on his short stories to survey the general characteristics of his writings. And then focus on the story named ‘Warmth of the Hell (Dojokher Om)’ to investigate the reality the author presented. It was his way of writing stories strictly through the eyes of main characters so that we are necessarily going to see the reality living in old Dhaka through the eyes of Kamaluddin, the main character of the story. Kamaluddin, a tailor and a father of three sons and two daughters, lived a hard life and now bedridden due to illness. He considers this world as hell and asks Allah incessantly to pick him out of the world, which means death. Though this is a story which only describes incidents in a few days together with his own reflections, it has a vast expanse taking in the life of Kamaluddin and the history of Bangladesh. As from the fact this story was one of those which were written in Elias’s last years, the horizon Kamaluddin reached in the last stage of his life was, we can safely assume, also the cognition of the author himself. Here we are going to look into Eilas’s analysis and the final cognition of this world after his own hard life.