小特集「日本・朝鮮近世の文学における「医者」表 現」 : なぜ朝鮮王朝期の文学は薮医者を描かなか ったのか
著者 高 永爛
出版者 法政大学国際日本学研究所
雑誌名 国際日本学
巻 17
ページ 212(47)‑193(66)
発行年 2020‑03‑25
URL http://doi.org/10.15002/00023222
一.はじめに 江戸時代の日本文学は多様な薮医者を描いている。仮名草子『竹斎』(一六二三)に登場する竹斎なる人物は薮医者の代名詞格であり、彼の表象を踏襲する後続作品の薮医者達は皆、無学で経験の浅い非専門家として嘲笑の対象となっている。例えば、浅井了意作『うき世物語』(一六六五)の薮医者通斎は次のように描かれているので、以下で確認してみる。
四、医学正伝の作者を知らざる事 1
今はむかし、御内に召しかかへられし野夫医者のありけるが、名をば通斎といふ。物も知らず、ただ聞書ばかりにて療治をする。その書物はみな仮名書なり。浮世房問ひけるやう、「其方は学文をよくさせられたさうな。しかも療治もよくめさるると見えた。きのどくの事かな。医学正伝は誰の作ぞ」と問ふ。もとより見たる事もなければ、その作者は聞きたるばかりなり。聞書のはしに「ごうとくらうじん正でんをつくる」と、仮名に書きて置きたるを思ひ出だして、「それこそ存じたれ。正伝は唐の後藤九郎二郎といふ人の作ぢや」と答へた。
なぜ朝鮮王朝期の文学は薮医者を描かなかったのか
高 永 爛
正式に医学を学んでいない通斎は『医学正伝』(一六三四)の著者を問う質問に対し、著者虞摶の号「恒徳老人」をその発音からの推測にまかせて「後藤九郎二郎」と答えるのである。このように薮医者の無学と無知を笑いの対象とするのは、噺本においても顕著である。噺は周知の通り短い笑話としての性格が強く、自ずとその作品数も他のジャンルに比して圧倒的に多い。ここでは吉丸雄哉の研究報告書「近世文芸と医学に関する総合的研究 2」における資料を参考にし、『噺本大系』(東京堂出版、一九七九)に限って述べると、描かれる薮医者の数は約六七名にも上ると言える。その一部を二、三紹介しよう。
目医者あり。その身の目はくさりていながら、「目薬は天下一なり」と自慢し、「一度させば、かすみはるる。二度させば、まけ(眼病)も切る」など広言せしを、「さて、そなたの目は何とて治らぬ」「されば、わが薬妙なればこそ、頬先にてとどめたれ。さなくば頤までもくさりなん」と。(『噺本大系』九十七頁。)
右の『醒睡笑』(一六二八)では自らの眼病も治せぬ薮医者が眼薬の宣伝をするという矛盾した状況が描かれているが、これには聴衆も読者も失笑を禁じ切れなかったであろう。時代が下って、一七七八年に刊行された『福の神』には、薮医者はよく人を殺すものだという笑いに笑えない噺が展開される 3。 さらに、浮世草子においても薮医者は頻繁に登場するが、江島其磧作『風流曲三味線』(一七〇六)の三巻二章の場合、医業はお金を稼ぐ一手段として滑稽に、しかし生々しく描かれている。ここで薮医者は心中を試みようとする老人の病名や薬をでたらめに作り出すが、偶然にも老人の病は治り、その噂が広まって一儲けできたという逸話が展開される 4。これは医者の学識や経験とは無関係に、医業が一攫千金の手段として通用する当時の社会的状況を映し出すものであると言えよう。
医者が金に目が暗んでいる状況を嘆く記事は『朝鮮王朝實錄』にもたびたび確認できるが、その一つを紹介したい。
「文宗實錄」十二巻
賻故行上護軍盧重禮家、米、豆、棺槨。重禮業醫、精於其術、近世之醫、罕有其比。 、(一四五二年三月十一日) 5
性謙恭、爲內醫數十年、終始
敬愼、荷恩兩朝、賞賜不可勝記。雖微賤者問藥、必諄諄命之、無惓色。世之醫者、類起微賤、官秩纔高、志氣暴驕、雖士大夫家邀致、必見難色、且索高價。故人以重禮爲賢云。
有名な仁医だったが蓄財には疎かった盧重禮(ノ・ジュンレ、노중례)の亡き後、王室から彼の家に米や豆などが贈られたとのことであるが、逆説的に当時の多くの医者達は盧重禮とは異なって名を得るにつれ、お金儲けに執着していたことが窺える。しかし、このような状況が朝鮮王朝期の文学の素材として利用される傾向は顕著ではなく、殊に藪医者は文学の中ではほとんど登場しないと言って過言ではないだろう。
以上のように、江戸時代の日本文学は多様なジャンルにおいて薮医者を描いて行くのだが、同時期に相当する朝鮮王朝後期の朝鮮文学には一見する限り、薮医者の姿を確認することはなかなか難しい。そこで、なぜ朝鮮王朝期の文学は薮医者を描かなかったのか、その理由を理解するために、十七~十九世紀日韓の医者と彼らに関連する社会状況を鑑みたい。
二.十七~十九世紀日本と朝鮮の官医と制度
韓国において朝鮮王朝(一三九二~一八九七)は五百年余り継続し、その後期が日本の江戸時代とほぼ重なるので、
比較の上では朝鮮王朝後期に焦点を当て議論を進めるべきではあるが、朝鮮王朝期の医者という職業とそれに対する社会的認識を理解するためには、朝鮮王朝初期からの医療に関する制度や認識を確認する必要がある。
朝鮮王朝初期の医療は前の高麗期(九一八~一三九二)の典医寺の影響を受け、典医監を設けたことから始まる。この機関は王室の薬剤の調達、王室及び朝廷官僚の診察、薬剤の賜與、薬剤の栽培と採取、外国からの薬剤の購入と販売、医書編纂、医学教育、そして医員や医学生徒の採用など国家の医療事業を網羅していたと言っても過言ではない 6。殊に、科挙制度のあった朝鮮において、正式な官医と呼ぶことのできる者たちは雑科の科挙試験に通り典医監に所属するという過程を歩んだのであるが、実際には科挙試験の合否やその身分とは関係なく、賤民や中人(文武両斑と賤民の間の階層)であっても医療能力のある者は、王命により典医監に特別雇用されたことが明らかになっている。その一例として挙げられるのが、朝鮮王朝後期を代表する針灸醫の許任(ホ・イム、허임、没年未詳)である。彼の父は楽工、母は私婢であったが、その能力が高く評価され王室の針灸醫となった。しかし、彼が昇進するに従いその身分を蔑み、彼の昇進に反対する意見が多かったようで、その状況は左の『朝鮮王朝實錄』のいくつかの記録からも明らかである。
「宣祖實錄」一八〇巻、(一六〇四年十月二十八日)令崔東式來啓曰、(前略)許任、六品之職也。南嶸、七品之官也。安可以一時職分之微勞、遽授通政之加?物情深以爲駭異。請命改正。(中略)答曰。李守一、不可改之。
許任等、亦不可改之、不允。崔灌事允。
崔東式(チェ・ドンシキ、최동식)という臣下が国王である宣祖に「許任が六品の職にあり、南嶸は七品の職にあるが、一時期の職分上の小さな功勞により通政大夫に推薦の過程なしに特別昇進させましょうか。皆大変驚いているので再考して下さい。」と申し上げると、国王は王命の通り許任を昇進させるようにと仰せられたとの内容である。さらに、この五年後
にも許任の昇進に反対する臣下と彼を擁護する国王の対立が次のように確認できる。
「光海君日記」二十一巻、(一六〇九年十月八日)司憲府啓曰、麻田郡守許任(以針醫進)本以微賤之人、已經堂上之職、酬勞之典、亦云濫矣。今授牧民之任、物情莫不駭怪。請命遞差。答曰、許任旣經東班職、大通仕路、門地不須言。試可不妨、勿用煩論。
右は司憲府 7から「許任の身分が賤しく、すでに三品の位相である堂上官の職に就いていたのに、さらに高位の職に昇進させるのは世評においても良くないと申し上げるが、国王は許任の昇進を進めるように命令した」との記録である。賤しい身分のために世の中からは牽制されつつも国王からは篤く信頼された官医許任であった。 一方、医書『濟衆新編』(一七九九)の編者として有名な朝鮮王朝後期の名医・康命吉(カン・ミュンギル、강명길、一七三七~一八〇一)は科挙試験に合格し、官医になった例であるが、彼の身分もまた中人の典型であった。正祖大王(一七五二~一八〇〇)の側近になった彼は医者としての能力を高く評価されたものの、行政官として地方に赴任していた時に税金を搾取したり賄賂を貰ったりして懲戒されるような人物で、最後は正祖の死の責任を被って殺されたので 8、官医の末路が必ずしも称賛に値したとは見受けられない。さらに、十九世紀末になると、官医・黃度淵(ファン・ドヨン、황도연、一八〇八~一八八四)は彼の著した医書『方藥合編』(一八八四)が大きな人気を得たが、当時、この書一つを基にして活躍した薮医者が量産されたことが非難の的となったと指摘する研究もある 9。
以上のように、十七~十九世紀の朝鮮に実在した官医達は例外はあるものの、原則的には科挙試験に合格した者のうちから選抜、養成され、彼らは一行政官として地方に派遣されたり地方医療の管理をも行った。つまり、朝鮮王朝後期の官医達は科挙制度と国家管理システムにより一定の儒学と医学、さらには行政の標準化された学習を強要されたが
、 10
これに比し日本の場合はどうだったのだろうか。
日本の場合、江戸初期の官医達の最も上位にいたのが典薬頭であり、将軍の診察と医薬を担当する奥医師、殿中に患者が発生したときに治療にあたる御番医師、代々医療に携わる家系で平時は登城しない寄合医師、武士や町人の病を治療して医術の修行を行った小普請医師などがいた。多くは代々医療に携わる家系にあってその職分を世襲した者だったが、一方で藩医や町医の中で卓越した能力の持ち主は小普請医師として選抜されたようである
い希会てじ応に望はまろとるきでも書読、こた針はしらたあでっ方講いとるす釈う 『難経』、論『傷寒問』、』、本素『』、枢霊『』、草は『目科金『っ匱』、要どな』方要秘台外『医方あ金』で略た。さらに『千 はと」館学医「た。っなに医こぶ学を学たれさ化準標戸江町中医育り、あで関機育教門専療教たに象対を者医のて全のし の月、幕府元奥師・多紀年四ば五六七一の半紀世八十が孝医幕学府は達者の時当で、」館医医てた「願い出建設されに あ分じ充が面側る医通相は達官のた本っ挙とてとは、のるれらげし思と証傍のそる。れわ日達得官の鮮朝たっいてし医 儒るぐらい学医の方面かれ方分に方生後とも医古は学医で大にの習を識知の学医儒きめた験試挙科り、あつつし展発く 素有した医養や学識とが紀官の鮮朝が医官の日のけ掛本離いれ日の時当ろ、しむい。難本言備はのをもえてとたいた 家と医しくな係関と柄官行は者ん励に修や問学し抜志てだ擢しさ世九十~七十っがたて、た。受れっ禄を俸けたのであ てと育教の定一は医官ものいおに本日の代時戸江の、行修成の行を学医もで巷はたま過き、て医程を経して者として長 は科挙制度。なかったも 11
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手略測を量力てしと師医)中モ(い。ならなはてくなしるのノしいしわさふサるす価評くに、正社をシがいな会で、それ そ努れぞれ自助維力で生計を持から、いそ村なた。さらに、「だがれ以外、町在医・医るが証保の分の身よに儀公合、場 幕孫戸江に後は達。子の三道て、しその府活典官し躍てしと医ど薬なるす襲世を頭 13
段とは何か。医師がどれほど知識、技術を所有しているか、それを質す最も簡単なやりかたは、彼自身の子弟関係=『学統』を示すことであった
ろうかという疑問に対しては、これから先詳細な比較研究の必要な分野であると思われる。 のれさ化準標にうよ医学官の鮮朝てした果がた識多環だたいてれか置に境のを行修なうよるれら得くの官の本日し、医 。」医京が関機育教療に、的私をうよるれさと都多中言だたう。ろだるえと心たいてし在存くに 14
一方、朝鮮王朝期の官医になるための科挙試験の科目は『纂圖脈』、『銅人經』、『直指方』、『得效方』、『婦人大全』、『瘡疹集』、『胎産集要』、『救急方』、『和劑方』、『本草』、『經國大典』であった。また、医療の専門分野の生徒や下級官員を対象とし、科挙とは別途の試験により官医を選抜する「取才」では、『直指脈』、『纂圖脈』、『傷寒類書』、『衍義本草』、『鍼灸經』など、全二十五科目にも及ぶ試験を受けなければならなかったので、春夏秋冬の四回に分けて試験が行われた
つまり医学理論を重んじた朝鮮王朝期の雰囲気は次の記事からも明らかである。 。このような医書、 15
「世宗實錄」二十九巻、(一四二五年七月二十五日)有遼東醫人河讓者隨齊賢來、知申事郭存中承命請讓來診上疾。世子率宦者二人侍側、上使元閔生傳語曰、服竹葉石膏湯何如。讓對曰、善矣。令命藥、對曰、退與國醫議、而後命藥矣。出而語曰、殿下之疾、上盛而下虛、憂勞所致、故脈之四至、似若平和、右脈沈而活、左脈沈而虛。痰積胸膈間、氣不得流通、水火不升降、先服消痰藥、次服溫脾胃藥、然後進調理藥可也。仍命合香砂七氣湯、涼膈導痰湯以進。然以是藥、不見於醫書、不進焉。命饋之、賜苧麻布各三匹。
右のように、異国からの名高い医者が世宗大王を診に来たが、その処方は医書にないものなので用いられなかったということである。さらに、次の傍線部からも分かるように、当時の官医の医学書教育に経験豊かな者を選んで当らせるようにした状況が窺える。つまり、医学教育の標準化を図るようにとの方針が出され、施行されるようになったのである。
「世宗實錄」九十巻、(一四四〇年七月二十八日)議政府據禮曹呈啓、醫學、人命所關、其業至重、必習讀方書、通曉藥理、乃於急遽之際、能隨證投藥。(中略)三品醫員內、擇其精於藥理者、幷差敎官、一同訓誨、每當春秋仲月取才、考其畫數多少、其畫多者一人、賞職勸後。又惠民局所賣藥價過重、故大小病家未易市買救活、今後最貴淸心元蘇合元保命丹外、其餘藥價、更加磨勘、酌量差減。從之。
以上のように、朝鮮王朝期の王室を筆頭とする公権力の医療、または官医は理論を中心とした学問としての医学にこだわる傾向が強く、このため、学問に携わる医者を嘲笑の対象として当時の文学を用いるところまで作者の想像力が及ばなかったと見受けられる。
三.朝鮮王朝後期の朝鮮文学に描かれた医者
陳在敎(ジン・ゼギョ、진재교)が先行研究で指摘するごとく、朝鮮王朝期の〈医員傳〉は後続の野譚
がくるれら見とのもたえ與を響影き大に形造の者医れ にさ承継部一 16
末)の巻二の十「活人病趙医行針」では、医者は次のように描かれている 言紀世九十』(談野邱靑る『れわも、と成大集の譚野の期朝王鮮朝 17
。 18
趙光一は中央に進めず、家柄もまた同様であった。しかし、品性は疎坦で実直であり、医術を好んだ。医書に基づき薬を用いるのではなくいろいろな針を用いていたが、彼の針で治らない者はなかった。ある日、衣服のみすぼらしい老姑が訪ね、息子の治療を頼むと、「先に行きなさい。すぐ追って行きます。」と答えた。このような患者が絶
えることがなかった。ある日、趙光一が「某郷某百姓の病が重いので、この間針を打ったけれども回復の兆しがないので、今日また(治療のために)訪ねると約束しました。そのために、今参ります。」と言うので、「何故あなたはこのような苦労をなさるのですか。」と問う。「男としてこの世に生まれたからには、宰相になれないのであれば医員になった方が良い。宰相は道で以て百姓を救い、医家は術業で以て人を救うので、窮達するのは異なるが、その功は同様であるのだ。(中略)故にこの術業を楽しみ、その利益を取ることに目的があるのではない。己の意に従うまでで、故に(患者の)貴賤を選ばないのである。しかし、この頃の医員はその術業の勢いがよく他人に驕慢であり、門外に迎いの駕籠が絶えることなく(患者が)酒肉を持って待機するので何度もお願いした後診療に応じ、それも身分の高い家か富家にしか行かない。」
右で描かれている趙光一(チョ・グァンイル、조광일)という名の医員は中央に進めない人物である。つまり科挙試験には合格できず、何かの機会に鍼の修行を行い、鍼医として生業を立てていたのである。注目すべきことは、この名もない町医の志は経済的自立にあるのではなく、儒学者と同様、民を救うことにあるという点である。つまり、ここで医者は儒教的倫理の代弁者として描かれ、そのため医業で以て利益を得ようとする現世の医者達を批判しているのである。この趙光一に関しては、開放的思惟で以て卓越な行政能力を有した開明的官僚と評価される洪良浩(ホン・ヤンホ、홍양호、一七二四~一八〇二)が先に『耳溪集』で同様に描いている。
次は『朝鮮王朝實錄』にも頻繁に登場した実在の名医・皮載吉(ピ・ゼギル、피재길、生没未詳)を描いた『靑邱野談』巻二の十四「進神方皮醫擅名」を見てみよう
。 19
皮載吉という人は腫をよく治し製薬に長けていたが、父が亡くなったので医業を伝授されずじまいになってしまっ
た。故に医書を読むことはできず母が口伝えで医術を教え、やっと瘡腫に効く膏薬を売り衣食を賄うが、医員の中には入れなかった。一方、正祖国王が頭痛でいろいろな針と薬を試されたが効き目なかったので、皮載吉の名声を知るものが彼を呼んだ。彼は卑しい身分なので正祖の前で冷汗をかきつつ震え上がり一言もしゃべれなかった。これを見て他の医員達はみな彼を笑った。しかし、正祖は彼を近くに呼び「恐れずお前の才を尽くせ。」と宣い腫を診るように命じたので、皮載吉は「小臣に方文があるので試されてはいかがでしょうか。」と答えつつ、熊膽で全ての薬を化して膏薬を造り腫れに付けるようにした。するとなるほど、一日で痛みが止まり、三日で腫れが静まった。(中略)「内針医の位を与え、官服を備え六品職を下す。」これにて彼の名は全国に広まり、熊胆膏は千金方として有名になる。
皮載吉の父は中人層で医業を生業としていたようであるが早くに亡くなり、息子の皮載吉は読み書きもできず、口承で母から医術を学んだという人物であった。やがて彼の膏薬は有名になり、正祖国王が官医に採用し治療を頼むほどであったが、結局、正祖国王の死亡により流罪の身となる。しかし、右の野譚には彼の医術のすばらしさだけが述べられ、彼の医術への批判や嘲笑は全く見られない。ここで、本来は官医になれない身分の賤しい者であってもその医術が功をなしたのであれば、医者を嘲笑の対象としない著者の認識を窺うことができるのである。
次に、兪晩柱(ユ・マンジュ、유만주、一七五五~一七八八)の日記『欽英』を確認してみたい。『欽英』は十八世紀後半の士人であった筆者が二十歳から書いた十三年間の日記であり、その家系は病気がちで本人を含めた多くの家族が早く亡くなっている。そのため、この日記は一種の侍病日誌でもあり、たびたび医者と病状が描かれている。また、この『欽英』には楊禮壽(ヤン・イェス、양예수、?~一六〇〇)、任泰垕(イム・テフ、임태후、一七〇八~一七七六)、蔡膺祐(チェ・ウンウ、
채응우、一七一六~?)等、十八世紀前後に活躍した実在の医者達が描かれている点、先行研究により明らかになって
いるが
、その具体的な内容を次で見てみよう。 20
「親切な医員任泰垕」(一七七八年九月十七日)ある人が倒れ危篤になり、任泰垕が「童便一皿に生姜を入れ暖かく一回飲むように。」と言ったので、その通りにするとすっかり治ったが、この処方は任泰垕の寝言であったとされる。ある人がみすぼらしい服を着て任泰垕の家の前に無言で座っていた。彼の様子を見た任泰垕はすぐに聾啞病であると察知したが、患者に処方ではなくお金を渡し、すっかり治ったということである。患者の暮らしまでをも気遣っていたのである
。 21
患者の経済的困窮までをも気遣う医員・任泰垕のすばらしさが自然と読み取れる右の叙述である。一方、薮医者とまでは指摘していないが、納得のいかない処方を出す医者達や知人に焦りを感じる筆者の内心が窺える一部分を次で確認してみよう。
(一七八四年十一月五日
西の町から医員の趙氏に母の病に通順散を用いるべきかどうか問い、ギョファンの腹痛の病状について相談した。 ときどき曇り冷え冷えとして寒かった。 ) 22
(一七八六年七月十九日
大変暑く、たまに曇った。今日は末伏である。 ) 23
ギョファンがこの頃鼻血が出る症状がひどく、ソゴンから『東醫寶鑑』をまた借りて来て見ている。医員の趙氏に犀角地黃湯という薬を用いるのがいいかどうか相談した。
(一七八七年四月二十五日
にする薬はこれ以上飲ませないようにと言われた。 がは害にならないが風邪ひ鼻どいので、お腹を安らか血が、フた員の金氏を呼びギョァ朝、ンをまた診てもらっ医 ) 24
(一七八七年五月六日
ずに言っているのか判らない。 たを姜生に便童く、良がめれ止はのむ飲を薬し、断診入方てて暖知か、のいし正た。れくらっべく飲むかきだと言 め行に斎書るあに棟の上ンたう会にた。ァフョギが姉っと水西るあで症陰寒傷はて見をンァフョギが兄從む住にの 理義方せョギっ言といいがたまァ休せさ定安ずわ使た。フた。ンよっなくどひが状はなう症るく胸苦しが息が詰ま 番フョギて、来が父叔の目れ二らか上む住に西水)略ンァこを悪れ(あを薬でのたし化が見状病りま深が邪風はて前 ) 25
病名は分からないが重病にかかった息子のギョファンの回復を願いつつ、筆者は医者の趙氏や金氏に度々相談し、いよいよ成すすべがないので親戚中に意見を求める。医者と称する趙氏や金氏もこれといった処方もなく、筆者は彼らを藪医者とまでは述べていないが、医者より先に犀角地黃湯という薬を飲ませるべきかと処方を提案する筆者の焦りが見えかくれする部分である。このように朝鮮王朝後期の士人(=両班)や中人を含めた一般大衆が出会う医者の姿は、病状を診てはこれといった処方を提案することもなく、ただ養生を勧める程度であったことが右の日記から理解できるの
である。同様に病名を確定できずあやふやな答えをするだけの医者は朝鮮王朝後期の口演劇であるパンソリ作品にも登場する。申在孝(シン・ゼヒョ、신재효、一八一二~一八八四)により集大成されたパンソリのうち、〈水宮歌〉と〈ビョンガンセ歌〉に登場する医者が一種の藪医者のように見えるので次で紹介したい。
て研究されている し点ういとたれさ展発てとら、学文るす有を題主的理合かな朝と鮮しともたし」に共を軌の展の発朝王期後韓国医学の 形変の話説兔龜は〉歌の宮水な〈うよこる。戻にれ地さ教た基てで的実現に上の礎的作儒「れ、さ解理てしと品陸し還生 がをぎさうい、か向に地陸て騙かで、のるあが要必るいめてし上え越り乗を境逆く手は連ぎさうし、かしる。くてれ用 〈しです治を病の王竜る。ありめ通の次は概梗の〉歌宮たにとわ薬を肝のぎさうが、るれ行水が論議なろいろいで宮水
。この〈水宮歌〉の前半部に、竜王が自らの病を嘆いている時、次のような仙人が降りてくる 26
。 27
ある日、五色の雲が宮廷を覆い、奇異なる清い香りが四方から起こり、見慣れない道士が青い衣をかけ腰には飾り物を付け手には扇を取り、軽い足取りで堂上に登っては長く礼を申し上げ頭を下げて言う。「藥水三千里に海棠花を見て瑤池の宴に行き、千年長生きできるという桃を得ようと地下に降りてきましたが、ここの噂によると大王の病が大変深いと伺ってお目にかかるため参りました。」(中略)道士、また脈を測り、両袖を捲り上げ両手をそっと挙げ(竜王の)全身を触り、後ろに下がって座り、顔色を確かめた後竜王に申し上げる。(中略)「色んな臣下を呼ばわれて命令されると、どうして竜王様の聖德によって義理深い忠臣がいないでしょうか。私はこれから急ぎますので、ここで失礼いたします。」と言い残し門の外へ出ると、道士はすぐいなくなり、清らかな笛の音だけが虚空に響くが、(竜王は)空中に度々深く礼をして、水宮中の全ての臣下を一時に入内するようにと命令される。
右の医者は道士の姿でこの世に降りてきて、触診で以て竜王の状態を診てはうさぎの肝を薬に用いるようにと言って
消えていった。パンソリは出版物ではなく、当時口演されたものを関係者が書き残して置くものだったので、口演者によってその詳細は少し相違する。劉成俊(ユ・ソンジュン、유성준)や朴初月(パク・チョウォル、박초월)のものと右の金永洙(キム・ヨンス、김영수)の〈水宮歌〉の内容はほぼ一致するが、敢えて相違点を指摘すると、医者が脈を測った後、より具体的に「心小腸は火であり、肝膽は木であり、肺大腸は金であり
りである 、」とか「いくら薬と鍼灸を用いても病態はより深まるばか 28
るれ普に期時たれさ成形そしは容内るす場登に章及がたも普れらえ考とるでのある識遍な知的を代弁す 章の衆民層基の時当はにる。詞リソンパなうよのこ「に間っ通が詞てでがたしれ、さ映反像用会社と系体語言たいてしあ のは病肝のぎさうず、き療治をで薬のいなはで間人る王竜をでとい去えしはてめ勧をとこな消まよいている用うにとあ す度程いし詳が述叙るう関に状病に、よういとあで。」る。でに常は者医もてっあ〉ど歌宮水る〈よに者演口の 29
ガンセ歌〉の生身の人間の医者を次で見てみよう。 映うよるあがのもす出しを受姿のちた者医の中市のに見け俗ンョビる〈な異はと者医的巫的、教道のこて、さる。れら 勢時当は、姿で者なまと者医藪はちた医言の〉歌宮水〈に、うよはえでなうましてめらきあ中当途を療治の者患が、い適 摘と指。」される 30
咸陽ザビジ名醫という李進士に事情を話すと診脈して、左手脈を見て、腎肪胱脈沈遲し臟冷精薄するであろうし、肝膽脈が沈失し節肋痛壓するであろうし、心水脈が浮數し、風熱頭痛するであろうし、命門三焦脈がこんなに沈微するので酸通濁津するであろうし、脾胃脈が沈失し氣促腹痛するであろうし、(中略)薬でも使ってみよう。人蔘、鹿茸、牛黃、朱砂、官桂、附子、藿香、縮砂、赤茯笭、白茯伶、赤芍藥、白芍藥、羌活、獨活、柴胡、前胡、川芎、唐歸、黃ギ、白芷(中略)李氏の言うよう、「薬は百種で病は万種なので末疾であり不治の病だ。」と下直して去ってゆく
。 31
右の場面は情欲の化身のような擁女とビョンガンセが夫婦になった後、木で作った村の守護神にいたずらをした夫のビョンガンセが祟って病に陥ったことに気づき、擁女が医者を呼んだ場面である。擁女が呼んだ医者は名医として名高い苗字が「李」である進士とされる。進士とは本来科挙試験の小科に通った者を指すもので、成均館という教育機関に入学を許可され、所謂士(=両班)のうち入ることができ、下級の官員になることもできる身分である者の呼称であった。しかし、進士になったからと言って必ずしも職位を得られるわけではなかった。したがって、この李進士である医者もまた職位を得たとは見られず、そのため医業を営んでいるように見受けられる。一応、最も基礎的な科挙試験に通った知識人層として、李進士はビョンガンセの病状について、まるで自分が知っている全ての医学知識を吐き出すかのように薬性歌を歌いつつ薬もあるだけ用いそうなふりをするが、結局ビョンガンセの病は「末疾」なので不治の病であり治し難いと言い残す。このように、〈ビョンガンセ歌〉に描かれる医者は、知識人層であっても患者の病名すら確定できず、薬もこれといったものを用いられないところを見ると、彼も一種の藪医者と呼ぶことができよう。
四.おわりに
朝鮮王朝期の文学には〈医員伝〉の影響の下、儒学の教えに基づき仁医として活躍した出自のはっきりしない者、実在の医者等が描かれていた。皆、経済的な利益や出世よりも、患者の暮らしや状況を気遣う、それこそ素晴らしい人格の持ち主であった。ただし、『朝鮮王朝實錄』によると名高い当時の官医でさえも賄賂をもらったり、身分の卑しい医者であっても出世に目が眩み、医学や医術に興味を持たない者が多かったりしたことが確認できた。また、日記の一部やパンソリによると、実力のない無責任な市中の医者が多くいたことも確認できた。しかし、なぜ彼らは嘲笑の対象として文学化されなかったのだろうかという疑問が、本研究をはじめた動機であった。
考察の結果、その理由としてまず挙げられるのは、十七~十九世紀の日韓両国における公権力の官医の管理や養成方法の相違である。つまり、朝鮮王朝の方が官医の管理や養成に積極的で、それが標準化された医学の学問重視へと繋がり、さらに医者を学問を生業とする文士と類似した階層とみなす雰囲気を作り、容易く知識人層の一類型である医者を嘲笑の対象とできなかったのである。
また、朝鮮王朝期の文学を生産、享受した階層のほとんどが科挙試験を受けたか、受ける準備をしていた男性知識人層であったことも、藪医者が描かれなかった理由として挙げられるだろう。厳格な儒教社会に属し文学の生産と消費を担っていた両班達は、その多くが己のように科挙試験によって中央に進出する医者達を笑いの対象とするような想像力に欠けていたのである。この傍証として、一般大衆の文芸であったパンソリにおいては藪医者、またはそれに類似する無責任な医者像が確認されたことが挙げられる。つまり、両班階層の外で享受される文学の域では、藪医者は描かれつつあったのである。ただし、紙幅の都合上、本研究はパンソリの隆盛した十九世紀以降の朝鮮王朝文学の全てに目を通したわけではなく、以降藪医者を描く朝鮮王朝期の作品が現れてくるのかは今後の課題としたい。
注1
神保五彌『日本古典文学全集
三十七 仮名草子集・浮世草子集』小学館、一九七一、
二五〇頁。2吉丸雄哉「近世文芸と医学に関する総合的研究」科学研究費補助金研究成果報告書、二〇一八、一~三十三頁。3武藤禎夫編『噺本大系』東京堂出版、一九七九、九十六頁。「医師 ある医者、神農に向ひ、『また一人、殺しました。おかげで解死人にもなりませぬ』といへば、神農『久しいものだ。ことしも大方、三、四百人も殺したろふ』『いいへ、たった百人』」。4篠原進校訂『叢書江戸文庫 八 八文字屋集』国書刊行会、一九八八、
九十五~九十七頁。「是は此比のはやり煩にて、心中伝尸病といへり。我かんがへて薬を越べし」(中略)出所もしれず尋手もなき心中死の、土にうまりし死骸を尋出し、男女の頭の
骨を取て黒焼とし、くだんの病人に用れば、彼ぼんなふ摩のけんぞく、あかね半七さんかつが亡魂、薬力に足をとめかね此家をにげされば、おやぢ夢のさめたるごとく正気になりて、悦ぶ事大からず。扨、しるし有し薬の名をとへば、(中略)次第によい身と成て、松や町に玄関がまへの家をもとめ、今は乗物にのりはしらかして、心中医者とて難波に名を高くさかへぬ。」。5原文は国史編纂委員会『朝鮮王朝實錄』のサイト[http://sillok.history.go.kr]による。以下、『朝鮮王朝實錄』の引用はこのサイトによる。6呂寅碩(ヨ・インソク、여인석)、李賢淑(イ・ヒョンスク、이현숙)、金聖洙(キム・ソンス、김성수)辛圭煥(シン・キュファン、신규
환)、金穎穂(キム・ヨンス、김영수)『韓國醫學史(한국
의학사
)』역사공간、二〇〇八、九十頁。7司憲府は官員の紀綱を観察する司法機関として国王にも諫言することもあった。8
「正祖實錄」四十一巻、
(一七九四年十一月十六日)「朔寧前郡守康命吉火田濫稅」。9前掲書『韓国醫學史(한국
의학사
)』、一六一頁。
10申東源(シン・ドンウォン、신동원)『朝鮮醫藥生活史(조선
의약생활사
)』、들녘、二〇一四、一四一~一四五頁。
11新村拓『日本医療史』吉川弘文館、二〇〇六、一〇三~一〇八頁。
12同前、一一六~一一八頁。
13同前、八十二~八十五頁。
14海原亮『江戸時代の医師修業
: 学問・学統・遊学』歴史文化ライブラリー、二〇一四、
四~五頁。
15前掲書『韓国醫學史(한국
의학사
)』、一一三~一一四頁。
16巷の噂や話を面白おかしく作った随筆文学の一種であるが、比較的短編のものが集大成されたものが多い。
17陳在敎(ジン・ゼギョ、진재교)「耳溪洪良浩の医員伝に表れた人物形象(이계
홍양호의
의원전에
나타난
인물 형상
)」『민족문
학사연구(民族文學史研究)』二十一巻、民族文學史學會
」。殊に多数の医員を描いた『異鄕見聞錄』は代表的な事例である。 六相勸者の「)一五七一~六九綸一胄(德李期後朝王鮮朝尙醫傳れる。きで認確数」もに外以多このえ、にも医員人物伝は見 のでもその例)ある。(中略した録成せ朝事、たし記特さ王立独を」傳収景鮮朝と「白を話逸の麟貴て初に』話叢齋慵期『薛 • 民」 〇文學史硏究所、二〇〇二、一三~傳一五八頁。「『高麗史』にて「李商老族 18崔雄(チェ・ウン、최웅)『註解靑邱野談一(주해청구야담1)』國學資料院、二〇〇五、一三一~一三三頁。以下、翻訳、
及び要約は引用者による。
19同前、一四六~一四八頁。
20에関する研究(『흠영』수譚록된의료소재야담에관に野金)「何羅(キム・ハラ、김하라欽材英に収録された医療素한
연구)」『한문학논집
(漢文學論集)
』四十五巻、近域漢文學會、二〇一六、九~三十五頁。
六十七~六十九頁。二〇一五、 21著・2英選集(일기를쓰다흠柱영선집)』돌베게、 晩欽二金・何羅編訳(유만주지음김く하라편역)『日記を兪書 二九三頁。二〇一五、 22著・1英選集(일기를쓰다흠柱영선집)』돌베게、 晩欽一金・何羅編訳(유만주지음김く하라편역)『日記を兪書
23同前、二九三頁。
24同前。
25同前、二九六頁。
演洙唱本〈水宮歌〉辞説を対象に―(판소리 26安相佑(アン・サンウ、안상우)「パンソリ〈水宮歌〉醫學記事に内包された歴史性と朝鮮王朝後期民衆の医学知識の普及―金
〈수궁가〉醫學記事에내포된역사성과조선후기민중의학지식의보급―김
연수
창본
수궁가의
사설을
대상으로
―)」『湖南文化研究(호남문화연구)』四十七、湖南學研究院、二〇一〇、一五三頁。「龜兎説話は十七~十八世紀半ば〈水宮歌〉に発展しつつ、朝鮮王朝前期の古代から受け継がれてきた道家的雰囲気、道術と養生を兼ね合わせて考えていた既存の意識から一歩を出て、道徳と忠孝を重視する儒教的基礎の上に現実的で合理的な主題を有する文学として発展されたという点から朝鮮王朝後期の韓国医学の発展と軌を共にする。(中略)朝鮮王朝後期韓国医学を集大成した『東醫寶鑑』が『黃帝內經』と『鄕藥集成方』や『醫方類聚』、『醫林撮要』など既存の多様な醫經と醫方書를を総合しつつも、道家的呪術や迷信の内容を分離し、疾病の分類方法が科学的で臨床的内容で再整備されている点と類似する軌道を有する。」
一〇二~一〇五頁。二〇〇五、 27英리リ辞説集十二(판소사ン설집十二)』民俗院、美ソパ外영編(ジャン・ミヨン、장미외〉『편)〈金演洙唱水宮張歌
28同前、三一頁。
29同前、二二〇頁。
30前掲、安相佑、一二七~一五八頁。
31歌()訳『ビョンガンセ변창강쇠가)』지식을만드진김申효在孝(シン・ゼヒョ、신재)、ン、金昌辰(キム・チャンジ는
지식、二〇〇九、七十五~七十九頁。
<ABSTRACT>
A study on the reason why the quack was not described in literature written in the Joseon era
K
OHYoungran
This study focused on the reason why the quack was not described in the literature written in the Joseon era. The fact there barely was the quack in the literature written in the Joseon era was compared to the Japanese literature written in the Edo era, because the quack as the derisive characters were often described in the Japanese.
Joseon dynasty educated doctors through Kwago test to supervise doctors as Yangban bureaucracy, thus the same class people who were the writers of literature wouldn't mock nor caricature in their works. This is the reason why the quack didn't appear in the literarue written in the Joseon era.