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τ 単作地帯農業経営における

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(1)

国 間

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︿ 上

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JC 

農業における自給自足的生産から商品生産えの︑乃至封建経済社会から資

本主義経済社会えの変迭についての図式的展開は︑種々の立場から夫々一吋な

り詳細に究明されているものの如くである︒が︑とれと相γ

いて理解さるべき例ヶの︑換言すれぽ場所及び時間に規制されて成立するそ

れの倒性的究明l即ち一定の地域及び時代の経営現後について全体との意

味連関に沿いて研究O

17

が認められるととろの︑従って北H坦性と特殊性と

を止揚した個性において存在の現山川が共休的に見出される類別的例性の究明

ーーは前米側拐の分野が相当に残きれていると考えられる︒

一の発反はそれに同有な運ι

動から強く影響ぜられ且つこれに泊山すべく強制されるが︑庶民業経営の発展一

の分析は農業を経済社会から切り相して︑乃五はこれを前提として︑それに

同有な独自の婆怒と法則を把︑えようとずる﹁農水︑ド一義︶的︑技術論的土場か

らではなくて︑とれを社会的生産の全機悼の中に沿いて考え︑農業経営を資

本主義の発民の問題として県桜すべきことはお品川の通りである︒封建論下を

中心として﹁講座派﹂及びそれの批判として民閲された﹁労農派一によって

つとに会機構的な把撮は試λられたのであった︒しかし農業における生産関

係を基底として日本資本主義の特殊な羽一を設定し︑我が国農業は﹁封建的目

半封建的﹂規定︒中におしとめられて︑農業問題の説明を﹁経済外的﹂なものの説明に終らせ℃了ったり︑或いは又この倒錯した理論構成D批判として

現われた後者

DL 札場に・おいても︑資本主義の農業に及ぼず関係を単に一般論

的分析︑或いは公式的抽象的究明に止まるにすぎないのであ?て︑換言すれ

ばその零細農制の下に於ける生産力と生産一係とから相一五に規定しながら変

則的に展開してきた金過程の集約的表現として二つの対昧的類担即ち東北型

と西南︵又は近畿︶型について規定と分析を行う麗度であって︑具体的事実

に碁十いた具体的論設にまで高まったものではなかった口この故にこそ彼ら

には向多くの理論的不備乃至理論内容における間践を残していたと論難され

てきたのも故なしとしないのである︒

農業における商品生産の発展は︑商業的農業白成長︑農民層の分解︑農業

の地域的分化並びに綜合等を結果するが︑之と相互に連関しながら

J1

本主義

の発展に作い農家経済の労働力は賃労働者としてそこに吸牧されていくので

あったが︑我が国では農業生産の資本主義化を進めつつ一誌に家扶的小農剖

を解体し去らないで︑単にそこにあるす働力を牧様化して兼業化︑例えば山−続ぎ或いは工場労働者化したのであった?それは労働力・配分機内仰を通じて進

m m

められるが︑モの進度や緩急の軌跡と︑それが農業に対し在起せしめる夫れ−

相応の惜成的変化がそこに於τ顕著に掛かれる︒かくてここに本稿に問題と

して取上げる農業における兼業成立の基盤という様な商品経済的凶子の分析

は ︑ 間 一

r業生産の労働力配分の関係において注意される︒殊に米の単作経営が

卓越する地域において︑米作による労働力需要の繁陶性が著しく︑従って米

作牧入︒季節性が判然たる場合︑商品生産の発展が農業生産︑関係をその中に

織りこんで商品流通閣にまきとみつつ展開すると︑とれの地方的流通経済か

らその母胎を剥奪するという過程をとって︑新しい経済関係の諮問閣を要請

して来︑自然を包撰した概念としての技術とか労働集約度や︑身分関係︑家族形態︑土地の配分関係や年夏守に就ての抵艇が農業生産と共に兼業の体系に

現われるであろう︒

シカゴ大学のシ品ルツ教授がこの様た兼業の成立に就℃述ぺる様に︑

(2)

格は経済において一種の栓の役目を果すが故に農業における非農業部耐えの

分離運動は農産物価格と所得が低下ずるにつれて︑上昇すると期待されるの

である︒かかる農業部門からの労働刀の分離或いは帰農の運動は︑生産物の

相対的価格における変動に適応する際に人々の取った行為については︑我e

の経済的合理性と必−ずしも一致したかっ・た場合がある︒即ち農産物の騰貴す

る時にも農業を掠れ︑叉pての下落する際に一も帰農するととがあるけれども︑

これは何故であろうか﹂むと設問し︑とれに答えて労働力の配分関係を問題

にしている︒一氏うまでも−なく農業は過剰労働力の責荷を負ってきた口火︑奈d

雪のために︑農業生産︑従って一表作ーを悶難乃至不活漉ならしめるように方向

やける北陸の気候条件ドの官山平野では︑農民は農業再生渓の議礎を︑との

様な兼業から求めてきた十九つは柿一めて容易な発展手段であったと考えられる臼

査ら積雪期の冬眠的な畏同期には︑或る時期の必要労働力とされるものでわ

っても︑それは過剰労働力となる︒との所要労働4

に農家経済の総労悶笠の配分に作用し︑とこにおいて全体的芯均向のた均一心

調和野点が要請せられる︒兼業乃玉副業がこれでぬり︑との意味である限り︑

それは農業労働に補充的な別館ο

L︑農家経済におけ

とれに見出される︒

例えば土問英夫氏はつ積雪地方におりる冬季開開業は︑冬季の積雪に魅必せられる余

F

M係を前提として乃至その変遷の問題として考えられる︒併働力としての人間自体の問

1

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︵のう︸

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・とれと共に富山平野は昭和の初め頃から電力を主要立地因子として成立せ

ω大規ハ仇工場の一集積する新興工業地帯の性格を急速に帯びてきた

Q

平野東方A

の立山述峯及び南方の飛騨高原から流れ出る河川は︑いずれも曲一べ宮な水管一と

落差によって私大な発電能力を与え︑加うるに低廉な地価︑更には畏家から一

の由官官同な労働力に訪引されて︑定山︑高問河市

JV

﹂二つの中心にしてその他の的

集落に衛星的に工場の立地が混同している心地域の工業化過程の一国子としみ一

ての労間一力の約加については何よりも︑平野のか一領域から通勤しうる交通機

関の発達に支えら孔た供給基盤たる農業乃至農家経済の労働力︑話って叉そ

γ間保が明らかにされねばならない︒家挟的農業経営の間における相互

的補充冒としての賃労働や本来的意味における賃労働関係の発達はほにあった

が︑大工場制工業の立地において︑農家経済は自家労働力の一部或いは農家

経済自体が劃期的な規模を沿って賃労働者骨一帯的転化を一示しながら賃労働化

されるG大工業は農村に侵入して農業及びその社会的生産関保を抗日︑本主義一的

に変革し︑農業におけるその生産様式投開の原動力を為しながら︑農民層の

分解を促進し︑賃労働者階級を自らのために創出していく︒一定程度の本源

的蓄請の進行と生産力のr新しい体現様式の担当者の少くとも匹芽的存在さえ

前提すれば︑縄本主義的工業の発展は設行的に曲摂村の八刀解を後から遂行する

︒斯る賃労働化は家族的経営をそのままにおいて展開しつLその労働力を賃

労働関係に編入していって︑との故に賃労働者にその中に自らと農家経済と

(3)

の社会的関係を維持せしめながら︑従って農業生産関係と新たな賃労働関係

との連結する賃労働者の生成していく過程として進められる︒それが平野の

農村地域においては賃労働者世帯に分化独立し去らないで農家経済の枠内で

分解しつLあるととろに成土ずる兼業が叉相当広汎なものと推測される︒農

村では農家世帯数が工業化に対応して相対的に減少を示さない限りにおいて

兼業は拡大︑深化する筈であるからである︒

兼業は如何なる経営階層の農家から問問︑ずるか︒出続ぎ或いは賃労働を成

立せしめる基盤としての経営階層自体についての労働力関係を単作農業経営

において我々はい考察するのであるが︑かくて米作労働の生産性の上に現われ

ている地域性と階層性とを統一的に把握し乍ら︑そとに米作との関連におい

て成立する兼業の芸慌を問らかにぜんとするものである︒地坊位と仕既述の

如く自然の単なる地U判的相違ではなくその特質を照史化し︑開化せる社会の

将一夜構造の発展段階によって去現される地域的特性であり︑階層性とはとの

γら発艮する経営方式の階層的大亦を意味する︒

との地域の社会れれ済的特段位を︑我が国内従業︑更には日本資本主義の発展傾

向を関連せしめながら究明することが農薬経営の情造的性格を浮かび土がら

せるために要請せられると共にこれによってそれの限界︑或いは安本並びに

経営の一般的性格が窺われると考えられるQ

兼業に対しとの様な意義と役割を認めることは地域の経済構造発民の分析

上︑不可欠な方法的条件で一子りう︒右の禄な視角から農家経辞における労働

力配分の構造において兼業の成立基盤を境問せんとするのである一U兼業は様

r石の如き一挙自のために︑との地域の経済的発肢を

規制し︑性格ずける契機として二者が選ばれたのでめる白地域経済のそれぞ

れの照史的発段段階において農業経営並びに所要労働の目立的質的配分関係は

相違する筈であり︑我々にはその照史的変遅過程合明確にしようとする意図

をもつものであるが︑本稿では取りあえやその一環として主として︑現在の

情勢の一断面をかとゐ問題意識をもちつL把握せんとするのである︒併とれ

ば︑ととでは統計その他の文献的資料による素材的状態において迫験するに

前十作地帯農業経営における粂業の成立過程 止まるoとれが科学的命題にまで錬成された時には︑実詩的材料ともなり3

るであらうが︑統計数字の多いのは夫々の命題を実詮しうる資料の余りにも

乏しく且つ叉資料の間の間関の一余りにも大きかったために外ならないととを

了承願いたい︒

1

︶大内力︑臼水資本主義の農業問題土頁

2

﹀渡辺信一・日本農村人羽論四三五頁

3

﹀戸谷敏之・近世農業経常史論一五頁

4

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︒ 開 ︒

235F3f

3

5︶石橋五郎︑労力の地約分布﹁国民経済雑4山﹂第六巻︑第四号

6︶土田英夫e上越地方のも円︑さ悦司法業l積雪地方に於ける家内工業判明遠の一階程

会京大地理論誌︑第七斡︑一九九頁︶

?←利回俊一了努働の経済地理学︑一二七頁

8︶折務・地現学における焼理について﹁露大路済論集﹂第二念︑第一一一っす

第ニ節富山平野における農業経営競模京︑ひ農産物

営山平野はその束︑問︑及び南ば山獄︑丘陵に︑叉北は海によって極めて

判然とした境界をもって取り固まれていて顕著な一つの地理的単元を成して

いる口東方の立山連時及び南方の飛騨高原から流︑れ問る河川はいずれ

Jb

中流

を欠いていて平野に出ると盛んな堆積作用を営み︑立派な一扇状地︑複合一雨状

地を展開しながら富山湾に向って夫土問一角に流れ込んでいる︒広く聞けた一扇

状地及びその末端の海岸の侭地はとの水系に沿って又とれを利用する港設用

水が網の自の様に数多く引かれていて︑平野の全地坊に恒って水田耕作に迫

せしめ︑米の単作地帯を形成しながら越中米の名で知られる早場米の琵地を

9

しかもこの平野は既述の如く︑富山完敗目行商人の広く一般的に分布してい

る木拠でありその八万布地域は平野の中央部に位置する富山市を中核として

いるが︑叉とLを中心として半終一五粁の円形の軌跡の面積に略一致するG

とれば恰も砺波の南部を除いた富山平野の大部分の地坊を占めるのであって

行商人の分布地域は宮山平野の会領域と恰も巧みに買属して発展してきてい

‑ 81‑

(4)

富山大学紀嬰経済学科論集

λは農業再

Jm

昭和二十五年には九反六前となって九わり︑会一平均に比べて夫々0

業経営は従事︑の通では︑二モ作線を限界として︑F K

F産関係から立に一刺戟しながら日比絹してしまた会過担の集約的交現と

r E

日本型とえう発展形態上の対抗関係のM

大難把な規定によって地域医分されている︒成る起﹁わが国曲授業構造の発展

段酵をその総体性において滋定すると共にその内阿的連繋を最も進歩的部

分段階︑と最もが一滞的部分的段階にごて把捉する場合これは不可欠な鍵であ

閉するm 自然環境を対象 場合にも役立つであらうが

L e E

て地域

経済をそれとの関係におい

て﹁隈史的自然﹂の現解態

度から把挺する我々の見解

は自然条件によって特定の

経済構造乃至少産関係が与

えられ︑生産力︑生産技術

の発展に伴ってF円然的契機

の窓味が︑相対的に小さく

なるとはしない︑又との発

問山形態の指擦に寸分な具体

的分析が必要であると怠

ぅ︒より具体的には尾羽田川一

教授によって農業地域を広田

分しじこの二毛作続より北一

側の地E斜井︑石川︑富山︑新潟︑福島以北におげる経常一様式から類型

︹ −

・ずけられる﹁東北北際水稲川恥作﹂地域に於ても︑前十分吟味︑一ヲべき諸点が

わる慌でゐる口Af第一し衣によれば︑宮城︑秋田︑福島など東北農家の経営面

t桜をなすべき京都︑大阪︑滋賀の一三燥の約二倍︑その内

訳とLての畑地に五つては更に広大で二・五倍にも逮している︒︑かL方の対献前一極端を注目ずるならば︑とれに対して北町の特に富山ば明治︑大

疋︑昭和合通じての碩向としてこの両極性的地域たる両者のいやれの因子を

も一面的に合むと共に術又両半明から区別される中間的︑折哀的契機を内包し

ながら︑全国平均に接近じている︒即ち総面積は両者の平均的大いさであっ

て︑その構成内容として町に就いては篠山は東北諸娠に比授して︑二股によ

り狭いのであるが︑福烏の如く却って小さいものもある︒しかし一内日本に較

ペては富山は相当に大であり︑東北は更に二倍以上にも達する︒畑は富山は

明治1年笠妻女−;j当 り 経 営面積I

1

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J17uター統計普及び第五[r1JJ1 ;Js:帝国統計年鑑による

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.56  .33  1.9 L59 

0.62  0.57  0.78  0.'0lll

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第一角表

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京 都 府 大阪府 1

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iJ;問 問

滋賀県

(5)

西日本と似て極めて少く︑東北地区はその数倍にも及んでいる︒斯くてこの

地域は両極性的地域の漸移的中間地帯として位置ヤげられる︒しかも寄山県

は経営面積に関する限りは全国のそれの平均値に少し上まわる程度に近接し

ているととは稲作が農業生産の主軸をなし︑叉米が国民食糧の中核をなす我

が国の農業問題の中でその数多くの論題

11

例えば水稲単作地域の不安定性

の潜在或いはそD商品生産化の問題なEll究明の好対象の一つとなるに値

すると考えられる︒更に又経営面積の絶対量においてと共に︑とれを有機的

に構成する田地と畑地の組合せ方において経営面積が問題にせられ︑これによって富山県農業の煮味ずけが明らかにされる︒即ち水田化率が著しく高く

あって﹁との様な水田比率の高い水稲単作地域は大陸に沿いても対比すべき

地域がないのであって﹂日本の米作技術の功績を示すものである臼回明積において明治十七年には全国平均の一・六倍︑昭和二十五年一・九倍であって

他県に対して圧倒的に大きく従って水町北一率は朗治十七年八七・六︑昭和二

六年九二・一二%に迭し全国第一位を占めている︒とのことは同時に逆に畑面

積は明治十七年会問平均の三一%︑昭和二五年二二Mという兵合に極端に小

さくおしとめ︑畑地化率は犬々一二・三%と七・七

dJ

にすぎない状態であっ

てハ第二表参照︶北障の各県が栢当に少い中にも最も著しく低いことが目立

っているのであって︑λせ国の経営形態の中にも特異な地域的様相を呈してい

この棟なとの地方の一個性は明治以前から成立していたものと考えられるが る ︒

その閣の耕地商積及びそ白水田化率と農家一一戸当りの耕地問積の消長の跡を

今明治末から昭和にかけて一瞥してみると第二去の如くである︒

間関治末期は自作農の規模拡大︑土地集中の傾向がみられたが大阪年却を通じて農家の性格が求業化似向を辿ったo第一次大絞殺氷価の時賞以池︑主に有利となりその所有地を集中増大せしbkQしかしその後の世界的恐慌︑農産物の下落従ってM

品価絡との問の銚欺価総長の問削減等によづて︑土地所有の細分化︵五反未満︑五反

o父昭和問︑五年の農業恐慌によって農家の政支均衡が破綻し︑自作及び自小作が減山ザし小作農が増加し︑

叉大規模経営の増加により土地所有の集中週間れがみられoたこの問会斜地開設の中︑

回中作地帯農業経営における粂業の成立過程 家当積

農一耕 富 山 県 耕 地 商 積 の 変 遷

71'B ' |化率正

一 一 一 一 一 一 『

第 二 表

畑 地C

イヒ率瓦

*回

耕地

面 積

反 ︒

ι12 .3  87.6 

J

10.731  75.963 

86.703  明治17

8.7  15.0 

4.9 13.248 

74 .. 608  87 .856 

明治20

10.5  19 .o 

QJ  

VO

17 .894  76.001 

93.89S  明治30竿

11.5  17.7 

82.3  95.737  78.877  16.860 

100メトス 100タムトス 100%トス 明 治40

11.7  16.1 

83.9 

dnyoo 

101  99 

犬 正5

12.2  15.1 

P.4 .9  103 

99  昭和元年

11.9  10 .4 

89.5  57 

103  昭和10 95 

11.5  9.3  6.043 

72.833  78.876 

問 実 数

各年度の富山県統計書より作成

一 線 一

8.5  .7 

水田商務の割合には大差がなく一時的に却って櫓加した︒総体としての耕地面積及

び農家は明治末から漸減の傾向けを続けており︑特に昭和に入ってから著しいo昭和初

期の段紫組合運動を主体として農業経営の様式が検討せられ︑次節に逮べる如く農

作物の殺培に反省が加えられると共に続いて他方︑電力資源に恵まれて富山卒野に

は新興工業地獄としてこれを立地図子とする大工場が念速に建設拡大せられたo

面積の急激な減沙傾向は恰もこの時期と一致し︑総体の減少傾向の中において筒面

積ゆ比率の恒常性を占める部分だけそれだけ畑地が減じている︒畑地化率七・七%

・八%︶を合めての数字であり︑令国平均悶五六・五%︑畑コ一七・九%繍0

91.5  92.3  43 

36  101 

92  90 

82  昭和20

昭和26

(6)

富山大学紀要経済学科論集

間同地五・六九%の耕地構成叫ん率に対し℃富山県の間関積のいかに顕努であるかが知

られるoかくて明治以来専ら水稲商品生産の水岡地情主して性精ずけられてきた︒

富山県における経営耕地面積別 農 家 数 百 分 比 の 増 減 第 三 表

5

2

一 刀 一和司一

口 円

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一 日

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1 6

0.51.0' 

LO2.0'  . .   0以 上

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100  100 

100  農 家 実 数 !

〔単位:)

(千)!

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100  100 

6176 

右の如き経営商積の上に水田化率の全国に卓越する特質をもFJ

業について︑次に農家︒側︑から経営面積の規模をみるならば︑総体としては

明治中期から昭和の初めへの滞増を除いて零細経営化の積向を示している︒

第三表の経営階層別では農業一戸数の五一乃五五九μが一町歩未満の農家であるから全国平均のそれの七二%に比較して数少い訳である口そして健突な農

業経営が期待される一町乃五二町の経営農民層はこの少い部分だけ︑より多

40  32 

22  25 

'1.2 

38 

24 

30 

39 

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27 

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29  39 

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和年昭 一

25 

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32  27 

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11  明 治 羽生手

37 

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富山県農5事会「農察;亡関する統言tJ昭和22年。同農業組合

連合会「農村経済貿態調査資料」昭和26年。凶守孝之助「

富山県の農業経聖子」 (地理学評論第四谷第6'長〉等により

8'1  79  78  75 

83  80 

」 崎ノ、

く占めるのであり︑五反未満の経営は瀬一慨しつL

漸増しているのであって戦前に於てはこの中農探検化に集中しつつあった︒

戦後は五校以ドの農家の一漸増と二町歩以上の階層が漸減しつつあり多少の

歪はあるが一定傾出は併も十分に継続している︒全国的傾向としては昭和二十二年起の東日本江小作型︑両日本U自作型︵静態的﹁自小作別の比率﹂に

も動態的﹁発展傾向﹂にも﹀が農地改革白実描により︑その逆転化傾向が進

み︑他域的経営規模別農家構成の変動︿戦後の全般的落層転落化傾向は各県

とも同恰︶日東日本に対ずる西日本の相対的な零細構成という地域的相違は0.両日本は東日本に対して明らかに正昇領向がより

犬きくなっている︒しかし上昇恒向といってもその主体は五反歩以下の零細

寧ろ促進されたのであるQかかる八千一体的傾向の上で北陸の富山における経営階層では一町乃至二町隔は全国平均二二戸に対して三八%であって苓しく大

きく︑むしろ秋田︑山形のそれに類似しており︑又五反未満は全国平均の四

O μ

に対し却って二五%と相当に低くなっ℃おり︑経営階層別農家数︒比重は問治時代の五反未満の一零細粍営から大Eを粍て昭和に入り一町乃五二町︒中農層へと攻心ーの転位を示しているのは堅実友経営規模へD発展の象徴である様に見える︒

口︑農産物

経営面積の構成はその作物の柿付一態或いは土地利用状沢を理解すること

によって更に経営内容の個性が具体化される︒水稲単作経営を支柱とする本

県の農業経営においては緑肥生産が著しく進んでいて︵第四表参照︶

支類︑ヱ芸作物︑飼料作物は全国平均より遥かに低く︑換言すれは有蓄及び農産加工部門D未発速なる農作物体系がここに示されている︒

尤も明治の中頃まではどの趨勢の中にあって畑地はむしろ櫓加しつつあり︑明治大

正時代︑畑地面積は尚一万数千町歩存在し畑作物の栽培は現在を上まわっていたが

甥治一一一十年代から減少を間開始した︒どれには一一つの契機が考えられる︒一つは経済

的耀曲︑他は法的理由である︒前者は棄本主義経済の農村への帯出向と影響であり︑

‑ 34,戸

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