1994年出上の木簡
し ら や ま
岩 手 ・志 羅 山 遺 跡
1 所 在 地 岩 手県 西磐 井 郡平 泉 平町 泉字 志羅 山 2 調査 期間 第 二人 次 調査 一九 九 三年
︵平 5︶ 一一 月 3 発掘 機 関 平泉 町教 育委 員会 4 調査 担当 者 菅 原計 二 5 遺 跡 の種 類 集落 跡 6 遺 跡 の年 代 一一 一世 紀 7 遺 跡及 び 簡木 出 土遺 構 の概 要 志羅 山遺 跡は 平泉 町 の中 心市 街 地 の南 側 に位 置 し︑ J R東 北本 線 平 泉 駅 の 西 側 三
〇
〇 m の 付 近 を 中 心 と し て︑ 東 西 五 O O m
・ 南 北 五O O mの 広 がり を も つ遺 跡 であ る︒ 遺 跡地 内 に 平は 泉 役町 場 や郵 便局 銀︑ 行 農︑ 協 など の公 共 的施 設 が集 中 し て いる 当︒ 遺 跡 は 西 特に 別史 跡毛 越寺 跡
・観
齢 自在 王院 跡と 倉町 遺跡 東︑
・ 泉に 屋遺 跡
︑ 北 花に 立
Ⅱ遺 跡︑ 鈴 沢 の池 跡 と接 し て い
る︒ 南 は北 川上 の支 流 であ る太 川田 が東 流し て いる 付︒ 近 の標 高 は 三二
︱ 三三 mほ ど であ る︒ 平泉 町 の中 心市 街 地周 辺は 一 一世 紀末 か ら 一二 世 紀後 半 にか け ての 約九
〇年 間︑ 奥 州 藤原 氏が 四代 わに りた 本拠 地と たし 地 域 あで る︒ 志 羅山 遺 跡 柳は 之 御所 跡 に次 ぐ 調査 次 数 を 重 ね︑ 一世 紀 の建 物 跡 遺や 物 密が 集 す る地 域 であ る こと が確 認 さ れ て るい が︑ 近 年 の調 査 では 一三
︱ 一四 世 紀 頃 と考 え ら れ る遺 構
︒遺 物 の検 出 例も 増加 し て いる
︒ 一九 九 三年 度 に実 施 し た第 二 人次 調 査 は 住︑ 宅 建築 に伴 う 約 五 一ポ の小 規模 な 面積 を 対象 と たし も ので あ る︒ こ の調 査 区か ら 今 回 報 告す る 二点 の木 簡 が出 土し た井 戸 一基 を 検出 たし ほ か︑ 一世紀 の溝 や土 抗
・柱 穴な がど 検 出 され た︒ 一百 いの木 簡 は︑ とも に遺 構確 認面 から 四〇
︱ 一〇
〇 釦下 層の 位 であ る︑ 層三 から 出上 たし 井︒ 戸 から 木 簡と 共 伴 し て出 土 し た遺 物と し ては
︑ か わら け
︵手握 ね成 形 と クロ ロ成 形あ り︶︑
渥美 産 陶器 片一
︑ 中 国産 青白 磁 片一 箸︑ 四本 以 上︑ 瓦 三片 など あが る︒ この 井 戸は 為人 的 埋に め戻 さ れ て いた
︒ 8 木 簡 の釈 文
︒内 容 ω
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今日物忌急々如律□
︵篤 e
× 合
︶× 卜釦 o盟
0 長は 方 形 の薄 い板 材 表で には
︑ らひ がな で いろ 歌は 書が かれ て いる
︒ 板 はに 五
・七 伽の 間隔 もを てっ 直 径 四 mmの
穴 が 二個
︑ 上下 ほ ぼ 対称 的 あに け られ て るい
︒
② は 下上 端と 両側 面を 欠く 文︒ 字 の内 容 から 物 忌札 と 判断 でき る︒ 裏 面 には
﹁急 々如 律 令﹂ の文 字が 書か れ て いた も との 推 定 され る︒ 簡木
⑪け 出が 土 たし 井 戸は 共︑ 伴 し 遺た 物か ら 一二 世紀 半後 廃に 棄 され た遺 構 と考 え られ る︒ 9 関係 文献 平 泉 町教 育 委 員会
﹃平 泉 遺跡 群 発掘 調査 報 告書
﹄第
〇四 集
︵一 九 九四 年︶
︵菅原 三計
︶
艤 日 旧 日 川 旧 日 闊 園 因 爛 口 矧 瑚 U
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