株 式 会 社 財 団 説 を め ぐ
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わが商法第五二条第一項は︑会社を定義して︑﹁商行為ヲ為スヲ業トスル目的ヲ以テ設立シタル社団﹂とし︑同条
第二項のいわゆる民事会社の定義の中にも︑﹁営利ヲ目的トスル社団﹂という表現が用いられているので︑株式会社
が﹁社団﹂であることは︑法文の上でも︑学説的にも何の疑問もないように見える︒
事実︑第二次大戦の終戦頃までは︑株式会社をもって社団法人とするのが︑わが国における定説であった︒ところ
が︑終戦の頃を境にして︑鈴木教授により株式会社組合説とも言うべき見解が主張され︑さらに喜多川教授によりず
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ラント︵巧正∞昆︶の学説を比較的忠実に受け入れた典型的な組合論が主張され︑一方︑大隅教授によって社団説l
に属しながら株式を持分視する見解が一示され︑他方︑株式会社の社団性を否定し︑これを財団法人とする大胆な学説
が︑八木教授や︑高田教授によって主張されるにいたった︒その問︑社団説に属しながら株式債権説を採る松田博士
さらに株式債権説を採りながら︑株式会社を社団でもなく︑財団でもないところの第三種の法人だと主張する服部教
授の見解すら生ずるに及んで株式会社の本質論議は︑新たなる観点から再検討されねばならなくなった︒これらはも
ちろん学界では︑すでに衆知のところである︒
株式
会社
財団
説を
め々
って
︵中
村︶
富大経済論集
結論を先に述べれば︑私は株式会社の本質論議に関しては︑高田教授の株式会社財団説と同一基盤にたつ者である︒
ただ︑私は私なりに主として次の観点から︑財団説を主張してみたいと思う︒ω私が︵私だけではなく二般にそうと思うが︶考察の対象とする株式会社は大企業である︒これが商法が想定し
た株式会社の理念型︵
E2
q吉田︶と考えるからである︒この大企業においては︑株主による資本的支配は後退し︑経
営者による制度的支配︵吉田
tz to E8 E3 3
が行われ︑経営者は株主だけではなく︑債権者︑従業員等に対する受託者
たるべきであるという経営者における経営者支配論的認識に立って︑株式会社を考察したいと日頃から考えている︒
本稿においても︑この観点から論を進める︒
(2)
昭和三十七年の商法改正で︑株式会社の計算に関する部分に︑会計学における考え方が大幅に導入されたのは
衆知のところである︒一言うまでもなく︑企業会計は企業の財政事象
25 RE 28
Z︶を認識記録し︑集合し︑整理し︑
報告しかっ解釈する職能をもつが︑会計を行う主体の性格如何によって︑企業に生起する事象に対する観点あるいは
認識態度が変ってくる︒会計学における基礎的理論として︑所有主理論︵
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︶と
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企業体理論︵
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ての企業体と考える見解などが存在することは︑株式会社の本質が組合か︑社団か︑財団かと論議するわが商法の学
説と相類似して興味が深い︒経済学や経営学︑さらに会計学は商法と密接な関係があるのであって︑法律が尊大な形
式主義に陥ることのないようにするためには︑自ら豊鏡性の獲得につとめ︑また他の学問とも相互に侵透性をもつよ
う努力すべきである︒本稿では︑会計学の理論と商法の理論を比較しながら︑制度的企業体説によって︑財団説を裏
付けたいと思う︒
(3)
制度的企業体説のなかでも︑特殊なものに︑
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非人格的資金を中心として︑会計理論を樹立せんとするバァッタl教授の説からも影響をうけて︑財団説を採る者で
ある
ω八木教授﹁株式会社財団論﹂一頁以下︒ ωL大隅教授﹁いわゆる株主の共益権について会社法の諸問題八五頁以下︒ ω喜多川教授﹁社団法人性の再検討﹂法学協会雑誌七O巻三号︑七一巻一号四七頁以下︒ 注ω鈴木教授﹁共益権の本質﹂法学協会雑誌六二巻二一号一頁以下︒鈴木教授﹁会社の社団法人性﹂松本先生古稀記念論文集五七頁︒ ︒
伺高田教授﹁株式会社の財団佑﹂法と政治の研究五O
五頁
以下
︒
的問松田博士﹁株式会社法の理論﹂一一四頁以下︒同﹁会社の組合性と社団性L株式会社法研究一五一頁以下om服部教授﹁株式の本質と会社の能力﹂五五頁︒
同開拙著﹁株式会社支配の法的研究︵共著︶﹂二ニ頁以下︑同﹁経営者支配の法的研究﹂一三頁以下参照︒
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・ω阪本安一教授﹁近代会計と企業体理論﹂一頁以下︒黒沢清教授﹁会計理論の基礎構造L企業会計七巻一一号四六頁以下︒高
松和男助教授﹁企業体の概念と会計理論﹂企業会計七巻一一号五二頁以下︒佐藤孝一教授﹁企業主体説と企業実体説L企業会
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巻九
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黒沢教授前掲論文の他︑
山崎佳夫助教授﹁会計理論の基本構造﹂富山大学紀要経済学部論集一一一号一O
九頁
以下
参照
︒ 株 式 会 社 組 合 説 付
典型的組合説︵喜多川教授︶
株式会社財団説をめぐって︵中村︶
富大経済論集
四
典型的な株式会社組合説を主張される喜多川教授は︑会社をすべて組合的に構成し︑法人関係というものは︑終局
的にそれを構成する個人に還元されうるものであるとされる︒すなわち︑団体法における基本的問題を構成員の﹁持
分﹂
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たとえ団体を形成しても決して団体のうちに自己
を埋没するのではなく︑依然として﹃持分﹄的主体性を失わず︑団体的形成も個人の私益追求の手段にすぎないそう
いう個人間の社会関係としての資本制生産社会の法律関係は︑私益の対立を基調とする個人法的取引法的関係か︑私
益実現の手段として意識的に協力関係に入るということを基調とする組合的乃至社団法人関係か︑どちらか以外には
なく︑しかも個人法も組合法乃至社団法もひとしく主体的個人間の契約的結合であり︑
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質的に対立するとはいえな
この株式会社組合説に対応する会計学上の理論は︑所有主理論
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が比較的最近の学説であるのに対して所有主理論は一九世紀初頭にまでさかのぼることができる︒所有主理論は︑所
有主の見地から会計記録が行われ︑財務諸表が作成される︒ここに所有主とは︑株式会社では企業の共同所有者たる
株主である︒企業会計は所有主の純財産における増減の測定・分析を目的としている︒すなわち︑会計手続および会
計報告のすべては︑所有主に対し︑所有主のために行われ︑純財産および利潤の概念は個人的概念であって︑資産は
所有主の財産であり︑負債は彼の債務とされる︒
﹂の所有主理論には次のような批判がなされる︒
この理論は︑個人企業に最も適合し︑組合企業にも妥当す&︒
会社は企業単位を握利と義務をもった法人として認め︑株主の第三者に対する責任を有限とするという法的規整によ しかし現代の株式会社には不適当である︒株式
って︑個人企業や組合企業と異なるからである︒
市場における株式売買が行われるようになると︑特定の株主の投資は︑会社の帳簿に記録された投資とは全く
異なる︒株式の市場価格に影響するあらゆる要因が︑会社の帳簿に記録されないならば︑純財産の数値は株式の市価
と一致しない︒そこで︑会社の設立以後︑株式を取得した株主は︑所有者的意味において︑彼の利潤を測定する基準
をもたないのである︒
(2)・ (3)
企業の所有主の見地に立つときは︑企業会計の主目的は︑企業の所有主に最終的に帰属する財産在高の算定︑
あるいは正味財産の増加高としての企業利益の算定におかれるであろう︒この場合︑企業財産は時価を基準として記
録計上されるのが普通である︒しかし今日の企業会計は主として企業の経営活動の面にむけられ︑損益計算の立場に
たっているのである︒昭和三七年の改正商法は会計学における損益法を導入し︑資産評価につき従来の時価以下主義
を改め︑原価主義にしたのであるから︑現行商法の立場からも︑所有主理論は採用しがたい︒
所有主理論からは︑会計の報告はすべて所有主に対し︑所有主のために行われるが︑現代の株式会社はどうで
あろうか︒商法は取締役に貸借対照表の公告を命じている︵商二八三条二項︶︒しかし︑この計算書類の公示は︑株主に
(4)
対する関係でなされるに止まらず︑会社債権者その他の利害関係者に対してもなされるのである︒
こうして︑会計学においては︑現代の株式会社に適合しない所有主理論は陳腐化するに至っているのである︒右に
のベた所有主理論に対する批判は︑およそ株式会社組合説にもあてはまるであろう︒桧田博士は株式会社組合説と思
想的に相通ずる株式持分説︵大隅教授後述︶についてではあるが︑﹁われわれが嘗て封建制の社会を経過した事実に
立脚して︑たとえ現代にその残浮が存するにしても︑現代社会のすべてを封建制より説明しようと試みるのは︑アナ
クロニズムである︒これと同様︑現代の株式会社が嘗て組合的企業の時代を経過したことに立脚して︑現代の株式会
社を組合的原理をもって説明し去ろうとするのも︑時代錯誤である﹂と批判される︒
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喜多川教授前掲論文七一巻一号八
O頁︒なお︑喜多川教授はヴイlラント︵当主
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の学説を比較的忠実に受け入れ
ておられる︒ヴイlラントはドイツの各種の会社を比較し︑﹁すべての商事会社は︑それが契約に基づく点において組合であ
り︑その財産が構成員の共同財産たる点において合手的結合であり︑外部に対し一定の方向に向い︑法律上独立した権利主体
のごとく取扱わる点において︑法人である﹂と述べ︑︵当主ω同
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−・−印・︶いわゆる団体法理を非難し︑組合HωbE
的な人的会社と法人である物的会社との聞に︑貫き難い障壁を設けた責任をこれに帰せしめている︵巧ES
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ちO︶︒このほか︑ドイツで株式会社組合説をとる学者には︑株式会社をロ1
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︶として理解するトエlル
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他の工業的設備の所有権に対する持分についての証書であり︑株主はかかる設備の共有者である︒会社の社図的権成は単に外
部的なものであり︑内部における組合関係ないし共有関係を本質的に変更するものではない﹂として︑この立場にたつ
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四七頁︑服部教授﹁株式の本質と会社の能力﹂一頁参照0フランスにおいては︑株式会社を組合とする考えが強く︑英米にお
いても︑一般に契約的結合と解されている︒ω所有主理論の典型的なものとしては︑ヒュIグリl︑シェアl︑ハットフィールド︑コール︑スプレーク等をあげることが
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吋・阪本教授前掲書五一頁以下参照︒ω
黒沢教授前掲論文四八頁︒
凶 山 崎 助 教 授 前 掲 論 文 一 一 一 頁
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松田博士﹁株式会社法の理論﹂一七四頁︒
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実質的組合説︵鈴木教授︶
鈴木教授はかつて﹁共益権の本質﹂という論文において﹁団体が組合から社団に規模を拡大するにつれ︑共同企業
者とはいえ︑その相互間の関係は法律上認められず︑単に団体と社員との間の法律関係が存在するに過ぎないが︑しか
もそれは組合における組合員聞の関係が︑社団においては団体の存在が前面に進出せる結果︑その実質を保持しつつ
社員と団体との関係に形式的変貌を行ったに過ぎないと見るべきである﹂とされて︑株式会社組合説的見解を発表さ
﹁会社の社団法人性﹂という論文において︑形式的と実質的の両意義に解する独特の立場から︑同
じ主張を展開されているDすなわち形式的に組合とか社団とかいった場合には︑それは構成員相互の関係を契約関係 れたが︑その後︑
それとも社員関係︑換言すれば団体と社員という縦の関係として考えるかという区別であって︑
株式会社は形式的に見るならば社団である︒しかし︑実質的にみれば︑株主の個性をより濃厚にして︑それに即応し として把握するか︑
た内容を社員関係に盛ることによって︑実質的な意味で株式会社を組合化することは可能であり︑昭和二五年の改正
で︑株主の地位が強化されたことは︑これは株主の地位をそれだけ実質的な組合における成員の地位に近づけたもの
であるとされる︒
従って教授の説を実質的な組合説として︑ここに挙げてもそれほど不都合ではないであろう︒
鈴木教授も株主を会社企業の﹁共同所有者﹂として把握されている︒たとえば﹁株主は会社企業の共同所有者であ
る︒従って企業から生ずる利益の分配にあづかるほか︑企業の経営についても本来からいえば︑すべてを共同処理し
うべきもの﹂であり︑企業経営を専門家にゆだねたことは﹁企業の所有者たる株主がその所有権にもと︒ついて有する
共同経営権を自らの利益を考えて合理化したものであ札﹂と述べておられる︒この意味では︑鈴木教授の説も︑既述
した会計学における所有主理論に比肩されうるものであって︑所有主理論に対する批判が︑そのまま教授に対しても
当てはまるであろう︒
また︑鈴木教授は昭和二五年改正法が︑株式買取請求権︵商二四五条ノ二︑四O八条ノ二︶代表訴訟提起権︵商二六七
条︑
一九
六条
︑二
O八
条︑
二八
O条ノ二第二項︑四三O条二項︶︑取締役等の違法行為差止請求権︵商二七二条︑四三O
条二
項︶
株式
会社
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村︶
七
富大経済論集
八
等を新設したことを︑これらはすべて個人の株主の地位を強化し︑株主の地位をそれだけ実質的な組合における成員
の地位に近づけたものとされる︒株主の権利の強化それ自体はその通りであるが︑教授は昭和二五年改正法のもっと
も重要な改正点を軽視されたのではなかろうか︒すなわち授権資本および無額面株式制度の採用等にみられる会社の
資金調達の便宜と︑株主総会の権限縮少と取締役会の権限の拡大にみられる会社の運営機構の変革がそれである︒株
式会社の実態が様々であるから︑株式会社法の個々の規定も大企業形態に適合するもの︑または小企業に適合するも
の︑あるいは一見矛盾するかのような種々の規定を包含している︒この場合︑何処に力点をおいて理論を構成するか
という問題が生ずるが︑教授の理論は株主の地位の強化に偏重した理論とも言えるのであって株主の権利の強化は︑
一般に後退的な改正であるという批判が多いのであるから︑従って︑また教授の見解もその面からの批判をまぬがれ
ない
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ろう
︒
注ω鈴木教授﹁共益権の本質﹂法学協会雑誌六二巻三号二ハ頁︒ω鈴木教授﹁会社の社団法人性﹂松本先生古稀記念論文集五九頁以下︒ω鈴木教授﹁新版会社法﹂二八l
二九
頁︒
ω高田教授は﹁契約理論で十分処理できるようなアメリカの一般投資家と︑質を異にするわが国の株主に︑こうした積極的活動
を期待する改正は不適当であり︑徒らに会社ごろその他特殊な株主群の濫用に便しただけの実情にある﹂と批判される︒高田
教授﹁商法要論﹂一二六頁︒経営学者の山城教授も同様な批判をされる︒山城教授﹁株主総会論﹂新会社法と会社経営九三頁︒
株 式 会 社 社 団 説
←
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株式持分説︵大隅教授︶
株式会社社団説が︑わが国における通説であることは言うまでもない︒学者の数も多いだけに︑その主張の幅も広
し、。
株式会社団説の中でも︑最も株式会社組合説に近いのが︑大隅教授の採る株式持分説︵株式物権説︶である︒
﹁持分﹂的に解することは︑株式会社の本質を﹁組合的﹂に解する思想に立脚し︑株主を株式会社の共同企業者とみ
るものであるが︑大隅教授は﹁株式会社の実体をなす団体は︑社団の範障に属する﹂と主張されるので︑便宜上ここ 株式を
に挙げたわけである︒
大隅教授は︑株式会社をもって複数人に分散した企業所有権の単純化の制度として︑把握しようとし︑
は法律的には法人たる会社の所有に属するが︑経済的には全体としての株主に罵する︒株式はこの法律的︑形式的に
は会社の所有に属し︑経済的︑実質的には株主の全体に属する会社事業について株主が有する観念的の分前を一示すも
のであり︑それが法律的には株主権としてあらわれているのである﹂︵傍点筆者︶とされ︑ ﹁会社事業
株主権は所有権の変形物で
あり︑自益権は所有権の収益権能の変形物であり︑共益権は所有権の支配権能の変形物とされる︒
会計学において︑右の大隅説に相当する説は︑企業体説の中の所有主集合体説であろう︒この説の︒へ1
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ろは︑企業体には明らかに二つの種類のものがあることを認めている︒その一つは所有主から明確に分離した独
立の企業体合
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であって法人格をもつものとみられるのである︒そして︑もう一つは企業の所有主個人
またはその団体によって提供せられた資金の管理に当る代理人または管理人守口ω∞g
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である︒後の方は︑会社は株主の持分の集合によって成るものであり︑企業体は所有主の集合体であることを示すも
のである︒そして︑結局︑︒へ1トンの企業体観は︑所有主中心の考え方であり︑企業体をもって所有主の集合体ある
いは所有主の代理機関とみる見解であって︑形式的には企業体説に属しながらも実質的には既述した所有主理論と同
じである︒この点︑大隅教授が一方では株式会社社団説に冒し︑株式会社の株主からの独立性を認めながら︑他方︑
株式
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九
富大経済論集
企業が全体としての株主に属するという株式持分説を採り︑実質的には株式会社組合説と同じ結果になることと相通
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所有主集合体説に対する批判は︑既述の所有主理論に対する批判で事足りる︒同様に︑株式持分説に対する批判は
株式会社組合説に対する批判で充分であろう︒今日の株式会社において︑会社財産が株主の合有に属し︑株主がこれ
に対し︑持分を有するといいえなくなったことは当然である︒株式会社が大企業化し︑株式が﹁物権的持分﹂の性質
を喪失したところに︑ラテナウのいう株式会社における﹁基礎の交替﹂︵
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ラテナウのいう株式会社における基礎の交替に共鳴し︑株式会社における﹁企業自体﹂の理論を強調され紅大隅教
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一見矛盾するような株式持分説を採られることも疑問である︒
注ω田中︵耕︶博士﹁改訂会社法概論L上巻二五一員︒田中︵誠︶博士﹁最新会社法論﹂上巻三九頁︑大浜教授﹁会社法要論﹂八
ー九頁︑西原教授﹁会社法﹂一一頁︑大隅﹁全訂会社法論﹂上巻一一ニ頁︑石井教授﹁商法工﹂一一ニ三頁︒ω大隅教授﹁全訂会社法論﹂上巻一四頁︒ω大隈教授﹁いわゆる株主の共益権について﹂松本先生古稀記念論文集一五一頁︒
凶 大 隅 教 授 前 掲 論 文 一
五O頁︑ノ戸ト︵
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︶も﹁株主は第一次的には株式の所有権を有する︒しかし︑これにより株主E
はその全体として間接に株式会社に体現する財産の所有者でもある︒会社財産の所有者は株主から切りはなされた株式会社で
はなくして︑株主の結合体たる株式会社である︒共同管理権︑これに含まれた議決権はこの所有権の権能の一部である﹂と述
べているのも大隅教授と同趣旨である︒ZRFPB
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そして︑何故ハスパンドが企業体の構成員を所有主たる株主に限定したかというと︑株
主こそ企業の行なう本来の職能の担当者であると考えたからである︒かくて︑企業体は所有主の組織するものであり所有主の
集合体である︵8
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間大隅教授﹁株式会社法変遷論﹂二四一頁以下︒ 前掲書
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典型的社団説︵西原教授︶
西原教授は︑通説である社員権説に比較的一番忠実な見解をとっておられるように思われか︒そこで︑典型的社団
説としたのであるが︑ただ︑教授も﹁社団の語は︑もともと人の側面から結合を捉えているため︑労力の結合の場合
はともかく︑資本の結合を表すには必ずしも適切ではない︒かようにして︑会社の中でも資本の結合を木旨とする株
式会社にあっては︑伝統的な社団性の概念はすでに破綻を来たし︑それは目的財産化叉は財団化の状態に近づいてい
ただ株式会社を一挙に法主体たる財団︑即ち財団法人の概念中に編入することには︑
ると
も言
える
︒
なお難点があ
る︒:::従って︑株式会社もその基本構造は社団に属するというほかはないが︑ただそれは︑極めて特異性のある社
団である﹂としてその苦悩を示されているのが注目される︒
(1)
西原教授の財団説に対する批判について
教授は株式会社の重点が社員よりも財産にあるという点も︑必ずしも絶対的必要ではないとされ︑
在なお多数の立法例に見られるように︑基本資本の最低限が示されず︑他方社員数の最小限が定められている場合に ﹁たとえば︑現
は︑会社財産は極めて僅少で︑財団の観念を容れる余地のないものもあり得る﹂
とさ
れる
︒
しかし︑すぐその後で
﹁ただ株式会社の本来の姿は大資本企業にあるから︑現行立法の不備を立論の根拠とすることは︑力強い反駁にはな
らないであろう﹂とされる︒この点に関しては︑全くその通りであると言わざるをえない︒
次に財団法人の自律性と他律性の問題に移ろうD
西原
教授
は︑
﹁もし寄附者が財団の活動の受益者たることが︑も
株式会社財団説をめぐって︵中村﹀
富大経済論集
つばら予定しているとすれば︑これは自律性を本位とする社団法人の領域に入るべきであろう﹂とされ︑また﹁資本
は株主総会における発言を通じ︑特に総会における機関構成員の選任および解任を通じ︑終局的支配力を失わないの
であみい﹂とされる︒私は現代的株式会社すなわち商法が株式会社として想定している理念型の株式会社は︑ゴl
イン
グ・コンサlンを前提としており︑経営自体は経営者によって自律的に行われており︵商法二三O
条ノ
二と
商二
六O
条の
関係参照︶︑従来企業所有者として機能していた株主の自律性は他律性に転化していると判断する︒この点同じく株式
会社財団説を採る八木教授と異なる理由によって︑社団説に答えることになる︒
株式債権説と同じくあまりに投資株主本位の立場に偏り︑
︵d
E2 5r ES
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−
ロ似るの存在︑従ってまた制度の全体的意義を見失う懸念があると思われる﹂と言われる︒確かに財団説は︑株式債権説と同じく︑投資株主を今日の株主の姿としてとらえている︒それはわが商法が想定している理念
今日でも全く経済の舞台から さらに西原教授は
﹁財
団説
は︑
いわゆる企業者株主
型の株式会社の実体を大企業においているからである︒
企業
者株
主は
︑
﹁終駕した種
族﹂であるとはいえないであろう︒二・三O人の労働者を町工場や︑個人企業が株式会社形態をとる場合︑個人資本
主義的企業者株主が今日なお活発な活動をなしている事実はある︒しかし︑たとえその事実を認めるとしても︑かか
る企業者株主は今日の経済機構の中心的存在ではないのである︒それよりも︑大企業において︑本来の意味の企業者
株主が存在するであろうか︒企業者株主は本質的には利潤追及者であ司令企業者株主は自ら経営主脳者として君臨し
︵顕在的支配︶︑高額の経営者報酬︵企業者賃金︶に加えて︑創業者利得︑経営の内部情報の利用に基く種々の利得とい
う形で︑著しい利益を収める︒しかも一方︑投資株主に対する配当は︑利子プラス危険料程度の水準にまで押し下げ
られるのであるから︑この場合における企業者株主の配分上の優位は大なるものがある︒企業者株主が企業規模の巨
大化に伴って︑その支配が潜在化した場合︑経営能力の要件こそ必要としないが︑同時に﹁企業者賃金﹂の形で配分
上優越した地位につくことも不可能になる︒創業者利得に参加する機会も殆んどなくなる︒内部情報の利用も稀薄化
することを否定しえない︒最も重要なのは配当の問題である︒企業者株主は本来高率配当で配分上の優越を確保する
ことはできるが︑配当の高率化はむしろ企業者にとって不都合になる︒そこで︑企業者株主はむしろ配当を引き下げ
一般投資株主の利害と対立するが︑支配が潜在化すれば︑配当を引き上げんとする力として働くのであ
ょう
とし
て︑
り︑利害関係は短期的思惑の相異を別とすれば︑
企業者株主と呼ぶ意義があるであろうか︒あまつさえ︑今日の大企業では殆んど大株主は法人であり︑その株式所有 一般投資株主と相共通するに至るのである︒このような株主をなお
が制度化されており︑個人資本家の人格的支配は存在しないのである︒
(2)
(イ)
西 原 教 授 の 社 団 説
ペ〉
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て
これについては︑八木教授から九項目にわたって批判が行われているい︑私も八木教授の批判にほぼ同感であ
るので︑ここでは繰り返す煩をさけたい︒ここでは私見として特に理由あるもののみを強調したい︒
その一つは﹁一人会社﹂の承認の問題である︒八木教授は︑これを所有と経営の分離︑無議決権株の是認︑株主の
新株引受権否認の傾向などと一緒に︑財団説の根拠とされたのに対し︵後述︶︑西原教授が社団説の立場から批判を加
一人会社の承認が社団説と財団説とでは︑いずれの立場からの説明が妥当であるかは︑しばらくおき
私は一人会社を財団説の根拠とする必要を認めない︒経営者支配論の論拠となる無議決権株の是認︑所有と経営の分
離︑株主の新株引受権否認の傾向︑株主総会の権限縮少などは︑すべて企業規模の巨大化︑株式の分散に基づくもの え
られ
てい
る︒
であ
るの
に対
し︑
一人会社はこれらとの関連をもたないからである︒
無議決権株の社団的意義については︑西原教授は﹁一般社団法人の社員に普通会員︑特別会員など権利義務の
内容に差があるのと趣を同じくする﹂という意味程度において︑その社団法的意義を認めておられるが︑私は無議決
加)
株式会社財団説をめぐって︵中村︶
富大経済論集
四
権制度は所有と経営の分離に応じた法制度で︑株主は議決権を放棄することにより︑会社経営に対する支配権を放棄
しているのであり︑その意味で社団法的意義を失っていると判断する︒こう考えるのがむしろ一般的常識に合致する
であ
ろう
︒
かす
さらに﹁所有と経営の分離と社団法人性﹂を検討しよう︒西原教授は︑﹁株式会社の経営機関たる取締役の運
営方針を指示すべき最高機関としての株主総会が現実に活溌な動きを示さず︑しかも法律上もその権限が縮少される
傾向
︵商
二一
O条ノ二参照︶を見ると︑社団を構成する社員の地位は極めて薄弱化し︑実質的所有者たる基礎は失われて二
いるとの議論が出るのも︑無理はないように見える︺として︑財団説の論拠に同情を一示しながらも﹁しかし︑資本的
機構を担う社員は︑経営的機構を表す機関に対して︑果して必要な支配力を有しないものであろうか︒否︑経営の独
立は︑近代技術の高度化による資本の委任に基づくものであって︑資本は株主総会における発言を通じ︑特に総会に
おける機関構成員の選任および解任を通じ︑終局的支配力を失わないのであれU﹂として社団法人性に結びつけられる
のである︒さらに﹁もっとも︑企業の民主化に伴う所有の分散は︑少額所有者の経営に対する無関心を招き︑総会欠
席または白紙委任状送附の形式で︑
82
5−ことして︑財団説の根拠に同情を一示しながらも︑
ば︑経営陣の安泰は期待できないのであ&﹂として社団法人性に結びつけられるのである︒ 現在の経営担当者の支配的地位を確保する結果となることが多い︵
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一朝有事の場合には︑資本の積極的支持がなけれ
ここで注意を要するのは︑西原教授の﹁終局的支配力﹂とか︑
私見とでは︑株式会社法に対する考察の力点を異にしているのである︒私はゴIイング・コンサlンとしての企業に
力点をおき︑そこでは経営者支配という現象が生じ︑この認識に基いて︑株式会社財団説を主張するのである︒ゴー ﹁一朝有事の場合﹂である︒要するに︑西原教授と
イング・コンサlンに力点をおく方法論は︑最近の経営学︑会計学において採用されているところであるが︑部分的
昭和三七年に改正された計算規定は︑従来の財産法主義か
ら損益法主義に大きく変り︑資産評価の時価以下主義も原価主義に変ったが︵商二八五条ないし二八五条ノ七︶︑ には商法においても採用されているのである︒たとえば︑
﹂れ
は
ゴlイング・コンサlンを前提とするものであり︑これと同様に︑財団説の論拠とするいわゆる所有と経営の分離︑
株主総会の権限の制限︑無議決権株の是認など︑みなゴlイング・コンサlンを前提とするものである︒
次に﹁経営の独立は︑近代技術の高度化による資本の委任に基づくもの﹂であるか否かは問題であるが︑私は経営
の独立は資本の委任に基づくものではなく︑経営者がその支配を奪ったものであると考える︒
﹁もし一朝事があると︑小株主そのほか︑従来経営に無関心であった株主群もその態度を一変し︑持
株を売却して︑会社と関係を絶つとか︑同志の力を結集して経営改革運動の一翼に加わるとか︑何らかの自己防衛の
措置を講ずるのである﹂とされ︑また同じ社団説の石井教授も﹁分散した企業所有に対応する﹃分散した企業支配の
統合方式﹄としての株主総会制度は充分に意義がある︒それがいかに形式化しようとも︑株主総会が存在するという
こと︑即ちそれによる監督の可能性を保有するということ︑それ自体が取締役に対する制約||実質的には心理的な
制約にすぎないことがあるにしてもーーとして︑その不正な行動に対する産制となっていることは否定しえない﹂と
西原
教授
は︑
強調しておられる︒
ところで︑持株を売却して︑会社と関係を絶つことや︑心理的な制約︑牽制がはたして本来の意味の支配権能に属
するか否かは問題である︒西原教授らは︑これらも株主の支配機能に属すると解されるかもしれないが︑私は経営学
者の見解と同じく︑支配機能とは解さないのである︒
注ω西原教授﹁株式会社の社団法人性﹂株式会社法講座一巻三三頁以下︒ドイツにおいて︑社員権説を打出し︑株式会社法に画
期的
展開
を与
えた
のは
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︵ 同 3
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株式会社財団説をめぐって︵中村︶
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