21 世紀社会デザイン研究 2019 No.18
反基地運動とジャーナリズム
─
1950
年代の沖縄問題報道を事例として─The Anti–Military–Base–Movement and Journalism:
Press Reporting on Okinawa in the 1950s
橋本 理恵子
HASHIMOTO Rieko
[要旨]
1950
年代、占領下の沖縄では米軍基地建設のため強制的な土地接収が行わ れ、それに対する住民の激しい抵抗があった。土地闘争と呼ばれるこの反基 地運動は、「島ぐるみ闘争」ともいわれ、文字通り沖縄が島ぐるみで反対運動 を展開した。この運動にジャーナリズムはどうかかわり、報道していったの か。新聞報道を中心に検討する。沖縄においては、ジャーナリズムは民衆に触 発され、米軍基地への認識を変化させていったといわれている。また、本土の ジャーナリズムにおいては、戦後は報じられることがなかった「沖縄問題」が、1955
年の「朝日報道」をきっかけに大きく転換し、沖縄の土地闘争を中心に人 権問題や労働問題など、その実情が広く伝えられるようになっていった。キーワード:反基地運動、ジャーナリズム、温度差、沖縄
1.はじめに
いわゆる「沖縄問題」とは何であろうか(1)。沖縄の米軍基地をめぐり派生する様々 な問題は、歴史を振り返れば、占領下における領土問題、軍用地強制収用の問題や事 件事故にまつわる人権問題、施政権返還問題等、日本とアメリカ、そして沖縄の三者 の間で、その時々によって異なる政治的社会的争点として提起されてきた。そして、
1995
年の大規模な反基地運動以降においては、米軍普天間飛行場の返還に伴う名護市 辺野古への移設問題(新基地建設問題)と、それをめぐる政府と地元の対立を含意し ながら、安全保障の問題や環境問題、地方自治の問題、そして民主主義とは何かとい う問いを突き付けていると言えるだろう。その「沖縄問題」をジャーナリズムはどのように報じてきたのだろうか。
本稿では、1950年代の土地闘争を中心に、当時の「沖縄問題」が地元メディア、全 国メディアでそれぞれどのように報じられていったのか検討する。また、総合雑誌の 掲載記事や論文についても概観していくことにしたい。戦後、日本本土から切り離さ れた沖縄では、1950年代に住民が米軍基地建設に反対する声を上げはじめ、同時に、
本土メディアが沖縄を、"忘却"から"再認識"した時代である。その時代のメディア
世論との関係性について、考察していきたい。
2.土地闘争をめぐる報道
(1)土地闘争の経緯
土地闘争は、1956年
6
月のプライス勧告をきっかけに沖縄全土にひろがった住民運 動である。アメリカ軍占領下の沖縄では、終戦直後から米軍基地建設が進められてきたが、借 地料が驚くほど安かったことなどから、土地接収を拒否する住民も多く、不満がくす ぶっていた。米国民政府は
1953
年に土地収用令を公布し、「銃剣とブルドーザー」と 形容されるような強制的な土地接収を行った。翌1954
年3
月には、さらに軍用地の使 用料を一括払いにするという新たな方針を打ち出した。土地の無期限の使用を試みた のである。しかし、支払われる土地の値段が破格的に安く、一括払いが実質的な土地 の買い上げを意味するなどとして、住民の基地建設反対の声が強まっていった。こう した中、立法院は、同年4
月、「軍用地に対する請願書」を全会一致で採択する。これ に盛り込まれた四項目が「土地を守る四原則」と呼ばれるもので、その後の運動の要 求として掲げられていくのだった。すなわち、①一括払い反対、②適正補償、③損害 賠償、④新規接収反対、である。琉球政府は、1955年にワシントンに代表団を送り、米国政府に直接訴えた。その要請に基づいて、米下院軍事委員会が沖縄に派遣したの が、プライス調査団であり、その報告書がプライス勧告である。1956年
6
月に報告さ れたプライス勧告の中では、「四原則」は否定された結果となった。この報告に沖縄は反発し、世論は沸騰した。6月
20
日に56
市町村で開催された「プ ライス勧告の拒否と四原則貫徹を誓う住民大会」には、全島であわせて15
万5
千人が 参加した、と翌21
日付の『沖縄タイムス』の夕刊は報じている。これ以降、第2
回住 民大会、県民大会など大規模な集会が相次ぎ"島ぐるみ闘争"と呼ばれていくことに なる。これに対し、米軍側も沖縄本島中部地域の市町村に無期限のオフリミッツ(立ち入 り入り禁止令)を発動し、経済制裁をかけて対抗した。
結果的に、沖縄側は一括払いを撤回させ、適正価格で借用させることを認めさせる 一方、米軍基地に土地を提供することとなって決着したのだった。
「土地」をめぐるこの闘争は、その土地代をめぐる経済的側面と同時に、「土地を取 られてはならない」「領土権の死守」などのスローガンから、一種のナショナリズムに 立脚していたといえ、その後の祖国復帰運動へつながっていく思想でもあったと捉え ることができるだろう。
(2)地元メディアをめぐる状況と土地闘争に関する論調
戦後の沖縄では、1940年代後半まで続いた検閲制度や様々な法的制約によって言論 の自由はなかった。また、米軍から有形無形の援助を受けていたこともあり、自主規 制的な面もあったという。「アメリカ軍政府の言論政策は、基本的には占領政策の遂行
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のひとつとしてあり、民主化とか戦後改革の柱としてあった本土のそれとは、無縁な ものであった。すなわち沖縄にあって言論の自由とは、アメリカ占領軍の許す範囲で しかありえず、しかもプレスコードのような基本指針もなく大変恣意的に運用されて きたところに特徴がある。それゆえ地元マスコミは、出発当初から言論の自由の瀬踏 みと自主規制を余儀なくされ、言論機関が本来持っている世論形成の指導性などは求 めようもなかった」[保阪 1990、p.361]。
そのような状況下で、この土地闘争がそれまでの新聞の報道姿勢に変化をもたらした。
『沖縄タイムス』のコラムは「今までタブーとされてきた『抵抗』とか『反抗』とか
『死守』とか『日本復帰』といった種類の言葉が堂々と、白昼使われ出した」(1956年
6
月25
日付「今晩の話題」)と書き、この土地闘争が、沖縄の言論の転機となったとこ とを示している。強硬的な米軍の方針に屈しない住民の姿勢に、触発されたといえる のだろう。しかし、その論調は、経済的側面を強調しており、米軍基地の存在自体は認めてい る。つまり、東西冷戦下の世界情勢を反映したものでもあった。例えば、土地闘争の 先駆けとなった伊江島土地闘争が激化した直後、1955年
3
月25
日付『沖縄タイムス』の社説は、「沖縄の島が米軍の基地となっているという事実を無視し、これに反対を唱 える者は、おそらく住民の一握りの人間であって、99%の住民はこれにくみしない。
それはアメリカにも共産党があるようなものであって、特に沖縄だけが問題となるべ きものではない。住民は土地を接収された人たちでさえも基地そのものには反対して いないのである。」と述べている。
また、プライス勧告発表後、1956年
6
月15
日付『沖縄タイムス』の「軍用地問題 の苦悩」と題した社説では、「沖縄における軍用地問題は、基地反対などという非合理 的なものでなく、借地料や損害補償の改善を要求する経済的な問題でしかない」と言 い切るのだった。一方で、この土地闘争が、単に地主だけの問題にとどまるものではないとの認識も 示される。「今日、軍用地問題は地主だけの問題ではなくなっている。それは狭隘な土 地の喪失は、住民全体の経済に影響をもたらすものとして、全住民の問題であるから であり、狭い沖縄の人口密度状態を思えば、直ちに住民の生活圏に関連してくるとこ ろの問題」となる、と続けている。『琉球新報』も、同様に「沖縄の土地問題は単に土 地所有者だけでの問題ではない」としたうえで、「本質的に祖国の潜在主権、領土権と もつながり、ひいては民族興亡の問題として、全琉球住民はもとより祖国同胞も四原 則貫徹に奮起している」(1956年
8
月21
日付社説)と述べている。(3)全国メディアの報道 ─ 「朝日報道」と土地闘争をめぐる報道
①朝日報道
戦後、日本本土から切り離された沖縄は、本土との交通、通信が厳しく制限されて いたこともあり、沖縄の状況がメディアに乗り、全国に報じられるということは稀で あった。沖縄の状況について記事が掲載されることもなかったわけではないが、それ は沖縄から帰還したアメリカ軍人や船員、上京してきた沖縄出身者らに現地の様子を 尋ねるという間接的な取材で記事にしたものなどであった。
1955
年1
月13
日付の『朝日新聞』に掲載された「米軍の『沖縄民政』を衝く」とい う記事は、社会面ほぼ一面をつかって、土地問題、労働問題、人権問題等について沖 縄の実態を報じていた。土地問題に関して、「『一坪の地代では、コカ・コーラ一本も、タバコ一箱も買えぬ』と悲痛な抗議」があることや、労働賃金に「人種差別」がある ことが述べられている。そしてアメリカ側の反応として、ワシントン特派員は「米国 内でも初耳」、さらに極東司令部は「『いま係官がいないので、なんともいえない』と 言明を避けた」と伝えている。
そして、この記事以降、およそ
1
か月にわたり、社説や文化人の談話、沖縄出身者 の声などを掲載し、キャンペーン報道をしていくことになる。翌14
日の社説「沖縄民 政について訴える」では、「沖縄島民はわれわれの同胞である。敗戦の結果、アメリカ の支配のもとに置かれてはいるが、われわれの同胞である。その同胞が、土地の強制 借上げ、労働の人種的差別、基本的人権の侵害などで、文字通り最低の生活さえ営み えない状況に至っていることは、日本人の強い関心をよばずにはおかない」と述べて いる。この報道を受けて、国会でもこの問題が議論されたのはもちろんのこと、国際会議 でも取り上げられるなど、国内のみならず国際的にも一気に関心が高まっていった。
実は、この記事は、記者が直接沖縄を訪れて記事にしたものではない。
きっかけは、沖縄在住のベル宣教師によって軍用地問題を中心に人権問題について まとめられた手記が、アメリカの『クリスチャン・センチュリー紙』に掲載されたこ とによる。手記は大きな反響を呼ぶが、それが、アメリカの国際人権連盟議長のロ ジャー・N・ボールドウィンの目に留まり、ボールドウィンは日本の自由人権協会に 調査を依頼した。その調査結果を朝日新聞が記事にしたのだった。
ちなみに、一連の報道において、13日付紙面では、「沖縄土地使用問題」、翌
14
日 には「『沖縄民政』問題」という表現も散見されるが、15日以降は「沖縄問題」と表 記されている。米軍は当初、人権協会が沖縄を訪れずに報告をまとめていることなどから、記事に 対し全面的に反論していたが(2)、その年の
4
月に、日本を含む5
か国23
社25
人を沖 縄に招待し、取材させた。参加した読売新聞の牧野記者は、12日から連日沖縄からの記事を発信し、「軍人の 天国沖縄」(4月
13
日付)「住民との紛争はデマ」とする現地での記者会見などを伝える(4月
14
日付)。また同16
日には写真入りで「見てきた沖縄」を特集する。米軍と住 民の「交らざる平行線」。「琉球大学の学生は、『思っていることの十分の一も言えない』と訴えた」。そして、「単なる経済問題だけなら簡単だが、その土地がいつ還されるか という不安と不満がからんでくるとだれも解答を与えうるものがないというのが今日 の国際情勢ではないか」と述べる。
毎日新聞の角田記者の「沖縄みたまま」と題した記事は、「食い違う感情のもつれ/
米人には解せぬ『土地への愛着』/何が不満? と首ひねる」との見出しで報告する。
ある軍労働者は「戦争は体験しているからいやだけれど、基地があることでどうやら 食える。日本に復帰したい。基地経済が壊れてもどうにかなるだろう。」と「矛盾だら
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け」の気持ちを記者に話したと書く。また、「"なぜか"という疑問はあとからあとか ら出てくるが、答えは出せない。」と、『読売』同様、問題解決の難しさを表している
(1955年
4
月17
日付)。このように、実際の現地での直接取材は、結果的に人権協会の報告書の内容を裏付 けることになった。ちなみに、全国メディアの沖縄での支局開設は、1959年からで、
「朝日報道」の時点からはまだ数年の時間を待たなければならないが、一連の報道に よって、沖縄での現地取材の道が開かれ、それが取材拠点の設置の契機になったこと は間違いないだろう。
沖縄での取材体制の確立によって、全国紙の沖縄関連の記事は数量的に大きく増え ていくことになる。また、1960年代に入ると、例えば、キャラウェイ高等弁務官は、
沖縄に支局をおく全国メディア
6
社を「トーキョー6」
(3)と呼び、「民政府への批判が 東京に伝わると、米国人東京特派員記者の知るところとなって、米国本国の反響など に追われることになる」と怖れていたという[横田 1984、p.188]。他方、沖縄メディアも、このような全国紙の報道や本土側の動きについて報じてい る。全国紙の沖縄報告の連載を、地元紙でも転載して報じることで、沖縄側の議論や 運動を一層活発なものにしていったということができるだろう(4)。
こうした「朝日報道」について、新崎盛暉は、①「本土とのかかわりあいにおいて 問題をとらえようとしていた」こと、②一連の報道が「政府の動きにも、革新的諸運 動にも先行していた」[新崎
1969、p.24]という点で特筆されると指摘している。また
大田昌秀は「朝日報道」を契機に、沖縄関係の記事が量的な増大のみならず、「規則 的・連続的に報道されるようになった」と指摘したうえで「『朝日新聞』は、沖縄をと り巻く国際状況の変化や国民世論の台頭、あるいは沖縄現地の住民の意識の高揚など もろもろの要因に支えられたとはいえ、沖縄問題に関する限り、世論形成の面で一新 聞に期待しえないほどの重大な役割を果たしたといえる」[大田 1971、p.307]と評価し ている。②土地闘争をめぐる報道
「朝日報道」から
1
年半後に、この土地闘争は大きな山場を迎える。プライス勧告に よって、住民の抗議は高まる一方であった。各紙は記者を特派して、報道している。『朝日新聞』は、住民大会の様子を「『沖縄を盗まないで……』」との見出しを掲げて 伝えている他「16万人の静かな抗議」との見出しで、「米軍への刺激をさけるためこ の日会場には赤旗一本も見られ」なかった(1956年
6
月23
日付)と伝えている。ま た「沖縄の人々の訴え」として「われわれの声を日本は世界の世論に訴えてほしい」「日本政府は、弱腰のようにみえるがどういうわけか。土地の一括払い借上げは、日本 の領土主権を犯すおそれがあるのだから、日本は直接米国に抗議を申し込むべきでは ないか」といった現地の声を紹介している。
『読売新聞』は、「高まる団結/住民大会夜半まで続く」として住民大会について、
「"祖国よ、沖縄の血の叫びにこたえよ"と日本政府の弱腰を攻撃するプラカードがみ られたのは注目に値する」とし、各団体の演説は「各代表ともプライス勧告絶対反対 の演説で住民の意見に分裂が見られなかったばかりでなくアメリカの圧政をはねかえ
しく起こっていた」と伝えている(1956年
6
月26
日付)。また、この問題に対する日本政府やアメリカの考え方や動きについて、例えば、『朝 日新聞』の「沖縄問題の焦点」と題した囲みの解説記事では、日本政府の立場につい て「米政府に『交渉』するのではなく、①沖縄住民の意向を伝えてあっせんし、さら に②『住民の総意に逆らって計画を強行するのは日米関係に悪影響を及ぼし、さらに は米国の軍事政策遂行をも危うくする』といった日本側の判断を述べて米国の翻意を 求める以上にはない、としているわけだ」と指摘し、「結局、この問題の行方は住民 側の反対運動の強さと、その結果米政府がどの程度これを考慮しなければならなくな るのか、のかね合いになるようだ」(1956年
6
月27
日付)との見通しを述べているが、日本政府の消極的な姿勢を批判するまでには至っていなかった。
③雑誌ジャーナリズムの沖縄報道
ここでは、『世界』『中央公論』『文藝春秋』といったいわゆる総合雑誌が、1950年代 に沖縄についてどのような観点から取り上げてきたかについて検討する(図 1)。
総合雑誌において、終戦~50年代前半は、沖縄に関する論文・記事は非常に少ない が、言及がある場合は、領土問題という観点から触れられていることが多い。例えば、
1950
年3
月の『中央公論』小堀甚二の「北は千島から南は沖縄まで 領土問題につい ての民主主義的主張」と題した論文では、講和条約締結を前に、日本固有の領土につ いて論じた中で言及している。そして講和条約締結後、沖縄が日本から切り離される と、別の論文は「アメリカ国民は理性もあり、明朗を尊ぶ傾向も強いから、やがてこ 図 1 総合雑誌における沖縄関連記事* 1950–1972年の『文藝春秋』『中央公論』『世界』に掲載された記事・論文で「沖縄」に言及したもの。
(グラビア、資料、読者からの投稿などは除く)。
出典:筆者作成
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の処理が是正され、これらの地域も住民も、日本に復帰する日が来ることを期待しよ う」[外山 1951、p.219]と楽観的な観測を述べるのだった。
同じく『中央公論』1950年
4
月号には、「グラビヤ」として当時の沖縄の写真11
枚 が掲載されているが、そこに付された文章には、「日本降伏以来四年を経た今日、『沖 縄』という名はわれわれの記憶から薄らいできている」とあり、当時の沖縄に対する 偽らざる意識の一端がみてとれる。また、作家や編集者等の沖縄滞在記もみられる。例えば、火野葦平の「三たび『ひ めゆり』の島へ ─ 取殘された沖縄の現状 ─ 」と題した文章は、『文藝春秋』1954年
4
月号に掲載されている。その中では、「弟戦死の地を弔いたい」気持ちもあり訪れた沖 縄で、戦争の生々しさが残る戦跡や慰霊碑を巡った様子や、基地建設が進められる様 子、あるいは「一日も早く復帰したい」という沖縄の願いなど「愛する琉球の悲しい 姿ばかりをみた」と綴る。そして「飛行機で行けば、沖縄はわづか四時間であるが、私にはひどく遠い遠い國に思はれた。もっと近い國のはずなのに。」と、沖縄との心理 的な距離感を吐露している。
世論に大きな反響があった
1955
年の「朝日報道」だが、雑誌ジャーナリズムにお いて直ちに反映されることはなかったようだ。1955年に沖縄の問題について取り上げ たのは、3誌あわせても1
本だけであった。(潮見忠雄「沖縄の人権問題」『中央公論』1955
年5
月)。しかし、1956年以降は、土地闘争や占領下の沖縄の教育事情、法律問 題、経済事情など沖縄の実情が報告され、住民の声も多数紹介されていった。また、特筆されることとして、『中央公論』では、日本本土と沖縄の基地反対運動を 同列のものとして捉える論点を提示していることがあげられるだろう。基地反対運動 の難しさについて語る「オキナワと百里原」(『中央公論』1958年
11
月号)では、地元 で基地反対運動に関わる瀬長フミと山西きよの二人の女性が語り、また「砂川・新島・百里ヶ原そして沖縄」(『中央公論』1959年
5
月号)は、3人の共同執筆(藤島宇内、丸 山邦夫、村上兵衛)で、各地での基地問題と反対運動が報告された。それぞれ地域固 有の事情や課題を抱えながらも、日本全体の米軍基地問題の中に沖縄の問題を位置付 け、日本全体の問題として捉えたことは、重要な視点であったといえる。当時の日本 本土では、石川県の内灘闘争や東京の砂川闘争など、米軍基地に対する激しい反対運 動が持ち上がっていた。「基地問題」は、決して"沖縄の問題"ではなく、本土と沖縄 共通の問題として認識されていたといえ、その意味は大きいといえるだろう。さらに、「現地報告」という形で、沖縄の有識者や政治家、本土在住の沖縄出身者が 執筆するケースも多かった。それは、その後
60
年代~復帰までを通しての特徴でも あった。3.まとめ
1950
年代の「沖縄」をめぐる地元メディア、全国メディアの論調を見てきた。土地闘争は、米軍占領下の沖縄の住民が、米軍基地建設に対して、初めて反対の意 思を明確にし、その世論が"島ぐるみ"と形容されるような大きな運動に発展していっ たことで、沖縄戦後史において重要な意味付けがなされた。そして、その運動は、沖
そして運動自体にも影響を与えることになったし、さらに新聞論調そのものにも変化 を及ぼす相互作用を生み出したといえるだろう。
沖縄においては、米軍の言論統制の厳しい中にありながら、地元紙の論調は強引な 基地建設や、破格的に安い土地の買い上げなどに反対する運動の要求を主張するよう になっていった。例えば、1956年の加藤一郎の「沖縄の現状」を引用すれば、「新聞 にもかなり反米的な投稿などが載っているが、社説などには遠慮がちなところも見え る。(中略)今度のプライス勧告反対には、誰もが言いたいことを思い切って言ってい るという感じを受ける。いまのように団結していればアメリカ側としても手のつけよ うがないというところだ」 ママ[加藤 1956、p.87]。暴力的な強制接収に抵抗する住民運 動に、メディアは触発され、米軍基地に対する認識を変化させていったのだった。
本土メディアにとっては、「忘れられた島」沖縄を再認識し、新たな問題提起をし ていくことになるが、それは、様々な方面に影響力を持った。特に「朝日報道」につ いては、「米軍政下の沖縄の実態を初めて国内外に知らしめた。このキャンペーンは、
当時日本本土から孤立していた沖縄の人々に大きな希望と勇気を与えた」[仲本 2014、
p.38]のみならず、日本本土での世論形成を大きく変化させたと評価されている。
また、沖縄での土地を巡る問題を認識しながらも、事態の推移を静観していた外務 省も、「朝日報道」を受け、「いよいよこの問題への取り組みを開始した」[平良 2012、
p.107]ことからも、その反響の大きさがわかる。
一方で、日本側の人権協会の関係者が「われわれ同胞に関することをアメリカ人か ら知らされたことは、いままでの無自覚が反省されて、むしろひけ目を感じたような 気持だった」とコメントしている(『朝日新聞』1955年
1
月13
日付)が、ジャーナリ ズムにも同様の指摘をすることができるだろう。ジャーナリズムもまた沖縄の問題に 無自覚であったことは事実であった。1955
年1
月から土地闘争の報道を通して、中野と新崎は次のように指摘している。「論壇のオピニオン・リーダーたちは、この問題を論じるだけの予備知識も問題意識 も持ち合わせていなかった。だからかえって、なんの偏向も加えられない生の情報が 本土の民衆に提供され、部分的にではあっても大きな共感を引き起こしたといえるが、
逆にいえば、こうした共感を定着させることはできなかったのである。」[中野、新崎
1976、p.91]と。
そのような中において、日本全体の反基地運動の中に沖縄の問題を位置付けて問題 提起していく報道は重要な視座であった。しかし、その後の日本本土の反基地運動の 収束にともなって、本土メディアの当事者意識は薄れ、反基地運動は次第に"沖縄の 問題"とみなされるようになっていえないだろうか。そしてそのことは、「沖縄問題」
報道の今日的課題でもあると換言することができるであろう。
■註
(1)
「沖縄問題」について、例えば、エルドリッヂは「基地のプレゼンス、基地関連の事故、犯
罪、汚染、強制借地といった問題、そしてそれらが引き起こす憤り(そして中央政府の表 面上の無関心さ)が全て『沖縄問題』であり、より正確に言うならば『日米間の沖縄問題』
21 世紀社会デザイン研究 2019 No.18 である」[エルドリッヂ
2003、p.1]と定義し、山腰は、「一般的に、沖縄に米軍基地が集
中していることに起因するさまざまな問題の総称を指し示す言葉」[山腰 2017、p.153]と している。また、「沖縄問題」という表現については、「沖縄が問題の原因となっている」「沖縄の問題」という"誤解"を与えるという批判がある。[野村 2005 ]など。
(2)
「沖縄問題 米極東軍の発表全文」『朝日新聞』1955
年1
月17
日付(3)時事通信、朝日新聞、毎日新聞、共同通信、読売新聞、NHKの
6
社。(4)例えば、1959年公布の「新集成刑法」に関しては本土メディアが沖縄のメディアや運動を 大きく先行していた。つまり、この法律では、それまで許可制だった出版を届出制にした ことなどを米軍側が宣伝したことなどもあり、地元マスコミが一定の歓迎をしていたが、
「安全に関する罪」について、日本を外国と扱う規定が復帰運動の弾圧になりかねないとし て、「その危険な内容を糾弾し、告発するという火の手が本土マスコミ、毎日新聞とか読売 新聞等々からまず上がってきて、それが逆に沖縄の世論を刺激して、全沖縄的な反対運動」
[新川 1982、p.15]につながり、その影響力を発揮した事例といえる。
■参考文献
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29
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16
エルドリッヂ、R・D、2003、『沖縄問題の起源 戦後日米関係における沖縄
1945
–1952』名古屋
大学出版会大田昌秀、1971、「沖縄問題と『世界』」『世界』302号、岩波書店、302–
309
加藤一郎、1956、「沖縄の現状」『世界』129号、岩波書店、81–92
平良好利、2012、『戦後沖縄と米軍基地 ─ 「受容」と「拒絶」のはざまで 1945~1972年 ─ 』法 政大学出版局
外山省三、1951、「和解講和の問題点」『中央公論』66、中央公論社、219–
224
中野好夫・新崎盛暉、1976、『沖縄戦後史』岩波書店仲本和彦、2014、「ロジャー・N・ボールドウィンと島ぐるみ闘争」『沖縄県立公文書館紀要』第
16
号、37–54
野村浩也、2005、『無意識の植民地主義 日本人の米軍基地と沖縄人』お茶の水書房
保阪廣志、1990、「戦後沖縄の新聞と放送」東江平之・宮城悦二郎・保坂廣志編、『大田昌秀教 授退官記念論文集 沖縄を考える』大田昌秀先生退官記念事業会、361–
382
山腰修三、2017、『入門メディア・コミュニケーション』慶應義塾大学出版会 横田球生、1984、『私家版 沖縄ノート』横田球生