<動向> 高尾山薬王院文書の調査について
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 39
ページ 69‑71
発行年 1987‑03‑24
URL http://hdl.handle.net/10114/10306
法政大学は多摩図書館に地方資料室委員会を新設し、昭和六○年七月二○日付で、文学部村上直・安岡昭男、経済学部山本弘文の一一一教授を委員に委嘱した。この地方資料室委員会の最初の事業としては、同年一二月一八日村上教授と馬場憲一講師が高尾山薬王院に赴き執事大山隆玄氏と下交渉した結果、東京都八王子市高尾町にある、関東真言宗の名利高尾山薬王院文書の調査を行うことに決定し、新たに調査団長村上直教授、調査員に山本弘文・安岡昭男両教授、段木一行・馬場憲一の両文学部兼任講師、調査補助員には史学科の大学院生六名、学生四名からなる調査団が編成されることになった。同委員会が作成した「高尾山薬王院文書調査実施要項」によると、調査目的は、薬王院文書については今まで一部は紹介されているが、全体としては未整理であり全貌は明らかにされない。法政大学では多摩校舎の開校にともない地方資料室の最初の活動として、古文書の調査・整理により文書目録・史料集を作成することとしたが、このことは多摩地域の文化の振興と学界に碑益することがきわめて大きいと考える。という主旨
高尾山薬王院文書の調査について
高尾山薬王院文書の調査について
である。調査期間は、昭和六一年四月一日から昭和六四年三月一一一十一日まで、調査内容は、高尾山薬王院文書について、昭和六一年度は古文書一点ごとに表題・年代・差出人・受取人・形態を調べ、それに基づき文書目録を作成する。昭和六二年度以降は、内容調査により、主要な文書を選び史料集を作成する。なお、史料集は二冊または一一一冊を予定することなどが決められた。こうして、高尾山薬王院のご協力により全文書のマイクロ・フイルム作製を行うことなど、準備や交渉がまとまり、昭和六一年五月二七日に、多摩校舎に高尾山山主山本秀順氏、執事大山隆玄氏が来校され、大学側と多摩総長会議室において「高尾山薬王院文書」調査覚書の調印式が行われたのである。六月二四日、予備調査として、村上教授・馬場講師、大学院・学部生一○名が、薬王院に赴き、調査資料の点数確認、現物との照合を行い、七月九日には全文書を多摩図書館に移し調査開始の準備が進糸、同月一四日には「高尾山薬王院文書」調査団発会式が行われたのである。調査は、夏の休暇を利用し、集中的に作業
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法政史学第三十九号 を進行することにした。その結果、七月二四日から九月三○日までを表題設定作業期間とし、毎週二日間を作業日とし、実際には、一六日間にわたり作業を実施。一○月六日から一○月二一日までを点検作業期間として、六日間にわたり作業を実施。ついで一○月二七日から一一月一二日までを分類作業期間として、六日間実施し、ようやく高尾山薬王院文書の整理を終ることができた。こうして、一一月一三日には、日本近世史ゼミの大学院生と学部生一一一一一一名が参加し、二二八二点に及ぶ薬王院文書の表題記入と袋づめを行ない、項目別の文書目録作成のための原簿記入か終了したのである。なお、その後の点検作業によって、文書点数は二二五一点に訂正されたが、分類と点数は次の通りである。1戦国期間係一○2寺歴・住職関係三五○3江戸四箇寺関係九九4諸寺院関係二一一○5末寺関係五七○6幕府・明治政府関係二八五7紀州藩関係三○8寺院行事五二9信仰一○四m寺院経営二七五Ⅱ寺中関係六九m寺領一一一一一Ⅲ絵図・刊行物他六五 計二二五一点右のような分類によって、高尾山薬王院文書は、戦国期一○点その他は、大部分が江戸期と明治期が中心であることが明らかになった。この作業に当っては、事前調査から最終点検まで約三○日の調査日数と団長・調査員・院生・学生の調査参加の延人数は二○○名に及んでいる。調査に参加した大学院生・学部生のうち、特に中心になって継続的に作業に加わったのは次の諸君である。〔大学院生〕宇佐美ミサ子・米崎情実・酒井耕造・浦勇仁・吉岡孝、〔学部生〕高木知己・西沢淳男・水久保克英、〔0.B〕酒井恭子また、全日程に参加し、事務上の処理を担当されたのは、地方資料室の渡辺岩井氏であった。高尾山薬王院文書の調査内容については、一一月二二日(士)に、法政大学多摩キャンパス一○○周年記念館・国際会議場で開催された.法政大学第三回多摩シンポジウム「多摩の歴史と文化l文化財を考えるl」において、村上直教授が、「高尾山薬王院文書について」と題して講演を行なったが、当日のレジュメを次に掲載することにする。高尾山薬王院有喜寺は、現在、八王子市高尾町にある真言宗智山派、京都智積院末の寺院であり、成田山新勝寺、川崎大師平間寺とともに真言宗の関東三山の一つに数えられる名利である。寺伝の縁起によると「聖武天皇の天平一六年(七四四)、行基菩薩が勅命を奉じて開山せり」とあり、その後、 七○
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高尾山薬王院文書の調査について 院のご協力を得て、たが、このほど内{ることになった。 永和年間(一三七五~七九)に、山城国醍醐山より俊源大徳が入山して、飯縄権現を勧請してから関東一円にわたる信仰の中心となった。この中興開山の俊源が新義真言宗胱醐松橋無量寿院の法流を伝えたので、薬壬院は明治一五年に智山派になるまで醍醐寺末となって繁栄したのである。関東周辺の山々は、神仏が祀られている所が多い。この中で高尾山は、特に地理的条件や自然環境に恵まれ、その上に薬王院を中心に信徒の協力によって山の自然が保護され、かつての神仏融合の山岳信仰の姿を緑のなかによく残し、修験道の行事も今に伝えている。高尾山は戦国時代に小田原北条氏の勢力が拡大していくと、信仰の範囲が広まっていったが、滝山・八王子城を支城とする北条氏にとって、高尾山は政治的・軍事的に重要な位置を占めることになった。さらに江戸時代になると江戸近郊の信仰の霊場となり、寛永年間(一六一一四~四三)に建物の拡張工事も進永、高尾山参りして富士登山をする参詣人によって賑わい、その隆盛は多摩の歴史の発展とともに現在に至っている。この高尾山薬王院には、弘治三年(一五五七)「伝法灌頂阿闇梨位事」や永禄三年(一五六○)「北条氏康判物」をはじめ二二五一点に及ぶ古文書、絵図・刊行物が所蔵さされている。法政大学の地方資料室では、今年の六月二四日から薬王院のご協力を得て、全古文書の整理と目録の作成を行っていたが、このほど内容の整理分類が終って、その概要を紹介す 薬王院文書は、|応、⑩戦国期関係(’○点)、②寺歴住職関係(一一一五○点)、③江戸四箇寺(触頭)関係(九九点)、③諸寺院関係(三一一○点)、⑤末寺関係(五七○点)、⑥江戸幕府・明治政府関係(一一八五点)、、紀州藩関係(三○点)、⑧寺院行事(五二点)、⑨信仰(’○四点)、⑩寺院経営(二七五点)、⑪寺中関係(六九点)、⑫寺領(二一二点)、⑬絵図・刊行物(六五点)の一一一一項目に分類することができる。その内容は、戦国期関係が領主の寺院や山林の保護が中心であるのに対し、江戸時代になると古文書の性格も多様化し、薬王院の歴史や寺院経営、また、一七か寺に及ぶ末寺との関係、寺領における農民との関係、他の諸寺院や講中などを通しての庶民信仰の実態、さらに江戸幕府や明治政府と薬王院の関係などを解明することができる、きわめて貴重なものである。この高尾山薬王院文書は、今までごく一部が紹介されたにすぎなかったが、ここにその全貌がはじめて明らかにされることによって、多摩地域の歴史と文化にも大きく寄与していくことができると思うのである。高尾山薬王院文書はマイクロフィルムの撮影を行ったが、現在、この作業は終了した。全文書は当分、高尾山薬王院に返却せずに借用し、引き続き「文書目録」の作成と「史料集」の編集に取りかかることになっている。(文責・村上直)七
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