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(1)

シュテファン・グローテ 「第3の道」を求めて :  アルトゥール・カウフマンの法哲学 2

著者 上田 健二, グローテ シュテファン

雑誌名 同志社法學

巻 59

号 3

ページ 1‑118

発行年 2007‑09‑30

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011325

(2)

「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学② 1

(1884)

シュテファン・グローテ

「第 3 の道」を求めて:

アルトゥール・カウフマンの法哲学②

上 田 健 二 訳

     目  次 略語目録

第 1 部 始めるに当たっての諸々の所見  [頁番号は本誌第59巻第一号 1 頁以下を見よ]

A.本稿の目標設定:アルトゥール・カウフマン法哲学への一接近の試み 

Ⅰ.アルトゥール・カウフマンの法哲学

Ⅱ.アルトゥール・カウフマンの法哲学上の作品 

Ⅲ.ひとつの時期を失した課題  B.伝記上の背景 

Ⅰ.序言

Ⅱ.アルトゥール・カウフマンの生涯の道

Ⅲ.理解背景としての伝記的背景 1 .アルトゥール・カウフマンの解釈

2 .ヴィンフリート・ハッセマーとウルフリット・ノイマンの解釈 C.アルトゥール・カウフマンの現実性理解 

Ⅰ.現実性の過程的性格

Ⅱ.合理主義 D.中間的所見 

E.解釈学上の予備的諸考察 

Ⅰ.理解への道

Ⅱ.アルトゥール・カウフマンの思考様式

Ⅲ.アルトゥール・カウフマンの哲学理解

Ⅳ.道としての法哲学

Ⅴ.解釈学上の諸帰結

Ⅵ.「前理解」

Ⅶ.赤い糸としての「第 3 の道」を求める探究 F.「第 3 の道」 

Ⅰ.標語しての「第 3 の道」

1 .ひとつの流布している標語 2 .ひとつの魅惑的な隠喩

(3)

同志社法学 59巻 3 号 2

3 .法哲学上の議論における「第 3 の道」

Ⅱ.自然法対実証主義

1 .「法とは何か」という執拗な問い 2 .自然法 実証主義 問題の暫定的な説明 3 .さらなる処理方法にとっての諸帰結 4 .論争の現実性

Ⅲ.「第 3 の道」というものを求める探究 1 .現在の法哲学

2 .「第 3 の道」というものの重要な探究 3 .歴史上の諸々の所見

G.探究のさらなる進行 

第 2 部 アルトゥール・カウフマンの思考の道 

A.序言 

Ⅰ.思考の道の分割

Ⅱ.カントの認識批判 1 .存在論と認識論 2 .カントとヘーゲルとの間

3 .カントの認識論のアルトゥール・カウフマンの解釈

B.思考の道の第 1 節:存在論のフォーラムを前にした自然法論と法実証主義 

Ⅰ.歴史的状況

1 .法哲学の歴史性についての序言

2 .アルトゥール・カウフマンと自然法のルネサンス 3 .自然法のルネサンスから法実証主義へ

4 .歴史的自然法

5 .トマス流の自然法論のアルトゥール・カウフマンの解釈

Ⅱ.法の歴史性

1 .歴史性のカテゴリーについての序言 2 .諸々の熟慮の出発点

3 .相対主義と歴史主義 4 .法の客観性と収斂の原理 5 .絶対主義の自然法概念 6 .相対主義と絶対主義との間の道 7 .歴史性と法存在論

Ⅲ.法の存在論的構造 〔本誌本号〕 6

1 .実在存在論上の出発点 6

2 .普遍論争 7

3 .法の実在性 8

Ⅳ.法実証主義の一面性 10

1 .実践的実証主義と理論的実証主義 10

2 .法実証主義の存在論的根拠づけ 11

3 .法実証主義の認識論的根拠づけ 13

(1883)

(4)

「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学② 3

4 .反 形而上学としての実証主義 13

Ⅴ.伝統的な自然法論の一面性 14

Ⅵ.法の内的な緊張 16

Ⅶ.中間的帰結 17

Ⅷ.法の存在論的歴史性 18

1 .人間の歴史性 18

2 .人間の人格性 19

3 .実存哲学の現存在解釈 20

4 .時宜に適った法 21

Ⅸ.自然法と実定法 24

1 .法存在論の光のもとでの自然法実定法との関係 24

2 .附録:ラートブルフとフォイエルバッハにおける類似思想 26

Ⅹ.総括と帰結 27

1 .総括的な評価 27

2 .ひとつの「第 3 の道」? 29

C.思考の道の第 2 節:自然法と法実証主義を突破して法学的解釈学へ  30

Ⅰ.序言 30

Ⅱ.解釈学的構想の成り立ち 31

1 .歴史上の背景 31

2 .法存在論から法学的解釈学へ 32

Ⅲ.法律と法 34

Ⅳ.類比 書の主要思想 36

1 .存在と認識との類比性 36

2 .法の実現手続き 38

3 .「事物の本性」 40

4 .カール・エンギッシュにおける類似の思想 43

Ⅴ.アルトゥール・カウフマンの哲学的解釈学の習得 44

1 .法学的および哲学的解釈学 44

2 .主観 客観 分裂 46

3 .法発見過程の解釈学的な質:前理解と解釈学的循環 46

     4 .解釈学の存在論的方向転換 49

   Ⅵ.附論:解釈学と自由法運動 51

   Ⅶ.論文『自然法と法実証主義を突破して法学的解釈学へ』(1973/75年) 53

     1 .序言 53

     2 .方法二元論からの方向転換 53

     3 .自然法と法実証主義の方法論上の類縁性 55

     4 .解釈学上の法理解 57

     5 .法適用者の積極的な役割 58

     6 .解釈学の光のもとに照らし出された正しい法 59

     7 .法律の意義 59

   Ⅷ.批判的評価 60

     1 .序言 60

(1882)

(5)

同志社法学 59巻 3 号 4

     2 .存在と当為との分離 61

     3 .演繹メカラニズムと当てはめイデオロギー 63

     4 .ハンス・ケルゼンの当てはめの理想 65

     5 .中間的帰結 68

   Ⅸ.解釈学的構想のさらなる展開と自然法 実証主義 問題 69

     1 .序言 69

     2 .主観 客観 図式からの方向転換 69

     3 .アルトゥール・カウフマンの後期作品における法学的解釈学 72

   Ⅹ.ひとつの「第 3 の道」? 73

     1 .「第 3 の道」としての法学的解釈学 73

     2 .他の手段をもってする自然法思想のひとつの継続か 75

     3 .具体的な自然法か 79

     4 .超越論哲学としての解釈学 82

D.思考の道の第 3 節:人格的法哲学  85

   Ⅰ.序言 85

   Ⅱ.論文『法学的解釈学の存在論的根拠づけのための思想』(1982年) 86

     1 .もうひとつの新たな問題設定 86

     2 .法の発見過程の不可任意処分的なものとしての「事物法」 87

   Ⅲ.諸関係の存在論 91

     1 .法の類比性から関係性へ 91

     2 .人格と人間的諸権利 93

     3 .人格の不可任意処分性 96

     4 .関係的存在論の諸起源 101

     5 .中間的所見 105

     6 .関係的存在論のフォーラムを前にした自然法論と法実証主義 106

   Ⅳ.人格的に裏づけられた正義の手続き理論 110

     1 .序言 110

     2 .真理性ないしは正義の手続き理論 111

     3 .討議理論 112

4 .アルトゥール・カウフマンの手続き的正義理論 113

5 .自然法と実証主義のかなた 116

E.総括  [以上本号] 117

第 3 部 アルトゥール・カウフマンの「第 3 の道」 

A.序言

B.アルトゥール・カウフマンの人格的法哲学:「第 3 の道」か、それとも自然法理論か

Ⅰ.附論:自然法対実証主義 ― 第 3 のものは与えられていない(terutium non datur) のか

Ⅱ.自然法と不可任意処分性 1 .法による不可任意処分性の理念

2 .アルトゥール・カウフマンと不可任意処分性を問う問い

(1881)

(6)

「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学② 5

Ⅲ.人格的法哲学の自然法的内実 1 .主観的、歴史的および消極的自然法 2 .「弱い自然法論」としての人格的法哲学 C.グスタフ・ラートブルフと「第 3 の道」

Ⅰ.序言

Ⅱ.グスタフ・ラートブルフにおける法概念と法理念

Ⅲ.「第 3 の道」としてのラートブルフの法概念

Ⅳ.自然法と実証主義との間のラートブルフの後期哲学

1 .法律上の不法と法律を超える法についてのラートブルフ公式 2 .自然法 実証主義 問題の「解決策」としてのラートブルフ公式 3 .弱い自然法論としてのラートブルフ公式

4 .人格的法哲学と法律を超える法   総括と完結的な諸考察

  文献目録

(1880)

(7)

同志社法学 59巻 3 号 6

Ⅲ.法の存在論的構造

1 .法存在論の出発点

 何よりも先ず、法存在論の探究の哲学上の基盤を考察しておくことが合目的的であ るように思われる。その初期の公刊物のなかでアルトゥール・カウフマンはアクィナ スの存在哲学(563)に準拠しているばかりでなく、彼は形而上学と存在論に関する同時代の 著作物にも詳細な顧慮を払っている

(564)

。法の存在論的構造を分析するに当たってアルト ゥ ー ル・ カ ウ フ マ ン は 現 象 学 者 ヘ ド ヴ ィ ク・ コ ン ラ ー ト マ ル チ ウ ス(

Hedwig Conrad-Martius

)によって仕上げられたような存在の理論

(565)

に結びついている。この ような「実在的存在論」をいくらかの指摘を通して説明することが求められる

(566)

。  すべての実在的な諸物(実在的存在)では、本質性と現存在、本質と実存、可能性 と現実性の二重性が成り立っている。このような一対から実在的存在が生じてくる。

すなわち実在的存在というものは本質的内実というもの、現存在に帰属しているので ある。理念的な諸形象はひとつの思想上の実存しか所持しておらず、どのような本来 的な実存をも所持していない。実在的な諸物は、これに対してひとつの対象的な実存 形式であり、それらは単に表象のなかでのみ実存している。それらの実在性は、本質 性が有体的な形態を獲得することを通してはじめて成り立つ。実在的存在論の見方で は、この有体物は「存在の衣服」であり、ある現存在者の「住居」である

(567)

。  本質と実存とのカテゴリー上の区別はスコラ哲学に由来する

(568)

。アルトゥール・カウ フマンは、トマス・アクィナスが言い表した概念的諸規定を受け継いでいる

(569)

。アクィ ナスにあっては、本質とはある物の定義を通して表示されるところの物である

(570)

。それ

(563) カウフマンの諸々の論述は古典的な形而上学とスコラ哲学の思想界に深く浸透してい る。このような精神的全連関を、しかしながら示唆することができるだけであって、それ というのもそれへの厳密かつ詳細な立ち入りは本稿の枠を著しく超えるからである。

(564) 本稿はこのような背景を包括的に汲み取ることも断念しなければならない。

(565) Vgl. Conrad-Martius, JPPF (1923), 159 ff.

(566) これについては、Kaufmann, Naturrecht und Geschichtlichkeit (1957), S. 19; Ders., Schuldprinzip (1961), S. 90 f.; Ders., Die ontologische Struktur (1962/65), S. 112 f.

(567) Conrad-Martius, JPPF 6(1923), 188.,参照。

(568) カウフマンがスコラ哲学の思考カテゴリーを受け継いていることから、その存在論上の 諸々の論述は部分的にしか法哲学者たちに受け容れられていないといってよい。

(569) これについては、 Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 91: Ders., Die ontologische Struktur (1962/65), S. 112., 参照。

(570) Thomas von Aquin, Über das Sein und Wesen, S. 18.― カウフマンは小著『存在と本質

(„ente et essentia“)』から彼の存在論的思考にとって重要な諸々の刺激を受けた。彼はオー

(1879)

(8)

「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学② 7 はある一定の対象を所持することができる諸要素を包括している(571)。実存はこの諸々の 可能性の実現と現実化である。

2 .普遍論争

 本質性と現存在については中世以来議論されている(572)。この哲学上の論争は有名な普 遍論争と関連している。カウフマンの著作物では、普遍論争がしばしば言及されるの であって、それというのもスコラ的形而上学のこの係争問題は現在の法学方法論にと って大きな意義を有しているからである

(573)

。この箇所ではもちろん、「古くからの、し かしつねに新たに芽生えてくる

(574)

」普遍論争を詳細に説明することはできないのである が、しかしカウフマンの立場をいくらかの言葉をもって示唆することが求められる。

 普遍論争で問題になっているのは、「どのような仕方で普遍的なものは実存在する のか、それは『そのことの前に(ante rem)』実在的に現に存在しているのか、それ は『そのことの中に(in re)』のみ実在的な個別的なものによって担われた本質とし て生ずるのか、それともそれは『そのことの後に(post rem)』にのみ思考する精神 によって形成された概念として現存在を所持するのか

(575)

」ということである。アルトゥ ール・カウフマンはこの最初の見解(概念実在論)と最後の見解(唯名論)を否認す る。彼は、ひとつの中間の道を表わしている第 2 の見方(相応した実在論)のほうを 取ることにしている

(576)

 普遍問題のこの判断を通して本質と実存との関係を問題とする問いにも答えられ る。すなわち、両存在要素を実在的な差異性(

“distinctio realis”

)という意味におい

ストリアの法哲学者ルネ・マルチッチ(René Marcic)に宛てた一通の手紙のなかで、「お そらくこの小作品(opusculum)には『神学大全』(Summa theorogica II, II, 57 ff.)におけ るよりも重要なことが差し込まれている」と記している(Marcic, Gesetzesstaat, S. 158から の引用)。

(571) トマスの存在論では本質は潜在力として解釈される。

(572) これについては、たとえば、Hessen, Wirklichkeitslehre, S. 35 ff.

(573) これとは別の意見を、Higendorf, Argumentation, S. 58 ff.が提唱している。Wiehart, in:

Gröschner/ Dierksmeyer/Henkel/Wiehart, Rechts- und Staatsphilosophie S. 177をも見よ。

(574) Kaufmann, Analogie (1965), S. 315.― ついでに述べられるべきは、普遍論争は今日で は分析的論在論のひとつの核心的なテーマであるということである。

(575) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 93; Ders., Die ontologische Struktur (1962/65), S. 115.

(576) こ れ に つ い て は、Kaufmann, Recht und Sittlichkeit 1964), S. 241 f.; Ders., Analogie (1965), S. 316 ff.; Ders., Vorüberlegungen (1986), S. 295をも参照。このような立場は、諸物を相応か つ性格にではないが、しかし類比的にのみ把握することができるという認識論上の帰結を 有している。

(1878)

(9)

同志社法学 59巻 3 号 8

て理解することはできない、ということである。しかしまた同様に、本質と実存との 差異を単に思考のなせるひとつの業(

“distincto rationis”

)として把握することも失 当である。問題となっているのは確かに思考上の区別であるが、しかしそれは実質的 に条件づけられているのである(

“distincto rationis cum fundamento in re”

(577))である。

「われわれは思考しながら相存在を現存在から区別することができるということは、

その根拠を存在者それ自体の構造のなかに有しているのである(578)。」

 本質と実存とは「確かに具体的かつ実在的にはひとつのものであるが、しかし存在 論的には異なっているのである

(579)

」。アルトゥール・カウフマンはそこから、「存在論的 差異」という言い方をする。彼には、この表現がマルチン・ハイデガーの哲学ではこ れとは別の意義を有していることから決して免れない。すなわちハイデガーの場合で は、「存在論的差異」は存在と存在者の差異を表示しているのである

(580)

3 .法の実在性

 すべての実在的存在の場合に生ずる本質と実存とのカテゴリー上の二重性は実在的 な法

(581)

の場合にも示されるのであって、それというのもそれは法の本質性と法の実存か ら成り立っているからである。カウフマンはこのような二つの要素を「自然法性」と

「実定性」と呼んでいる

(582)

。実在的な法とは、それゆえに「法の本質性の現前性と自然 法性の実定性である

(583)

」。

 これらの構成要素の間に成り立っている関係は「同一性の関係としてでもなく、必 然的な合一化の関係としても理解されてはならず、それは両極性0 0 0の関係として、した

(577) カウフマンはこの思考公式を、Hessen, Wirklichkeitslehre, S. 41から受け継いでいる。

(578) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 94; Ders., Die ontologische Struktur (1962/65), S. 116.

(579) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 94; Ders., Die ontologische Struktur (1062/65), S. 116.

(580) V g l . H e i d e g g e r, Vo m We s e n d e s G r u n d e s , S . 15. これについては、S c h ä f e r. D i e Rechtsontologie Martin Heideggers, S. 88.― カウフマンの見解によれば、本質と実存との差 異を基盤としてのみ、存在論を展開することができるのである。Vgl. Kaufmann, Schuldprinzip

(1961), S. 91.

(581) アルトゥール・カウフマンの初期の著作物のなかでは、「実在的な法」という概念は どのような一義的な意義を有しているわけでもない。すなわち、それを諸規範と法的諸判定 に関係づけることができる、ということである。しかし傾向としては、法は、具体的な判定 を通してはじめて実在性に到達するという思想が前面に押し出されるのである。

(582) Kaufmann, Naturrecht und Geschichtlichkeit (1957), S. 20., 参照。

(583) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 92; Ders., Die ontologische Struktur (1962/65), S. 113.

(1877)

(10)

「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学② 9 がって相互的な関係、補充および支援というものとして理解されなければならない(584)」。

この思想はひとつの具象的な比較を通して明らかにされる。「人間はそもそも、魂0と 肉体とが協働してはじめて人間であるのと同様に、実在的な法もまた自然法性と実定 性とが互いに入り混じることと互いに関係し合うことを通してはじめて成り立つので

ある(585)。」

 共同して現実に成り立っている法を構成しているこの二つの存在要素はカウフマン によって次のように定義される。すなわち法の本質性ないしは自然法性が意味してい るのは、「具体的な法内容の正当性(真理性

(586)

)」である。法の実定性が意味しているの は、「それがわれわれにとって確認可能であり、われわれがそれを取り扱うことがで き、われわれがそれを規範としてわれわれの法的な諸々の行為と判定のために適用す ることができるほどの、その本質の現実化と具体化の程度である

(587)

」。

 実定性のこのような説明は、概念がひとつの「新しい、深められた意味

(588)

」を獲得し たことを示している。アルトゥール・カウフマンが批判的に見ている支配的な意見に よれば、実定性が意味しているのは、「ある規範がある主観によって定立されている こと

(589)

」である。このような意味において「実定的」である多くの規定は、カウフマン の規定によっても実定性を有しているのであるが、しかしいくらかの法的諸規範の場 合では、彼の見解はこれとは別の判断に導く。「ある主観の定立的な行動に由来して いない実定法が存在している。すなわちその実定性が持続的な習慣(usus continuus)

において成り立っている慣習法と、その明白性によって実定的である具体的な自然法 的諸命題が存在している ― そしてその大きな抽象性とその諸々の限界の不明確性ゆ えに存在論的には実定的と呼ぶことができない法律諸規範が存在している。いわゆる

(584) Kaufmann, Die ontologieche Struktur (1962/65), S. 110 (強調は原典のなかで).― 諸々 の両極性における思想がカウフマンの法哲学の特徴的な基本的様相であることについては、

すでに触れらている。

(585) Kaufmann, Die ontologische Struktur (1962/65), S. 110 (強調は原典のなかで).―Heydte,

ARSP 43 (1957), 220 f., はこれと類似した見解を提唱している。

(586) Kaufmann, Naturrecht und Geschichtlichkeit (1957), S. 20.

(587) Kaufmann, Naturrecht und Geschichtlichkeit (1857), S. 19.; vgl. auch Dens., Feuerbach (1984), S. 182.― これと比較し得る見解が、Hauser, Civitas II (1963), 27:「法が 実定的であるということが意味しているのは、それが命令する権力性を所持していること、

それが具体的な有体性を有して現実化されているおり、それゆえに正確に確定しかつ取り扱 いすることができるということである」に見られる。

(588) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 92; Ders., Die ontologische Struktur (1962/65), S. 113がこのように言う。

(589) Luhmann, JbRSoz. I (1970), 182もまた、この実定性概念を提唱している:「定立されて おり、決定の力によって妥当している法が実定的0 0 0と表示される」(強調は原典のなかで)。

(1876)

(11)

同志社法学 59巻 3 号 10

一般条項である(590)。」

 先の諸論述のなかで描き出されたカウフマンの存在論的に裏づけられた法観は二つ の「存在原理(591)」から出発しているのであり、したがってそれはひとつの二元論的な(592)立 場である。このような見地から見れば、実在的な法をただひとつの存在原理に還元し ている一元的な諸理論は、それゆえに法の存在論的な実在構造を見誤っているのであ る。カウフマンはその初期の著作物において、法学上の実証主義と伝統的な(観念論 的 絶対主義的な)自然法教義が一面的な、一元的な法的諸理論であることを示した。

その論証が以下において解説される。

Ⅳ.法実証主義の一面性

1 . 実践的実証主義と理論的実証主義

 カウフマンの初期の著作物では ― すでに言及されたように ― 、ドイツの法律家 を言うところの無防備にさらしてしまった実証主義的な法的思考を克服するという意 図が示されている。とりわけ教授資格論文のなかでは、実証主義の一面性と不可支持 性が詳細な論証を通して証明しようとする試みが企てられる。

 カウフマンは実証主義を二つの種類に区別する。すなわち実践的な実証主義と理論 的なそれとにである。実践的な実証主義の変型は、いっさいの理論的な根拠づけを欠 いているような「法についての純然たる事実的な内心的な態度

(593)

」である。このような 内心的態度は、カウフマンの目には「皮相かつ低劣である

(594)

」。彼の考え方によれば、

批判的な論述というものは法実証主義の理論的な変型についてのみ行なわれなければ ならない。

 理論的な法実証主義にとっての科学的な根拠づけを ― カウフマンによれば ― 二 つのテーゼに還元することができる。「そのひとつは存在論的な、もうひとつは認識 論的な種類のものである

(595)

。」以下の諸論述は、どのようにしてカウフマンはこの両テ ーゼを開明するのかを解説する。

(590) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 92.

(591) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 90; Ders., ontologische Struktur (1962/65), S.

112.

(592) 一元論的思考と二元論的思考については、vgl. auch Kaufmann, Das Recht im Spannungs feld (1972), S. 116.

(593) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 45.

(594) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 45.

(595) Kaufmann, Schuldprinzip (1861), S. 45.

(1875)

(12)

「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学② 11 2 .法実証主義の存在論的根拠づけ

 法実証主義は「実定性0 0 0を法の実存と妥当性のただひとつの決定的なメルクマール(596)」 とみなす。これが実在的存在論上の見方において意味しているのは、実証主義が法の 実存的な構造要素しか目標としておらず、現実的に成り立っている法の本質的な構造 要素(実質的な正当性)はこの教義にとっては重要ではないということである(597)。その 限りでこの実証主義理論は実在的な法の両極的な構造を射損じているのである。アル トゥール・カウフマンは、法実証主義の存在論的な基本思想を正確に表現するた め に

(598)

、 ジ ャ ン・ ポ ー ル・ サ ル ト ル(

Jean Paul Sartre

) の ひ と つ の 有 名 な 公 式

“L’existence précéde l’essence”

を引用している ― すなわち、実存が本質に先立つ

(599)

、 ということである。

 このフランスの哲学者の周知の解決策への指示は、実存主義と法実証主義とのひと つの注目すべき比較へと導く

(600)

。このような対置が、両思考方向が同じ存在論的な構想 に基づいていることを例証するものとされるのである

(601)

。  実存は本質に先立つ

(602)

というその「大変革をもたらす主張

(603)

」をもってサルトルは ― 簡単に言えば ― 人間の本質がアプリオリに固定されていないこと、どのような抽象 的な人間の本性も存在していないことをはっきりとさせようとするのである。サルト ルは、「人間が先ずもって実存しているのであり、世界のなかに立ち現れて、然る後0 0 0

(596) Kaufmann, Die ontologische Struktur (1962/65), S. 105 (強調は原典のなかで).― しか し、法実証主義の様々な変型が実定性の概念を様々に規定していることが顧慮されなけれ ばならない。

(597) Kaufmann, Zur rechtsphilosophischen Situation (1963), S. 177:「法実証主義は、も っ ぱ らコーヒー缶に貼られた品名だけが重要であって、商人が事実として缶の中身を満たしたも のは、実際にコーヒーがそのなかに入っていることがもちろん望ましいとしても、問題では ないと主張するような人に喩えられる。」:をも参照。

(598) Kufmann, Schuldprinzip (1961), S. 45; Ders., Die ontologische Struktur (1962/65), S. 105.

(599) Sartre, Ist der Existentialismus ein Humanismus?, S. 9. 11., 参照。

(600) このような比較は、伝統的な法哲学を一般的な哲学の現代的な展開諸傾向と結びつける カウフマンの能力を裏がきしている。

(601) すでにFechner, ARSP 41 (1954/55), 314 ff., をも見よ。彼は、サルトルの実存哲学が法 実証主義のひとつの新たな根拠づけとして現れることを確証している。

(602) このテーゼは、すべての実存哲学者に共通した根本的思想であろう。Sartre. Ist der Existenzphilosophie ein Humanismus?, S. 9; Maihofer, Recht und Sein, S. 26を 見 よ。 ― Maifofer, Konkrete Existenz, S. 258は、サルトルのテーゼに表現されている思想をすでに Ludwig Feuerbachに見出すことができると述べている。

(603) Baratta, Juristische Analogie, S. 159.

(1874)

(13)

同志社法学 59巻 3 号 12

0自らを定義するのである」ということから出発する(604)。人間はそれゆえ、その本質を 投企すべく断罪されているのである。

 カウフマンは実存主義の立場を次のような言葉をもって評釈する。「サルトルのこ のような存在論的な構想において実存が本質に対して、後者が前者に解消してしまう ほどに優位に立っているのである。人間の本質が絶対的な自由から生ずるその所為で あるならば、その本質はまさにその実存よりほかの何ものでもない。この本質はそれ ゆえ、結局のところ実存と同一化されるのである(605)。」

 実存主義的存在論に関しては、カウフマンはそのうえに、「このような構想を法の 世界に移し変えるならば、法実証主義の最も極端な形式を意味している

(606)

」ことを確認 している。サルトルの指導思想が法の領域に移し変えられるならば、法律上の秩序

(607)

に 前もって与えられているどのような不可任意処分的な内実も存在していない。「法の 実定性が内的な法的内実に存在論的に先立っているのであれば、それどころか、後者 が前者と同じであるのであれば、立法者は、何が法であるべきかの規定において絶対 的に自由である

(608)

。」

 カウフマンの論述によれば、本質に対する実存の優位の根底には「真正な法実証主 義のすべてが置かれている

(609)

」のであり、それはいわば実証主義の教義の形而上学的 存在論的基盤をなしているのである。とはいえ、現代の法実証主義が事実としてサル トルによって鼓舞されたのかは疑わしい。カウフマンは後期のある公刊物のなかで、

サルトルとハイデガーの実存哲学が実証主義を「補佐した

(610)

」と主張している。

 アルトゥール・カウフマンの見方では、 ― 存在論的出発点と並んで ― 実存主義 と法実証主義との間にはなおもうひとつの一致が存在している。すなわち両方向が唯 物論的である

(611)

、ということである。ジャン・ポール・サルトルの唯物論は、「彼が物 質的なそれ自体に完全に空虚な絶対的自由というものを対置していることに成り立っ

(604) Sartre, Ist der Existentialismus ein Humanismus?, S. 11 (強調は原典のなかで).

(605) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 46; Ders., Die ontologiesche Struktur (1962/65), S. 106.

(606) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 47.

(607) 厳密に考えられるならば、サルトルは法律上の秩序というものを原則的に拒絶している のである。その限りでその実存哲学上の端緒は実証主義的な法的諸理論から区別されるの である。

(608) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 47.

(609) Kaufmann, Schuldprinzip (1961)、S. 47.

(610) 現に、Kaufmann, Problemgeschichte (1994), S. 94がこのように言う。

(611) しかしながらアルトゥール・カウフマンは、このようなテーゼに対してはどのような説 得的な根拠づけも与えていない。Peschka, Grundprobleme, S. 196をも見よ。

(1873)

(14)

「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学② 13

ている(612)」。唯物論的な性格というものを法学上の実証主義も有しているのであって、

それというのもその理想は「計算可能性と取り扱いやすさ、すなわち法の自然科学的 な可処分性である(613)」からである。

3

. 法実証主義の認識論的根拠づけ

 いましがた明らかにされたように、理論的な実証主義の存在論的な変型は、形而上 学的な諸内実が前もって与えられていることを争う。これに対して認識論的に根拠づ けられた実証主義

(614)

は、形而上学的な諸内実を認識することができないと主張する。

 一般哲学では、イマニュエル・カントを認識論的に根拠づけられた実証主義の父と みなすことができる。法哲学の領域では、「このように認識論的に裏づけられた実証 主義を最も印象深く提唱したのはグスタフ・ラートブルフであるといってよい

(615)

」。法 律を超える法へのその転向の前に、アルトゥール・カウフマンの師は次のように論証 している

(616)

。すなわち、正しい法(自然法)を十分な厳密さをもって認識することは可 能でない、というように。それゆえに権威の作用というものを必要としている ― す なわち、何が法であるべきかを立法者が決定しなければならない、というわけである。

4

. 反 形而上学としての実証主義

 以上の諸々の論述は、アルトゥール・カウフマンが法実証主義を存在論的なテーゼ と認識論的なそれに還元していることを明らかにした。この二つの根拠づけの端緒は ひとつの重要な点において、つまりは形而上学を否認するということにおいて一致し

(612) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 46.

(613) Kaufmann, Schuldprinzip (1931), S. 47. Dens., Zur rechtsphilosophische Situation

(1963), S. 176:「実証主義にとっては、法をその本質から認識することが問題なのでなく、

それは法を技術的に可処分的なものにしようとしているのである。その最も内的な志向は法 の計算可能性、取り扱いやすさである」:をも見よ。

(614) これについては、Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 47.

(615) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 47.

(616) たとえば、Radbruch, Der Retativismus, S. 18:「自然法というものが、一義的な、認識可 能で証明可能な法学上の真理性というものが存在しているのであれば、何ゆえにこのよう な絶対的な真理性と矛盾しているような実定法が義務づける力をもつべきだとされるのか を、どのような仕方であっても洞察することができないであろう ― それは、覆われてい た真理性の前に暴露された誤謬と同様に消滅しなければならなかったのであろう。実定法 の義務づける力はまさに、正しい法を認識することも証明することもできないという事実 にしか根拠づけることはできないのである」:を参照。

(1872)

(15)

同志社法学 59巻 3 号 14

ている(617)。存在論的なテーゼによれば、法はどのような形而上学的な(自然法的な)内

実をも有しておらず、認識論的なテーゼによれば、この内実を、いずれにせよ認識す ることができないのである。

 アルトゥール・カウフマンの見方によれば、形而上学の排斥が法実証主義の決定的 な言明である。彼は、「法実証主義は法の積極的な内容について何ら積極的なことを 言明しているのではなく、法の超実定的な内実への否認に尽くされている(618)。法学上の 実証主義を理論的に正当化する試みは「完全に否定的なもの」に固執したままで ある

(619)

。このように消極的な、否認的かつ虚無主義的な

(620)

性格は一般的な哲学の場合にも 示される。「法実証主義が反 自然法であるのと同様に実証主義は反 形而上学で ある

(621)

。」

 その教授資格論文のなかでアルトゥール・カウフマンは、科学上の認識は形而上学 を前提としているという見方を提唱している。このテーゼは詳細な論証によって裏づ けられる

(622)

。カウフマンは、形而上学に対する闘争は根本において「無意味な闘争

(623)

」で あることを証明しようとするのであり、彼は、それ自体と矛盾している一般的な実証 主義と法実証主義が支持できないことをはっきりとさせようとするのである

(624)

Ⅴ.伝統的な自然法論の一面性

 カウフマンの判断によれば、伝統的な自然法論は法実証主義と同様にひとつの一元 論的かつ一面的な理論であって、それというのもそれは同様に法の実在的な存在論的 構造を射損じているからである。実証主義が法の実存的な構造要素にしか照準を合わ

(617) Vgl. Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 48.

(618) Vgl. Kaufmnn, Schuldprinzip (1961), S. 48.― これと比較可能な見方をHruschka, Das Verstehen, S. 14 f, 93が提唱している。

(619) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 48.彼は的確に、法実証主義を本来的に「法否認主 義」と呼ばなければならないであろうと言う。

(620) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 49は、Strauß, Naturrecht und Geschichte, S. 4 f.の論定を指示している。それによれば、「自然法の現在的な否認は虚無主義へと導くばか りでない、否、それは虚無主義と同じである」。

(621) Kaufmann, Schuldprinzip (1061), S. 42 ― カウフマンはそれゆえ、法学上の実証主義 と一般哲学上の実証主義との間にひとつの関連が成り立っていることから出発しているの である。

(622) Vgl. Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 49 ff.

(623) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 54.

(624) 実証主義的循環についてはなお、Kaufmann, Über den Zirkelschluß (1973), S. 68をも参 照。

(1871)

(16)

「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学② 15 せていないのに対して、自然法論は本質的な構成諸要素しか把握していないので

ある(625)。法の本質性(自然法性)が法の実存(実定性)に対して、「後者が実際上もは

やどのような役割ももはや演じない(626)」ほどに上位を占めるのである。自然法教義がそ こから出発している存在論上の基本思想は、それゆえに実存主義的なテーゼのひとつ の裏返しである。すなわちこの場合では、本質が実存に先立っているのであり、この 場合では、「法の実存が法の本質によって飲み込まれる(627)」、ということである。

 とはいえ、アルトゥール・カウフマンが、われわれにとりわけ十八および十九世紀 から伝えられてきた自然法思想のある一定の現象形式だけを批判していること

(628)

に留意 されなければならない。彼の批判は決して自然法理念それ自体を射抜いているのでは ない、それは、「自然法を実定法と並んで、もしくはそのうえに成り立っているひと つの純粋な本質法として把握し、その内容からして絶対的に正しくまた正義に適って おり、すべての人間とすべての時間にとって不変的な妥当性を所持している観念論的 で絶対主義的な自然法論(とくに合理主義)の見解

(629)

」を射抜いているにすぎないので ある。カウフマンの確信によれば、自然法がすべての時間とすべての人間にとって拘 束的でなければならないという思想は、「ひとつの徹底した合理主義的な思想として 学問上のお払い箱に追放しなければならない

(630)

」のである。

 実定法を超えて普遍妥当的な諸内実をもつひとつの規範的建造物を打ち立てようと する合理主義的な自然法教義は、カウフマンによって否認されるのであって、それと いうのもそれは、「実定性が法の実在性のひとつの不可欠な条件である

(631)

」ことを見過 ごしているからである。カウフマンが仕上げた存在論的に裏づけられた法観によれ ば、実定法しか存在することができない。すなわち「いわゆる超実定な法というもの はいまだどのような法の実存0 0をも全く所持していない

(632)

」ということである。この論定 は新トマス主義の法論に対しても向けられているのであって、それというのも「いま だ観念論のなかに嵌まり込んだままである新トマス主義者たち

(633)

」の場合では、正義の 超実定的な諸原理が(第一次的)自然法をなしているからである。

(625) Welzel, Naturreht, S. 122:「実定性と理念性との間の緊張領域において観念論的な自然 法論は一面的に理念性に有利な結果になるように味方する。」:をも参照。

(626) Kaufmann, Die ontologische Struktur (1962/65), S. 108.

(627) Kaufmann, Die ontologische Struktur (1962/65), S. 108.

(628) Kaufmann, Die ontologische Struktur (1962/65), S. 109.

(629) Kaufmann, Die ontologische Struktur (!962/65), S. 131.

(630) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 62.

(631) Kaufmann, Die ontologische Struktur (1962/65), S. 109.

(632) Kaufmann, Die ontologische Struktur (1962/65), S. 109 (強調は原典のなかで).

(633) Kaufmann, Die ontologische Struktur (1962/65), S. 132がこのように言う。

(1870)

(17)

同志社法学 59巻 3 号 16

Ⅵ.法の内的な緊張

 以上の諸論述は、どのようにアルトゥール・カウフマンが法実証主義と自然法の一 面性を根拠づけたのかをはっきりとさせた。その論証は ― 単純化して表現すれば

― 実在的な法は、一面的に解消することが許されないような両極的な緊張から生き ているというテーゼに基づいている(634)。カウフマンに従えば、法の現実性を、二つの存 在要素の間を(法の本質性と法の実存との間を)貫いて支配しているこのような両極 性が成り立っている。しかし、法の内的な緊張を必ずしも存在論的に理解する必要は ない。

 実定性と自然法性との存在論的差異は、根本においてこれとは別の二つの区別と一 致する。アルトゥール・カウフマンはすでに初期の作品のなかで、法的安定性と実質 的な正義との緊張関係とのある種の一致が成り立っていることに言及している

(635)

。ある 後期の公刊物のなかではそのうえ、実定性と自然法性との差異は法の形式と法の内容 との区別と同じであることに言及される

(636)

。法実証主義と(観念論的 絶対主義的な)

自然法論の一面性を、次のような区別をもって指摘することもできる

(637)

。すなわち、実 証主義は法的安定性だけを際立たせ、自然法教義は法を一面的に正義の側面のもとで のみ見る、ということである

(638)

 実定性と法的安定性との関連は、カウフマンの初期の作品のなかでひとつの重要な 役割を演じている。実定性は彼の目には、それが法的安定性を保障していることから、

法の実在性のひとつの必要条件である

(639)

。カウフマンの評価によれば、この価値は伝統 的な自然法教義によって無視される。このような評価はおそらく戦後初期の判例によ って引き起こされたのであって、それというのも当時では、「多くの裁判所が言うと ころの自然法というものを援用して、望ましい判定への道を彼らに閉ざしている妥当 な諸々の法律をあっさりと無視し、法律には全く規定されていない刑罰を言い渡

(634) カウフマンの弟子であるヴォルフガング・シルト(Wolfgang Schild)は後に(ヘーゲル に関連づけて)これと比較し得る思想を提示した。シルトは、実定性と法的であることとい う二つの要素を含んでいる、それ自体において緊張に富んでいる法概念から出発する。こ のような哲学上の法概念で測定されるならば、法律実証主義と自然法論は一面的な立場で ある。Schild, Von Wert und Nutzen eines systematischen Rechtsdenkens, S. 185を見よ。

(635) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 43 f.; Ders., Die ontologische Struktur (1962/

65), S. 111を見よ。

(636) Kaufmann, Fünfundvierzig Jahre (1991), S. 485.

(637) Kaufmann, Fünfundvierzig Jahre (1991), S. 498がこのように言う。

(638) これについては、Maihofer, Naturrecht als Existenzrecht, S. 9 ff., をも参照。

(639) Vgl. Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 92.

(1869)

(18)

「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学② 17

した(640)」からである。

 ついでながら述べるべきは、アルトゥール・カウフマンが法的安定性と実質的な正 義との間の止揚し難い(641)緊張関係を法哲学史の解釈に当たっても顧慮しているというこ とである。

彼の論述(642)によると、十八世紀における合理主義の理性法的思考は法的安定性を無視

し、恣意司法というものを呼び起こした。これに対して十九世紀の法学的実証主義は 法の実定性にしか価値を置かなかった、ということである。

Ⅶ.中間的帰結

 これまでの諸論述をひとつの短い中間的帰結において総括しておくのは、合目的的 であるように思われる。アルトゥール・カウフマンがその初期の著作物のなかで法の 歴史性を視野に収めようとしたのであって、それというのも自然法と歴史性との関係 を問う問題は、彼の目には自然法論議の鍵問題だからである。カウフマンにとって法 の歴史的被制約性は何よりも先ずひとつの存在論上の問題であり、そこから彼は現実 的に成り立っている法の存在構造を探究するのである。

 実在存在論的な構造分析は、法を二つの存在要素に還元する両極的で二元論的な法 観へと導く。この分析を通して同時に、伝承された自然法論と法実証主義との対立を その存在論的な根源において把握する可能性が開かれる。「一面的かつ絶対的な自然 法論も一面的かつ絶対的な法実証主義も法の存在論的構造を射損なっているのであ り、そこから両者をその一面性と絶対性において科学的に支持することができない

(643)

。」

 存在論的な実在構造の探究は、歴史性が法の存在状態のなかに定着していることを 示すものとされる。そこで以下では、どのようにしてアルトゥール・カウフマンは法 の内的な歴史性を解しているのかが明らかにされなければならない。

(640) Kaufmann, Die ontologische Struktur (1962/65), S. 104 f.がこのように言う。

(641) Kaufmann, Analogie (1965), S. 313:「実質的な正義と法的安定性との間の永遠に続く緊 張を解消することはできないのであって、何といっても法的安定性は正義の一属性であり、

そこからあの緊張は正義それ自体の内部におけるひとつの緊張だからである。」:参照。

(642) Kaufmann, Gesetzesstaat – Richterstaat – Rechtsstaat (1964), S. 207 f.; Ders., Die Sprache als hermeneutischer Horizont (1969/72), S. 355; Ders., Wozu Rechtsphilosophie heute? (1971), S. 1; Ders., Theorie der Gerechtigkeit (1984), S. 28; Ders., Rechtsphilosophie

(1088/92), S. 12; Ders., Die Naturrechtsrenaissance (1991), S. 221 f.; Ders., Rechtsdogmatik

(1994), S. 7; Ders., Problemgeschichte (1994), S. 87; Ders., Rechtsbegriff und Rechtsdenke

(1994), S. 32.

(643) Kaufmann, Die ontologische Struktur (1962/65), S. 105.

(1868)

(19)

同志社法学 59巻 3 号 18

Ⅷ.法の存在論的歴史性

1 .人間の歴史性

 アルトゥール・カウフマンは「人間並びに法の時間性と歴史性をその存在のひとつ の構造形式として(644)」理解している。法の存在状態が人間の存在様式に相応しているこ とから、何よりも先ず人間的現存在の歴史性が存在論的な考察の焦点に据えられる。

カウフマンは人間の歴史性を(そして人格性を)本質と実存との存在論的差異という 思考モデルをもって説明する。その論証が、以下において素描される。

 それらの本質性を必ずしも現存在が所持していないこの世の諸物

(645)

の場合では、存在 論的差異は「変化、発展および崩壊にとっての根拠である

(646)

」。人間の場合では ― 精 神的な領域の場合では ― 、このような差異が特別な仕方で効果を現わす。すなわち、

本質性と現存在との緊張関係から人間にはその本質を実現しなければならないという 運命が成り立つのである。古典的な形而上学とスコラ哲学

(647)

に習ってカウフマンは、「本 質は達成すべき目標として実存に前もって与えられている」と論定する

(648)

。  カウフマンの見解

(649)

によれば、人間はひとつの固定している本質性というものを有し ている

(650)

。このような本質性は(スコラ的 トマス的な意味において)潜勢力として理 解される。人間はそれゆえ、その本質に備わっている諸々の可能性を現実のものにす るために気を配らなければならない、彼は、前もって与えられている本質を実現する という課題を有しているのである。このような課題を、しかし人間はその時代の諸条 件のもとにおいてしか充足することができない。そこから歴史は、「彼がそのなかで その本質に至らなければならない次元である

(651)

」。人間は行為しながらその自己実現と

(644) Kaufmann, Naturrecht und Geschichtlichkeit (1957), S. 21.

(645) 神の場合では、実存のなかに本質が成り立っている。Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S.

99., 参照。

(646) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 99.

(647) 伝統的な本質哲学については、Maihofer, Naturrecht als Existenzrecht, S. 15 ff.; Müller, Existenzphilosophie, S. 14 ff.をも見よ。

(648) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 101; Ders., Die ontologische Struktur (1962/65), S. 126.

(649) 人間の本質についてのカウフマンの諸々の論述は一義的ではないが、しかしそれらをこ の意味において解釈することができるであろう。

(650) カウフマンは確かに、この本質性は核心において不変的であることから出発している。

Kaufmann, Schuldprinzip (1991), S. 116(「人間の不変的な性質」).― 教授資格論文では、

責任原理が人間の本性から導き出される:参照。

(651) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 101; Ders., Die ontologische Struktur (1962/65),

(1867)

(20)

「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学② 19 その現存在の形態化を成し遂げるというようにして、抽象的な人間の本性が具体的 な、歴史的に可変的な形態を獲得するのである(652)

 彼に本質的に付着している本性を実現しかつ展開することは「人間に絶え間のな い、決して終結には至らない課題として課せられているのであり、彼が自由であるが ゆえに、彼は過つこともあり得るのである(653)」。人間がその精神の力によって時間と歴 史性の意識というものを所持していることから、彼が過去から学び、未来に向けて計 画を立てることができることから、彼はつねに新たに、「現在にとって正しい、言い 換えれば時宜に適った態度0 0 0 0 0 0 0 0というものを獲得しなければならないのである

(654)

」。

2 .人間の人格性

 アルトゥール・カウフマンにとっては、このような意味において解される歴史性は 同時に人間の人格性の根源である。「人格0 0とは、内的に自己完成へと向けて整えられ ている精神的な個別性である。しかし同時に人格は社会的個別性でもある。それとい うのも、生まれつき可能な限り包括的な本質充足へと素質づけられている人間は、

個々人としてはこの目標を限界づけられてしか達成することができないからである。

彼はそれゆえ、そのようにしてその存在の充満というものに達するためには、自らを 他者と結びつけなければならないのである

(655)

。」

 このように隣人へと差し向けられていることは、人間的現存在のひとつの本質的な 構成要素である。「彼をして他の人々を指し示させるのは、それゆえに人間それ自体 の精神的本性であり、その社会性は、たとえば外から人格に付け加わってくるのでな

S. 121.― カウフマンは、ハンス・ヴェルツエルがこれを比較し得る見解を提唱しているこ

とを指示している。Vgl. Welzel, ZStW 60 (1941), S. 464 f.

(652) カウフマンはアクィナスのひとつの思想を受け継いでいる。すなわち、トマス哲学によ れば、人間は、ひとつの抽象的な本性ばかりでなく、歴史的な性情に相応して変化するよ うな具体的な本性をも有している、という思想である。これについては、Hassemer, ARSP 49 (1963), 37をも見よ。

(653) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 101.

(654) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 101 (強調は原典のなかで); Ders., Die ontologische Struktur (1962/65), S. 121.

(655) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 102 (強調は原典のなかで); Ders., Die ontologische

Struktur (1962/65), S. 127.「人格」は思考の道の第 3 節においてひとつの重要な役割を演

じる。 ― カウフマンの初期の作品では、人間の人格性が繰り返し探究される。Kaumann, Schuldprinzip (1961), 116 ff.; Ders., Recht und Sittlichkeit (1964), S. 221 ff; Ders., Die Sprahe als herumeutische Hriont (1962/72), S. 334. ついでに述べられるべきは、人間の人格性につ いての法哲学の諸反省は刑法解釈論的な研究にも流れ込んでいる。たとえば、Die ontologische Struktur der Handlung (1966), S. 32, 45を見よ。

(1866)

(21)

同志社法学 59巻 3 号 20

く、それはその歴史的な人格性に、その精神的な完成能力と完成欲求にに基づいてい るのである(個人主義と集団主義との対置における社会連帯主義0 0 0 0 0 0(656)。」

3 .実存哲学の現存在解釈

 先の諸論述は、どのようにしてアルトゥール・カウフマンが存在論的な歴史性と本 質実現に素質づけられている人間の人格性を理解しているのかを明らかにした。その うえに、カウフマンが ― スコラ哲学の痕跡に従いながら ― 実存哲学の現存在理解 を批判したことに言及することが求められよう

(657)

 アルトゥール・カウフマンにとっては、歴史的存在の時間性は無時間的な内実とい うものを背景としてのみ意味を有している

(658)

。その見方からは、前もって与えられてい る本質は歴史性の超時間的な引き立て役である。カウフマンはそれゆえ、「それに従 えば人間の現存在解釈が時間性のなかに捕らわれたままである

(659)

」マルチン・ハイデガ ーから距離を置いているのである。

 人間の存在論的歴史性についてのカウフマンの詳論は、ジャン・ポール・サルトル の実存主義哲学と明白に対立してもいる。すでに言及されたように、このフランスの 哲学者は絶対的な、無拘束的な自由というものを告知している。これに対してカウフ マンは、人間はその生活の目標を恣意的に確定することができるのではないのであっ て、それというのも彼は前もって与えられたその本質性を実現するという定めを有し ているからである。「人間は絶対的に自由であるのではない。彼は、私が行なうもの が何であれ、私は私の本質を完遂しているということができないのである(660)。」

 アルトゥール・カウフマンが人間の前もって与えられている本性から出発している ことから、ヴェルナー・マイホーファーの実存主義的な自然法論との明確な対照とい うものが成り立っている。マイホーファーによれば、人間はどのような固定的な本質

(656) Kaufmann, Schuldprinzip (1916), S. 102 (強調は原典で); Ders., Die ontologischer Struktur

(1962/ 65), S. 127 f.― ヴェルナー・マイホーファーは(実存哲学の見方から)「自己存在」

と並んで「としての存在」を設定した。この分離をアルトゥール・カウフマンは否認する。

Kaufmann, Recht und Sittlichkeit (1964), S. 224 f.

(657) 彼の論証は、しかしながらカール・ヤスパースの実存哲学に反対することには向けられ ていない。

(658) これについては、Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 105 f.参照。

(659) Kaufmann, Naturrecht und Geschichilichkeit (1957), S. 44 Fn. 50がこのように言う。

(660) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 101; Ders., Die ontologische Struktur (1962/65), S. 126.

(1865)

(22)

「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学② 21 的実体でもなく、彼はその本質それ自体をもたらさなければならないのである(661)。それ ゆえに予期された投企としての自然法が構想されるのであるが、それは「人間の歴史0 0 0 0 0 的な自己0 0 0 0 決定の事前的構想0 0 0 0 0 0 0 0という(662)」意味を有しているのである。

4 .時宜に適った法

 アルトゥール・カウフマンは、法の存在構造は人間の存在態様に相応するという見 解を提唱している。彼はこの見方を、存在の類比についてのスコラ哲学の公理をもっ て根拠づける。有の類比論の哲学上の

(663)

根本思想は次のように説明される。「トマス・

アクィナスをその古典的提唱者とみなすことができる有の類比(analogia entis)につ いての理論は、個別的な存在者は確かにすべてがひとつの存在に関与しているが、し かしそれぞれに異なった仕方においてである ― もしくは別の言葉で表現すれば、存 在はただひとつのものであるが、しかしそれは多くの存在者に等しい仕方で帰属する のではないということに成り立っている。存在と存在諸内実とは万物のなかで比例的 に等しい段階において実現されている、言い換えれば、存在者の段階秩序というもの が存在しているのである

(664)

。」

 法の存在構造が人間の存在態様に相応していることから、法は、人間が歴史的であ るのと同じ意味において歴史的である

(665)

。法の歴史性は、それゆえに存在論的差異から 帰結するのであり、そしてこの場合でも本質が実存に対して達成すべきテロスとして 優位を占めているのである。すなわち人々は、「それが彼らに前もって与えられてい るように

(666)

」、法を実現しなければならないのである。

 カウフマンの諸々の論述からは、何が法の本質であるかが一義的には明らかになら

(661)  こ れ に つ い て は、Maihofer, Naturrecht als Existenzrecht, S. 15 ff.; Ders., Ideologie und Naturrecht, S. 145を見よ。 ―Kaufmann, Recht und Sittlichkeit (1964), S. 234/235をも見 よ。

(662) Maihofer, Naturrecht als Existenzrecht, S. 21 (強調は原典のなかで).―Seubold, ARSP 84 (1998), 338 Fn. 58の見解によれば、アルトゥール・カウフマンにはこれと比較し得る自 然法の展望的な構想が見られる。しかしながらゾイボルト(Seubolt)は、カウフマンが前 もって与えられている本質というものから出発し、実存主義に批判的に対峙していること を見過ごしている。

(663) この理論の神学的内実はプロテスタンチズムによって否認される。Kaufmann, ARSP 49 (1963), S. 103.

(664) Kaufmann, Schuldprinyip (1961), S. 70.― 有の類比論について詳説することを、本稿 のなかではできない。

(665) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 102.

(666) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 104.

(1864)

(23)

同志社法学 59巻 3 号 22

ない(667)。しかし彼の考え方は、普遍問題についてのその態度が顧慮されるならば、ひと

つのより明確な輪郭を獲得する。カウフマンは ― すでに指摘されたように ― 相応 した実在論を提唱しているのであり、それゆえに彼は、本質は具体的な個別的諸物の なかに現れることから出発しているのである。この見方によれば、本質と実存は具体 的かつ実在的にはひとつのものでありが、しかし存在論的には異なっている(668)。これに よれば、この二つの存在要素は必ずしも合致しているわけではなく、それらは著しく 互いに背馳することさえあり得る。すなわち実定化の前に法の本質はどのような実存 をも有しておらず、それは純然たる潜勢力である。これに対して正義に適っていない 内容(法律上の不法)をもつ諸規範はほとんど

(669)

純然たる実定性であって、それという のもそれらはどのような本質的内実をも有していないからである。

 いましがた言われたことから、法の本質性と前もって与えられている法とが区別さ れなければならないことが帰結する。すなわち法の本質性(自然法性)とは現実に成 り立っている法の具体的な、歴史的な内容である。前もって与えられている本質はい まだどのような実在的な実存でもなく、それは抽象的、永遠的かつ絶対的である

(670)

。  カウフマンの考え方によれば、このような本質は、すべての実定化に拘束的に先置 きされている超時間的な法的諸内実を包括している。「数十年と数百年の流れのなか で正義のこのような一連の諸原理が際立たせられている。すなわち平等原理、『各人 に彼のものを与えよ』とする原則、『何人をも害するな(neminem laedere)』という 戒命、殺害禁止およびとくに責任原理。基本的および人間的諸権利もまたこれに算入 されなければならない

(671)

。」これらの正義基準の超時間的かつ絶対的な妥当性は、しか しながらそれらの「本質的な内実

(672)

」を射当てているにすぎないのであって、それとい

(667) Peschuka, Grundploboleme, S. 199の批判をも見よ。 ― 基本的諸権利(基本法第19条第 2 項)の内実に関するある後期著作物のなかでカウフマンは、本質の概念を厳密に規定する ことは可能でないことを認容した。Kaufmann, ARSP (1984), 391., 参照。 彼はこの箇所で、

Lumann, Grundrechte als Institution, S. 59:「本質の本質は知られていない」という皮肉な 論定を引用している。Kaufmann, Was heißt „Wesensgehalt der Grundrechte? (2002), S. 23, 27をも参照。

(668) マルクス主義的法哲学の基盤に立ってPeschka, Grundprobleme, S. 201 ff.は、カウフマ ンが現象と本質と(実存と本質と)の関係を誤って説明していると主張する。

(669)  実 定 性 そ れ 自 体 は 存 在 し て い な い。Kaufmann, Die ontologische Struktur (1962/65), S. 113., 参照。

(670) アルトゥール・カウフマンが不変的な本質というものから出発していることから、マッ クス・ミュラーの諸熟慮とのひとつの明白な対立が生じてくる。彼の見解によれば、法の 本質もまた可変的である。Müller, Existenzphilosophie, S. 39 ff., 104 ff., 参照。

(671) Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 110,

(672) これについては、Llompart, Rechtsprinzipien, S. 64をも参照。

(1863)

参照

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