を中心に
著者 坂井 誠
雑誌名 新島研究
号 100
ページ 250‑275
発行年 2009‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012974
柏木義円と同志社問題
─連袂辞任と綱領削除問題を中心に─
坂 井 誠
目次
1 「同志社問題」とは何か−「序」に変えて−
2 柏木義円の連袂辞任 3同志社綱領削除問題 4 おわりに
1 「同志社問題」とは何か−「序」に変えて−
明治国家はその姿を、明治 20 年代に入り明確な形をとって国民の前に 現すこととなった。大日本帝国憲法、教育勅語の制定がそれであり、これ らが天皇制国家形成に多大な役割を果たしたことは周知のとおりである。
教育勅語の目的は、国家主義的人間形成をめざすものであった。他方、キ リスト教導入にともない、この派から、キリスト教に基礎をおいた人格教 育をめざす学校も誕生してくる。この両者の位置は対極にあった。国家主 義が強調されるなかにあって後者は窮地に立たされていく。
テーマに掲げる同志社においては、明治 20 年代から 30 年代にかけてそ の建学理念が試される時期をむかえる。いまにしてみると、同志社 130 有 余年の歴史のなかで、昭和 20 年の敗戦後ようやく平和と繁栄の時期が到 来したと考えるならば、前半の 70 年は国家との闘いと苦しい妥協の時代 であったと言っても過言ではあるまい。国家と教育の関連でいえば、教育 勅語体制とキリスト教主義に基づく教育の方向性の違いこそ「同志社問題」
が頻繁に生起する原基がある。
「同志社問題」とは何か。同志社の創立時から現代に至るまで、同志社 に生起する諸問題をさす言葉として捉えることができるが、ここでは国家 と教育との関連において、集約的に現れてくる現象として把握しておきた い。同志社草創期から昭和ファシズム台頭期までの間で考えるならば、「改 正徴兵令問題」(明治 17 年)、「教育と宗教の衝突」論争(明治 25~26 年)、「同 志社通則「綱領」削除問題」(明治 31 年)、「文部省訓令 12 号問題」(明治 32 年)、「京都学連事件」関連の諸問題(大正 14
~
15 年頃)、「神棚信奉事件」(昭和 10 年)、「チャペル籠城事件」(昭和 12 年)、その間に「国体明徴論 文掲載拒否事件」(昭和 11 年)がおこっている。さらに「勅語誤読事件」(昭 和 12 年)、「同志社教育綱領の制定」(昭和 12 年)とそれこそ枚挙に遑が ない。さらに同志社固有の問題がこれらに加わってくるのだから同志社問 題とは無数であるとも言える。
ここでは柏木義円の関与した「同志社問題」に限定して考察していくこ ととする。すなわち、「小崎弘道辞任問題」、「同志社通則「綱領」削除問題」
について柏木はどのように捉えたかを明らかにするのが本稿の目的であ る。
2 柏木義円の連袂辞任
ⅰ アメリカン・ボードとの決別
明治 30 年 4 月 15 日、第 2 代社長小崎弘道(社長在任期間 明治 23 年 3 月
~
明治 30 年 4 月)が辞任した。それに伴い浮田和民が辞任し、彼らの辞 任に柏木義円が連袂辞任する。現在においても柏木の辞任理由が判然とし ていない。先行研究として、土肥昭夫「キリスト教主義学校同志社の苦悩」1 ) にその分析を見ることができるが、土肥もこの点について明確な指摘はな い。この理由を探ることの困難さは、資料が乏しいゆえであろう。小崎の『七十年の回顧』、浮田の「校友会員に告ぐ」、柏木の「辞職の理由」2 )が入 手可能なものである。
小崎弘道の辞任はどうして起ったのか。小崎の記した「辞表」は以下の ように言う。
不肖弘道乏しきを同志社々長並に校長に受け就職以来爰に七ヶ年日夜 鞠 躬 勉 黽唯以て本社の設立者新島襄氏の遺業を汚し其の職を空ふす る事あらん事を恐れたり然るに此数年来は外患内憂頻りに至り外外国 人宣教師との関係に困難を生し内教育の方針に付き異論ありて本社の 進路頗る困難を極む而して斯る際に於ても容易に自から退く事を為ざ りしは唯神に対し人に対し又本社に対し深く其の責任を重する所あり たれはなり今や愈々進んで一方には資金の募集を為し他方にては内部 の整理を図らんとするに際し社員一同の信任賛助を得る能はず是れ全 く不肖不徳不才の致す所にして深く自から耻ち入る所なり依て爰に其 責任を負ひ潔く自から其の職を退く事あらんとす伏して願くは社員諸 君に於て不肖の微衷を憐み其の辞職を受け容られん事を3 )
小崎は、「外患内憂」に苦しめられたこと、就中、宣教師問題と同志社 内における路線対立が深刻であったことを明言する。外国人宣教師問題(ア メリカン・ボードとの問題)に関しては土肥論文に詳しいのでここでは触 れない。ただ、土肥論文にそって整理すると以下のようである。土肥は、
1890 年代後半の同志社は「岐路に立った」4 )と指摘し、その原因に、1.ア メリカン・ボードとの決裂、2.同志社通則中の綱領の削除と復元、3.文部 省訓令第 12 号への対応の三点を挙げる5 )。これら三件は「外患内憂」の 要因であった。そして、柏木義円も関与した事柄でもある。
この三件の理解に供すべく、1890 年代のキリスト教界をめぐる状況を一 瞥しておこう。まず、教育政策について。1890 年代の明治政府は天皇制国 家を強化拡大する意図のもと教育制度の整備統制化を企図する。教育勅語 煥発は国家主義教育の出発点であり、その目標を示すものであった。他方、
キリスト教主義に基づく学校はキリスト教道徳を基礎に人格教育を重視す るところから、臣民道徳を強調する国家主義教育とは相容れない性格を有 していた。おりしも、欧化主義の行き過ぎに対する批判が世を覆いはじめ ており、その批判はキリスト教排斥の社会的風潮として作用する。事実、
明治 24 年の内村鑑三不敬事件にはじまり、翌年の熊本英学校事件(奥村 禎次郎事件)、さらに明治 25 年から 26 年にかけての「教育と宗教の衝突」
などの形をとって顕在化してくる。かかるキリスト教に対する批判に、キ リスト教界は時流的迎合を強いられていく。また、かような風潮をうけて、
キリスト教主義学校への入学者は激減するのみならず退学者も増加する。
さらに、学校令の発布とその改正は、実学の重視と官公立学校への政府・
府県庁からのアメ(保護)とムチ(統制)の対策は官尊民卑の意識をも生 み出していく。同志社も何らかのかたちで手を打つ必要が生じてきた。
第二に、キリスト教界、就中、組合教会内の動向について眼を移すと、
1880 年代、アメリカ(ユニテリアン協会、ユニヴァーサリストらによって 主張される)やドイツ(普及福音教会宣教師により主張される)からもた らされた新神学が、90 年代に組合教会の人たちに大きな影響を与えていく。
その主張するところは、聖書の無謬説の排除、三位一体論・贖罪論への疑 問などである。新神学を受容した組合教会の人たちは、福音主義への懐疑、
ミッションからの教会独立を実現しようとする動きを示すこととなる。当 然、アメリカン・ボードと組合教会との間は相互不信と反発が生じるよう になってくる。
第三に、同志社のミッションからの独立問題がある。同志社とミッショ ンとの関係は最初からボタンのかけ違いがあった。すなわち、宣教師たち と同志社関係者との間に同志社英学校に対する認識の相違である。新島は 同志社を伝道者の養成のみならず近代的学問修得と国家社会に貢献する人 物を育成する場と捉えていたのに対して、アメリカン・ボードの宣教師た ちは伝道者養成所であり、普通教育をほどこすことは伝道のための手段と して認識していたことである。新島襄はボードから派遣された宣教師とし ての一面もあったから後者の立場をも了解しうる位置にあった。新島襄の 死後、同志社の運営に与ったのは熊本バンド出身者であった。熊本バンド 出身者のリーダーと新島襄との違いは、新島がボードから派遣された宣教 師であったことは先に記したが、熊本バンド出身者はそうではなかった。
そのことから、ニュー・イングランドの正統神学に縛られることがなかっ たという条件が加味される。ここにアメリカン・ボードからの独立を高唱 する根拠の一つがあったとみられる。熊本バンド出身者が同志社を指導し ていくとき、アメリカン・ボードとの間に齟齬が生じてくるのは時間の問
題であった。同志社第二代社長小崎弘道の時代に早くもその「齟齬」が顕 在化する。その原因は、1.明治 25 年、宣教師団がアメリカン・ボードに あてた報告書に同志社の現況を、同志社のキリスト教が衰微していること、
礼拝参加者が減少していること、校則違反の学生が増加していることを挙 げ、その原因を同志社教師のモラルの低下にあると指摘しているが、この 宣教師団の見方に対する教師側との軋轢が生じることとなる。2.教師と生 徒有志が結成していた同志社講義会に
L.L.Janes
を招聘して講演会を開い た。この講演会は、1893 年 10 月 21 日を皮切りに三度行われている6 )。Davis
ら同志社の宣教師たちはこのJanes
の講演にかなり神経質になっている。というのは、「宣教師たちが、
Janes
の講演を彼ら(宣教師達や同志 社の学生−坂井 注)や信仰にたいする悪意ある攻撃とみなし、キリスト 教組織としてとしての同志社を守るために闘わねばならないと考えた」7 ) からである。Janes
の「悪意ある攻撃」とは何を指しているのか。Davis
に 言わせると、Janesは信仰と行動は、科学の敵、奴隷制反対運動の敵と考 えていたといい、さらに次のように語ったという。いかに教会が放縦の仲間だったか、キリスト(想像の産物です)はカ ナの奇跡(水をぶどう酒に変えた奇跡)を言うことで、まさに放縦の 基礎であり、砦になってしまった、と酷評して終わりました。そして 奇跡が真実である可能性や、奇跡を記している聖書の真実の可能性を せせら笑ったのです。キリスト教と教会はなにがしか善をなしたとし ても、終わってしまった。これは死んでゆくのだと。そして聴衆にこ うたずねて終わったのです。この世で最善のものを想像のなかに求め るべきだなどと信じられるだろうか8 )。
宣教師たちは、
L.L.Janes
の話に腰を抜かさんばかりに驚いたに違いない。同志社では正統的神学を説いていたのであり、これを一笑に付され、「超 自然主義」を批判されたのだから。当然、宣教師団の怒りの矛先は同志社 当局に向けられる。市原盛宏らは無策を決め込んだ。このような事柄の積 み重ねは、同志社当局と宣教師団の間にねじれた感情を倍化させていく。
3.浮田和民が『六合雑誌』(明治 27 年 8 月)に発表した「外国宣教師論」9 ) では、外国人宣教師はキリスト教の真意を理解していないこと、高潔な人
物が少ないこと、社会の進歩を妨害していること、日本の伝道や教育は彼 らとの関係を絶つべきことなどを書き連ねていたことから、宣教師の激怒 をかい、彼等は浮田の処分を同志社に要求してきた。小崎弘道はこれには 取り合わなかった。このような動きの中で、明治 28 年 10 月、ボードから 四人の委員が派遣されてきた。同志社側と派遣委員との争点は、資産問題
(宣教師館使用問題、同志社病院・京都看病婦学校の管理権問題)と教育 問題(同志社キリスト教教育の在り方、信仰告白の強要問題)にあった。
この話し合いの妥協点は見出しえず、同志社側は明治 29 年 4 月の社員会 において、本年限りでボードからの寄付金及び教員派遣を謝絶することを 決定し、ボードは同年 7 月の宣教師年会で、全員同志社辞任を決定している。
ボードからの寄付金も明治 30 年より途絶することとなった。同志社とア メリカン・ボードの決裂後に大きな問題が同志社を襲うことになる。
ⅱ 小崎弘道社長辞任問題
ミッションとの決裂後、同志社に大きな変化がおとずれる。一言でいえ ば同志社の財政基盤の弱体化とそれに伴う規模縮小化である。後者につい てこれをみると、明治 29 年 4 月には、それまで 4 年制であった普通学校 が高等普通学校と名称をかえ 3 年制に、翌年 8 月にはハリス理化学校と政 法学校を合併させ、高等学部文科学校、同理化学校、同政法学校に再編(い ずれも 4 年制)しており、尋常中学校卒業程度の学力所有の生徒を入学資 格とした。1890 年代における全国的風潮として尋常中学校への進学者が漸 増する。明治 29 年 4 月、同志社も中学校令に準拠した尋常中学校(5 年制)
を設置する。同志社予備校と予備校幼年科を包含したもので、250 名の生 徒を受け入れようとするものである。
当然、道徳教育に関して、天皇制教育の柱となる教育勅語とキリスト教 主義教育を採用する際のキリスト教倫理や聖書との関連が大きな課題と なってくる。同志社は、道徳教育として倫理科目と聖書教授を京都府に申 請するが、京都府はこれを不可とした。「同志社尋常中学校教科課程」10)
をみる限り聖書やキリスト教倫理教授の科目は姿を消している。同志社の 教員会は京都府の決定に妥協した結果である。明治 29 年 4 月、教員会は
聖書の使用を止めること、勅語の趣旨に基づく人倫道徳の教授の容認の二 点を決定している。これについては後述する。さらに京都府は、かかる同 志社の動きに難問を被せる。同志社が京都府に提出した「答申書」(これ については後述)の文言を楯に、国民教育に宗教儀式の執行は認めないと いってきた。明治 32 年の「文部省訓令第 12 号」の先取的意味をもつ方策 を京都府は強要してくることになった。この頃、同志社中学校生徒として 学校生活を送っていた山川均は同志社の変化にいちはやく反吐を吐く思い の反応を示す。『山川均自伝』11)に当時の同志社の様子を克明に描いている。
小崎の関わった課題は、徴兵猶予特典の獲得(同志社維持のための条件 整備)、自由主義思想家の招聘(人材確保。この時期すでに小野英二郎、下 村孝太郎、市原盛宏らが退職している。後任に大西祝の登用が予定されて いた)、財源確保としての寄付金募集活動(資金調達)などである。前者二 項は不首尾に終わっているが第三項については相応の成果をあげつつあっ たことが窺いうる。それは東西の財界人らの好意により成就しつつあった ことが小崎自身によって語られており12)、浮田や柏木の「校友会員に告ぐ」
「辞職の理由」13)のなかにも記されている。小崎は奮闘していたにもかかわ らず辞任に追い込まれていく。何らかの力が作用していたと考えざるをえ ない。排斥網にかかった小崎自身は本当のところどう考えていたのだろう か。小崎弘道の本音を語った一文がある。同志社社員会宛ての「書簡稿」
14)である。日付が明治 30 年 7 月 5 日とあるから、同志社を辞めてほぼ三ヶ 月後の書簡であり、しかも「同志社社員会宛」であるところから、この期間、
小崎は自らの辞任問題を何度も反芻していたことを窺わせる。この「書簡稿」
は長い。「書簡稿」冒頭は、新島死後難問が山積しているとし、「内ハ教育 ノ主義方針学校ノ組織ニ関シ教員社員ノ間ニ異論多ク外ハ外国伝道会社並 ニ宣教師トノ関係問題甚タ面倒ニテアリタル」ことを提示し、懸案になっ ていたアメリカン・ボードからの独立をはたしたことを記す。そして、東 京の校友会が自分に辞職を勧告してきた際、京都の社員諸君が協力を約し てくれたことを語る。同時に同志社のキリスト教主義教育の進展を確認し たともいう。意を強くして以下のように決意する。
不肖弘道微力為スナキノ身ニテアルモ社員ノ信任ニ対シ内外ニ対スル 同志社ノ面目ニ対シ神ニ対シ一身ヲ全ク之ニ捧ケ全力ヲ尽シテ教員諸 君ト共ニ此ノ難局ニ当ランコトヲ期シタリ
この決意は、寄付金募金運動として現れてくるし、校内問題として、教 員の充実にもほぼ目処もついたと自負していたのである。
然ルニ四月ノ社員会ニ於テ突然社員諸君ノ反対ヲ受ケ社長並校長ノ職 ヲ辞セサルヲ得サルニ至リシハ校内ノ生徒教員ハ申スニ及ハス校友ノ 人々モ又学校ノ為メニ力ヲ尽サントスル人々モ皆々驚キタル所ニテ不 肖自ラモ亦之カ理由ヲ解スルニ苦シム所ナリ
小崎弘道の辞任劇はまさに晴天の霹靂であったことがわかる。小崎は、
何人かの同志社社員に辞任理由を問いただすがいずれもが「曖昧模糊」と した答えしか返ってこない。校友、友人に問いただしても同様で答えが返っ てこない。厳しい緘口令がひかれていたことを思わせる。
そうこうする間に、何人かが重い口を開く。ある社員の言うのには「現 今ノ校長ハ其宗教主義狭隘ニシテ人ヲ容ルヽノ量少ナシ此際宗教信仰ニ関 シ最モ広キ主義ヲ有スル人ニ代ヘ多クノ異主義ノ人ヲ学校ニ容ルヽニ非レ ハ其盛大望ム可ラスト」。またある社員の言に、「曰ク昨年来実行シ来リタ ル本社独立ノ事ハ外人ニ対シ甚タ不当ノ処置ニテアリタレハ此際外人ト調 和ヲ図ラサル可ラス而シテ之ヲ実行スルニハ現今ノ校長ヲ退ケ更ニ外人ト 調和シ得ヘキ人ヲ挙ケテ校長ト為スニ如カスト」。また、別の社員が言う のには、「今日ノ同志社ハ幾ント校長ノ私学校ノ如キ姿アリ今度募金ノ事 ニ着手シ居ルカ或ハ成功スルコトアルヤモ知ル可ラス募金ニシテ愈成功シ タルノ暁ニハ校長ノ権力愈増加シ遂ニ之ヲ動カシ得サルニ至ラン彼ヲ動カ サントナラハ…今日募金ノ功未タ成ラサルノ時ニ於テセスレハ終ニ其時機 ナカル可シト」。さらに他の社員の言うのには、「現校長ハ理財ノ才ニ乏シ ト云ヒ或ル社員ハ校長ヲ変更シテ人気ヲ一変スヘシト云ヒ又甚シキハ今日 世間ノ非難ヲ受クルノ際校長ニ其罪ヲ帰シテ其職ヲ辞セシムヘシト」。以 上のことを整理すると次のようになろう。
1. 小崎弘道は宗教に関してはその見解を狭隘な立場を堅持しているが、
この宗教信仰に関して広範な主義を採る人物が望まれる。
2
.
アメリカン・ボードとの決裂に際して、外国人に不当の処置を以て遇 した。そこで、外国人宣教師と調和しうる人物の登場が必要である。3. 校長の権限が大きくなりすぎ、募金運動が成功すれば、より一層その 傾向が強まる可能性が生じる。校長の権限が増大する前に更迭が必要 であろう。
4. 小崎は理財の才覚に乏しい。同志社の内外の批判が沸騰しているこの 時機、責任を小崎に負わせよ。
小崎排斥の大きな理由は同志社のボードからの独立派と非独立派との対 立と信仰に対する態度とが経緯となっていることがわかる。これらの見解 に対して小崎は次のような反論を試みる。先ず、信仰的宗教的立場の相克 について。反小崎派は以下のように認識していた。「現今ノ校長ハ其宗教 主義狭隘ニシテ人ヲ容ルヽノ量少ナシ此際宗教信仰ニ関シ最モ広キ主義ヲ 有スル人ニ代ヘ多クノ異主義ノ人ヲ学校ニ容ルヽニ非レハ其盛大望ム可ラ ス」15)これは「或ル有力ナル社員」16)の言葉であるという。「有力ナル社員」
とは湯浅治郎といわれている。この主張には新神学の拡張、同志社をして 新神学の拠点ならしめようとする動きを反映していることは否めない。そ の新神学の旗手として横井時雄があったことは周知のことであり、次期社 長を彼に就かしめる意図が用意されていたことが見て取れる。かかる考え 方や動きに小崎はどう反応したか。
不肖ハ当時之ヲ聞キテ甚タ怪異ノ感ヲナセリ何トナレハ現今内外人ノ 同志社ニ対シ疑惑ヲ抱ク所ハ共ニ基督教主義ノ変動如何ニアルナリ而 シテ本社ハ之ニ対シ断然其方針ヲ一定シ従来ノ歴史ヲ重ンシ基督教ノ 主義ヲ確守ス云々ノ方針ヲ発表シ愈其信仰ヲ重ンスヘキコトヲ決議シ タルヲ以テ不肖ハ此方針ニ従ひ昨年来ハ殊ニ其実行ヲ務メ居タルニ社 員ニテ斯くノ如キ言ヲ為スモノアルヲ聞クハ驚キ入リタル次第ニテア ルナリ17)
小崎の驚愕と社員たちの裏切りに切歯扼腕する様が容易に想像できる。
ちなみに、明治 30 年の社員会は、中村栄助、宮川経輝、湯浅治郎、大沢 善助、徳富猪一郎、金森通倫、海老名弾正、大西祝、市原盛宏、小崎弘道 ら 16 名がいたという。
第二の独立問題について。
或ル社員ノ言ヲ聞クニ曰ク昨年来実行シ来リタル本社独立ノ事ハ外人 ニ対シ甚タ不当ノ処置ニテアリタレハ此際外人ト調和ヲ図ラサル可ラ ス而シテ之ヲ実行スルニハ現今ノ校長ヲ退ケ更ニ外人ト調和シ得ヘキ 人ヲ挙ケテ校長ト為スニ如カスト是亦甚タ不思議ナル事ニテ昨年来本 社ニテ独立ノ事ヲ決議シ目下其経営最中ナルニ忽チ之ヲ改ムルトハ以 テノ外ノ軽率ト云ハサル可ラス18)
独立問題についても反小崎派は揺さぶりをかける。このようなことが現 実のものとなった場合、同志社の信頼は完全に失墜する。小崎は、「以テ ノ外ノ軽率」事と反応するが、当然のことであったろう。反小崎派を形成 したのは横井時雄・中村栄助・湯浅治郎らである。当然、小崎はこれらの 理由には納得しうるはずが無い。なぜならすでに小崎の事業が動いていた のだから。ミッションからの独立問題にしろ、寄付金運動に着手するにし ろ、東京校友会から辞職勧告があったけれども 、学内社員の支援と賛同を 受けていたことを根拠にして上記問題を遂行してきた。「不肖ニ於テ大過 失大悪業アラザル以上ハ少クモ此一二年間ハ義当ニ不肖ヲ斥ク可ラサルノ 理ナルガ故ニ以上述ヘタルカ如キ理由ヲ以テ不肖ヲ排斥スヘシトハ更ニ信 スル能ハサル所ナリ」。そのゆえに「心ニ深ク社員ノ不忠ヲ憤ル事」にも なるし、「…今後ハ決シテ諸君ト事ヲ共ニセサル可シト決心」することに なる。当然のことであろう。そして、次のように反撃を試みる。事柄の顚 末を公にし、自らの意見を公表し、現今の同志社社員の信用できないこと を公表するとして、同志社社員会の方針の明確化を要求し以下の五項目を 提示した。「第一、社員諸君カ不肖ニ反対シ直チニ之ニ辞職ヲ許シタル理 由ヲ明白ニスヘキ事…第二、同志社ノ主義方針ヲ明白ニシ其幟旗ヲ鮮明ニ スヘキ事…第三、社員ノ組織ヲ改メテ主義方針ヲ確定スヘキ事…第四、資 産アル社員ハ今回ノ事件ニ対シ其責任ヲ負ヒ同志社ニ向ヒ相当ノ寄附金ヲ 為スヘキ事…第五、現校長ハ社員ト共ニ其職ヲ辞シ新社員ノ組織成リタル 後改メテ其社長校長ヲ撰定スヘキ事…」19)。尤もな要求であろう。ちなみ に資料中の「社員」とは現在の理事に相当するものであり、理事たちが挙っ て社長(現在の総長にあたる)小崎の追い落としを謀ったことになる。
総長の馘首とは異常であるがゆえにその理由が明確にされないかぎり、
同志社の在り様が問われることとなり、学内外に不信感を増幅することと なる。新社長横井時雄側からの応答はなかった。この小崎追い落としの背 景には、同志社の経営的危機の問題が横たわっていたものと考えられる。
横井体制の現実路線はそれを物語る。
ⅲ 柏木の連袂辞任
同志社第二代社長小崎弘道の辞任劇は、まさに判然としないなかで現実 のものとなっていった。この小崎辞任に伴い、教頭の浮田和民、教員の柏 木義円が辞任していく。巷間、この二人の辞任は小崎に同情してのことと されているが、実のところはどうか。資料としては先にも記したが、浮田 和民には「校友会員に告ぐ」、柏木義円には「辞職の理由」をみるのみで ある。
先ず、浮田和民について考えよう。浮田は「校友会員に告ぐ」のなかで、
この事態や原因が奈辺にあるとしているのか。基本的に彼のスタンスは、
独立問題については、外国人宣教師批判20)などからも知りうるが、「独立派」
を掲げていたとみなしうる。ところで、浮田も小崎同様、小崎の辞任理由 が判然としないという。
去年六月東京校友会員の一部が小崎校長並に小生に向つて辞職を勧告 するや小崎校長並に小生は社員に向ひ社員諸氏の意向により進退を決 すべきを申出でたりしに社員諸氏は同志社の主義方針両つながら辞職 するを不可となし兎も角も独立の基礎成立する迄は責任を負ふ可しと の事にて小崎校長も小生も共に留るに決し且つ社員は独立の結果とし て大に募金に従事すべき事に決着仕候然るに同志社が米国伝道会社よ り全たく独立したるは僅かに本年一月よりの事にして未だ半歳にも満 たざる時日に於て遽かに校長の更迭を促されたる社員の趣旨は何辺に あるか一向曖昧に属し世人をして社の主義方針をも疑はしむるに至る 次第に御座候
辞任に不信を表する。この辞任問題に関与する人物についても一言する。
中村栄助、横井時雄、湯浅治郎への苦言批判である。中村は当初、独立論
に与していたにもかかわらず、最初に動揺し始め、宣教師への同志社の決 定に後悔し宣教師との調和を唱えるようになった。それは募金の可能性が 薄いとの判断によるものとした。湯浅治郎にあっては、「平素極端なる独 立論を守持せられ」たる人物であったが、小崎や多くの社員の方針に「不 満を懐かれた人」であったという。湯浅の小崎などに対する不満とは、第 一に、宣教師の家屋に家賃をかけようとの意図があったことが小崎や他の 社員との意向とは違っていたこと。第二に、同志社病院を閉鎖廃院してそ の財産を寄附者に返還せよとの主張も多くの賛成を得られなかったこと。
第三に、資金運用がままならないとして理化学校の廃校を提唱する。これ も小崎と対立したことなどである。中村・横井・湯浅らは「一致協同して 校長に不信任を表」したとある。実際、小崎・浮田の辞任後、湯浅らの主 張が成就されているかといえば、全く旧態然としていて何等変わるところ が無いことを指摘し、手厳しい批判を浴びせる。
…湯浅君は何の面目ありて今猶ほ社務に鞅掌し現校長を補佐せらるゝ か小生は君の無責任無徳義なるに驚かざるを得ず而かも責任は独り同 君のみに存するに非ざるは言ふまでもなき事に御座候畢竟社員中にあ りて牛耳を取らるゝ湯浅君中村君横井君等には確乎不抜の主義精神な く感情若くは外部の事情によりて動揺せらるゝの跡顕然たるを見るこ とに御座候校長更迭の趣旨判然たらざるに唯々として校長たるを諾し 自今同志社の中興を自任宣言せらるゝ横井君の心底小生には一向相分 り不申候小生は唯だ君が大胆なるに喫驚するの外無之候
三君の所業は「一人の校長を犠牲として自全の計を運らし以て政治家の 挙動を模倣したる義かと存候へども其間個人的徳義を蹂躙して顧みざるに 至ては精神的教育を以て自任する同志社の為には一大頓挫と申す外無之候 事態是の如き次第に御座候」。同志社経営に小崎と二人三脚で歩んでいた 浮田にとっては、湯浅・中村・横田らの行為は背信行為以外のなにもので もないのであって、その怒りと辞任とは連動し頷ける行為である。浮田は のちほど提示される同志社「社員」のポストを一蹴する。
柏木義円の辞任はどのような意味をもったのだろうか。「辞任の理由」
にその内容を聴いてみることにしよう。柏木には、小崎・浮田の運営がど のように映じていたのであろうか。同志社の状況は好くない。一つには内 外の教員の辞任、他には伝道会社との関係を絶ったあと、財政逼迫と生徒 の減少が顕著で、同志社の風評が世人にとって、誤解・非難・疑惑を抱か しはじめていた。ここに、小崎・浮田が改革断行に立ち上がる。その課題 は上述してきたけれども、募金問題(これは同志社の財源確保と教育の拡 充に供しうるものがある)、新教師の招聘(学科教授の充実と専門教育・
高等教育への基礎固め)、基督教教育の重視(精神上の教育)である。こ れらの改革に対して、社員は冷淡であったという。柏木は、小崎の奮闘に ついては勿論のこと浮田についても好意的にみている。「浮田氏の如きは 尋常中学創設の際辛苦経営種々の責任を負ひ時を惜します労を厭はす忍ふ 可らさるを忍て忠実熱心に教頭の任務を盡くされしは生徒職員の普く認識 する所吾人の其心事を察して同情の念に堪へさる所なり」と。社員諸氏の 両氏への裏切りにも似た行為は、「改革の際には人心危疑種々の困難簇生 し来るのは勿論の事」であるとしながらも、同志社改革の困難は、両氏の 力量というよりも社員の協力支援の無さにあったことを指摘する。そして
「同志社衰微」をあげつらう者があるけれども、その原因を小崎・浮田両 氏に帰することはできない。社員と教員との温度差にあるとする。
生は昨冬来社員中に小崎氏を退けんと欲する者あるを耳にして窃に怪 訝し且つ憂慮したり
.
特に教員は全体一致の決議を以て小崎氏に速か に募金を成効せんことを促し各自は一致して校事に勉むるの意を表明 し小崎氏は鞠躬募金の事に奔走し当初募金の成効を危ぶみたる社員を して稍其成効の望を生せしめたるの時反て小崎氏の手にて募金の事成 るは同志社の不利益なりとの意見社員中に生したるは生の益々解し得 さる所なり.
教員サイドは小崎の活動・方針に好意的である。他方、社員は小崎を信 任しながら、彼を退任させようとしている。この動きに疑問を呈している。
小崎排斥派の横井時雄らを柏木はどのようにみているか。柏木は、小崎 の社長校長を退任させる理由は無く、同志社改革を断行することにより、
同志社が自らの手で再生されていくものとみた。小崎の方針は決して間
違っているものでないとの認識をもっていたと考えてよい。にもかかわら ず社員たちは小崎の後任に横井を当てようとしており、横井もこれに応ず る気が十分に在る。
意外にも社員会は此重大なる問題を正々堂々社員会の劈頭に於て之を 決するを為さず其終に於て小崎氏をして辞職せさるを得さらしむるか 如き挙動を為して遂に小崎氏をして辞表を提出するの止むを得ざるに 至らしめ既に辞表出るや急遽之を許可し直ちに横井氏を其後任者の候 補に推したり
.
小崎の辞任劇と横井の社長就任は用意せられたシナリオ通りに進んでい る。この時の小崎排斥派はどのように振舞っているか。
宮川経輝(この時社員会議長)の場合−「社員会纏らすして止むを得す 小崎氏辞任せられたりこれ独り小崎氏のみの責にあらす社員皆其責あるも 社の組織上社員の皆引退するを許さされば止むを得す独り小崎氏の辞任を 容れたりとこれ社員会議長宮川氏が社員列席の前にて全教員会に報告せら れたる所なり」。
中村栄助の場合−「中村氏は社員を代表して校友会総会の質問に答へて 曰く小崎氏の辞職は止むを得さるなり此他に言ふことを知らすと」。
その他の反応−「社員各人に就て其理由を質せは或は曰く小崎氏は無能 無力なり或は曰く宣教師と調和する為に小崎浮田両氏を退けさる可らす或 は曰く辞職せしむるの理由を示さは反て同氏に気の毒なるが故に明言せす と」。
柏木はこの小崎辞職の理由について「生は未た一も其首肯す可き明白な る理由を聞かさるなり」としている。一連の騒動は全く不可解のままに終 始することとなった。柏木はこの騒動は、「同志社の為に実に痛歎に堪へ さるなり」として本来、「同志社は特に道義を以て立ち利害よりも寧ろ理 義を明にするを期する」場であったはずである。教育機関としての良心性 を自らの手で放擲したところに働きかける意思はなくなるのが自然であ る。「生は此等の事に付黙止するに忍びす敢て抗弁の意を表する為め辞職 致候」こととなった。
3 同志社綱領削除問題
ⅰ 同志社綱領削除問題
第三代社長に就任した横井時雄(社長在任期間明治 30 年 5 月−明治 31 年 12 月)の直面する課題は、同志社綱領削除問題(以下、「綱領削除問題」
と略称)に終始したといえる。「綱領削除」の目的は、徴兵猶予の特典を 得ることにあった。
はじめに、「同志社綱領」について触れておきたい。同志社は明治 21 年 9 月に「同志社通則」全 36 ヶ条を制定した21)。その「第壱章 綱領」が 6 ヶ 条にわたって記されている。行論上必要なので掲載する。
第一条 知徳併行ノ主義ニ基キ教育ノ業ヲ挙クルヲ以テ本社ノ目的トス
.
第二条 本社ヲ同志社ト称ス本社ノ設立シタル学校ハ総テ同志社某校ト称シ悉ク本社ノ通則ヲ適用ス
.
第三条 本社ハ基督教ヲ以テ徳育ノ基本トス.
第四条 京都ヲ以テ本社ノ位置ト定ム.
第五条 本社ノ維持資本ハ如何ナル場合ニ於テモ之ヲ支費スルヲ許サス
.
第六条 本社ノ綱領ハ不易ノ原則ニシテ決シテ動カス可ラス.
問題となる条文は第二条末項及び第六条である。
「徴兵猶予の特典」についても触れておく。徴兵令が施行されるのは明 治 6 年のことであった。すでにその徴兵令に徴兵免除規定のあったことは 周知の事柄である。「徴兵令」第三章に「常備兵免役概則」が記されており、
学生が免役されている22)。明治 6 年の徴兵令が 12 年、16 年に改正され、
さらに 22 年 1 月に大幅に改正される。同志社が当面する徴兵令はこの時 のものである。「第二章服役」第 11 条には「満十七歳以上満二十六歳以下 ニシテ、官立学校・府県立師範学校・中学校、若クハ文部大臣ニ於テ中学 校ノ学科程度ト同等以上ト認メタル学校、若クハ文部大臣ノ認可ヲ経タル 学則ニ依リ法律学・政治学・理財学ヲ教授スル私立学校ノ卒業証書ヲ所持 シ、若クハ陸軍試験委員ノ試験ニ及第シ、服役中食料・被服・装具等ノ費 用ヲ自弁スル者ハ、志願ニ由リ一箇年間陸軍現役ニ服スルコトヲ得」(下 線は坂井)とあり、さらに 21 条には「第十一条ニ掲グル学校ニ在校ノ者ハ、
本人ノ願イニ由リ満二十六歳迄徴集ヲ猶予ス」23)とある。同志社に関連す る箇所は下線を施した部分である。
同志社は明治 29 年 4 月、小崎弘道社長時代に尋常中学校を設置する。
目的は、徴兵猶予の特典を獲得し、入学者の減少・退学者増加へのストッ パー的役割を果たそうとするところにあった。その意味では、小崎の設置 した「同志社尋常中学校」に問題がなかったかというと嘘になる。柏木も この設置に関与しているから彼にも「しこり」が残る。
横井時雄は同志社尋常中学校を如何なる方向へ導こうとするのか。時代 状況は、日清日露戦争の間にある。国粋主義による欧化主義批判も一段落 し、教育勅語体制の確立、さらに日清戦争の勝利は、天皇制国家確立と国 民の賛美へと勢いを加速する。日清戦争を前にして政府は、対外戦争を目 途とした軍事拡張整備を企図した。明治 22 年の「改正徴兵令」布告はか かる動きと連なる。すでにキリスト教主義に立脚する学校への風当たりは 強い。入学者の減少、退学者の増加として現れることはしばしば記したと ころである。同志社にその例をとろう。「各学校入退学取調表」24)の明治 21 年、22 年、23 年の同志社各学校(男子生徒)の入退学者総数は以下の とおりで、入学者員数は、359 名、278 名、200 名と漸減していることがわ かるし、退学者数は、193 名、231 名、269 名とこちらは漸増している。か てて加えてアメリカン・ボードとの関係性を切ったことから収入は激減し、
学校経営の危機を迎える。
横井時雄は「同志社通則−綱領」規定と学校経営の困難さとのディレン マのなかにあった。「満十七歳以上満二十六歳」の青年達にとって徴兵猶 予は大きな魅力である。「官立学校・府県立師範学校・中学校」への進学 者の増加は当然のことであろう。横井は、徴兵猶予の特典を得るためには
「文部大臣ニ於テ中学校ノ学科程度ト同等以上ト認メタル学校」に同志社 尋常中学校を仕立てる必要があった。現実を取るならば理念(=「同志社 綱領」)を捨てるか改変しなければならない。彼はこの道を選んだ。「同志 社社員総辞職ノ顚末」25)(以下、「顚末」と略称)なる一文がある。この「顚 末」の一節に次のように言う。
明治廿九年ノ秋ニ於テ文部省ノ制度ニ循ヒ尋常中学校ノ認可ヲ受け昨
年(明治 31 年のこと−坂井注)二月更ニ一歩ヲ進メテ同志社通則綱 領中文部省ノ制度ト相容レサル数文字ヲ削除シテ新島氏以来企望シテ 止マサリシ徴兵猶予ノ特典ヲ得タルハ豈ニ同志社本来ノ主義ニ背カサ ル耳ナラズ帝国現今ノ情勢ニ於テ基督教的普通教育ヲナスニ能ク適合 シタル処ノ処置ナリト信セサルヲ得ス
横井は「綱領」の何処をいじったのか。「通則第一章第二条ノ数文字(悉 ク本社ノ通則ヲ適用ス)及第六条(本社ノ綱領ハ不易ノ原則ニシテ動カス 可カラズ)ヲ削除シタ」という。この「綱領」第 2 条末項、第 6 条の削除 はどのような意味、影響をもったのであろうか。当時、同志社の男子校は 神学校・政法学校・理科学校・高等普通学校・尋常中学校があったが、「神 学校」を除いて、キリスト教教育を施さないとした。その関連で第 6 条の 削除が必要であった。横井は、第 3 条が生きている限り同志社の基督教主 義による教育が放棄されないものと考えた。
ⅱ 柏木義円の批判
「綱領」削除は各方面に衝撃をもたらし批判を惹起することとなった。
同志社卒業生、組合教会員、基督教会各派、アメリカン・ボード宣教師な どからである。ここでは紙幅の都合上卒業生の批判、就中、柏木義円の批 判を中心に検討することにしよう。
卒業生や同志社関係者の「綱領」削除問題についての応酬は『基督教新聞』
を主舞台にしている。留岡幸助(「同志社社員会の決議を難ず」『基督教新聞』
759 号 以下、号数のみを記す
. 「安部磯雄君に答う」761)、柏木義円(「安
部磯雄君の弁護を読む」762 「安部磯雄君に与る書」766)、牧野虎次(「同 志社々員会の決議を難ず」762)、この間同志社側からの弁明・反批判が展 開される。安部磯雄(「同志社々員会決議ニ就テ」760 「柏木義円君に答う」764)、横井時雄(「同志社の過去及び将来」767)などが寄稿している。上 記の人物以外でも、デイヴィス、渡瀬常吉、片山潜らも稿を寄せている。
さて、この「同志社綱領削除」問題について最初に批判の烽火をあげた のは、留岡幸助である。「同志社社員会の決議を難ず」(759)がそれで、4 点批判する。
1
.
同志社社員会はいかなる権能を以て第 6 条を削除したのか。2. 第 2 条末項削除することにより、神学校を除くのほか、同志社は基督 教主義教育を放擲したのも同然と見做されるが、世に弁解のしようが ないではないか。さらに第 3 条削除の可能性もある。
3. 今日、同志社はアメリカン・ボードとの関係を断ち切り独立したとい うけれども、そもそもの同志社の成立はボードの支援のもとで誕生し た経緯がある。歴史的関係性を度外視できるものか。
4. 政府の庇護を得ようとする行為は、同志社社員の採るべき措置かどう か、そのものが批判されるべき質のものである。
同志社側を代表して、その立場の説明を試みたのは安部磯雄であった。
この留岡の批判・疑問を受けて、「同志社々員会決議ニ就テ」(760)で以 下のように反論する。留岡の批判に答える前に安部は次のように言う。
同志社の教育は基督教主義に基づく教育であることは自他共に周知して いることであるとし、その上で、同志社を文部省の教育機関外においた自 主独立の団体とするのか、文部省の教育制度を採用して幾多の青少年に基 督教の感化を及ぼす機関とすべきかが問われている。すでに小崎校長時代 に同志社は尋常中学校を設立した際に文部省の教育制度に接近し始めてお り、今回の社員会が決議した事柄は当初の精神を貫徹させるものである。
そして、文部省の教育系統に参入する以上は「其得ベキ所ノ特権ハ勉メテ 之ヲ得ルコソ当初ノ精神ニ叶ヒタルニアラズヤ」といい、それを獲得する には、幾らかの苦痛をも忍ばねばならない。「同志社ノ根本的性質ヲ失ハ ザル以上ハ其枝葉ノ点ニ於テ之ヲ改正スルガ如キハ当然ノ事ニシテ怪ムニ 足ラザルナリ」と語る。現当局者は、小崎路線の延長上にあり、これを推 進するとの認識のうえに立っていることがわかる。学校運営する側の立場 が表現されており、現実的位相に立った発言である。安部はかかる現実的 位置をふまえて、留岡の批判に応えていく。
1
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について。「元来社員会ガ定メタル綱領ヲ社員会ガ時ト場合ニ応ジテ 之ヲ修正スルニ於テ何ノ不都合カアル」と切り捨て、6 条削除 2 条末項削 除に続いて 3 条が削除されると言うが、それなら、第 1 条も削除され、鉄 道会社になることをも懸念しなければならないだろう。留岡は「同志社ノ綱領ヲ以テ萬古不易ノモノト信ズルカ将タ亦時ト場合ニ応ジ之ヲ修正スル ハ社員ノ権内ニアリト信ズルカ若シ前者ナラバ吾人ハ難者ノ心ヲ解スルニ 苦シム」。各国の憲法修正さえもその方法がある。不易の原則を定めて自 らそれに束縛されるのは得策ではなかろう。
2.について。すなわち第 2 条末項削除について、同志社では基督教教育 が施されなくなるとの危惧については、今日の同志社の状況を見ていない 論である。現今の同志社は神学校以外の教場において基督教を説くことは していない。それは尋常中学校設立の際、前校長が京都府と交わした約束 による。ではこのことにより、同志社で基督教教育が皆無になったのかと 言えばそうではない。「同志社ノ目的ヲ達スルニハ形式的布教ニ依ルヨリ モ基督教的感化ヲ与フルヲ以テ優レリト信」じている。「日曜日ニハ説教 アリ聖書研究会アリ之ニ加フルニ教師ノ多数及ビ上級生ノ多クハ信徒ナリ
…基督教ノ主義ヲ各学校ニ適用スル云々ノ如キハ吾人ガ最モ些事トシテ見 ル処ノモノニシテ若シ此句ニシテ世人ノ誤解ヲ惹キ或ハ徴兵猶予ノ特典ヲ 得ルノ妨害トナラバ之ヲ除去スルニ於テ更ニ躊躇スルニ理由ヲ見ズ」。
3.について。アメリカン・ボードとの関連については、留岡のボードに 対する慮りは、独立の議論が展開されているときに語られるべきものであ る。すでに独立後の同志社の基督教主義教育は活気を呈して健全なる発展 をとげている。
4.について。同志社が政府の庇護の下に立とうとしていることについて の批判に対して、安部は、社員会が文部省の教育制度を採用したからとて、
直ちに自立心を無くし神への信仰を捨てることとはならない。安部自身は、
文部省の画一教育を是とするものではなく、いったんその境界に踏み込ん だ以上その成否を見極めようとする。安部の意識は明確である。最後の部 分に強い意志を窺わせる。「要スルニ第二項末項ノ削除ハ独立以来同志社 ガ採リ来リタル方針ト少シモ撞着スル処ナシ同志社々員ノ多数ト同志社職 員ノ多数ガ基督教信徒ニテアラン限リハ生徒ニ及ブ所ノ基督教感化ハ決シ テ減ズル事アラザルベシ」と。
この安部磯雄の「同志社々員会決議ニ就テ」を読んで反応したのが柏木
義円である。安部と柏木はかつて同志社普通学校にあっては同僚であった。
内部事情を知った人物同士の論戦となった。ここでは柏木も小崎体制に関 与していたことを考慮しておかなくてはならない。安部磯雄「同志社々員 会決議ニ就テ」(760)→柏木義円「安部磯雄君の弁護を読む」(762)→安 部「柏木義円君に答う」(764)→柏木「安部磯雄君に与る書」(766)の応 酬となる。安部の「同志社々員会決議ニ就テ」は先にその概略を紹介して いるのでこれを省くが、「安部磯雄君の弁護を読む」にみられる柏木の批 判点はつぎの 4 点である。
1.安部は、今回の社員会決議(綱領削除)と尋常中学校設立とは不即不 離の関係にありとし、その責任を尋常中学校設立者に被せようとしている。
尋常中学の設立と今回の決議とは何の関係があるのか。
2.「同志社綱領は」、安部が考えるほど容易く変更改廃されるものではな い。同志社の存する限り不易であるべきである。容易に改変されるような 綱領をもつ学校に誰が多くの理解・寄付行為をほどこすか。「…社会の唱 るか如く遥かに適齢に先ちて卒業する尋中生の為に徴兵猶予の特典を得る を以て大事と為し容易に同志社革命を叫んで反て綱領を動かすを以て些事 と為す底の軽浮変し易き社員の心と共に変化する綱領ならんには誰れか大 金を寄附せんや」と語調はきつい。安部は各国の憲法でさえも修正する道 を有しているというが、各国憲法は他国に対して存在するものではなく、
国民自らが自国を治めるための綱憲である。しかるに同志社綱領は、同志 社が寄附者と天下に対するの公約である。同志社の財産は社員のものでは なく財団のものであり、その限りにおいて社員は綱領に基いた目的を成就 する役割を担うものである。社員は何の権能のゆえに「綱領」を動かしう るのか。
3.安部は、基督教的感化(教会・聖書研究会など)と基督教主義の徳育 を混同している。基督教的感化とは基督教主義教育の結果として現れる。
第 2 条末項は同志社各学校の徳育は基督教主義の方針採用を明言したもの で必要条項であり、3 条を生かす前提を為す。
4.安部は、伝道会社が同志社をして基督教主義を放棄したことを憂慮し てその関係を切ったというが、それは事実と異なる。関係を絶ったのは同
志社である。同志社の独立と「綱領削除」とはどのような関係があるのか。
この柏木の批判に安部も反論する。「柏木義円君に答ふ」(764)がそれ である。柏木は、「尋中設立と主義を売りて徴兵猶予を買ふと何の関係か ある前当局者が尋中設立の際答申書と第二条削除と何の関係かある同志社 独立と不易の綱領を動かして公約を破ると何の関係かある」と畳み掛けて きた。安部は、柏木が尋常中学校設立時に同志社の教員同僚として内側に いたことから、事情を熟知しているにもかかわらず斯かる批判は当たるま いとして、尋常中学設立時の京都府への「答申書」を披露する。
一 同志社尋常中学校倫理科教育の方針は教育に関する勅語に基き人倫道 徳の要旨を授け徒らに倫理学の理論に馳することなく専ら躬行実践を 目的と致申候而して皇祖皇宗の神霊を敬ひ各自其祖先を尊び国民とし て忠孝の資性淳厚ならんことを期し教員たる者常に其生徒に対するや 報本反始の心志を啓培涵養するを以て国民教育上最も尚ぶ可き所と思 惟仕候
一
大祭日には生徒を会集して教育に関する勅語を奉読し且つ意を加えへ て聖意のある所を誨告し或は歴代天皇の盛徳鴻業を叙し或は先哲の遺 訓伝記を述る等其祝日大祭日に相当する講演を為し以て忠君愛国の志 気を涵養せんと務むるは同志社尋常中学校の本旨にして亦之を実行す るの見込に御座候
一 同志社尋常中学校に於て卒業証書授与式等挙行の場合に於ては布教伝 道の方略として宗教上の勤行に属する式典を加ふること無之は勿論生 徒等に向ひ大に訓言誨告を施し以て其心肝に教育せしめんことを勉め 可申候
従来の同志社の基督教主義教育方針とこの「答申書」にある文言とは真 逆の位置にあると言える。同志社尋常中学校の倫理科目として聖書を以て 教授を希望するのは当然のことである。京都府がこれを拒否したことはす でに述べた。その結果「答申書」第三項は卒業式に宗教儀式を用いないこ とを表明した。頑強に反対を唱えたのは、
J.D.
デイヴィスと数人だけであっ たという。安部は、賛成者のなかに柏木がいたではないかと指摘する。こ れには柏木は沈黙せざるをえない。さらに柏木は前校長を弁護し、尋常中学において基督教主義の教育を施さないなどといった約束はしなかったは ずであるというが、現校長(横井時雄)もかような約束はしていない。ただ、
「教場に於て聖書を用ひず卒業式に於て宗教的式典を用ひずとすれば一方 には安息日の説教聖書研究会祈祷会青年会の如き布教的手段により一方に は教師及び其他信徒たるものの宗教的感化により基督教主義の徳育をなす は至当のことなり」と、実際に採られている徳育の在り方を示している。
綱領第 2 条削除問題について。文部省が徴兵猶予を与えるのに、同志社 綱領第 2 条末項削除を要求してきた理由は、「適用云々」の文言解釈を教 場で基督教を教授すると考えたからである。現当局者が「2 条末項」削除 したのは、前当局者がこれを撤去したことに従ったのである。尋常中学校 設立といい、答申書といい同志社が文部省の教育系統に入る以上は至当の ことであろう。柏木は、尋常中学校設立の際の答申書と第 2 条削除と何の 関係があるかというけれども、「答申書」を一読したならば双方に密接な 関係性のあることがわかる。尋中設立後、前当局者が解した「適用なる文字」
は今日我々が考えるそれと同様である。日曜日の説教・聖書研究会・祈祷 会以外にどのような基督教教育が可能か柏木に問うてみたいものである。
アメリカン・ボードとの関係について。同志社とアメリカン・ボードの 決裂は時間の問題であった。アメリカン・ボードの宣教師たちは同志社綱 領中の基督教主義なる文字に満足できなくなってきており、神の人格・基 督の神性・霊魂の不朽といった信仰ヶ条の告白まで要求し始めてきている。
宣教師の眼からすると同志社はすでに死に体となっているとみている。安 部はアメリカン・ボードと同志社の決別はむしろ宜とすべきであると言う。
柏木義円は「安部磯雄君ニ与ル書」(766)をしたため反論を試みる。は じめに、「綱領削除」の責任が前当局者にあるのか現当局者にあるのかを 詰問する。当然柏木はその責は現当局者にあることを強調する。第二に「答 申書」問題について。安部は前同志社当局者が、尋常中学校設立のために 京都府庁に「答申書」を提出したというが、「答申書」より先に同志社教 員会は「同志社各学校教育ノ主義」(以下、「主義」と略称)を決議しており、
この「主義」が「同志社各学校ハ…基督教ヲ以テ徳育ノ基本トシ智徳併行
ノ實ヲ挙ゲンガ為メ左ノ条目ニ由テ教育ヲ施スモノトス」と述べており、
これが「同志社各学校ノ教育方針」であり、優先されるべきものであると 主張する。「左ノ条目」とは次の五ヵ条である。要旨だけを記す。神を敬 愛し正義の法則を遵守すること(第 1 条)、基督を尊崇しその教えに遵い 博愛を実行すること(第 2 条)、各自の品性の陶冶と社会道徳の増進をは かる(第 3 条)、教育勅語の趣旨を奉じ忠孝の道を守る(第 4 条)、自由討 究と学術研究への精励を確認する(第 5 条)、がそれである。では「答申書」
はどうして京都府庁に提出されたのか。「右ハ同志社尋常中学認可出願ノ 件ニ関シテ御質疑ニ対シ答申仕候也」とあるように、官庁が懸念したこと に答えただけであり、同志社の教育方針の全般について述べたものではな い。京都府にしてみれば、「同志社ハ基督教主義ナレバ勅語ノ主旨ヲ奉シ テ教育スルヤ否ヤ」が問題なのである。だから、勅語の旨趣にそった「答 申書」を提出したのである。
すでに「答申書」の提出により、同志社の基督教教育の実質は形骸化さ れており、柏木の主張には無理がある。彼自身、小崎らとともに「同志社 各学校ノ教育方針」「答申書」作成に関与してきたことをやはり念頭に置 くべきであろう。第三に、「綱領」第 2 条末項の削除にこだわる。安部は、「綱 領」第 3 条があるから満足すべきであるというが、第 2 条末項及び第 6 条 削除の理由が理解できない。そもそも同志社綱領は、その教育の主義方針 を示したものであって、方法を提示したものではない。仮に、方法が変更 されたからといって主義方針が変わるものではあるまい。柏木はあくまで 横井・安部らの「綱領削除」についてその根拠の無いことを問い続ける。
柏木の基本的主張は、同志社教育の基本軸は、徳育の領域をとるならば 基督教主義を遵守しなければならないとし、同志社各学校にこれを敷衍さ れなければならないとするところにある。その意味では、横井・安部を代 表とする同志社当局者の現実的・実際的・形式的対応と観念的・理念的・
原則的な柏木との立ち位置が違っているところから議論が噛み合わないま ま終わってしまっている。
4 おわりに
本稿を起す動機は、柏木義円が「同志社綱領」削除問題に関してどのよ うな認識を示すかを知りたいことにあった。国家−教育−宗教−個人の重 層的関連を聴きたいとしたからである。「同志社問題」を考えるにあたって、
アメリカン・ボード絡みの事柄が、陰に陽に作用しているようである。「小 崎弘道辞任」の要因のひとつがそれであった。ボードからの独立と同志社 綱領問題は小崎といえどもクリアしたい課題であったはずであり、それを 横井安部体制が遂行していった形となった。すでにその青写真は、小崎浮 田体制にあったと考えるのが妥当であろう。「綱領削除」問題における安 部柏木論争は、それぞれの立ち位置の違いがはっきりと現れたものとなっ た。多分に、小崎辞任に連袂辞任したしこりが糸を曳いているようでもあ る。これは、同志社内の人事抗争であるが、この「コップのなかの嵐」は、
理念派と現実派との闘いの観を呈しているとすると、国家・教育・宗教と の対抗関係にまで敷衍することも可能であろう。いま、テーマとなってい る柏木義円をみると、同志社の根幹にかかわる問題、すなわち、綱領削除 問題についての柏木の姿は、その以前の「熊本英学校事件」「柏木
=
井上 論争」にみられるような力強い英姿をみることは出来ない。その意味では、意外な感があった。小崎体制のもとに参加し、「同志社各学校教育ノ主義」
「答申書」作成に関与していた弱みが柏木をしてそうさせたのであろう。
先にも記したが柏木は余りに理念的・原則的すぎるところに弱点があるの かもしれない。というより、この時、柏木は同志社を辞しており、野に在っ た。遠くから批判せざるをえなかったのであろう。他方、安部は同志社内 部に居り、闘いの最中にある。安部の現実的・実際的見地からの処理能力 の高さが際立つのもそのような状況にあったからであろうと考えられる。
天皇制国家との対決とその間隙をぬってでも同志社の良心を如何に固守す べきかの戦いを展開している立場の人物・意識との違いがあったのではな かろうか。
注
1) 『同志社百年史』通史編一 「第二部 キリスト教教育の受難」所収.
2)13) 浮田和民「校友会員に告ぐ」、柏木義円「辞職の理由」はいずれも 同志社校友 会『校友会報』第三号に(明治 30 年 10 月 31 日発行)に掲載.
3) 『同志社校友会報』第二号 明治 30 年 6 月 20 日発行
4)5) 土肥昭夫「キリスト教主義学校同志社の苦悩」 『同志社百年史』通史編一 430 ページ.
6) フレッド・G・ノートヘルファー著(飛鳥井雅道 訳)『アメリカのサムライ』 325 ペー ジ 法政大学出版局.
7) ノートヘルファー『アメリカのサムライ』 327 ページ. 8) ノートヘルファー『前掲書』 326 ページ.
9)20) 浮田和民「外国宣教師論」 『六合雑誌』第 164 号(明治 27 年 8 月 15 日刊)
10) 「同志社尋常中学校教科課程」 『同志社百年史』通史編一 523 ページ. この「教 科課程」の中では 1 年生から 5 年生まで聖書・キリスト教道徳などという科目は見 られない。ただ、1 年から 5 年生まで「倫理」の科目が設けられ、その教授内容は「講 演」となっている。また、「体操」の項をみると、柔軟体操、器械体操以外に、各個 教練、陸軍礼式(1,2 年生)、中隊教練、野外要務令(3,4 年生)、小隊長以下幹部演 習(5 年生)の教授内容が明示されている。「教育勅語」の国家主義的色彩がかよう な部分においても見ることができよう。
11) 山川菊枝 向坂逸郎編『山川均自伝』 ここでは山川の同志社体験の詳述は紙幅の都 合上避ける。『山川均自伝』153~156 ページの「バイブルの追放」項を参照いただき たい。 昭和 36 年 岩波書店刊
12)14)~19) 「小崎弘道書簡稿」 明治 30 年 7 月 5 日付 『同志社百年史』資料編二 1237~1243 ページ
21) 「同志社通則」 『同志社百年史』資料編一 121~123 ページ
22) 「第四条 海陸軍ノ生徒トナリ兵学寮ニ在ル者. 第五条 文部工部開拓其他ノ公塾 ニ学ビタル専門生徒及ビ洋行修業ノ者並ニ医術馬医術ヲ学ブ者」とある。 日本近 代思想体系『軍隊 兵士』 75 ページ 岩波書店刊.
23) 「改正徴兵令」 日本近代思想体系『軍隊 兵士』 123~125 ページ 岩波書店刊 24) 「各学校入退学取調表」 『同志社百年史』資料編一 702 ページの表より.
25) 「同志社社員総辞職ノ顚末」 『同志社百年史』資料編二 1243~1247 ページ
参考文献
『アメリカのサムライ』(F.G.ノートヘルファー著 法政大学出版局 1991 年)
『同志社百年史』 資料編 1,2 巻(学校法人 同志社 1979 年)
『同志社百年史』 通史編 1 巻(学校法人 同志社 1979 年)
『軍隊 兵士』(日本近代思想体系 岩波書店 1989 年)
「校友会報」第 2 号,第 3 号(同志社校友会 明治 30 年)
『山川均自伝』(山川菊枝 向坂逸郎編 岩波書店 昭和 36 年)