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清末期福州における医療宣教師による出産・育児知識の移入過程 [ PDF

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Academic year: 2021

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1.目次 序章 第一節 出産・育児の変容と医療宣教活動 第二節 福州における医療伝道事業と婦人嬰児病院 第三節 本論文の構成と史料 第一章 宣教師による中西の出産知識の「邂逅」:「聖教 婦孺病院」を中心に 第一節 西洋産科の中国社会への導入 1.中国の出産文化の様相 2.産科部門の重要性 第二節 宣教師による中国の出産慣習への介入 1.病院出産をめぐって 2.産後の入浴をめぐって 第三節 西洋助産の受容と摩擦 1.病院出産の増加 2.宣教師から見た中国人産婆の「迷信」 3.宣教師による「無菌助産」の推奨:「自然の理」 との齟齬 小括 第二章 中西の育児知識の「邂逅」 第一節 西洋医学に基づいた育児医書『婦嬰新説』 1.『婦嬰新説』の著者、出版の目的、流通経 路 2.『婦嬰新説』の内容と構造 第二節 中西育児知識の齟齬:諸産科書類の比較 から 1.母乳―「造化主」と育児知識の結合 2.新生児への保護 2.1 ホブソンによる健康な子ども――「完全な子 ども」の基準 2.2 中西医学書での新生児に対する衛生面の世 話 2.3 新生児の病症に対する中西治療法の対比 第三節 子どもの保護をめぐる摩擦と説得:「聖教婦 孺病院」の事例より 小括 第三章 出産・育児知識の移入経路としての医療教育: 媒介者としての中国人女性 第一節 宣教師による中国人女性への医療教育の 着手 1.女性と子どもの福祉への着目 2.「中国人女性への医療教育」の必要性の主 張 第二節 宣教師による女性医療従事者の養成の実 際 1.看護婦の養成 1.1「岭後婦孺病院」の場合 1.2「聖教婦孺病院」の場合 1.2.1 中国人看護婦の養成に関する計画 1.2.2 衛生教育と看護学生 1.2.3 聖教婦孺病院附属看護婦訓練学校の設立 2.中国人女性医の養成:许金訇(Hu KING ENG) 2.1 女性医になるまで 2.2 蜗氏記念病院での活動と中国人患者の反応 小括 終章 まとめと今後の課題 2.概要 <序章> 本論文は西洋医学に基づいた出産、子育てのあり方が 清末期の中国社会へ移入していく過程を明らかにするも のである。その解明のために、福州の二つの代表的なミ ッション婦人嬰児病院(1885 年にアメリカ公理会の「聖 教婦孺病院」(Peace Street Hospital for Women and Children)と 1877 年に成立したメソジスト教会の「岭後 婦孺病院」(Foochow Women’s Hospital)を対象とした。 当時の医療宣教師(Medical Missionary)による嬰児保 護活動の詳細と、宣教師たちが中国人に提示した出産お よび子育てにつながる考え方と、それに対する中国人の 反応を手がかりとした。 19 世紀半ば、中国では太平天国のようなキリスト教信 仰を踏まえた空前の「世直し」運動が起こった。それは 当時の社会事業へ大きな衝撃を与えた。それと同時に中 国人が行った育児事業も被害を受けた。清政府は反乱後 に地方を再建するため郷紳たちに各種の特権を賦与し、 清末期に様々な社会事業とともに育嬰事業が再興された。

清末期福州における医療宣教師による出産・育児知識の移入過程

キーワード:出産・育児、ミッション婦人嬰児病院、中西医学書、半植民地中国、女性医療教育 教育システム専攻 葛 秋月

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一方、アヘン戦争によって欧米帝国主義に開放された上 海、広州、厦門、福州、寧波の五つの開港場に限り、宣 教師たちはそれぞれの母国の植民政策に積極的に協力し た。宣教師自身の使命に従って布教活動を行うと同時に、 教会付属の孤児院・学校・病院などを経営し、慈善事業 を活発に行った。中国における本格的な医療伝道は 1830 年代に始まり、1838 年にアメリカ宣教師たちが創設した 中国医療伝道会 (The Medical Missionary Society in China)は、中国医療伝道開拓の基礎を形成したとされる。 欧米宣教師たちは中国で嬰児保護事業を盛んに行ったが、 その展開は容易に進んだわけではなかった。なぜなら、 清末期の中国の各地で教案という仇教郷紳が率いた反キ リスト教運動が頻発したためである。その運動によって、 多くの宣教師たちが設立した孤児院、教会、病院などが 破壊された。 つまり、清末期の中国では、中国人による 育嬰事業の再興と同時期に、欧米宣教師による嬰児保護 事業も展開していた。 姚毅は、「19 世紀半ばから 20 世紀初頭にかけて、西洋 産科学・産育知識の導入と中国人エリートのそれに対す る反応」を考察している。姚は、近代中国における西洋 医学に基づく出産・育児知識の伝来と受容、さらにその 後の女性たちの反応などの分析を通し、産科学・ジェン ダー・国家の連動した関係を動態的に捉えている。すな わち、欧米の中国に対する植民地支配的戦略と深く結び ついた医療宣教活動のなかで最も重要な分野とされた産 科領域の中国への伝播が、産育に関する西洋医学知によ る医療活動や新式女医・産婆・看護婦養成などを通じた 中国の産育の近代化の端緒として位置づきつつ、それが 維新派改革者による富国強種の理念と同調し、また、ジ ャーナリズムを通じて、新しい教育を受けた女性達がそ うした新しい医療・衛生などの知識を受け容れていった 様相である。 本論文では、姚のマクロな考察方法と異なり、主にア ヘン戦争による開港場の一つとしての福州地域における 医療宣教師の動きを中心に考察する。具体的には、当時 のミッション婦人嬰児病院の報告書と記録を通して、医 療宣教師による中国人患者、看護学生とのやりとりなど ミクロな視点から、中国人の出産の面と子どもの保護に 繫がる観念と宣教師による西洋医学に基づいた産育に関 する考え方の「邂逅」の経緯を解明する。この考察を通 して、それまでの研究が取り組んできた中国における出 産・育児の近代化のプロセスという大きな課題に対して、 西洋産科学・産育知識がいかにして中国に導入されたの か、医療宣教師による西洋医学の導入に伴う産育の知見、 行動の変容過程で何か発生したのかについての新しい知 見を付け加えることができる。 清末期には医療宣教師によって西洋医学的な子育て の方法、母子衛生に関する知識などがもたらされた。そ こには欧米帝国主義による半植民地統治という中国のお かれた状況があったことを看過することはできない。海 外伝道と帝国主義の関係については、小檜山はアメリカ の海外伝道の「柔軟で、友達的な」性格を描き出してい る。本研究では、中国での医療宣教師による出産、子ど もの医療に関する医療宣教活動の文脈から、西洋医学に 基づいた出産、子育てのあり方が清末期の中国社会へ移 入していく過程を明らかにすることを通して、アメリカ 海外伝道はいかにその「柔軟で、友達的」な性格を表す のかという問いに答える。 宣教師が中国における医療技術の「進歩」に携わった ことは事実である。しかしここでなぜ宣教師が中国にお ける医学の「進歩」に携ろうとしたのか。その事実の奥 に何があったのかについて敏感になる必要があるだろう。 従って、医療宣教師が中国へ西洋医学を導入する過程で の、医療宣教師と中国人の間の葛藤をみる必要がある。 <第一章>宣教師による中西の出産知識の「邂逅」:「聖 教婦孺病院」を中心に 第一章では、「聖教婦孺病院」という婦人嬰児病院の 記録(1904)を中心に、中西の出産知識の「邂逅」の経 緯を解明した。 第一節では、産科部門の設立期の状況を考察し、出産 科を一つの入り口として、医療伝道事業を展開する「最 善の機会」と医療宣教師が考えたことが明らかとなった。 また、「外科的な事例は稀である」ことから、当時の中国 人は宣教師の外科的な助産方法に対して否定的であった。 第二節では、医療宣教師による中国人患者、看護学生 とのやりとりの記録から、宣教師による中国の出産慣習 への介入を検討した。一つ目は、病院出産をめぐる面で ある。当時の中国では、産婦たちの出産の空間について 従来の慣習が定着していたため、病院に行って出産する ことは当時考えられていなかった。二つ目は、産後の入 浴をめぐる面である。当時の中国人は「婦人の lying-in period「坐月子」の期間には、入浴は特に有害であると 考えられる」ため、宣教師の衛生知識の提示を容易に受 け入れていなかった。清代の春亭氏が書いた『済生集』 に載せた産後の禁忌を通して、中国人は産後の身体を洗 浄しないというわけではなく、出産後の七日間、産婦の 身体を保温することを重視していたのである。医療宣教 師はこうした中国人の出産に関する慣習を理解しないま ま、中国人産婦は不衛生(産婦の黒い顔や手を見て)だ

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と考えたことが明らかとなった。 第三節では、西洋助産の受容と摩擦について考察した。 まず、病院の記録によって、二十年を経て、中国人が「入 浴することは、人を殺さない」ということを理解し、次 第に病院に来て出産するようになったことがわかる。中 国人は西洋医学に基づいた助産を受容したが、逆に宣教 師よりも産婆を信頼していた。中国人は宣教師の助産方 法に対して、依然として保守的な態度を持っていたので ある。さらに、清末期のある医療宣教師が広州で見た中 国人土産婆による助産過程の描写から、宣教師はこの助 産過程について「迷信」であり、「混乱した状態」であ ると評価したようだ。しかし、中国清代の『達生編』と いう産科医学書の中では、出産のときには、静かな環境 が要求されていた。つまり、医療宣教師は出産の知識を 中国に導入する際に、宣教の戦略として、中国人産婆の 助産過程を批判したのだといえる。さらに、病院の産科 記録に記載された助産の事例を取り上げ、医療宣教師が 持ち込んだ医学に関する知識は、中国の出産文化とは異 なったものであり、相互に理解しにくいものであったこ とがわかった。「無菌助産」は、「麻酔」「消毒」などの人 工的な方法によって出産に介入することであるが、当時 の中国人の中では「自然の理」という「自然」に従うと いう観念が根深かった。この観念は宣教師の西洋医学に 基づいた新しい知識の導入にギャップを引き起こすこと となっただろう。つまり、医療宣教師による中西助産の せめぎ合いは、宣教師が中国の産育文化、慣習を「迷信」 と捉えながらも、その背景を「理解」し、「友好」に信頼 関係を築きながら、彼らの認識や行動を変容させていこ うとする過程でもあったのである。 <第二章>中西の育児知識の「邂逅」 第二章では、中西の育児知識の「邂逅」、また「子ど もの保護」をめぐる摩擦の様相を解明した。 第一節及び第二節では、清末期に医療宣教師ホブソン が管茂材(中国人)と共に著した医学書『婦嬰新説』を、 ホブソンが参考とした英文医学書(The Principles and Practice of Obstetric Medicine and Surgery)、当時 の中国人が著した産育書『達生編』の内容と照らし合わ せることで、当時の宣教師たちの戦略が明らかとなった。 ホブソンは「造化主」が母親たちに母乳を与えること で、嬰児を養育することができるということを主張した。 医療宣教師は西洋の育児知識を中国人に伝える際、キリ スト教の思想を組み入れていたといえる。ホブソンは乳 幼児を哺乳する頻度と規則を大まかに纏めて読者に勧め るため、西洋の精確な計量・計数の単位を、「戌亥时」 や「十二両」、「一斤」など、当時中国で使われていた 単位に書き換えていた。さらに、『婦嬰新説』を著した 際に参考とされた前掲の英文医学書を用いて、医療宣教 師がいかに西洋の育児知識を中国人に伝えたのかを明ら かにした。当時の中国の生活状況や医療水準を考慮した 医療宣教師たちは、英文医学書の内容を大幅に削除し、 中国人読者にとって理解しやすい治療方法を『婦嬰新説』 によって提供していたのである。たとえば、英文の参考 書の中では、「器官」、「細胞組織」というような西洋医学 の術語が頻繁に使われており、病気の形成原理が詳細に 説明されている。しかし、中国語に翻訳された『婦嬰新 説』では、西洋医学の術語は全て消え、中国人読者にわ かりやすいように説明されていた。また、英文の場合、 活発な下剤を使って、「湿布、熱敷き」などが勧められた ことと異なり、『婦嬰新説』では、「罂粟殻を水に入れて 煎じる」、「鎮痛のため、樟脑を服用する」などのように、 当時の中国人の生活状況と医療水準を考慮した記述がな されていたのである。 医療宣教師たちのこのような戦略によって、中国社会 への育児知識の移入が起こったといえる。また、中国人 が書いた『達生編』と合わせて、一つの同じ病に対する 医療宣教師の治療法と中国人医者の治療法を比較し、両 方の共通した点とズレを解明した。つまり、この時期、 中国人の育児方法と西洋の医療宣教師による保護方法は 各自の理論や礼儀に従っていたが、それらが全く異なっ ていたというわけではなく、共通した部分も存在した。 医療宣教師たちによって批判がなされたものの、中国に は信仰体系に基づく育児方法が存在していたのであった。 第三節では、「聖教婦孺病院」(1904)の小児科の記録 から、子どもの保護をめぐるせめぎ合いを明らかにした。 ある子どもの入院のケースを通して、子どもの母親は病 院のことを信じておらず、病院が息子を誘拐するのでは ないかと心配している気持ちを読み取れる。つまり、中 国人は医療宣教師の動機を疑っており、治療をためらう 態度をとっている。これは中国人と宣教師の間の実際的 な摩擦といえる。 つまり、医療宣教師たちは、育児知識を中国社会に広 げる際に、キリスト教の思想を組み入れながら、当時の 中国人の生活状況と医療水準を考慮した上で、子どもの 医療について、西洋の専門的な医療用語を中国人にとっ て理解しやすい表現に変えて伝えたのであった。このよ うにして、「子どもの産み方」だけではなく「子どもの育 て方」をめぐっても、医療宣教師による知識の移入がな されはじめることとなった。

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<第三章>出産・育児知識の移入経路としての医療教 育:媒介者としての中国人女性 上記のようにして移入され始めた西洋の産育児知識 を普及させる際、その媒介者となったのが中国人女性で あった。第三章では、清末期の福州でなされた、医療宣 教師による中国人女性への医療教育の様相を解明した。 第一節では、まず、福建省のメソジスト教会の婦人協 会の年次報告書に掲載された宣教師カールトンの「中国 人女性への医療教育」(1906)と題する文章を取り上げ、 当時の中国人女性の医療教育の状況や宣教師による中国 人女性への医療教育を行う意図を解明した。医療宣教師 たちが中国に着て数十年間、中国人女性に与えてきた医 療教育は「とても乏しくて、不十分である」とカールト ンは評価した。カールトンは中国人女性医学生の知識レ ベルは低いが、中国人の産婆や医者より実力があるとい うことを主張していた。当時の宣教師は中国人産婆や医 者の実力を否定し、西洋医学の優位性を強調していた。 第二節では、医療宣教師による中国人女性医療従事者 の養成の実際を解明した。まず、看護婦の養成について は、メソジスト教会の婦人嬰児病院の報告書(1886)を 取り上げた。医療宣教師による看護婦の募集条件と教科 書の内容を通して、中国人患者を治療する際に信頼を得 るため、中国人看護学生は医療宣教師らにとって大きな ニーズがあったことがわかった。また、福建省における メソジスト教会の婦人協会の年次報告書(1906 年)をも とに、宣教師の中国人看護婦の養成の様子を考察した。 医療宣教師は、衛生的な習慣の養成や疾患の予防を強調 していた。中国人看護学生は治療過程の通訳を担当し、 医療宣教師の診断方法を理解しながら、宣教師の話を中 国人患者に伝えるという方法で治療に参加した。また、 「聖教婦孺病院」に属する看護婦訓練学校の設立を分析 した。中国人看護学生たちは、中国人の母親と子どもを 世話するため、西洋医学に基づく産育知識を備える必要 があったようだ。さらに、看護婦の養成は、当時の無文 化の女性よりも一定的な知識基礎を具えた中国人女性信 徒たちが優先的に採用されていた。一方、女性医師の養 成については、Notable Women of Modern China(1912) などの記載から、アメリカに留学した許金訇 (1864-1929) という中国人の女性医療宣教師の生涯を考 察した。宣教師は中国人女性をアメリカに送って、女子 医療大学で医学知識を勉強させた後、中国に戻って、医 療宣事業に力を投入させるという方式を通して、中国人 女性医を養成したことがわかる。以上の考察を通して、 学生たちへの医療教育、またその学生達の活動を通して、 医療宣教師たちによってもたらされた西洋の産育知識は さらなる広がりを見せ始めることとなったのである。 <終章>まとめと今後の課題 本論文の分析によって、「近代化」の過程は、清末期 の中国に存在していた産育文化、それを否定しようとす る際の宣教師らの戦略、媒介者としての中国人女性の存 在等、多くの要素の絡み合いを経たものであったといえ よう。このように、それまで見過ごされてきた「近代化」 の具体的様相の一端を解明した点は本論文の意義である。 本論文での分析は、先行研究で言われている「近代化」 がなされようとする段階での具体的動態の解明にとどま っている。このようにして中国に移入され始めた「近代 的」な出産・育児に関する知識は、その後まず「子ども を産み育てる」母親への伝達、そしてその他の中国の人々 への普及という過程を経ることとなっただろう。西洋医 学にもとづいた知識はどのような過程をへて中国での子 どもを産み育てるという営みに浸透していったのだろう か。中国における「子ども産み、育てる」ことの展開に ついての具体的様相の解明が今後の大きな課題である。 3.主な史料および参考文献

Annual report of the hospital for women and children, Foohow,China 1885.9-1886.7 Shanghai,Amercian presbyterian mission press.1886.

Francis Henry Ramsbotham, The Principles and Practice of Obstetric Medicine and Surgery. Philadelphia : Lea & Blanchard,1847

Official Minutes of the twenty-second session of the Foochow Woman’s Conference of the Methodist Episcopal. Church ,held at FOOCHOW, October 31st.to Nov.2nd, 1906. The Methodist Publishing House Foochow, China

Report of Hospital for Women and Children 1901-1904. (pp.1-6)And a brief summary of work for women during 20 years.Pagoda bells(pp.6-68)/ Foochow Hospital for Women and Children

合信(

Benjamin Hobson

)管茂材撰『婦嬰新説 咸豐8 年 』、上海仁済医館、1858 年 亟斋居士『達生編』、1715 年、汇古堂蔵版。 姚毅『近代中国の出産と国家・社会 医師・助産士・接 生婆』研文出版、2011 年 陳萬成、羅婉薇、鄺詠衡「晚清西醫學的譯述:以《西醫 略論》、《婦嬰新說》兩個稿本為例」『中国文化研究所 学報』 Journal of Chinese Studies No. 56 - January 2013

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