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中央学術研究所紀要 第43号 037李贊洙「祭祀の政治学Ⅱ ―明治時代の国家神道と公私観―」

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1.はじめに

 筆者は以前、日本の文化理論家であり、近代思想家である子安宣邦(1933 )の著 書、『鬼神論』と『国家と祭祀−国家神道の現在』の紹介を目的として書評の形式で文 章を草したことがある。その際、その書評の題目を「祭祀の政治学」とした1。その要 旨を言えば、明治政府が長い間、精霊崇拝の伝統である神道を、祖先の魂を称える儒 教式の祭祀形式に合わせて再構成しつつ、祖先の起源である天皇家を中心として民族 としてのアイデンティティを確立し、国家的な統一性を追求したというものであった。 民衆の宗教心を日本の起源となる天照大神と結び付け、その子孫である天皇を崇拝す

―明治時代の国家神道と公私観―

李   贊 洙

1.はじめに 2.神道の祭祀方式と護国英霊 3.生きている死者 4.祭祀と国家的統合 5.国家神道と護国英霊 6.宗教的政治と霊魂の社会化 7.戦争国家と「天皇教」 8.「天皇教」の二重性 9.「活私開公」とおおやけ(公)・わたくし(私) 10.福沢諭吉の公と私 11.滅私奉公としての公共性 12.おわりに (参考文献) 1  李贊洙、「祭祀の政治学」、ソウル大学校統一平和研究院、『統一と平和』(5集1号、2013.6.22.)、 265 27    李贊洙、「靈魂の政治学−天皇制と新宗教の接点」、ソウル大学校日本研究所、『日本批評』(2013 下半期、第9号、2013.8.15.)、112 143も、これと全く類似の視点で論じている。

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るように誘導する政策を通して天皇中心の国家的統一を成就してきたということであ る。死者の魂に対する祭祀が国家的政策を中心にあるというのが、子安の二つの著書 の要旨であった。  今回の論文でも、いわば「鬼神」を国家的な次元で祭祀し、社会統合の根幹として きた日本政治の流れを「祭祀の政治学」と命名し、「祭祀の政治学」を中心に形成され てきた日本の社会の公共性の根幹を考えてみたい。「祭祀」という宗教的な様式を国家 的統合の根幹としてまた、日本の政治に含蓄される公共性の構造と内容を考察してみ ることにした。一方では、上記の書評で展開した見た方と内容の一部に依拠しつつも、 もう一方ではさらにこれを大幅に拡大して再構成し、より本研究との違いを明確にす るため、本論文のタイトルも「祭祀の政治学Ⅱ」とした。特に本論文では、前述した 子安宣邦の立場を従いつつも、日本的な公共性を判断する基準として東アジア的な公 共哲学の展開を試みている金泰昌の立場を参考にして論述を進めていきたい。その場 合、金泰昌の整理した「活私開公」という公共性の規定を明治時代の「公」概念に対 する判断の根拠として使用することにする。祭祀の原理を基盤にして国家的な統合を 成し遂げてきた明治時代(1868 1912)政治の力学及び今までも続いている日本的な公 共性は、どのような特徴を持ち、「活私開公」的な公共性とはどれほどの距離を持つか について全般的に考察してみたい。

2.神道の祭祀方式と護国英霊

 新生の明治政府は日本固有のアイデンティティを固守し、新たな天皇の正当性を確 保しつつ、宗教(信教)の自由に対する西洋の要求を受け容れることに国家運営の目 標を置いた。そのために民衆的な精霊信仰の伝統である神道を日本の伝統的な習俗で あり、日本思想の原型であると見做し、これを国家的統合政策の根幹とした。神道は 一種の文化であり、習俗であるから、国家的政策の根幹としても、仏教やキリスト教 のように制度化された宗教の自由を侵害することにはならないという立場が堅持され たのである。  なによりも神道を日本思想の原型として確保し、神道中心の国体を確立するために は、長い間神道と重ねつけられていた仏教などの、いわゆる「宗教」と切り離し、神 道を日本的文化・習俗・歴史の核心として顕著あらしめたのである。仏教が日本に導 入されて以来、互いに習合せざるを得なかった神道と仏教(神仏習合)を分離させる 政策(神仏分離)が採られ、信者の独自性が強化された。そうした後、死者の魂が悪 い気運、すなわち怨霊にならないように祈祷し、また怨霊をよく祭って神的な次元に まで昇華させようとした神道の供養法が、国家のために犠牲した魂に対する国家的次 元の祭祀にまで高められた。それは天皇を頂点とする国家の精神的統一を図るための

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営みでもあった。それはまた、このような天皇を神の領域まで高め、天皇を権力の頂 点にしつつ、西洋式の政教分離形の近代国家を追求しようとする試みであった。神道 は仏教やキリスト教と同じ一つの宗教ではなく、文化化した祭祀であると主張し、形 式的には政教分離の政策を求めるようにしたが、実は神道中心の前近代的な政教一致 の国家を構築したのである。  このために要請された概念が「護國英靈」であった。護國英靈という言葉は、すな わち「この国を守るために死んだ麗しい魂」であり、これは明治維新前後の混乱期に 犠牲となった人たちに国家的な理念を吹き込み、祭祀の対象にすることによって、国 民の護国的な姿勢を鼓吹させるために使った戦略的な言語であった2。一個の兵士であ ってもこの国のために死んだことが認定されれば、その魂を神的な次元にまで顕揚さ せ、死による遺族の不満を慰め、軍隊の一員という矜持を高揚させることによって兵 力の持続的な確保かを確実にした3。最終の目的は、祭祀の範疇を護國英靈の頂点にい る天皇にまで拡大させ、結局は全国民が明治天皇を崇拝するように導くことにあった。  護國英靈に対する祭祀は、神道の供養法のごとく、死者を怨霊ではなく国家の「守 護神」とする明治政府の「宗教的政治」の行為であったのである。死者の魂はどのよ うにして国家的統合の根拠たる国家の守護神になったのであろうか。祭祀の原理を国 民的な教育の根幹とし、政策化してきた明治政府の政治的な力学についてさらに詳し く考えてみよう。

3.生きている死者

 『論語』には、季路が師である孔子に対し、死と鬼神の問題についてどのように理解 すべきかを質問する場面が出ている。すなわち、季路が「鬼神の奉り」について聞く と、孔子は「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」(『論語』先進)と答えた。  孔子は鬼神自体を否定はしていないが、彼の関心は基本的に死後よりもこの現実、 鬼神よりも人にあった。しかし、孔子のこのような答えは、鬼神の存在を疑わず肯定 していた人たちには鬼神の存在のあり方に関して様々な論争を生み出す源泉となるに いたった4。孔子の影響力の中で、死者の魂がどのように生者の生活に関与し得るかと いう談論も生じた。例えば、朱子は鬼神を否定はしないが、孔子にはなかった理気論 の言語を使い、これによって祖先と子孫とが会う根本原理を立てようとした。すなわ ち、鬼神や人は気で成されたもので、その形態が異なるのみであると主張した。この 2  李贊洙、「霊魂の政治学」 116頁、‘護国英霊’に対する具体的な説明は、田中丸勝彦、『さまよ える英靈たち』(東京:栢書房、2002)、13 21頁参照。 3 高橋哲哉、『靖國神社』(東京:ちくま書房、2005)、46頁。 4 子安宣邦、『鬼神論』(東京:白澤社、2002)、12 13頁。

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ような解説は、韓国と日本の思想家たちの鬼神談論及び民衆の祖先崇拝の体系に少な からず影響を与え、新たな死後談論のもう一つの基盤となった。  そして、新たな鬼神談論の影響の下にあった者たちの議論を基盤として、さらに死 とその後の魂とのあり方を考え、魂との交流について想像し、祖先の魂に対し真心か らの祭祀を捧げつつ、いわゆる鬼神観念を生活化していった。このように鬼神観念は、 個人の生活は勿論のこと、社会体制と文化の中にも溶け入っていったのである。  ここで重要なことは、鬼神の存在の有無ではなく、それよりも有無論争を通して、 祭祀の意味に対する論争を通して、どのような形式であれ、死者の世界が生者の社会 に影響を与え、ひいては社会と国家を動かす根幹にまで影響を与えてきたかという事 実である。子安は、鬼神論を社会的談論の次元で理解するとき、鬼神はその存在の有 無とは関係なく、社会を実際に動かす力になると見た。そして、それが政治的な政策 と出会うとき、社会統合の強力な根拠として影響力を行使するというのである。彼に よれば、明治政府のシステムはこのことを正確に顕示していると説くのである。

4.祭祀と国家的統合

 子安によれば、明治政府とは、宗教や慣習程度に考えるべき現象を政治の次元にま で高め、祭祀の頂点にある天皇を中心として国家的統合を成し遂げたシステムであ る5。明治政府が試みた国家的統合の原理の真ん中に、いわゆる鬼神言説が置かれてい る。明治政府は、国家が祭祀を行いつつ、人々が鬼神の有無に関して論じ、鬼神につ いて想像し、また鬼神との会話を可能にする文化あるいは言説体系の拡散を図ってき た。鬼神は、家族的あるいは国家的な祭祀という形式を通して、すでにそうした祭祀 を営む人間の意図に似合うよう解釈されたその方式の中で存在するということを明ら かにした事例である。そのような意味で、鬼神は「人たちがいう話の中」に、また「人 たちが立てた建物」の中に存在すると、子安は規定するのである。  子安においては、鬼神がないという「無鬼論」も社会的次元では「有鬼論」と似た 機能をする6。生者が作っていく現実の政治の中で、いわゆる死者の魂が深く関与して いるということである。祭祀を制度化乃至文化化しようとする人たちの意図と解釈に よって、祭祀の対象はその制度と文化の中に生きている実在になるのである。とくに、 国家的次元での祭祀の場合、言説上の鬼神は制度化され、文化的形式を通して生者の 現実に影響を与える。ひいては祭祀の対象を天皇まで結びつく強力な文化化の過程の 中で祭祀の原理は、自然に国家的統治理念の根幹となる。その統治理念の中で国家の 5 子安宣邦、『鬼神論』(東京:白澤社、2002)、17 23頁。 6 子安宣邦、『鬼神論』、169 174頁。

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構造はさらに堅くなり、他国に対する侵略の根拠としても作用する。宗教によって介 入された戦争の場合が、その典型的な事例であろう。  20世紀の東アジアを動揺させた日本政治の中で、祭祀を国家的な次元にまで強化し つつ成立されてきた日本式の宗教理念、いわゆる国家神道的な流れが強力な影響を与 えることになった。その意味で祭祀行為は、それが家族の中でなされるか、国家的な 次元でなされるかを問わず、ただ一つの脱社会的宗教現象には留まらないということ である。祭祀の対象となる鬼神は、祭祀を行う者たちには言説の主題となり、また文 化と政治の根幹として作用し、ひいては国家形成の理念的基礎を提供するという点で、 すでに生き生きとした社会の実在なのである。  これは、同時に、言説の様式を適切に調節しながら生者の生活の様式を再編しうる という意味も持っている。子安も、この部分に関心を見せつつ、国家神道を基盤とし て成立した明治時代の天皇制下の政治構造と現実がこのような様相をよく顕示してい ると論じるのである。  勿論、死者の魂が生者の意図の中に入ってきて国家的イデオロギーとして具体化し、 また戦争も不死するようにする政治的な力学は、日本のみで見られる現象ではない。 例えば、国家的犠牲者(忠)を顕揚する日という意味で韓国でも「顕忠日」も死んだ 人たちを崇めるという外的な名分によって、確かに社会を安定化させ、政治権力を正 当化し、国民の精神的統合を図るための政治的な装置として利用されてきた側面が強 い。程度の差はあるが、「顕忠日」もまた広い意味では死者の魂を慰め祀るという「祭 祀の政治学」の延長線上にあるのである。  日本の土着的な精霊崇拝の伝統である神道が儒教式祭祀の形式と出会い、国家的な 次元にまで拡大する過程こそ「祭祀の政治学」の構造と力学をよく具現化させてくれ ている。そこで子安は、明治維新の根幹となる国家神道こそが鬼神に対する祭祀様式 の変化を通して祖先神を国家主導の談論の中に生きられるように祖先の頂点である天 皇中心の国家的統合を図る政治的過程であったと規定する。とくに、護国英霊を国家 的言説の主題とし、国家と国民の祭祀対象として再構成しつつ、天皇を頂点とする垂 直的統一国家体制を確立しようとしたのが、明治政府が志向する目的であった7。明治 維新は、「祭祀の政治学」を通して強力な天皇制を確立し、それを通して日本の国家的 正体性を確立していく過程であったと論じるのである。

5.国家神道と護国英霊

 祭祀の対象が本当に国を守るために死者の魂であるかどうかは、本質の問題ではな 7 子安宣邦、『鬼神論』、17 23頁。

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い。それとは関係なく、護国英霊は国家と国民の祭祀対象として再構成された一種の 「言説上の戦死者」なのである8。国家のために存在してくれることが、国家によって 要請された魂なのである。国家は言説として再構成された魂の意味を政治的に広報し、 教育することによって国民が実際の護国的な精神を持つように導くという、そのよう な意味において「国家は英霊を必要とする。」9  勿論、祖先祭祀によって国家統合を成就するという提案は、以前からもあったので ある。例えば、荻生徂徠(1666 1728)は祖先祭祀こそ国家統合の根幹であると強調し ており、彼の思想は幕府末期から明治初期にかけて水戸学に反映されつつ、祭祀を通 した国家統合という流れを拡張していく上で大きな影響を与えた。幕府末期の尊王攘 夷の流れを主導した水戸学の先駆者である相沢安(1782 1863)は、『新論』で次のよ うに言っている。「昔、天照は神道として教えを立て、忠孝を明確にして人の道理を立 てた」、「天皇はすなわちこれを外で祭祀することによって公然と天下とともにたてま つり(敬事)真心を尽くして恭敬(誠敬)する志を天下に明かし、天下は言わなくて もわかる。」10  「生きている人に死んだ後の魂が戻るところを教えてあげ、民心に究極的な安心を齎 す鬼神祭祀(神道)が成人に施す天下安民の最高の教え」であるとみつつ、祭祀を通 した人民の統合を「国家の長期的な経営戦略の基本(大経)として提示してきたので ある」11。「民衆は祖先の祭祀に奉仕する天皇の姿を見つつ忠孝について自から自覚す る」ように、「民衆の間で忠孝の心と祖先を称える心が生じ、天皇に恩を感じ、天皇を 尊敬する心が生じる」12ようにするのが国家的危機を克服し、人民を統合する道である という論理なのである。  このように水戸学とその影響力の下にあった人たちは、祖先祭祀を日本の起源に該 当する神に対する祭祀と情緒的に結びつかせることによって神の子孫である天皇中心 の国家建設に寄与できると見たのである。このような主張が明治時代の政治に反映さ れつつ、明治政府は日本の起源となる天照大神を祭祀する伊勢神宮の機能を大幅に強 化したのであり、国家的な戦乱期に犠牲された戦没者の魂を慰めるという名分で靖国 神社などを創建した。それは、護国英霊に対する祭祀を通して国家的統合を試み、天 皇に対する崇拝に結び付くようにした装置であったのである。伊勢神宮は言うまでも なく、靖国神社でも、相変わらず現役政治家の参拝が続いており、時々政治的な局面 転換の根幹となっているのは、このように国家的な理念の下で強化されて創建された 8 子安宣邦、『鬼神論』、23頁。 9 子安宣邦、『鬼神論』、18頁。 10 子安宣邦著、송석원訳、『日本ナショナリズムの解剖』、그린비、2011、59 60頁引用。 11 子安宣邦、『國家と祭祀−國家神道の現在』、東京:靑土社、2009、101頁。 12 阿滿利麿、『国家主義を超える−近代日本の検証』。

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神社であるからこそ「宗教的政治」あるいは「政治的宗教」という、天皇制下の日本 政治の力学をよく示している。子安は、今でも政治家の参拝の歩みが続けられている 伊勢神宮について次のように規定する。    伊勢神宮は皇室の宗墓である、同時に天皇が戦争の開始とその終結という国家の 大事が天皇によって奉告され、国家の興隆を願う帝国臣民たちによって挙って奉 戴される帝国の大祠であるのだ。皇室の宗墓であり同時に帝国の大祠であるとい う意味は伊勢神宮こそ国家神道の中心に位置づけ国家神道それ自体を構成する最 高の神的施設ということを語るのである13  問題は、伊勢神宮に対するこのような定義がいまだ有効であるということである。 今日でも、年初には総理大臣が伊勢神宮に参拝する場合がある。靖国神社への参拝に ついては日本内でも批判の声があるが、伊勢神宮への参拝はとくに問題化されてしな い。さらに、天皇の即位式を記念する祭祀の時には、全国の神社が奉祝の旗を掲揚す る。これは自然な日本の姿である。子安は、まさしくこの点に注目しつつ、国家神道 はなくなったのではなく、まだ進行中であるとみた14。敗戦後、神道は一つの「宗教法 人」として格下げされ、伊勢神宮もまた法的には一つの宗教施設に過ぎない。しかし 伊勢神宮は、相変わらず天皇中心の国家的統合を成してきた日本政治の延長線に立っ ているのである。  靖国神社の状況も同じである。周知のように、靖国神社は明治維新のための内戦で犠 牲となった魂を祀り、国家的次元で祭祀するために創建された神社である。その後、日 清戦争とアジア・太平洋戦争などで亡くなった戦没者の魂を合祀することによって国 民に護国の精神と姿勢を堅持するように寄与してきた国家主義的な神社である。  しかし、その目的とは異なり、すべての戦没者が祀られているのではない。実際、 靖国神社には日本政治の帝国主義化に符合すると判断される魂だけが選別的に祀られ ているのである。その意味するところは、特定な意図的解釈が介入されて創建され、 運営されている神社であるということである。例えば、靖国神社神域内にある戦争博 物館の「遊就館」は「英霊を顕彰し」、「近代史の真実を明かす」目的として設立され ているとなっているが、基本的に日本の国家主義精神を鼓吹すると解釈されるときに はじめて「麗しい英霊」となり、「近代史の真実」となるのである。「死んだ人を英霊 として選別し、祭祀の神として祀ろうとすればともあれ歴史解釈と歴史観を必要と」 するからである15 13 子安宣邦、『國家と祭祀−國家神道の現在』、東京:靑土社、2004、31 32頁。 14 子安宣邦、『國家と祭祀−國家神道の現在』、10頁。 15 子安宣邦、『國家と祭祀−國家神道の現在』、59 60頁。

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 国家的な光栄に傷を残した事件の犠牲者たちが国家的祭祀の対象にならないのは、 むしろ当然である。例えば、アジア・太平洋戦争の終盤、アメリカとの最後の交戦が あった沖縄戦争での死者は国家祭祀の対象とはされていない。    沖縄だけではない。祭祀しない国内外の無数な死者の立場で考えてみれば、「日本 人の心」を詐称して国家と靖国が連続的という話はイデオロギー的な虚言に過ぎ ないということが明白だ。(中略)国家によって死に至るが祭祀をしない内外の無 数な死者たちには靖国の存在自体が欺瞞であろう16

6.宗教的政治と霊魂の社会化

 このように死者の魂に対する祭祀を政治的な意図と理念に似合うように利用する方 式によって宗教と政治を一致させた明治政府の政治の力学であればこそ、本論文のタ イトルのように「祭祀の政治学」という命名が可能となるのである。「霊魂の政治学」 であるといっても変わりはない17。今まで述べたように、明治時代以来、日本は祭祀を 政治化し、国民が神を祭祀しなければならない理由と神々の位階を直・間接的に訓示 しつつ、垂直的な次元で国家的統合を成就することにある程度成功したという点にお いても、同様なことが言えよう。  水平的次元でも、護国英霊を高める雰囲気が人々の日常の生活にも影響し、戦死者 のための墓域が個別家庭と村単位でつくられていった。そのように戦没者を、靖国神 社は勿論のこと、個別家庭でも村単位でも共に祭祀を行いつつ、同一人が二重、三重 で祀られるようになったのである18。その過程で、同じ戦死者に対する祭祀様式が仏教 式、神道式など多様な儀式形態を持つものの、宗教的な理念の差による葛藤はない。 それは、ひとえに護国英霊を慰めるという共通な事実に基盤を置いているからである。 国家のための犠牲が、仏教や神道のような宗教の外的差異を解消させるのである。  さらに、戦死者の墓は大衆に開放的であり、幽寂な雰囲気はない。当事者の遺骨が なくても、公式的な墓石あるいは墓碑を作るので、そこには共同体的あるいは社会的 記念の性格が顕著に現われてくる19。このようにして、戦争犠牲者に対する記念行為は 社会性を獲得していく。「祭祀の政治学」の例にならい、これを「祭祀の社会化」、あ るいは「祭祀の文化化」と命名してもよいだろう。それは、祭祀を通して死者の魂が 16 子安宣邦、『國家と祭祀−國家神道の現在』、189 190頁。 17  李贊洙、「霊魂の政治学:天皇制と新宗教の接点」、ソウル大学校日本研究所、『日本批評』第9 号(2013.7.) 18 岩田重則、『お墓の誕生・死者崇拜の民俗詩』(岩波新書、2006;新赤版1054)。 19 岩田重則、『お墓の誕生・死者崇拜の民俗詩』(岩波新書、2006;新赤版1054)。

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生者の統合に影響を与え、社会と文化の枠を形成しているからにほかならない。  このような意味において、周辺国の非難にもかかわらず、総理大臣が靖国神社の参 拝を固執するのは、日本の伝統から見れば自然なことと言えよう。総理の靖国神社と 伊勢神宮の参拝は、明治時代から持続してきた「慣行的な」ことであり20、戦後、政 教分離が法制化した後にも「宗教法人神道」の正式儀礼ではなく、個人の略式儀礼程 度の行為なら法規定にも反することではないからである。神社の参拝を通して権力の 歴史的正当性を確保したり、政治的局面を転換しようとする保守政治家の試みは、い わゆる宗教的祭祀を通して政治権力を維持し、国家的統合を図ろうとする典型的な政 治行為である。「政治的な宗教行為」であり、同時に「宗教的な政治行為」なのであ る。  勿論、「政治的な宗教行為」は、政治と宗教が分離され、直接的に宗教言語を使えな い近代国民国家体制でも時々見られる現象である。しかし、仏教やキリスト教のよう な集団とは異なり、慣習や文化という名分で正当化された国家神道の次元で見れば、 政治家の神社参拝は「宗教的政治行為」でもある。宗教の範疇が多少変わることにな るが、天皇制下の日本では近代国民国家の「政治的宗教行為」は勿論のこと、日本式 「宗教的政治行為」も日常化されてきたとも言える。

7.戦争国家と「天皇教」

 祭祀が国家の統治手段となる瞬間、それは外見上の宗教的崇高感とは距離が生じて しまう。祭祀という宗教行為の中に入っているのは、基本的に政治である。その政治 は、国家が戦争を正当化し、相敵対する国を排斥する自己中心的な行為として現れる。 したがって、子安は、国家が祭祀を行うということは、国家が戦争をすることと同じ であると論じる。彼によれば、「近代国家は対外戦争の遂行が可能であり、国民が国の ために死ぬことが可能な国家として成立する。そして国家は国家のために死ぬ人たち を国家の永続を支持する礎石として崇め祀る」という。このような脈絡において「近 代日本国家は神道的な祭祀を行ってきた」21のであり、その祭祀の主宰者がいわゆる 「護国英霊」であった。子安によれば、「戦争する国家とは英霊を作り出す国家であり、 英霊を祭祀する国家である。」22 20  歴代総理の靖国神社及び伊勢神宮の参拝記録、または国会議員の参拝記録は國學院大學硏究開 發推進センター編、『招魂と慰靈の系譜−‘靖國’の思想を問う』、東京:錦正社、平成25年、172 198頁に詳しく整理されている。 21 子安宣邦、『國家と祭祀−國家神道の現在』、27頁。 22 子安宣邦、『國家と祭祀−國家神道の現在』、192頁。

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   国家が祀ることとは、国家が戦うこととともに差別的で、排他的な自己中心的行 為である。国家はそれのためにだけ祀るのである。沖縄の集団自決した主民たち に「崇高な犠牲的精神」という美辞麗句を付与するのみ、国家は祀ることはない23  このような国家的祭祀の原理の中で、戦争の被害国である韓国や中国は見逃されて いくことになる。「日本人が靖国神社の参拝という形式で戦争を記憶しようとするのは 靖国が韓国と中国の人たちに苦痛の記憶に過ぎないという事実を無視する取り扱いに 他ならない。他人の苦痛を忘却し、外面しつつ、ただ自分の国と光栄だけが持続する ことを望む心は独善に過ぎない」と言いつつ、子安は、「それは歴史を自分のみのもの として見る歴史修正主義者たちの主張に他ならない」と指摘する24  彼によれば、歴史修正主義者たちは国家神道の概念を敗戦後の占領軍が作った虚像 とみた。日本には国家神道というのはなかったのであり、日本は「唯神大道」を歩ん できたというのである。そうした意味で、神道は、ロバート・ニーリー・ベラーが言 う「市民宗教」あるいは「国民宗教」としての役割をしてきたと、歴史修正主義者た ちは主張する25  しかし、子安によれば、「唯神大道」という言葉そのものが逆に彼らの国家神道の理 念を確認してくれる言語になっているという。明治時代以来の神道は、下の方からの 自発性ではなく、上からの垂直的な政策、事実上他律的に強化されてきたという点で、 その指摘は正しい。それこそ、日本の神道が国家主義を除外することができない理由で ある。例えば、子安が国家神道を「制度史的年表上で探せる実態的概念として考える ことではないが」26と述べているように、国家神道の流れは依然と進行中なのである。  その頂点に立っているのが天皇である。日本で天皇が常に存在してきたのは、批判 は言うまでもなく、客観的な分析の対象にし難い存在、すなわち現実とは違う次元の 存在のように看做されてきたからである。例えば、「大日本帝国憲法」では「大日本帝 国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第1条)となっていながらも、「天皇ハ神聖ニシテ 侵スヘカラス」(第3条)、という規定も同時に規定されており、権利はすべて持ちな がらも責任は免除されるという奇異な構造をもっていた。憲法の制定に関与した岩倉 具視が「天照大神の子孫である天皇を最上位に奉ることこそ日本立国の根本にならな ければ」と述べているように、「天皇は祖先の遺訓によって国民全体の行動面のみなら ず、意識面まで主宰」27したのである。事実上、天皇の神格化がなされていたのであ 23 子安宣邦、『國家と祭祀−國家神道の現在』、190頁。 24 子安宣邦、『國家と祭祀−國家神道の現在』(韓国語版のための著者序文6頁)。 25 子安宣邦、『國家と祭祀−國家神道の現在』、21 23頁。 26 子安宣邦、『國家と祭祀−國家神道の現在』、26 27頁。 27 久野治・鶴見俊輔、『現代日本の思想−その五つの渦』(巖波新書、青版257)(新書)。

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る28  久野治は、日本の天皇が「ドイツの皇帝とローマ教皇という二人の資格を一人の身 に付け、国民は政治的に天皇の臣民になるのみならず、精神的に天皇の信者になった」 と述べている29。外的には国民が憲法に立脚して天皇という絶対君主を信奉するとい う形式をとっているが、内的にはそのように信奉しなけらばならないような宗教的シ ステムを確保していったのが、明治時代天皇制であったということである30。そこに、 宗教の政治化、政治の宗教化があった。「祭祀の政治学」に基盤した一種の「天皇教」 が誕生したのである31。中村元は次のように言っている。    1945年(敗戦)までは天皇崇拝が日本でもっとも力強い信仰形式であった。(中 略)日本人は生ける人格としての天皇個人のうちに日本国民の集約的な表現を見 いだそうとする。(中略)維新以降には天皇崇拝が強権として執行され、最近には それが絶対宗教の形態になっており、また国民全体に強制的な形式をもつ新興宗 教として君臨した32  新宗教学者である村上重良は、「明治政府が伊勢神宮を頂点として全国の神社を組織 化した国家神道を国家の祭祀として超宗教的な地位に置き、その体制の枠の中で様々 な宗教の活動を容認した」33と述べている。明治時代に「国家神道」体系が確立されて いたかについては論議の余地があるが、明治時代の天皇制が個別教団を合わせながら 超絶した事実上の巨大宗教システムとして機能していたことは明らかである。「国家神 道」という用語自体は、日本を占領した連合軍の総司令官が下した「神道指令」(1945 年)で初めて使用されたものであったが、神道の国家主義的な側面は明治時代の天皇 制に思想的な根拠を置いていると同時に、その延長線にあるものと見るべきであろう。 日本の思想家である阿満利麿は、「国家神道は天皇を教主とし、『教育勅語』や『軍人 勅諭』を経典として全国の神社を教会とした国家宗教組織であった」と述べており34 宗教社会学者である井上順孝も「国学及び復古神道はそれ自体として一つの宗教シス テム」35であったと規定する論及などを見ると、ここには少なくとも日本天皇制の宗教 的な役割と影響力をよく反映していると考えることができよう。 28 伊藤成彦、『物語 日本国憲法第九條』、『天皇制国家批判』、77、74頁参照。 29 久野治・鶴見俊輔、『現代日本の思想−その五つの渦』(巖波新書、青版257)(新書)。 30 久野治・鶴見俊輔、『現代日本の思想−その五つの渦』(巖波新書、青版257)(新書)。 31 李贊洙、「霊魂の政治学」125 126頁。 32 中村元、『日本人の思惟方法』(春秋社)。 33 村上重良、『國家神道と民衆宗敎』、東京:吉川弘文館、1982、85頁。 34 阿滿利麿、『国家主義を超える−近代日本の検証』。 35 井上順孝 外、『神道、日本生れの宗教システム』(新曜社、1998)。

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8.「天皇教」の二重性

 問題は、このような天皇制が日本国民の個々人の中でどれほど内面化されていたか にある。近代の天皇制は、明らかに上から下に移植された文化である。そのように移 植が可能になるためには、国民がどのような形式であれ、上からの要求を受容すると きに可能となる。日本民衆の立場でみれば、民衆が天皇制を受容し、ひいてはそれを 利用した側面も無視できない36。例えば、軍部は軍部なりに天皇の権威を利用して征服 主義的な戦争を国内的に正当化し、国民は国民なりに天皇の命令という理由で各種の 事態に個人の内面を括弧の中に閉じ込め、これに順応する態度を見せてきた。時には それぞれの個人にしても、戦争の責任は天皇にあるとし、それを口実に内心において 戦争に同意した個人としての責任を回避することもあった。  これを否定的にいえば、天皇制は日本人の内面を分裂させ、事態の責任を外部に転 換させる契機としても作用したと言える。このことは、天皇制が外形的には定着され たとしても、日本人の深い内面までは浸透されたことにはならないという意味にも解 されるかもしれない。日本国民の間では、外的には天皇制の秩序を認めながらも、内 面的には無関心あるいは無視するような、天皇に対する二重的な情緒が形成されてい たとも言える。久野治によると、時間が流れるにつれ、「天皇信仰は立て前化しながら も、立て前と本音が表裏二體に分離」されなければならなかったという37。天皇に対す る日本人の外的態度と内的態度の区分は日本人の「本音」と「立て前」の区分の延長 であり、同時にその区分の根拠としても作用したということになる。  外的には国民の個々人は自発的に天皇制と結びついた宗教文化的な行為を受容して 生活しているが、事際上は、その自発性というのが上からの抑圧感を意図的に耐え忍 ぶ形態と結び付いているのである。政治思想家である丸山真男によれば、日本人の精 神的均衡は個人の内と外の調和を通してではなく、外の一方的な受容を通して維持さ れる病理的なものであったとする38。これは家永三郎が、日本人は互いに「人格的」判 断をするというが、その「人格的」判断は実は小さい人格に対する「非人格的支配」 のメカニズムの中でなされるものであるといった主張と同じ脈絡で理解できる39 36  保阪正康、「國民が利用した‘天皇制’−ある世代からの戰後風景」、『宗敎と現代がわかる本』 (2009)、東京:平凡社、2009、60 63頁。 37 久野治・鶴見俊輔、『現代日本の思想−その五つの渦』(巖波新書、靑版257)(新書)。 38  丸山はいち早く『超国家主義の論理と心理』(1946)で天皇制国家体系下の日本は「上位者が下 位者に順次的に、権威を楯として恣意的な暴力をすることによって「精神的な均衡」が維持され るという日本の集団的病理があらわれる」と規定したことがある。(子安宣邦、『日本近代思想批 判、一国知の成立』)(岩波書店、2003)。 39 家永三郎、『近代日本思想史』シリーズ1巻『歴史的概観』(筑摩書房)。

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 明治維新の英文表記である Meiji Restoration に込められているように、安丸良夫は、 明治維新が神道的な原型への復古(restoration)を推進したように見えるが、実際には 「民衆の精神世界の実態で見れば復古でも正統でもけっしてなく、民衆の精神世界を絶 対に理解しえなかったことから無理やりに新たな宗教体系を強要したことであった」40 と批判する。「万世一系の天皇が統治する」ということは、天皇制の原理が国民の深い 経験の次元まで到達し得なかったことであり、そこに日本的な病理現象が生じたとい うことである。  祖先崇拝のような「宗教的」行為を習慣的に行いつつも、自らを「無宗教」である と自然に規定する現代日本人の生活方式41も、見方によれば、このような流れの延長線 上にあると見ることができよう。さらに、このことは戦争によって周辺国に与えた被 害を公式的に謝罪も反省もできない日本人の態度とも関連している。事実上、日本人 は強要された宗教的政治の体系により戦争に対する内的省察はすることがあっても、 それを公な次元で外面化して行動として表現する訓練は欠落しているのである。この ことは、祭祀の政策的な文化化を通して天皇制を一方的に強化してきた近代日本の「宗 教的政治」、「政治的宗教」の政策が生み出した矛盾であるとも言えるであろう。日本 的な公共性の特徴と内容も、このような背景の中で整理することができよう。

9.「活私開公」とおおやけ(公)・わたくし(私)

 公共性に対する議論は多様に展開されているが、本論文で論じる公共性とは、私が 利己的な自由主義や集団的な全体主義に埋没せず、他者との水平的な関係を結ぶこと を通して健全な公の領域を確保していく過程と内容を意味する。公共は、個人的な私 の無限競争に陥ることなく、また個人を無視する集団的な公も警戒しつつ、私と公の 新たな関係性を定立しようとするときに要請される姿勢でもある42。前述したように、 金泰昌はこのような姿勢と内容を「活私開公」という言葉として要約したことがある。 個人を活かしつつも公的領域を開いていく開公姿勢を意味する。個人と社会がともに 生き返る姿で現さなければならないということである。そこで、彼は「活私開公」を 次のように解釈している。    「私」(の存在・価値・尊厳)を「消滅」(滅、抑圧・犠牲・否定)させることでは 40 安丸良夫『神神の明治維新』(岩波書店、1979)。 41  この部分に対しては、阿滿利麿、『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書、1996)に整理さ れている。 42  李贊洙、「『侍』と『媒介』:東学と京都学派の公共論理」、中央学術硏究所、『中央学術硏究所紀 要』(第42号、2013.11.15.)、21 24。

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なく、活かす(活、認定・尊重・発展)として「公」(国家・政府・体制)を国 民・市民・生活者に「開」(開、応答・責任・配慮)けるようにすることである。 そして、「公」と「私」の間で両側をともに媒介(=共媒)する作用として、公共 を動詞的に把握することである。(中略)そこから新たな次元が開く(=開新)過 程を「公共」(する)内容として理解します43  これは、公が私を活かし、私は公を開く「動的」作用が「公共」であるという主張 である。金泰昌は、公共を「私」と「公」の相互媒介を通じる「相生」としてみてい る。私のない公は集団的な全体主義に陥り、公のない私は利己的な自由主義に陥って しまうのである。勿論、このような公共性の規定は多少理想的であり、観念的でもあ る。実際にこのような公共性が現実化されたことはないという意味では、それは希望 的であり、理想的な目的に近い。人類の経験は公に圧倒されるか、私が前面に出るか で、常にある一側が優勢であった。  時代を遡っていけば、一般的に私よりは公の概念が強かった。垂直的な身分社会で あればなおさらのこと、私の領域は無力であった。私の領域は、主として公の従属的 なものであった。これは日本の歴史の中でも確認されるものである。例えば、溝口雄 三が過去の日本と中国の古典での公の用例を総合したところによれば、公は、ある集 団の「首長」と彼が支配する「共同体」の意味として使われたという。「首長性」とそ の首長の統治下にある「共同性」を意味するということである44。垂直的な身分社会を 前提にして見ると、伝統的な意味での公共性は首長の統治下ですべての人たちに通じ るあるものや状態を意味するとも言えるであろう。  勿論、詳しいところまで入ると、中国式の公と日本式の公の構造も内容も多少異な る。溝口は、中国語の公私に対応する日本的概念として、概ねおおやけ(公)とわた くし(私)が取り上げられるが、実質的な意味は異なると説明する。     中国の公には共同体の代表性という意味とともに「天」の超越性を基盤として 最高権力者を牽制したり批判したりする相対化の可能性と「平分」や反利己主義、 公平のような道徳的な規範が原理的に含まれている。これを著者(溝口)は「原 理的公」であると呼ぶ。それに対して日本の「おおやけ・わたくし」は天皇を頂 点としてその時々の上位者や上位領域が下位者や下位の領域を包摂する構造を持 っており、天皇と日本という枠を超え、これを相対化しうる存在や原理の存在で きない。これを中国の「公」と対比して「領域的公」であると呼び、その基には 43 金太昌編著、韓国語版、『相生と和解の公共哲学』(東方の光、2010)、75 76頁。 44  溝口雄三、『一語の辭典:公私』(三省堂、1996)、「おおやけの語源」と「公の語源」の部分を 整理した。

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最上位領域である天皇と国家がすべての権威を独占し、彼に対する牽制や批判を 許さない社会意識及び政治意識があるとみた。(中略)最高権力者や国家を相対化 しうる中国の「原理的公」が日本社会には定着できことは困難であった45  要は、公と私に該当する日本語「おおやけ」・「わたくし」では対等に使われる言語 ではなかったということである。「おおやけ」・「わたくし」と言うが、そこに「わたく し」は事実上ないということである。溝口によれば、日本での「わたくし」、すなわち 私は「地方の首長層のおおやけ的な秩序観念を単純に全国家的に拡大した『公』に包 摂された『私』である。(中略)『公』の下位者として『公』に従属されることを前提 としてその存立基盤の許可を受けた『私』である」46。「わたくし」の概念は「公に従属 的であり、そのために隠密さ、個人的、内密なことなどを属性として」いるというこ とである。  反対に「公」として表現される「おおやけ」はわたくしと比べて「公然性、わたく しにおける優越性、わたくしにおける所与的、先験的存在性などの特異性」を持つと いう。「私」が「公の下位領域で公に従属されつつ、その領域の許可を受けた私」であ れば47、「公・公共」は「一部の極少数の例外を除外しては、すべて『私』が関与でき ない、あるいは『私』の権利を主張しえない『私』以外の領域を指す。」48

10.福沢諭吉の公と私

 要約すれば、日本での「公共」の領域は「私」の自己隠蔽を通して顕現され、また 顕現されなければならない世界であるのに対し、「私」は限定され、また隠されなけれ ばならない内密な領域となる。溝口によれば、明治時代の代表的な啓蒙思想家である 福沢諭吉(1835 1901)が使用した公の用例でもこのような姿がよく現われているとい う。溝口が整理した福沢諭吉の公(おおやけ)と私(わたくし)の概念は次のようで ある。    ここ(福沢の文集)では家の門の敷居の中を「私」としてみる反面、門の外に一 歩出た世間のすべてが「公・公共」として看做される。その世間の「公」は最大 の公として国家領域、最高の公としては天皇にまで至って終わるのだが、このよ うに「私」の領域から一歩出た外の世界をすべて「おおやけ=公」の領域として 45 溝口雄三、『一語の辭典:公私』127 128頁。 46 溝口雄三、『一語の辭典:公私』45頁。 47 溝口雄三、『一語の辭典:公私』47 48頁。 48 溝口雄三、『一語の辭典:公私』96頁。

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見、最大は朝廷・国家、最高は天皇に至って終わる「おおやけ=公」の特性がわ かりやすくあらわれている。(中略)そうならば「わたくし」の世界は結局存在し ないのではないかというとそうではない。「おおやけ」の関係に参加し、協力しな がらそこでの役割を遂行している限り、門の敷居の中側の「私」の領域は決して 干渉を受けることがない。また、他人に知らせたくない内密な事、外部にあらわ れている事とはことなる「ほんね」の世界、一般人に知らせるようになれば具合 がよくない個人的な領域が誰にもあると言うことは、実は全体の中で隠然中に公 認されたことである。隠然中に公認されたということは論理的矛盾であるとしか いえないが、「わたくし」の領域はそのようにしかいえないのである49  このように、門の敷居の中と外を境界として「公」と「私」の領域が比較的明らか に区分されるが、その領域と境界が絶対的に確定されているのではない。「おおやけ= 公」もさらに大きな領域に対しては「わたくし=私」となるためである。公と私は相 対的であり、重層的である。「例えば、ある教師には自分の属している小学校が『おお やけ』の場になるが、小学校を代表する校長にはその外部の村や町が『おおやけ』と なり、自分の小学校はそれに対する『わたくし』の領域となる。また、村や町に対し てはその外部の県が『おおやけ』の領域となり、それに対して自分の村や邑は『わた くし』の領域となる。(中略)もし村と村の間に紛争が生じ、結末が尽かない場合、そ れの調節をするのは結局その村を越えている県の『おおやけ』の立場であろう。(中 略)県と県の場合も同じことが生じる場合がある。そのようにして最後には国家に至 るようになるが、国家と国家の紛争に関しては日本の『おおやけ=公』の構造ではそ れを超えるより大きな『おおやけ=公』の領域が想定されていない。すなわち、調整 者が存在しないのである。調整者が存在するならば、普遍絶対の公平な『天地の公道』 ということがあり、またその『天地の公道』がすべての国家で遵守されるという前提 が共有されなければならない。しかし、このようなことは存在しないのであり、その ようなことに依るのは『世事にうといこと』であると福沢はいっている。(中略)その ような場合国民は国家という『おおやけ=公』のために尽力すべきこと、すなわち、 ひたすら国家の自己主張の実現のために尽力する道以外には他の選択肢も付与されて いない。たとえ、それが他の国に対する侵略行為であるといえども、それが正しいか 悪いかを判断する論理が領域的に『おおやけ=公』の中では出てこないのである。ア ジア・太平洋戦争の時、日本国民を攻め立てた滅私奉公の悲劇はなによりも日本の『お おやけ=公』のこのような没原理的な特性から由来したのである。」50 49 溝口雄三、『一語の辭典:公私』50 51頁。 50  溝口雄三、『中国の公と私』(研文出版、1995)『中国の公と私』(2006)、105 106 参照。

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11.滅私奉公としての公共性

 日本における「私」は「公」に従属的であり、「公」は「私」に対して優越的であっ た。「公」は「私」の隠蔽乃至は犠牲によって現われ、またそのように現われるべき領 域であった。そのような意味で、日本の公共性は「滅私奉公」的な公共性に近かった。 この時の滅私奉公は私的な領域を主体的に「犠牲にして」得る公的な世界であるかも しれないが、実は私的領域を「犠牲せざるを得ない」ように構造化されているところ から出る公共性、すなわち滅私奉公的な公共性であった。前述したように、家永三郎 は、日本人たちが各自に「人格的」な判断をするというが、その「人格的」判断とい うのが実は小さい人格たちに対する「非人格的支配」のメカニズムの中でなされるも のであるといったことと同じ脈絡なのである51。哲学者である作田啓一(1922 )が集 団構成の原理を「資格による集団」と「場による集団」として区別しつつ、日本人は 自分を紹介する時に記者やカメラマンのような個人的「資格」よりもテレビー会社の ように自分が所属している「場」として紹介すると説明することからも明らかなよう に、52ここには「私」よりも「公」を優先させる古くからの雰囲気をよく反映されてく れる。  中村元が分析するように、日本ははるか過去から国家主義的な性向が強かったが53 とくに明治時代に神道を国家的政策の中に融合させ、天皇中心の「国体」を確立させ ていく過程で滅私奉公的な公共性が如実に現われてくる。明治時代以来、日本国民に は国家という「おおやけ」のために尽力しなければならない滅私奉公的姿勢が強力で あったことから、アジア・太平洋戦争まで惹き起こしたのである。「『私』が、日本で は門の敷居の中の自家の世界(家・家庭・自分)としてその領域の認定を受けていた ほど、それを『なくす』ということは『私』には悲劇的なことであるが、国民は『国 家=公』のために家族という『私』の領域を捨てたのであり、自分の財産と生命とい う『私』の領域を捨て、戦争に従事したのである。」54草場弘の『受驗修身課講座、1938』 で規定されている日本国民の精神も日本的公共性の性格をよく代弁している。    わが国の国民精神を把握しようとするとき、私たちは自分自身をささげるという 自己捧供という表現を持って祖に意味をあらわすことができるのではと考えるこ とができる。それは、高いところにあるもの、公的なもの、根本的なものにわが 51 家永三郎『近代日本思想史』シリーズ第一巻『歴史的概観』(筑摩書房) 52 作田啓一、『一語の辭典:個人』、三省堂、1996。 53 中村元、『日本人の思惟方法』(春秋社)。 54 溝口雄三、『一語の辭典:公私』

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小さいこの身を完全に捧げる精神である。奉公の精神、皇運扶翼の精神、「私を後 ろにして公に向かう」精神「自ら私を動かし公に沿って死ぬ」精神である。「大軍 の側で死を迎えるものは栄光がある者であろう」と昔の人々が歌ったその精神で ある55  ここには、20世紀前半の日本での「公」、「滅私」的に得るべきものであったことの 事実が適切に表現されている。国家主義的な性向をもつ倫理学者である和 哲郎の次 のような言葉の中にも、このような「公」と「私」の関係を見ることができる。    個人としての人格は一切の「私」を捨てることによって聖なるものとしての民族 の全体性に帰一する。「私」を捨てること(去)は個性を無視すること(没)では ない。精神共同体の一員である以上、人格はいつまでも個性的でなければならな いが、それにもかかわらず、個性的なことが全一になるのは、このような「私」 を捨てるためである。  和 によれば、「全体」は「私」を捨てることによって成立する。「活私」よりも「滅 私」が国家的な全体性の根幹となるということである。福沢の思想においても確認し たように、国家を最大の領域とし、天皇を最高の地点と看做した日本の公の観念の中で その最大と最高の領域は、私的構成員を隠蔽させることによって肯定される構造であ ったのである。  このように国家の「向こう側」ではそれ以上の普遍的な原理を発見し得なかった日 本的精神は、当代最高水準の思想家たちの中でもよく看取できる。例えば、近代的な 意味の日本最初の哲学者であると言える西田幾多郎も、残酷な戦争まで起こした日本 帝国主義的な政策は言うまでもなく、その頂点にある天皇家を肯定または尊重する傾 向を見せた。彼も日本的な公の概念の頂点を皇室の中に探し求めたのである。皇室と の合一が日本の国体であると、西田は言っている。    皇室は過去未来を含めて絶対現在として、われらはここで生まれ、ここで活動し、 ここで死んでいくのである。したがって、わが国では祭政一致であるといってい るように、主権はすなわち宗教的な性質を持つのである。(中略)そこにわが国体 は、まことに主体即世界であるといえる。歴史的に世界創造ということがわが国 体の本意であろう。そのために内部では万民補益であり、外部では八紘一宇であ る。このような国体を基礎として世界形成に出ることがわが国民の使命でなけれ ばなるまい56 55 高橋哲也、『国家の犠牲』(NHKBOOKS、2005)、59頁の再引用。 56 『西田幾多郞全集第十巻』(東京:岩波書店、1965 1966)、333 334頁。

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   わが国の国体では皇室が世界の始めであり終わりである。皇室が過去と未来を含 めて絶対現在の自己限定として、すべてのことが皇室を中心として生成発展する というのが、わが国体の精華なのである57  西田は、その論理的な明敏さとは似つかわしなく、西洋と敵対して起こしたアジア・ 太平洋戦争においてその被害者である韓国や中国などの周辺国を念頭に置かず、日本 人の戦争犠牲者だけを意識する矛盾した哲学を続けていった。彼は、確かに原則的に は破壊的な戦争そのものを讃美したことはなかったが、彼の世界説明の理論は結果的 に日本の歴史のみを肯定する水準に留まってしまった。この点において彼は、日本が 帝国主義的な野心を持って参画した第2世界大戦とその頂点にある天皇家を讃えると いう限界を見せたのである58。「戦争の犠牲者を『英霊』として国家が祭ろうとする時、 その背後でまた『英霊』という名前の戦争犠牲者が作られざるを得ない状況」59に対し て、彼はこれを批判できる論理を見出せなかったことになる。そして、国家を超えた 向う側の普遍的な「公」を持たず、「滅私」を最高の徳目として看做してきた国家至上 主義(中村元の表現)的状況に照らして見れば、これはまた自然な帰結であったかも しれない。

12.おわりに

 事実、滅私奉公は日本の歴史を貫通する重要な徳目である。例えば、仏教的な世界 観で立脚した「和」を強調した日本最初の成文憲法である聖徳太子の『十七条憲法』 (604年)でも仏教の無我思想を滅私的な「和」と看做されている。十七条憲法の第15 条は次のように定められている。「私に背き、公に向うは(背私向公)は、是れ臣の道 なり」仏教的な精神によって定められた日本の最初の成分憲法でもそうであったよう に、日本的公は私を拒否するところに見出されたのである。日本的公は滅私奉公的公 であり60、「調和」や「平和」を意味する一般用法とは異るものであって、日本での 「和」も事実上公のための犠牲と「一致」の姿勢を意味するものであった。日本では、 57 『西田幾多郞全集第十二巻』、409頁。 58  これは京都学派という名前で弟子たちに伝承され、日本思想界では京都学派を「第2次世界大 戦の時期に西谷の学統を継承し、同じ学科に在職しながら戦争に対して積極的な意味を与えた小 阪、小山、西谷を指して使う」としながら、戦争との関連性を中心として定義する傾向まで生じ た。(田中久文、「京都學派」『日本思想史辭典』、末木文美士、『近代日本と仏教』、韓国語訳、2009、 57頁) 59 大江志乃夫、『靖國神社』(岩波書店、1984)。 60  稲垣久和外編、『公共哲學16−宗敎から考える公共性』(東京大学出版会、2006)、405 406 参 照。

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長い間私を殺した公「和」という名前の「同」に慣れ親しんでおり、国家は個人の自 己否定を担保にして堂々と存在する構造が維持されてきたのである。「『和』が『同』 に変質されてから暴力的同化・強制として侵略戦争へ」まで突き進んだのである61  このような意味で、西田幾多郎の弟子、田辺元が個人と国家の間で「社会」という 媒介を設定しなければならないと強調62したのは、論理的に当然な提案であったと言え るのであって、この点、滅私奉公的な公の概念が強かった日本の状況では新鮮な提案 と看做されたと考えられたであろう。田辺が「われらが生まれたこの日本という国家 を考えて見れば、(中略)国家の統制と個人の自発性が直接に結合・統一されている。 これが『私が自慢すべき国家の特色』」63であると自負したのは、逆説的にも「私」が 「公」に従属的であり、「和」は事実上「同」の役割をしてきたという証拠になってし まった。前述したように、丸山真男が「日本での精神的均衡は個人の内と外の調和を 通してではなく、外の一方的な受容を通して維持される病理的なことであった」と規 定しているのも、下からの「活私」よりも構造的な「滅私」による不可避な奉公的一 致を公の領域として預かった日本的な様相をより的確に診断しているように思われ る。その点、滅私奉公的な公共性から活私開公的な公共性への転換を論じた金泰昌の 立場は、再三再四思索を重ねてみる価値があると考えられる。    日本語の「わたくし」−これの漢字語表現は「私」です−は「おおやけ」−これ の漢字語表現は「公」として「大家」を意味し、天皇を頂点とする官の世界を意 味します−によって/その中で/その下で認められる場所・空間・領域またはそこ に属することを意味します。それは主体よりも客体です。主体としての位相は可 能限り少なくするのがいいと思える存在です。私が提案する「活私開公」−過去 の滅私奉公や滅私奉公の二元対立的思考の限界を超えるための対案−の「活私」 は生命として(生)まれ、生命を生み、育てる主体・当事者・他者の「私」を活 かすことによって自分の「私」活かせるということです。すなわち、「私」と「私」 が共に・互いに・あまねく活かして生きるということです64    活私の哲学として公共哲学を考えます。活私とは、自分と他者が共に、互いに、 見合わせつつ相手の「私」を活かせるために心と力を尽くすのが究極的には自分 61 金泰昌、前掲53、97 98頁。 62  李贊洙、「『侍』と『媒介』:東学と京都学派の公共論理」、中央学術硏究所、『中央学術硏究所紀 要』(第42号、2013.11.15.)、30 35。 63 廣松渉、『近代の超克論』(東京:講談社、1989)、217頁で引用。 64  金泰昌「生命哲学と公共哲学はどこで出会うのか」(韓国語)、シアル思想研究所編、『模索』 (2010)、45頁。

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の「私」まことに活かせる道であるということです。一人一人がもっぱら自分の 「私」が活かすことのみを重視する「私生」ではなく、「他者の私」を活かせるの がすなわち「自分の私」が活かせることに繋がるという自他相生の真理を実感す るのが活私哲学の核心です65  死者の魂に対する祭祀を国家は、今日、国体として確立し、言説上の戦死者を国家 的理念にしつつ、全体主義的な雰囲気の次元にまで高め、これとは多少弱まってきて はいるが、それにしても完全に消え失せてはいない。依然として「国家」という全体 を超えられない状態が存在し、中村元が述べているように「善と悪の区別も全体の神 聖な権威に帰依するか否か」に置くほど「天皇への順従と不順従」を公的態度の基準 とする傾向も一部分存続している。護国英霊を祭祀し、戦争を正当化しつつ、それ以 上の普遍的な道理についての思惟が相対的に脆弱であった日本において活私開公的な 公共性の言説がさらに広く論じられる必要がここにあると考えられる。 (参考文献) 金太昌、『相生と和解の公共哲学』、ソウル:東方の光、2010(韓国語). シアル思想研究所編、『シアル哲学と公共哲学の対話』、2010(韓国語). 李贊洙、「祭祀の政治学」、ソウル大学校統一平和研究院、『統一と平和』(5集1号  2013.6.)(韓国語) 李贊洙、「霊魂の政治学:天皇制と新宗教の接点」、ソウル大学日本研究所、『日本批 評』(第9号、2013.8.)(韓国語) 子安宣邦、『日本ナショナリズムの解読』、東京:白澤社、2007. 子安宣邦、『國家と祭祀 國家神道の現在』、靑土社 子安宣邦、『日本近代思想批判 一国知の成立』、東京:岩波書店、2003. 久野治・鶴見俊輔、『現代日本の思想−その五つの渦』、東京:巖波新書 靑版(257) 高橋哲也、『国家と犠牲』、東京:NHKBOOKS、2005. 溝口雄三、『一語の辭典:公私』、東京:三省堂、1996. 溝口雄三、『中国の公と私』、東京:研文出版、1995. 作田啓一、『一語の辭典:個人』、東京:三省堂、1996. 阿滿利麿、『國家主義を超える 近代日本の検証』 阿滿利麿、『日本人はなぜ無宗教なのか』、東京:ちくま新書、1996. 安丸良夫、『神神の明治維新』、東京:岩波書店、1979. 大江志乃夫、『靖國神社』、東京:岩波書店、1984. 65 金泰昌、前掲論文、14頁。

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井上順孝 外、『神道、日本生まれの宗教システム』、東京:新曜社、1998. 家永三郎、『近代日本思想史』第1巻『歴史的概觀』、東京:筑摩書房. 岩田重則、『お墓の誕生 死者崇拜の民俗誌』、東京:岩波新書、2006(新赤版 1054) 伊藤成彦、『物語 日本国憲法第九條』. 中村元、『日本人の思惟方法』、東京:春秋社. 高橋哲哉、『靖國神社』、東京:ちくま書房、2005. 廣松渉、『近代の超克論』、東京:講談社、1989. 國學院大學硏究開發推進センター編、『招魂と慰靈の系譜−‘靖國’の思想を問う』、東 京:錦正社、平成25年. 保阪正康、「國民が利用した‘天皇制’−ある世代からの戰後風景」、『宗敎と現代がわ かる本』(2009)、東京:平凡社、2009. 『西田幾多郞全集 第十巻』、東京:岩波書店、1965 1966. 『西田幾多郞全集 第十二巻』、東京:岩波書店、1965 1966. 李贊洙、「『侍』と『媒介』:東学と京都学派の公共論理」、中央学術硏究所、『中央学術 硏究所紀要』(第42号、2013.11.15.) 子安宣邦、『鬼神論』、東京:白澤社、2002. 子安宣邦、『國家と祭祀−國家神道の現在』、東京:靑土社、2009. 田中丸勝彦、『さまよえる英靈たち』、東京:栢書房、2002. 稲垣久和 外 編、『公共哲學16−宗敎から考える公共性』、東京:東京大学出版会、 2006. 村上重良、『國家神道と民衆宗敎』、東京:吉川弘文館、1982. (監訳 李史好)

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