岡山市埋蔵文化財センター
OKAYAMA CITY ARCHAEOLOGICAL RECERCH CENTER
企画展
発掘された
アクセサリー
開催にあたって
岡山市は、穏やかな瀬戸内海の水運と、吉井川・旭川・高梁川が形成した岡山平野 の中央部に位置しており、温暖な気候でもあることから、各時代の遺跡が数多く存在 しています。 遺跡を発掘調査すると、まず目に付くのは当時の人々が頻繁に使用していた石の道 具や土でつくった器などです。それらは生活必需品でもあり、朽ちにくい素材ですの で、出土品の大半を占めることが常です。また、水分の多い土で埋もれた地点を発掘 調査すると、木の道具や器が出土することがあります。いずれにしましても、時代を 遡るほどに、生活に密着した道具類が大半を占めるようになります。しかしながら、 道具に比べると出土数は少ないものの、身を飾るためのアクセサリーも出土すること があります。また、お墓などでは、アクセサリーを数多く副葬している場合があります。 わたしたちの祖先達は、おしゃれに高い関心があったことを知ることができます。 今回の展示では、縄文時代から江戸時代の遺跡から出土したアクセサリーを展示し、 各時代のおしゃれ感覚の変遷を感じてみたいと思います。縄文時代のアクセサリー
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縄文時代 ( 約 16,000 ~ 3,000 年前 ) は、狩猟採集の時代といわれ、原始的なイメージが ありますが、非常に豊富なアクセサリ-が知られています。岡山県下では草創期と早期の事 例は未発見ですが、早くも前期の倉敷市の磯い そ の も りの森貝塚では、玦けつじょう状耳飾、サメ歯製垂すいしょく飾、腰飾、 腕飾が出土しています。 彦ひこざき崎貝塚(岡山市南区)では縄文中期を中心にイノシシの牙製のペンダント、サメ・エ イの骨製のイヤリングやネックレス、貝製 のブレスレットなどが出土しています。こ うしたアクセサリ-は骨や貝などの素材で 作られているものが多いのですが、晩期の 吉よ し の ぐ ち野口遺跡(岡山市北区)では、九州産と みられる「長崎ヒスイ」と呼ばれる石材で 作られた管玉が出土しており、当時より遠 隔地との交流、交易が行われていたことを うかがわせます。 彦崎貝塚出土サメ椎骨製イヤリング 彦崎貝塚出土貝製ブレスレット ( 貝輪 ) 彦崎貝塚出土イノシシ牙製ペンダント 吉野口遺跡の管玉弥生時代中期の装い -南方遺跡は語る-
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南みなみかた方遺跡(北区国体町)からは普通は残りにくい木製や骨製、貝製の装飾品がたくさん出 土しています。緑・白・茶・黒・赤。髪飾り・首飾り・腕飾りなど弥生時代中期の人々が身 につけた装飾品の色です。石製の勾玉や管玉は緑、貝製品は白や乳白色、骨角製品や木製品 は白や茶色で、素材の違いや使い込むことによって色が変化したり、深みや味わいが加わっ たことでしょう。さらに赤や黒の漆が塗られることもありました。 骨角製品や木製品、多くの貝製品は身近 でとれる材料で作ったものです。これとは 別に遠隔地から素材や製品を手に入れたも のもあります。勾玉や管玉は北陸や山陰地 方から、ゴホウラ貝などの南海産の貝は南 九州地方からのものです。こうした貴重な 品々は、ムラの指導者や司祭者の権威を高 めたことでしょう。 南方遺跡出土の貝や骨、牙製の玉類 南方遺跡出土のヒスイや碧玉製の玉類 南方遺跡出土の貝製ペンダント、指輪弥生時代後期の装い
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弥生時代後期は、吉備社会の大きな転換 点となる時代です。その1つが、墳丘をも つ特別な墓に葬られる人があらわれること です。そういった墓の副葬品としては、ガ ラス製、碧へきぎょく玉製、ヒスイ製、めのう製、土 製の玉や銅鏡が認められます。大きなお墓 には、多くの玉類が納められる傾向もあり、 倉敷市の楯たてつき築弥生墳丘墓ではおよそ 600 点 もの玉類が副葬されていました。アクセサ リーが身を飾るだけの道具ではなく、権威 や権力を見せつけるための道具の1つに使 われるようになってきたことを示していま す。 しかし一方で、小規模な土壙墓や集落遺 跡からも碧へきぎょく玉製の勾玉や管玉、ガラス小玉、 土製の玉が出土しており、幅広い階層の 人々が一般的な生活のなかでもこうした玉 類をアクセサリーにする習慣が広まってい たようです。 吉備東山遺跡の鏡片(内行花文鏡) 吉備東山遺跡の玉類 ( 碧玉製管玉・ガラス小玉・土製勾玉 ) 陣場山遺跡の土壙墓出土の玉類 ( 碧玉製管玉、ガラス製管玉、ガラス小玉 ) 原遺跡の住居跡出土の玉類 ( 碧玉製管玉、ガラス小玉、土玉 )まつりの装い
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弥生時代のまつりとして思い浮かぶのは、 銅鐸や銅剣などの青銅器を用いたまつりで す。それらの印象は強いのですが、他に様々 なまつりが存在していたことを教えてくれ る遺物があります。頭に鳥を真似した帽子を 被り、手に羽根を真似したひも状の飾りを垂 らしている姿を描いた土器です。鳥の姿をな ぞらえて踊る姿を表現していると考えられま す。島根県津つ わ の和野町などでおこなわれている 「鷺さぎまい舞」などに通じるものといえます。昔か ら伝わる説話の中には、鳥は、稲穂を運んで くる縁起の良い生き物とする内容もあり、そ ういった考えが弥生時代にまでさかのぼるこ とをうかがわせます。いずれにしましても、 まつりの装いを示す貴重な例です。 新庄尾上遺跡の絵画土器(鳥装の人物 ?) 鳥装の人物 ? ? 高床式建物 島根県津和野町の鷺舞 写真提供:津和野町観光協会弥生人・古墳人の入れ墨-鯨面と文身-
「黥げいめん面」とは顔面に施す入れ墨のことです。顔面以外に施す入れ墨は「文ぶんしん身」とよびます。『魏 志倭人伝』によると、3世紀頃の倭人の男性は入れ墨をしていたという記述があります。そ のことを裏付けるかのように、土偶や土器に入れ墨の表現が描かれているものがみられます。 古墳時代も弥生時代と同様に、5・6世紀頃の人物埴輪に黥げいめん面の表現がみられる場合があり ます。武人など男性の埴輪にのみみられる表現です。これら黥げいめん面を施す理由は、魔除け・通 過儀礼などが考えられます。5
愛知県亀塚遺跡の人面土器(弥生後期) 倉敷市上東遺跡の人面土器文様(弥生後期) 挿図出典 / 安城市教育委員会 2007『亀塚遺跡Ⅱ』安城市埋蔵文化財発掘調査報告書 第 18 集(一部改変) 岡山県教育委員会 2001『上東遺跡-主要地方道箕島高松線道路改築に伴う発掘調査 2 -』岡山県埋蔵文化財発掘調査報告 157 津寺 ( 加茂小 ) 遺跡の土偶(弥生後期)古墳時代前期 ・ 中期の装い-首長と戦の装い-
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古墳の埋葬施設からは、亡き首長が身につけていたものでしょうか、アクセサリーが出土 することがあります。また、布や木、革などでできたものはほとんど残っていないのですが、 形象埴輪はそうした失われたものを知る上で非常に重要な手がかりとなります。 古墳時代の首長は祭祀を司る人物でもありました。碧玉やガラス製のネックレス、腕には 碧玉や青銅製のブレスレット、鏡や儀ぎじょう仗を持ち、従者が蓋きぬがさと呼ばれる飾られた傘をさしかけ る-当時の首長はこのようないでたちだっ たようです。 こうした首長たちも次第に武人としての 性格が強くなっていきます。当時の武装は 出土品のほか埴輪からもうかがうことがで きます。甲冑は鉄の板を組み合わせたもの で、小こざね札を組み合わせた桂けいこう甲、胴丸のよう な短たんこう甲がありました。盾は文様が描かれた り巴形銅器と呼ばれる金具で飾られていま した。 猪ノ坂東古墳の青銅鏡(四獣鏡) 猪ノ坂東古墳のネックレス(ガラス小玉) 造山第 2 号古墳の冑の埴輪(盾持人形埴輪) 造山第 4 号古墳の短甲形埴輪千足古墳-黄泉の世界を飾る文様-
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石室内を色彩や彫刻などで飾った古墳 のことを、「装そうしょくこふん飾古墳」とよびます。中国 地方を代表する装飾古墳である千足古墳に は、石室内の仕切石に「直ちょっこもん弧文」という文 様が刻まれています。直弧文は直線と弧線 が複雑に組み合った文様で、古墳時代の日 本列島内で独自に発達した文様と考えられ ます。西は熊本県から東は宮城県までとい う広い範囲で使用されていました。石室内 や石棺に刻まれる例が多く、死者を悪霊か ら守る辟へきじゃ邪(魔除け)としての意味があっ たと考えられます。その他腕輪や刀剣類の 柄 つか ・鞘さや、埴輪、土器などにきざまれる例が あります。直弧文の起源は、弥生時代末頃 に作られた倉敷市楯築弥生墳丘墓上にある 旋 せんたいもんせき 帯文石に彫刻されている文様(弧帯文) であると考えられています。 千足古墳の直弧文 伝千足古墳出土の巴形銅器 ( 盾の飾金具 ) 伝千足古墳出土の玉類古墳時代後期の装い
-古墳の副葬品と集落の出土品-
古墳時代後期になると、横穴式石室をもった古墳が数多くつくられます。古墳をつくれる 人が増加したことを示しています。 横穴式石室を発掘調査すると、様々な副葬品が出土します。アクセサリーも多く出土しま す。金や銀のメッキをしたイヤリング ( 耳じ か ん環 )、瑪め の う瑙や水晶、碧玉、翡ひ す い翠などの石製の玉、ガ ラス製の玉、指輪、櫛くし、冠、靴などです。きらびやかに着飾って埋葬されていました。中に はシルクロードを通じてもたらされた輸 入品の装飾品もあります。 人物埴輪には、農民の姿のものもあり ます。農民の耳には耳環が表現されてい ます。集落遺跡からも耳環が出土してお り、農作業の時にもアクセサリーをつけ ていることがあったことをうかがうこと ができます。8
塚段 2 号墳のネックレス 塚段 2 号墳のイヤリング ( 耳環 ) 塚段1号墳の重層ガラス玉 塚段1号墳のアクセサリー古代 ・ 中世の装い-官人の装束と祈り-
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律令制度のもとでは、人々の身分が体系 化され、正装の服装やその色、装飾品やそ の材質に至るまで細かく規定されるように なり、そこで使われる装飾品はステータス シンボルともなります。吉き び つ す ぎ お に し備津杉尾西遺跡 ( 北区吉備津 ) や川かわいり入遺跡 ( 北区川入 ) など では「巡じゅんぽう方」「丸まるとも鞆」と呼ばれる装飾品が 出土しています。これは官人の革製のベル ト(腰ようたい帯)に取り付ける飾り(銙か ば ん板)です。 アクセサリーの持つ宗教的性格が薄れて きたことや、律令制度の様々な制約のため でしょうか、古墳時代まで盛行した玉など のアクセサリーは古代以降減少していきま す。鏡も祭器としての意味合いが薄れ、文 様も神仙や神獣が描かれたものから、鳥 や花などをあしらったものになっていきま す。鏡はお墓に再び副葬されるようになり ますが、これは葬られた人の愛用品、遺品 だったのでしょう。 ベルト ( 腰帯 ) の飾り(吉備津杉尾西遺跡) 出土地不明 亀甲地双鳥文鏡 お墓の副葬品(備前国府関連遺跡) ベルト ( 腰帯 ) 復元図平成 23 年度岡山市埋蔵文化財センター企画展 「発掘されたアクセサリー」 平成 23 年 10 月 3 日 編 集 岡山市埋蔵文化財センター 〒 703-8284 岡山市中区網浜 834-1 発 行 岡山市教育委員会 〒 700-8544 岡山市北区大供 1 丁目 1-1