二九
笑庵了悟と晦巌大光
―道元が在宋中に参学した阿育王山の大光長老をめぐって―
佐
藤
秀
孝
はじめに
鎌 倉 初 期 の 貞 応 二 年 ( 南 宋 の 嘉 定 一 六 年、 一 二 二 三 ) に 日 本 か ら 入 宋 求 法 し た 永 平 道 元 ( 仏 法 房、 一 二 〇 〇 ─ 一 二 五 三 ) は、 明 州 ( 浙 江 省 ) 慶 元 府 鄞 県 東 六 〇 里 の 天 童 山 景 徳 禅 寺 に 上 山 掛 搭 し、 そ の 後、 第 三 一 世 住 持 と な っ た 曹 洞 宗 の 長 翁 如浄 (浄長、 一一六二─一二二七) に随侍し、 身心脱落して如浄の法門を嗣続している。日本の嘉禄三年 (南宋の宝慶三年、 一 二 二 七 ) に 帰 国 し た 道 元 は、 や が て 越 前 ( 福 井 県 ) 吉 田 郡 志 比 荘 に 分 け 入 っ て 吉 祥 山 永 平 禅 寺 を 創 建 し、 そ の 法 統 は 現 今 の 日 本 曹 洞 宗 へ と 連 な っ て い る。 道 元 に と っ て 在 宋 中 の 五 年 間 こ そ 他 に 換 え 難 き 貴 重 な 参 禅 学 道 の 時 期 で あ っ て、 その間に得た体験はその後の生涯に決定的な視点を齎している。 と こ ろ で、 道 元 自 身 が『 正 法 眼 蔵 』 『 永 平 広 録 』 そ の 他 の 著 述 や 語 録 に お い て、 実 際 に 南 宋 禅 林 で 参 学 し 得 た 諸 刹 の 長 老 ( 住 職 ) と し て 名 を 挙 げ て い る 禅 者 は、 き わ め て 限 ら れ て い る の が 実 情 で あ る。 正 師 と 仰 い だ 如 浄 は 別 格 と し て、 その他の禅者について道元が如何に伝えているか、簡略に列記して見ることにしたい。 如 浄 の 前 住 と し て 天 童 山 の 第 三 〇 世 の 住 持 で あ っ た 大 慧 派 の 無 際 了 派 ( 一 一 四 九 ─ 一 二 二 四 ) は、 入 宋 し た 直 後 の 道 元が最初に参学の師と仰いだ禅者であり、了派とその会下の人々から道元が受けた影響にはきわめて大きなものが存し て い る (1) 。 ま た 道 元 は 諸 山 歴 遊 し た 際 に 台 州 ( 浙 江 省 ) 天 台 県 の 天 台 山 中 に 赴 き、 黄 龍 派 の 明 庵 栄 西 ( 葉 上 房、 千 光 法 師、 一 一 四 一 ─ 一 二 一 五 ) ゆ か り の 禅 寺 で あ っ た 平 田 万 年 報 恩 光 孝 禅 寺 を 訪 れ て い る が、 こ の と き 万 年 寺 の 住 持 で あ っ た 嗣 承 未 詳 ( あ る い は 黄 龍 派 か ) の 元 鼒 と い う 禅 者 は 手 厚 く 持 て 成 し て く れ た 恩 顧 の 人 物 に ほ か な ら な い ( 2 ) 。 こ の よ う に 天 童 山の了派と万年寺の元鼒は入宋して間もない頃の道元にとって、きわめて好感の持てる存在であったといってよい。 駒澤大學佛教學部 然 究紀 穀 第七十三號 徘 成二十七年三月笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 三〇 こ れ に 対 し て、 道 元 は 諸 山 歴 遊 の 際 に 温 州 ( 浙 江 省 ) 楽 清 県 に 存 す る 北 雁 蕩 山 の 諸 禅 刹 に 立 ち 寄 っ て お り、 天 童 山 へ の 帰 途 に は 馬 祖 下 の 大 梅 法 常 ( 七 五 二 ─ 八 三 九 ) ゆ か り の 明 州 鄞 県 の 大 梅 山 護 聖 禅 寺 に も 掛 搭 し て い る が、 こ の と き 参 学 し た で あ ろ う 雁 蕩 山 の 諸 刹 や 大 梅 山 護 聖 寺 の 住 持 の 名 は な ぜ か 何 も 書 き 残 し て い な い。 道 元 の 伝 記 史 料 で あ る『 建 撕 記 』 な ど に よ れ ば、 道 元 は 諸 山 歴 遊 の 際 に 杭 州 ( 浙 江 省 ) 餘 杭 県 の 径 山 興 聖 万 寿 禅 寺 で 大 慧 派 の 浙 翁 如 琰 ( 仏 心 禅 師、 一一五一─一二二五) に謁して問答をなし、 台州小翠巌 (おそらく台州黄巌県の瑞巌浄土禅院か) でも大慧派の盤山思卓 (卓 老) に参学したとされるが、道元自身は径山の如琰や小翠巌の思卓らとの関わりについて何も語っていない。 そ ん な 中 で い ま 一 人 の 禅 者 と し て 道 元 か ら 名 指 し で 批 判 さ れ る 大 刹 の 長 老 が 存 し て い る。 東 浙 の 名 刹 と し て 名 高 い 明 州 ( 後 世 の 寧 波 府 ) 鄞 県 東 五 〇 里 の 阿 育 王 山 広 利 禅 寺 の 住 持 を 勤 め て い た 大 光 と い う 長 老 で あ る。 道 元 は 天 童 山 の 無 際了派や万年寺の元鼒に対して批判的な言い回しなどは全く行なっていないが、なぜか阿育王山の住持であった大光に 対 し て は 厳 し い 批 判 の こ と ば を 残 し て い る。 当 時、 阿 育 王 山 と い え ば、 天 童 山 と 同 じ く 宰 相 の 史 彌 遠 ( 字 は 同 叔、 魯 公、 一 一 六 四 ─ 一 二 三 三 ) が 嘉 定 年 間 ( 一 二 〇 八 ─ 一 二 二 四 ) に 制 定 し た と さ れ る 禅 宗 五 山 の 第 五 位 に 列 し た 大 刹 で あ り、 し かも早くから仏舎利宝塔を祀る霊場として日本にも知られた名刹であったことから、当然ながらすぐれた禅者が選出さ れて住持職に就任していたはずである。それにも拘わらず、阿育王山の大光は道元にとって宋朝禅批判の対象として悪 しき禅者の見本のごとく扱われ、厳しい排斥の矢面に立っている。 この阿育王山の大光については、古来よりその事跡が定かでなく、具体的に如何なる禅者であったのかが曖昧にされ てきている。しかしながら、実際に阿育王山の大光について詳しく調べを進めていくと、この人は臨済宗虎丘派の笑庵 了 悟 (? ─ 一 二 〇 三?) の 法 を 嗣 い だ「 晦 巌 大 光 」 な い し「 晦 岩 大 光 」 と い う 名 の 禅 者 で あ っ た こ と が 判 明 し、 実 に 天 童山の密庵咸傑 (中峰、 一一一八─一一八六) の法孫に当たっている。 『仏果碧巌録』 で著名な楊岐派の圜悟克勤 (仏果禅師、 一〇六三─一一三五) より晦巌大光に至るまでの直系の師資関係を示すならば、 圜悟克勤─虎丘紹隆─応庵曇華─密庵咸傑─笑庵了悟─晦巌大光 と い う 系 譜 に 連 な っ て お り、 大 光 は 虎 丘 紹 隆 ( 瞌 睡 虎、 一 〇 七 七 ─ 一 一 三 六 ) の 門 流 で あ る 虎 丘 派 に 属 し て い る。 了 悟 と 大光の師資はともに後世の禅宗史上にほとんど顧みられることのない存在であるが、当時の江南禅林においてはそれな りに著名な立場にあった禅者といってよい。そこで以下、限られた史料を通してではあるが、本稿では笑庵了悟と晦巌
笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 三一 大光の師資について、その事跡を詳しく追ってみることにしたい。とりわけ、晦巌大光の存在は我が道元が在宋中にな した動静とも深く関わっていることから、可能なかぎりその事跡を解明してみたいのである。
宗派図に載る笑庵了悟と晦巌大光
日本の中世禅宗にはいくつかの宗派図が伝存しており、師資相承の系譜が法系図のかたちで記されているが、果して 本稿に取り上げる晦巌大光という禅者については如何なる記載が存しているであろうか。本師である笑庵了悟とともに 大光の名を載せる比較的古い宗派図について、一通りまとめて見ることにしたい。 破庵派 (聖一派祖) の東福円爾 (辨円、 聖一国師、 一二〇二─一二八〇) が南宋禅林から直に将来した東福寺所蔵 『宗派図』 には、虎丘派の「密菴傑禅師」の法嗣の一人に「笑菴悟禅師」の名があり、さらにその法嗣として「晦巌光禅師」の名 が書かれている。円爾が入宋した当時、十三世紀前半の江南禅林において、了悟と大光の両禅者の存在がそれなりに高 く評価されていたらしいことを窺わしめよう。 同じく破庵派に属する高麗国 (朝鮮半島) の無学自超 (妙厳尊者、渓月軒、一三二七─一四〇五) が所伝した『仏祖宗派 之図』 ( 『韓国仏教全書』第七冊に所収) には「密菴傑禅師」の法嗣の一人に「笑菴悟禅師」の名が存しているものの、 「晦 巌光禅師」の名は載せられていない。この点は同じ宗派図の所伝と見られる愛知県一宮市の長嶋山妙興寺に伝わる南北 朝期書写の『仏祖宗派之図』にも「密菴傑禅師」の法嗣の一人に「咲菴悟禅師」の名は存するものの、やはり「晦巌光 禅師」の名は載せられていない。 一方、 北朝の永徳二年 (南朝の弘和二年、 一三八二) 九月九日 (菊節日) に刊行された五島美術館 ・ 大東急記念文庫所蔵 『仏 祖正伝宗派図』には「天童密菴咸傑」の法嗣の一人に「霊隠笑菴了悟」の名があり、 さらにその法嗣に「天童晦岩大光」 の名が記されている。また夢窓派の古篆周印が室町中期の十五世紀前半に編集した 『仏祖宗派図』 にも 「天童密庵咸傑」 の法嗣の一人に「霊隠笑菴了悟」の名があり、了悟の法嗣に「天童晦岩大光」の名が記されている。 江 戸 期 の 宗 派 図 と し て も、 江 戸 中 期 に 洛 ( 京 都 ) 蔵 春 庵 の 深 江 元 彬 ( 文 水 ) が 編 纂 し た『 掌 珠 宗 派 図 』 に は「 天 童 密 庵咸傑」の法嗣の一人に「㚑隠笑庵了悟」の名があり、了悟の法嗣として「天童晦岩大光」の名が見られる。江戸初中 期に大応派 (妙心寺派) の桂芳全久が編集した 『正誤仏祖正伝宗派図』 四にも 「天童密菴咸傑」 の法嗣に 「霊隠笑菴了悟」笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 三二 の名があり、 了悟の法嗣として 「天童晦岩大光」 の名が載せられている。また享保五年 (一七二〇) 五月に和泉 (大阪府) 堺の仏在禅庵で大応派 (大徳寺派) の仲敬慧慎が編集した 『伝燈歴世譜』 巻中 「虎丘下世譜」 にも 「明州天童密菴咸傑」 の法嗣の一人に「杭州霊隠笑菴了悟」の名があり、了悟の唯一の法嗣として「天童晦巌大光」の名が記されてい る (3) 。 こ の よ う に 南 宋 後 期 や 日 本 の 中 世 か ら 近 世 に 編 纂 さ れ た 宗 派 図 の い く つ か に「 笑 菴 悟 禅 師 」 な い し「 霊 隠 笑 菴 了 悟 」 の法嗣として「晦巌光禅師」または「天童晦岩大光」の名が載せられていることから、了悟と大光の両者の存在は日本 の中世禅林にもそれなりに知られていたものと見られる。いずれにせよ、これらによって、虎丘派の密庵咸傑の法を嗣 いだ高弟の一人に笑庵了悟という禅者が存し、さらに了悟にとって唯一の嗣法門人として晦巌大光という禅者が活動し ていたことが窺われる。
笑庵了悟の伝記記事
はじめに晦巌大光の本師である笑庵了悟という禅者について、その事跡を追ってみることにしたい。明代初期に編纂 された『続伝燈録』巻三五「目録」には「天童傑禅師法嗣」として「霊隠了悟禅師」と名のみ記されており、上堂語な どは見録されていない。同じく明代初期に編纂された『増集続伝燈録』巻二「杭州霊隠笑庵了悟禅師」の章には、 杭州霊隠笑庵了悟禅師、 姑蘇人。上堂挙、 睦州因僧問、 以 二 一重 一 去 二 一重 一 即不 レ 問、 不 下 以 二 一重 一 去 中 一重 上 時如何。睦州曰、 昨日栽 二 茄子 一、今日種 二 冬瓜 一。師頌曰、昨日栽 二 茄子 一、今日種 二 冬瓜 一、 一声河満子、和 レ 月落 二 誰家 一。 と し て 見 録 立 伝 さ れ て い る が、 わ ず か に 出 身 地 が 姑 蘇 す な わ ち 蘇 州 ( 江 蘇 省 ) で あ っ た 点 と、 上 堂 語 一 つ を 載 せ る の み で あ っ て、 密 庵 咸 傑 の 法 を 嗣 い で 杭 州 ( 浙 江 省 ) 銭 塘 県 の 北 山 景 徳 霊 隠 禅 寺 に 住 持 し た こ と が 知 ら れ る に す ぎ な い。 し かもこの上堂は実際には 「睦州一重」 の古則に対して了悟が詠じた五言四句の頌古を上堂のごとく改めたものであり、 『増 集続伝燈録』の了悟の章には、この一頌が収録されるのみである。 こ う し た 禅 宗 燈 史 の 簡 略 な 記 載 に 対 し、 黄 龍 派 の 塗 毒 智 策 ( 涂 毒 と も、 一 一 一 七 ─ 一 一 九 二 ) の 法 嗣 で あ る 古 月 道 融 が 慶元三年 (一一九七) に自序を付した『叢林盛事』巻下には「咲庵悟禅師」の項が存しており、 咲菴悟、 蘇之常熟人。弃 レ 俗出家、 初見 二 無菴全 一、 後見 二 密菴于衢之烏巨 一。淳熈間、 首 二 衆於冷泉 一、 専以 二 供養 一 為 レ 心。時歳大飢、 密 菴 持 𥁊 未 レ 回、 知 事 約 二 束 方 来 一。 悟 坐 二 在 山 門 一、 一 例 放 入。 洎 二 密 菴 回 一、 知 事 沮 レ 之。 密 菴 見 レ 悟、 似 レ 不 レ 悦。 因 辞 云、 有 下 但笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 三三 得 三 院子如 二 揲大 一、尽 レ 情供 二 養五湖僧 一 之句 上。不 レ 逾 レ 時、住 二 衢祥符 一、歴 二 董数刹 一、果以 二 供養 一 為 レ 務。 と あ っ て、 若 干 な が ら 了 悟 に 関 す る 伝 記 的 な 記 事 が 語 ら れ て い る。 同 時 代 を 生 き た 道 融 の 伝 え る と こ ろ で あ る だ け に、 了悟の出身地や参学した過程の一端が知られる点で貴重な内容といえるだろう。とりわけ、 慶元三年より以前の時点で、 了悟がすでに数刹の住持を歴任していたことを伝えているのは注目される。 また大慧派の偃渓広聞 (仏智禅師、 一一八九─一二六三) の法嗣である枯崖円悟が南宋末期に編集した『枯崖和尚漫録』 巻中にも「笑庵悟禅師」の項が存しており、 笑庵悟禅師、 周氏居 二 蘇之常熟 一。久侍 二 才無等 一、 復与 二 松源 一、 同扣 二 密庵 一。密庵曰、 爾平生見処、 試語 レ 我来。随通 二 所見 一。曰、 未 在 参 堂 去。 笑 庵 後 於 二 僧 堂 中 一、 見 レ 剔 レ 燈 省 悟。 室 中 横 機 無 レ 所 レ 譲。 頌 二 徳 山 入 レ 門 便 棒 一 云、 倒 レ 嶽 傾 レ 湫 与 麼 来、 小 根 魔 子 謾 疑 猜、 神 駒 一 躍 三 千 界、 空 説 門 前 下 馬 臺。 密 庵 聞 而 喜。 昔 松 源 在 レ 衆 時、 疎 二 於 世 事 一。 笑 庵 微 細 皆 任 レ 責。 及 三 源 住 二 霊 隠 一、 庵 在 二 里 之 霊 巌 一、 具 レ 舟 抵 レ 杭、 訪 レ 之 到 レ 門。 三 日 方 得 二 相 見 一 無 二 慚 色 一。 後 源 赴 二 法 華 招 一、 又 以 二 霊 隠 一 力 挙 自 代。 前 輩 所 見、 異 二 於流俗 一、与 二 今人一語或訛終 レ 身為 レ 恨者 一、大有 二 逕庭 一 也。併書此為 二 後来亀鑑 一。 とあって、いま少し詳しい了悟の事跡が伝えられている。円悟も南宋末期の禅者であり、了悟が逝去して半世紀ほどし か隔てていない時期の記事であるだけに貴重な内容といってよい。惜しむらくは円悟が了悟の法を嗣いだ晦巌大光に関 して何も書き残していないことであり、何らかの情報を書き足していたならば、大光についても興味深い事跡が知られ た は ず で あ ろ う。 い ず れ に せ よ、 こ の よ う に『 叢 林 盛 事 』 と『 枯 崖 和 尚 漫 録 』 の 記 載 内 容 を 併 せ 考 察 す る こ と に よ り、 ある程度は了悟の事跡が判明するわけである。
了悟の参学について
笑庵了悟の出身地に関して『増集続伝燈録』は姑蘇の人すなわち蘇州の出身であったことを伝えている。さらに『叢 林盛事』や『枯崖和尚漫録』によって、了悟が詳しくは蘇州常熟県の出身であったことが記されている。しかも『枯崖 和尚漫録』によれば、俗姓を周氏と伝えているから、了悟は蘇州常熟県の周氏に生を受けたことが判明する。常熟県は 蘇州内の一県であって古くは南沙県と称され、唐代以降に常熟県と改名されている。蘇州は中心地に府城を囲んで長洲 県と呉県が位置し、南には呉江県があり、東には崑山県が存し、北には常熟県が位置しているのであって、常熟県の北笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 三四 側を長江 (揚子江) が西から東へと流れている。 了 悟 と い う の は こ の 人 の 法 諱 で あ り、 道 号 は 笑 庵 ま た は 笑 菴 あ る い は 咲 庵 と も 称 し て い る。 い う ま で も な く 笑 庵 了 悟という名称は「笑」と「悟」の関連からして、釈迦牟尼仏と西天第一祖の摩訶迦葉との間で交わされた「世尊拈華微 笑 」 の 古 則 公 案 に 因 ん だ 発 想 で あ り ( 4 ) 、 「 咲 」 と い う 語 も「 笑 」 と 同 じ く 笑 う 意 で あ る。 当 時、 南 宋 禅 林 で 道 号 に「 笑 」 の 一 字 を 用 い た 禅 者 と し て は、 了 悟 よ り 一 世 代 遅 れ て 大 慧 派 に 笑 翁 妙 堪 ( 一 一 七 七 ─ 一 二 四 八 ) が お り、 こ の 人 は 了 悟 の 法 嗣 で あ る 晦 巌 大 光 と ほ ぼ 同 世 代 に 当 た っ て い る。 ま た 元 代 後 期 に も 同 じ 大 慧 派 に 笑 隠 大 訢 ( 蒲 室、 広 智 全 悟 大 禅 師、 一 二 八 四 ─ 一 三 四 四 ) が お り (5) 、 こ の 人 の 詩 文 集 で あ る『 蒲 室 集 』 一 五 巻 は 広 く 日 本 の 中 世 禅 林 に 受 容 さ れ て い る。 妙 堪 の場合は「堪笑 (笑うに堪えたり) 」の語に因み、大訢の場合は「訢笑 (訢び笑う) 」の語に因んでいる。 了 悟 が 如 何 な る 事 情 で 出 家 得 度 し た の か は 定 か で な い が、 『 叢 林 盛 事 』 に よ れ ば「 俗 を 弃 て て 出 家 し、 初 め に 無 菴 全 に見ゆ」と記されていることから、おそらく蘇州常熟県内の寺院で世俗を捨てて出家剃髪し、具足戒を受けて後、了悟 は 初 め に 楊 岐 派 の 無 庵 法 全 ( 一 一 一 四 ─ 一 一 六 九 ) に 相 見 し た こ と が 知 ら れ る。 法 全 は 楊 岐 派 の 蓬 庵 端 裕 ( 仏 智 禅 師・ 大 悟 禅 師、 一 〇 八 五 ─ 一 一 五 〇 ) の 法 を 嗣 い だ 高 弟 で あ り、 撫 州 ( 江 西 省 ) 宜 黄 県 の 臺 山 や 撫 州 臨 川 県 の 白 楊 禅 院 に 住 持 し て い る (6) 。 そ の 後、 法 全 は 隆 興 元 年 ( 一 一 六 三 ) に 湖 州 ( 浙 江 省 ) 烏 程 県 の 道 場 山 護 聖 万 寿 禅 寺 ( 虎 巌 ) に 化 導 を 敷 い て い るから、おそらく了悟は蘇州からほど近い湖州に赴いて道場山で法全に参学したものと推測される。 一方、 『枯崖和尚漫録』には「久しく才無等に侍す」と記されているから、 了悟は久しく大慧派の無等有才 (一一一六 ─ 一 一 六 九 ) に も 随 侍 し た こ と が 知 ら れ る。 有 才 は 大 慧 派 祖 の 大 慧 宗 杲 ( 妙 喜、 大 慧 普 覚 禅 師、 一 〇 八 九 ─ 一 一 六 三 ) に 参 じ て 法 を 嗣 ぎ、 諸 刹 に 住 持 し て 後、 紹 興 三 一 年 ( 一 一 六 一 ) に 蘇 州 呉 県 の 万 寿 報 恩 光 孝 禅 寺 に 遷 り、 さ ら に 同 門 の 大 禅 了明 (?─一一六五) の後席を継いで乾道元年 (一一六五) に杭州餘杭県西北五〇里の径山能仁禅院 (後の興聖万寿禅寺) に第二二世として住持してい る (7) 。おそらく了悟は初めに湖州の道場山で無庵法全に参学した後、湖州に隣接する杭州餘 杭県に到り、径山に上山して無等有才に随侍し、有才のもとで久しく研鑽に努めたものと推測される。 この点、 『渭南文集』 巻四〇 「塔銘」 に載る 「松源禅師塔銘」 や 『松源和尚語録』 巻末所収 「塔銘」 では定かでないが、 『松源和尚語録』の冒頭に載る汲郡の孟猷 (字は良甫、一一五六─一二一六) の後序によれば、 一 日 留 二 道 場 全 公 席 下 一、 驀 有 二 所 得 一、 疑 網 尽 除。 時 全 公 縁 化 出 レ 外 数 日 而 后 反。 亟 欲 レ 求 レ 証、 先 レ 衆 入 室。 于 レ 時 全 公 機 鋒 不 レ
笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 三五 輳。 松 源 詈 言 而 出、 即 挑 レ 包 過 二 鳳 口 一 謁 二 密 菴 一。 未 レ 及 レ 語、 密 菴 云、 且 喜 大 事 明 了、 吐 露 即 不 レ 堪。 松 源 於 レ 是 帰 堂 憩 息。 其 去 二 道場 一 也有 レ 偈云、当頭一著没 二 誵 訛 一、去住還如 二 水上波 一、有 二 意気 一 時添 二 意気 一、従教平地起 二 干戈 一。 と い う 記 事 が 存 し て い る。 こ れ は 後 に 了 悟 と 同 門 に な っ た 松 源 崇 嶽 ( 崇 岳 と も、 老 聵 翁、 一 一 三 二 ─ 一 二 〇 三 ) が 湖 州 の 道場山で無庵法全に参じて何らかの機縁が存したことを伝えるものであり、このとき崇嶽は道場山の法全のもとで了悟 とも知り合ったことになろう。ただし、このとき崇嶽は悟るところが存したものの、法全の意図を真に読み取れずにそ の門を去ったことが伝えられており、後に密庵咸傑の席下に投じて自らの非に気づくことになる。
密庵咸傑への随侍と悟道の機縁
そ の 後、 了 悟 は 松 源 崇 嶽 と と も に 衢 州 ( 浙 江 省 ) 西 安 県 南 三 五 里 の 西 烏 巨 山 乾 明 禅 院 に お い て 虎 丘 派 の 密 庵 咸 傑 の 門 を 叩 い た こ と が 知 ら れ る。 『 密 菴 和 尚 語 録 』 巻 上「 密 菴 和 尚 住 衢 州 西 烏 巨 山 乾 明 禅 院 語 録 」 に よ れ ば、 咸 傑 は 乾 道 三 年 (一一六七) に烏巨山に入寺しているから、 両者はそれ以降に咸傑のもとに入門していることになろう。 『枯崖和尚漫録』 巻中「笑庵悟禅師」の項には、了悟が咸傑に参学してまもない頃になしたと見られる問答として、 密 庵 曰 く、 「 爾 が 平 生 の 見 処、 試 み に 我 れ に 語 り 来 た れ 」 と。 随 い て 所 見 を 通 ず。 曰 く、 「 未 在、 参 堂 し 去 れ 」 と。 笑 庵、 後 に 僧 堂 中 に 於 い て 燈 を 剔 る を 見 て 省 悟 す。 室 中 の 横 機、 譲 る 所 無 し。 「 徳 山、 門 に 入 れ ば 便 ち 棒 す 」 を 頌 し て 云 く、 「 嶽 を 倒 し 湫 を 傾 け て 与 麼 に 来 た り、 小 根 の 魔 子、 謾 り に 疑 猜 す。 神 駒 一 た び 躍 る 三 千 界、 空 し く 説 く 門 前 の 下 馬 臺 」 と。 密 庵、 聞 いて喜ぶ。昔し松源、衆に在りし時、世事に疎きなり。笑庵は微細にして皆な責に任ず 。 という機縁が伝えられている。あるとき咸傑が了悟に対して平生の見処を試みに述べてみるように促し、これに応じて 了悟は自らの心境を咸傑に申し述べている。ところが、咸傑は了悟のありようをいまだ認めず、さらに参学して研鑽に 努めるように諭すのである。そのため了悟は僧堂において坐禅辦道に一段と精進し、僧堂の燈火を消すさまを見て悟る ところが存したとされ、 それ以来、 咸傑の室中における商量は他の禅者らを凌駕し、 何ら譲るところがなかったとされる。 『 枯 崖 和 尚 漫 録 』 に は 青 原 下 の 徳 山 宣 鑑 ( 見 性 大 師、 周 金 剛、 七 八 〇 ─ 八 六 五 ) に ち な む「 徳 山 棒 」 の 古 則 に 対 し て 了 悟 が詠じた七言四句の頌古が載せられており、 これを聞いた咸傑が満足して喜んださまが伝えられている。 『枯崖和尚漫録』 の記載で興味深いのは、崇嶽と了悟の性格の相違が特徴的に語られている点であろう。修行時代に世事に疎かった崇嶽笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 三六 に対して、了悟はきめ細かい性格であったことから多くの職位を無難に執り行なったものらしい。 衢 州 の 西 烏 巨 山 と は、 衢 州 西 安 県 南 三 五 里 の 西 烏 巨 山 乾 明 禅 院 の こ と で あ り、 北 宋 の 端 拱 元 年 ( 九 八 八 ) に 雪 峰 派 下 の 烏 巨 儀 晏 ( 開 明 禅 師、 八 七 六 ─ 九 九 〇 ) が 開 山 始 祖 と な っ て い る。 密 庵 咸 傑 が 住 持 す る 以 前 に は、 楊 岐 派 の 雪 堂 道 行 (一〇八九─一一五一) や曹洞宗宏智派の烏巨正光 (俗名は呉叙) らが烏巨山に住持している。 『松源和尚語録』巻下「偈頌」には、烏巨山の咸傑のもとで蔵主を勤めていた了悟に関わる記事として、 送 三 悟蔵主還 二 姑蘇 一 〈霊隠笑庵和尚、時在 二 西烏巨山 一 〉 。 玲 瓏 巌 畔 瞥 不 レ 瞥、 豎 二 起 脊 梁 一 生 鉄 橛。 無 レ 端 林 下 錯 商 量、 携 レ 手 相 随 入 二 虎 穴 一。 甕 裏 驀 然 失 二 却 鱉 一、 箇 事 明 明 向 レ 誰 説。 彼 時 只 是 此 時 人、 誰 知 眼 裏 重 添 レ 屑。 我 携 二 拄 杖 一 奔 二 南 北 一、 君 入 二 西 山 一 恣 二 軽 忽 一。 放 二 下 蛇 頭 一 酪 二 虎 鬚 一、 飜 レ 身 便 作 二 自 拈 賊 一。 太 虚 全 布 目 前 機、 生 殺 交 馳 誰 敢 窺。 我 来 一 笑 重 相 見、 鼻 孔 由 来 向 レ 下 垂。 密 庵 家 風 徹 骨 貧、 密 庵 有 レ 眼 且 無 レ 筋、 将 レ 無 作 レ 有 這 些子、透 二 這些子 一 能幾人。西風落 レ 木天宇逈、君兮不 レ 住 二 別峰頂 一、曹谿一滴杖頭挑、漲起呉江千万頃。 という偈頌が載せられている。久しく肩を並べて坐禅辦道に明け暮れ、修行を共にした了悟が西烏巨山の咸傑のもとで 蔵主を勤めていたが、 何らかの理由で姑蘇すなわち郷里の蘇州に帰ることが存したものであろう。この偈頌からしても、 崇嶽がいまだ諸方に行脚していた頃、了悟も修行に励んでいたことが窺われ、両者がともに深く咸傑の禅旨を相承して いたことが知られる。悟蔵主の注記として「霊隠の笑庵和尚、時に西烏巨山に在り」とあるのは、崇嶽が示寂した直後 に了悟が後席を継いで霊隠寺に住持し、その頃に『松源和尚語録』二巻が編纂されていたことに依るものである。 しかも『密菴和尚語録』は概ね「参学小師崇岳・了悟等編」とあるから、崇嶽と了悟の両者が参学小師の肩書きで編 集したものであることが知られる。おそらく両者は深い道交によって結ばれ、ともに咸傑より全面の信頼を得ていたの であって、互いの長所を存分に活かし、欠点を補い合って仏道修行に邁進し、師匠咸傑の語録を編纂してまとめ上げて いるものであろう。このため『密菴和尚語録』巻末「塔銘」には「其他嗣法者数十輩、而了悟・崇岳尤傑然者也」とあ り、 咸 傑 に 多 く の 嗣 法 門 人 が 存 し た 中 に あ っ て、 同 門 の 破 庵 祖 先 ( 一 一 三 六 ─ 一 二 一 一 ) や 曹 源 道 生 (? ─ 一 一 九 七 ) ら を差し置いて、了悟は崇嶽とともに密庵門下を代表する高弟として位置づけられてい る (8) 。 さらに『叢林盛事』巻下「咲庵悟禅師」の項には、了悟が霊隠寺の首座を勤めていたときの逸話として、 淳熈の間、 衆に冷泉に首たり、 専ら供養を以て心と為す。 時に歳大いに飢え、 密菴持𥁊して未だ回らず、 知事、 方来を約束す。 悟、
笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 三七 山 門 に 坐 在 し て、 一 例 に 放 入 す。 密 菴 の 回 る に 洎 ん で、 知 事、 之 れ を 沮 む。 密 菴、 悟 を 見 て、 悦 ば ざ る に 似 た り。 因 り て 辞 して云く、 「但だ院子の揲大の如きを得ば、 情を尽くして五湖の僧を供養せん」の句有り。時を逾えずして、 衢の祥符に住し、 数刹を歴董して、果して供養を以て務めと為す。 と い う 記 事 が 伝 え ら れ て い る。 了 悟 は 淳 熈 年 間 ( 一 一 七 四 ─ 一 一 八 九 ) に 冷 泉 す な わ ち 霊 隠 寺 に お い て 咸 傑 の も と で 首 座に就いており、専ら修行僧に供養することを心掛けていたとされる。あるとき飢饉のため咸傑が食糧の勧募をなすべ く 諸 地 に 行 乞 し て い た 際 に、 知 事 ( 維 那 か ) は 修 行 僧 の 入 門 掛 搭 を 差 し 控 え て い た が、 首 座 の 了 悟 は 山 門 に 坐 し て 掛 搭 志願者をすべて僧堂内に送り込んでしまう。咸傑が帰山するに及んで、知事の僧は了悟の行為を阻止しようとし、咸傑 も了悟の取った行動に対して快く思わなかったとされる。このため了悟は四海五湖の修行僧に情を尽くして供養する心 根 を「 但 得 三 院 子 如 二 揲 大 一、 尽 レ 情 供 二 養 五 湖 僧 一 」 と い う 七 言 二 句 の 偈 頌 に 認 め て 咸 傑 に 呈 し た の で あ る。 了 悟 は 諸 刹 の住持となって後もこのときの思いを貫き通し、修行僧への供養を自らの務めとなして精進したと伝えられる。この逸 話は了悟の人となりを窺う上で興味深く、若き修行僧らに対する慈悲心に満ちた接化指導のありようが偲ばれる。 ところで、 『禅林宝訓』 ( 『禅門宝訓集』とも) 巻四の「密菴傑和尚」の項 (大正蔵四八 ・ 一〇三七c) に、 密菴謂 二 悟首座 一 曰、 叢林中、 惟浙人軽懦少 レ 立。子之才器宏大、 量度淵容、 志尚 二 端確 一、 加以見地穏密。他日未 レ 易 レ 言、 但自韜晦、 無 レ 露 二 圭角 一、毀 レ 方瓦合、持以 二 中道 一。勿 下 為 二 勢利 一 少枉 上、即是不 レ 出 二 塵労 一 而作 二 仏事 一 也。 〈与 二 笑菴 一 書〉 。 という法語が収録されており、咸傑が首座の了悟に付与した短編の法語が載せられている。いま便宜上、咸傑が了悟に 示した法語の部分のみを書き下してみるならば、 叢 林 の 中、 惟 だ 浙 の 人 は 軽 懦 に し て 立 つ こ と 少 な し。 子 が 才 器 は 宏 大 に し て、 量 度 は 淵 容 な り、 志 し は 端 確 を 尚 び、 加 以 う る に 見 地 は 穏 密 な り。 他 日 は 未 だ 言 う に 易 か ら ず、 但 だ 自 ら 韜 晦 し て 圭 角 を 露 わ す こ と 無 く、 方 を 毀 ち て 瓦 合 し、 持 す る に 中道を以てせよ。勢利の為めに少しも枉ぐること勿かれ、即ち是れ塵労を出でずして仏事を作すなり。 といった具合になろう。この「笑菴に与うる書」の法語では、冒頭に浙僧すなわち浙江出身の僧たちの気性が軟弱であ ることを語っているが、咸傑自身は福建出身の閩僧であり、了悟は江蘇出身の呉僧であるから、いずれもこの範疇に属 していないことになる。ついで咸傑は了悟が才気に恵まれ、度量も奥深いことを称えており、志しも真直ぐで修行の見 処 も 平 ら か で あ る こ と を 述 べ て い る。 し か し な が ら、 後 半 で 咸 傑 は 後 日 の 忠 告 と し て、 才 智 を 表 に 出 さ ず に 包 み 隠 し、
笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 三八 角を立てずに相手と歩調を合わせ、中道の精神で身を律していくことを了悟に求めている。これは了悟の性格を十分に 踏まえた上での説示と見られ、末尾には権勢や利益に振り回されず、世俗の煩悩の真直中にあって仏法を行じていくべ きことを諭している。 南宋末元初に活躍した破庵派の絶岸可湘 (一二〇六─一二九〇) の語録である『絶岸和尚語録』 「跋」には、 密庵授 二 笑庵 一 法語、斉侍者求。 世 尊 有 二 密 語 一、 迦 葉 不 二 覆 蔵 一。 的 的 相 承、 甚 二 於 蠱 毒 一、 到 二 其 家 一 者、 水 可 レ 飲 乎。 然 密 庵 而 有 二 笑 庵 一、 猶 三 世 尊 而 有 二 迦 葉 一。 笑 顔一破、密語乖張、直下子孫、無 レ 計 二 遮掩 一。思斉侍者、対 レ 予告 レ 訐。故拠 レ 欵而結云。 という跋文が収められている。可湘は密庵咸傑─破庵祖先─無準師範─絶岸可湘と次第する禅者で、破庵派の無準師範 の法を嗣いだ高弟の一人であ る (9) から、了悟は可湘にとって法統の曾伯父に当たっている。この跋文は可湘が会下で侍者 を 勤 め て い た 思 斉 と い う 禅 者 の 求 め に 応 じ て 記 し た も の で あ る が、 こ こ に い う「 密 庵 授 二 笑 庵 一 法 語 」 と は、 お そ ら く 先 の「 与 二 笑 菴 一 書 」 と 同 一 の 墨 蹟 の こ と で あ ろ う。 し た が っ て、 咸 傑 が 了 悟 に 与 え た 墨 蹟 は そ の 後 も 一 世 紀 近 く 諸 禅 者の間を転々として侍者思斉のもとに伝えられ、思斉は親しく可湘に跋文を依頼しているわけである。跋文において可 湘 は 世 尊 ( 釈 尊 ) の 密 語 と 摩 訶 迦 葉 の 破 顔 微 笑 と い う「 世 尊 拈 華 」 な い し「 破 顔 微 笑 」 の 古 則 に 因 ん で、 密 庵 咸 傑 と 笑 庵了悟の師資を称えているのであり、世尊の密語は密庵咸傑を意味し、摩訶迦葉の破顔微笑は笑庵了悟に準えられてい る ) (1 ( 。 思 斉 が 如 何 な る 禅 者 で あ っ た の か は 定 か で な い が、 仮 に 思 斉 が 了 悟 に と っ て 直 下 の 法 統 の 子 孫 で あ っ た と す れ ば、 あるいは晦巌大光の法嗣ないし法孫であった可能性も存しよう。
開堂出世から霊隠寺住持へ
と こ ろ で、 『 叢 林 盛 事 』 巻 下「 咲 庵 悟 禅 師 」 の 項 に よ れ ば「 衢 の 祥 符 に 住 し、 数 刹 を 歴 董 す 」 と あ る こ と か ら、 了 悟 は 咸 傑 の 生 前 中 に は 衢 州 ( 浙 江 省 ) 西 安 県 治 北 の 大 中 祥 符 禅 寺 に 開 堂 出 世 し、 そ の 後 も い く つ か の 寺 院 を 歴 住 し て い る ことが知られる。 『康煕衢州府志』巻二六「寺観考」の「西安県」の「祥符禅寺」の項によれば、 祥 符 禅 寺、 在 二 県 治 北 一。 梁 天 監 三 年、 額 曰 二 鄭 覚 一。 旧 伝 為 二 将 軍 鄭 平 捨 一レ 宅 故 名。 唐 陸 宣 公 贄、 捐 二 助 田 千 餘 畝 一、 以 飯 二 僧 衆 一。 至 レ 今禋 二 鄭陸両公 一、供 二 于左廡 一。至 二 宋大中祥符初 一、改 二 今名 一 矣。笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 三九 とあり、衢州の祥符寺についてその変遷を伝えている。この寺は古く梁の天監三年(五〇四)に鄭覚寺として建立され た衢州の古刹として知られ、北宋の大中祥符年間(一〇〇八─一〇一六)の初めに大中祥符禅寺と改められている。 しかも『密菴和尚語録』巻上に参学小師崇岳・了悟等編「衢州大中祥符禅寺語録」が収められていることから、了悟 は本師の咸傑が住持した衢州の大中祥符寺に門下として後席を継ぐようなかたちで入院開堂しているものであろ う ) (( ( 。ま た 『密菴和尚語録』 の冒頭には参学居士であった張鎡 (字は功甫、 号は約斎、 一一五三─?) が咸傑の語録に序文を寄せて、 密菴禅師示寂之三年、 其得法真子、 住 二 霊巌 一 了悟、 以 二 老師平生語一編 一、 属 二 鎡作 一レ 序。鎡切謂、 老師一見 二 応菴 一、 便明 二 大法 一、 破 沙 盆 語、 盛 播 二 叢 林 一、 此 無 二 可 レ 序 者 一。 七 鎮 二 名 山 一、 道 満 二 天 下 一、 一 時 龍 象、 尽 出 二 鉗 鎚 一、 此 亦 無 二 可 レ 序 者 一。 入 二 対 中 宸 一、 闡 二 揚般若 一、 深契 二 上意 一、 益光 二 宗門 一、 此亦無 二 可 レ 序者 一。然鎡叨承 二 衣付 一、 義不 レ 容 レ 黙、 謹為 レ 之序曰、 密菴語録二巻、 総八十七板、 板二十行、行二十字。若於 レ 此薦得、許 三 親見 二 密菴 一。如或未 レ 然、聴 二 取一転語 一。 淳熙十五年冬仲月九日、参学張鎡序。 と書き残している。張鎡がなした序文の本文のみを書き下してみるならば、つぎのごとくなろう。 密 菴 禅 師 示 寂 す る の 三 年、 其 の 得 法 の 真 子、 霊 巌 に 住 す る 了 悟、 老 師 の 平 生 の 語 一 編 を 以 て、 鎡 に 序 を 作 さ ん こ と を 属 む。 鎡切に謂えらく、 「老師は一たび応菴に見えて、 便ち大法を明らめ、 破沙盆の語、 盛んに叢林に播けり、 此に序すべき者無し。 七 た び 名 山 を 鎮 し、 道 は 天 下 に 満 ち、 一 時 の 龍 象、 尽 く 鉗 鎚 よ り 出 づ、 此 に 亦 た 序 す べ き 者 無 し。 中 宸 に 入 対 し て、 般 若 を 闡 揚 し、 深 く 上 意 に 契 い、 益 ま す 宗 門 を 光 か せ り、 、 此 に 亦 た 序 す べ き 者 無 し 」 と。 然 し て 鎡、 叨 く も 衣 付 を 承 け、 義 あ り て 黙 す 容 か ら ず、 謹 ん で 之 れ が 為 め に 序 し て 曰 く、 「 密 菴 語 録 二 巻、 総 べ て 八 十 七 板、 板 二 十 行、 行 二 十 字 な り。 若 し 此 に 於いて薦得せば、親しく密菴に見えしことを許さん。如或し未だ然らずんば、一転語を聴取せよ」と。 咸傑が淳熙一三年 (一一八六) 六月に示寂して三年目に当たる淳熙一五年 (一一八八) に、 了悟は『密菴和尚語録』二 巻を携えて親しく咸傑に参学した居士であった張鎡のもとを訪ねており、語録の冒頭に序文を寄せてほしい旨を依頼し ている。このとき了悟の肩書きとして「霊巌に住する了悟」とあるから、咸傑亡き後に了悟は霊巌寺という寺に住持し ていたことが知られる。了悟が住持した霊巌寺とは、 状況的に蘇州 (江蘇省) 呉県西三〇里の霊巌山顕親崇報禅院 (霊巌寺) のことを指している。霊巌寺の了悟から親しく依頼を受けた張鎡は、淳煕一五年一一月九日に『密菴和尚語録』の序文 を撰しているわけである。このように了悟は同門の崇嶽とともに『密菴和尚語録』を編集し、さらに霊巌寺住持の身で
笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 四〇 その語録の刊行にも尽力して張鎡の序文を得ており、これを完遂していることが知られる。了悟の活動なくして『密菴 和尚語録』は後世に残されることはなかったわけであり、その面でもこの人の隠れた功績には同門の崇嶽以上に大きな ものが存したといわねばならない。 了悟が蘇州霊巌寺に住持していた期間が何時までであったのかは定かでないが、その後、同じ蘇州崑山県治東南に存 した薦厳資福禅寺にも住持していたものらしい。了悟は一〇数年の久しきにわたり郷里蘇州地内の禅刹を中心に化導を 敷いていたことになり、おそらくこの間に晦巌大光も霊巌寺や薦厳寺において了悟の接化を受け、参禅学道に努めてい たものと推測される。 最晩年に至って、 やがて了悟は杭州銭塘県の北山景徳霊隠禅寺に住持する因縁に恵まれている。 『扶 桑五山記』一「霊隠住持位次」によれば、了悟の前後の住持について、つぎのように記している。 廿三、松源岳禅師。廿四、笑庵悟禅師。廿五、息菴観禅師。 了悟は崇嶽の後席を継いで霊隠寺の第二四世に就任していることが知られる。ただし、 『霊隠寺志』 巻三下 「住持禅祖」 の「笑菴了悟禅師」の項では伝記的な記述としては単に「臨済宗、姑蘇人、天童杰法嗣」と記されるのみで、世代や住 持期などは何ら定かでない。ここに「天童杰」とあるのは「天童傑」のことであり、了悟が天童山の密菴咸傑の法を嗣 い だ 高 弟 で あ る 意 に ほ か な ら な い。 『 松 源 和 尚 語 録 』 巻 下「 臨 安 府 景 徳 霊 隠 禅 寺 語 録 」 や 陸 游 撰「 松 源 禅 師 塔 銘 」 な ど に よ れ ば、 崇 嶽 が 霊 隠 寺 に 陞 住 し た の は 慶 元 三 年 ( 一 一 九 七 ) 六 月 五 日 の こ と で あ り、 六 年 間 に わ た っ て 住 持 し た と さ れるから、 嘉泰二年 (一二〇二) 八月四日に示寂するまで現住であったものらしく、 『松源和尚語録』巻下「開山顕親報 慈禅寺語録」によれば、この間に崇嶽は杭州地内に存したと見られる顕親報慈禅寺の開山始祖にも拝請されている。 一方、松源派の沢山弌咸が元代中期に編纂した『禅林備用清規』巻四「西堂頭首受請陞座」の項には、 掩室受 レ 請、松源引座、松源受 レ 請、笑庵引座、皆不 二 挙話 一。簡堂受 レ 請、石橋引座、淳庵受 レ 請、息庵引座、皆挙話。 という記載が存している。これは西堂位や頭首位にある禅者が請を受けて陞座する際に古人の話頭を取り上げて拈提す る挙話をなすか否かを述べた一段であるが、掩室善開が請を受けて出世した際には本師の松源崇嶽が引座をなし、それ 以前に崇嶽が請を受けて出世したときには同門の笑庵了悟が引座をなしたが、崇嶽や善開の場合には挙話が行なわれな か っ た と 述 べ て い る。 一 方、 楊 岐 派 の 簡 堂 行 機 ( 一 一 一 三 ─ 一 一 八 〇 ) が 請 を 受 け て 出 世 し た 際 に は 法 従 弟 に 当 た る 同 じ楊岐派の石橋可宣 (仏日禅師、?─一二一七) が引座をなし、楊岐派の淳庵善浄が請を受けて出世した際には本師であ
笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 四一 る 息 庵 達 観 ( 一 一 三 八 ─ 一 二 一 二 ) が 引 座 を な し た と し、 行 機 や 善 浄 の 場 合 に は 挙 話 が 存 し た こ と を 伝 え て い る。 い ず れ に せ よ、 『 禅 林 備 用 清 規 』 の 記 述 は、 了 悟 と 崇 嶽 の 関 わ り が き わ め て 親 密 で あ っ た こ と を 伝 え る 逸 話 で あ り、 両 者 が 生涯にわたって深い道交で結ばれていた事実を知ることができよう。 ところで、いま一つ興味深いのは同門の法弟に当たる破庵祖先が霊隠寺の了悟のもとで首座に就いていることであろ う。祖先はいうまでもなく日本禅林にも多大の影響を及ぼした無準師範 (仏鑑禅師、 一一七七─一二四九) の本師に当たっ て い る。 『 破 菴 和 尚 語 録 』 巻 末 に 付 さ れ る 宗 性 編「 行 状 」 に よ れ ば、 祖 先 は 密 庵 咸 傑 の 法 を 嗣 い で 後、 虁 州 府 ( 四 川 省 ) 奉節県の臥龍山咸平禅院に住持しているが、その記事につづいて、 留 三 年 出 レ 峡、 至 二 常 州 華 蔵 一、 遯 菴 演 始 延 レ 師 分 座 立 僧、 衆 皆 傾 服。 至 二 於 金 山 退 菴 奇・ 霊 隠 笑 菴 悟・ 径 山 蒙 菴 聡 一、 師 至 必 延 居 二 第一座 一、衆輒倍 レ 常。 という記載が存している。これによれば、祖先は咸平禅院に住すること三年にして、再び三峡を下って江浙に到り、常 州 (江蘇省) 無錫県の華蔵褒忠禅寺において大慧下の遯庵宗演のもとで首座として分座説法している。その後、 鎮江府 (江 蘇 省 ) 丹 徒 県 の 金 山 龍 游 禅 寺 で 楊 岐 派 の 退 庵 道 奇 に、 杭 州 銭 塘 県 の 北 山 景 徳 霊 隠 禅 寺 で 了 悟 に、 さ ら に 杭 州 餘 杭 県 の 径 山 興 聖 万 寿 禅 寺 で 楊 岐 派 の 蒙 庵 元 聡 ( 蒙 叟、 仏 智 禅 師、 一 一 三 六 ─ 一 二 〇 九 ) に 招 か れ、 そ れ ぞ れ の 禅 刹 で 首 座 ( 第 一 座 ) を勤めている。了悟と祖先は同門ではあるが、おそらく了悟の方が年齢的にも法兄であったものと見られ、法弟の祖先 を首座に招いて接化を補助せしめているわけである。 了悟が示寂したのが何時であったのか、世寿・法臘が何歳であったのかも定かでないが、その後席を継いで霊隠寺の 第二五世に就任したのは、 先に触れた楊岐派の息庵達観にほかならない。達観については幸いに 『北 嵜 文集』 巻一〇 「塔 銘 」 に「 天 童 山 息 庵 禅 師 塔 銘 」 が 収 め ら れ て お り、 若 干 な が ら 事 跡 が 知 ら れ て い る。 達 観 は 婺 州 ( 浙 江 省 ) 義 烏 県 の 趙 氏の出身であり、同県内の法恵寺の正覚のもとで出家して後、明州天童山の応庵曇華や湖州道場山の無庵法全に参じて いるから、その間に崇嶽や了悟とも交遊が存したものであろう。その後、達観は台州天台県北五〇里の天封禅寺に赴い て楊岐派の水庵師一 (一一〇七─一一七六) のもとに投じて法を嗣いでいる。 「天童山息庵禅師塔銘」によれば、 即 去 至 二 龍 翔 一、 栢 堂 虚 二 第 一 座 一 以 俟。 識 者 偉 二 栢 堂 知 一レ 人。 開 二 法 厳 之 霊 岩 一、 閲 二 四 五 刹 一。 晩 自 二 金 山 一 被 レ 旨、 霊 隠 坐 二 四 夏 一。 用 二 大覚故事 一、上告 レ 老之請、帰 二 天童 一、又六夏而蛻。嘉定五年七月二十七日也。臘五十、寿七十五。
笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 四二 と そ の 後 の 活 動 が 記 さ れ て い る。 達 観 は 嘉 定 五 年 ( 一 二 一 二 ) 七 月 二 七 日 に 世 寿 七 五 歳 で 示 寂 し て い る が、 晩 年 の 一 〇 年間の中で、 前半の四年間を霊隠寺に住持し、 後半の六年間を天童山に住持したとされ、 夏安居四回を霊隠寺で過ごし、 六 回 を 天 童 山 で 過 ご し た こ と に な ろ う か ら、 霊 隠 寺 に 入 寺 し た の は 嘉 泰 三 年 ( 一 二 〇 三 ) 夏 安 居 以 前 で あ っ た も の と 解 される。したがって、了悟が霊隠寺の住持を退いたか示寂したのも嘉泰三年の夏安居以前ということになり、おそらく 同門の崇嶽に遅れること僅か一年あまりにして嘉泰三年の春頃に了悟も示寂したのではないかと推測される。崇嶽は世 寿七一歳で示寂しているが、おそらく了悟もほぼ同年代であったものと見られるから、世寿七〇歳前後には達していた はずであろう。了悟の墓塔が何れの寺院に立てられたのかは定かでないが、おそらく霊隠寺の一角それも同門の松源崇 嶽の墓塔が存した鷲峰庵 (松源塔下) の近隣に立石されたのではないかと推測される。
『笑菴悟和尚語』の上堂と偈頌
嘉 煕 二 年 ( 一 二 三 八 ) に 晦 室 師 明 が 編 集 し た『 続 開 古 尊 宿 語 要 』 第 四 集 に は 短 編 な が ら『 笑 菴 悟 和 尚 語 』 が 収 め ら れ て お り、 了 悟 の 生 前 の こ と ば が 伝 え ら れ て い る。 『 笑 菴 悟 和 尚 語 』 に は 冒 頭 に「 笑 菴 悟 和 尚 語、 嗣 二 密 菴 一 」 と 表 題 が 記 された後、初めに「上堂」の部分が存しており、以下、煩瑣ながら全文とその書き下しを示しておきたい。 ⑴挙。院主請 二 薬山 一 為 レ 衆上堂。衆纔集、 山便帰 二 方丈 一。院主白云、 和尚既許 二 為 レ 衆説 一レ 禅、 因 レ 甚一言不 レ 措。山云、 経有 二 経師 一、 論有 二 論師 一、 争怪 二 得老僧 一。師云、 克由 諾 耐、 一人為 レ 衆竭 レ 力、 禍出 二 私門 一、 一人命若 二 懸絲 一、 死而不 レ 弔。祥符門下、 令不 二 虚行 一。 当時若見、掘 二 箇深坑 一、 一時埋却。遂回 二 顧侍者 一 云、侍者還甘麼。侍者擬議。師喝云、将 レ 頭不 レ 猛、累及 二 三軍 一。 挙 す。 院 主、 薬 山 を 請 し て 衆 の 為 め に 上 堂 せ し む。 衆 纔 か に 集 ま る に、 山 便 ち 方 丈 に 帰 る。 院 主 白 し て 云 く、 「 和 尚、 既 に 衆 の 為 め に 禅 を 説 く こ と を 許 す、 甚 に 因 っ て か 一 言 も 措 か ざ る 」 と。 山 云 く、 「 経 に 経 師 有 り、 論 に 論 師 有 り、 争 で か 老 僧 を 怪 し み 得 ん 」 と。 師 云 く、 「 克 由 諾 耐、 一 人 は 衆 の 為 め に 力 を 竭 す、 禍 は 私 門 よ り 出 づ。 一 人 は 命 は 懸 絲 の 若 し、 死 し て 弔 わ ず。 祥 符 門 下、 令 は 虚 し く 行 な わ れ ず。 当 時 若 し 見 ば、 箇 の 深 坑 を 掘 り、 一 時 に 埋 却 せ ん 」 と。 遂 に 侍 者 を 回 顧して云く、 「侍者、 還た甘きや」 と。侍者、 擬議す。師喝して云く、 「頭を将いること猛からざれば、 累いは三軍に及ばん」 と。 ⑵山僧夜来得 二 箇夢 一、 夢見 二 三教聖人 一、 各説 二 一段禅 一。孔夫子道、 生而知 レ 之者上也、 学而知 レ 之者次也。山僧向 レ 他道、 之乎者也、 字 経 二 三 写 一。 李 老 君 道、 恍 恍 惚 惚、 其 中 有 レ 物、 杳 杳 冥 冥、 其 中 有 レ 精。 山 僧 向 レ 他 道、 求 レ 生 不 レ 得 レ 生、 求 レ 死 不 レ 得 レ 死。 末笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 四三 後 黄 面 老 子 道、 未 レ 離 二 兜 率 一、 已 降 二 王 宮 一、 未 レ 出 二 母 胎 一、 度 レ 人 已 畢。 山 僧 去 二 他 耳 垜 辺 一、 軽 軽 向 レ 他 道、 少 売 弄。 忽 然 雲 門・ 趙 州・ 徳 山・ 臨 済・ 法 眼・ 曹 洞・ 潙 仰 聞 得、 簇 蔟 上 来、 棒 喝 交 馳、 君 臣 父 子、 透 レ 声 透 レ 色、 截 二 断 衆 流 一、 卓 然 而 立。 三 教 聖 人 纔 見、 吋 羅 而 退。 山 僧 豁 二 開 眼 一 来、 元 来 是 大 宋 国 内、 崑 山 県 中、 資 福 刹 竿 頭 上、 展 二 家 風 一、 善 法 堂 前、 龍 蛇 混 雑。 遂 召 二 大衆 一 云、且道、夜来夢底是、今朝説底是。喝一喝云、是汝諸人、眼在 二 什麼処 一。 「 山 僧、 夜 来、 箇 の 夢 を 得 た り、 夢 に 三 教 の 聖 人 を 見 る に、 各 お の 一 段 の 禅 を 説 く。 孔 夫 子 道 く、 『 生 ま れ な が ら に 之 れ を 知 る 者 は 上 な り、 学 び て 之 れ を 知 る 者 は 次 な り 』 と。 山 僧、 他 に 向 か っ て 道 え り、 『 之 乎 者 也、 字 は 三 た び 写 す を 経 た り 』 と。李老君道く、 『恍恍惚惚として、 其の中に物有り、 杳杳冥冥として、 其の中に精有り』と。山僧、 他に向かって道えり、 『 生 を 求 む る も 生 を 得 ず、 死 を 求 む る も 死 を 得 ず 』 と。 末 後 に 黄 面 老 子 道 く、 『 未 だ 兜 率 を 離 れ ず し て、 已 に 王 宮 に 降 り、 未 だ 母 胎 を 出 で ず し て、 人 を 度 す る こ と 已 に 畢 る 』 と。 山 僧、 他 の 耳 垜 辺 に 去 き て 軽 軽 に 他 に 向 か っ て 道 え り、 『 少 し く 売弄せり』と。忽然として雲門 ・ 趙州 ・ 徳山 ・ 臨済 ・ 法眼 ・ 曹洞 ・ 潙仰、聞き得て、簇蔟として上来し、棒喝交ごも馳せ、 君 臣・ 父 子、 声 を 透 り 色 を 透 り、 衆 流 を 截 断 し、 卓 然 と し て 立 つ。 三 教 の 聖 人 纔 か に 見 て、 吋 羅 し て 退 く。 山 僧、 眼 を 豁 開 し 来 た る に、 元 来 是 れ 大 宋 国 内、 崑 山 県 中、 資 福 の 刹 竿 頭 上 に 家 風 を 展 べ、 善 法 堂 前 に 龍 蛇 混 雑 す 」 と。 遂 に 大 衆 を 召 し て 云 く、 「 且 ら く 道 え、 夜 来 に 夢 む る 底 是 な る か、 今 朝 に 説 く 底 是 な る か 」 と。 喝 一 喝 し て 云 く、 「 是 れ 汝 諸 人、 眼 は 什 麼の処にか在る」と。 ⑶今朝七月半、叢林解制忙、当頭老水牯、筋骨不 二 堪当 一。大家団欒礼三拝、栴檀薝蔔一般香。 今朝は七月半ば、叢林は解制忙し。当頭に老水牯、筋骨は堪当せず。大家団欒して礼三拝し、栴檀・薝蔔は一般に香る。 ⑷開爐云、今朝開 レ 爐向 レ 火、諸方説 レ 禅浩浩、霊山一字也無、普請大家証拠。既是一字也無、又証 二 拠箇什麼 一。蘇 眥 蘇 眥 。 開 爐 に 云 く、 「 今 朝、 爐 を 開 け て 火 に 向 い、 諸 方 に て は 禅 を 説 く こ と 浩 浩 た り。 霊 山 は 一 字 も 也 た 無 し、 普 く 請 う、 大 家 証拠せよ。既に是れ一字も也た無し、又た箇の什麼をか証拠せん。蘇 眥 蘇 眥 」と。 ⑸三月一日云、一即三三即一、碧眼胡僧数不 レ 出、少林面壁九年、大似 二 抱 レ 贓叫 一レ 屈。屈屈。黄檗樹頭、討 二 甚木蜜 一。 三 月 一 日 に 云 く、 「 一 は 即 ち 三、 三 は 即 ち 一、 碧 眼 の 胡 僧 も 数 え 出 だ せ ず。 少 林 に て 面 壁 九 年 し、 大 い に 贓 を 抱 き て 屈 と 叫 ぶに似たり。屈、屈。黄檗樹頭、甚の木蜜をか討ねん」と。 ⑹挙徳山入 レ 門便棒。頌云、倒 レ 嶽傾 レ 湫与麼来、小根魔子謾疑猜、神駒一躍 二 三千界 一、空説門前下馬臺。
笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 四四 挙 す、 徳 山 は 門 に 入 ら ば 便 ち 棒 す。 頌 に 云 く、 「 嶽 を 倒 し 湫 を 傾 け て 与 麼 に 来 た れ ば、 小 根 の 魔 子、 謾 り に 疑 猜 す。 神 駒 は一たび三千界に躍ぶに、空しく説く、門前の下馬臺」と。 ⑺ 挙 僧 問 睦 州 一、 以 二 一 重 一 去 二 一 重 一、 即 不 レ 問、 不 下 以 二 一 重 一 去 中 一 重 上 時 如 何。 州 云、 昨 日 栽 二 茄 子 一、 今 日 種 二 冬 瓜 一。 師 頌 云、 昨 日栽 二 茄子 一、今日種 二 冬瓜 一、 一声河満子、和 レ 月落 二 誰家 一。 挙 す、 僧、 睦 州 に 問 う、 「 一 重 を 以 て 一 重 を 去 る は 即 ち 問 わ ず、 一 重 を 以 て 一 重 を 去 ら ざ る 時 は 如 何 ん 」 と。 州 云 く、 「 昨 日 は 茄 子 を 栽 え、 今 日 は 冬 瓜 を 種 く 」 と。 師、 頌 し て 云 く、 「 昨 日 は 茄 子 を 栽 え、 今 日 は 冬 瓜 を 種 く、 一 声 の 河 満 子、 月 に和して誰が家にか落つ」と。 このように『笑菴悟和尚語』には少ないながらも七回に及ぶ上堂などが収められている。⑴上堂は、青原下の薬山惟 儼 ( 弘 道 大 師、 七 四 五 ─ 八 二 八 ) に 因 む「 薬 山 陞 座 」 の 古 則 を 拈 提 し た も の で あ り、 文 中 で 了 悟 は「 祥 符 門 下 」 と 自 称 し ているから、 衢州の祥符寺に住持していたときになした説示であることが知られる。⑵上堂は、 了悟が夢に見た孔子 (孔 夫 子 ) と 老 子 ( 李 老 君 ) と 釈 迦 牟 尼 仏 ( 黄 面 老 子 ) の 三 聖 人 と 交 わ し た 問 答 に 因 む 面 白 い 内 容 の 上 堂 で あ る が、 そ の 中 で 了悟は「大宋国内、崑山県中、資福刹竿頭上」と述べていることから、これは蘇州崑山県治東南の薦厳資福禅寺の住持 としてなした上堂であることが知ら れ ) (1 ( 、 善法堂とはおそらく資福寺内に存した法堂の名称であろう。 ⑶上堂は、 最初に 「今 朝 七 月 半 ば、 叢 林 は 解 制 忙 し 」 と 述 べ て い る こ と か ら、 七 月 一 五 日 の 解 制 ( 解 夏 ) に な さ れ た も の で あ る が、 こ の と き 了 悟 が い ず れ の 禅 寺 に 住 持 し て い た の か は 明 確 で な い。 ⑷ 開 爐 上 堂 は、 一 〇 月 一 日 の 開 爐 日 に な さ れ た も の で あ る が、 了悟は自ら「霊山、一字も也た無し」と述べていることから、これは杭州の霊隠寺に住持していたときになしたことが 判明する。 ⑸三月一日の上堂は、 何時なされた上堂かは定かでないが、 年時順に配列されているとすれば、 霊隠寺で行なっ た上堂と見てよいであろう。一方、⑹と⑺の説示は、実際には上堂と解するよりは古則を頌賛した頌古に属するもので あ っ た と 見 る べ き で あ ろ う。 『 枯 崖 和 尚 漫 録 』 に よ れ ば、 ⑹ は 青 原 下 の 徳 山 宣 鑑 に ち な む「 徳 山 棒 」 の 古 則 に 対 す る 頌 古であって、 すでに触れたごとくかつて了悟が悟道した際に本師の密庵咸傑に呈した一首を載せたものにほかならない。 また⑺は南嶽下の睦州道蹤 (道明、 陳尊宿 ・ 陳蒲鞋) にちなむ「睦州一重」の古則に対する頌古であっ て ) (1 ( 、『増集続伝燈録』 の了悟の章に、ただ一つ「上堂」というかたちで載る内容と同一である点は注目される。 さらに『笑菴悟和尚語』には五回の上堂語と二首の頌古につづいて、わずか一首ながら仏祖賛として、
笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 四五 讃 二 政黄牛 一。 清曠情懐世莫 レ 覊、放心異類楽 二 斯時 一、 千山万水無窮意、只許灘頭白鷺知。 政黄牛を讃す。 清曠たる情懐、 世に覊する莫し、 放心の異類、 斯の時を楽しむ。千山万水、 無窮の意、 只だ許す灘頭の白鷺の知ることを。 と い う 祖 賛 が 収 め ら れ て い る。 こ れ は 杭 州 臨 安 県 の 功 臣 山 浄 土 禅 院 に 住 持 し た 法 眼 宗 の 浄 土 惟 政 ( 煥 然、 政 黄 牛、 九 八 六 ─ 一 〇 四 九 ) を 賛 嘆 し た も の で あ り、 惟 政 は 杭 州 知 事 の 蒋 堂 ( 字 は 希 魯、 号 は 遂 翁、 九 八 〇 ─ 一 〇 五 四 ) な ど と 交 遊 をなし、蒋堂のもとを訪問するのに当たって常に黄色い牛に股がって出かけたことから、世に「政黄牛」と称されたと 伝えられる。 したがって、了悟は衢州西安県の祥符禅寺に開堂出世した後、蘇州呉県の霊巌禅寺や蘇州崑山県の資福禅寺などの住 持 を 経 て、 最 晩 年 に 杭 州 銭 塘 県 の 北 山 景 徳 霊 隠 禅 寺 に 陞 住 し て い る こ と に な ろ う。 お そ ら く 了 悟 に は『 笑 菴 悟 和 尚 語 』 のもとになった『笑菴和尚語録』といった表題の語録が編集されていたものと見られ、これを抜粋したのが『続開古尊 宿 語 要 』 に 収 め ら れ た『 笑 菴 悟 和 尚 語 』 で あ っ た も の と 推 測 さ れ る。 『 笑 菴 和 尚 語 録 』 を 編 集 し た 門 人 と し て は、 い う までもなく唯一の法嗣であった晦巌大光のほかに該当する禅者は存しないであろう。 一 方、 上 海 の 華 東 師 範 大 学 出 版 社 よ り 一 九 八 七 年 一 〇 月 に『 船 子 和 尚 撥 棹 歌 』 ( 上 海 文 献 叢 書 ) 二 巻 一 冊 が 影 印 さ れ て い る。 こ れ は 薬 山 下 の 船 子 徳 誠 ( 華 亭 和 尚 ) の 詩 偈 三 九 首 を 収 録 し て 元 代 に 重 刊 し た も の で あ る が、 宋 元 代 に お い て 船 子 徳 誠 に 対 す る 評 価 が き わ め て 高 ま っ て い た こ と を 伝 え る 禅 籍 で あ る。 『 船 子 和 尚 撥 棹 歌 』 巻 下「 諸 祖 讃 頌 」 に は、 実 に七七人の禅僧 ・ 教僧および在俗その他の人々が詠じた賛頌が載せられているが、その中に「咲菴悟禅師」の作として、 薬山毒薬灌 二 喉嚨 一、薬発無 レ 端累 二 道吾 一、掩 レ 耳直饒親薦得、鉄舩翻覆錯名模。 薬 山 の 毒 薬、 喉 嚨 に 灌 ぎ、 薬 発 し て 端 無 く も 道 吾 を 累 わ す。 耳 を 掩 い て 直 饒 い 親 し く 薦 得 す る も、 鉄 舩 は 翻 覆 し て 錯 っ て 名模す。 という一首が載せられている。了悟が唐代に活躍した船子徳誠に対する祖賛を残していることが知られ る ) (1 ( 。この仏祖賛 もおそらく『笑菴和尚語録』に収められていたものから抜粋されているのであろう。 また『禅宗頌古聯珠通集』巻三四「韶州雲門文偃禅師」の章の増收部分には、
笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 四六 雲門上堂、因 レ 聞 二 鐘声 一 乃曰、世界与麼広闊、為 二 甚麼 一 向 二 鐘声 一 披 二 七条 一。僧無 レ 語。師曰、七里灘頭多 二 蛤子 一。 という古則に対して、了悟が詠じた頌古 (続蔵一一五 ・ 二一三c) として、 試問鐘声披 二 七条 一、軽軽撃著無明発。買 二 来餬餠 一 是饅頭、苦哉観世音菩薩。 〈笑菴悟〉 試 み に 問 う、 鐘 声 に て 七 条 を 披 る こ と を、 軽 軽 に 撃 著 す れ ば 無 明 発 す。 餬 餠 を 買 い 来 た る に 是 れ 饅 頭 な り、 苦 な る か な、 観世音菩薩。 と い う 一 頌 が 載 せ ら れ て い る。 こ れ は『 無 門 関 』 第 一 六 則「 鐘 声 七 条 」 の 古 則 と し て 知 ら れ る 雲 門 宗 祖 の 雲 門 文 偃 ( 匡 真禅師、八六四─九四九) の上堂に対して、了悟が詠じた頌古である。
晦巌大光について
笑庵了悟には法を嗣いだ門人として、わずかに晦巌大光という禅者の名のみが伝えられている。しかしながら、大光 についてはその足跡がほとんど辿れず、如何なる活動をなしたのか、詳しい行実が何ら解明されていない。当時、大光 はそれなりの活動をなしていたはずにも拘わらず、なぜ禅宗燈史に名すら記されずに終わったのか、当時の諸禅者の語 録・詩文集などにも関連した記事がきわめて断片的にしか見られない。そうした理由については明確でないが、大光が 入宋求法した日本僧の道元とも関わり深い禅者であったことから、つぎに現時点で判明し得る大光の事跡を一通りまと めてみることにした い ) (1 ( 。 この人は法諱を大光といい、道号を晦巌または晦岩あるいは晦嵓と称している。法諱の大光とは大光明のこと、大い な る 光 の 意 で あ り、 お そ ら く 本 人 の 器 量 な り 度 量 の 広 さ な ど を 踏 ま え た 命 名 で あ っ た も の と 見 ら れ る。 ち な み に「 大 」 の 字 を 系 字 と し て 用 い た 禅 者 と し て、 古 く は 南 嶽 下 の 長 慶 大 安 ( 懶 安、 延 聖 大 師、 円 智 大 師、 七 九 三 ─ 八 八 三 ) や 青 原 下 の 投 子 大 同 ( 慈 済 大 師、 八 一 九 ─ 九 一 四 ) な ど が あ り、 大 光 と 同 時 代 に は『 十 牛 図 』 に 頌 を 付 し た 楊 岐 派 の 壊 衲 大 璉 が お り、 若 干 な が ら 後 輩 に は『 物 初 賸 語 』 二 五 巻 で 名 高 い 大 慧 派 の 物 初 大 観 ( 一 二 〇 一 ─ 一 二 六 八 ) の 存 在 が 知 ら れ て い る。 ま た 元 代 に は『 蒲 室 集 』 一 五 巻 で 名 高 い 大 慧 派 の 笑 隠 大 訢 ( 蒲 室、 広 智 全 悟 大 禅 師、 一 二 八 四 ─ 一 三 四 四 ) が お り、 曹 洞 宗 宏 智 派 に 無 印 大 証 ( 自 鏡 叟、 仏 日 円 明 慧 辯 禅 師、 一 二 九 七 ─ 一 三 六 一 ) が 存 し て い る。 日 本 禅 林 に も 形 相 の 厳 し さ で 知 ら れ る 聖 一 派 の 癡 兀 大 慧 ( 仏 通 禅 師、 一 二 二 九 ─ 一 三 一 二 ) が お り、 『 大 智 禅 師 偈 頌 』 で 名 高 い 曹 洞 宗 明 峰 派 の 祇 陀 大 智笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 四七 ( 一 二 九 〇 ─ 一 三 六 六 ) な ど が 存 し て い る。 「 大 」 の 字 を 道 号 や 禅 師 号 の 上 字 に 使 用 す る 例 は き わ め て 多 い が、 法 諱 の 上 字に使用する例は比較的に少ないといえよう。 一方、道号である晦巌の「晦」とは眩ますとか暗いといった意であり、晦光で光を眩ます、光を発せずに深く身を隠 すことである。北宋末期から南宋代にかけて江南禅林において「晦」の字を道号に用いた禅者は比較的に多い。北宋末 期には黄龍派祖の黄龍慧南 (普覚禅師、 一〇〇二─一〇六九) の高弟に晦堂祖心 (宝覚禅師、 一〇二五─一一〇〇) がおり、 こ の 人 は 洪 州 ( 江 西 省 ) 義 寧 県 の 黄 龍 山 崇 恩 禅 寺 に 住 持 し、 そ の 流 れ は や が て 日 本 僧 の 明 庵 栄 西 ( 千 光 法 師、 一 一 四 一 ─ 一 二 一 五 ) に よ っ て 日 本 禅 林 に 導 入 さ れ て 日 本 の 黄 龍 派 ( 千 光 派 ) を 形 成 し て い る。 南 宋 初 期 に は 楊 岐 派 ( 大 慧 派 祖 ) の 大 慧 宗 杲 の 高 弟 に 晦 庵 彌 光 ( 禅 状 元・ 光 状 元、? ─ 一 一 五 五 ) と い う 禅 者 が 存 し て お り、 こ の 人 は 泉 州 ( 福 建 省 ) 南 安 県 二 十 一 都 の 教 忠 顕 慶 禅 寺 に 化 導 を 敷 い て い る。 ま た 楊 岐 派 の 龍 門 清 遠 ( 仏 眼 禅 師、 一 〇 六 七 ─ 一 一 二 一 ) の 法 孫 に も 晦 庵 慧 光 ( 恵 光 と も ) と い う 禅 者 が 存 し、 こ の 人 は 信 州 ( 江 西 省 ) 弋 陽 県 玉 亭 郷 の 亀 峰 山 瑞 相 禅 寺 や 泉 州 晋 江 県 の 法 石 禅 寺 に住持しており、 慧光の法を嗣いだ蒙庵元聡 (蒙叟、 仏智禅師、 一一三六─一二〇九) のもとには日本より我禅房俊芿 (不 可 棄 法 師、 一 一 六 六 ─ 一 二 二 七 ) が 入 宋 し て 参 禅 し て い る。 晦 庵 彌 光 や 晦 庵 慧 光 の 場 合、 道 号 の「 晦 庵 」 と 法 諱 の 下 字 で ある「光」との関係が大光と同じ発想に基づいているのは興味深い。十二世紀後半の南宋中期に至っても『宗門聯燈会 要 』 三 〇 巻 を 編 纂 し た 大 慧 派 の 晦 翁 悟 明 ( 真 懶 ) や『 人 天 眼 目 』 六 巻 を 編 纂 し た 嗣 承 不 詳 の 晦 巌 智 昭 も 存 し て い る。 大 光 よ り 若 干 な が ら 早 く 天 台 宗 に も 晦 菴 慧 明 ( 無 晦、? ─ 一 一 九 九 ) の 存 在 が 知 ら れ て い る。 ま た 大 光 と 同 世 代 に は 大 慧 下の遯庵宗演の法を嗣いだ晦堂法明がおり、この人は大光よりも後に明州阿育王山の第三六世になっている。 大光と同じ南宋中期以降に至って同じく晦巌の道号を用いた禅者ないし教僧として、十三世紀の禅者として松源派に 松 源 崇 嶽 の 法 を 嗣 い だ 晦 巌 □ 暉 が お り ) (1 ( 、 教 僧 と し て 天 台 宗 の 晦 巌 法 照 ( 仏 光 法 師、 普 通 法 師、 一 一 八 五 ─ 一 二 七 三 ) が 存 している。とくに法照に関してはしばしば「晦巌」の表記で大光との間で混乱が認められることから、本稿でも随所で 問題となる存在であ る ) (1 ( 。 大光がいずれの地の出身で如何なる俗姓であったのかについては何も知られていないが、 後に詳しく触れるごとく 『江 湖風月集』巻上に「西蜀晦谷光和尚」とある晦谷□光という禅者が晦巌大光のことを指すのであれば、大光は西蜀すな わち四川省出身の蜀僧であったことになろう。ただし、晦谷□光については破庵派無準下の無準師範の法を嗣いだ晦谷
笑庵了悟と晦巌大光(佐藤) 四八 □彰のことを指している可能性も存している。晦谷光が晦谷彰ではなく晦巌大光のことを指し、大光が西蜀出身の僧で あったとすれば、後に示すごとく大光のもとに阿育王山の老典座や成桂知客など蜀僧が多く参集していたことや、同じ 蜀僧である無準師範が大光と親しい交友を持ったことなども頷けるのである。 大光が如何なる因縁で了悟の門人となったのか、その間の事情についても何ら定かでないが、あるいは大光はもとも と師翁の密庵咸傑の高名を聞いて咸傑の晩年に門下に投じ、咸傑の示寂して後に法兄の了悟に随侍することになったの かも知れない。大光のほかに了悟の法を嗣いだ門人の名は伝えられていないことから、了悟としては大光ひとりを接化 育 成 す る こ と に 生 涯 を 賭 け た 感 が あ ろ う。 す で に 触 れ た ご と く 了 悟 に は『 続 開 古 尊 宿 語 要 』 第 四 集 に『 笑 菴 悟 和 尚 語 』 が収められているから、もともとこの人には『笑菴和尚語録』といった表題のまとまった語録が編集され、それを抜粋 したのが 『笑菴悟和尚語』 であったものと推測される。 『笑菴和尚語録』 を中心となって編集したであろう門人については、 法嗣である大光のほかに妥当な人物が考えられず、 おそらく大光は侍者として生前の了悟が語ったことばをまとめ、 『笑 菴和尚語録』として編集刊行しているものであろう。ただし、大光が如何なる機縁で了悟の法を嗣いだのか、その間の 事跡が何ら伝えられていないのが惜しまれる。