ロシア帝政期南東コーカサスの村落住民 塩 野 﨑 信 也
はじめに
カスピ海と黒海との間に位置するコーカサス地方,その南東部(以下, 南 東コーカサス と呼称する)には,現在,アゼルバイジャン共和国が存在して いる。この国の住民の大半を占め,隣接するイラン・イスラム共和国の北西部 にも多数居住するのが,テュルク系に属する民族であるアゼルバイジャン人で ある。2つの国にまたがって分布する彼らは,大半がシーア派のイスラーム教 徒であり,文化的・言語的な共通点から,一体の民族と認識されている。
元来,南東コーカサスは, 歴史的イラン などと呼称される1つの巨大な 文化圏に属し,政治的にも文化的にも,イラン高原との結び付きが強かった。
とりわけ,イラン高原にサファヴィー朝(1501‑1736)が建国されると,南東 コーカサスもその支配下に置かれ,住民のシーア派化が進展していった。こう いった歴史的な経緯は,現在のアゼルバイジャン人の大半がシーア派に属する という事実と短絡的に結び付けられてきたきらいがある。実際,現在の通説と なっているのは,サファヴィー朝による統合をアゼルバイジャン人の民族形成 の画期とする見方である[e.g. Altstadt 1992: 5; Shaffer 2002: 20]。しかし,
実のところ,彼らの民族形成についてより重要な意味を持つのは,19世紀に起 こったロシア帝国による南東コーカサス征服なのである。筆者は旧稿[塩野﨑 2017]において,その結果生じたイランとの政治的な断絶こそが,彼らの民族 意識形成の端緒であったと論じた。
ただし,人々の生活や文化などの点でイランとの断絶が生じたか否かに関し ては,また別に考えなければならない。ロシア帝政期には,それまでのイラン 的な制度や文化のロシア化が進行したものと思われ,それにともなって住民た ちの意識にも大きな変化が生じたと推測される。一方で,ロシア帝政期南東コ ーカサスの住民が,かなり後の時代まで イラン人意識 を保持していたこと
も旧稿において指摘したところであり,前時代のイラン的,あるいはイスラー ム的な制度や慣習がかなりの程度保存されていた可能性も考えられるのである。
その変化(断絶)あるいは連続(保存)の実態を知るためには,ロシア帝政 期における南東コーカサス住民の社会生活を具体的に知る必要があろう。それ に関連する研究としては,まず,ミリマン氏による古典的研究である 19〜20 世紀初頭におけるアゼルバイジャンの政治体制 が挙げられる[
1966]。イスマユロフ氏は,ロシア語の文書史料なども数多く用いながら,ミ リマン氏の成果をより精緻なものとした[I・smayılov 2004; I・smayılov 2009]。
しかし,これらはいずれも制度史の研究であって,住民の実際の生活に関する 言及は,当然ながら少ない。グリエヴァ氏による人類学の手法に基づく研究成 果である 19〜20世紀におけるバクー市住民の家族と家族生活 もあるが,内 容が充実しているとは言いがたい[Quliyeva 2011]。
このような研究状況に一石を投じうるのが,アゼルバイジャン共和国国立歴 史文書館 (Az rbaycan Respublikasının Dovl t Tarix Arxivi)の第290フォン ドおよび第291フォンドにかなりの点数保管されている 教区簿冊(
, metrık d ft ri) と呼ばれる史料群である。ロシア帝政期に作成され たこれらの文書は,当時の人々の出生,結婚,死亡などを詳細に記録したもの で,西ヨーロッパにおける parish registers,registres paroissaiaux などに あたるものである。これを分析することで,当時の人々がどのような生活を営 み,どのような生涯を送ったのかを,かなりの程度知ることができると思われ る。しかし,管見の限りではあるが,そのような研究は現地研究者も含めて誰 も行っていない。
本稿は,これまでほとんど活用されてこなかった教区簿冊を利用することで,
ロシア帝政期の南東コーカサス住民の生活を復元しようとするものである。特 に,村落部の住民に焦点があてられる。都市社会に比べて研究蓄積が圧倒的に 不足しているというのが,村落部を分析対象とする理由の1つである。しかし,
より大きな理由は,都市のような大きな社会を分析するのは,教区簿冊の残存 状況(第1章第3節で述べる)からも,筆者自身の収集状況からも困難である,
という点にある。また,本稿は,大規模かつ系統的な調査と統計的な解析に基 づいた歴史人口学の研究ではない。本稿が目指すところは,筆者が入手したい くつかの教区簿冊の記録を分析することで,当時の村落住民の生涯や,彼らの 生活の様子を可能な限り明らかとすることにある。
なお,本稿で用いる年月日の表記は,特に断りのない限り,ロシア帝国で用
いられていたユリウス暦のものである。当時の南東コーカサスで用いられてい たアラビア文字を用いたテュルク語(以下,この言語を 古典アゼルバイジャ ン語 と呼称する)の転写に関しては,拙著[塩野﨑 2017]で用いたものを 踏襲している。また,この当時の南東コーカサスの住民の名前は,一般的に本 人の名と父親の名(父称)から構成された。例えば,アリー・ムスタファー=
オグル(ʻ lıMus・t・afa-og︶lı[=og︶lu])という人名は,ムスタファーの息子アリ ーを意味する。本稿では,本文で住民らの名前に言及する際は本人の名のみを 記し,必要に応じて 何某の息子 を加える。表などにおいては,ローマ字転 写を用いる。
第1章 ロシア帝政期の南東コーカサス
1. ロシア帝国と南東コーカサス
南東コーカサスを含む広大な領域を支配したサファヴィー朝が18世紀前半に 滅亡すると,3つの勢力による南東コーカサス争奪戦が始まった。北からロシ ア帝国,西からオスマン帝国,そして南からはアフシャール朝(1736‑1796)
やガージャール朝(1796‑1925)といったサファヴィー朝の後継政権である。
この争いは,最終的にはロシアの勝利で終わった。第1次イラン・ロシア戦争
(1804‑1813)の講和条約であるゴレスターン条約によって,南東コーカサス が正式にロシア領となったためである。続く第2次イラン・ロシア戦争(1826
‑1828)にも勝利したロシアは,自身の南東コーカサス領有を改めて認めさせ るとともに,エレヴァン,ナヒチェヴァンなども獲得した。これによって,南 コーカサス(ザカフカース)の全域がロシア領となったのである。
当初は軍政下に置かれた南東コーカサスであったが,1840年にザカフカース 地方統治規則が制定されると,ロシア中央に準じた統治制度が導入された。
1844年には,カフカース総督府( )が設置される。
カフカース総督は,南東コーカサスを含むカフカース地方( ︶ ︶) 全域の民政・軍政の全権を掌握するものとされ,中央省庁から独立した極めて 強い権限を有した。総督制は1881年に一旦廃止されるが,1905年に復活してい る。なお,総督府が置かれたのは,カフカース地方の要衝であるティフリス
(現在のジョージアの首都トビリシ)であった。ロシア帝国による南東コーカ サス統治は,1917年のロシア革命まで続くこととなる。
ロシア帝国統治下のコーカサスというと,北コーカサスの山岳部を中心とし た激しい抵抗運動,いわゆる カフカース戦争 (1817‑1864)のイメージが強
いかもしれない。しかし,南東コーカサスは,帝政時代を通じて,基本的に平 穏に統治されていた。当時の南東コーカサスの住民は,大半がテュルク語(ア ゼルバイジャン語)を話すイスラーム教徒で,その中にはスンナ派もシーア派 もいた。その正確な人口比は明らかではないが,シーア派がやや優勢,という 程度であったらしい[塩野崎 2017: 202]。なお,スンナ派の中では,ヴォル ガ・ウラル地域や中央アジア,あるいはオスマン帝国と同様,ハナフィー学派 が主流であった。国民の大半がシーア派である現在のアゼルバイジャン共和国 とは,かなり状況が異なっていたのである。
さて,ロシア帝国による南東コーカサス統治の1つの画期となったのが,
1872年の ザカフカース・シーア派ムスリム聖職者統治規程(
) 及び ザカフカース・スンナ派ムスリム聖職者統治規程 の公布で ある[ : . 2, . 47, . 1, 50680]。なお,これら2つの規程は,一部 の職位名などを除いて内容は全く同一であるため,以下,両者を合わせて
1872年規程 と呼称する。
1872年規程は,南コーカサスのムスリム聖職者(=ウラマー)の管理・統制 を目的とし,彼らをピラミッド状の階層的な組織に編成した。正教会の組織や オスマン帝国のイルミイェ制度が想起されるが,より直接的には,それらを参 考に作られたヴォルガ・ウラル地域の聖職者組織がモデルになっていると思わ れる[cf. 磯貝 2015: 2‑5]。
1872年規程が定める聖職者組織は,4階層からなる。まず,宗派ごとに,在 ティフリスの最高機関である 宗務局( ) が設置された。
宗務局の下には,県 ( )ごとに 県メジュリス( ︶ ) が置かれる。なお,1872年当時のロシア領ザカフカースは,ティフリス,クタ イシ,エレヴァン,エリザヴェートポリ,バクーという5つの県から構成され たが,このうちイスラーム教徒の人口が少ないティフリスとクタイシには,2 県で1つの県メジュリスが設置された。4つの県メジュリスそれぞれの下には,
郡( )ご と に カ ー デ ィ ー( ︶),さ ら に そ の 下 に ム ッ ラ ー
( ) が置かれる。
2. モスク教区とムッラー
1872年規程が定めたムスリム聖職者の職位のうち,本稿のテーマと最も密接 に関連するのがムッラーである。ムッラーは, モスク教区聖職者(
( ) (1)) とも呼ばれており,イスラーム世界一般における 集会モスクのイマーム(導師)に該当すると考えて良い。実際,教区簿冊の中 な ど で は, 集 会 モ ス ク の ム ッ ラ ー(cumʻ m scidi mullası, m scid-i camaʻatın mullası) という呼称も使われている。
1872年規程は,このムッラーを モスク教区共同体( ( )
)(以下, モスク教区 )ごとに1名設置すると定める。モスク教区 の規模は80〜90戸と定められ,その具体的な割当ては県知事によって決定され る(第25条)。村落部においては,1つの村がそのまま1つのモスク教区とさ れることが多いようだが,大規模な集落には複数のモスク教区が置かれること もある。逆に規模が小さい集落やイスラーム教徒の人口が少ない集落の場合は,
近隣のいくつかをまとめて1つのモスク教区とされたようである。
ムッラーは,該当するモスク教区の住民によって選ばれた後,県知事によっ て承認される。この選挙の施行規則は,カフカース総督の指示による(第24 条)。ただし,ムッラーに就任する者は,いくつかの要件を満たしている必要
図1 1868年における行政区分 (一点鎖線は国境,点線は県境・州境を示す)
[http://www.iriston.com/books/cuciev ‑ etno atlas/maps/map07.jpg を利用して筆者が作成]
があった。まず,ロシア帝国の臣民で,22歳以上であること。次に,職務に必 要な知識に関する試験の合格証明書を有していること。なお,この試験の規 則・条件は,カフカース総督の指示によって定められる。また,破産者や禁治 産者,犯罪歴がある者は,ムッラーになることができない(第12・13条)。
ムッラーの職務は,管轄地域のモスクや宗教学校の監督,日々の礼拝や宗教 儀礼の挙行,そして教区簿冊の管理である(第11条)。ムッラーが挙行した宗 教儀礼にどのようなものがあったのかは,後の章で触れる。これらのムッラー の業務は,直接の上役たるカーディーによって監督される(第51条)。
3. 教区簿冊
さて,ムッラーの業務の1つとして作成された教区簿冊が,本稿の主要な史 料である。教区簿冊は,実際には出生,結婚,離婚,死亡に関する帳簿が別々 に作られた。本稿では,これらをそれぞれ 出生簿 結婚簿 などと呼称す る。1872年規程は明記していないが,作成された各帳簿は,ある程度がファイ ルにまとめられた上で,最終的にはそれぞれの宗派の宗務局において保管され たようだ。
これらのファイルは,いずれかの時点でバクー市の文書館に移されたものら しい。情報が不足していて詳細は不明だが,おそらく,アゼルバイジャン人民 共和国を経てアゼルバイジャン・ソヴィエト社会主義共和国が成立する20世紀 前半に移管が行われたと思われる。現在の所蔵は,アゼルバイジャン国立歴史 文書館の第290フォンド(ザカフカース・シーア派ムスリム宗務局)と第291フ ォンド(ザカフカース・スンナ派ムスリム宗務局)となっている。前者は 1872〜1919年に作成された3910点のファイル,後者は1872〜1918年に作成され た5206点のファイルを保管するが,そのうちどの程度をこれら教区簿冊が占め るのかは,筆者は把握していない。
さて,4種ある教区簿冊のうち,離婚簿は残存数が極端に少ないようだ(こ の件に関しては,第3章第3節で再び言及する)。そこで,離婚簿は,本稿の 分析対象から除外する。そして,残りの3種の帳簿に関しても,特定のモスク 教区の特定の年におけるそれらが全てまとまった形で保管されていることは非 常に少ない。ファイルの作成方針にも,不明瞭な点が多い。教区簿冊の保存状 況は,全体的に極めてまばらであると言える。
教区簿冊は,基本的に古典アゼルバイジャン語で書かれる。ムッラーより上 位の聖職者(組織),すなわちカーディーや県メジュリス,宗務局が互いのや
りとりを基本的にペルシア語で行っていたのとは対照的である。書式や内容に ついては,ある程度の裁量が許されていたようであり,モスク教区や年によっ て,教区簿冊の情報量には密度の差が大きい。
4. モスク教区の規模と人口構成
ここで,モスク教区の実際の規模と人口構成について考えてみたい。前節で も述べたように,教区簿冊は住民の出生,結婚,死亡といった 変化 につい て記録するものであり,ある特定の時点におけるモスク教区の人口のような,
静的な分析には適さない。それを補うのがシーア派ムスリム宗務局で作成され 保管されていたファイルの1つに綴じられている,ティキャンル(Tikanlu [=Tikanlı])という村=モスク教区に関する特殊な帳簿である[ARDTA: f.
290, siy. 1, is 292. 36‑50]。ティキャンル村はエリザヴェートポリ県ヌハ郡に 属し,ヌハ市(別名シェキ市)からシャマフ市を経てバクー市へと至る街道か らコーカサス山脈中に北へと分け入った場所に位置する。現在も,同名の村が 残っている(図2参照)(2)。
図2 関連村落の位置 (一点鎖線は県境・州境,点線は郡境を示す)
[[ ]
( , 1903),及び Az rbaycan Respublikasıavtomobil yolları(Bakı, 2009)を利用して筆者が作成]
1881年に作成されたこの帳簿は,冒頭に エリザヴェートポリ県ヌハ郡ティ キャンル村の集会モスクに属するムスリムたちの一覧表(siyah -ʼi[=siyahı- yı]ʻumumiyy ) とあり,別の箇所では 人別帳(n fs d ft ri) と呼ばれて いる[ARDTA:f. 290, siy. 1, is 292. 36b, 50b]。この帳簿がどのような目的 で作成されたものかは不明だが,1881年時点でのモスク教区の全住民が記録さ れたものと考えて良いだろう。以下,この史料を 人別帳 と呼ぶ。
ティキャンル村の人別帳は,このモスク教区のムッラーである,ムッラー・
ハリール(Mulla X lıl)なる人物によって作成され,県メジュリスの協議員
( , ʻuzv)
(3)
であるイスマーイール・エフェンディ(I・smaʻıl f ndi)によっ て照査されたものらしい。なお,この時期の南東コーカサスにおいて, エフ ェンディ( f ndi, ︶) は,スンナ派の聖職者に付される称号であった(4)。 そして,実際,筆者の手許にある文書からも,少なくとも1874年から1875年に かけて,同名の人物がスンナ派のエリザヴェートポリ県メジュリスの協議員で あったことが分かる[e.g. ARDTA: f. 291, siy. 1, is 24. 1b, 10]。以上を考 え合わせると,このティキャンルはスンナ派のモスク教区であったと思われる が,一方で,何故その人別帳がシーア派の宗務局で保管されていたのかという 疑問が残る。
さて,ティキャンル村の人別帳には,ムッラーの一家も含めて,計91戸の 世帯 が記録されている。80〜90戸をもって1つのモスク教区とする,とい う1872年規程にほぼ準じていると言って良いだろう。この 世帯 の定義は実 のところ不詳であるが,同一の家屋,または同一の塀の中にある複数の家屋か ら構成される住居で暮らす人々,といったところであろう。あるいは,同一生 計にある人々を意味する可能性もある。兄弟と推測される人物が別々の 世 帯 を営んでいる例が複数存在することから,少なくとも 世帯 = 家族 あるいは 親族 ではない。各世帯の筆頭には,その世帯で最も年長の男性の 名前と父称,生年が記される。本稿では,この筆頭者を,仮に 世帯主 と呼 ぶ。他の世帯構成者に関しては,名前と世帯主との続柄,生年が記される。
上記の記載項目に加えて, 備考 とも言うべき欄に記される情報がある。
こ こ に 書 か れ る 文 句 は 定 型 化 し て お り,① 嫁 に 行 っ た( r gedupdur [=gedibdir]),② ○○で暮らしている ,③ 双子として生まれた の3つ である。③に関しては,問題ないだろう。②に関しては, ムフルゴヴァグ
(Mıxlıqovaq)で暮らしている と記された女性が3人おり,いずれもティ キャンル村在住の男性の妻にあたる。ムフルゴヴァグ村の位置は図2の通りで,
ティキャンル村の隣村である。つまり,彼女らは,何らかの事情でムフルゴヴ ァグ村の実家にて別居中の妻たちと考えられる。
残る①に該当するのは84人おり,基本的に世帯主の姉妹,あるいは娘にあた る人物である。この 嫁に行った という文言は,2つの意味で解釈しうる。
1つは,これは 嫁に行ったことがある ,すなわち,その女性の結婚経験を 示しており,死別にせよ離婚にせよ,夫と別れて出戻ってきている(あるいは 別居中の)者を指すという解釈である。もう1つは,その人物が現在誰かと婚 姻状態にあり,実際には世帯主と生活をともにしていないという解釈である。
どちらが正しいかは確定しがたいが,おそらくは後者であろう。少なくとも現 代アゼルバイジャン語の語感では, r gedibdirはその婚姻関係が現在も続い ているととらえられること(5),さらに, 嫁に行った と記された女性と同名か つ同年齢の 妻 が36人記録されていることが,その理由である。これらは,
誰かの 既に嫁いだ姉妹╱娘 と誰かの 妻 を重複して記録したものと考え られる。と言うのも,全36組の同年生まれの 妻 − 姉妹╱娘 の組み合わ せ中,10組は同名の女性が村にその2人のみという珍しい名前を持っているの である。数百人の住民のセットの中に,このような組み合わせが偶然に10組生 じるとは,やはり考えにくいだろう(6)。
以上から,人別帳に記載されている656人から①②を除いた569人が,当時の ティキャンル村=モスク教区の人口と推定される。その場合,世帯の構成人数 は,平均6.3人となる。ロシア中央における正教教区が男子農民500人ほどで構 成されることを考えると,モスク教区はその半分程度の規模の共同体であると 言える[cf. 竹中1999: 175]。
また,ティキャンル村の人口を年齢層別に集計したものが,図3である。全 体的に,住民の年齢が上がるに従って徐々に人口が減少するという右下がりの グラフとなっているが,21〜25歳と46〜50歳の年齢層は,それぞれすぐ下の年 齢層と比べて大きく人口が減少している。それぞれの境界となる年齢での死亡 率の高さがその背景として想定されよう。ただし,これは数百人程度のデータ を集計したものにすぎず,統計的な有意性には大きな疑問が残るため,現時点 での判断は保留したい。6〜15歳に見られる男女比の著しい偏りも,何らかの 理由があってのことなのか,単なる偶然なのか,現状では判別できない。
第2章 村落住民の生と死
1. アシャグ・ゼイズィト村とジョルル村
ここで,教区簿冊を用いた具体的な分析を行っていこう。主な分析対象とな るのは,1877年のアシャグ・ゼイズィト(Asag︶a[=Asag︶ı]Z yz‑id),1881年 のジョルル(Corlu)という,いずれもエリザヴェートポリ県ヌハ郡に属する 2つの村=モスク教区である[ARDTA: f. 290, siy. 1, is 93. 1‑13; f. 290, siy. 1, is 292. 10‑19]。これらを分析対象とする理由は,離婚簿を除いた3種 の帳簿,すなわち,出生簿,結婚簿,死亡簿が全て揃っていることと,それら に記された情報が比較的詳細であることによる。
アシャグ・ゼイズィト村は, ゼイズィト・グシュラグ(Z yz‑id Qıslaq)
とも呼ばれる。それぞれ 下ゼイズィト , ゼイズィトの冬営地 を意味する 地名であり,元々は遊牧部族が,やや北の山地に位置するユハル・ゼイズィト
(上ゼイズィト)との間で遊牧あるいは移牧といった生業に従事していたので あろう。この時代には,それぞれの村の住民の多くが定住し,生業も農耕に変 化していたと思われる。ユハル・ゼイズィトは現在も同名の村が残っており,
アシャグ・ゼイズィトの方は現在のオルタ・ゼイズィト村,及び隣接するキョ
図3 ティキャンル村の人口構成 (単位:人)
年齢 〜5 〜10 〜15 〜20 〜25 〜30 〜35 〜40 〜45 〜50 〜55 〜60 〜65 66〜 計
男 50 63 62 38 18 13 21 23 18 7 7 3 1 2 326
女 45 31 14 35 30 22 24 18 10 4 3 1 5 1 243
計 95 94 76 73 48 35 45 41 28 11 10 4 6 3 569
ベル・ゼイズィト村に該当すると考えられる(7)。
1877年当時のこの村の村長(k dxuda[=k txuda, k ndxuda])は,イスマ ーイールの息子ゲライ(G ray I・smaʻıl-og︶lı)なる人物であった。彼の年齢は 40歳であったことが,結婚簿から分かる(第3章第2節を参照)。また,村=
モスク教区のム ッ ラ ー は,イ ス ラ ー フ ィ ー ル の 息 子 ム ッ ラ ー・レ ス ー ル
(Mulla R sul I・srafıl-og︶lı)である。
ジョルル村は,ヌハ市とバクー市とを結ぶ街道上に位置する村で,現在も同 名の村が残っている。前章で言及したティキャンル村とも近い。村長はヌー ル・メヘンメトの息子ヒュセイン(Huseyn Nur M h・ mm d-og︶lı),ムッラ ーはミーカーイール・エフェンディの息子アリー・エフェンディ(ʻ lı f ndi Mıkaʼıl f ndi-og︶lı)である。
なお,19世紀後半の南東コーカサスにおける 村長 は,村落における自治 組織の長と定義され,村落共同体の選挙によって選ばれた後,郡長の推挙に基 づいて県知事によって承認されるものと定められていた。その村に居住する25 歳以上の男性の中から選出され,任期は3年間であった[I・smayılov 2009:
134‑136]。
2. 誕生
出生簿に記載される情報は,男女別にその年何人目の新生児か,ユリウス暦 とヒジュラ暦による生年月日,新生児の名前,父母それぞれの名前と年齢と居 住地,証人に関する情報などである。それらをまとめなおしたものが,表1で ある。表には記していないが,新生児の母の新生児の父との関係も明記される。
両村合わせて20組の父母がいるが,いずれの母も,父の 彼のイスラーム法の 上で合法の妻(m nkuh・-ʼi s rʻiyy si) とされている。
新生児の父母の年齢は様々であるが,まずアシャグ・ゼイズィト村のデータ からは,13歳の母親が3人,12歳の母親が1人記録されるなど,非常に若年齢 での出産が目立つ(表1: No.3, 4, 5, 9)。ただし, 12歳 と読んだ箇所は,
数字が若干奇妙な形をしており,筆者の読み間違いという可能性もある。
ジョルル村の記録では,逆に高齢出産の例が目立つ。妻の年齢が40歳,50歳,
果てには60歳という,にわかには信じがたいものも含まれる(表1: No.11, 12, 14)。これらの記録は,どう解釈すべきであろうか。本当にそのような事 実があったのかもしれない。あるいは,父母の年齢が,錯誤にせよ故意にせよ,
何らかの原因で事実とは異なるものが記されているのかもしれない。ここで挙
げた3組の夫婦の年齢はいずれもキリの良い数字となっているが,これは彼ら の正確な年齢が不明となり,大体の数字が記入されたことを示しているように も思われる。しかし,結局のところ,生まれた年が曖昧になるほど高齢の人物 が出産していることとなり,問題の本質が解決したとは言いがたい。
この件は,全ての新生児の父母が イスラーム法の上で合法な 夫婦とされ ていることに関係しているかもしれない。例えば No.14の事例,80歳の夫アス ランと60歳の妻ハージェルの間に生まれたとされる息子アブドゥッセメトは,
実際にはこの夫妻の娘の子であり,その娘は妊娠時,誰とも合法的な婚姻関係 になかったとしたら,どうだろう。 不義の子 であることを隠蔽するために 記録が捏造されたのではないか,ということである。この推測が正しいとすれ ば,実際に出産した女性は周囲にごまかしうるものではないだろうから,出生 簿を作成したムッラーも含めた,村ぐるみの隠蔽・捏造が行われたということ になろう。その場合,彼らが誰に対して,どのような動機によって事実を隠そ うとしたのかが問題となるであろうが,今のところ,筆者はそれに対する明解 な回答を持ち合わせていない。
さて,出生簿には, 新生児の両親もしくは親類の披露による,2名の証人 による義務的な署名,もしくは指押し(barmaq basmaq) なる欄もある。そ こに記される文言は定型化しているが,その書式を,No.1の例を引用するこ とで確認してみよう。
Bu vilad tin h・qıq[t]ini babında s had t eduruk barmaqlarımızı basmaq il Z yz‑id r ʻiyy tl ri ʻAbdulla Qasim-og︶lıv M h・mm d Mus・t・afa-og︶lı bu sahidl rin barmaq basduqları babında s had t yazırım m scid mullasıR sul I・srafıl-og︶lı.
我々,〔アシャグ・〕ゼイズィトの民であるガースィムの息子アブドゥッ ラーとムスタファーの息子メヘンメトは,この出生の事実を,我々の指を 押すことによって証明します。この証人たちが指を押したことに関しては,
私,〔集会〕モスクのムッラーであるイスラーフィールの息子レスールが 証言を書き記します。
両村の結婚簿に記録された証人たちは,いずれも新生児と同村の者たちであ るが,彼らが新生児(の両親)といかなる関係にあったのかは,よく分からな い。上記引用部にあらわれるガースィムの息子アブドゥッラーとムスタファー の息子メヘンメトは,アシャグ・ゼイズィト村の出生簿に,証人として複数回 登場する人物である。特に前者は計5回と,証人となった回数が多い(表1:
No.1‑4, 7)。後者は2回証人として登場する(表1: No.1, 3)。彼らの他には,
アブドゥルヘリールの息子メヘンメトなる者が,2回証人を務めている(表 1: No.5, 7)。彼らは,例えば村の名士であったり,隣近所や親族内の長老の ような人物であったりしたのかもしれない。一方で,ジョルル村の方には,複 数回証人を務めている者はいない。
表1 出生簿の記録
彼らは証人として 指を押した とあるが,これは拇印のことであろう。自 身の署名をできない者が,それに代えて拇印を押したものと推測される。両村 合わせて20人の新生児に対して40人の証人が記録されているが,その全員が署 名ではなく拇印を選択している。なお,出生簿そのものに拇印が押されている という訳ではないので,例えば 出生証明書 とでも呼びうるような書類が,
出生簿とは別に作成されていたと考えられる。
選択的に(ixtiyar n)署名,もしくは指を押した者の名 という欄もあ り,上述の2名の義務的証人以外に,追加で証人となった者がいたようだ。両 村ともに,全ての事例で新生児の父と村長が,この選択的証人となっている。
さらに, 集会モスクのムッラーによる義務的な署名 欄があり,ここには,
出生簿に情報を記入したムッラーがその内容が正しいことを保証・誓約するた めに署名をしたものと思われる。
以上を総合して考えると,新生児誕生後の手続きは,次のようものであった と考えられる。まず子供が生まれると,父親が証人となるべき者たちに新生児 の披露を行った。その後,父親と証人は連れ立って村の集会モスクへと行き,
出生証明書 をムッラーに作成してもらった。この書類には,2人の義務的 証人のほか,父親と村長が選択的証人として拇印を押した。ムッラーはその後,
出生簿に新生児の情報を記録し,その内容に誤りがないことをムッラー自身が 署名することで保証した。
3. 死亡
死亡簿に記載される情報は,男女別にその年何人目の死亡者か,ユリウス暦 とヒジュラ暦による死亡年月日,死亡者の名前と居住地,死亡時の年齢,死亡 場所と死因,埋葬場所と埋葬日,葬礼を執り行った者の名などである。ジョル ル村の死亡簿は死亡場所を村単位でしか記していないが,アシャグ・ゼイズィ ト村の死亡簿はより詳細な死亡場所を記す。それらの情報をまとめたのが,表 2である。
死亡簿の情報からは,記録されている全員が自身の居住する村内で死亡し,
村=モスク教区のムッラーによって葬礼が執り行われ,ほぼ全員がその日のうち に村内の墓地に埋葬されていることが分かる。アシャグ・ゼイズィト村の記録は,
自宅あるいは父親の家で死を迎える者が大半であったことを伝える。具体的な死 因として記録されているのは, 下痢(ishal), 発熱(isitm , qızdırma),
病床に伏せる(yataqlıq)
(8), 腫瘍(sis), 肺炎(s t lc m) などである。
解読できていない死因による死者も4人いるが,彼らも全て家の中で死亡して おり,いずれにせよ病死あるいは自然死の類であろうと推察される(表2:
No.2, 5, 7, 9)。病死・自然死以外では,No.16が事故死であり,No.19もまた,
何らかの事故の結果による死亡と考えられる。
そのような中で異彩を放つのが,極めて異常な状況で死亡した No.3の人物 である。死亡簿の記載によると,彼は,〔アシャグ・〕ゼイズィト村の自〔宅〕
の外で,狂気に駆られて杭で頭を打擲した(Z yz‑id q ry sind oz esiyind dıvan paya il basınıdag︶ıdub[=dag︶ıdıb])。どうやら,手にした杭で自分 の頭を殴りつけるか,あるいは地面に打たれている杭に自ら頭をぶつけるかし て死亡したものらしい。いずれにしても,死に至るほどに強烈な打撃を自身に 見舞うとは,たとえ 狂気に駆られ たが故の行為とはいえ,にわかに信じが たいものがある。彼の死に関しては当時の人々も不審に思ったものか,例外的 に遺体の即日埋葬が行われていない。現代で言う 検屍 にあたるような調査 が行われたのかもしれない。
さて,アシャグ・ゼイズィト村で目に付くのは, 難産 によって死亡した 表2 死亡簿の記録
3人の若い女性である(表2: No.6, 8, 10)。なお,便宜上 難産 という訳 語をあてたが,原語の zahılıq は, 女性の出産直後の状態 を意味する言葉 である。 zahılıq によって 死亡した,とする死亡簿の記録は,出産あるいは 流産の際の事故や,出産後の体調不良などによる死を意味するのだろう。いず れによせ,妊娠と出産が女性にとって命がけの行為であったことが分かる。ま た,出生簿と照合すると,生まれてくるはずだった子は全て死産となったこと が確認できる。一方,このように出産時に死亡した新生児は,死亡簿には記録 されなかったらしい。そうであるなら,死産ながらも母親が無事であった場合 はどの帳簿にも記録が残らないこととなる。死産の件数は,記録にあらわれる よりも多かったと言えよう。
彼女らを含め,アシャグ・ゼイズィト村では20代と30代の死亡者が目立つ。
当時の村落住民には,この年代で死亡する者が相当数いたのであろう。これは,
20歳以下と21歳以上との間,45歳以下と46歳以上との間で人口が大きく変わる ティキャンル村の事例とも,大体の傾向が一致するように思われる。
一方,ジョルル村で目立つのは,乳幼児の死である。6人中3人を,2〜4 歳の死亡者が占める。記録にあらわれない死産や流産も含め,やはり乳幼児の 死亡率は高かったようである。なお,今回の分析対象であるアシャグ・ゼイズ ィト村やジョルル村では見られないが,この時代の乳幼児の命を多く奪ったの が, 天然痘(çiçk) であったようだ。例えば,1877年のエレシュ郡ブラ グ・アグダグ(Bulaq Aqdaqı[=Ag︶dag︶ı])村とデフネ(D hn )村(9)の死亡簿 は25人の死を記録するが,うち12人が10歳以下の少年少女で,その全員が天然 痘で死亡している[ARDTA: f. 290, siy. 1, is 177. 6b-11]。1879年のティフ リス郡に属する4村からなるモスク教区の事例では,27人の死者のうち10歳以 下の者が13人,さらにそのうち天然痘による死者は9人である。なお,残り4 人のうち2人は 不詳の病気 ,2人は 発汗(t rl tm ) が死因とされてい る[ARDTA:f. 290, siy. 1, is 236. 5b-10]。
なお,死亡簿には 村長と集会モスクのムッラーの義務的な署名 という欄 もあり,出生簿の場合と同様,記載された情報が正しいことを保証するための ものと思われる。ただし,アシャグ・ゼイズィト村の方は,村長ゲライの署名 がムッラーのそれと同じ筆跡である。おそらく,ゲライは文字が書けなかった のだろう。一方,ジョルル村の村長ヒュセインの署名は,ムッラーとは異なる 筆跡でなされている。よって,こちらは村長自らが署名したものと思われるが,
その書体は金 流の稚拙なものである。どうやら彼も,かろうじて自身の名は
書ける,といった程度であったようだ。出生簿の証人たちが全員拇印を選択し たことと合わせて,当時の村落部における識字率の低さを裏付ける事実と言え よう。
第3章 村落住民の結婚
1. 婚姻に関する規定
本章では,結婚簿の分析をもとに村落住民の婚姻の実態を明らかにする。ま ずは,それに先立って,ロシア帝政期南東コーカサスにおける婚姻制度を確認 しよう。彼らの結婚に関する規定としては,まず,国内の非キリスト教徒の結 婚について定めた,ロシア帝国民法第90条が挙げられる。
第90条.あらゆる種族( )と民族( )は,多神教徒も含め例外 なく,民事の上級機関あるいはキリスト教行政機関には関わりなしに,自 身の法または従来の慣習に従って婚姻を結ぶことを許されている。[
1857: .10, .1.18]
また,1872年規程は,第47・48条において,結婚に関する諸事項を定めている。
以下,シーア派の規程から条文を引用しよう。
第47条.シーア派のムスリムの間の婚礼の挙行は,もっぱら,この規程で 定 め ら れ た と こ ろ の,彼 ら〔=シ ー ア 派〕の 聖 職 者 た ち(
)に許されている。
第48条.ザカフカース・シーア派ムスリム聖職者には,以下の婚礼の挙行 が禁じられている。
1)15歳未満の男性,13歳未満の女性〔の結婚〕。
2)分 別 の つ か ぬ 者( ),精 神 錯 乱 者( )と
〔の結婚〕。
3)夫から所定の離婚〔手続き〕を受けていない妻と〔の結婚〕。また,
暴力( ),詐欺( ),両親からの娘の誘拐に結びつい た結婚。
4)県メジュリスの許可と知事の認可なしの,ペルシアやトルコの臣民 とザカフカース地方のムスリム〔の結婚〕。
5)いかなる場合であれ,イスラーム法あるいはシャリーアの規定に反 する〔結婚〕。 [ : . 2, . 47, . 1, 50680.383]
上述の民法第90条および1872年規程第48条第5項から,ロシア帝政期の南東 コーカサスでは,イスラーム法に基づく 婚姻契約(s・ıg︶ -ʼi nigah・) が存続
していたと考えて良いだろう。すなわち,前時代と同様,婚姻契約は2名以上 の証人の臨席のもと締結され,その際,新郎から新婦には婚資(m hr, s・daq)
が支払われていたのである。
なお,1872年規程に見られる 婚礼( ︶ ) という語は,イス ラーム法が規定する 婚姻契約 と交換可能な語として使われていると考えて 良い。ムッラーが 婚姻契約を挙行する(s・ıg︶ -ʼi nigah・ carıetm k) という 表現が結婚簿などに見られることが,その根拠の1つである。そして,この婚 礼の挙行が 聖職者(=ムッラー) のみに認められている点は,重要である。
1872年規程は,婚姻契約の締結に際して,ムッラーの立ち会いを必須の要素と した。さらに言えば,婚姻契約=婚礼は,ムッラーが管轄する集会モスクで行 うのが前提となったであろうし,その際に結婚簿に情報を記載することも義務 化された。すなわち,ここに,イスラーム教的な 婚姻契約 からキリスト教 的な 婚礼 への変化,とも言うべき現象が見て取れるのである。
結婚には,様々な制限も設けられた。まずは,年齢に関する制限である。本 来,イスラーム法には,結婚可能年齢に関する規定はなく,人間は出生と同時 に結婚できるというのが通説である(10)。それが,1872年規程によって,男子15歳 以上,女子13歳以上と制限された。ただし,この規定は,若年婚が多いコーカ サス地方の実情に配慮した,妥協の産物であったとようだ。と言うのも,ロシ ア帝国中央における結婚可能年齢は,男子18歳以上,女子16歳以上と定められ ており,ヴォルガ・ウラル地域のイスラーム教徒などに対しても同様の規定が 適用されていたからだ[高橋 2012: 124; 伊賀上 2013: 80]。
近代的な問題意識に基づいた変化も生じた。それは,国籍に関する制限であ る。1872年規程第48条第4項は,特にオスマン帝国やガージャール朝の臣民を 想定しつつ,外国籍の者との結婚を許可制とした。また,同第3項は 誘拐 による結婚,つまりはコーカサス地方で慣習的に行われていた 略奪婚 を禁 止している。同第2項では分別のつかぬ者や精神錯乱者の結婚も制限されてい るが,これは 婚姻強制 を一部否定したものと言えよう。イスラーム法は,
特に未成年の男女や心神喪失者に対する 婚姻強制 の権利を後見人に認めて いるが,1872年規程は結婚する本人の意志を重視し,後見人からこの権利を剥 奪した。実際,新婦の結婚の意志の不在が裁判で認められ,1872年規程第48条 第3項に基づいて,婚姻そのものを無効とする判決が下された事例が存在する
[ARDTA:f. 290,siy. 1,is 158]。
2. 結婚簿の記述と分析
ここで,村落住民の結婚の実態を,結婚簿から明らかにしよう。アシャグ・
ゼイズィト村とジョルル村の結婚簿の記録をまとめたのが,表3である。これ によると,ジョルル村の3組はいずれもやや高齢で初婚を迎えているが,アシ ャグ・ゼイズィト村の初婚者は男女ともに10代の者が多い(11)。法令が定める結婚 可能年齢の下限である15歳の新郎,13歳の新婦ともに記録されており,これ以 前の時代には,より若年齢での結婚が行われていたことが窺える。
法令に反する若年婚が継続していた可能性まである。例えば,No.1の新婦 は13歳であるが,2度目の結婚である。イスラーム法に基づくならば,彼女は 最初の結婚期間の後に,死別の場合は4ヶ月と10日の,離婚の場合は約3ヶ月 の待婚期間を経て再婚したことになる。彼女は,13歳未満で最初の結婚をして いたかもしれない。また,出生簿に12歳の妻が記録されている可能性があるこ とは,第2章第2節で述べた通りである。
ジョルル村の3組は全て初婚者同士の結婚だが,アシャグ・ゼイズィト村で は2度目以降の結婚が目立つ。その主な要因は,20代や30代で死亡する者が多 いことに求められよう。もちろん,死別でなく離婚によって2度目以降の結婚 に至った場合もあるだろうし,男性の場合は次節で触れる重婚の場合もあるだ ろう。
結婚に際しては,新郎・新婦ともに代理人(v kıl)を立てるのが通例であ る
(12)
。代理人になるのは,必ず新郎新婦それぞれの同村の者である。新郎新婦と 代理人との続柄は明記されないが,それぞれの父の名などの情報から,新郎の 代理人の多くは,その兄弟と推測される。アシャグ・ゼイズィト村では7例中 5例で,ジョルル村では3例中2例で,新郎の代理人をその兄弟が務めている
(表3: No.1‑2, 5‑9)。No.2と No.5などは,兄弟同士が互いの結婚に際し て,代理人を相互に務めあったものであろう。新婦の場合は,やはり兄弟の代 理人が多く(表3: No.2, 6‑7),他に父,祖父,父方のおじが代理人となった であろう例が見られる(表3: No.1, 8, 10)。新郎新婦ともに,自身の男系男 性親族が代理人を務めるのが通例であった,と言うことができそうだ。
結婚に際しては,前時代からの慣習に従って,婚姻契約書(nigah・nam , ʻqdnam )も作成された。その内容は,イスラーム世界の他の諸地域と同じ く,新郎と新婦の名前,婚姻契約の成立日,婚資の額とその支払期限などであ っ た よ う だ。両 村 の 結 婚 簿 に は 婚 姻 契 約 書 の 一 語 一 句 (nikah・nam sozb soz) という欄が存在し,これは婚姻契約書に記された文句を,そのま
表3結婚簿の記録 ※新婦の名は○○の息子××の娘たる△△」という書き方がされるため、祖父の名まで分かる。
ま書き写したものと思われる。婚姻契約書の書式に関しては,村ごとに,ある いは作成するムッラーごとに,若干の違いがあったようだ。まずは,アシャ グ・ゼイズィト村で用いられている書式を,No.6の例を引用することで確認 してみよう。
Asag︶ıZeyz‑id sakini G ray I・smaʻıl-og︶lınigah・etdi otuz manat m hr Zeyz‑id sakini S lım Nurı-og︶lının qızıMuxlıs・ni[sic.]nakih・in v kıli Mirz M h・mm d I・smaʻıl-og︶lım nkuh・nin v kıli C ʻf r S lım-og︶lı m hr v chind n on manat vus・ul oldınakih・in z‑imm tind iyirmi manat qaldı.
アシャグ・ゼイズィトの住民イスマーイールの息子ゲライは,三十マナト の婚資で,〔アシャグ・〕ゼイズィトの住民ヌーリーの息子セリームの娘 ミュフリセと結婚しました。新郎の代理人はイスマーイールの息子ミル ゼ・メヘンメト,新婦の代理人はセリームの息子ジェーフェルです。婚資 の額のうち十マナトは〔既に新婦によって〕受領されました。〔残りの〕
二十マナトが新郎の義務として残っています。
次に,ジョルル村の例として,No.8のものを引用しよう。
Corlu q ry lu R sul R sul-og︶lı nigah・ el di h mk ndlusi S・yyad Z‑ulfuqar-qızınıuçyuz manat m hr nakih・in v kıli X lıl R sul-og︶lıv m nku[h・]nun v kıli C vadaq Mut llib-og︶lıv v ch-i m hrd n iki yuz iyirmi s kkiz manat vus・ul oldıyetmis iki manat nakih・in z‑imm tind qaldıʻind l-mut・a[lib] da ed c kdur fı2 mah-ı[r]bıʻul-vv l 1298.
ジョルル村の者レスールの息子レスールは,同村落の者ズルフィカールの 娘セイヤード(13)と,三百マナトの婚資で結婚いたしました。新郎の代理人は レスールの息子へリール,新婦の代理人はミュッテリプの息子ジャヴァー ダグです。婚資の額のうち,二百二十八マナトは〔既に新婦によって〕受 領されました。〔残りの〕七十二マナトが新郎の義務として残っており,
彼は要求があり次第,支払います。1298年ラビーゥ・アル=アウワル月2 日。
婚資の額を示す際に用いられている単位マナトは,ロシア帝国の通貨単位ル ーブルを示すもので,実際,より明確に 百八十ロシア・マナトの金銭で
(yuz s ks n manat-ıRusıpulına) といった表現を用いる結婚簿もある[e.
g. ARDTA:f. 290, siy. 1, is 177:14b-17]。これが,字義そのままに現金での 支払いが行われたことを示しているのか, ○○マナト(ルーブル)相当の物
品や不動産 という意味で用いられているのかは,現在のところ不明である。
字義通りの意味であるとすれば,両村ともに婚資は現金で支払うのが一般的で あったことになる。また,表3からは,婚資にいわゆる 相場 があったこと が窺える。しかし,同時期の同じ郡に属する村であるにもかかわらず,アシャ グ・ゼイズィト村では数十マナト程度,ジョルル村では300マナト程度と,そ の 相場 が大きく異なっている。ジョルル村の初婚者が比較的高齢である背 景には,高額な婚資があったのかもしれない。
また,いわゆる 前払いの婚資 と 後払いの婚資 の配分も様々である。
特にアシャグ・ゼイズィト村では,全額が 前払い , 前払い > 後払い , 前払い = 後払い , 前払い < 後払い ,全額が 後払い という,あ りとあらゆるパターンの配分が見られる。No.4や No.8など,半端な額での 配分がされる例があることも興味深い。これらの婚資にまつわる諸問題に関し ては,他のモスク教区の事例なども総合する形で,別稿にて論じる予定である。
結婚簿には, 婚礼が執行された際に列席した証人たちと署名と,その証人 たちの居住地 という欄もある。そこの記述から,婚姻契約書には,2人の証 人が署名したことが分かる。しかし,上で引用した例を含めて,10組20人の証 人全員が署名に代えて拇印を選択しており,ここからも当時の識字率の低さが 窺える。証人となる人物は,婚礼を挙行するムッラーが属する村=モスク教区 の住民から選ばれたようだ。すなわち,アシャグ・ゼイズィト村ではアシャ グ・ゼイズィト村の住民が,ジョルル村ではジョルル村の住民が,全ての場合 で証人となっている。証人たちと新郎新婦との続柄は不明な場合が大半で,唯 一,No.2の事例で証人の1人が新郎の兄弟と推測されるのみである。また,
第2章第2節で言及した新生児の証人たちとの重複なども見られない。
3. 結婚と結婚生活
村落住民の結婚とその後の結婚生活について,ティキャンル村の人別帳も用 いながら,より詳細に考察してみよう。
まずは,夫婦の年齢差である。ティキャンル村では計122人の妻が記録され ているが,そのうちの111人が夫より年少,9人が夫より年長,2人が夫と同 年齢であり,夫が年上の夫婦が圧倒的に多いことが分かる。なお,夫の年齢か ら妻の年齢を引いた数値の平均値は6.8歳,中央値は6.5歳となる。
出生簿と結婚簿の記録から,他の2村の夫婦の場合も分析してみよう。アシ ャグ・ゼイズィト村では,記録されている16組の夫婦のうち,夫の方が年長な
のは13組で,妻の方が年長なのは3組である。夫の年齢から妻の年齢を引いた 数値の平均値は9.7歳,中央値は12歳である。ジョルル村は,14組中,夫が年 長12組,妻が年長1組,同年齢が1組である。夫の年齢から妻の年齢を引いた 数値の平均値は8.0歳,中央値は9.5歳となる。ここで算出した平均値や中央値 は,特にジョルル村に関しては年齢の記録が信 性に乏しいということもあっ て単なる目安に過ぎないが,それでも,夫の方がひとまわり年上の夫婦が多い という点を,3村に共通して見られる傾向と指摘することは可能であろう。
次に結婚相手であるが,アシャグ・ゼイズィト村では7組中4組が,ジョル ル村では3組中2組が同じ村の者同士の結婚である。村外者との結婚も,アシ ャグ・ゼイズィト村の場合はジャルト村,ユハル・ゼイズィト村,キュンギュ ト村,ジョルル村の場合はブム村と,いずれも近隣の村の出身者との結婚であ る(表3: No.1, 2, 3, 9)。また,第2章第4節でも触れたように,ティキャン ル村では122人の妻のうち少なくとも36人が同じ村の誰かの姉妹か娘でもあっ た。残りの88人の妻たちの中にも,ティキャンル村の出身であるが,父と兄弟 が全て死亡しているため記録にはあらわれない事例があることだろう。また,
隣村であるムフルゴヴァグ村出身の妻が少なくとも3人はいた。
また,一組の夫婦は,どのくらいの子供をなすものなのか。ティキャンル村 人別帳から分かるのは,1881年の時点で,ある妻から生まれた子供が何人存命 かである。既に死亡した子供は記録にあらわれないし,その後生まれるべき子 供も当然書かれない。それを理解した上で数値を算出すると,妻1人あたりの 子供の数の平均値は2.0人となり,中央値も2人となる。なお,子無しの妻33 人も,この計算に含めている。参考までに,122人の妻の年齢の平均値は28.2 歳,中央値は27歳である。
重婚についても考えてみよう。イスラーム法は4人までの妻帯を許容し,ロ シア帝政期の南東コーカサスでも,それは制限されていなかったようだ。ティ キャンル村には,1881年の時点で重婚状態にある夫が5人いる。それぞれ,36 歳の男性に26歳と31歳の妻,59歳の男性に49歳と36歳の妻,51歳の男性に41歳 と36歳の妻,39歳の男性に37歳と25歳の妻,59歳の男性に37歳と36歳の妻とい う組み合わせである[ARDTA: f. 290, siy. 1, is 292. 41, 43, 45b, 47, 49]。
なお,最後の59歳の男性については,既に死亡した妻が1人はいたであろうこ とが記録から窺えるため,三重婚の時期があった可能性もある。
シーア派が許容する一時婚も,1872年規程が禁止していないことから,おそ らく行われていたことと思われる。ただし,今回分析した記録にはあらわれな
い。都市部の事例も含めて,調査を継続する必要があろう。
最後に,本稿の分析対象からは除外した離婚に関しても若干触れておこう。
ブラグ・アグダグ村とデフネ村からなるモスク教区の1877年の離婚簿は,現状 唯一の筆者が目にした離婚簿である。ここに記載されている情報は,結婚簿に 準じるものとなっている。すなわち,ユリウス暦とヒジュラ暦の年月日,離婚 する夫婦の名前と居住地,年齢,何度目の離婚か,それぞれの代理人,証人,
離婚契約を挙行 したムッラーの名前,離婚契約書の文言などである。この 離婚簿に実際に記載されているのは,ブラグ・アグダグ村に居住する39歳の夫 と22歳の妻の離婚の1件のみである[ARDTA:f. 290,siy. 1,is 177.12b-13]。
離婚簿のみ極端に残存数が少ないのは,そもそも離婚簿が作成されることが 少なかったからであろう。モスク教区という500人程度から構成される共同体 においては,1年間に離婚する夫婦が1組出るか出ないかという頻度であった と推測される。一方で,離婚の件数が決して少なくなかったことも,当時の離 婚に関する裁判記録の量から窺える。離婚に関しては,主にこれらの裁判文書 を用いた研究を準備中である。
むすび
以上,ロシア帝政期南東コーカサスで作成された教区簿冊を分析し,様々な 検証を行った。主な分析の対象となったのは,エリザヴェートポリ県ヌハ郡に 属するティキャンル村,アシャグ・ゼイズィト村,ジョルル村の3村であり,
それぞれ1880年に前後する年の記録が参照された。ただし,本稿は,教区簿冊 に記録されているところを,そのまま復元したものに過ぎない。教区簿冊の記 録がどこまで信用できるものなのか,という問題は,今後きちんと検討してい く必要があるだろう。故意にせよ錯誤にせよ,教区簿冊には不正確な情報が記 録される可能性もあったであろうし,敢えて記録されなかった情報もあったで あろうからだ。それらを承知の上で,今回の分析からロシア帝政期南東コーカ サスの村落住民の生涯や村落社会の様子を復元するならば,以下の様になろう。
まず浮かび上がるのは,500人程度から構成される小さな共同体において,
村長やムッラーを中心に,血縁と姻戚関係で結び付きながら密接に関わりあっ て生活する人々の姿である。彼らの多くが生まれた村で成長し,その村の中で 死んでいった。彼らの生きる世界は,自身の村と,せいぜい近隣の村々を範囲 とする,非常に狭いものであった。
村落住民の大半は,村長を任されるような 名士 も含めて,文字の読み書
きができなかった。ムッラーは,文字の読み書きができる,おそらく村で唯一 の人物であった。それ故に,村という共同体において彼らが果たした役割は,
非常に重大である。誕生や死亡に関わる人生儀礼はムッラーによって挙行され,
その内容も同じムッラーによって教区簿冊に記録されたのである。
もう1つの重要な人生儀礼である結婚もまた,ムッラーによって執り行われ た。アシャグ・ゼイズィト村で生まれた典型的な男性は,10代から20代前半で 結婚したようだ。一方,婚資の 相場 が比較的高額なジョルル村では,その ために男性の初婚年齢が高くなっていた可能性がある。いずれの村の男性も,
自分より何歳か年少の,同村もしくは近隣の村出身の女性を結婚相手とした。
婚姻契約は,村の集会モスクで,証人らの立ち会いのもと締結される。その際,
新郎・新婦ともに,自身の男系男性親族を代理人とするのが通例であった。一 方で,証人の選び方などには,村ごとに慣習の違いがあったようだ。
夫婦となった2人は,その後,何人かの子をなす。出産には母子ともに大き な危険が伴い,死産となる場合も多かった。無事に誕生した子も,乳幼児期に 命を落とす可能性が高い。天然痘は,特に大きな脅威であった。20代や30代で 死亡する者も多く,連れ合いを失った男女は,同様の者と再婚するのが通例で あったようだ。
ロシア帝政期南東コーカサスの村落部では,前時代から伝統であるイラン的 あるいはイスラーム的な制度・慣習が基本的には保存されていた,と言って良 いだろう。一方で,そこにはいくつかの変化が生じていた。教区簿冊が作成さ れるようになったこと自体が,この時代の重大な変化の1つである。 婚姻契 約 の 婚礼 化も,注目に値する。また,結婚に際しては本人の意志の重視 されるようになり,その結果,いわゆる 略奪婚 が禁止され,イスラーム法 に基づく 婚姻強制 の権利が一部否定された。極端な若年齢での結婚も1872 年規程によって否定されたが,実際には,これは半ば公然と続けられていた可 能性もある。
さて,本稿によって,ロシア帝政期南東コーカサスの教区簿冊を用いた社会 史研究の可能性が示された。今後,より多くの教区簿冊を収集し,分析するこ とで,当時の社会の実態がより明瞭に浮かび上がってくることだろう。それを 通じて,冒頭で述べた人々の帰属意識の問題をはじめとした,より大きな議論 に接続する視座が開けることであろう。
【付記】本稿は,科学研究費特別研究員奨励費 ロシア帝政期南東コーカサスにお
ける イラン性 (16J09227,代表者:塩野﨑信也),および同研究活動スタ ート支援 ロシア帝政期南東コーカサス に お け る 法 制 度 と 裁 判 機 構 (17 H07259,代表者:塩野﨑信也)の成果でもある。
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⑴ 逐語訳すれば 教区の(モスクの)聖職者 となる。
⑵ 現在のティキャンル村は,ゲベレ地区に属する。
⑶ この職位に関しては,現在出版準備中の拙稿 ロシア帝政期南東コーカサスに おけるシャリーア法廷の 仲裁 で詳しく説明している。
⑷ 一方,シーア派の聖職者に付された称号は, アーフント(axund, )