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『三縁山志』の概要と書誌学的整理について

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(1)

九五佛教文化学会紀要  第二十八号  令和元年十二月   

『三縁山志』の概要と書誌学的整理について 青   木   篤   史   

   一、はじめに   江戸時代に浄土宗の僧侶となるには、関東に十八ヶ寺あった関東十八檀林に入って修学することが必須条件であった。その檀林寺院で一定の修学課程を経た後に、僧侶としての資格を得ることができた。浄土宗における檀林は、慶長七年(一六〇二)又は元和元年(一六一五)に徳川家康の命によって源誉存応が制定したものとされている。しかし玉山成元氏は「関東十八檀林の成立 (1)」の中で、関東十八檀林は一時に意図的に設置されたものではなく江戸時代の初期に、中世以来の有力寺院や新興の幕府の菩提寺が順次必要性に応じて組織化されたものであると主張している。

  浄土宗大本山増上寺(以下、増上寺とする)は、江戸時代関東十八檀林の筆頭として、また一宗の総録所として、徳川家の菩提寺として確たる地位を築いていた。よって増上寺には山内機構だけではなく、一宗の機構を垣間みることができる。

  関東十八檀林にはそれぞれ「檀林志」という本が存在する。「檀林志」は文政年間に摂門という僧が著したものである。「檀林志」には、その寺院の由来や、歴代住持、学寮や子院などについて書かれ、当時の檀林修学を知る上で重要な典籍となっている。

  増上寺の「檀林志」は、増上寺の山号である「三縁山」から『三縁山志』と呼ばれ、一二巻一〇冊で構成されている。他一七ヶ寺の「檀林志」はそれぞれ一巻ずつで構成されているが、増上寺の「檀林志」である『三縁山志』は、一二巻もの大部となっている。また「檀林志」の典籍名も、増上寺以外一七ヶ寺の「檀林志」は『地名+○○寺志』とい

(2)

九六

う名であるが、増上寺の場合は『三縁山志』と山号が典籍名に採用されている。このように典籍名に山号が採用されているのは、総本山知恩院の「寺誌」である『華頂誌要 (2)』と『三縁山志』のみである。『華頂誌要』は明治期に著されたものであるので、江戸期に著されたものとしては『三縁山志』のみである。このように『三縁山志』は、他の「檀林志」と比べ典籍名からも、その違いを垣間見る事ができるのである。

  本稿では、その『三縁山志』の書誌学的整理を行い、その構成を考察したいと考えている。

   二、『三縁山志』の成立背景   先述の通り、『三縁山志』は一二巻一〇冊で構成される典籍であり、増上寺の創立の経緯や歴代住持の系譜、江戸期の修学状況など多岐に亘って記述されており、当時の増上寺の状況や総録所としての山内機構を垣間見ることができる文献である。『三縁山志』の版本は『国書総目録』等で調べてみると、国会図書館をはじめ、大正大学、西尾市立図書館岩瀬文庫、慶応大学、東京大学、東京大学史料編纂所、東北大学狩野文庫、京都大学、宮内庁書陵部、大谷大学、筑波大学、東京都公文書館、名古屋市蓬左文庫、茶図成簣堂文庫、天理図書館、東京国立博物館、成田図書館、無窮神習文庫等二〇ヶ所に所蔵されている事がわかるが、実際は東京国立博物館、成田図書館、無窮神習文庫には所蔵されておらず、一七ヶ所の所蔵となる。日比谷東京史料本は『祐天寺史資料集』内 (3)に『三縁山志』の抜粋が記載されているのみであり、和本としては所蔵されていない。よって本論文での考察対象にはならないと考えるのが妥当であろう。

  文体は和文体であり、文法や構成なども整っていることから、言うまでもなく口述筆記ではなく、編集を経てまとめられた書物であることがわかる。

  また成立年次はいずれも文政二年(一八一九)であることがわかり、写本は存在していないと考えられる。しかし

(3)

九七『三縁山志』の概要と書誌学的整理について ながら、版本が所蔵されている大学や図書館などの目録を見てみると、様々な成立年次が書かれている。その年次をまとめてみると、次のようになる。①文政二年(一八一九)版②文政元年(一八一八)版③江戸末期(正確な年次は不明)版このように三本が確認できる。しかし実際は全て文政二年(一八一九)版であることが確認できた。では、なぜこのように年代に齟齬が出るのであろうか。それはおそらく、序文・跋文の年代を成立年次としたことが挙げられよう。『三縁山志』の序文は、不軽居士、近藤守重、検校塙保己一、源源信、屋代弘賢、沙門辨信の各師が、跋文は箕山源吉、萩長(人物不明)の各師が寄稿しているが、その中でも序文では、源源信が文政元年に、跋文では、箕山源吉が同じく文政元年に寄稿していることから、この二師のものを見た上で、成立年次を決定したのであろうと考えられる。  しかし実際には、どの諸本も最後に左記のような奥書があることから、文政二年(一八一九)に成立したと考えるのが妥当であろう。

(4)

九八

【図一】『三縁山志』一二巻  最後の摂門の記述

  このように「文政二年五月  常誉摂門(花押)」とあることから、成立は文政二年(一八一九)と考えて良いと思われる。

   三、各所蔵の『三縁山志』諸本の書誌学的整理   次に現在一六ヶ所に所蔵されている『三縁山志』を書誌学的に整理していきたい。

①『三縁山志』諸本の整理

  まず、次の表二で一六ヶ所に所蔵されている『三縁山志』を整理した。

(5)

九九『三縁山志』の概要と書誌学的整理について 【表一】『三縁山志』諸本の整理

3

と考 え て良 いと 思わ れ る。 三、 各所 蔵の

『三 縁山 志』 諸本 の書 誌学 的整 理 次に 現在 一六 ヶ所 に 所蔵 され てい る

『三 縁山 志』 を書 誌学 的に 整理 して いき たい

『三 縁山 志』 諸本 の整 理 まず

、次 の表 二で 一 六ヶ 所に 所蔵 さ れて いる

『三 縁山 志』 を整 理 した

【図 二】

『三 縁山 志』 諸本 の整 理 この

よ うに なる

。⑧ 東 北大 学狩 野文 庫本

、⑨ 京都 大学 本、

⑪大 谷大 学本

、⑭ 名古 屋 市蓬 左文 庫本

⑯天 理図 書館 本 以外 は、 全て 目 視で 調査 した

。さ らに 調査 を 加え たと ころ

、 先述 した よ うに

③ 日比 谷東 京史 料 本( 東京 都立 中 央図 書館 蔵『 三縁 山志

』) は現 存せ ず

、『 祐 天寺 史資 料 集』 に 抜粋 のみ が記 載 され てお り、 記 載が ある のは 祐天 寺に 縁の あ る学 寮の みの 記 載で あっ た。 よ って 先述 の通 り 本発 表で の考 察 対象 には 含ま れな いが

、目 録 に記 載が ある 為

、【 図 二】 には 記 載し た。

(6)

一〇〇

  このようになる。⑧東北大学狩野文庫本、⑨京都大学本、⑪大谷大学本、⑭名古屋市蓬左文庫本、⑯天理図書館本以外は、全て目視で調査した。さらに調査を加えたところ、先述したように③日比谷東京史料本(東京都立中央図書館蔵『三縁山志』)は現存せず、『祐天寺史資料集』に抜粋のみが記載されており、記載があるのは祐天寺に縁のある学寮のみの記載であった。よって先述の通り本発表での考察対象には含まれないが、目録に記載がある為、【図二】には記載した。

  次に『三縁山志』諸版本の構成について考察を加えたい。『三縁山志』の基本的な構成は次の通りである。表序→序文→例言→編目→本文→跋文この中、編目と本文は巻毎に記載されている。しかし版本によっては、この基本的な構成とは異なるものがある。そこで、その構成が異なる諸版本について述べていきたい。

  まず、国会図書館本は表序、序文、例言が欠落しており、編目と本文、跋文のみの構成となっている。また、名古屋市蓬左文庫本は表序、序文、例言、跋文が欠落しており、編目と本文のみの構成となっているが、その本文も全て現存しているわけではなく、二巻と九巻、十巻上が欠落している。よって名古屋市蓬左文庫本は、一二巻七冊で構成されている。

②『三縁山志』諸本の書誌学的整理

  次に調査をした『三縁山志』諸本を書誌学的に整理し、その概要を述べていきたい。

  まず、『三縁山志』の書誌学的整理を行った結果、次のような表になる。

(7)

一〇一『三縁山志』の概要と書誌学的整理について 【表二】『三縁山志』の書誌学的整理

西

(8)

一〇二

右記のようになる。どの版本をみても、構成はほぼ同じであることがわかり、【表二】は一五本全てに共通するものである。

  印記については次の通りである。【表三】『三縁山志』諸本の印記について   さて、印記について考察してみると、まず⑤慶応大学本の「雀躍楼伊藤縁山蔵書」の印記は、現在の新橋付近に「雀躍楼」という宿があった。その宿の主人が伊藤縁山であり、その主人が『三縁山志』を所持していたと考えられ、後世になって慶応大学に寄付されたものと考えられる。

5

右 記 の よ う に な る

。 ど の 版 本 を み て も 、 構 成 は ほ ぼ 同 じ で あ る こ と が わ か り

、 【 図 三

】 は 一 五 本 全 て に 共 通 す る も の で あ る

。 印 記 に つ い て は 次 の 通 り で あ る

【 図 四 】

『 三 縁 山 志 』 諸 本 の 印 記 に つ い て さ て

、 印 記 に つ い て 考 察 し て み る と

、 ま ず ⑤ 慶 応 大 学 本 の

「 雀 躍 楼 伊 藤 縁 山 蔵 書

」 の 印 記 は 、 現 在 の 新 橋 付 近 に

「 雀 躍 楼

」 と い う 宿 が あ っ た 。 そ の 宿 の 主 人 が 伊 藤 縁 山 で あ り

、 そ の 主 人 が

『 三 縁 山 志 』 を 所 持 し て い た と 考 え ら れ

、 後 世 に な っ て 慶 応 大 学 に 寄 付 さ れ た も の と 考 え ら れ る 。

⑦ 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 本 の

「 南 葵 文 庫 」 の 印 記 は

、 南 葵 文 庫 は 東 京 都 港 区 に あ る 図 書 館 の こ と で あ り

、 徳 川 頼 通 が 建 設 し た 図 書 館 で あ る

。 後 に 蔵 書 は 東 京 大 学 に 寄 贈 さ れ た こ と が わ か っ て い る 。 お そ ら く

、 当 初 南 葵 文 庫 に 蔵 さ れ て い た

『 三 縁 山 志 』 が 、 後 に 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 に

寄 贈 さ れ た と 思 わ れ る

⑧ 東 北 大 学 狩 野 文 庫 本 の 「 狩 野 氏 図 書 記

」 の 印 記 は 、 言 う ま で も な く 狩 野 亨 吉 の 蔵 書 で あ る 。 狩 野 氏 は

、 明 治 の 思 想 家 で あ り

、 一

〇 万 点 を 超 え る 蔵 書 が あ っ た と さ れ る 人 物 で あ る

。 こ の 『 三 縁 山 志 』 の こ の 狩 野 氏 の 蔵 書 の 一 つ で あ っ た と 考 え ら れ る

⑨ 京 都 大 学 本 の 「 蓮 華 渓 / 梅 香 寺 / 常 什 寶 不 許 門 外 出

」 の 印 記 は 、 伊 勢 国 の 梅 香 寺 の こ と で あ り

、 「 蓮 華 渓 」 と い う の は 梅 香 寺 の あ る 谷 の こ と を 指 す も の で あ る 。 梅 香 寺 の 院 号 も 蓮 華 院 と な っ て お

り 、 京 都 大 学

本 の

『 三 縁 山

志 』 は 梅 香 寺 の 什 寶 で あ っ た と 考 え ら れ

る 。 こ の 梅 香 寺 は

、 増 上 寺 第 三 七 世 松 誉 詮 察 上 人 が 出 家 し た 寺 院 で も あ り

、 『 三 縁 山 志

』 が こ こ に 蔵 さ れ て い て 不 思 議 で は な い だ ろ う

⑩ 宮 内 庁 書 陵 部 本 の 「 松 岡 本 」 の 印 記 は

、 江 戸 後 期 の 武 士 で あ る 松 岡 辰 方 の こ と で あ り 、 松 岡 は

書物 の研 究に 生涯 をか け、 多数 の文 献、 資料 を収 集し て古 儀を 研究 した

。ま たそ の考 証を 行い

、ま た貴 重図 書や 調度 を模 写、 製作 して その 保存 を図 った

。蔵 書は 宮内 庁書 陵部 に松 岡本 とし て、 遺品 は東 京国 立博 物館 に保 管さ れて いる

⑫ 筑 波 大 学 本 の 「 久 須 美 」 の 印 記 に つ い て で あ る が 、

「 久 須 美

」 と は 江 戸 時 代 後 期 の 武 士 で あ る 久 須 美 蘭 林 の こ と で あ る と 思 わ れ る 。 久 須 美 蘭 林 は

、 天 保 一 四 年

( 一

八 四

三 )

八 月

八 日

に 書

(9)

一〇三『三縁山志』の概要と書誌学的整理について   ⑦東京大学史料編纂所本の「南葵文庫」の印記は、南葵文庫は東京都港区にある図書館のことであり、徳川頼通が建設した図書館である。後に蔵書は東京大学に寄贈されたことがわかっている。おそらく、当初南葵文庫に蔵されていた『三縁山志』が、後に東京大学史料編纂所に寄贈されたと思われる。  ⑧東北大学狩野文庫本の「狩野氏図書記」の印記は、言うまでもなく狩野亨吉の蔵書である。狩野氏は、明治の思想家であり、一〇万点を超える蔵書があったとされる人物である。この『三縁山志』のこの狩野氏の蔵書の一つであったと考えられる。  ⑨京都大学本の「蓮華渓/梅香寺/常什寶不許門外出」の印記は、伊勢国の梅香寺のことであり、「蓮華渓」というのは梅香寺のある谷のことを指すものである。梅香寺の院号も蓮華院となっており、京都大学本の『三縁山志』は梅香寺の什寶であったと考えられる。この梅香寺は、増上寺第三七世松誉詮察上人が出家した寺院でもあり、『三縁山志』がここに蔵されていて不思議ではないだろう。  ⑩宮内庁書陵部本の「松岡本」の印記は、江戸後期の武士である松岡辰方のことであり、松岡は書物の研究に生涯をかけ、多数の文献、資料を収集して古儀を研究した。またその考証を行い、また貴重図書や調度を模写、製作してその保存を図った。蔵書は宮内庁書陵部に松岡本として、遺品は東京国立博物館に保管されている。  ⑫筑波大学本の「久須美」の印記についてであるが、「久須美」とは江戸時代後期の武士である久須美蘭林のことであると思われる。久須美蘭林は、天保一四年(一八四三)八月八日に書院番から目付に任命され、翌一五年(一八四四)に西丸先手弓頭に異動、嘉永五年(一八五二)四月一六日に本丸先手弓頭と火付盗賊改方を兼ねた。同年一二月一六日に家督を相続、安政二年(一八五五)五月二二日に大坂西町奉行へ異動、六年間務めた後、文久元年(一八六一)一二月一五日に旗奉行、文久三年(一八六三)八月一四日に講武所奉行並となり同年一二月に死去。文化人で養蘭家でもあり、『近郊遊記』『在阪漫録』『甲冑区名図解』『浪華日記』『浪華の華』『養難養説』等の書物を書き記している。

(10)

一〇四

筑波大学本は、当初この久須美蘭林が所有していた版本を、いつの時代かは不明だが筑波大学に寄贈されたものと考えられる。

  尚、④西尾市立岩瀬文庫本、⑥東京大学本、⑬東京都公文書館本、⑮茶図成簣堂文庫本、⑯天理大学本の印記については調査を試みたが未詳であった。

   四、『三縁山志』の構成とその概要 ①『三縁山志』の構成   前述のとおり『三縁山志』は一三部門(事実上第一二部門)の構成となっている。本文の前には、表序・序文・跋文・例言・編目がある。この序文は箕山源吉・屋代弘賢・東埜源信・弁信和尚(三河信光明寺歴代)・近藤正斎等が寄稿している。寄稿したのはほとんど文政二年の春であり、刊行される直前であることがわかる。しかし箕山源吉と屋代弘賢と東埜源信の序文が文政元年秋や文政元年冬であり、他の序文とは寄稿年が異なっていることがわかる。その序文には、摂門のそれまでの業績や『三縁山志』の刊行に至るまでのことが記載されている。

  次に本文であるが、第一巻は第一創寺来由と一宗興隆・第二中興嘉運。第二巻は第三堂閣建縁・第四大廟霊界。第三巻は第五鎮座祭祀・第六守廟清務。第四巻は第七別開蓮社。第五巻、第六巻は第八子院権興。第七巻は第九学寮清規。第八巻は法系伝由。第九巻、第一〇巻、第一一巻は第一〇列祖高徳。第一二巻は第一一貫主異職・第一二境内地理。第一三巻は外境属地となっている。先ほど事実上一二部門と記載したが、この理由は第四の大廟霊界は不出の為伝わっていないからである。この巻は目次には挙げられているが、おそらく徳川家の霊廟についての内容を記述した部分であると考えられる。徳川幕府に気を遣ったのか不出扱いとなったのだろう。本文の構成を表にすると次の表四のようになる。

(11)

一〇五『三縁山志』の概要と書誌学的整理について 【表四】

  『三縁山志』の構成

②『三縁山志』の概要

  次に各部門の概要である。まず第一巻第一創寺来由・一宗興隆では、宗祖法然上人門下の法系と増上寺開山酉誉聖聡上人の家系や法系、中興観智国師源誉存応上人の家系や法系を述べたうえで、堂宇や三門の図、聖聡上人と存応上人の御影を載せ、また増上寺がもともと光明寺という名で貝塚にあって真言宗の寺院であったこと、聖聡が浄土宗に改め宗門興隆に甚大な力を尽くしたことなどが述べられている。次に第二中興嘉運では、天正一八年(一五九〇)に徳川家康が江戸入りし、存応と師檀の関係を結んだことについて述べられている。

  次に第二巻第三堂閣建縁では、増上寺の建築が他寺(奈良・京都・鎌倉等)や知恩院等の本山の伽藍配置に倣わず独自の伽藍配置であることやその理由、諸堂の一々について事細かに述べられている。例を挙げるならば本文には、本堂  東向箱棟金御紋表裏五ツ宛左右貳ツ四方欄干三方上り段向牌金御紋唐破風彫り 

6

院 番 か ら 目 付 に 任 命 さ れ 、 翌 一 五 年

( 一 八 四 四 ) に 西 丸 先 手 弓 頭 に 異 動

、 嘉 永 五

年 ( 一 八 五 二

) 四 月 一 六 日 に 本 丸 先 手 弓 頭 と 火 付 盗 賊 改 方 を 兼 ね た 。 同 年 一 二 月 一 六 日 に 家 督 を 相 続

、 安 政 二 年 ( 一 八 五 五

) 五 月 二 二 日 に 大 坂 西 町 奉 行 へ 異 動

、 六 年 間 務 め た 後

、 文 久 元 年 ( 一 八 六 一

) 一 二 月 一 五 日 に 旗 奉 行 、 文 久 三 年

( 一 八 六 三 ) 八 月 一 四 日 に 講 武 所 奉 行 並 と な り 同 年 一 二 月 に 死 去 。 文 化 人 で 養 蘭 家 で も あ り 、

『 近 郊 遊 記 』

『 在 阪 漫 録 』

『 甲 冑 区 名 図 解 』

『 浪 華 日 記 』

『 浪 華 の 華 』

『 養 難 養 説 』 等 の 書 物 を 書 き 記 し て い る

。 筑 波 大 学 本 は 、 当 初 こ の 久 須 美 蘭 林 が 所 有 し て い た 版 本 を 、 い つ の 時 代 か は 不 明 だ が 筑 波 大 学 に 寄 贈 さ れ た も の と 考 え ら れ る 。 尚 、

④ 西 尾 市 立 岩 瀬 文 庫 本

、 ⑥ 東 京 大 学 本 、

⑬ 東 京 都 公 文 書 館 本 、

⑮ 茶 図 成 簣 堂 文 庫 本 、

⑯ 天 理 大 学 本 の 印 記 に つ い て は 調 査 を 試 み た が 未 詳 で あ っ た

。 四 、

『 三 縁 山 志 』 の 構 成 と そ の 概 要

『 三 縁 山 志 』 の 構 成 前 述 の と お り

『 三 縁 山 志 』 は 一 三 部 門 ( 事 実 上 第 一 二 部 門

) の 構 成 と な っ て い る

。 本 文 の 前 に は

、 表 序 ・ 序 文

・ 跋 文 ・ 例 言

・ 編 目 が あ る

。 こ の 序 文 は 箕 山 源 吉

・ 屋 代 弘 賢 ・ 東 埜 源 信

・ 弁 信 和 尚 ( 三 河 信 光 明 寺 歴 代

) ・ 近 藤 正 斎 等 が 寄 稿 し て い る

。 寄 稿 し た の は ほ と ん ど 文 政 二 年 の 春 で あ り 、 刊 行 さ れ る 直 前 で あ る こ と が わ か る

。 し か し 箕 山 源 吉 と 屋 代 弘 賢 と 東 埜 源 信 の 序 文 が 文 政 元 年 秋 や 文 政 元 年 冬 で あ り

、 他 の 序 文 と は 寄 稿 年 が 異 な っ て い る こ と が わ か る 。 そ の 序 文 に は

、 摂 門 の そ れ ま で の 業 績 や

『 三 縁 山 志 』 の 刊 行 に 至 る ま で の こ と が 記 載 さ れ て い る 。 次 に 本 文 で あ る が

、 第 一 巻 は 第 一 創 寺 来 由 と 一 宗 興 隆

・ 第 二 中 興 嘉 運 。 第 二 巻 は 第 三 堂 閣 建 縁 ・ 第 四 大 廟 霊 界

。 第 三 巻 は 第 五 鎮 座 祭 祀 ・ 第 六 守 廟 清 務

。 第 四 巻 は 第 七 別 開 蓮 社 。 第 五 巻 、 第 六 巻 は 第 八 子 院 権 興

。 第 七 巻 は 第 九 学 寮 清 規 。 第 八 巻 は 法 系 伝 由

。 第 九 巻

、 第 一 〇 巻 、 第 一 一 巻 は 第 一 〇 列 祖 高 徳

。 第 一 二 巻 は 第 一 一 貫 主 異 職 ・ 第 一 二 境 内 地 理 。 第 一 三 巻 は 外 境 属 地 と な っ て い る 。 先 ほ ど 事 実 上 一 二 部 門 と 記 載 し た が

、 こ の 理 由 は 第 四 の 大 廟 霊 界 は 不 出 の 為 伝 わ っ て い な い か ら で あ る

。 こ の 巻 は 目 次 に は 挙 げ ら れ て い る が 、 お そ ら く 徳 川 家 の 霊 廟 に つ い て の 内 容 を 記 述 し た 部 分 で あ る と 考 え ら れ る 。 徳 川 幕 府 に 気 を 遣 っ た の か 不 出 扱 い と な っ た の だ ろ う

。 本 文 の 構 成 を 表 に す る と 次 の 図 五 の よ う に な る

【 図 五 】

『 三

縁 山

志 』

の 構

(12)

一〇六

物龍首像鼻  桁行二二間五尺三寸梁間一六間貳尺五寸(後略)本尊  阿弥陀如来座像恵心僧都作御長四尺 (4)

というように述べられており、一々について詳しく調べ述べられていることがわかる。

  第四大廟霊界は目次には挙げられていながらも、本文等は一つも言及がない。これは本文を執筆した後、おそらく徳川幕府に気を遣い刊行できなかったのだろうと考えられる。

  次に第三巻第五鎮坐祭詞では、飯倉天神・蓮池弁財天・秋葉権現・瘡守稲荷・産千代稲荷・車折大明神等における種々な祭詞を挙げ、専修念仏を重要とする浄土宗では他に見られない増上寺の祭詞が挙げられている。特に蓮池弁財天は別当が宝珠院とあり、智證大師が入唐した際風難の厄に遭い、無事を念じたところ天女が現れ暴風が止んだことを機に、帰朝の後天女の像を彫刻し念持仏として安置していたものを、貞享三年(一六八七)増上寺第三〇世生誉上人の代に蓮池を作り一堂を建立したとされている。このように一々について諸堂の開基と開基理由を述べている。

  第六守廟清務では霊廟の別当寺院(宝松院・恵眼院・最勝院・真乗院・瑞蓮院等)の起因や世代等を述べている。寶松院は台徳院殿(徳川秀忠公)の別当であって恵眼院と共に台徳院殿の霊廟を守っていたとされる。最勝院は崇源院殿(徳川秀忠公正室お江の方)の別当であって、最勝院開山願秀上人の時別当に定められたとされている。眞乗院は文昭院殿(徳川家宣公)の別当であって、眞乗院第二世義潭上人の時より別当に定められたとされている。瑞蓮院は有章院殿(徳川家継公)の別当であって心光院を赤羽へ移し、その跡地に霊廟を建立したとされている。瑞蓮院開山意詮上人の時別当に定められ、寶暦一一年(一七四四)に惇信院殿薨去の際には、第四世知湛上人が霊廟の兼職に任ぜられたとされている。

  次に第四巻第七別開蓮社では、心光院・恵照律院・妙定院・酉蓮社・安蓮社・福聚院・清光寺・寶珠院・清林院の起因を述べ、また、心光院の円光大師像や、千躰無量寿仏・鎮西上人像・お竹ながしなどについても述べられている。

(13)

一〇七『三縁山志』の概要と書誌学的整理について お竹ながしとはお竹という一人の女性の物語のことである。お竹は大伝馬町の名主の佐久間善八の下女であった。日頃から信心深く、米粒一つたりとも粗末にすることなく大切にし、乞食や犬猫に施しをした善人だった。このお竹は大日如来の化身であったとも言われ、大日堂にはお竹が使用していたと言われる流し板が五代将軍綱吉の生母である桂昌院が寄進したと言われる箱に納められている。大日堂正面にあるのがお竹如来像であり、その右脇にある三つ葉葵の紋がついた箱に流し板が収められているという。箱には、「お竹大日如来水板」と書かれている。その流し板が心光院の什宝となっているのである。  次に第五巻・第六巻の第八子院権興では坊中の寺々(第五巻廣度院・天陽院・瑞華院・花岳院・天光院・良源院・常照院・観智院・貞松院・雲晴院・源流院  第六巻威徳院・瑞善院・月窓院・徳水院・池徳院・昌泉院・光学院・安養院・月界院・華養院・良雄院・源興院・常行院・浄運院・源壽院・林松院・源寶院・隆崇院・清光院・恭敬院)の開創と歴代上人等について述べられている。子院とは塔頭寺院のことである。これらの子院の住職を務めると他山諸寺院の子院の住職になった際香衣上人の号を賜ることができるが、年長者であっても座次は選択部の列に座ることと決まっていたようである。しかし増上寺のこれら子院の住職を務めると、学席に列すことと決まっており、年月を経ると宗戒相承の後上人号を賜り、御霊屋の勤務をすることとなっていたようである。  次に第七巻第九学寮席規では、まず会下の意義を述べている。次に学寮の由来、座次法則を述べている。被位鴻漸では増上寺に入寺する新来から学頭までの大衆の階級を述べ、五重・宗戒両脈・布薩の授法については『元和条目』から引用し一、浄土修学十五年に至らざる者、両脈伝授あるべからず。璽書の許可に於ては器量の仁為したりといえども二十年を満たせざる者堅く相伝せしむべからざる事 (5)。という浄土宗の条令の起源が述べられている。階級座次については厳格に決められており、一番輪・縁輪・扇間・一

(14)

一〇八

文字・月行事があり、一々の由来を述べている。修学については九部修学を定め全て履修しなければならなかったこと、また論義算題や上読法問・下読法問・論講についても述べられている。まず九部修学とは①名目部・②頌義部・③選択部・④小玄義部・⑤大玄義部・⑥文句部・⑦礼讃部・⑧論部・⑨無部である。最後の無部は、それまでの八部を修した後で決まった課目はない。一つの部を修了するのに、約三年の期間をかけた。つまり九部すべてを修学するのには、二十七年の歳月を費やさなければならなかったのである。しかし実際は一五年程度で修学を終えていたようである。以下、それら九部について紹介していく。

  ①名目部とは、入寺してから三、四年までをいう。ここでは聖冏の『浄土略名目図』と『浄土略名目図見聞』を用いて勉学した。ここで『浄土略名目図』を用いているのは、浄土宗の立場を広く諸宗と比較して認識させるためである。基礎的段階として仏教の教相判釈を学び、そして善導の二蔵二教の教相判釈を踏まえた二蔵二教二頓の教相判釈通して理解してゆく。

  ②頌義部とは、聖冏の『浄土二蔵二教略頌』『釈浄土二蔵義』『二蔵義見聞』を教科書とする。この部は前の名目部の教判論をさらに深めたもので、『浄土二蔵二教略頌』とその解説書である『釈浄土二蔵義』(通称『頌義』)三十巻を中心にしたようである。

  ③選択部は、名前の通り法然上人の『選択本願念仏集』を修学する所であり、檀林宗学の中心になるところである。この席から上読みと呼んだ。

  ④小玄義部とは、『観経疏』玄義分である。善導は『観経疏』四巻を著わし、観経の要義大綱を述べた中で、第一巻玄義分は観経の細釈ではなく、大意・概論を述べたものである。小玄義部では、この玄義分のはじめの「先勧大衆」から「往生安楽国」までの疏全体の序文にあたる偈頌、即ち十四行偈を修学する。

  ⑤大玄義部とは、小玄義分で修学した次から、即ち、「第一先標序題」から玄義分の最後までである。一説には小

(15)

一〇九『三縁山志』の概要と書誌学的整理について 玄  義部を「先勧大衆」から「皆蒙解脱」までとし、大玄義部を「然衆生障重」から最後までともいう。いずれにしてもこの二部では『観経疏』第一巻玄義分を小大二部に分けて修学する。  ⑥文句部とは、『観経疏』「第二巻序文義」、「第三巻定善義」、「第四巻散善義」を修学する。

  ⑦礼讃部とは、善導の『往生礼讃』『法事讃』『般舟讃』『観念法門』等、いわゆる行儀分と称される教科目を修学する。この部は、善導の『往生礼讃』など専門的な知識を勉強するというよりは、浄土宗僧侶として必要な法儀や、声明などを修学したようである。

  ⑧論部とは、世親の『往生論』とその註釈書である曇鸞の『往生論註』を中心に浄土往生の実践を学ぶ。善導をさらにさかのぼって浄土教を学ぶのである。この部は規定通りにいけば二二年から二四年目までであり、九部のうち宗乗八部の最後として重視された。

  ⑨無部というのは、宗乗八部を修了し、もはや学ぶべき定まった課目は無いことをいうものである。論釈の義を極め、宗要に精通したものが到達するところである。そして自由な学問をすることが許される。

  これら各部の修学期間は多くが三年ごとである。八部を修了するまでには二五年の年数を費やし、しかるのち無部に入り、はじめ、全科を卒業することになった。このように、檀林の九部修学の修学内容をみると、まず聖冏・聖聡の教判論を最初に修学しそれを基本にして法然、善導の著作を順に修学する手順になっている。これを学ぶのに日常の学習と期間を定めた安居とがある。日常の学習が基本ではあるが、期間の定まった学習として夏冬の安居がある。ここで上読法問と、下読法問がある。そして席役講・再役講・内講という講義があり、九部宗学をさらに学ぶのである。まず安居であるが、『三十五箇条法度』二九条には、夏安居は四月一五日より六月二九日を期し、冬安居は一〇月一五日より極月一五日に至るべし。聊も延促あるべからざる事 (6)。

(16)

一一〇

とあり、夏安居と冬安居の期間が決まっていて期間を厳守することが決められていた。この両安居は特別の檀林の学期であり、夏安居は七〇日、冬安居は六〇日であった。この安居中の科目は、『同法度』三十条に、一、一夏中に於いて客殿の法問は十則下読法問は十一則闕減無く決着せしむべし並びに湯日の外談場懈怠あるべからず。冬安居も同前なるべき事 (7)。

とあり、一夏中に上読法問一〇題と下読法問一一題を論議し、入浴日以外は講義に出席することが義務付けられている。上読法問とは本坊において方丈から論主となり、自他宗教義中難解難会の文を問題にすることを、上読と称している。この場合は月行事を始めとして、三席一五〇僧が席につき、方丈から課される問題について論議をすることである。一方下読法問とは、所化より能化に向けて朗読する法問を下読法問と呼ぶ。講義の種類として、席役講・再役講・内講がある。席役講とは、扇間席に入って日頃研究している内容について講演することである。再役講とは、開講日を正月一八日、五月二〇日、七月二〇日、一一月二五日と定められており、『天台菩薩戒経義疏』や『浄土略名目図』などが開講された。内講とは、一文字の大衆以下が順次に講演するもので、随意である。決まった規定はなく学徒策励のために開講されるものである。

  また、両安居の中間を「半夏」(解間)と呼び、夏安居の終了日の翌日から冬安居の開始日の前日までをいう。『元和条目』三一条には、一、解間の事春は二月朔日より三月二十九日を期し、秋は八月朔日より九月二十七日至るべし。両安居の如く総じて物讀法問懈怠有るべからざる事 (8)。とある。

  またこの法問においての座次を、修学段階で定めていた。これは、大玄義部・文句部以上において定められていた。まず、大玄義部・文句部の二部の僧を「一番輪」とした。この席は法問の出座のみで正席ではなかったとされる。次

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一一一『三縁山志』の概要と書誌学的整理について に文句部・礼讃部・論部の三部の僧を「縁輪」とした。この席より老輩と称し、上読法問に出席し法主に対答した。次に論部・無部の二部の僧を「扇間(横木間)」とした。横木間と書くのは、一文字席と縁輪席の間に横向きに列するからである。この席では一層研究・鍛錬し、一文字席から欠員が出た場合は、この席から出座することとなっており、また「席役講」という講義を行った。次に無部の僧を「一文字席」とした。この席は法主を挟んで列席し、横一文字に座ることからこのように呼ぶのである。この中から上座の僧を月行事と称した。一文字席の僧は、正五九の一五日に護国殿(今の安国殿)での祈願法要に五〇人が随喜した。また「内講」という講義を行った。またこの席の上座の者は、「再役講」という講義を行った。これは自身の得意な書籍を講じたものである。また、今までの「縁輪」・「扇間」・「一文字」の三席の僧は、香衣を着用し会議や法会に出席することが義務付けられていた。最後に先にも述べた「月行事」である。この席は一文字席の中の上座の僧のことを指し、座次の中で一番の上座を指す。また、もし紫衣檀林の一つが無住になった場合には、後住をこの中から選出したとされる。また、この月行事の首座を「大衆頭」と呼んだ。  また綸旨執奏の部分では香衣・上人・金襴衣のことも述べられ、昔の厳重な規則が窺える。香衣は法臘一五年以上二〇年の間に綸旨を賜り被着が認められており、これ以外の者は黒衣に壊色の如法衣を被着することが定められていた。上人号は、三部経を学び円頓戒を相承された後上人という号を賜ることができたようであり、同時に香衣の被着も許可されたようである。金襴衣とはそもそも顕密二宗の紋白大師衣を法制とし、他の金襴は禁じられていたとされているが、増上寺では金襴の袈裟を最勝として他は詳しくは述べられていない。おそらく香衣・紫衣であっても通常は如法衣しか着用していなかったのではないかと考えられる。  次に第八巻法系伝由では、一々の学寮の由来を挙げ、その学寮の本尊・歴代学寮主の法系等々を詳しく述べている。

  次に第九巻・第一〇巻第一〇列祖高徳では、開山酉誉聖聡上人から第五六世までの歴代住持について、生い立ちや経歴が事細かに述べられている。

(18)

一一二

  その後の貫主異職では、幹事が上座五〇人中から選ばれたこと、その幹事は増上寺の寺務を統制した重職であったことなどが詳しく述べられている。第一一巻第一一境内地理では増上寺の原地(千代田区貝塚)とそこから移転してきたこと、門・下馬・石造物・井戸・橋・墳墓等について一々の由来文献等を列挙し詳しく述べている。

  最後に第一二巻第一二外境属地では、境外の門前・片門前三町・中門前三町等の町について述べた後、麻布の隠居所の項では、その隠居所から見える風景を八境一〇景(閑扉朧月・窓前虫声・斜経散歩・垂絲綻花・山井清澄・氷川鎮祠・秋園芳草・祖塔蒼苔)として題目を挙げ、和歌やその由来等について述べている。下屋敷の項には本願寺・最上寺・了福寺・光取寺・清岸寺・戒法寺・正福寺・善長寺の一々の開基等を述べている。この八寺は塔頭寺院には指定されず、門前の一般寺院という位置づけであると思われる。最後には切通時鐘・心光院の内容が述べられている。

  そして『三縁山志』の最後には、

   文政二年五月  常誉摂門(花押 (9))とあることから、この『三縁山志』が文政二年五月に筆了したことがわかる。

  以上のように、大まかではあるが『三縁山志』の概要を述べた。この概要からもわかるように、記載内容は多岐に亘っており、当時増上寺で行われていた檀林修学をはじめとする様々なことが理解できる。

   五、『三縁山志』の構成の相違   次に、『三縁山志』の編目と本文の構成の相違について考察したい。

  『三縁山志』には冒頭部分と各巻毎に編目が記載されている。しかし、その二つの編目が合致していない。

  左の表は、その冒頭の編目と各巻の編目の相違をまとめたものである。

(19)

一一三『三縁山志』の概要と書誌学的整理について

  【表五】

『三縁山志』冒頭の編目と各巻の編目の相違

  この一覧はどの諸本を見ても同様である。おそらく、元は冒頭の編目のとおり一三巻の構成にする予定で執筆された『三縁山志』であったが、「巻九第一〇  列祖高徳」の部分が予定通りの紙面にならなかったことから、後の部分を詰めて記述したものと考えられ、都合一二巻になったと推測できようか。

11

に つ い て

、 生 い 立 ち や 経 歴 が 事 細 か に 述 べ ら れ て い る

。 そ の 後 の 貫 主 異 職 で は

、 幹 事 が 上 座 五 〇 人 中 か ら 選 ば れ た こ と

、 そ の 幹 事 は 増 上 寺 の 寺 務 を 統 制 し た 重 職 で あ っ た こ と な ど が 詳 し く 述 べ ら れ て い る 。 第 一 一 巻 第 一 一 境 内 地 理 で は 増 上 寺 の 原 地 ( 千 代 田 区 貝 塚

) と そ こ か ら 移 転 し て き た こ と

、 門

・ 下 馬

・ 石 造 物

・ 井 戸 ・ 橋 ・ 墳 墓 等 に つ い て 一 々 の 由 来 文 献 等 を 列 挙 し 詳 し く 述 べ て い る 。 最 後 に 第 一 二 巻 第 一 二 外 境 属 地 で は

、 境 外 の 門 前

・ 片 門 前 三 町

・ 中 門 前 三 町 等 の 町 に つ い て 述 べ た 後

、 麻 布 の 隠 居 所 の 項 で は 、 そ の 隠 居 所 か ら 見 え る 風 景 を 八 境 一

〇 景

( 閑 扉 朧 月 ・ 窓 前 虫 声

・ 斜 経 散 歩 ・ 垂 絲 綻 花

・ 山 井 清 澄 ・ 氷 川 鎮 祠

・ 秋 園 芳 草 ・ 祖 塔 蒼 苔

) と し て 題 目 を 挙 げ 、 和 歌 や そ の 由 来 等 に つ い て 述 べ て い る 。 下 屋 敷 の 項 に は 本 願 寺

・ 最 上 寺

・ 了 福 寺

・ 光 取 寺

・ 清 岸 寺

・ 戒 法 寺

・ 正 福 寺

・ 善 長 寺 の 一 々 の 開 基 等 を 述 べ て い る 。 こ の 八 寺 は 塔 頭 寺 院 に は 指 定 さ れ ず

、 門 前 の 一 般 寺 院 と い う 位 置 づ け で あ る と 思 わ れ る 。 最 後 に は 切 通 時 鐘

・ 心 光 院 の 内 容 が 述 べ ら れ て い る 。 そ し て 『 三 縁 山 志

』 の 最 後 に は

、 文 政 二 年 五 月

常 誉 摂 門

( 花 押 )

と あ る こ と か ら 、 こ の

『 三 縁 山 志 』 が 文 政 二 年 五 月 に 筆 了 し た こ と が わ か る

。 以 上 の よ う に

、 大 ま か で は あ る が 『 三 縁 山 志

』 の 概 要 を 述 べ た

。 こ の 概 要 か ら も わ か る よ う に 、 記 載 内 容 は 多 岐 に 亘 っ て お り 、 当 時 増 上 寺 で 行 わ れ て い た 檀 林 修 学 を は じ め と す る 様 々 な こ と が 理 解 で き る

。 五 、

『 三 縁 山 志 』 の 構 成 の 相 違 次 に

、 『 三 縁 山 志

』 の 編 目 と 本 文 の 構 成 の 相 違 に つ い て 考 察 し た い

『 三 縁 山 志 』 に は 冒 頭 部 分 と 各 巻 毎 に 編 目 が 記 載 さ れ て い る 。 し か し 、 そ の 二 つ の 編 目 が 合 致 し て い な い

。 左 の 図 は

、 そ の 冒 頭 の 編 目 と 各 巻 の 編 目 の 相 違 を ま と め た も の で あ る 。

【 図 六 】

『 三

縁 山

志 』

冒 頭

の 編

目 と

各 巻

の 編

目 の

相 違

(20)

一一四

   六、結論   以上のように、本稿では大本山増上寺の「檀林志」である『三縁山志』を書誌学的に整理してきた。

同学寮内の所化などの相当な尽力によって完成した本であると結論づけることができる。 とめるにあたり、相当な力を結集して著したものであると考えられる。よって摂門のみの力で書かれたものではなく、 作である。また典籍名に山号が用いられていることから、摂門が一宗の総録所であった増上寺を「檀林志」としてま   『三縁山志』は他一七ヶ寺の「檀林志」と比較してみると、その文量は大部であり、一二巻一〇冊で構成される著 たのだろうと考えられる。 吉が跋文を寄稿したのが「文政元年戊寅季秋」となっていることから、この年を刊行年代として目録に記載してしまっ 版の誤りであると指摘できよう。『三縁山志』の跋文は「萩長(人物不明)」と箕山源吉の寄稿があるが、その箕山源 である。また国会図書館の目録に記載されている、「文政元年成立」は、次のような理由から文政二年(一八一九) な成立年が考えられるのか。それは奥書ではなく、跋文の年代を成立年として記載してしまったものと考えられるの 文政二年(一八一九)と文政元年(一八一七)、江戸末期という三つの年代が確認できる。では、なぜこのように様々   『三縁山志』は先述のように、文政二年(一八一九)版以外の版本は存在しないことがわかった。しかし目録には、

  また、『三縁山志』の構成の相違は様々見受けられた。『三縁山志』の構成は、一二巻一〇冊が基本となっている。しかし西尾市立岩瀬文庫本は、全ての巻が現存しているが、巻の編成が特殊であり、一二巻五冊の構成となっている。また名古屋市蓬左文庫本のみ三本欠落が見受けられ、一二巻七冊の構成となっている。また国会図書館本も編目、本文、跋文のみが現存しており、一二巻九冊の構成となっている。このように、基本的な構成となっている版本がほとんどであるが、この三本のように編成に多少相違が見受けられた。

  また『三縁山志』の概要については、紙数の都合上割愛することとする。

(21)

一一五『三縁山志』の概要と書誌学的整理について

し執筆していくのには十分な立場にあったものと思われる。 いたからであると思われる。また摂門が在心寮の学寮主を務めていたということもあり、増上寺において資料を閲覧 が当時総録所という宗門の中枢を担っていたことにより、資料を自由に検索・閲覧できたことが大きな要因となって   『三縁山志』の著者は摂門であるとされているが、摂門がこのような一二巻という大部を執筆できたのは、増上寺   以上のように、本稿では『三縁山志』を書誌学的に整理してきた。本発表で言及しきれなかった点も多々あるが、その点については稿を改めたい。

(大正大学大学院博士後期課程)

(1)玉山成元氏「関東十八檀林の成立」(『大正大学研究紀要』五二、一九六七年)(2)『華頂誌要』は明治四四年(一九一一)知恩院御忌法務局刊。大正一一年(一九二二)一月、知恩院寺務所より再版。知恩院の由緒、沿革史と寺域、殿堂、霊宝等の大要を掲載。知恩院による法然上人七〇〇年遠忌記念出版。詳しくは『浄全』一九を参照されたい。(3)『祐天寺史資料集』第二巻第三項所収。この中で『三縁山志』は、祐天大僧正の略伝と学寮についてのみ記載されている。ちなみに記載文章は、『三縁山志』と同じである。(4)『浄全』一九巻二七八頁下段(5)『浄全』二〇巻五七七頁上段(6)『浄全』二〇巻五七七頁上段 (7)『浄全』二〇巻五七七頁上段(8)『浄全』二〇巻五七九頁上段(9)『浄全』一九巻五七七頁下段

参照

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