幕末期における西周の憲法理論-2完-
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(2) 幕末期における西周の憲法理論︵二・完︶. 東洋法学. 松. 岡. 〜 ノ. 一. ﹃P 臼似. この二人の留学は︑既に述ぺたように︑幕府当局の上からの勧めによるものではなく︑みずからの希望によって︑. 送ることになった︒. ご鴇嘗国無雷節毯合o︒8〜一〇︒邉V︶の案内により汽車でライデンに赴き︑これ以後︑二人はここに留まって留学生活を. ロッテルダム港に到着し︑即日︑一行は留学生世話係の一人であるライデン大学東洋学部疑本語教授ホフマン︵ざ詳旨. 幾多の苦労のすえ︑晶川出航以来︑約ニカ月︑ようやく︑一八六三年六月五日︵文久三年四月一八日︶オランダの. ︵1︶. 日︵一八六二年七月一四日︶には︑その他の軍艦操練所組の人たちと同行して晶川を出帆し︑留学の途についた︒途中. 文久三年八月二九賃開成所と改称︶から幕命にょりオランダヘ留学することになったのであるが︑文久二年六月一八. 前述のように︑西周は津田真道とともに︑蕃書調所︵文久二年会八六二年﹀五月一八日洋書調所と改称︑さらに. 三.
(3) 幕末期における西周の憲法理論. 二. 西洋の学問を積極的に本格的に学ぼうとする意欲に燃え︑当局に熱心に運動した結果の自発的な特別参加であったの. であるが︑それでは︑二人はこの留学に具体的にどのような目的をいだいていたのであろうか︒それについては︑ホ ︵2︶ フマンが同年六月一二日に受取った西からの書翰に明らかである︒長文ではあるが︑主要な部分を左に掲げる︒. ﹁その留学の目的は︑我が国政府は︑帝国とヨーロッパ諸国との間には︑唯一つオランダ東印度会社との関係があ. るのみであったが︑七年前よりヨーロッパの若干の国々と修好条約を締結するに至り︑外交通商のいよいよ増加する. に従って︑日本政府もまた我が国にヨ⁝ロッパの学術を移入することの必要を感じて︑江戸に学校を設立し︑諸藩よ. り教師を選任してそこの教師となし︑種々の学問を教授させている︒けれどもその学校の設備及び教授法において︑. 尚幾多の不備歓陥を有し︑学問も物理学2簿饗蒔琶留数学≦一跨毒留化学ω︒ぽ涛§留植物学頓9きδ地理︾零. 象涛路琶留歴史学○霧畠δ留鉱の及び︑蘭︑独︑英︑仏2a亀き翻島ρ頴o露穿一誓汀︸団凝募島ρ閃鑓霧o罐を︑た だ読んだり︑理解する状態にある︒. ヨーロッパ諸国との関係において︑また内政及び施設の改良を行うためにも︑より必要な学問及び統計学ω糞翼包︷. 法律学国紹富αQ号銭ぽ嬢経済学浮oぎ旨一の政治掲oま魯外交U苞o目&Φ等の学問は全然知られていない︒. それ故に我々の目的は︑これ等一切の学問を学ぶにある︒僅かな滞在中に︑このように多くの︑そしてそのように. 大切な事柄を全部学ぶことは︑実に不可能なことであるから︑此等の諸学科を一章一章順序をたてて学ぶのではな. く︑それは今後第二回に派遣される若い学生にやらせることにして︑私の計画は要領をかいつまんで学ぼうと思う︒. 私の貴下に希望することは︑以上のことを諒承せられて︑私に一人の良師を選でいただきたいことである︒.
(4) フテンス語は各種の学問上︑非常に大きな役割を演じているが︑これを話すことは︑我々に甚だ困難風これを流. 暢に話すものは甚だ稀である︒私は時間の許す限りこれも学びたいと思う︒私は既に英語を学び︑それを読んだり︑ 理解したりすることが出来るが︑会話は出来ない︒. こ. 右の外︑尚︑哲学勺匡80嘗δと称せられる方面の領域も修めたいと思う︒我が国法が禁じている宗教思想は︑デ. カルトU①ω8誹畠ロックい8訂へーグル類oαQ忽カント鷺9具等の唱道したこととは相違していると思うから︑ れらも学びたいと思 う ︒. この仕事は困難であろうが︑しかし私が考えますに︑これ等の学問の研究は︑我が国の文化の向上に役立つところ. が少なくないと思うから︑短い期間のことで︑恐らくはむつかしいであろうが︑その一端なりとも学びたいと思う︒﹂. 右の書翰からも明らかなように︑西の留学の具体的な目的は︑e当時の日本にはまだ知られていないが︑今後の内. 外の諸問題に対応していくためにきわめて必要と思われる学問︑すなわち︑統計学︑法律学︑経済学︑政治学︑外交. などを短期間に要点的に学ぶこと︒⇔学問に必要なフランス語の学習︒◎日本で禁じられている宗教とは異なる哲学. の学習︒以上の三点であるが︑なかでも主要な目的はeであるとしており︑この主要な目的を達成するために﹁良師﹂. の推薦をホフマンに依頼している︒ ︵3︶ こうして︑右の主要な目的を実現するため二人を指導するように依頼されたのが︑シモン・フィッセリング︵ω巨8. フィッセリングは︑当時︑ライデン大学法学部教授の職にあって︑経済学︑統 く誘鼠醤合o︒蕊〜一〇︒o︒︒ o ﹀︶であった︒. 三. 計学︑ヨーロッパ外交吏の講義を担当していたが︑その教授就任演説が﹁経済学の基本原理︑自由について﹂と題さ. 東洋法学.
(5) 幕末期における西周の慧法理論. ︵4︶. 四. れていたように︑自由主義経済の主張者であり︑認識論的には実証主義︑経験主義であり︑倫理的には功利主義︑個. 人主義であり︑論理的には帰納法の立場をとっていたといわれている︒ ︵5︶ そこでフィッセリングは︑同年六月一六日付の﹁津田︑西両氏への教育に関する覚え書﹂をホフマン宛に送り︑そ の教育計画を示したが︑以後︑この計画にもとづいて教育が進められた︒. まず︑フィッセリングの指示によって︑講義を理解するために必要なオランダ語教育が行われることとなり︑ホフ. マンと小学校長のファンダイク︵窯ののω§<目9旨︶とによって︑三ヵ月にわたり徹底したオランダ語教育が行わ れ︑やがて始まる講義に備えた︒ ︵6︶. ついで同年二月三日からは︑さきの教育計画にもとづき︑その自宅で毎週二晩︑ニカ年聞にわたる講義が開始さ. れたが︑その開講に当り︑フィッセリングは次のような講義の方針を述べている︒すなわち︑eここでは﹁治国学﹂. の基礎について簡潔に講述するにすぎず︑したがってさらに一層それを深めるためには︑諸書を参考としてみずから. 研鑛して欲しい︒⇔ここで講義するのは︑ヨーロッパの碩学たちが考究したところの学問である︒◎このヨーロッパ. ﹁第一に性法を論ず︑是凡百法律の基礎たればなり︑次に万国公法併に国法を論ず︑是レ性法を推. の学問をヨ本の国家人民に活用するのは二人の責任である︒四宗教については一切述べることはしない︒㈲﹁治国学﹂ の講義の順序は︑. 拡し外は以て万国の交際を律し︑内は以て国家の法度に準ずる者なり︑後又制産学を論ず︑是国を富し民を安んず其. の基礎的学問としての五科の. 道如何を教ゆる者なり︑而て是を終る政表に於てし︑而て国の情状如何を察する其周密を悉すの術を以てす﹂︒ こうしてこの講義の方針にしたがって︑﹁治国学﹂︵国家学︶︵ω欝簿裟簿①器畠8速p︶.
(6) ︵7︶. 学問−自然法︵性法︶の知識︵留譲窪艮のく目ゲ簿2餌葺震器鴨︶国際法︵万国公法︶の知識︵留丙窪鉱のぐき浮け. <o浮Φ糞Φαq梓︶国家法︵国法︶の知識︵留民窪昆ω︿§げ簿ω欝象の目紹け︶経済学︵制産学︶の知識︵留区臼艮︒◎︿醤留. ω$舞び忌昏o&ざ&o︶統計学︵政表学︶の知識︵留涙窪鉱ω<磐留ω欝蓼一陣魯︶ーについて順次熱意のこもった好意 ︵8︶. ︵10︶. あふれる講義が行われ︑二人も﹁旺盛な知識欲をもった努力家﹂として熱心に聴講し︑一八六五年一一月にはその講 ︵9︶ 義が終了し︑この講義によって﹁ヨーロッパの学問の概念および知識を獲得すること﹂に成功して︑オランダ留学の. 目的を達成することができた︒. そこで二人は︑フィッセリングに感謝の意を表明し︑同年一二月一日︵慶応元年一〇月一四日︶にはライデンを出. 発して帰国の途につき︑途次比較的順調に︑幕府と倒幕派との政治的対立がようやく激化しつつあったころ︑慶応元. 年一二月二八日︵一八六六年二月コニ日︶無事︑留学の輝しい成果をもって横浜に帰着した︒品川出航以来︑約三年 半のことであった︒. この留学は︑勿論︑西にとって津田と同様︑ヨーロッパの学問を直接︑本格的に学んだ初めての経験であったが︑. オランダ側の留学生受け入れ態勢が万全であったこと︑二人がともに儒学の高い教養をもつとともに︑蕃書調所教授. 手伝としてすでに相当高い洋学の知識をもっていたこと︑フィッセリングの好意的な熱意のある教授︑それに二人の. 積極的にして熱心な真面目な勉学態度などのことがあって︑前述のようにその留学の目的を成功のうちに達成するこ. とができたのである︒このように︑この留学によってヨ1ロッパの学問︑特に社会諸科学を初めて本格的に移入した. 五. ことは︑二人のそれぞれ人生にとって誠に意義深いことであったことはいうまでもないが︑さらに加えて︑近代日本. 東洋法学.
(7) 幕末期における西周の憲法理論. 三巻. 七三六−七五三頁参照 二巻. 森林太郎. 七〇一−二頁. および 解説. 八○頁. および. 参照︒. 五科学習関係蘭文編 一九〇⁝二頁. 参照. 六. ﹁西家譜略﹂. ﹁西. ﹁シモン・フィッセリン. 七六ー八四頁参照︒. 参照︒. 一八○ー一. 一七五頁参照︒蘭文の原. 一七九i一八一頁参. ﹁幕末維新の洋学﹂所収︶. 五科学習関係蘭文編. 大久保利謙編著﹁幕末和蘭留学. 渡辺与五郎. ﹁西周伝﹂前掲 参照. 一七六⁝八頁参照︒ 参照︒. 一四一ー二頁. 参照︒蘭文の原文については︑日蘭学会編 二巻. 前掲. 一七二ー五頁参照︒蘭文の原文については︑日蘭学会編. 前掲. 二五t五八頁. の学問史上︑きわめて画期的にして価値あることであり︑特筆大書すべき壮挙であったということができる︒. 周全集﹂前掲. ︵1︶ この留学旅行については︑宮永孝 ﹁幕府オランダ留学生﹂︵東京書籍株式会社︶. ︵文化書房博文社︶. ︵2︶ 全文については︑﹁西周全集﹂. グ研究し. 一七二ー五頁. 四〇i六一頁参照︒. ︵雄松堂書店︶五科学習関係蘭文編. 前掲. ︵近藤書店︶. フィッセリングについては︑渡辺与五郎前掲. 関係史料集成﹂. ︵3︶ 渡辺与五郎. 麻生義輝. ﹁近世日本哲学史﹂. ︵5︶. ︵4︶. ﹁五科学習関係文書﹂. ﹁幕末の和蘭留学生﹂︵﹁大久保利謙歴吏著作集﹂ 5. ﹁西周全集﹂前掲. ︵6︶. その内容 の 概 略 に つ い て は ︑ 大 久 保 利 謙. 頁参照︒ ︵7︶. 前掲. フィッセリソグの一八六五年二月二八日付︑西と津田に宛てた書翰の一節︒渡辺与五郎前掲. ︵吉川弘文館︶九五ー九頁参照︒ ︵8︶. 照︒蘭文の 原 文 に つ い て は ︑ 日 蘭 学 会 編. 前掲の津田の一八六五年二月二七日付の書翰に明らかである︒. ︵9︶津田の一八六五年二月二七翼付︑フィッセリングに宛てた書翰の一節︒渡辺与五郎前掲 文については︑日蘭学会編前掲 五科学習関係蘭文編 一八九頁参照︒ ︵⑳︶.
(8) 東洋法学. 七. て側近におこうとしたからであったと思われる︒こうして西は︑慶応三年一二月九日王政復古の大号令が発せられ︑ ︵6︶ これを不満とする将軍慶喜に従って︑京都から大阪へ退去するまでの︑約一年三カ月ばかりの間滞京したのである︒. ︵5︶. は益々幕府にとって不利な状況となったため︑これに対処すべき一方策として︑新知識をもつ洋学者たちを顧問とし. 五日には着京した︒これは︑再度の長州征伐の失敗︑七月二〇日の一四代将軍家茂の死去などのことがあって︑形勢. していた慶喜から︑津田とともに急ぎ上京するよう召命を受け︑九月一九日には急遽江戸を軍艦にて出航し︑同月二. このように︑西は開成所教授職として重用され︑洋学者として前途洋々たるものがあったが︑突如︑当時京都に滞在. はω欝働婁紹け︵国法︶をそれぞれ担当することになり︑津田は五月一五日には訳稿を起こし︑八月二五日ごろには訳 ︵4︶ 了しているが︑西もほぼ同じころには訳業が相当進行していたものと思われる︒. ついで同年四月には︑フィッセリングより受けた講義筆記の翻訳を命ぜられ︑西は<9落導Φ讐︵国際法︶を︑津田. されていたかをうかがうことができる︒. めに必要な︑開成所教授規則の取調を︑津田︑加藤弘之︑市川兼恭らとともに命ぜられた︒さらに同年三月一三日に ︵3︶ は直参に抜擢されるとともに︑開成所教授職に昇進したが︑いかに幕府当局より留学から得た知識︑学問を高く評価. ︵2︶. 同年一月一五日には︑津田と同様︑前職・開成所教授手伝に復帰し︑その新知識が期待されて︑新時代に即応するた. ︵1︶ 西は︑帰朝早々︑慶応二年の新しい年を迎え︑オランダ帰りの見聞を聞こうと年始客が相次ぎ多忙をきわめたが︑. 四.
(9) 幕末期における西周の憲法理論. 八. ところが命によって急ぎ上京し︑﹁何力国政上ノ御尋ニテモ有ルヘキコト﹂と期待していたが︑それに反して︑﹁久 ︵7︶ シク何ノ命モ無ク﹂﹁閑暇ナレハ公法訳本ノ校正ナドニ従事シ余ハ酒色二日ヲ消セリ﹂という無気力な日々を過して. いたが︑津田のみは御用なしとして︑江戸へ帰るよう命ぜられ︑二月には退京した︒西は一二月にはくo涛①欝の讐 ︵8︶. の訳業を完成し︑同月二八日にはその訳本を幕府当局へ献上したものと思われる︒だが︑この一二月ごろから西の身 辺はにわかに慌しくなった︒. 一二月二〇日︑徳川昭武に対して︑将軍慶喜︵同月五臼将軍職を継ぐ︶の名代として︑︒ハリ万国博覧会への使節と. して派遣されるとの命が下ったが︑西は昭武の早速の招きに応じて︑﹁西洋ノ風習﹂や﹁航海ノ利害﹂などについて ︵9︶. ︵憩︶. 説明を行い︑また昭武の随行者となった旧友・木村宗三からはその京都で開いていた洋学塾を託されたことから︑そ の洋学塾を引き継ぐことになった︒. こうしてこの年が暮れ︑慶応三年の新年を迎えたが︑この新春の漢詩によせて︑将軍慶喜を︑発舜︵中国古代の聖. 天子︶を模範とする明君に育て上げようという決意をひそかに示した︒かつて安政四年一〇月︑慶喜に対して北海道. 開拓に関する建議書を提出して︑開拓の大任を引き受けるべき人物として期待したのであったが︑それは実現せず︑. いまや次第に慶善を身近かな存在として意識することができるような機会が訪れようとしていたとき︑まさに名将軍. となるべき期待をもって︑西はそのために努力しようとの意思を漢詩をもって表わしたのであるが︑この年は︑やが て慶喜の近くに侍して︑フランス語を教え︑また種々の献策などを行うこととなる︒. 慶応三年二月には︑住居を更雀寺︵四条通︶に移して︑さきに託された洋学塾を公務の余暇に開き︑会津︑桑名︑.
(10) ︵R︶ 津︑福井︑松山などの諸藩士および幕臣︑五百人近くが受講生とL︶て集まったが︑学問の水準は低調であった︒この ︵13V. ︵鴛︶ ころすでにく亀8簿︒αqけについで︑2帥ε貫器αQけの翻訳に従っており︑また﹁立憲君主制と連邦制度との利害﹂および ︵M︶. ︵欝︶. ﹁中央集権論﹂などの稿本を書いている︒さらに四月には京都所司代松平定敬に﹁ホリテーキヱーテンシカップ﹂. ︵bo一蕊舞名簿窪ω畠巷政治学︶を教え︑その他コ両輩﹂の諸侯にも﹁西洋法学﹂の講義をしている︒. このように西は︑前年末以来︑それまでの無聯から脱して︑西洋の学問・諸事情についての教育︑研究︑翻訳などに. 多忙な日を過すようになり︑したがって交際範囲も拡大していったが︑三月一四照︑突然︑将軍慶喜から召出され︑ ︵弼︶ ﹁洋書之事御尋有之二付︑仏語可然段御答申上候﹂ということになり︑﹁侍読﹂としてフランス語を教えることにな. って︑日々﹁登営﹂することになった︒こうしてようやく慶喜の近くに直接侍することができるようにはなったが︑ ︵ ︶ さきの漢詩に示したような名君に育て上げようとの期待に反して︑﹁毫もホリチーキ︵政治︶に相関する﹂ことでは. なく︑﹁蒼生﹂の生活︑利益とは無関係な﹁仏語御稽古﹂という仕事であったので︑いささか期待外れではあった︒. だが︑熱心にフランス語を勉強している慶喜が近い将来﹁洋書之道理﹂を理解してくれる資がくるだろうことを願っ て︑毎日﹁朝之四ツから晩は八ツ半七ツ頃迄﹂君側に仕えていた︒. さらに五月二一日には﹁奥詰﹂に任命され︑フランス語の﹁侍読﹂ほか︑﹁政庁之翻訳御用﹂をも兼務することになり︑ ︵追︶. ﹁異国交際﹂に関する仕事が与えられて︑内心﹁大二得意﹂であった︒だが︑西を失望させるようなことが起こっ. ︵19︶. た︒慶喜が︑朝廷方と夜明けごろまで大激論を続けたある朝︑それまで覚えたフランス語をすっかり忘れ︑﹁政事ト. 九. 学業トハ同時二兼ネ攻ムヘキモノニ非ス﹂として︑フランス語の勉学を全く廃してしまったのである︒こうして折角. 東洋法学.
(11) 幕末期に お け る 西 周 の 憲 法 理 論. ︵20︶. 一〇. の西の期待も空しくなり︑﹁此頃余ハ飲酒ノ過度ナリシ故ニテ気分勝レス︑欝々楽マス︑且ツ勤務トテモ無ク唯奥二 ︵21︶. 出勤シテ奥詰医師ナト同様二談話二日ヲ暮ス事ノミナリ﹂という以前のような張り合いのないことになってしまった. が︑洋学塾の方は相変わらずますます盛況であって︑この秋に移った﹁三条組屋敷中ノ屋敷ハ余り広シト程ニハ非レ ︵22︶ トモ︑玄冠ヨリ其次々マテ又門二続キタル長屋ニモ書生充満シ殆ト三十人ニモ及ヒ︑又通学ノ者ハβ々二増シタリ﹂. という有様であった︒さらに︑かつて穰夷鎖国を主張した﹁志士﹂のうちにも︑西洋通である西の意見を求めるもの. ︵23︶. が現われ︑あるいは公卿のなかにも西に会おうとする動きもあり︑洋学者としての西の声望はきわめて高いものがあ. った︒なおまた︑家族を京都へ呼び寄せることとして︑一〇月八日には京都へ到着した︒. このころ︑﹁折カラ世ノ中何トナク騒シク成り行キテ﹂薩長の倒幕派は武力討幕のための行動を活発に展開してい. たが︑この武力討幕計画の先手を打つべく︑公議政体論を主張して大政奉還の実現に奔走していた土佐藩士後藤象二. 郎は︑武力討幕派の薩摩藩士小松帯刀︑西郷隆盛︑大久保利通らの了解をようやく取り付け︑一〇月三日︑老中板倉. 勝静を訪ね︑前土佐藩主山内豊信︵容堂︶の名において︑大政奉還の建白書を提出した︒六日には芸州藩からも同様. の建白書が提出された︒これらの建白書を受けて︑将軍慶喜は奉還の意思を固め︑一二日には幕府諸有司に対して奉 ︵24︶. ︵25︶. 還の了承を求め︑;百には在京四〇藩の重臣を二条城に召集して︑奉還の是非を諮問したが︑いずれも賛成の意を. 表明したので︑その意思を最終的に固めたのであった︒同じ二二日︑西に対して﹁俄カニ表ヨリ召命アリ﹂その夕に. は慶喜から直接︑西洋の政治事情について質問を受け︑﹁英国ノ議院ノ事ナト︑三権ノ分別ナト問ヒ玉フナリ︑即チ ︵26︶ 概略ヲ申シ上ヶ猶記シテ上ラントテ退出シテ家意速り︑其夜認メ了リ翌朝之ヲ上ッリタリし︒このとき提出し売のが︑.
(12) ︵29︶. ︵27︶. ︵28︶. ﹁西洋官制略考﹂と呼ばれているものであるといわれているが︑確証がない︒そしてその﹁西洋官制略考﹂の稿本と. いわれているのが︑﹁泰西官制説略﹂であり︑それは三権分立制について論述されている︒このように︑大政奉還の. 意思を決定し︑奉還後の政治をどのようにすべきかについて考慮していた慶喜は︑公議政体論を取り込む形でその政. 治構想を考えるに当っての参考とするため︑洋学者としての西に対して︑西洋の政治ー三権分立制ーについての知識 ︵30︶. の提供を求めたのではないかと思われる︒そしてこれ以後もしばしば慶喜は︑公私・大小の種々な疑問について西の. 西洋知識による説明を求めた︒ ︵31︶ 慶喜は翌一四日には大政奉還の上表を朝廷に差し出したが︑その上表には︑﹁当今外国の交際日に盛なるにより︑. 弥朝権一途に出でずしては紀綱立ち難きを以て︑従来の旧習を改め︑政権を朝廷に帰し奉り︑広く天下の公議を尽. し﹂とあって︑公議政体論の立場からする大政奉還論が述ぺられているが︑奉還後の具体的な政治構想についてはな にも触れていない︒. 翌一五日には朝廷より奉還勅許の御沙汰書がでたが︑その別紙に︑﹁国家の大事・及外国の事は衆議を尽し︑諸大 ︵32︶. 名の伺・仰出され等は︵議伝︶両役之を掌り︑其他の事は召の諸侯上京の上御決定あるべし︑それまでは徳川支配地. ・市中取締等︑姑く旧慣に拠るべし﹂とあって︑大政奉還を受け入れた朝廷としては︑諸侯会議を開催することがで. きるまでは︑一般庶政について従来通り慶喜の側において処理すべしというのであった︒このように朝廷側において も︑諸侯会議の開催以外には具体的な政治構想はなかったのである︒. 二. そこで朝廷では諸侯会議を開催するため︑諸侯に対して同年一一月中旬までには上京するよう朝命を発したが︑多. 東洋法学.
(13) 幕末期における西周の憲法理論. 一二. くの諸侯は形勢を観望し︑あるいは徳川家恩顧の諸侯はこれを忌避して︑なかなか上京せず︑したがって諸侯会議を 開くことができずして︑庶政は慶喜に委任されたまま日が過ぎていった︒ ︵33︶. こうして大政奉還後の新しい政治構想が依然として決定されず︑これを憂慮し焦慮した朝廷は︑慶喜に対して諸侯. 会議の開催に尽力するよう督励したりしていたが︑二月一五日︑摂政二条齊敬が慶喜に対して﹁王政を復古するに. は諸事曖昧なるべからず︑さりとて今俄に往古の如き郡県の世にも復し難かるべし︑然らば朝廷の綱紀いかにして一. ︵34︶. 途に置くべきか︑右封建・郡県の儀に限らず︑諸事について意見を尋ね下さる︑宜しく朝権一途の見込を言上すべ. し﹂と諮調し︑さらに一七段には慶喜のみならず諸侯に対して﹁政権返上を聞召されし上は︑神祇官︑太政官を始め︑. 旧儀御再興の思召なるを以て︑いづれ八省寮司の中へ諸藩を召加へられて︑年々交代勤仕あるべく︑細目の儀は追々. 仰出さるべし︑右に基きて意見を言上すべき事︒往古の郡県には復し難きにより︑封建のまま名分の明に立つやうに ︵35︶. 遊ばされたき事︒政務往古のままには運ひ難けれども︑総べて新法のみも宜しからず︑成るべくは旧儀に基くやうに. と思召さるる事﹂との﹁三事﹂について諮講があり︑大政奉還後の朝廷による政治的統一の方策とそれに伴う具体的. な政治機構について諮問しているが︑これらの諮訥についてみるとき︑朝廷の政治構想の基本はまさに王政復古であ. り︑封建制の存続を前提としたうえでの太政官制への復帰であり︑なんら新しいー西洋的なー政治構想を含むもので はなかったといってよいであろう︒ ︵36︶. 慶喜はこれらの諮謁に対して︑﹁愚見の趣あれども︑尚熟考して︑衆諸侯上京の上建言仕るべければ︑公議を尽し て万機の基本を立てさせられんことを請ふ﹂と答えたのであった︒.
(14) それでは︑その﹁愚見の趣﹂すなわち慶喜の政治構想とは一体どのようなものであったのであろうか︒その政治構 ︵37︶ 想をもっとも具体的に現わしているのが︑西の﹁議題草案﹂であるといわれている︒前述のように︑西はすでに慶喜. の諮問を受けて︑一〇月一四藏朝︑三権分立制について答申し︑その後も種々な問題について答えていたが︑二月. 下旬︑慶喜の側近であった平山敬忠の手許にまで﹁議題草案﹂を提出した︒これは西が慶喜のために作成した政治構 ︵38︶. 想であり︑平山はこれを熱心に閲読しており︑平山を通じて慶喜の政治構想に恐らく影響を与えたであろうことは十 分推察することができる︒. ︵40︶. このように﹁議題草案﹂は︑大政奉還後の慶喜の政治構想を考えるに当っての重要な文書であるが︑それはまた︑ ︵39︶ 西が西洋で学んだ政治と法の理論を参酌して︑現実の政治状況に適応させるべく作成した憲法草案であり︑あるいは 国家制度の草案であった︒. こうして西が﹁議題草案﹂を提出し︑慶喜がその政治構想を固めようとしていたころ︑大政奉還後︑京都で一時勢. 力が衰えていた武力討幕派が︑同年一一月申旬ごろから︑薩長の軍事力を結集することに成功して︑その勢力を盛り. 返し︑やがて岩倉具視︑西郷隆盛︑大久保利通らの画策により︑後藤象二郎たちの公議政体派を押え︑一二月九日に. は王政復古の大号令を発して︑倒幕派を中心とする新政府を成立させ︑慶善を排斥したので︑これを不満として︑慶. 喜は京都から二一月一二日大坂城へ退いた︒かくして薩長側と徳川側との対立は慶応四年一月初めの鳥羽・伏見の戦. となり︑敗れた慶喜は江戸へ逃れた︒西は慶喜の京都退去とともに大坂へ︑さらには敗戦によって一月二一日江戸へ. ご一一. 帰った︒かくて﹁議題草案﹂は実現されることなく︑慶喜側の政治構想を示すものとして︑また西の当時の政治と法. 東洋法学.
(15) 幕末期における西周の憲法理論. ﹁西家譜略﹂. ﹁西周全集﹂. 前掲. 三巻. の理論を現わすものとして残ったのである︒. ︵王︶. 前掲. 七五五頁. らかである︒蘭文の原文については︑蟹蘭学会編. 32. 前掲. ﹁西周全集﹂前掲. 一四. 参照︒また西の一八六六年二月六日付︑フィッセリング宛の書翰に明. 参照︒. 七五五頁参照︒. 一九三−四頁. ﹁西周全集﹂前掲 三巻. 五科学習関係蘭文編. 八七頁参照︒この昇進に当っての幕府当局の理由書の一節に︑﹁真一郎︵津田︶周助︵西︶儀去ル戌年. 二巻. 解説. 5. 前掲. ﹁開成所伺等留・坤﹂抄. 参照︒. ﹁幕末維新の洋学﹂所収︶︵吉川弘文館︶. 二六−三〇頁. 一五五. 六八四⁝五頁参照︒なお津田はその訳本を九月には幕府に提出していると思われる. この滞京期間中の詳細な出来事については︑蓮沼啓介. 参照︒. 前掲. 三巻. 六二九頁参照︒. 六九九頁参照︒この翻訳は完成したが︑慶応三年一二月︑慶喜に従って京都を退去したと. ﹁西周全集﹂. 六八五i六九八頁参照︒この﹁万国公法﹂の献上本. 且學愉閑年少人﹂. 解説. ﹁客裏偏驚物色新 正逢三十九回春 致君発舜非無意. ﹁西家譜略﹂ ﹁西周全集﹂ 前掲 三巻 七五七ー八頁. 二巻. 参照︒. ﹁西周に於ける哲学の成立﹂︵有斐閣︶. 大久保利謙﹁津田真道の著作について﹂︵﹁大久保利謙歴史著作集﹂. ︵6︶. 七五六ー七頁. ︵船︶. 二巻. ﹁西周全集﹂. ﹁西家譜略﹂ ﹁西周全集﹂前掲 三巻 七五八⁝九頁参照︒. 前掲. ︵鶏︶. ︵U︶. ︵9︶. は今日伝わっていない︒. 八九頁参照︒﹁西周全集﹂前掲. 三巻. ﹁西周伝﹈前掲. ﹁西家譜略﹂. 前掲. ︵7︶. ﹁西周全集﹂. ︵8︶. ;六頁参照︒. ︵5︶. が︑この進献本が後に改訂されて︑慶応四年春︑江戸開成所から出版された﹁泰西国法論﹂である︒. ︵4︶. 六九九ー七〇四頁参照︒. 彼国政躰事情通覧致し罷帰候二付︑此度新規被召出︑教授職被仰付﹂とある︒日蘭学会編. 中より阿蘭陀国江為伝習罷越︑昨丑年迄四ケ年之間レーテン府学校二おいて勉強刻苦致候二付︑学術之成熟は申迄も無之︑. ﹁西周伝﹂. この取調は中途で終わり︑完成しなかった︒﹁西家譜略﹂. (( )).
(16) ︵13︶ 西周の慶応三年四月七日付︑津田真道に宛てた書翰. ﹁西周伝し前掲九一頁参照︒小山正武の言葉︒. き︑紛失した︒. ︵14︶ 西周の慶応三年四月七日付︑津田真道に宛てた書翰. ︵茄︶ 西周の慶応三年五月九日付︑松岡鱗次郎に宛てた書翰. 西周の慶応三年四月二六日付︑津田真道に宛てた書翰. 前掲. 三巻. 六三五頁. 参照︒. 参照︒. ﹁西周全集﹂ 前掲 三巻六六三頁参照︒ ﹁西周全集﹂. 参照︒. 六六四ー五頁. 六六二頁. 三巻. 三巻. 前掲. 前掲. ﹁西周全集﹂. ﹁西周全集﹂. ︵焔︶. ﹁西周全集﹂. 前掲. 三巻. 三巻. 七六〇頁. 七六〇頁参照︒. 七五九ー七六〇頁. 参照︒. 七五九頁参照︒西周の慶応三年六月二二日付︑松岡鋳次郎に宛てた書翰︒. ︵葺︶. ︵18︶ ﹁西家譜略﹂ ﹁西周全集﹂ 前掲 三巻. ﹁西家譜略 ﹂. 前掲. 三巻. お︑この書翰には﹁奥詰﹂任命が五月一九沼とある︒. ﹁西周全集﹂. 前掲. ︵鶏︶. ﹁西家譜略 ﹂ ﹁西周全集﹂. ︵20︶. ﹁西家譜略﹂. ﹁小山正武の日く︒当時の事︑周或は自ら以て無聯となししならん︒而れども志士の嘗て鎖港. 参照︒. ︵飢︶. 八八頁︒. ﹁西周伝﹂. 渋沢栄一. ﹁西周全集﹂. 前掲. 三巻. 七六〇頁. ﹁徳川慶喜公伝﹂︵平凡社東洋文庫獅︶. ﹁西家譜略﹂. ずと云ふ︒﹂. ︵24︶. ︵3 2︶. 三巻. 七六一ー二頁. 七六一頁. 四八⁝六五頁. 参照︒. 前掲. 三巻. 4. ﹁西周全集﹂. 前掲. 参照︒. 参照︒. ﹁西家譜略﹂. ﹁西周全集﹂. 一七ー八頁参照︒. ﹁西家譜略﹂. 庫76︶ ︵25︶. ︵26︶. 東洋法学. 参照︒. 渋沢栄一編. 一五. ﹁昔夢会筆記﹂︵平凡社東洋文. 士を利せしことを想ふ可きなり︒中川宮︑ 山階宮等も亦周の名を聞いて引見せんと欲す︒幕府有司のために阻げられて成ら. 禄を逓減し︑門閥を廃絶し︑兵制を驚正することの時の急務なるを言ひて︑ 人をしてその識に服せしめき︒その天下後進の. の論を操持せしもの︑馬関鹿児島の役に徴して︑ 其非を悟り︑京都に至るごとに周を訪ひ︑其意見を叩きしなり︒周乃ち世. 前掲. ︵2 2︶. な.
(17) ︵27︶. ︵28︶. ︵30︶. 幕末期における西周の憲法理論. ﹁西周伝﹂前掲九一頁参照︒ 七一六頁参照︒ 一八醐ー一九六頁参照︒. 七五頁参照︒. 九六ー七頁参照︒. 一〇二頁参照︒. 一〇二頁参照︒. 二七四頁. ﹁西周全集﹂ 前掲 二巻 解説. 七一七頁参照︒. 参照︒田中彰 ﹁幕府の倒壊﹂︵﹁岩波講座 日本歴吏﹂ 欝 近世. 三巻七六二ー四頁参照︒. 六五ー六頁参照︒. 前掲. 前掲 二巻. ﹁西周全集﹂ 前掲 二巻 解説. ﹁西周全集﹂. その全文は﹁西周全集﹂ ﹁西家譜略﹂. ﹁徳川慶 喜 公 伝 ﹂ ﹁徳川慶 喜 公 伝 ﹂ ﹁徳川慶 喜 公 伝 ﹂. ﹁徳川慶喜公伝﹂. ﹁徳川慶 喜 公 伝 ﹂. ︵青木書店︶. 一〇二ー三頁参照︒. 山. ノ\. 二巻. 解説. ﹁明治維新の舞台裏し. 前掲. 一巻. 七一一⁝七一七頁. 二号. 前掲. 五一⁝二頁. 三二七−八頁参照︒. 参照︒石尾芳久. 前掲 一七四頁参照︒. ﹁維新前に於ける憲法草案﹂. 前掲. 参照︒石尾芳久 ﹁大政奉還と討幕の密勅﹂︵一一二書房︶ 五二頁 参照︒. 参照︒. 三三八頁参照︒石井孝 ﹁維新の内乱﹂︵至誠堂︶ 五頁参照︒石井孝 ﹁明治維新の舞台裏﹂︵岩波新書︶ 二. ﹁明治維新政史研究﹂. ﹁徳川慶喜公伝﹂. 田中彰. 444444. ︵9 2︶. ︵訂︶ ︵32︶. ︵33︶. ︵額︶ ︵35︶. ︵36︶. ︵37︶. 5︶所収. 石井孝. 尾佐竹猛. ﹁西周全集﹂. 版 一七四頁 ︵38︶. ︵39︶. ︵菊︶. 前前前前前前 掲掲掲掲掲掲. の動静との関連において述べたのであるが︑本節においては︑﹁議題草案﹂の内容そのものを検討することにょって︑. 前節においては︑﹁議題草案﹂の成立過程を︑オランダ留学後の西の歩んだ経歴と大政奉還後の政治過程︑特に慶喜. 五.
(18) そこに表現されている西の政治と法の理論を明らかにしたいと考えている︒そこで︑この﹁議題草案﹂の内容を検討. するためには︑それに先立って︑まず西がその文書を作成するための基礎となった政治と法の理論はどのように形成 されたかについて考察する必要があると思われる︒ ︵王︶. ︵2︶. 西が政治あるいは法に深い関心をもつようになったのは︑既に述べたように︑一八才の時︑たまたま荻生但篠の書 ︵3︶. 物を読み︑但篠学の実用主義の立場から﹁禮楽之可貴﹂として︑礼楽︵法制節度または制度︶が非常に重要であるこ. とを悟るにいたってからといってよいであろう︒その後︑洋学を学び︑オランダ留学直前には︑イギリスやアメリカ ︵4︶ の政治制度が発舜の政治より遙かにすぐれていることに気付いて︑西洋の政治・法・制度への高い関心をもつにいた ︵5︶ っており︑したがってオランダ留学には非常に期待をもち︑その留学の主要な目的も法律学︑政治学︑経済学などを. 学ぶことにあったことは前述の通りである︒こうして津田とともに留学した西は︑フィッセリングから︑その留学目. 的に副った学問として﹁治国学﹂の基礎である五科の学問について直接教授を受け︑輝しい成果をもって︑帰朝した のであった◎. 帰国後︑慶喜の召命によって京都に滞在し︑﹁議題草案﹂を作成したころの西の政治および法に関する知識は︑い. うまでもなく︑フィッセリングから授けられた五科の学問のうち︑特に自然法︵性法︶の知識︑国際法︵万国公法︶の. 知識︑国家法︵国法︶の知識などが主要なものであったことは疑いのないところであろう︒自然法については︑西は ︵6︶. ︵7︶. 慶応三年初めごろには翻訳を始め︑﹁性法説約﹂と題されていたが︑同年末︑慶喜に従って京都を退いた際の混乱のな. 一七. かで︑その稿本を紛失してしまった︒その後︑神田孝平によって︑明治四年︵一八七一年︶春︑﹁性法略﹂と題して翻. 東洋法学.
(19) 幕末期における西周の憲法理論. ︵9︶. 一八 ︵8︶. 訳出版された︒国際法については︑西が慶応二年二一月翻訳を完成し︑同月二八沼には訳本を幕府に献上したが︑西. の訳稿本も献上本も今日伝わって恥ない︒現存する﹁万国公法﹂は西の門人の写本から印刷したものである︒また国 ︵憩︶. 家法については︑津田が慶応二年九月︑翻訳を完成して幕府に献上し︑慶応四年春にはその献上本が改訂されて︑﹁泰. 西国法論﹂として出版された︒このように右の三つの書物はいずれも現存しており︑これらを通して︑当時の西の政. 治と法の理論を窺い知ることができるのであるが︑さらに﹁議題草案﹂の内容を考察するに当って︑当時の西の政治. と法の理論をもっともよく表現しているのは︑前述の﹁泰西官制説略﹂ではないかと思われる︒これは﹁議題草案﹂. より暫く前に書かれたものであり︑内容的にもその文書と非常に関連しており︑国家制度としての三権分立制の理論. について述べられている︒かくて︑﹁議題草案﹂の内容を検討するためには︑右の四つの書物を論拠として考察を進. める必要があると思われるが︑なかでも重要なのはその内容からいって﹁泰西国法論﹂および﹁泰西官制説略﹂では ないかと考える︒したがってこの二つの書物を主な論拠として検討を進めていきたい︒. ここに﹁議題草案﹂とは﹁上﹂と﹁別紙議題草案﹂との二つを一括したものをいうのであるが︑﹁上﹂は前文であ ︵亘︶. り︑この前文においては︑大政奉還後︑間もなく開かれるであろう諸侯会議開催に当っての﹁会議之仕法﹂すなわち会. 議の運営方法︑−特に﹁会議世話役﹂の設置と︑その会議に提案すべき﹁議題草稿﹂としての新しい国家の﹁制度之大. 略﹂︑この二つの問題を考究する必要性を上申している︒そしてその国家の﹁制度之大略﹂の主要な改革項目として︑ ︵扮︶ ﹁第一には禁裏之権︑第二には政府之権︑第三には諸大名之権﹂の三項目を挙げている︒さらに﹁上﹂においては︑. 国家制度の改革方法について︑西洋の制度を参考とするに当っては︑﹁外形﹂にとらわれないで︑日本の実状をふまえ.
(20) ︵捻︶. たうえで採用すべきであるとしており︑換言すれば︑西洋の政治と法の理論を機械的︑表面的に適用するのではなく︑. 日本の現状に適合するようにすべきことを説いている︒これが︑西がこの﹁議題草案﹂を作成した基本的姿勢である︒. したがって︑西の国家制度の改革案はフィッセリングから学んだ西洋の政治と法の理論の単なる適用ではなく︑﹁別. 紙議題草案﹂においては︑右の三つの改革項目について︑当時の政治状況をふまえたうえでの具体的な改革案が提示 されている︒. そこで︑この﹁議題草案﹂にもとづいて︑具体的な個々の改革案の内容について説明しなければならないのである ︵M︶ が︑それは既に︑田中彰教授によって詳細に行われており︑したがってここで繰り返すことはしないであろう︒ここで. は田中彰教授の説明を参照しながら︑この文書が書かれた基本的な意図およびその文書を書くために使われた基本的 な理論について検 討 し て み た い と 考 え て い る ︒. 第一の問題は︑西がこの文書を一体どのような基本的な意図にもとづいて作成したか︑という問題である︒この文. 書は将軍慶喜のために作られたものであり︑大政が朝廷に返上されはしたものの︑朝廷側には到底政権を担当してい. く能力はないと判断しており︑したがって慶喜に従来通り政権が委任されるであろうとの予測のうえに立って︑公議. 政体論を取り込みながら︑慶喜狂徳川側にょる支配を継続していく体制をどのように構築するか︑ということが根本 的な意図であったと思われる︒. したがってこの文書は︑徳川幕藩体制の根本的変革を意図したものではなく︑幕藩体制の最小限度の現実的改革を. 一九. 目差したものであって︑大政奉還という大義名分のもとで︑公議政体論特に議会論︵具体的には諸侯会議︶をその改. 東洋法学.
(21) 幕末期における西周の憲法理論. 二〇. 革のための手段方法として取り込みながら︑現実には﹁大君﹂が政治権力の頂点に立って絶大な政治権力を振るうこ. とができる政治体制︵大君制と呼ぶことができるであろう︶ーーこの絶大な政治権力者が頂点を占めるという意味で. は幕藩体制における従来の将軍とほとんど変わらない体制1ーを確立しようとしたのである︒それ故︑その社会的基. 盤も大名の領有権を現状のまま維持しようとしたのである︒ ︵15︶ このように西は︑この文書においては︑フィッセリングから学んだ西洋的な近代的な国家制度の理論︑特に三権分. 立制の理論を形式的には使用しながらも︑実質的現実的には︑大君制を統治組織として︑大名の領有権を社会的基盤. とする考え方を︑当時の日本の現状にもっとも適合するものと考えたのである︒このような現状維持的な理論は︑西. が幕臣であったことから生まれたものであり︑あくまでも慶喜琵徳川家擁護のためのものであったことはいうまでも ない︒. 第二の問題は︑前述のような意図をもって構築されようとした統治組織すなわち大君制は︑一体どのような基本的. な理論によって構想されたのであろうか︒この文書の政治構想を実現するためには︑諸侯会議をなるべく早く開催し. て︑その会議にこの構想を議題として提出し︑可決することが必要であり︑このように慶喜側としては︑公議政体論. の主旨をその政治構想を実現するための手続方法として取り込む必要があり︑さらにその構想の内容においても︑公. 議政体論の主旨を組み込むことがどうしても必要であった︒そこでこの大君制を構想するに当って︑西が用いた基本 的理論は三権分立制の理論であったのである︒. この理論についてはすでに﹁泰西官制説略﹂において説明されており︑また﹁別紙議題草案﹂の冒頭においても述.
(22) ︵16︶. べられているが︑﹁西洋官制之義は三権之別を主と致し候﹂として︑西洋的近代的な国家制度が三権分立制を基本と. して組立られていることを指摘し︑さらに三権のそれぞれについて︑﹁法ヲ立候権は︑法ヲ行候権と︑又法ヲ守侯権は. 無之︑法ヲ行候権は︑法ヲ立侯権と法ヲ守候権とは無之︑法ヲ守候権は︑法ヲ立候権と法ヲ行候権とは無之︑三権共 ︵π︶ 皆独立不相俺候故︑私曲自ら難行︑三権各其任ヲ蓋候事︑制度之大眼目二有之候﹂と説明して︑三権のそれぞれの独. 立性について述べているが︑三権相互の抑制と均衡の関係についてはなにも触れていない︒だが西は︑この抑制と均 ︵18︶ 衡の関係について︑フィッセリングから授けられた﹁泰西国法論﹂において学んでおり︑その関係についての認識を. もっていたのであるが︑ここでは当時の政治的現実からして︑三権の独立の理論のみを適用しようとしたのであっ. た︒しかも︑この三権の独立の理論も直ちに全面的に適用してはいない︒従来の幕藩体制のもとでは︑将軍に政治権. 力が独占集中していたのであるから︑政治権力をその三つの作用にもとづいて分離独立せしめる制度を直ちに全面的. に適用するのは困難であると考え︑現実的にはこの制度に準ずるのをよしとして︑立法権︵議政院が担当︶と行法. 権︵行政権︶︵﹁大君﹂がその﹁元首﹂︶とは区別し独立させるが︑﹁大君﹂は﹁元首﹂として立法権にもおよぶ強大な ︵鴛︶. 権力を有するとしており︑また守法権︵司法権︶は分離独立しないで︑暫定的に各藩の行法︵行政︶が兼ねることと したのであった︒いわば大君中心の制度︵大君制︶といってよいであろう︒. このように︑﹁議題草案﹂における三権分立制は︑当時の政治的現実に適応させるため︑きわめて歪められたもの. となったのであるが︑さらにこの文書において改革項目として示されているいわゆる三権︵三項目︶についてみても︑. 哨二. その三権とは︑﹁禁裏之権﹂﹁政府之権﹂﹁大名之権﹂の三権をいうのであって︑あたかも︑三権分立制のもとにおける. 東洋法学.
(23) 幕末期における西周の憲法理論. 二二. 三権であるかのような観を呈しているが︑だが︑このいわゆる三権のうち︑﹁政府之権﹂とは行法権を行う﹁大君﹂. の権能であり︑﹁大名之権﹂とは立法権を行使する議政院を構成する大名︵諸藩︶の権能のことであって︑この二権. は三権分立制と関連する機関であるが︑﹁禁裏之権﹂とは朝廷の権能のことであり︑朝廷にはなんら政治的権能は与. えられていないため︑三権分立制とは無関係の機関である︒したがってこのいわゆる三権の政治構想も︑当時の政治. 的現実に適応させるために︑三権分立制の理論を形のうえで利用しようとした結果にもとづくものであったというこ. とができよう︒いままで述べてきたように︑﹁議題草案﹂において西が構築しようとした統治組織の基本的原理は︑. その基本的理論としては三権分立制の原理ではあったが︑それが当時の政治的現実のもとで︑大君制というきわめて 歪められた統治組織として構築されたのであった︒. そこで第三の問題は︑このいわゆる三権をもって構成される大君制は︑具体的にはどのような統治構造となってい. たのであろうか︒この問題については︑既に述べた通り︑田中彰教授によって詳細な説明が行われており︑ここで繰 ︵20︶. り返すことはしないが︑基本的な問題だけ指摘してみたいと思う︒. まず﹁禁裏之権﹂であるが︑朝廷には︑議政院において議定した法度を欽定する権能があるが︑だが欽定を拒否す. る権能がないように︑政治的権能を全くもつことはなく︑また独自の軍事力も保有しないようにされており︑ただ元. 号︑度量衡︑神仏両道︑叙爵などについての権能を有するのみであった︒このように朝廷は儀礼的な存在とされ︑政 ︵班︶. 治の局外に置かれて︑従来の地位とほとんど変わらないものであった︒. 次は﹁政府之権﹂であるが︑﹁政府﹂すなわち﹁全国之公府﹂は大坂に置かれ︑行法権を担当するが︑その﹁元首﹂.
(24) には﹁公方様即ち徳川家時之御当代﹂︵当時では慶喜︶がなり︑その﹁元首﹂を﹁内外之政令御沙汰等﹂において﹁大君﹂. と称して︑﹁天下之大政﹂を執行し︑﹁大君﹂の名において﹁公府﹂に関する﹁賞罰灘防﹂や﹁政令法度﹂が出され︑﹁大君﹂の. もとにある﹁公府﹂の各事務府︵各省に相当︶がこれを施行する︵江戸には﹁御領之政府﹂を置く︶︒各事務府には︑. ﹁全国事務府﹂﹁外国事務府﹂﹁国益事務府﹂﹁度支事務府﹂﹁寺社事務府﹂﹁学政事務府﹂があり︑それぞれに﹁大君﹂. が任命する長官﹁宰相﹂が置かれる︒また﹁大君﹂は﹁幾百万石之御領﹂を有する故に︑﹁上院﹂の議長﹁総頭﹂の地. 位につき︑さらに﹁下院﹂を解散することができる権能をもつとしている︒こうして﹁大君﹂は立法権および行法権 ︵22︶. にわたってきわめて大きな権能をもち︑政治の最高権力者としての地位にあり︑まさに大君制ということができる︒. さらに﹁大名之権﹂とは﹁議政院之権﹂のことであって︑﹁議政院﹂は﹁天下之綱紀制度﹂を﹁論定﹂する権能を. もつ立法機関であり︑﹁上院﹂﹁下院﹂の二院より成り立ち︑﹁上院﹂は﹁万石以上﹂の大名より構成され︑﹁下院﹂は. 各藩より藩主が与論に叶う藩士一名を選任して構成する︒このように﹁上院﹂﹁下院﹂とも︑その構成員は大名の領. 主権を基礎として選出され︑したがって一般庶民は︑﹁百姓町人も未夕文盲之時﹂であるとして︑﹁下院﹂から排除さ. 内外征伐和睦応援等之議定﹂﹁外邦交際之大法﹂﹁全国え関り侯︑市井令︑刑. れ︑参政権をもつことはなかった︒﹁議政院﹂の権能には︑前述の﹁天下之綱紀制度﹂を﹁論定﹂する権能のほか︑ ﹁公府高割税入之多寡﹂﹁臨時之大評議. 罰令︑商費令兼而は違犯告訴之令﹂﹁公府二係侯各部之條令﹂などを﹁論定﹂する権能などがあった︒だが︑既に述ぺ. たように︑﹁上院﹂の﹁総頭﹂には﹁大君﹂がなり︑﹁大君﹂は﹁下院﹂を解散する権能をもっていた︵さらに﹁議政. 二三. 院﹂には﹁大君﹂を罷免する権能はない︶ので︑﹁議政院﹂は﹁大君﹂に対して対等の独立した機関ではなく︑立法. 東洋法学.
(25) 幕末期に お け る 西 周 の 憲 法 理 論. 二四. 機関であったとはいえ︑﹁大君﹂のもとにある下級機関にすぎなかった︒したがって﹁議政院﹂は諸侯会議を少し拡 大した封建議会ともいうべきものが構想されていたということができよう︒ ︵23︶. 次に︑右のいわゆる三権のほかの重要問題について︑若干指摘してみたい︒第一には司法権であるが︑これについ. ては前に述べたように︑﹁守法之権は今暫之所︑各国行法の権内に兼候事﹂とあって︑暫定的に各藩の行法権が兼ね. る制度としており︑司法権の独立を認めていない︒ ︵24︶ 第二に︑右のいわゆる三権の社会的基盤についてであるが︑﹁土地経界之儀は現今之通たるへき事﹂とあって︑朝. 廷︑徳川家︑諸大名の領地は従来のままであるとしている︒したがって大名の領有権がそのまま維持されており︑. ﹁禁裏御領内︑公儀御領内︑諸大名封境内之政事は︑議政院二而立定候法度二関わらさる丈は其主勝手二取治むへき. 事﹂として︑各領内における政治は︑国法の範囲内で領主が勝手に行うことができるとしている︒この意味において︑ ﹁議題草案﹂が構想した統治機構は︑従来の封建制を社会的基盤としたのである︒ ︵25︶. 第三には軍事権についてであるが︑﹁禁裏御自領二而は︑兵馬之備無之候﹂とあって︑朝廷には独自の軍事力を認 ︵26︶. めていない︒徳川家︑諸大名にはその領内かぎり﹁自国防禦﹂のため﹁入用丈之数ヲ備候﹂軍事力をもつことを認め. ている︒だが﹁数年之後時運漸定候而統轄之策有之度事﹂とあって︑数年後には﹁大君﹂のもとにこれらの軍事力を 統合したいとしており︑大君制の一層の確立を期している︒. 以上で︑﹁議題草案﹂の内容とそれを作成するに使われた西の政治と法についての基本的理論に関する検討を終わ る︒.
(26) ﹁祖擦学に対する志向を述べた文﹂. ﹁西周全集﹂. 前掲. ﹁西周と欧米思想との出会い﹂︵三嶺書房︶. 一巻. 五頁. 一二i三頁︒. 小泉仰. 一三巻. 参照︒. 荻生租彼. 参照. 一〇一ー二頁. あるいは︑﹁西周全集﹂. ﹁政談﹂︵岩波文庫︶. 三ー一三頁. 一七二ー五頁参照︒. 一巻 八頁 参照︒. 法律編. 前掲. ﹁西周全集﹂ 前掲. 新版︶. 七〇一⁝二頁参照︒渡辺与五郎. ︵3︶. 解説. ﹁西洋哲学に対する関心を述べた松岡鋳次郎宛の書翰﹂. 二巻. ︵4︶. ﹁西周伝﹂前掲九五頁参照︒. ﹁西周全集﹂. 前掲. ︵5︶. この全文については︑﹁明治文化全集﹂︵日本評論社. 五科学習関係蘭文編. 一ー一三頁参照︒. 前掲. 一〇三ー一三三頁参照︒. 参照︒. ﹁性法略﹂の冒頭には西と津田の序文がそれぞれ掲げられている︒また﹁性法略﹂. 二巻. 二巻. 六八六頁. の蘭文の原文については︑日蘭学会編. 前掲. この翻訳が幕府に提出されたのは︑慶応二年七月との説がある︒﹁西周全集﹂. 解説六九一頁︒現存する﹁万国公法﹂に. ︵8︶. 三三九頁. 図2. 参照︒. 二五. 参照︒なお︑この蘭文の原文は存在しない︒. 前掲 五科学習関係蘭文編 三二⁝一二七頁参照︒. 三−一〇一頁参照︶と民間版︵﹁明治文化全集し前掲 二二巻 一七⁝六三頁参照︶. 二巻. 西の訳稿本は︑慶応三年末︑慶喜に従って京都を退いた混乱の際失われた︒また献上本も今日伝わっていない︒現存する 二巻. 前掲. 前掲. ︵9︶. 前掲. ﹁万国公法﹂は門人の写本から印刷したものである︒﹁西周全集﹂. は官版︵﹁ 西 周 全 集 ﹂. 参照︒. 六七ー一〇四頁. この全文については︑﹁明治文化全集﹂ 前掲. 参照︒. 一三巻. ︵0 1︶. ﹁議題草案し ﹁西周全集﹂ 前掲 二巻 一七一頁. とがある︒﹁万国公法﹂の蘭文の原文については︑日蘭学会編. ︵U︶. ﹁議題草案﹂ ﹁西周全集﹂ 前掲 二巻 一七二頁. 田中彰 ﹁幕府の倒壊﹂. ﹁議題草案﹂ ﹁西周全集﹂ 前掲 二巻 一七〇頁参照︒. ︵12︶. ︵13︶. ︵斑︶. 東洋法学. 解説. 前掲. ︵7︶. ︵6︶. 参照︒. 人の道にて︑天下国家を治むるの骨髄︑全く礼楽に止るはこの子細也︒﹂. ﹁上たる人天下世界を苦にし世話にし︑代の久しく伝わりて万民の永く安穏ならん事を計りて制度を立つる事也αこれ聖. (( 21 )).
(27) ﹁西周全集﹂. 前掲. 二巻. 一七四頁. 幕末期における西周の憲法理論. ﹁議題草案﹂. ﹁泰西国法論﹂ 一七四頁. 七〇ー九四頁参照︒. ︵B︶. 二巻. ﹁西周全集﹂. ﹁泰西国 法 論 ﹂. 前掲. ︵罵︶. 前掲. ﹁西周全集﹂. 参参 照照o o. 一七五頁参照︒. 一七六頁参照︒. 一七四頁参照︒. 一七四頁参照︒. 一八Ol二頁参照︒. 一七七ー一八○頁参照︒. 一七五ー七頁参照︒. 一七四頁参照︒. ﹁西周全集﹂. ﹁議題草案﹂. ﹁西周全集し. 参照︒. ﹁議題草案﹂. ︵B︶. ﹁議題草案﹂. ︵ロ︶. ︵四︶. ﹁議題草 案 ﹂. 巻巻巻巻巻巻巻巻. 七三頁. ︵20︶. 前前前前前前前前 掲掲掲掲掲掲掲掲. 前掲. ︵21︶. ﹁西周全集﹂. ﹁西周全集﹂. ﹁西周全集﹂. ﹁西周全集﹂. ﹁議題草 案 ﹂. ﹁西周全集﹂. ﹁議題草案﹂. ﹁議題草案﹂. ﹁議題草案﹂. ﹁議題草案﹂. ︵22︶. ︵餌︶. ︵23︶. ︵25︶. ︵26︶. 山. 二六. ここで適用した理論は不徹底不十分ではあったが︶を基礎として︑それを当時の政治的現実に適用した結果︑従来の. ﹁議題草案﹂は既に述べてきたように︑西洋的近代的な政治と法の基本的理論としての三権分立制の理論︵西が. ないかと考えるからである︒. てみたいと思う︒この評価の問題を通じて︑幕末における西の憲法理論を結論的に明らかにすることができるのでは. 最後に︑これまで検討してきたことをふまえて︑﹁議題草案﹂をどのように評価したらよいかの問題について述べ. ノ¥.
(28) 幕藩体制のもとにおける将軍とあまり変わりのない︑大君制という徳川家中心の統治組織を生み出したのであった︒ ︵−︶. ︵2︶. こうしてこの文書は︑慶喜錘徳川家側の当時の状況のもとにおける一つの統治組織の大綱を示したものであり︑日本. における最も古い憲法草案あるいは国家制度の草案といわれてきたが︑だが果たして︑近代憲法としての憲法草案で あったか︑いなかについては疑問のあるところである︒ ︵3︶. 近代憲法は︑一八世紀以来︑西洋において立憲主義の政治理念とともに生まれ︑発展してきたものであり︑その基. 本は三権分立制と基本的人権の保障にあることはよく知られているところである︒このことは西たちがフィッセリン. 乙. 国制即建国の法制﹂とあって︑西自身も近代憲法についての認識を十分もっていたと. ︵4︶. グから学んだ﹁泰西国法論﹂にも明確に説明されており︑﹁根本律法︵憲法︶の所載を別ちて二大綱と為す可し︒甲. 国家住民彼此権義の定規 思われる︒. だがこの﹁議題草案﹂を検討するとき︑三権分立制の理論を基本的原理として採用してはいるが︑それが現実に適. 用されると︑不徹底不十分な形で適用されており︑さらにまた基本的人権の保障については全く触れていない︒さら. に加えて︑社会的基盤として︑依然として大名の領有権を認めていることを考慮するとき︑﹁議題草案﹂は三権分立. 制という近代的要素を多少含んではいたが︑明らかに近代憲法の草案であるということができない︒むしろ近代以前 の国家制度の草案 と い う べ き で は な い か と 思 う ︒. だが︑この文書と同じような発想をしたのは︑ひとり西のみではなく︑その僚友でともにオランダ留学をした津田. 二七. 真道にも見ることができる︒当時︑西は京都︑津田は江戸にあって離れてはいたが︑両者は相当高い儒教的教養をも. 東洋法学.
(29) 幕末期に お け る 西 周 の 憲 法 理 論. ︐. 二八. つとともに︑フィッセリングから受けた西洋的近代的な政治と法の理論において共通の知識をもっており︑また互に. ︵5︶ 関東領制度﹂という. 絶えず意思を疎通していたことから︑当然︑当時の政治的現実に対して同じような政治構想をいだいたとしても偶然 ではないが︑勿論︑全く同じであったのではない︒. 津田は慶応三年九月︑江戸で幕府の要路に建議し︑政治改革の構想として︑﹁日本国総制度. 憲法草案あるいは国家制度の草案を提出したが︑これも近代憲法の草案ということはできないと考える︒ここで詳細. な説明をすることはしないが︑西の構想と比較する意味において︑若干の主要な問題点について検討してみたい︒ ︵6︶ ︵7︶. ︵8︶. 津田の基本的発想の一つは︑聯邦制度の構想にあるといわれており︑当時の大名の領有権を社会的基盤とする﹁強. 藩割拠之勢﹂は﹁洋人之所謂合邦之姿に類似仕候﹂として︑﹁合邦﹂すなわち餅邦制度を基礎として︑その政治構想を. 考えているが︑これは﹁合邦﹂とはいいながら︑社会的基盤として大名の領有権を前提としていることからして︑西. の構想と現実的にはあまり変わらないといってよいが︑津田の方がやや近代的発想ともいうことができる︒ ︵9︶ 次に三権分立制についてであるが︑津田は明確に三権分立制を採用するとはいっていない︒﹁制法上下両院﹂とあ. って立法機関の設置を認めているが︑﹁制法の大権は︑制法上下両院と総政府の分掌する所なるべき事︒﹂とあって︑. ﹁上下両院﹂が唯一の立法機関であるとはしていない︒だが﹁上下両院﹂は﹁日本全国政令﹂︵行政︶を監視する権 ︵憩︶ 能をもっており︑単なる行政機関の下級機関でもない︒また﹁日本全国政令の大権は︑総政府の特権なるべき事︒﹂と. あって︑最高の行政機関として江戸に置かれる﹁総政府﹂の設置を強力に設定している︒このように︑立法機関と行. 政機関の分立をほぼ認めているが︑司法権については︑﹁総政府の政務﹂のなかに﹁司法﹂とあるのみであり︑行政.
(30) 権のなかに含められて︑その独立性は認められていない︒こうして津田の三権分立制は︑西と同様︑不徹底不十分で. あり︑また西ほど強く意識していなかったかもしれない︒だが︑この政治構想の基本的発想として︑三権分立制を考 えていたことは間 違 い な い と こ ろ で あ ろ う ︒ バn︶. 津田の右のような三権分立制の構想において︑津田が統治組織のもっとも中心をなすと考えたのは︑最高の行政機. 関である﹁総政府の大頭領﹂であった︒この﹁大頭領﹂は﹁日本全国政令の大権﹂を執行する頂点にあり︑兼ねて. ﹁顕本全国軍務の長官﹂として軍事権をも掌握する︑頗る強大な権能をもっており︑その地位には徳川宗家の﹁正統. 相続の人﹂︵当時では慶喜︶がなる︒このように﹁大頭領﹂は西のいう﹁大君﹂とほぼ同じものであり︑津田もまた. 大君制を構想したということができる︒ ︵犯︶ 朝廷については︑津田はただ﹁制法の大権﹂︵立法権︶において﹁極重大之事件は禁裡の勅許を要すべき事︒﹂との. 一項を設けているにすぎない︒この項目は﹁総政府﹂の統治権が天皇の委任にもとづくことを前提として︑立法につ. いての﹁極重大之事件﹂についてのみ︑勅許を必要とするとして︑天皇の権能をきわめて制限してはいるが︑窮極的. には天皇の政治的地位を容認しているということができる︒これに対して西が天皇を儀礼的な存在として︑政治の局. 外に置いたことと比較するとき︑相当の違いということもできるが︑実際の政治の立場からいえば︑それほど大きな. 違いということはできない︒両者はともに幕臣であったということからして︑このような結果となったのではないか と思われる︒. 二九. 最後に基本的人権の保障についてであるが︑両者ともこのことについては全く触れていない︒ただ津田は︑﹁︵制法︶. 東祥法 学.
(31) 幕末期におげる西周の憲法理論 ︵13︶. 三〇. 下院は︑日本全国民の総代にして︑国民十萬人に付壼人づつ推挙すべき事︒﹂と規定しており︑国民の選挙権ともいう ︵M︶. べきものを認めているかのようであるが︑真の選挙権であるかは疑わしい︒なぜなら︑﹁制法上院は︑萬石以上たる. べき事︒﹂として︑大名の領有権を基礎とする大名をもって﹁上院﹂の構成員としているからである︒だが国民の選. 挙権ともいうべきものを認めているのは︑西が﹁下院﹂の構成員を﹁藩士壼藩萱人宛﹂としていることと比較すると き︑津田の方がやや開明的ということができる︒. 以上︑若干の主要な問題点について比較検討したのであるが︑両者は同じような学問教養をもつものとして︑とも. に三権分立制を当時の政治の現実に基本原理として適用したが︑その適用が不徹底不十分であった結果︑大君制とい. 関東領制度﹂は慶応三年九月︑政治的対. う統治組織を構想し︑その基本的発想をほぼ同じくしたのであったが︑細部においては︑それぞれが作成された時点 や環境からして︑多少の相違が生じたと思われる︒津田の﹁日本国総制度. 立がようやく激化してきたころ︑江戸において作成され︑西の﹁議題草案﹂は大政奉還後の京都の厳しい政治的現実. に迫られて︑慶喜のために作成した︒この結果︑津田はどちらかといえばまだ緩かなあるいは開明的な思考をとるこ. とができたのに対して︑西は現実的に厳しい思考で対応せざるをえなかったのではないかと考える︒これが両者の細 部における多少の相違をもたらした原因であろうと思う︒. −結論的にいえば︑西の﹁議題草案﹂は︑当時の徳川側の厳しい政治的現実に即応するための一つの処方箋であり︑. それは近代憲法の草案とはいうことができないが︑当時の一つの国家制度の草案であったのである︒.
(32) ﹁維新前に於ける憲法草案﹂. 前掲. 尾佐竹猛. 三二七頁 参照︒. 参照︒. ﹁憲法小辞典﹂︵有斐閣︶. ︵1︶. 尾吹善人編. 伊藤正己. 石井孝 ﹁明治維新の舞台裏﹂ 前掲 一七四頁. 前掲. 九九頁参照︒. 前掲 三五〇1三頁参照︒ 参照︒. ﹁合邦﹂の概念については︑﹁泰西国法論﹂前掲. 87. ︵9︶. 津田道治 津田道治. 津田道治. ︵n︶. 津田道治. 津田道治. 一二一頁. 一二〇頁. 一二〇頁. 一二一頁. 一二一頁. 二二頁. O. O. ︵0 1︶. ︵B︶. 津田道治. 東 洋法 学. 参参参参参参 照照照照照照 O O O O. ル. ぬ. ぬ. ぬ. ロぬ. ︵蕊︶. ︵14︶. ぬ 剛剛副剛副園 掲掲掲掲掲掲. ﹁西周全集﹂. 前掲. 二巻. 八七頁参照︒中村哲丸山真男. ﹁大久保利謙歴吏著作集﹂. 解説. 七一五頁 参照α. 辻清明編 ﹁政治学辞典﹂. 所収︶︵吉川弘文館︶. 一六. ﹁維新前に於ける憲法草案﹂. 5. ﹁合邦連結の主旨は︑列邦のカを合して総国の安. 三一. ︵完︶. 富を増殖するに在り︒但列邦各其固有の利益ありて悉く一様ならず︒故に列邦各相当の自主自治の権を有す可し︒﹂とある︒. 九六!七頁参照︒. 大久保利謙 ﹁津田真道の著作について﹂︵﹁幕末維新の洋学﹂. 津田道治 前掲 二九頁参照︒. 〇頁. ︵6︶. 一一八⁝一二三頁参照︒尾佐竹猛. 三六八ー三七一頁参照︒フランス人権宣言第一六条には﹁権利の保障が確保されず︑権力の分立が定められて. 阿部照哉. ︵3︶. ︵2︶. ︵平凡社︶ ﹁泰西国法論﹂. いない社会は憲法を有しない﹂とある︒. 54. 全文については︑津田道治 ﹁津田真道﹂︵東京閣︶. (( )) (( )).
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