• 検索結果がありません。

従 あ ︵範 そ 研 て た し っ う ︒ ︑

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "従 あ ︵範 そ 研 て た し っ う ︒ ︑"

Copied!
23
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

一 ︑本稿の視角

二 ︑工業化の特質

三 ︑ 一八三〇年代における労働者の対応

鵜 月

裕 典

一 ︑本稿の祝角

一九世紀前半期特に一八三〇年代から五〇年代にかけて ︑

フィラデルフィアは産業革命を経験する中で ︑ 一八世紀的

商業港から合衆国有数の産業都市へと変貌を遂げた ︒しか

し ︑その過程は必ずしも平掘一なものではなかった ︒地域的

にも業極的にも極めて不均等に進展した工業化の中で ︑様

々な形で従来の生活世界の変容を強いられた労働者諸階層

は ︑ 一八三〇年代を中心に激しい抵抗を試みた ︒また ︑都

市化が進む一方で ︑産業都市としての社会諸制度の整備が

遅れる中 ︑民族・人種 ・宗教など種々の点で多様性を字む

都市民衆は ︑社会的抗議や集団相互の力関係を測る手段と

して集団的暴力を使用し ︑ 一八三〇年代・四〇年代には街

茶 修)(1)=(3)(功(1)喫(〕(ヵ(1)

7 ■ラデルア ィア一八四四年暴動の歴史的意姜

産業社会の形成と労働者

組合指導層の急進主義思想

伝統的文化

﹁一般労働組合﹂と一〇時間労働要求ゼネスト

一八四〇年代における労働者の対応

福音主義的プロテスタント諸派と禁酒運動

アイルランド人コミュニテ ィ

アメリカン・リパブリカン党

一八四四年暴動

暴動の経過

暴動の諸特徴

結び

フィラデルフィア一八四四年暴動の歴史的意義︵鵜月︶

⁚ ︱

―‑ 35 ‑一

(2)

史苑︵ 第四四巻二号︶

頭は様々な民衆騒擾の舞台と化した ︒特に一八四四年にケ

ンシントン地区とサウスウァク地区で生じた暴動は ︑総計

二①名以上の死者と一〇〇名を越える負傷者を生み ︑当時

の一新聞はこの暴動を﹁わが国が経験した振も 激しい暴動

の一つ﹂﹁ 内乱の恐怖﹂とまでに形容している ︒つまり ︑フィラデルフィアにおける産業都市の成立は ︑単なる経済的

変化だけでなく︑未曽有の社会的危機をももたらしたので

ある ︒

わが国の合衆国産業革命史研究においては ︑従来こうし

た社会的側面には十分な検討は加えられてこなかったし ︑

産業革命期の労働運動・民衆運動研究もわが国では未開拓

の分野に属するといえよう︒その原因が ︑産業資本主義成

立過程への発生史的アプローチゆえに経済に比して社会ヘ

の関心が後方へ退いてしまったこと ︑産業資本の系譜に関

心が集中し ︑労働者・民衆ないしその運動をも組み込んだ

歴史認識の枠組を設定しなかったことなどに求められると

すれば ︑問題は単に対象を拡大することだけでは解決され

ないだろ ︵党︒ 一方 ︑ 一九七〇年代以降合衆国においては ︑

特に労働史 ︑都市史 ︑移民史などの研究分野で労働者・都

市民衆の諸経験をめぐる実証研究が進み ︑従来の産業革命

像 は し だ い に 塗 り 変 え ら れ つ つ

従 あ ︵範 そ 研 て た し っ う ︒ ︑

究成果を批判的に踏まえた上で ︑産業革命を労働者・民衆 の意識・行動・存在に決定的影響を及ぼした ︑経済に留ま

らない一大社会変革過程出産業社会形成過程として捉え ︑

その形成のメカニズムを具体的に解明していくことが今後

の課題となろう ︒さしあたって本稿では ︑前述のフィラデ

ルフィアを事例として ︑労働者諸階層が自らをとりまく世

界の変化をいかに認識し ︑いかに行動したかを検討するこ

とを通じて ︑従来 ︒フロテスタント労働者のアイルランド人

カトリック移民に対する不合理な宗教的偏見の爆発として

提えられがちだった一人四四年暴動が ︑産業社会︵ 形城 過程

においてどのような意義を有したかを明らかにしたい ︒

それについて今少し本稿の視角について述べておきたい ︒

かつてJ・R・コモンズらウィスコンシン学派は労働者を

個人的にも集団的にも経済的人間として把握した ︒ 一方 ︑

多くの民衆騒擾研究において ︑民衆は都市化・工業化によ

る混乱や抑圧から生ずる怒りや欲求不満に直線的に衝き動

かされた暴徒として描かれた ︒こうした経済決定論的 ︑客

観主義的傾向に対して ︑周知のようにH・ガットマンは労

働者を全人間的存在として把握し ︑彼らの保持した文化に

す目

こと

重の

要性

主張

た ︒

言 う ま

でも

なく

︑ こ の 文

化と

人は

間が

自 ら

存の

在す

具る

体的

世界

認を

識す

中る

で 行 動

誘の

なと

伝る

価 ︑

観 ︑

信仰

組 ︑

織 な ど の 総 体

︵ガ

トッ

のン

用語

によ

れば

ヤ社 ︑

会 と

いう

舞 台

営目

p で

行使される資源おり oF︻命じを意味する ︒この文化概念によ

って彼は労働者が保持した前産業的文化の存在を見事に描

きだしたのである ︒しかし ︑本稿ではガットマンによって

提示された前産業的・産業的という二項対立だけでなく ︑

労働者内の文化の多様性L相互関係にも注目することで ︑

出現しつつある産業社会への彼らの対応が抵抗から適応ま

で多岐にわたったことを示すよう努めたい ︒そうしてこそ

はじめて ︑労働者を単なる犠牲者としてではなく︑正負両

方のベクトルを内包した産業社会の形成主体として提え得

ると考えるからである ︒

一 一

︻ ミ ヽ ミ

津︼︼

 特 卓や﹁︶一く岸∞ぶふ

0 ナ﹂うした点については ︑楠井敏郎﹁一九世紀アメリカ資本

主義像の再検討︱最近のわが国のアメリカ資本主義研究の回

顧と展望︱﹂﹃エヨノミフこ六六号 ︑ 一九八〇年 ︑ 一九一 ︱

二四三頁 ︒わが国の民衆史・労働史等の研究動向については ︑

秋元英一﹁日本におけるアメリカ現代史研究の史学史的検討︱労働運動・農民運動・民衆運動史研究︱﹂﹃東京大学アメ

リカ研究資料センター年報﹄第五号 ︑ 一九八二年 ︑ 一七 十三

〇頁 ︒ただし ︑高北戦争以前は対象とされていない ︒また ︑

黒人史・奴隷制廃止論などの研究が例外的に多大の研究蓄積

を有してきたことは指補一 しておく必要があろう︒

0 近年の合衆国における都市民衆史研究については ︑拙稿

フィラデルフィア一八四四年暴動の歴史的意義︵鵜月︶ ﹁アメリカ都市民衆の社会史﹂﹃アメリカ史研究﹄第六号 ︑ 一

九八三年 ︑ 一八︱二五頁 ︒また︑わが国における一九世紀前

半期合衆国労働史の注目すべき研究成果としては ︑安武秀岳

﹁トマス・スキドモアとその思想︱米国産業革命期におけるラディカリズムの追求︱﹂﹃西洋史学﹄第一二九号 ︑ 一九人三年 ︑ 一︱一八頁 ︒

δ

卜∽車ミミセもヽ単やヽ〇ヽ︑いヽヽちやヽトミsヽ持いヽスヽミc沸ミ▼ Z●召

ヽ ぃ

ヽ ヽsヽ ミ中蛇ヽ ヽ

ヽ 思

ヽ 9

Б

︼Oヽ≡

︑ゃ︻済うヽヘミ

Ю︲1ぃぃ一●︵洋いコ

ヽ F

直接一八四四年暴動を扱ったものではないが ︑ 一人四〇年代

のネイティブィズムを労働者による反民主主義的・反理知的

な反カトリック運動として先験的に捉えている点では共通し

ている︒

0 野村達朗﹁アメリカ労働者階級史研究における新動向︱一

九世紀後期の話問題について︱﹂﹃愛知県立大学外国語学部

紀要﹄一〇号 一九七七年 ︑一四三 ︱一四四頁 ︒呂︻摯いL可o 一宇

一〇一 い

のp ︼コr︼︼・ 自︾ウ息︻汗︻︼

︑ ︑

ヽ い

ヽ き ら ヽいヽゝ︼ざ

一‑ 36 ‑一 一‑ 37 ‑一

(3)

史苑︵第四四巻二号︶

一 ︺五︵︺庁い︶F

一●4Fα︻つ

ミヘ や

ミ迪

ポき

ヽ6 s

ヽ為

持へ ど

︼S

合﹃ ∞

じ0 ﹁

o や 

り 曹︱

勧 ∞﹃

二 ︑工業化の特質

一九世紀前半期フィラデルフィアは急速な人口増加と市街地の拡大を経験した ︒同時にそれは商業都市から産業部市への性格転換を伴うものだった ︒人日は ︑一八二〇年一三七 ︑〇九七人 ︑ 一八四〇毎土五八 ︑①三七人 ︑ 一八五〇年

︵ 四的 八 ︑七六二人と一〇年毎で平均三三%近い増加率を示した ︒この人口増加は ︑四〇年代においては言うまでもなくアイルランド人を中心とする移民の大量流入を要因としたが ︑ 一八二〇 十五〇年の間の総人口増加率の三分の一から三分の二は国内農村部からの移住者によるものだった ︒

つまり︑ 一人三〇年代において海外からの移民及び黒人が総人口に各々約一〇% ︑八%を占めるにすぎなかったことを考えあわせると ︑ 一八四〇年以前のフィラデルフィアにおける労働力は ︑アメリカ生まれアメリカ人が支配的だっ

た上に ︑その多くが農村部からの移住者だったといえよ ︵党︒

一八三〇年までに市部と周辺部の人口比率が逆転する中で ︑労働者はしだいに周辺部に集中する傾向にあった ︒一人四〇年センサスによれば ︑製造業兼販売業従事者が全成年

男 子 中

占に

める

割 合

は ︑

郡 内

全体

では

四%

にす

ぎ な い の

に ︑

辺周

部 特

にケ

シン

ント

地ン

︵ 口区

り ま 鼻 餞

ロパ

の 一混

じ一 o

時和 類劾 彰ば つ サ つ呼 秒 ︺

離幕囀 膨帥

衣 ︒ 巾 ギ

帽鰐 i薩

牌歳 娘 ヽ

煙草製造など日用品を専門とする工場 ︑作業場や機械工場 ︑

機関草工場などが集中したが ︑シュクルキル河畔には ︑水力使用の織物工場やレンガエ場が ︑さらに上流のマナヤンク

並工場建んだ大規模織物がち織備た紡績機力機をえ水力︒︑ 年降急速一八三〇代以に増︶∞では︵ 口g汗●ゴ臥呂営O︻ O

一方 ︑ 一八三〇年代までにケンシントン地区やモウヤメンシング地区

︵ 口

の ュR亀o将呂留の 一pしには ︑家内労働に

曜ゆ味時鞠鞭鞠掬等中 ヵ ミ

し ︵ ︑

妙 ラ スゥァク地区 ︑

ヤ ンシントン

次にいくつかの指標によって工業化の特質を確認してみると ︑労働者一人あたりの生産額が一八二〇年六三一ドルから一八六〇年一 ︑三七四ドルヘ伸びているのに対し︑労働者一人あたりの投下資本額は一八二〇年六七八ドル ︑ 一

酪力 ヽ 六的 唯い 昨地仰 わ つ です

拶柳 鳴鍛 導期

呼棚 一 一弾輸 殺雅 押

の持つ意味は ︑近年のフィラデルフィア社会史プロジェク

の ト 研 究 保 成

に よ

一層 り

は っ き り す る そ ︒

れ に

か よ ば ︑ 蒸

気力

水力

をど

使

用す

作る

業施

設 を

工場

と し

場た

一 ︑ 

八五〇年段階で工場が全作業施設に占める割合は一〇・八

% ︑工場労働者が全労働者に占める割合は二七・七%にす

ぎない︒ 一方 ︑全労働者キ四〇%以上が五〇名を超える規

模至展用されている ︒機械化 ︑生産の大規模集団化が同時

に進行しているのは ︑織物業 ︑鉄工業 ︑機械製作業だけで

あり︑印刷業 ︑製靴業 ︑衣料産業などでは生産の大規模集

団化が必ずしも機械化を伴っていない ︒さすに ︑食料品生

産業 ︑煙草製造業 ︑鍛冶業 ︑貴金属加工業などでは ︑生産

規模も小さく機械化も殆んどなされていなかった ︒同時に ︑

製靴業 ︑仕立業 ︑建築業 ︑馬具製作業 ︑家具製作業 ︑印刷

業などでは ︑運輸革命に伴う市場拡大から大量・安価な商

品生産が要求され ︑分業に基づく生産関係の再編成が進行

した ︒

一方 ︑機械化の進展の著しい織物業においても ︑市内に

紡毛機を備えた小作業場が多数存在し ︑先にも述べたょう

にケンシントン地区 ︑モウヤメンシング地区には家内労働

に基づく手織機織布工がひしめきあっていた ︒ 一八二七年

には ︑周辺部だけで四 ︑五〇〇人の手織機織布工が存在し

たと報告されて﹂純 ︒ 一八五〇年代に入っても ︑織物業労

卵癖 中一 約畔

勲豹 牌苛 燕 鞠 脚苺 牽巾 帥勒 抑 ↓

雛螂 端能

︺帥

の一部に従事する下請的家内労働者は ︑仕立業 ︑製靴業で

フィラデルフィア一八四四年暴動の歴史的意義︵ 鵜月︶ も世紀半ばの段階で全労働者の三分の一程度を占めて

ヽ ︑ ︵

同 時 代 の あ る 観 察 者 は ︑ そ う し た 下 請 郎 家 内 労 働 者 は ﹁ 一

①時間労働制 ︑工場制そして太陽系にさえ無関心であり︑

自宅で好きな時に働き ︑︵ 食卵 貯積庫の状態によって勘 勉さ

が左右される﹂と述べている ︒

植民地期以来 ︑フィャスアルフィアは手工業生産の中心地

であり︑ 一七七〇年代初期には市内の成年男子の約半数は

職人として分類され ︑そうした職人たちは﹁フィラデルフ

ィアの職人は ︑即ち熟達し優れた技術と同義である﹂こと

を誇っ赳 ︒典型的な親方職人は ︑自宅あるいは隣接した作

業場で一︱二人の職人や徒弟と共に働き ︑殆んどが注文仕

事に従事した ︒職人は明日の親方であり︑自立に最大の価

湘が導か帥ばかれ押靭 切い帥以 一一 徒

癖蜘碑印婦卿卿兼囃郵

づく生産関係の再編成が進行するにつれ ︑自立はしだいに

困難となり︑職人のみならず親方も実質的には賃金労働者

化する傾向が強まった ︒特に分業の進展の著しかった製靴

業では ︑ 一八三〇年代までに多くの親方が﹁卸売業者 ︑つ

諦鐸 紳︺

韓齢 修 呼

離 堺 茸第 山帥

勝鵜 膨い

湘 ﹁ 端喚 れず

辞舶

準の悪化のみならず ︑徒弟制の崩壊 ︑熟練度を基礎とする

新たな階層化 ︑自己労働への裁量権の喪失などを通じての

―‑ 38 ‑一

‑ 39 ‑一

(4)

史苑︵ 第四四巻二号︶

職人の自律的世界の崩壊を意味したことは重要であろう︒

しかし︑その一方で一八五〇年段階に至っても ︑全労働者中一一日七%が雇用人数五人以下の小作業場で働き ︑全一 雇

出中晦韓意 .

晩彰め幸た ︵ ぅ

ゆ 性 小作業場親方により七 められた

一八四〇年代フィラデルフィアは西ヨーロッパを中心と

する移民の大量流入を経験し ︑外国生まれ労働者が全成年労働者の四〇%を占めるに至った ︒移民労働力の三分の二はアイルランド人で ︑その約四〇%は沖仲仕 ︑荷馬車夫 ︑

レンガ職人 ︑石工下働きといつた不定期労働に従事し ︑さらに約二〇%が織布業に ︑残ヶは製靴業 ︑仕立業の不熟練工程に吸収された ︒ドイツ人は移民労働力の五分の二を占め ︑その三分の二は製靴業 ︑仕立業 ︑家具製作業 ︑精肉業などの熟練工程に集中した ︒ 一方 ︑アメリカ生まれアメリカ人は半熟練・不熟練労働分野で移民に取って代わられ ︑

帥帥等の .

誰鱒撃軸哩範韓し ︵ 会

帥 坤 価の収 り高い業種や製靴業 ︑

以上検討したように ︑工業化は業種間においても業種内においても極めて不均等に進行した ︒つまり︑ 一九世紀前半期のフィラデルフィアは旧きもの ︑新しきもの ︑そして過渡的なものが複雑に絡みあう︑不安定な秩序をつくりあげた都市だったといえよう︒同時にこの時期は ︑E・ペッ センらの研究によれば社会的貧富の差が著しく拡大した時期でもあり︑ 一七九〇年代末には人口の一〇%が富の五〇%を ︑ 一人六〇年までに人日の一〇%が富の九〇%を握る

に至り ︑特に上層の一%が実質上富の五〇%を保有した ︒そうした一〇%のエリートたちは ︑いずれもビドル ︑リジウェイ ︑ ペ ニパ ッカー︵一毎毎下c 力︻いにo電やF可oFFくoいo汗●︑︶と

たっ

姓 を 持 つ

一八

世 紀 以 来

の由

緒 あ る 家 系

属に

①六

膨郭 輛嘩 す舛 晦彰 郵申 岬 つ ︵ 的翻

撃一 指蜘 様廠 舶中

検討い次章以降でてかをしく ︒ 合た相互がか関労働者いに応示たのかにりっをさらし︑︑ か対か認識いなる産業社会をいに現つつし者がある出し︑

麹懐 ↑ 迎

や ﹄σ 働 ∪ざ停①F≡いの一︻〇ヨ︶的へsヽoヽヽや︑︑︶へoミQヽさヽさ車きヽ 中きも ヽヽ十ざミミやヽき為ヽいきざ︻ ∞も︱︐糧軌や Zo者く♀F Hcヽ辞 や やトフィラデルフィア郡は市部を中心に二九の独立した行政管轄区より成った ︒本稿では市部に隣接したケンシントン︑サウスゥァク︑モウヤメンシング︑スプリング・ガーデン︑北部

︻ o

︻ 汀

浄り︶を周辺部と総称する ︒

一倒 C∽ ∪のor oヽ∽ささ︐  単きs Qへ ヽ成ミP 申∞卜p o口︼印TI︼0中

同様に市部では五七・三% ︑モウヤメンシング八四・二% ︑

スプリング・ガーデン八四・五% ︑北部特別管轄区七五・七

%が製造業兼販売業に分類されている︒

︑ヽ .s

メヽ

ヽき一ゆα

一的

ヽヽヽs︻ヽ

一 ↓●︻O中一﹂コ

↓一︼命■一C︻くヽ伊つの●い≡ 一一い︼o f  命︐∽く︼く一ф

︻印︻o

ウく︻ゆ︺mヽ H停の 一︻︻∽の︼●一伸 ヽ 浄ヽ き やヽヽセ︵ゆ︑へヽヽも ︑ヽ ヽヽヽべ︼も

じ ■

︼ 用 ﹀一●中︼︐い

一 

︼め中︼︻い もばヽ﹂車o車s革セ ︻一ツト∽∽ω

︻ ユ一 営

︵︶︼ ︻車︿︺ヽ︑>

的 問いてす可︻Φ&中子﹃ききヽsSミssさミゃちミsミミRきミ︼

フィラデルフィア一八四四年暴動の歴史的意義︵鵜月︶ ︼o︻伊・ 

ω

一 8

中O一す︼o↓F

も唱

︵>中8

>∽ドの一OrOら︻︐い●4とい︼口くo一oキ40︻r こ0ミやヽいへヽ︑蛇ヽoミヽヽヽヽ oヽ

一八二〇年段階で白人労働者に職人︵ 合親方︶の占める割合

は五六・二%だったが ︑ 一八六〇年では四七%に低下し︑親

方・職人の比率も一八二〇年全二一二三%︱二一︒九%︶ ︑一

八六〇年︵一六%︱三二%︶と逆転している ︒∽口一︐ユFoヽ 6 ︑汁︼●● ω守lω∞

¨  

︐p︲津 ︻︐ヤ ︼占︻り ヽ革 δヽ中・ 

︺ヽヽヽ﹁ギ﹁や▼ 一F︻o一〇ウくいいのの︶  ω

三 ︑ 一八三〇年代における労働者の対応

フィラデルフィアの労働者諸階層は ︑ 一八二七年合衆国

初の市単位の労働組合組織﹁職人同職組合連合﹂

︵ 付汀

―‑ 40 ‑

‑ 4 1 ‑

(5)

史苑︵ 第四四巻二号︶ o 掛 営

︻ 8

Cュ

op

弓耳 匙

切 り>

o● ︼

い市 中 〇

房 以 下 M U T A と 略

︶ を 結 成

翌年

政は

治 支 部 と し て

労﹁

働 者 党

の■

o■

軍 掘

句 ︼り

い︼ キ

じ を 樹 立 す る と と も に

一 ︑

八 三 四 年 に は

﹁フ

デラ

ル フ ィ

市ア

郡 ・

一般

労 働 組 合 六 津

oO

o ヽ単

弓ヽ 登

湯 ︶

Cゴ一 9P o﹄キゴo O︻iく いp毎 〇〇●Fホく oh 可︼︺キ一p毎ゆ︼●ヤ︺討¨以下 ⁚

GTUと略︶を組織し ︑ 天∪時間労働要求ゼネストをはじ

め ︑熟練度 ︑民族 ︑宗教などの差異を超えた広範な連帯を

実現した ︒ヨモンズ編﹃合衆国労働史﹄は ︑こうした運動

を二〇年代のそれが﹁労働者党﹂結成に象徴されるように ︑

人道的問題 ︑市民権の享受を追求した極めて政治指向的な

ものとする一方 ︑三〇年代の運動は政治を排除したすぐれ

て賃金意識的な労働組合主義により特色づけられるものと

たし

︒ し

かし

そう

解た

表は

面 的

なも

のと

言 わ

ねば

なら

い ︒

なく

とも

組 合

指導

見を

限る

り ︑

思想

には

連 続

性が

確 認

れさ

訳る

で ︑

のこ

と は

一方

モヨ

ズン

がら

んど

心を

わな

たっ

指導

急の

主義

思 想

の内

的 論 理

追を

求 す る

こと

他 ︑

でそ

急の

主義

想と

一般

の労

働者

持の

つ意

識 と

の関

から

運 動

のダ

イ ナ

ズミ

をム

解理

す る こ と な

にし

は ︑

政治

指向

的 ︑

賃金

識意

的 と い

たっ

テッ

ル貼

がり

意味

持を

たな

いこ

示を

唆 し て

いる

から

であ

る ︒

働  

組合

導層

急の

主義

思想

いうまでもなく当時の労働組合運動の主たる担い手は都市生まれの熟練職人層だった ︒前章でもみたように ︑大部分の職人たちは時代の進行とともに従来の共同体的絆を断ち切られる中で ︑全般的没落状況へと追い込まれた ︒その

中で特に分業の進展の著しかった製靴業 ︑印刷業 ︑仕立業 ︑

建築業などでは ︑労働時間短縮や賃上げなどのために組合を組織し ︑ストライキに訴えるケースが一八世紀末より顕著となる ︒しかし ︑そうした組織は多かれ少なかれ ︑伝統的権利や地位の保全 ︑職能内での相互救済を目的とする性

格を帯びており︑それゆえ排他的かつ自己防衛的だった ︒

一人二七年からほぼ一〇年にわたる運動はそうした排他

性 ︑自己防衛性をのり越えて ︑いわば労働者の﹁階級﹂としての広範な連帯を基盤とし ︑社会変革への一定の展望を

内在する性格を帯びていた ︒この連帯と社会変革への思想

的基盤を明確化したのが ︑イングランドからの移民W ・ヘ

イトンの

アルてフシウンントャドー︑ 母じ 一年だた八①Oサど ﹁︼︼F■①一付 oにBノっー︒

︵ 〇Fo︶富毎zq津いヨ一〇易デ中お

で生まれた彼は ︑ 一人一二年戦争末頃にはサウスウァクで

靴工として生計をたて ︑その後三〇年代初頭に忽然と姿を

消すまで ︑MUTA ︑労働者党の設立を通じて労働者の組

織化に努めた ︒J・グレイやR・オーウェンなどの著作を

消化した彼は ︑いわば同時代イギリスの急進的知識人の合

衆国版ともいえよう︒

彼は労働価値説に依って ︑自らの肉体で労働し﹁土地や

原料に手を下すことで富をつくりだす﹂生産者階級と ︑

﹁生産活動に従事せずに富を使用するだけ﹂の非生産者=

蓄財者階級に社会を二分した上で ︑本来 ︑労働のみが富を

生み ︑富は全てその生産者に帰すべきなのに ︑現実には生

産者は非生産者によって搾取され窮地にたたされていると

主張する ︒さらに彼は ︑搾取が独占的 ︑貴族的立法府によ

って合法化されていること ︑労働の価値下落が ︑資本主義

による﹁事物のあるべき秩序﹂の逆転に原因していること

を強調する ︒つまり︑﹁事物のあるべき秩序﹂において一

義的な意味を持つ富の生産以上に ︑富の交換や分配が確実

な見返りをもたらすがゆえに ︑商業は飽くことなき﹁安売り合戦﹂という競争を行い ︑競争はさらに競争を呼ぶ ︒こ

の邪悪な競争こそが生産著没落の原因だと彼は指摘する訳

であ花 ︒ここから彼は ︑全労働者に組織化を訴え ︑協同生

産への移行を提唱する ︒しかし ︑単なる労働条件の改癖賛協同生産だけでは﹁いかなる恒久的成果﹂も期待できない ︒

それは非生産者とその同望者たちが政治機構を掌握してい

るからで ︑そこに労働者による政治活動の意義が存する ︒

だがその一方で ︑﹁個人的一利害と競争の制度﹂は経済的領

域のみならず ︑知識の独占という状況をも生みだしており︑

フィラデルフィア一人四四年暴動の歴史的意義︵ 鵜月︶ 労働者は自らの権利や利害について無知であるがゆえに ︑

適正な教育を通じ﹁労働者階級の間から苦しみの声が消えうせる⁝⁝そんな制度を確立するに十分な知識を手に入れ

させる﹂必要があると彼は主張しだ ︒つまりヽヘイトンは

労働者の社会内における数的優位に注目し ︑その知的向上

を前提としながら ︑投票所や仕事場での集団行動を通じて ︑

富や権力の不平等な分配制度の再編を説いた訳である ︒

こうしたヘイトンの急進主義思想は ︑三〇年代のGTU

指導層にも受け継がれて﹂範 ︒無論 ︑親方職人に対する暖

味な規定にも窺えるように ︑彼らは社会上層や一部法人組

織への富や権力の集中を非難し ︑公教育の保障 ︑燃料・食

料の公有などを提唱しても ︑私的所有を否定するには至ら

ない ︒そこに彼らの思想的限界を指摘することも可能だが ︑

より重要なのは ︑当時の時代状況の中でこの思想がいかに

機能したかという問題だろう︒その意味でヘイトンらが描

いた社会変革の方法が ︑非生産者という共通の敵を設定す

ることで ︑様々な対立要因を内包する過渡期の不均質な労

働者諸階層に利害の同一性を示し ︑﹁階級﹂として発想し

連帯するのを出発点としたことこそが強調されるべきだと

考える ︒

以上の様な社会認識をヘイトンらが共有した背景には ︑

彼らの多くが理神論を奉ずる合理主義者 ︑E・ペ ッセンの

一‑ 42 ‑―

―‑ 43 ‑―

(6)

史苑︿ 第四四巻二号︶

言葉を︵ 借柳 るなら﹁啓蒙主義の子供たち﹂だったことが影

響している ︒ 一八二七年一一月にヘイトンが初めて公開講

漠を行ったのはサウスウァクの普遍救済教会であり︑MUTA機関紙﹃メカニクス・フリープレス﹄ぐきヽ学さ単豊ヽ﹂我 ︶

ゃ︑べや0しには普遍救済教会牧師T・フィスク

︵ 弓8汗︲

ボ坊 ∽コ浄︶の説教や出版物の告知がしばしば掲載されて

いる ︒また ︑GTU指導層の大部分は﹁自由探求者協会﹂

→rゆ留o︻ofoh甲8問p︵■月①■の︶に属していた ︒普遍救

済論

︶想︵ C思由ュ嵩︻り掌のコと自

啓蒙主義産物す部分多かたがいずれのを異とにるももっ︑ 温格︵ 句︶は性︻8弓ぎF

して ︑神や人間に対する見方や理性 ︑科学的探求 ︑道徳上

の清廉などの強調といった点では共通性を有してい赳 ︒普

遍救済論者たちは ︑教会とは別に科学研究会や読書室を設

け ︑﹁ 自由探求者協会﹂も政治・経済と不教・科学・同時

代詩など広範な問題についての討論会や ︑愛国的事件の記

念日や独立革命の英雄の誕生日には晩餐会を開いた ︒B・

ローリーによれば ︑ 一八二〇年代末の時点で ︑普遍救済論

者の五〇% ︑自由思想家の七六・七%が職人層により占め

的地位関わ万人魂救いを約束す神になにのるのとしりく︑ 人道上れいたそたびは神は徳の特性や社会てしとらう︒︑・ 2

成せるわざは科学的探査により解明されると考える一方 ︑

自然権や自然法の信奉者として ︑日前の経済的不平等を単

│   │

に労働・生活条件の悪化としてだけでなく︑人間の諸権利の破壊として捉え ︑そうした権利の回復を社会制度の変革によって達成せんとしたのである ︒

急進主義思想を抱く労働運動指導層は ︑しだいに労働者

脚懐時翠劫陸隅の注 っ

意 っ

弗韓嚇輔 地鶴瑚げ 玲節酵砕態中薪翻日厳守協会などを通じて勤勉 ︑節約 ︑自助といった個人主義的価値観と現状肯定を説く福音主義的 ︒フロテスタント諸派を ︑労働者の連帯を妨げる足棚と認識し ︑産業エリート

と牧師が手を携えて︵ 新晩 な社会秩序を建設しようとしてい

るとして激しく非難した ︒同時に ︑彼らは労働者内に依然

根強く息づく固有の伝統的文化に注意をむけ ︑不平等の原因を探求し自己啓発を行うかわりに ︑酒場や賭博場で時間

を費やす労働者に啓蒙の場を提供することを主張した ︒つまり彼らは ︑労働者内に存在する文化的差異を鋭く認識す

る中で ︑出現しつつある産業社会に対し︑その経済的側面

に留まらない全体的批判を展開したのだった ︒

0 伝統的文化一八三〇年代の時点で ︑労働者内において前述した合理

主義的世界観に基づいた急進主義思想を抱いたり福音主義

的プロテスタンティズムを受容することで ︑出現しつつあ

る産業社会に対して抵抗あるいは同化という明確な姿勢を

示した人びとはごく少数だった ︒むしろ大多数の労働者は ︑

自らの生活世界を伝統的な労働・生活習慣とそれを持続さ

せる意識 ・価値観に基づいて形成していた ︒無論 ︑この伝

統的文化は ︑それを保持するものが農村からの移住者か ︑

海外からの移民かい都市生まれの職人かといった違い ︑あ

るいは職種や居住区による違いによってもかなりの多様性

を持っていたと考えられる ︒しかし ︑産業社会の求める価

値観・行動とたえず緊張関係を有するという点では共通性

を認めうる訳で ︑そこから伝統的文化が社会内でいかに機

能したかを検討することは可能だろう︒

まず ︑伝統的文化の根底に流れる共通項は労働と余暇の

不分化に支えられた自律性だった ︒ 一八三〇年代末にある

長老派教会牧師が ︑郊外てピクニックを楽しむ二人の仕立

工と出会った際に交した会話は ︑そのことをはっきりと示

している ︒折柄の恐慌で失業中かと尋ねた牧師に答えて仕

立工口く︑﹁そんなことはありません ︒ただ仕立工の休暇

を楽しんでいるだけです ︵最後の一ドルを使い果たす時が

確かに切迫しているといえるのです ︿ ︶しかし ︑休暇は重要

です ︒﹃何ものにも強制されない﹄それが私のモットーな

のです ︒﹂仕立工に限らず ︑ およそあらゆる職種の労働者

が自らの﹁休暇﹂を持っており︑国民的英雄や愛国的事件

フィラデルフィア一八四四年暴動の歴史的意義︵ 鵜月︶ の記念日 ︑祝日 ︑民族的祭礼 ︑結一 婚式 ︑そして思いつをや

その日の気分などから仕事を放りだし ︑浮かれ騒ぎに興じ

た ︒職人たちにとって﹁晴れた日はいつでも仕事場を脱け

出して野原へ出かける誘惑﹂を片だし ︑サーカス・大道

芸︐マラソン大︵ 会晩 どのしばしば週日に行われる催しも多

くの人びとを集めた ︒

確かに工場労働に顕著なように ︑全般的傾向としては労

働規律は強化される方向へ向った ︒しかし ︑特に機械のリ

ズムに支配されないと文誹え仕事に従事する小作業場の職

人 ︑製靴業や仕立業などの下請部門や織布業に従事する家

刻ン 労

翔購ば藤帥辞郷華

ヤ こ 般

郭柳鶏呼命中ぱ 靴蒔印確 珠劇的r

ば一時的な失業をもたらす不完全な市場や輸送手段の不安

定性が ︑不規則︵ な甥 働 ・生活習慣を一面で必然化していた

点も重要といえよう ︒

労働と余暇の不分化 ︑生産点における自律性を最もょく

象徴したのが飲酒習慣だった ︒あるメソジスト教会牧師は

自らの職人時代をふり返って ︑職人たちが酒慢を片手に仕

事をし ︑酒がなくなると徒弟が使い走りにだされ ︑徒弟も﹁帰り道に酒をくすねてはその味を覚えたものだ﹂と回想

している ︒職人たちは ︑ 一定期間熱心に働くと﹁しばしば

数日間にわたって飲めや唄えのどんちゃん騒ぎを続け ︑そ

一‑ 44 ‑―

一‑ 45 ‑―

参照

関連したドキュメント

[r]

子どもの学習従事時間を Fig.1 に示した。BL 期には学習への注意喚起が 2 回あり,強 化子があっても学習従事時間が 30

代表研究者 小川 莞生 共同研究者 岡本 将駒、深津 雪葉、村上

執務室は、フロア面積を広くするとともに、柱や壁を極力減らしたオー

としても極少数である︒そしてこのような区分は困難で相対的かつ不明確な区分となりがちである︒したがってその

【フリーア】 CIPFA の役割の一つは、地方自治体が従うべきガイダンスをつくるというもの になっております。それもあって、我々、

真竹は約 120 年ごとに一斉に花を咲かせ、枯れてしまう そうです。昭和 40 年代にこの開花があり、必要な量の竹

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場