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著者 成瀬 トーマス誠

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日米における司法権発動の要件の背景と構造―スタ ンディング論と権利義務関係の要件に着目して―

著者 成瀬 トーマス誠

著者別名 Naruse ThomasMakoto

雑誌名 東洋法学

巻 56

号 2

ページ 252‑269

発行年 2013‑01

URL http://id.nii.ac.jp/1060/00004092/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止

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《第十四回  東洋大学公法研究会報告》

――スタンディング論と権利義務関係の要件に着目して――

成瀬  トーマス誠 報告者  成瀬トーマス誠(明治大学大学院博士後期課程)報告題   「日 米における司法権発動の要件の背景と構造―スタンディング論と権利義務関係の要件に着目して―」日  時  平成二四年七月二二日  十八時~二〇時場  所  東洋大学第二号館一四階学習指導室参加者  名雪健二・宮原均・齋藤洋・武市周作・川村仁子(以上、東洋大学)、柴田憲司(中央大学)、鈴木陽子(武蔵野学院大学)、始澤真純(本学大学院博士後期課程)

  二〇一二年七月二二日、東洋大学公法研究会において「日米における司法権発動の要件の背景と構造―スタンディング論と権利義務関係の要件に着目して―」という表題の下、研究報告を行った。本報告は現在取り組んでいる研究の中間報告として、その全体像を示すものであった。以下、本報告の概要及び質疑応答の模様を報告したい。なお、質疑応答の模様については発言の趣旨やニュアンスを損なわない範囲で若干の修正を行っている。また、敬称は省略させていただいた。 【報告概要】  これまで、司法権発動の際に要求される権利侵害の要件について、その憲法上の正当性ないし必然性について研究を行ってきた。それに対し本報告は視点を変え、そのような要件がなぜ設けられているのか、司法権の機能にも着目しつつその背景を探るものであった。なお、以下の内容は拙稿「日米における司法権発動の具体的要件の背景と枠組み」(『危機的状況と憲法』(敬文堂、二〇一二年)二〇七頁)に沿ったものであることを付記したい。  本題に先立ち、前提論として用語の整理を行いたい。日本国憲法七十六条の司法権とは、「具体的な争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家の作用をいう」(清宮四郎『憲法Ⅰ〔新版〕』(有斐閣、一九七一年)三三〇頁)と定義される。この定義は若干の差異は見られるものの、概ね共有されている。なお、近年では高橋和之教授によって再構築を試みる見解も示されている。  この司法権の理解からいわばその「本質」として導かれるものがいわゆる事件性の要件であり、「当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争」、「法律の適用によつて終局的に解決し得べきもの」という二要件で捉えられている(最小判昭和二八年一一月一七日行集四巻一一号二七六一頁)。この二要件は教育勅語判決において示され、今日の判例・学説においても概ね共有されている。この二要

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件については「具体的事件性」と「法律の適用による解決可能性」と区分する見解も存在するが、本報告では上述の捉え方に基づいて議論を進めていく。スタンディングとは原告適格と訳され、訴訟提起の適格性を示すもの(

access standing

)と特定の争点を提示する適格性についてのもの(

issue stand - ing

)に分けられる。また、憲法上のものと自己抑制上のものがあるとされる。

  簡単に整理すると、日本国憲法においては七十六条の司法権(ないしそれを具体化したところの裁判所法三条)から事件性の要件が導かれ、その事件性の要件のサブカテゴリーの一つとして権利義務関係の要件が導かれる、という三段構造となっている。これに対し、アメリカ合衆国憲法においては三条二節からいわゆる事件争訟性の原則(“

Case or Controversy

”の原則)が導かれ、その要件の一つとしてスタンディングが導かれる、という構造となっている。ここで、それぞれの具体的な要件は司法権自体の機能をどのように捉えるのかという点から導かれるものであり、両者の間には相関関係がみられる。

  以上の前提論に続き、まず日本国憲法下における現状と背景についてみていきたい。事件性の要件が打ち立てられたのは一九五三年の教育勅語判決によってであり、そこでは「当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争」、「法律の適用によつて終局的に解決し得べきもの」とさ れた(行集四巻一一号二七六一頁)。渋谷教授による整理では、第一要件はさらに「利害の具体性・当事者の対立性」、「権利義務」という二点に分割され、この「権利義務」の要件は「紛争が当事者の権利義務に関する紛争であるという要素」「権利の貫徹または義務の履行を主張して争う」ものであるとされる(渋谷秀樹『憲法訴訟要件論』(信山社、一九九五年)一八〇―一八三頁)。このように私権保障の観点が強く感じられるものであるが、二〇〇二年の宝塚市パチンコ店等建築規制条例事件判決では国または公共団体が自己の権利利益の保護や救済ではなく、国民に対して行政上の義務の履行を求めるものは法規の適用の適切や一般公益の保護が目的とされるとして法律上の争訟にはあたらないとされ、「私権保障」の観点が依然としてみられるところである(最小判平成一四年七月九日民集五六巻六号一一三五―一一三六頁)。憲法学説の大勢においても、司法権の定義及びそこから導かれる形で事件性の要件の二要件を捉えること、そして二要件の内容自体についても、概ね合意が見られる。その背景としては、司法権一般の歴史的沿革及びアメリカからの影響が指摘されている。なお、先述の高橋和之教授の見解を始め、再構築を試みる見解も提示されており、また、拡大を指向する見解も見られる。  憲法七十六条及び裁判所法三条の制定過程からは、司法権が当時においてすでに「私権保障」を担うものとして捉えら

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れていたことがうかがわれる。司法権がそもそも具体的な事件の発生を前提とすることや権利保障を担うものであるとする点についても、当時において既にコンセンサスが見られた。当時において司法権条項を巡っても大きな変化のもたらされた箇所については大きな議論がなされていることと対照しても、また明治憲法下における学説と今日の学説の捉え方の近似性からも、この点については明治憲法下との連続性も指摘される。現憲法における司法権は、明治憲法下における「行政裁判権」と「司法権」をいわば「足した」ものと考えられる。そもそもそれらの双方共に「私権保障」を担うものであったことからは、今日における司法権の捉えられ方が私権保障を旨とすることがうなずかれると同時に、今日の司法権観の背景として指摘されるのではないだろうか。

  ここで、アメリカにおけるスタンディング論の枠組みに目を転じたい。合衆国憲法制定過程及びその直後の時期における司法権観としては「訴えによって持ち込まれた法的争い(争訟性、法的議論)について法の解釈・意味の確定を行い、適用するもの」という像が導かれた。これは合衆国憲法制定過程における議論、“Federalist”と“Anti-Federalist”の間での議論、初期の諸判例、当時の司法審査の性格を巡る議論、そして勧告的意見の禁止を巡る動向、の検討によってもたらされたものであるが、具体的な要件については明確とは言いがたい。その要件を具体化していくことは後の判例に委ねられ た。以下では、特にスタンディングの変遷についてみていきたい。  スタンディングについては、一九三九年のTennessee Elec-toric Co.判決においていわゆる「法的侵害の基準」が打ち立てられた。そこではでは公権力の行為によって法的権利(財産権や契約上のもの、不法な侵害から保護されるもの、もしくは特権を付与する立法に基づくもの)の侵害が要件とされた。しかし一九七〇年にはData Processing判決によって、原告は問題とされている被告の行為が経済的その他の面で事実上の侵害をもたらした旨の主張をしているかという点が挙げられ、スタンディングの要件として「事実上の侵害(

injury in fact

)の基準」が打ち立てられた。この基準が徐々に整理されてゆき、一九九二年のLujan判決では「事実上の侵害」、「因果関係」、「救済可能性」という三要件として示される。そこで要求される侵害には、法的に保護された利益への具体的かつ個別的な、推測的ないし仮定的でない、現実もしくは差し迫ったものであること、という要件が課されている。なお、今日ではこの三要件で判例上コンセンサスが形成されている。

  このように、アメリカのスタンディングの要件の流れにも私権保障的な要素が見られた。しかし、その反面において非私権保障的な要素も存在している。それが健在化している領域として、連邦納税者訴訟、環境訴訟の分野、一九四〇年代

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上旬の諸判決、をここでは扱いたい。

  まず連邦納税者訴訟は一九二三年のFrothingham判決以降否定されてきたが、一九六八年のFlast判決において条件付きで扉が開かれた。連邦納税者訴訟でスタンディングが認められるための要件については擬制であるとの批判が強く、また連邦納税者訴訟のあり方については中村芳昭教授の「客観訴訟化せる主観訴訟」との指摘が参照される。また、Flast判決において示された要件は今日においても「そのままの形」で残されている。

  環境訴訟の領域において、Sierra Club判決やSCRAP判決を始めとする多くの判例では美観上の利益やレクリエーションに関する利益でもスタンディングを認めるに足る「侵害」とされ、その幅を大きく捉えている。また、二〇〇七年のMassachusetts v. EPA判決では原告の「州」としての性格を大きく斟酌したものではあるが、因果関係を緩く解してスタンディングを認めている。このように既存の要件を緩く解しつつも、原告自身への侵害が要求されるという一線は保持されている。

  一九四〇年代上旬の諸判決については、代表例として一九四〇年のSanders判決及び一九四二年のScripps-How-ard判決を挙げたい。これらの判例においては私権保障を離れた、公益保護を目的とした議会によるスタンディングの付与が認められており、私権保障とはその目的を異にするあり 方が明示的に認められていた。  以上のように、アメリカにおいてスタンディングは大きな変遷を繰り返しており、また要件の適用にも柔軟性が見られた。しかし、要件自体の変遷や柔軟な適用は無秩序になされたものではなく、背景には一定の一貫した要素が見られる。そのような一貫した要素としては、「双方向性」、「終局性」、「法的問題性」、「具体性」、「原告個人とのつながり」、そして「受動性」、という六点が挙げられる。

  全体を通じて機能的には多分に私権保障的な理解によって占められていたといえるが、ここで司法権に内在する要因と外在する要因という視点からの検討を組み込みたい。まず枠組みの変遷の背景としては、司法権に「外在」する要因が指摘される。法的権利の要件やその機能についてはニューディール期における社会的要因との関係が指摘され、後のスタンディングの拡大については行政の法適合性への監督の要請の強まりが指摘される。また統治機構の変化による影響や連邦最高裁の裁判官の構成も指摘される。これらの変化をもたらした諸要因は司法権に内在するものというよりも、外在的なものであるといえよう。その反面、先述の六点の一貫した要素は、内在的要因と考えられる。すなわち、憲法上のスタンディングの要素であり続けたものである以上、それは憲法上の司法権の「内」にあり続けたものといえるのである。これらを整理すると、アメリカにおいて、司法権に内在する

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要因によって範囲を画しつつ、柔軟性を持たせるというあり方が採られてきたといえるのではないか。そしてその枠組みの中に含まれるのであれば、具体的な機能が公益保護にあっても許され得るという構造が指摘されよう。

  日本の現在のあり方は、多分に明治憲法下からの流れを継いだものであった。そこでは私権保障型としての理解がみられ、要件はそこから導かれた。そして訴訟の提起に際しての具体的なあり方については実定法に委ねられているという点も指摘される。一方のアメリカにおいては私権保障に軸足を置きつつも、司法権に内在する要因によって限界を画しつつ、外在する要因によって具体的なあり方が規定されてきた。私権保障に軸足を置きつつ、具体的機能には柔軟性が持たされうる構造であるといえる。これは、大きくそのあり方を外れてしまうことなく、その時代の社会による要請にも応えうる、柔軟性をそなえた、一つのバランスの取り方であるのではないだろうか。

  以上、両国におけるあり方について、その背景や機能に目を配りつつ観察を行ってきた。今後の課題としては、判例における「法律上の争訟」の捉えられ方の精査に加え、「事件性の要件」と各訴訟法における要件の関係についてみていきたい。すなわち訴訟法レベルでの原告適格の拡大について、しばしば司法権を拡大するものではないという認識の下になされていると指摘される。そこでの「司法権」の捉えられ方 はどのようになっているのか、憲法上の事件性の要件とはどのように関連づけられているのか、詳細に検証したい。また、憲法上の司法権の機能や幅についてどこまでのものを持たせうるのかという点についても、各訴訟法への指導原理として機能しうるという観点や今後訴訟法上の拡大がさらに望まれるのであればそのための憲法的な根拠づけになりうるという観点から、さらなる検討を行いたい。このように憲法上のあり方を検証することは、立憲主義の観点からも、立法にすべて委ねてしまうのではなく一定の憲法的裏付けを持たせるという意義を持つのではないだろうか。また、明治憲法下からの流れを現在もまだ引いているが、そのようなあり方が今現在においてもまだ正当性を有しているのか否かについても、検討する必要が認められよう。【質疑応答】質問A「Data Processing判決につきましてスタンディングの要件として事実上の侵害ということを強調する形で挙げられているけれども、この判決の場合には事実上の侵害だけがスタンディングの要件じゃない、ということでしたよね。むしろゾーンテストが決め手になっていたと思いますが、そうしますと、事実上の侵害が憲法三条の要件で、そこに自制の要件が合わさってスタンディングの問題を決定するというものであったと思う。そうしますと先生の最初の話からは憲法

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三条というのが司法権の枠組みを決めるということでしたが、その憲法三条の問題と、現実に司法権を行使する際に裁判所が自制を行っているということの関係はどうなるのでしょうか。そのような自制を行うということは極端にいうと裁判所は憲法三条に違反している、憲法三条は裁判所に門戸を開いて審査すべきという憲法上の要請を課しているということでもしあるとすれば、自制をしてしまうということはこれは裁判所の方が憲法三条の要件に違反しているという批判が出てくるのではないか。このあたりについてどのようにお考えでしょうか。」報告者「その点につきましては連邦最高裁の判例でも言及された例がありまして、憲法三条は外枠を画しており、その中で現在具体的にどこをとれば良いのか、具体的にどこに「点」をとるのかはその時その時の判断でやっていくべきであるという形で捉えられております。そして先ほど私が報告の中で申しました「外枠」とこの自制についても同じように考えております。すなわち、憲法上どこまで及び得るのかという外枠が画されていて、そこで外枠までかっちりとるべきであるのか、すなわち限界いっぱいまでいくべきであるのか、もしくはもう少し縮めた方がいいのか、その点についてはその時その時で判断について裁量の余地があるのではないかと考えております。」質問A「Data Processing判決の場合にはゾーンテストという 言葉が使われていますが、結局は法律によって原告適格が設定されうるということを主張していると。憲法三条の要件とスタンディングを創設する議会との関係につきまして、仮に憲法三条の要件を事実上の侵害と見た場合にこれよりも門戸を広げる立法、これより門戸を狭める立法、両方考えられますが、この事件の場合にはどうなのでしょうか。Data Process-ing判決の場合には事実上の侵害を一応憲法上の要件だと出して、だけど実際やっていることは法律があるのですよね。直にスタンディングを認めている訳ではないけれども、銀行にデータ処理サービスを認めるという処分によってデータ処理サービスに従来従事していた人間にとってライバルが増えてしまう。そうすると自分の方に経済的な不利益が及ぶのでそこでこの措置に対して我々も争うスタンディングがあるのじゃないかということですね。少なくとも経済的利益が失われる可能性が高い。事実上の侵害があると。そしてさらに法律の規定の中で…」報告者「Zone of interest…」質問A「そうですね、そこで法律によって自分たちは、今回の措置によって失われる利益を法律によって守られていると、それがZoneの中に入っていると、こういう主張だったと思います。そうすると、この憲法三条の事実上の侵害というものは、それから現実に一定の行政処分を誰に争わせるかという問題についてどうも決め手になってきていない、やは

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り決め手になるのはより具体的な法律が必要になってくるのかなと。従来の日本の議論とまた近づいてしまうのかなあ、と。そういうように思うのですが、先生はやはり憲法三条の要件を大枠だとおっしゃったように思うのですけれども、具体的なスタンディングを認めるか否かの判断、ということになると、法律の役割、議会の役割をどのように考えていますか?」報告者「その点につきまして、先ほどの一九四〇年代上旬の諸判例、少し古いですが近いことがここで行われていました。FCCの行う新規のラジオ局への開設認可について争われた事例ですけれども、ここでは確か連邦法によってFCCの行為や判断によって何らかの影響を受けるもの、不利益を被るものは訴訟を提起できると。そういったことにつきましてSanders判決にしてもScripps-Howard判決にしましても、既存のラジオ局が訴えた事件でした。既存のラジオ局がそこで訴訟を提起しまして、それに対してFCC側はこれは私権を認めたものではないから法的侵害にあたらない、Sanders判決は一九四〇年に出ていますけれどもその前年に法的侵害の基準が出ていますので、その基準にあたらないじゃないかと。それらにつきまして判例を見てみますと、新しい私権は創設していない、ただ公益代表としてスタンディングを与えているのだとしてスタンディングを認めた訳です。すなわち、その時点で法的権利の基準が憲法上の要件ではないとい うことが明らかになったわけですけども、議会が実際に行う枠組みにつきまして、まず議会は三条よりも広げていいのかという点につきましてはアメリカでは否定されています。従来から、一八〇〇年代の判例でも確か見られた点なのですけれども、連邦最高裁は憲法によって創設され、憲法によって授権されている機関である以上は憲法上の権限以外の権限を果たすことはできないと。そのように明確に述べられていますので、三条の範囲より広げることは常々否定されてきています。狭める点につきましては、ある程度立法政策上のものとして認められるのではないかと考えます。同時に行政手続法一〇条などをみましても、行政の行為などによって不利な影響を受けた者には訴訟提起を認めるという条文の具体的な意味につきましては憲法三条の、憲法上の要件をそのまま代入する形で捉えています。そういった意味ではある種の間接適用的な形がみられていると考えております。」質問A「Sanders判決について私権保障を離れた、公益保護を目的としてスタンディングの付与を認めるとありましたけれども、これは要するに第三者の原告適格の問題ですよね?」報告者「第三者、ではないです。」質問A「違いましたっけ?」報告者「たしか、公益ないし行政の法適合性の確保、つまりFCCの行為の法適合性を確保するために裁判所を活用すると。その際に誰にスタンディングを与えるかといったとき

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に、そこから直接的に被害、不利益を被った人こそふさわしいだろうと。そういうことでなされておりますので、そこで保護されるべきものはFCCの法適合性、そしてそれを訴えることは誰に、というその点については直接被害を被った人に、となっておりますのでそう意味では第三者では…」質問A「Sanders Brothersというのはラジオ会社ですよね?」報告者「ラジオ会社です。」質問A「そして、その別途第三のラジオ局の開設を認めるということに対してSanders Brothersが争うということを認めたという事件ではなかったですか?」報告者「あるラジオ局が新規開設しようとしたことに対して、それによって競争上の不利益を被るというものでした。誰の競争上の不利益かというとSanders Brothers自身の…」質問A「そうですよね。だけど、実際にその訴訟で争われているのはその新規開設を認める、私の第三者という言い方があれだったかな、Sandersに対しての許可等を争う取り消し訴訟ではないですよね。」報告者「ではないです。」質問A「そういう意味でSandersは「第三者」ですよね。そうするとそのときSandersの方は全く法益保護の観点からその新規開設、私の言葉でいう「第三者」に対しての新規開設を争うスタンディングが認められたという訴訟ではなかったように思います。それはSandersは、先ほど先生は根拠規定 があったと思うのですが、ラジオ局の開設に際して免許を与えるもしくは取り消しをするにあたって不利益を受けた者、その者が原告適格を有すると明文規定があると思うのですが、そうしますと、Sandersは自分に対しての処分ではないけども第三者に対してなされた処分によって自分は不利益を受けたと。まさにそれは法律の明文にかなった不利益だから、だから原告適格が認められたケースのように私は思っているんですけども、そうするとそれは公益保護として役に立つかもしれないけども、ただ私権保障を離れたスタンディングの枠組みとしてしまうことはやや強引に聞こえたのですけども、先生はどうお考えですか?」報告者「そういった意味では、やはりSanders側としては自分の利益を守るためですので、主観性が強いと思います。むしろ、そうでなければ彼らは訴えていなかったとも思われます。ただ、それに対して、なぜそれが可能なのか、競争上の不利益にはスタンディングを認めないというテストが前年に出ていながらなぜここではそれを認めるのか。そういったときに、連邦最高裁の説明として公益代表として彼らを任命すると。後の私的司法長官論につながっていく点ですが、そういった形で連邦最高裁としてはその機能として公益保護を挙げたところです。ただ、誰に対してそれを担わせるかという段階で不利益を受けた人間に、私はそこを「つながり」と捉えたのですが、一定のつながりのある人間に認めようと。

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そういった意味では私権保障的な要素が強い点ではあると思います。ただ、連邦最高裁としてはあくまでも私権は創設していない、すなわち個人の権利として認めていないと明言していたことから、そこに引っ張られたのかなと、いう感じはあります。」質問A「環境訴訟分野の判例としてSierra Club判決とSCRAP判決を挙げられていますが、これも結局原告に対する処分じゃないですよね。「第三者」に対してなされた処分を原告が争うことができるかどうかという訴訟だと思う。Sierra Club判決はいくつかありますが七十二年のでよろしいのですよね、ディズニーのリゾート開発の申請にゴーサインを出したところ環境保護団体がそれに対して訴えた。スタンディングは認められたケースでしたか?認められなかったものですよね?」報告者「Sierra Club v. Mortonですので、これは原告は

Jaffe教授のパブリック・アクションとしてやりましたので、自らの侵害とは結びつけずに提起した結果連邦最高裁にはじかれた、という例です。」質問A「そして日本ではこの事件はけっこう好意的に受け取られて、環境保護団体というのは訴えを提起するにあたり十分な関心を普段から有していると。一般の人とは違って、第三者の訴訟にもいろいろあって一般の人が訴えを提起するのとは違って環境保護団体は普段からこの問題について関心を 持っているので十分な争訟性を提起することができるのだと。そういうような形で日本では好意的に受け取られましたが、やはりはじかれた事例でしたね。SCRAP判決もやはり第三者なのですね。これはより極端な事例にも関わらずSCRAP判決の方が原告適格が認められているという点で矛盾しているような感じがあるかなというところですよね。」報告者「ただ、この二つの間には一点完全な論理の違いがありまして、Sierra Club判決で弾かれた理由は個人への、自分自身への侵害とのつながりを示していないことでした。完全な公益代表として訴訟を提起した結果ダメだった。それを否定する中でレクリエーション上の権利でもいいのだと、それでもいいから個人とのつながりさえだせば認められると示されたところです。Sierra Club側はそれを出していないからダメであるといったことに対して、SCRAP判決では個人との、自分とのつながりをかなり強引ですけれどもやっていますので、そこでつながりを示したことに対してスタンディングが認められた。そういう事例ですので、個人とのつながりの有無という面でとらえると正反対の事例ともいえるのではないかと、考えております。」質問A「やっぱり、裁判所の意識としては公益保護を目的としてこの事例を引き入れようという意識が高いと。ただし、具体的に原告の場合には主観的な利益を残しておかないと判例の流れからは無理であると。こういうことですね?」

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報告者「枠組み自体は外れたことはないとみています。ただその枠組みを引き延ばした、もしくは曲げたことはありますが出たことはないと、比喩的に捉えております。」質問A「それがまさに憲法三条の事実上の侵害、ですよね。事実上の侵害、というのはどう考えても主観訴訟ですよね。ただ、そこで公益的な目的が先行しつつも、当事者の主観的なものは程度はともかくとして残しているのが判例の流れである、ということですよね?」報告者「擬制であってもそこに含ませることができるか、それが基準とされていると考えています。」質問A「まさに枠組みを堅持しようということなのでしょうね。擬制であったとしても、という。Massachusetts v. EPAにつきまして紹介がありましたが、これは事例としては州が原告ですよね。そしてこれまで私たちは原告適格というと自然人の主観的な利益というものを考えてきたと思うのですが、この事件においては州がEPAが基準を示していない、あるいは不十分だったのですか…」報告者「最初から盛り込まなかったというものでした。」質問A「盛り込まなかったと、そうするとそのまま温暖化が進んでしまうのではないか、そうすると州の海岸線等が失われて財産上の不利益を受けると。それが事実上の侵害ですよね。」報告者「それに加えて州民保護という、カトリーナを始め温 暖化によって災害が激化すると州民へのダメージも大きくなる、州として保護する義務がある、という点もありました。」質問A「そういう主観訴訟というか、州自体に対する主観的な利益もスタンディングの根拠になるということ、そして憲法三条の事実上の侵害を中心とする概念の中に州の問題も取り込んでいくということでしょうか。そうすると、これは日本とはだいぶ歩みが違ってくると。公共団体などの原告適格の問題は客観訴訟という位置づけが日本ではなされると思いますが、アメリカと日本では歩みを異にするのではないかと思うのですが、その点について先生はどうお考えですか?」報告者「私もそのように考えております。判例ではスタンディングの認定に際しましては原告が州であると、その性格によるところが大きい旨が強調されています。本来であれば認められないようなところであるが州であるから認めた、というニュアンスに私は受け取りました。すなわち、主権を有する州ということがいわれておりまして、その点でこの事件は特殊な事例であるということができます。それでもなお、三条の枠組みで判断されまして、原告が誰であれそもそも三条の枠組みを超えることはできませんので、そうすると原告が州であるか否かを斟酌するかどうかは自己抑制に関する問題であると考えます。その面で特殊事例ではありますが、それによって三条の枠組みの幅の広さについて示唆深い事例であると捉えています。」

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質問A「憲法三条の枠組みが明文であって、これ当然だと思うのですが、その具体的な内容というのは所与のものでしょうか、それとも時代的にかなり変化するものなのでしょうか。これはけっこう難しいことだと思う。立法者の意思、それからその立法者の意思を超えて、法が成長していくのかということにも関わってくると思う。今日のご報告は三条の問題についてスタンディングの側面からの報告でしたが、先生の場合には三条の具体的な内容はかなり固定したものと捉えるのか、それとも相当程度変遷していくものと捉えるのか。さらには、その他の三条の、スタンディングだけじゃない、その他の要素とスタンディングとの関係について、どのようにお考えになっていますか?」報告者「所与の問題かどうかということにつきまして、制定過程での議論を見ますと、そこからは明らかにならないと、そしてそういった指摘もしばしばなされています。その点につきましては当時のイギリスのあり方を導入したのだという

Coleman v. Millerの少数意見でのFrankfurter判事の指摘ですとか、そういった指摘もなされていまして、またそこについて様々な研究もなされていますが、やはり制定過程の議論から“Case or Controversy”の意味がどうなっているのか、やはり明らかにはならないと考えています。その点につきましては一定のものが導きだせるとする見解とそうではないとする見解が議論を繰り広げているところです。加えましてス タンディングの概念自体につきましても、いつからあったのか、言い換えますと現代的なスタンディングの概念が当時既にあったのかという点につきましても、非常に激しく議論されています。当時においてはまったくあり方が異なっていた、という見解が有力ではないかと思います。そしてスタンディングの捉えられ方と要件についてみていきますと、やはりその時代その時代で大きく変わる点でありまして、要件の変遷だけをみましても法的権利の基準から事実的侵害の基準へ、そして事実的侵害の基準の中でもどのような侵害が要求されるのかまで詳細化されてゆき、その根拠づけにつきましても三条についてのものも含みますが三権分立を制約原理として用いるのが現在主流ですが、それもFrothingham判決以前にはあまり見られないものでした。根拠付けや司法の機能につきましても、所与のものというよりもやはり変遷するものであると、その時々の社会において司法権がどこまで及ぶべきか、それを考えながら確定していった、そういうものであると考えます。この点も、変遷を繰り返してきたことにつきましては研究が多くなされ、アメリカでも「カオス」との表現がなされたりしていますが、先に申しました「一貫性」はその中においてもなお見られるものであるとして導いたものです。すなわち、変遷はしますが超えないできたラインがあるというのが私の捉え方であります。それ以外の要素とスタンディングの関係についてですが、これが難しいとこ

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ろでして、それ以外の要素も元来コモン・ロー上の要素であったものが途中から憲法原理に格上げされた例ですとかも見られまして、具体的にそれらをどう見ていくのかにつきましては、まだ研究が進んでいないところであります。ただ、判例などをみますとスタンディングがそれらのすべてを包含してしまうことがあるということはしばしば指摘されているところです。」質問A「事実上の侵害の基準はDavis教授がそれまで束になっていたものを主観的なものとして切り離して、憲法上の要件は事実上の侵害だけであると、政治問題の法理などは別の問題であるとしたところから始まったものであり、スタンディングの議論自体は割と最近のものなのですよね。Froth-ingham判決辺りではまだスタンディングという言葉を使っていなかったと。」報告者「スタンディングが学問的に初めて論じられたのは一九二四年のFrankfurter判事の論文であったと、ただその論文も見てみますとごく簡潔な言及のみで、どこまで自覚的な議論であったのかは、もう少し今後みていきたいところではあります。ただ、それ以前につきましては“Case or Contro-versy”の問題として論じられておりまして、私はここで一貫性と申しましたが、それはスタンディングが形成される以前、特に一八〇〇年代から一九〇〇年代上旬につきましては“Caseor Controversy”の観点を参照しつつ、訴訟要件を確定して いった、そのようにみています。」質問A「“Case or Controversy”というのはやはり三権分立を意識した言葉と考えていいですかね。司法が勧告的意見を始めたとすれば、立法権を侵奪したものであると、そうなるのでしょうね。その三権分立は均衡関係ですので、時代にもよるしその時々の力関係にも左右されるので、憲法三条の中身が変化したりというのもあるのかも知れない。例えば環境訴訟の要請も従来であれば司法権としては立法ないし行政府に譲らなければならないものであるにも関わらずそれが様々な理由から放置されている、そこから司法審査を前に出していかなくては全体としての権力バランスが悪くなる、こういうような判断があって端から見ると一貫していないように見える、あるいは先ほど先生のおっしゃった擬制しているような厳しい解釈もあるのかなと。そうするとやっぱり捉え方としては三権分立のありようをどうしたらいいか、というところが重点になってくるのかなと感じます。」報告者「Marbury判決の時点を見ますと、政治と法の区別という概念が用いられていまして、何が政治で何が法であるのか、あと大頭領の権限との兼ね合いと、そういった点が述べられています。その後の一八〇〇年代の判例を眺めた印象としましては、三権分立の問題ともいえますしそうではないともいえる、判断が分かれるところですが、司法の範囲とはどこまでか、司法権とは何かという点にむしろ基づいている

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のではないかと捉えています。初期の百余年はそうではなかったかと見る次第です。ただ、司法の範囲がどこまでかという問題は三権分立と密接に関わっていますが、ただ今日のような三権分立を制約原理として強く持ち出してくる、そういったあり方は比較的最近のものでして、一九六八年の Flast判決では三権分立とスタンディングは関係ないと明言されていたところであります。この点は今日の判例では否定されていますけれども、ただ、一度は否定された判断がみられたという点は面白いと思います。それと勧告的意見の禁止につきましては、これが憲法上の判断か否かにつきましては議論がありまして、一七九三年だったと思うのですが、そこにおける英仏戦争に関連した国際法上の問題について当時の

Washington大統領が国務大臣に最高裁に見解を問う書簡を送らせたが最高裁からは拒否された、それ以来の原理になっていますので、そうするとそこで三権分立というよりも最高裁判事が示した見解はどちらかというと裁判の外で判断を下すということは司法権ではないというものでありましたので、それがどこまで三権分立を意識したものであったのかは疑問が残るところです。」質問A「単なる意見を裁判所が述べることと、裁判手続きの中で判決の形で述べることと、やはり区別しておかなくてはならないと思います。区別しなくてはならないが、ともに三権分立の問題は提起する、いま思い出したのが例の寺西事件 ですよね。盗聴法について国会で審議している問題を一裁判官が指摘すると。裁判官の表現の自由の問題でもありますが、あの場合には一裁判官がしかも特定の政治的色彩の強い団体で発言するというところで切られたと思うのですけど、もし最高裁が見解を述べたらどうであったのか議論されたところですよね。もし最高裁ができようとしている法律について憲法解釈の観点から述べたということであれば、これはどのような扱いがなされるのでしょうか。それから、三権分立の問題もそう単純ではないという感じがしまして、スタンディングはまさに入り口の段階の問題ですけれども、中身に入った場合にも三権分立の問題は起きている訳です。この典型例が統治行為論で、従来裁判所としては苦しんできて、中身に入ってから判断で苦しむよりも入り口のところで処理してしまおうと。手続き的に処理をした方が楽ですよね。そこでスタンディングが使われたり、あるいは他の統治行為論などが使われてきたという経緯があると思うのですが、実態に引きずられるというか、三権分立の問題というのは手続き的な、裁判に引き入れるかどうかのレベルだけではなくて、むしろ実態判断で大きいものである。そこが裁判所からすればちょっとずるいやり方ですけど手続きに処理してしまおうということでスタンディングやらに過重な期待がかかってきたように思いますが、その辺は先生はどのようにお考えですか?」

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報告者「おっしゃる通りだと思いまして、スタンディングは何のためにあるのかという最近の議論ですが、最近では三権分立を守るためであると。“Case or Controversy”について見てみますとスタンディングが入り口論で残りが実態論である、その残りの部分に政治問題の法理も入っていますので、政治問題の法理はまさに三権分立の観点から政治部門がすべきことであるとして司法から切り離す、それも憲法原理として捉えている訳でして、そう意味ではある面で重複している部分もあると。同時にスタンディングを見ますと入り口論といいつつだいぶ実態判断的なものもなされているという点は多く見られまして、実態判断に踏み込まないとここまで言えないという例もしばしば見られます。それらを見てみましても、アメリカにおいても批判されておりまして、スタンディングはあまりにも多くの目的を与えられていると、入り口論を通り過ぎて肥大化した概念になってしまっているという点は常に述べられておりまして、私もそのように考えております。」質問A「そうすると、今日の報告では司法権の定義というものが最初に出ていますよね。司法権の定義というものは制度として、憲法上の客観的な制度としてこうあるべきだという実体的な考察が一つ可能であると思います。それに対して今日の先生のお話はそこからぐっと入って特にアメリカの判例法などを考えると、三権分立を考慮するとこうであるという 基本的な考察、スタンディングの範囲というのは所与のものという言葉を使いましたが、実体的な所与の概念としての司法権というものが存在するのかということを研究することがひとつあると思うんですね。それに対してそういうものを前提にしないと骨がなくなってしまうのかも知れませんが、機能的な司法権の範囲、スタンディングに焦点を絞ってというようなことも出てくるのではないかと。先生のご関心は後者の方であると捉えましたが、その理解でよろしいでしょうか?」報告者「私も機能論的に捉えております。最初はそもそもの司法権の枠組みについて見ていこうとしたのですが限界がありまして、司法権の機能がどう捉えられているのか、どう営まれているのか、その理解というものをふまえないと立ち行かなくなってしまいまして、そこから現在では機能論的なものを含む形で見ていこうとしております。」質問B「司法権の機能を考察する時に、何らかの根拠があってその方向性を決められるのか疑問に思うところで、機能的には多分に私権保障的であるとされていますが、機能的には私権保障的もあるけども公益保障の方向に向かっているとしても説明できそうな印象がありまして、機能的なアプローチに根拠、すなわちよりどころにするものがあるのかな、と感じたのですが。」報告者「そこは非常に難しいところでして、司法権の機能が

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ではなぜこのようなものであるのか、その点を根拠を持って論じようとすると司法哲学や政治哲学といった、哲学的な根拠付けが必要となると考えております。その点では三権分立をどのように捉えるか、権力間の均衡をとるかブレーキをとるのかを含め、法原理部門説がまさにそうだと思うのですが、そのような形をとっていかなくてはならないと考えております。あとは司法積極主義か消極主義かの問題もでてきますけれども、そういった意味ではこの報告はいわば実態観察であると、実態を観察するとこれまではこうであったというのがこの研究でして、問題はここから何が引き出せるのか、これが必ずしも事実と断言できるかは解釈の余地もありますが、事実的なものでありまして、ここからどういう規範を導くのか、そこにどう橋渡しをするのかが今自分自身でも一番問題を感じているところであります。それに対し、問題意識として提示するためには現在まさに原告適格の拡大がなされていて、やはり憲法学の世界ですと司法権の発動に際して権利侵害が必要とされてきましたがそこに事実上の侵害も含められるのかと。アメリカのように事実上の侵害でもいけるのかという点が議論されてきた点でありました。行政法の塩野先生の本などをみますと主観訴訟における利益の範囲の拡大や公益保護的なものを主観訴訟で可能にしている点につきましても司法権や法律上の争訟を拡大したものではないと、そのような認識ではないと指摘されています。そうすると、捉 え方に若干ズレがあるのかなという点も感じるところです。その辺りの概念の整理や、実際に判例が権利義務というものにどこまで「利益」を含ませているのか、そういった点も含めて今後の課題としてみていかなくてはならないと考えています。」質問B「日本ではよく法政策的に広げられているのだというところでほとんど説明が終えられてしまうところでもありますよね。」報告者「法政策的にという点で、裁判所法三条の「その他の権限」と法律上の争訟と、どこで切り分けられているのか、客観訴訟は法律上の争訟ではないとされその他法律上の権限とされますが、じゃあ公益保護にまで踏み込む形の主観訴訟、それはあくまで主観訴訟であるから司法権の範囲であると、ただ従来の司法権の観念はやはり私権保障的な観念が強く出ていますので、そうするとそこの整合性がどうなっているのか。そこに付随しまして、事件性の要件と各訴訟法の原告適格や訴えの利益との位相がどうなっているのか、そこも今現在まだ及んでいない点であります。」質問A「裁判を受ける権利からアプローチしたスタンディングの問題と、それから裁判所の三権分立における機能論からのスタンディングの問題は、これまであまり区別しないで論じてきたかも知れませんが、面白いかもしれませんね。私権保障は裁判を受ける権利から根拠づけられると思いますが、

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その時にどういう場合に裁判によって救済を受けるのかは、かなり限定されてくると思うのですよね。それに対して純然たる客観訴訟みたいなものは三十二条を根拠にしないでということになりますよね。ただその時に議会の方で本当に客観的なものでありますが客観的な訴訟を認める法律を作ったときには、それは裁判を受ける権利の中に取り込まれてくるのかなあと思うのですけども、この裁判を受ける権利からスタンディングの問題を考えていくことは面白いかなと思った訳ですが、その辺について発展的に考えていますか?」報告者「高橋和之先生のアプローチがまさに三十二条からのアプローチでして、縦と横の軸で切ると、司法権とは何かという点は横の軸、すなわちそれぞれの権力部門同士のバランスですとか、それぞれの定義や役割分担といった点から司法権の定義を行っていくと。そしてスタンディングや事件性の要件といった具体的な要件は作用の問題である、作用の問題は本質論とは別であるとされまして、それを画するのは縦軸、すなわち三十二条で国民と権力部門の問題として捉えていこうと。そういった形で、従来の事件性の要件を三十二条の問題として捉えていく、そういった見解であります。この点につきましてはやはり三十二条の「裁判」と七十六条の「司法権」といいますと、やはり裁判の方が広いと捉えています。ただ問題としまして、裁判所に与えられているのはあくまでも司法権でありまして、そうすると裁判を受ける権利 のミニマムな部分はやはり司法権と重なるものであると考えます。すると、最初から三十二条の「裁判」とは何かとするよりも、裁判を受ける機能を実際に行う機関である裁判所の権限、それがどこまで及ぶのかについて確定する作業の方が先なのではないかと考えまして、やはり七十六条からアプローチするスタンスをとっております。先ほど客観訴訟の例も出ましたけれども、客観訴訟がどこから客観訴訟となるのか、今客観訴訟とされているものも本当にそうなのかという点につきまして、やはり客観訴訟は司法権に入るか入らないかのある意味限界事例、そのボーダーラインに直接的に関わる問題だと思いますので、その線をどこに引くのかという点に論を集中させていくと見えてくるものがあるのではないかと、そういったものも現在考えております。」質問C「フランスなんかは市民革命期に司法権への不信感がかなりあり、そうすることで結局新しい憲法ができたときに立法府も行政府もある程度の裁判権というものを手放したくない、司法府に任せたくないというものがあって今の憲法裁判所や行政裁判所に分かれており現在でも行政裁判所の裁判官は行政官がなるという形になっています。すなわちまだ三権の中に完全に分離するのではなくそれぞれ残しているのですが、その原因は設立当初の司法権への強い不信感だと思うのですが、この辺りアメリカや日本はどういった状況だったのでしょうか?」

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報告者「まず明治憲法の制定過程でどのように司法権を構想したのかという点につきましては、プロイセン型であると。憲法義解をみますと、プロイセン型を採っていく、その中でフランスがプロイセンを経由して日本に来たとされています。ただそれは沿革的なものであって、直接的にはやはりプロイセンをみているという形で取り入れたと理解しています。そしてアメリカにおきましては、合衆国憲法制定以前の

Confederationの時代におきまして、裁判所が弱すぎた。本来関わるべき問題が生じたときにも、全然機能していないと。機能できない状態にあるということで、より強化しようとする見解が出され、その線で設けられたという形に捉えています。ただ、実際にその中でどのように管轄権を設定するのかについて、連邦の司法部にどこまでの権限を与えるのか、そこが強すぎると各州を飲み込んでしまう、州法を違憲とする形でどんどん州の立法権まで飲み込んでしまう、そういった批判もなされておりまして、Anti-Federalistの側からは非常に強い警戒感が示されていました。日本の現憲法につきましては、明治憲法下における行政裁判は列挙主義を始めとして非常に狭い、さらに裁判に時間もかかっていて救済になっていないではないか、そういった点も含まれて裁判所を強くしていこうと。あとは当時の政府に対する歯止めとしての機能も裁判所は十分に果たせていませんでしたので、権利の防塁という点と政府の暴走への歯止めという二つの観点 から、日本では司法権を強化するという、それが制定過程で強調されていた点でありました。あとイギリスですと二〇〇八年に最高裁ができましたが、それ以前は上院に組み込まれていましたから、やはり沿革による部分は大きいと思います。」質問D「いま制定過程について出ていたのですが、裁判所法三条の制定過程の中で刑訴についてどのように扱われていたのでしょうか?私権保障という考えからすると刑訴は話が違う、その点について当時はどう扱われていたのかな、と。」報告者「刑訴につきましては私も目を配っておりませんでして、すぐにはお答えしかねるところであります。ただ、刑訴は刑罰権の行使に関わるところでして、当時は法律上の争訟につきましては非訟事件にどこまで入るのかという両者の区別が大きく問題とされていましたので、刑訴はそれに比べると議論は少なかったのではないかと、おぼろげながら印象を抱いております。」質問D「法律上の争訟というのは基本的には民訴と行訴を念頭に置いていると…」報告者「ほとんど民訴的な発想ではないかと思っております。今もなされる事件性の要件への批判におきまして、民訴的な発想に基づいており、行訴にどこまで妥当するのかと、その点から練り直すべきだという批判もみられます。」質問D「裁判制度というものについて、法律の定め方に影響

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されるということが日本の場合には大きいのかなと。アメリカよりもそうなのではないかと、特に七十六条が法律の定める裁判所がとしていて裁判制度そのものについてだいぶ立法者に大きく委ねている部分がある。先ほどの三権分立の話とも関わってきますが、アメリカでは判例で自分で決めていくというあり方がありますが、そういった部分についてなにかが歯止めになるものはあるのかな、と。」報告者「そこで指導原理として法律上の争訟、裁判所法三条のでありますが、それをある意味位置づけうるのではないかなと考えております。」質問D「それが制定過程にあった私権保障というものが今でも強くあると。」報告者「ただ、それをどこまで解釈上広げうるのか、現状がそもそもどこまでの範囲で捉えられているのか、例えば権利義務関係といっても権利というところに厳密に限られてはいない、もっと広く捉えられているという指摘もなされています。かというと現状では私権保障的であって狭すぎる、紛争解決型の観念によりすぎているという批判もなされており、そもそもの現状認識をどこにとるかということも含めて、それ自体が一つの論点になりうると思っております。」(なるせ・とーます・まこと  明治大学大学院法学研究科博士後期課程)

参照

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